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2018年2月17日 (土)

中漠:晴天航路編⑬三好が来たぁ!!

 三好千熊丸、元服して孫次郎長慶は細川晴元に仕えることになりましたが、間違いなく内心忸怩たるものであったと想像できます。一説に1547年(天文十六年)の舎利寺の戦いが起こるまで、自分の父親の死に三好政長が関わっていたことを知らず、敵として戦った遊佐長教に教えられて逆上して三好政長や細川晴元を倒すことを決意したと言う話もありますが、あれほど派手な死に方をした三好元長の死について、その真相を秘匿することは極めて困難なことでしょう。いわんや、三好政長は長慶を惣領とする三好一門の一員に過ぎないのですから。仮に長慶がそうしたことに気付かなかったとしても、周囲が教えないはずはありませんし、教える際には父親の轍を踏まないように慎重な行動が求められていたに違いありません。と言うか、彼自身が携わった本願寺と幕府との講和が破たんした折に、一旦は幕府側ではなく本願寺側について戦っています。それは、終始細川六郎(晴元)の膝下にいた政長への不満や鬱憤によるものであったでしょう。そして、長慶の地位の保証は他ならぬ三好政長や木澤長政の仲裁で晴元に降参して赦されるという形で行われました。正直格好のつかない不面目です。この段階における三好軍が十全な働きが出来なかった事情は、長慶自身の経験の浅さもあったでしょうが、阿波守護家の細川持隆が阿波国に逼塞していたことも影響しているものと思われます。そもそも、三好の惣領が畿内に進出できるのは、彼の父の元長が堺公方足利義維を補佐する細川晴元の執事であったためで、義維が堺を追われ、細川晴元は足利義晴派に転向してしまいました。しかも持隆の手元には志破れた足利義維がいます。ここで彼が三好長慶の支援をすれば、足利義晴、義維の対立と言う形になり、阿波守護家は宗家である京兆家を完全に敵に回すことになります。細川持隆としては、それだけは避けたかった事態であったのでしょう。

 三好長慶は実力で占拠した摂津国西方の越水城を拠点としていましたが、細川京兆家家中における三好長慶の位置づけは決まっておりませんでした。同族の三好政長は榎並城という長慶の領地よりも京により近い摂津欠郡の水郷を与えられていました。三好家中における序列を考えれば、長慶は政長を超越しています。よって、家格にふさわしい扱いをと、細川晴元に要求することは長慶にとって当然なことでもありました。その要求が河内十七箇所の明け渡しです。同所は明応年間の細川政元の執政期に尾州畠山尚順が総州畠山義豊を討って台頭する中、赤澤宗益をその地の代官にして河内国の橋頭保を担保しようとしたことでも判るように、淀川を挟んだ摂河国境の要所でもありました。足利義維が堺に幕府を開いた頃、そこは三好元長にまかされていたのですが、天文錯乱に一区切りついた後、そこは三好政長にまかされるようになっていたのです。 

 1539年(天文八年)正月、三好長慶は二千五百の兵とともに上洛。細川晴元に談判して河内十七箇所の代官職の拝命を求めましたが、細川晴元はこれを拒否します。恐らくはかつて三好政長と組んで三好元長を陥れたことが、細川晴元の心の負担となっていたのでしょう。この頃になると、細川京兆家当主は管領を名乗らなくなっていたそうです。細川家当主が将軍になり替わって天下に号令する時代ではなくなってすでに久しくなっていました。
 幕府の権威は畿内周辺にしか及ばなくなったとしても、その支配のためには実力が必要です。細川晴元にとって三好元長はその実力の源泉でした。しかし、折り合いを悪くし、元長に死を与えることになったわけです。

 元長の死後、足利義晴が迎え入れられた幕府のあり様は絶対的な強者を幕閣に入れないことにありました。実力が突出する勢力に対しては寄ってたかって袋叩きにすることで実力を拮抗させて平和を作り出そうと策していたのでした。しかしそのためであったとしてもなお、細川晴元が権力を維持するためには実力が必要です。三好家の力は晴元の政権維持のための絶対条件でした。細川晴元や茨木長隆を筆頭とする晴元側近衆の意向は、三好政長を通して三好家をコントロールすることでした。三好宗家の長慶より政長をあえて立てることにより、両勢力を互いにけん制させてその上に立つというやり方です。晴元政権のやり口は本願寺門徒衆や法華宗徒の動員に見られるように、狡猾であるのですが、見方を変えれば実力のない勢力が政権にしがみつきながらその維持に汲々としていると見ることも出来ます。

 本来細川晴元は阿波細川家及び三好家に推戴された次期管領であるはずだったのですが、阿波細川家も三好家も振り払って自分だけ先に上洛した態になっていました。丹波衆や摂津衆は彼の内衆であるはずですが、以前は彼の敵、細川高国に仕えていた人々でもあります。彼らは自らの都合で細川高国を放逐し、晴元を据えたのです。都合が悪くなった時に細川晴元を守ってくれる人達ではありませんでした。

 細川晴元が三好長慶の要求を断ったのは自信のなさの表れであるのですが、三好長慶の方はそれを見透かして今度は十七箇所代官補任を足利義晴に要求しました。義晴側近の大舘尚氏がこれを支持したことを受け、義晴は細川晴元と三好長慶との調停を六角定頼に命じます。本来は三好長慶は細川晴元の家臣であって足利義晴にとっては陪臣であり、直接の口出しは出来ないはずですが、元々河内十七箇所は細川京兆家が守護する領域ではないことを良いことに介入することにしたものと思われます。細川晴元は政元、高国と違って将軍すら牛耳ることが出来ていません。足利義晴も細川高国の傀儡として将軍の座に座り、その政権崩壊にともなって京を追われたものの、細川家中の内紛に乗じて京に復帰した経験を持ち、なかなかに強かです。細川晴元に真の味方はどこにもいませんでした。

 将軍義晴の仲介に関しては細川晴元は頑なに拒否を続けましたが、業を煮やした三好長慶は兵を帯同して上洛の挙にでます。この時、阿波細川家の細川持隆や本願寺証如は三好長慶を支援していました。細川持隆は天文錯乱以前に阿波に落居して以降、宗家に遠慮して距離を置いておりましたが、本家と分家の立場の違いを蔑ろにした晴元のやり方には賛同できなかったものと思われます。本願寺は和議破談後、三好千熊丸に攻められてはいますが、彼が攻めた本願寺の中嶋砦は本願寺の実権を握った蓮淳とは立場を異にする継戦派の立てこもる砦でした。なので必ずしも相性が悪いと言うわけではなく、むしろ本願寺の傍にある榎並砦にいる三好政長が邪魔であったためではないかと想像します。

 これに慌てたのは細川晴元でした。何しろ京の街は自分の命令によって灰燼に帰して、復興もままならなかったからです。それもそのはず、彼は天文法華乱後に残敵掃討のために洛中に法華禁止令を出して法華宗徒の活動を全面的に禁止してしまっていました。そして京の富商の多くは法華宗徒でした。彼らは堺への避難を余儀なくされています。そういうわけですので、細川晴元に京を防衛する力がないことは明らかでした。細川晴元はなけなしの兵をまとめて洛西の高雄に避難します。

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※国土地理院地図(https://maps.gsi.go.jp/)を加工

 京を守る任を帯びた細川晴元の脱出に京はパニックに陥ります。先の兵火で京は丸焼けになった上に守る兵はいない、やってくるのは「応仁の乱で洛中に暴虐の限りを尽くした」との誇張された伝説が伝えられている三好之長の曾孫です(この辺りは細川高国政権期のプロパガンダの影響もあったかと推測します)。兵禍が及ぼす被害の深刻さはほんの数年前に味わったばかりでした。これでパニックに陥るなと言う方が無茶でしょう。しかし、それに対して足利義晴は泰然として京に居座り続けます。彼は三好長慶が何を欲しているかを知っていたので自分に対して危害が及ぶ危険はないと踏んでいました。そして、近江の六角、若狭の武田、能登の畠山に動員をかけた上で細川晴元のいなくなった京の治安の維持を命じます。細川晴元はこの段にいたって足利義晴の意図を察知しました。

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 義晴は晴元と長慶の仲介すると称して大永年間以来の自派勢力を京に引き入れようとしていたのでした。即ちこれが意味する所は無血クーデターです。細川晴元は足利義晴から調停するので戦争をするなと申し渡されていましたが、六角兵が三好軍と合流して京に入って新政権を宣言される前に京を再び確保できなければ細川京兆家は丹波と摂津の一部の一勢力に叩き落とされてしまいます。晴元は内衆・一族衆に動員をかけるとともに、三好政長を京に派遣します。
 1539年(天文八年)七月二十四日、三好長慶の先鋒軍と三好政長軍が妙心寺前で合戦を繰り広げました。小競り合いであったと言われています。その間に事態も動いていました。恐らくはですが、足利義晴のクーデター計画を阿波細川持隆も察知したのでしょう。義晴の無血クーデターが成功すれば、三好長慶は取り立てられるでしょうが、細川家は再び二つに分裂することになります。持隆としてはそれだけは避けたかったはずです。その意は三好長慶にも伝えられ、長慶も撤兵に同意したのでしょう。妥協が図られ、三好長慶は西摂津半国守護代の扱いを受けるようになります。細川晴元も京に戻りましたが、自らが奉じた将軍と言えども、全幅の信頼を置くことが出来ないことを肝に銘ぜざる得ませんでした。

 いずれにせよ、足利義晴の仲裁が功を奏し、京に平安は戻りました。しかし、その平安は畿内を取り巻く諸勢力の均衡によってのみ担保されるものであって、ひとたびバランスを崩してしまえば、それを埋めるべく別の勢力が進出してくるのです。そして細川晴元といえどもその諸勢力の一つ、ただの駒に過ぎないことが露呈してしまいました。
 何より京の街が以前にもまして無防備であることが明らかになってしまったのです。すかさず堺に亡命した京の法華宗徒達が還住の願いを提出しますが、幕府はこれを拒絶します。しかし、町の復興がままならない中、いつまでそのやせ我慢が続くか、誰にも判断できませんでした。

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