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2018年2月24日 (土)

中漠:晴天航路編⑭木澤のオッサンの唄Ⅲ

 第一次石山合戦後の河内の処分において、木澤長政は優位を築くことができました。細川晴元(六郎)が畠山長経の尾州畠山家相続に難色を示したのです。細川晴元にとって尾州畠山家は細川高国一派の残党ですし、石山合戦のどさくさに紛れて畠山稙長が高屋城に居座ることで勢力を再建した連中でもあります。石山合戦の終盤で遊佐長教が畠山稙長を高屋城から追い出して、代わりに弟の畠山長経を立てて本願寺との手切れを行い、さらには後奈良天皇をして本願寺滅亡と唸らせるほどのダメージを本願寺に負わせるという戦功まで立てて自らの存在をアピールしていたのでした。

 遊佐長教にしても本願寺との和睦が成立した以上、アンチ本願寺でいる必要はなくなり、畠山長経を立てたせいで、尾州家当主よりも本願寺をとることになった旧家臣門徒と、尾州畠山家臣に分裂してしまった尾州畠山家の再統合を図る必要がありました。そこで畠山長経には当主の座を降りてもらって代わりにさらに弟の晴煕を新当主に据えてみたものの、細川晴元はこれにも難色を示します。晴元にとって尾州畠山=高国残党なんですね。
 このすったもんだは1538年(天文七年)まで足掛け三年ばかり続くのですが、その間に木澤長政は証如と本願寺で会見して大和国で興福寺の怒りを買った門徒衆の本願寺教団寺院への還住を約束して味方につけると、大和と河内の国境の要衝に信貴山城を立てました。証如に対して自分は大和の守護であると言い放って請け合ったと言います。その上、将軍の取次と称して段銭徴収や成敗権の一部行使も実施するようになりました。大和国は細川高国期には親尾州畠山派で占められておりましたので、ここでも尾州派の影響力が排されるようになってしまいます。
 遊佐長教は木澤長政に大きな差をつけられた状況で、ようやく南河内をまとめる交渉にけりをつけました。新当主は尾州畠山弥九郎という人物ですが、この人物は一時期の歴史家において畠山稙長の別の弟である畠山政国ではないかと言われていたのですが、のちの研究で別人であるという指摘がされています。つまり、尾州畠山を名乗っていますが立ち位置不明な人物であるわけで、これを遊佐長教が守護代として支える形でようやく南河内に尾州畠山派河内国人衆の居所が定まったわけです。木澤長政は総州畠山在氏を当主とした同じく北河内の守護代であるわけですが、石山合戦であぶれた門徒衆を取り込み、自称「大和守護」の将軍の名代として大和国に影響力を持つ権力機構を形成しております。河内国人以外の者から見れば、遊佐長教もその一党とみなされたことでしょう。まさに木澤長政ならではの立ち回りの巧みさですが、この立ち回りの巧みさが後々災いとなって彼自身に降りかかってきます。

 前稿で述べました三好長慶の上洛騒動で足利義晴と細川晴元は決して一枚岩ではなく、足利義晴は旧細川高国派の守護衆と今もなお連携していることが明らかになりました。腹の中ではどう思っているかはともかく、木澤長政にとって細川晴元は現在の勢力を保つための重要な要素です。そこで京の将軍御所ににらみを利かせるために山城・大和国境の笠置山に城を築いてそこに入ることにしました。天文法華一揆以降、京は商人もいない実質無防備都市なので洛中に軍勢を置く場所はありませんし、細川晴元もそれを認めた上と考えられます。ところが、今度は足元の河内で不穏な動きがあることが発覚しました。高屋城にいつの間にか追放されたはずの尾州畠山長経が居座っていたのです。細川晴元は足利義晴の背後に細川高国派の残党がいることを察知してセンシティブになっていました。畠山長経を看過していては、細川晴元より疑いをもたれてしまうことは必定です。晴元との関係は何にもまして重要でしたので、木澤長政は遊佐長教と諮って畠山長経を毒殺します。木澤長政にとって畠山長経は直接の主人ではありませんが、両畠山家の和睦後、この畠山一族の連枝である長経を総州畠山家家臣である木澤長政は尊重する義務がありました。背に腹は代えられないとはいえ、この行いは増上慢の振る舞いであると非難を浴びるようになります。

 細川晴元との関係を維持するためになんとか火消しをしたつもりだったのですが、その翌月になって今度は細川晴元本人が火病を発症してしまいます。摂津の一国人にすぎない塩川政年を突然細川高国派残党認定してしまって、彼が守る摂津一庫城の攻撃を越水の三好長慶と丹波八上の波多野秀忠に命じたのでした。何が原因なのかはよくわからないのですが、塩川政年の妻は細川高国の妹であったそうです。しかし、細川高国が死んでもはやまる十年も経っています。旧高国派がダメと言うなら近江の六角定頼も越前の朝倉孝景もアウトのはずです。嫁つながりなら六角定頼の養女(転法輪三条公頼の娘)を嫁にもらっている細川晴元自身が何かを言う資格はありません。
 塩川政年は縁戚の伊丹親興、三宅国村を通じて将軍足利義晴に直訴します。伊丹親興も三宅国村も摂津国人で細川晴元の被官です。足利義晴にとっては陪臣に過ぎず、細川晴元の頭越しに出された訴えを受ける筋合いはないはずですが、先年三好長慶が三好政長と争った折に細川晴元は京を逃げ出したために足利義晴が介入するという前例ができていました。細川晴元の摂津国人に対する支配権はすでに足利義晴によって毀損されていたわけです。

 直訴を受けた足利義晴はその主張を正当とし、なんと木澤長政に一庫城の攻囲を解くことを命じたのでした。木澤長政は非難を浴びること覚悟で畠山長経を殺害して細川晴元への忠誠を示したのですが、その細川晴元に逆らえとの命令が下されてしまったわけでした。この時の足利義晴は三国志に登場する軍師さながらのえげつない策を弄します。
 また、直訴を行った人物の中に三宅国村がことも注目すべきでしょう。彼は細川晴国を本願寺と組ませることで本願寺を滅亡寸前にまで追い込んだ人物です。その厄神ぶりが今度は木澤長政にも襲い掛かってきたわけでした。将軍はともかく、三宅国村は富田教行寺とゆかりが深く、本願寺中枢にも影響力を行使できる人物でもありました。木澤長政は河内支配を確実にするために本願寺との関係も無視するわけにはゆきませんでした。木澤長政にとっては遊佐長教に先んじて河内門徒衆を自派に取り込むために本願寺との関係強化を図ったことがここで裏目にでます。

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※国土地理院地図(https://maps.gsi.go.jp/)を加工


 木澤長政はやむを得ず足利義晴の命に従い、一庫城の救援に出向き、三好長慶らの攻囲を解いた上で越水城まで追撃します。しかし、それと引き換えに細川晴元からの不信を得ることになってしまったのです。足利義晴の離間の計が見事に功を奏してしまいました。この状況下で木澤長政がこの先生きのこるには木澤長政の手で足利義晴と細川晴元を和解させる以外にありませんでした。

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