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2018年2月 3日 (土)

中漠:晴天航路編⑪武野仲材のアーバンライフⅡ

 連歌師としての武野紹鴎の業績はあまりぱっとしたものではありませんでした。武野新五郎が上京して間もなく、三條西実隆の門を叩く以前の、1526年(大永六年)九月十三日連歌師の宗碩※や印政らが開催した「何人百韻」という連歌会が興行され、ここに武野新五郎も参加しております。宗碩は連歌師として当代一流の名声を得ていた人物で、印政はこの後に新五郎を三條西実隆に引き合わせることになる連歌師です。百韻というのは連歌を百句詠むことですが、武野新五郎は在京の連歌師たちが居並ぶ中で、採用された句はわずかに三句に留まっていました。連歌は語数や季語などの縛り、そして古典の知識を踏まえた上での即興性も要求される高度に知的なゲームでしたので、難しいことは確かです。この後、三條西実隆に歌学を教わるのですが、それ以後洛中で開催された連歌会に彼の作品が採用された形跡はないそうです。天文三年になって堺で万句興行を企画し、その発句を求めていますが、そこにおいて作られた作品も現存はしていません。恐らくは連歌師の道を究めることは早々に諦め、別の芸道、茶道に力点を写したものと思われます。

 近年の研究により戦国時代の歴史は色々と覆っております。例えば、明治期には織田信長は勤王の士でしたが、戦後あたりから若い頃はうつけと呼ばれるヤンキーさながらの傾いた風体をしていたとか、多聞院日記やルイスフロイスの日本史が研究されだすと、第六天魔王やら神を畏れぬ増上慢ぶりが強調されたりしました。更に近年では、過去に言われているほどタガが外れた人物ではなく、もう少し常識人だったのでは、などとも言われだしています。
 茶道史においても同様なことが起きているようです。従来の通説では、わび茶は一休宗純の禅味をとりいれた村田珠光がはじめ、それを武野紹鴎が受け継いで利休に教えたという感じになります。
もう少し詳しく書くと以下の図の通りとなります。

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 今述べました珠光―紹鴎―利休の流れは、散逸していた堺南宗寺二世の南坊宗啓の記録を黒田家家老立花実山が再発見して書籍化した「南方録」という江戸期になって流布された史料が基になっていたのですが、この内容と実際の史実を比べてみると色々矛盾点が出てくると言うことらしいです。
  例えば南方録においては、天正十八年頃に開かれた茶会に天正十一年頃に死んでいるはずの大徳寺僧侶が出席しているなどの不正確な記述があり、また、南方録の原著者と目されている南坊宗啓は同書では利休の弟子と伝えられているものの、同書以外での活動の記録が残っていないなどの問題があり、今日では立花実山の作為による挿入ではないかとの疑いがかけられております。

 実隆公記には直接の記載はないのですが、武野紹鴎が京において茶も学んでいたのは確実で、色々な史料を突き合わせると、その流れは以下のような感じになります。

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 大きく違う所は、武野紹鴎の師匠とされていた十四屋宗陳と言う人物は、実在しないということです。別の本が誤写したものを立花実山が孫引きした結果であり、十四屋宗陳は本当は村田珠光の息子である村田宗珠のことらしい。そもそも僧籍の人間に俗名の苗字は付けないし、崩し字の珠と陳はよく似ているための間違いということだそうです。

 村田宗珠は村田珠光の息子であり後継者でもありました。そして、四条夷堂脇にある大黒庵(武野紹鴎宅)の近所に午松庵という庵を構えていたとのことです。武野紹鴎はそこでの茶会を通じたコミュニティづくりには成功していたらしく、在京中に上京新在家町で呉服問屋を営んでいた辻玄哉を弟子に取っていました。通説では千利休は最初北向道陳に後に武野紹鴎に茶を学んだと言われていますが、伝授の段階までには至らず、紹鴎の弟子の辻玄哉がそれに代わって利休に茶を教えたのだそうです。

 その根拠なのですが、山上宗二記に利休の弟子である山上宗二が二十年の修行の末に相伝の小壺を与えられるのですが、曰く、小壺の伝授には二十年の修行が必要とのこと。ということは、利休は師匠と二十年間の修行をしたことになるのですが、1555年(弘治元年没)の紹鴎から1522年(大永二年)生まれの千利休が二十年間修行をしようとすれば、十五歳の頃から始めなければならない勘定になります。千利休の伝記によると彼の茶道修業は十七歳の頃に北向道陳の元で修業を始めたとのことですから、計算が合わないことになります。なので、利休が宗二に渡した相伝の小壺は武野紹鴎その人から直接もらったものではありません。山上宗二記にも紹鴎は利休とは別の弟子、辻玄哉に伝わった旨、明記しています。辻家は元々堺の商家で玄哉はそこの養子であると言います。京で墨屋の屋号で呉服を商っていたそうで、上京に住むのお大尽でもありました。

 とはいえ、この二十年ルールは山上宗二が自分自身もしくは千利休以降の茶道伝授に課した決まりのように見えます。
 武野紹鴎が茶を学び始めたのは恐らく上京した1525年(大永五年)以降でしょうから、小壺伝授の技術水準に至るのは1545年(天文十四年)あたりになる計算です。そして辻玄哉が紹鴎の元で二十年の茶道修業をしたとすれば、遅くとも1536年(天文五年)には紹鴎の元で作業修行を始めている必要があり、その時武野紹鴎も在京で堺におらず、利休に茶を教えることもかないません。なので辻玄哉と武野紹鴎との関係は子弟というよりも村田宗殊の午松庵コミュニティあたりの茶飲み仲間と考えるのが妥当なのでしょう。

 1536年(天文五年)は京都で天文法華の乱が発生した年でもあります。六角定頼に攻め込まれた京は応仁の乱以上の大ダメージを受け、洛中法華二十一ヶ寺は悉く灰にされます。それだけではなく、洛中商家の財産目当てに大規模な略奪や殺戮も発生しておりました。その理由は洛中商家の大半が法華宗徒だったからです。辻玄哉は六条門流法華宗本山である本国寺の大旦那でもありました。恐らく辻玄哉もこの時には堺に亡命を余儀なくされたものと思われます。そして、その翌年三條西実隆が亡くなり、武野紹鴎も京から堺に戻ることになりました。
 堺で武野紹鴎は三條西実隆に貢いでいた資力で唐物の茶器を買い揃え、その一方で辻玄哉は与四郎(後の千利休)にお茶の手ほどきをしていたのでしょう。何分辻玄哉は堺衆の保護を受けていた手前、堺衆からは同じコミュニティ仲間だった武野紹鴎より格下と見られて弟子筋と思われたのではないかと想像します。

 ちなみにですが、この辻玄哉の茶道の技前については千利休の弟子である山上宗二からボロカスに書かれております。恐らくは宗二を含めて珠光、紹鴎、利休には大徳寺の参禅経験がありますが、辻玄哉は法華宗徒で大徳寺とのかかわりがないためではないかと言われています。また、千利休の業績を称揚するためにあえて悪く書くと言う意図もあったのかもしれません。しかし、辻玄哉は連歌の腕前はあったらしく、京で催される百韻に参加し、その作を残しておりました。そういう意味では、紹鴎に劣らぬ文化人であったと言うことが出来るかと思います。

 次稿においては、武野紹鴎のホームタウンであり、洛中法華衆が亡命先とした堺について書いてゆきたいと思います。

※宗碩:戦国時代の連歌師。宗祇晩年の高弟。三條西実隆とも親交を持つ。

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