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2018年3月31日 (土)

中漠:晴天航路編⑲勝軍山城の陣Ⅰ

 足利義晴は細川高国の傀儡として室町殿になったわけですが、高国脱落後、長く苦しい戦いを経て室町殿に返り咲いた人物です。そんな彼から見れば細川晴元は頼むに足らざる豎子であり、おそらくは晴元がいるからいつまで経っても幕府は脆弱なのであると考えていたと思われます。そんな彼から見て、隣国近江の六角定頼は先進的な統治体制を敷いています。被官化した国人・土豪達を自らの根拠地である観音寺城下に集めて住まわせたり、楽市楽座を始めたりしていました。これらは後に織田信長がそっくり真似する政策ですが、この時六角家は摂津・河内が不安定な中、南近江を強国化することに成功していたのでした。おそらくは延暦寺が細川政元の焼き討ちで勢力を大幅に減じられたおかげで琵琶湖水運の利権が彼に回ってきたことも一因ではあるかと思われます。

 京から逃げ出した細川晴元と違って、バックに六角定頼がいることは足利義晴にとって大きなアドバンテージでした。足利義晴は慈照寺に入って上洛してくる上野元治と対峙します。とは言うものの戦うわけでもありませんでした。おそらくはいろいろな交渉ことがここで繰り広げられていたのでしょう。足利義晴はさらに北白川の勝軍山城を改修し軍備を整えます。この時は京都一円の寺社・町衆を総動員して城の改修をしたという記録が残っているそうです。細川晴元にはやりたいと思ってもできないことであったでしょう。足利義晴の思惑としては、六角定頼も細川氏綱とその家臣上原元治もいずれもかつては細川高国派であり、細川晴元が逃げ出した今、ここで足利義晴が細川氏綱を認めることを宣言するならば、近江・山城・摂津・河内・和泉・紀州・大和に至る広域を一つにまとめ上げることができるのではないかという思惑であったのかもしれません。しかしそのような思いつきは、結局思いつきでしかありませんでした。

 六角定頼が首を縦に振らなかったのです。細川晴元の妻は転法輪三条家出身ではありましたが、六角定頼の養女として輿入れしておりました。すなわち、六角定頼は細川晴元の岳父の立場にいたわけです。細川氏綱が晴元よりましな存在であったとしても、六角定頼は晴元を通して種々特権を得ていました。それを最初からやり直すことは面倒であったようです。
 足利義晴とて六角定頼を敵に回して細川晴元と合戦などできません。これを懐柔する為に、自ら近江坂本に下ってそこで嫡男菊童丸を元服させ義藤(後の義輝)と名乗らせた上で将軍職を譲り、自らは大御所となります。そして六角定頼には義藤の烏帽子親の栄誉とともに管領代の地位を与えました。足利義晴は細川晴元に右京兆は名乗らせても管領の肩書きを使わせませんでした。六角定頼は三管四職の家柄ではありませんので、管領はおろか京職についた前例もありません。それを管領代にするということは、事実上細川晴元の上に位置付けたに等しい行いでした。そして、この管領代という肩書きは六角定頼もぜひ得ておきたいものでもあったのです。

 その理由は、細川晴元が都落ちしてから再び比叡山延暦寺が騒ぎ出していたことにありました。延暦寺は洛中の法華宗寺院をことごとく延暦寺の末寺に組み込みたかったのです。天文法華の乱後、延暦寺は幕府に対して洛中法華寺院の寺地を延暦寺に引き渡すよう要求していました。それに対して幕府は総論として賛成しても、個別事情ですぐには進められないという立場をとっていました。要するに幕府は首を縦に振らずにぶらかしの態度に出たわけです。幕府にしても洛中に山法師が蟠踞する事態は避けたかったものと想像します。その隙に後奈良天皇が法華宗徒赦免の宣旨を出してしまって堺から次々と法華商人が復帰して京の町が復旧してゆくのを延暦寺宗徒は指をくわえてみているほかありませんでした。実際、明応の焼き討ち以降、延暦寺山上施設の復旧はあまり進んでいません。宣旨が出た以上法華宗徒の帰還は認めざるを得ないが、その条件として天文法華乱の『勝者の取り分』を目に見える形で勝ち取りたかったのです。その為には法華寺院が延暦寺の末寺となって延暦寺復旧の財源となってもらうこと必要がありました。細川晴元は機嫌を損ねると門徒衆だろうと法華宗だろうと武力行使するあるいみ厄介な存在です。しかしもはや京にいません。足利義晴は北白川の勝軍山城の改築に寺社の支援を要請してきていました。洛中法華衆は既成事実を積むためにこれに協力する態度にでて初めてその堪忍袋の緒が切れたというところが実態であったのでしょう。

 しかし、この時の京都には当事者能力を持っているものが誰一人いませんでした。六角定頼は天文法華の乱で京の町衆を殺戮した前科があり、堺から復帰した町衆との関係修復もあまり進んでおりませんでした。ここで仲介に立つことで彼が得ていた湖上水運の利権を京の復興に活かすことでより大きな利権に育てることも想定できたでしょう。但し、六角家は法華宗と延暦寺との仲裁を行いうる肩書きは何一つ持っておりませんでした。先に述べた通り六角家は三管領四職ですらありませんし、本来であれば代々の当主は延暦寺を本山として仰ぐ天台宗徒であり、口をさしはさむ余地はありません。なので、ここで管領代の肩書きを将軍から与えられたということは、法華宗徒・延暦寺抗争に仲介する資格を与えられたに等しかったわけです。天文法華の乱の直前においても六角定頼は延暦寺と法華宗徒の仲介を試みたことがあったのですが、その折はその仲介が破談になった折には延暦寺に味方するようにと公方・右京兆から釘を刺されていた状況下での仲介でした。しかし、今回は完全にフリーの立場で仲裁することができたわけです。

 京の町衆は室町殿に対しては、勝軍山城改修命令に従うなど協力的な態度でした。それを受けて室町殿本人は上洛してきた上野玄蕃頭元治を迎え入れ、六角定頼とともに新しい時代のグランドデザインを作るつもりだったかもしれません。しかし、京の町衆達はそのような立場には立っていませんでした。
 1547年(天文十六年)正月十一日に上洛した上野勢が洛中の一条家の土地から地子銭を徴収しようと押し入ります。山科言継ら公家仲間が郎党を引き連れてそれを阻止しようと駆け付けたところ、同僚の貴族の郎党だけでその数二百まで膨れ上がり、上京中の地下の輩も一条家への合力を約束した、と山科言継の日記にあります。結局天龍寺末の鹿王院の斡旋で事なきを得ますが、京の上下の反応はこの上野玄蕃に対して非常に厳しいものでした。天文法華の乱の直前に上野玄蕃頭は上洛戦を試みたことがあり、その折には京の町衆が自らの力だけで団結して撃退したことがありました。その時、京の町には将軍も管領もいなかったのです。そこで培われた独立自尊の精神は尚、京の町衆の中に生きておりました。

 六角定頼はそんな町衆達の気概もくみ取りながら、被官の進藤貞治・平井高好を派遣して延暦寺と法華宗徒の仲裁を開始します。それと同時期に一時は摂津越水城まで逃げ延びていた細川晴元が摂津で反撃を開始します。足利義晴も勝軍山城に自ら入り、細川氏綱支持を明確に宣言しました。合戦の到来の予感に法華宗徒は妥協を行い、日吉祭礼費用の名目で礼銭を拠出することを申し入れます。延暦寺が真に欲していたのは復興の為の財源であって、宗論や折伏が大好きな法華僧侶達を差配するつもりはなかったようで、延暦寺も末寺化の要求を取り下げ、和解が成立しました。とは言え、町衆も気が気ではなかったことも言えます。和解のなったその翌週には細川晴元・三好長慶の連合軍が摂津池田・芥川両城を落としたのでした。芥川城は摂津・山城国境にほど近い位置です。細川晴元は天文法華の虐殺を法華退治と言い放ち、彼が率いる三好軍はかつて何度も京を侵略しようとした「悪の軍団」でした。正直何をされるかはわからない状況でもありました。

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※国土地理院地図(https://maps.gsi.go.jp/)を加工

 和睦妥結の翌月七月十二日に細川晴元が差し向けた丹波衆が上洛し、相国寺に入ります。ここまで管領代六角定頼は抵抗らしいことは何もしませんでした。町衆も抗戦することなく、粛々と上洛できたのです。その上で六角定頼は細川晴元方に寝返ります。この機会主義的行動は六角定頼の面目躍如でしょう。その結果、足利義晴は勝軍山城に孤立してしまいます。足利義晴は抵抗らしい抵抗もすることができず、せっかく改修した勝軍山城を自焼きして近江坂本に落ち延びざるを得ませんでした。河内には遊佐長教が健在ですので、ここをやり過ごせば細川晴元も再び河内に目を向けることになることに期待をしてのことでした。
 天文法華の乱において京の町衆虐殺に実働したのは六角定頼の手勢でした。細川晴元の命令であったとはいえ、それは手ひどい経済的損失であったし、六角定頼自身も京の町衆の恨みを買うことになりました。今回再び京の町が火の海に包まれそうになった危機を救うことで、定頼も幾分かの汚名を返上ができた気分だったのではないかと思われます。

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2018年3月24日 (土)

中漠:晴天航路編⑱堺がもたらしたものが細川晴元を奔らす

 1546年(天文十五年)三好政長と長慶は、氏綱方として叛意を明らかにした遊佐長教を討つべく、堺に入ります。しかし、この情報は事前に漏れていたらしく、堺は逆に遊佐軍に包囲されてしまいました。かつて、河内の門徒衆は堺に襲い掛かって三好長慶の父、元長を自害に追い込んだこともありました。しかし、今回は堺を治める会合衆が仲介に立って、三好軍は撤兵することになります。戦乱の世の中にあっていずれの勢力にも与しない自治都市堺の面目躍如と言う所ですが、実はこの時堺は紀州根来寺と組んで新兵器の開発を行っていたのです。1543年(天文十二年)に南西諸島の種子島に漂着した中国の商船(海賊船とも言う)に同乗していたポルトガル人が所有していた火縄銃が領主種子島時堯の前で実演の上で買い取られます。鉄砲自体はこれ以前も日本に入っていて、例えば永正三河乱(伊勢宗瑞の三河征服)で岩津城攻めに使われたなどの話が三河物語にも載っておりますが、いまいち信ぴょう性ある話としては考えられていないようです。事実としても西洋流の火縄銃ではなく、中国で使われていた火砲の一種であろうと考えられています。この二丁の鉄砲のうち一丁は島津義久に献上されるのですが、同時に種子島時堯は自領の刀鍛冶に命じてこれのレプリカを作らせていました。このニュースをいち早く察知した堺商人橘屋又三郎、根来寺の津田算長が製法を学び、故郷に帰って鉄砲作りを始めたのです。もっとも、根来で鉄砲を作るにしても、火薬の材料になる硝石は日本国内では入手のめどが立っていませんでした。なので輸入に頼るしかないのですが、そのためには根来寺も貿易港である堺に協力を頼まざるを得ないという関係にあったものと思われます。

 河内と紀州は畠山家の所領でした。なので根来寺と協力関係にある堺衆の意向を無視して堺を蹂躙することは遊佐長教も本意ではないという所だったのかもしれません。もっとも、遊佐長教が鉄砲の重要性を認識していたかどうかは定かではありません。ただ、後に根来衆や雑賀衆が量産した鉄砲で強力な鉄砲隊を組織したことを考えれば、河内・紀州の事実上の統治者である彼の耳にもその重要性を含めて情報が入っていたとしてもおかしくはありません。
 逆に言うなら細川晴元とことを構えることを考えていた畠山稙長あたりが自陣営を強化するための情報を求めていたのでしょう。種子島時堯の鉄砲入手の翌年に根来寺津田算長が鉄砲製造技術学習を目的とした種子島来島します。これはたいへん迅速な行動でしたし、そもそも、の細川氏綱が挙兵した1542年(天文十一年)十二月に彼に付き従っていた者の中に根来衆がいたと言います。そんなわけでしたので、三好軍の堺入りを遊佐長教に教えたのは堺衆達だったのかもしれません。

 三好軍が堺で出鼻を挫かれて撤退したことは摂津一円に大きな影響を及ぼします。翌月に遊佐長教は摂津西成郡の大塚城を攻囲しつつ調略の手を伸ばします。西成郡と言えば石山本願寺のある所です。遊佐長教は石山本願寺に河内の寺領の還付を申し出ています。また、細川晴元は自陣営での出兵を依頼しました。これらに対して本願寺は兵は出さないがどちらにも良い顔をしました。この時証如は大塚城攻めの遊佐と中嶋砦に籠もる三好の双方に差し入れを施して累が自陣営に及ばぬようにしたのでした。しかし、三宅国村・池田信正ら摂津国人達が遊佐長教・細川氏綱方に降参してしまいました。そして大塚城も遊佐長教の手に落ちてしまいます。

 そして、その影響は摂津一国に留まりませんでした。1546年(天文十五年)九月十三日、氏綱方の上野玄蕃頭元治が、京に向かって進軍します。かつて山城高雄山に挙兵した細川晴国を助けて摂津から攻め寄せた薬師寺国長を討ち取ったのも彼でした。晴国軍はいったんは京に攻め込みましたが、戦力は続かず、その後摂河方面に転戦して本願寺防衛戦に加わった挙げ句に敗北しました。細川晴国は戦場脱出に失敗して自害を強いられましたが、上野玄蕃は逃げ延びたようです。上野玄蕃率いる氏綱勢の上洛を受けて対抗する細川晴元は将軍を置いて早々に京を捨てます。

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 1539年(天文八年)に三好長慶が上洛軍を起こした時もそうでしたが、細川晴元は京を拠点にしているにもかかわらず、京を守る気が欠片もありません。そもそも彼は京育ちではありませんし、天文法華の乱においては京の町衆に対して虐殺を行った側の人間でした。京の街は天文八年時点では復興もままならない状況でしたが、それから七年経過して復興はある程度進んでいました。それを促進させたのが後奈良天皇の赦免の宣旨を受けて堺に避難していた京の町衆と法華宗本山寺院でした。1546年(天文十五年)の時点で本満寺(六条門流分派)、本禅寺(陣門流)、妙伝寺(身延門流)、本隆寺(真門流)、頂妙寺(日常門流)、妙蓮寺(本門八品門流)、立本寺(四条門流分派)とのちに十六本山をなす法華寺院中七つの寺院が復帰しておりました。その復帰を助けたのが京の町衆であれば、細川政元が京の町衆に恨まれていることを気づくのは自然なことですし、下手に京で戦争を起こそうものなら背後をつかれて寝首をかかれかねませんでした。細川高国は如意ヶ嶽、船岡山、等持院で京を脅かす三好軍をことごとく撃退して京の守護者としてのプレゼンスを高めたわけですが、細川晴元はそんなことができる状況ではなかったのです。

 丹波国は波多野氏が取り仕切っていましたが、波多野稙通はこの前年に没して晴通の代になっていました。晴通の姉妹が三好長慶の妻となっていましたので、一応は晴元方と言えるわけですが、細川晴国の乱においては晴国派についていましたので、実際の向背は定かならぬ所はあったかと思います。まあそれでも洛中の法華衆よりもましと彼は考えたのでしょう。洛中の法華衆も京に自分達を守る政権が存在しない以上、自分達の身は自分達で守ると、同時に宗旨を異にする人からは施しも受けないし、祈祷などの宗教的恩恵も与えない不受布施義を言い出す一派が勢力を増してゆきます。この不受布施義は足利義教の時代の日親(日常門流)が始めた主張ですが、細川晴元のこの時の振る舞いがその主張に説得力を与えてしまったことは間違いないでしょう。

 穿った見方ではありますが、堺に入った鉄砲が根来寺を通じて遊佐長教らとのパイプを作った結果、三好軍の撤退をもたらし、その敗報が摂津・山城諸侯をして氏綱勢力に靡かせた上に、堺に匿われていた京の町衆が京へ帰還することで彼らに疎まれていた細川晴元が京にいられなくなって三度目の京都防衛放棄に至りました。本稿では触れられませんでしたが、そんな細川晴元の背中を押した人物がいます。室町殿足利義晴でした。

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2018年3月17日 (土)

中漠:晴天航路編⑰氏綱、立つ

 細川高国派は大物崩れで壊滅したかのように見えましたが、実際はそうでもなく天文錯乱のさなかに彼の弟の晴国が挙兵し、薬師寺国長を討つなどして頑張っていました。しかし、その活動は第一次石山合戦の喧騒にかき消されるようにすり潰された上に、最後の頼みの石山本願寺にも見捨てられた形で自害という最期に至ります。ただそれで細川高国党が全滅したかと言えば、必ずしもそうでもないところが戦国時代の戦国時代らしいところとも言えます。
 細川晴国亡き後、その志を継ぐ者が現れます。名を細川氏綱と言い、細川高国の養子でした。晴国は一応叔父にあたるわけで身内と言えば身内だったのですが、晴国の挙兵時に氏綱は全くと言ってもよいほど表に出てきませんでした。それには理由があって、細川晴国が挙兵した折、その最大の支援者が丹波八上の波多野稙通であったのですね。細川氏綱は細川高国の養子と言いましたが、氏綱の実父は細川尹賢と言い、彼が高国に讒言をして波多野稙通の弟の香西元盛を誅殺させたことで波多野稙通の怒りを買い、それが細川高国政権の崩壊につながりました。細川尹賢の最期も共に戦った細川高国を見限って六郎に降伏した直後に、意を翻した六郎の命令で木澤長政に処刑されるという実に無様な人生の終末を迎えました。その後の政治のごたごたに辟易して波多野稙通はかつて細川高国に対して抱いていた反発を治められるようになりましたが、弟の仇の遺児となると、流石に手放しで共に戦えるとは言えなかったのではないか、そういう気分を読んで細川氏綱は遠慮をしていたのではないかと私は思います。

 その晴国の失敗から六年後の1542年(天文十一年)十二月に細川氏綱は和泉にて挙兵します。たまたまかも知れませんが、ちょうどこれに前後して、駿河から武田信虎が上京していました。もし、ここに細川政元がいれば、彼が赤澤澤蔵軒宗益にしたように彼に兵を預けて氏綱にあたらせたかも知れません。しかし、この時期の細川晴元は木澤長政に背かれたと思い込んだあまりにこれを討ち取らせて、非常にナーバスになっていました。甲斐で武名を轟かせたこの歴戦の勇士に兵を与えてみようなどという興はわかなかったようです。細川晴元の政権基盤は極めて脆弱で、細川氏綱という自らの地位を代替しうる資格者の登場は、彼にとって致命的な脅威となりうるものです。しかも、足利義晴、六角定頼、朝倉孝景らは元細川高国政権の人々でもありました。そんな中、晴元の妻の妹を娶った武田晴信の父にあたる武田信虎は畿内の色のついていない人材でかつ、甲斐からは追放中の身の上なので使い捨ても可能(使い捨ては細川晴元の得意技でもあります)、同時に駿河今川氏の支援も当てに出来るおいしい人物であったはずなのですが、細川晴元は華麗にスルーしたわけです。一方の武田信虎は摂津石山に向かい本願寺証如(彼も姻族を通して武田晴信と細川晴元につながっています)と会見したり、奈良に遊歴したりしていますので、この氏綱の反乱には興味を持っていただろうし、それに対策を講じない細川晴元を見限るきっかけにもなったのではないでしょうか。

 とは言え、幕府側が何も対応をしなかったわけではなく、氏綱が堺や摂津住吉まで迫ったところを細川元常、三好政長・長慶勢が撃退します。武田信虎はそんな戦況を横目に駿河に帰りました。さらに和泉国菱木に転進したところを和泉国守護細川元常がこれを破りますが、山間部に逃してしまいました。この局面で細川晴元がやっておくべきことは、氏綱の身柄の確保でした。それが出来ずに野に放ってしまったことはより大きな禍根を残すことになってしまったのでした。氏綱は潜伏しつつ、各地に檄を飛ばして反晴元闘争を煽ります。三好政長・長慶はその火消しに追われて丹波・山城を転戦します。

 細川氏綱の蜂起を支援したのは畠山稙長と言われていますが、おそらくはこの段階においては積極的な関与はしていなかったのではないかと思います。と言うのは、稙長存命中の氏綱の攻撃目標はもっぱら和泉・摂津あたりで、追い散らされても河内方面に逃げていないのですね。また、河内から援軍が送られたということもありません。それだけに規模の大きな戦いになっていないわけでしたが、この戦いが激化するのはむしろ稙長の死後になります。氏綱挙兵の二年後、1545年(天文十四年)五月十五日に畠山稙長は享年四十二で没しました。この死をめぐって河内の畠山家中は混乱します。稙長本人は自らの後継に能登守護の畠山義続を指名したらしいのですが、家中が納得せず、稙長の弟の政国を立てようとしたところに細川晴元が介入し、相続を認めませんでした。畠山四郎なる人物が一時的に立てられましたが、あっという間に引きずりおろされます。そして畠山家中は改めて政国を立て、氏綱支持を強めていったのでした。つくづく細川晴元はこの手の政治工作が下手くそです。政国は陣代の形で家中を総攬することになりましたが、実質的には遊佐長政が権力を握ります。

 天文一向一揆後、遊佐長教は木澤長政と組みつつ尾州畠山弥九郎を奉じる形で南河内を支配していましたが、足利義晴の陰謀によって木澤長政が孤立してゆく流れの中で、遊佐長教も木澤長政と主人である尾州畠山弥九郎を見捨てて畠山稙長に従わざるを得なくなり、あまつさえ太平寺合戦では自らの軍兵が木澤長政を討ち取るという皮肉を演じてしまいます。木澤長政の滅亡によって河内国における総州畠山家勢力は一掃されてしまいました。それによって河内一国は畠山稙長と遊佐長教ら尾州畠山党の手に落ちるわけです。木澤と組むことで桂川合戦の折に波多野兄弟に追い散らされて以降奪われていた河内を取り戻すことは出来たものの、その木澤が細川晴元に近すぎたがゆえに滅ぼされたのを遊佐長教は目の当たりにしたわけです。彼がとるべき戦略は細川晴元とは一定の距離をとることでした。かといって足利義晴に対しては交渉次第で味方につけることにつなげうる駒、すなわち、細川晴元の代替となりうる資格保有者である氏綱を手元に置くことは決して悪くはないと判断したわけです。そして、河内には彼の行動を止める人物は一人もいなくなっていたのでした。


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2018年3月10日 (土)

中漠:晴天航路編⑯法華の帰還

 天文法華の大虐殺以降、京の復興は一向に進まず、その間三好長慶や木澤長政の軍勢が京を脅かしても、将軍や右京大夫は京を防衛するどころか御所を洛外に移して逃亡する始末で、誰も京の街を守ろうと考えるものはいませんでした。せいぜい木澤長政くらいなもので、彼はそれを言い出したせいで滅ぼされてしまいました。

 細川晴元のいる幕府は政権基盤が脆弱です。政元の時代には細川家内衆と阿波細川家、和泉細川家一門が強固な結束によって足利将軍が持っていた奉公衆の機能を代替しました。高国の時代には大内義興という中国・北九州地方をまとめあげる実力を持った大名がその政権の下支えをし、それを失った時に高国政権は一気に不安定化します。晴元に至っては一門衆はバラバラであり、強力な支持をしてくれる地域パワーもなく、内衆や地元で政権を支えた畠山氏も新陳代謝が進んで一代でのし上がった茨木氏や木澤氏、大和の筒井氏らの下支えて辛うじて維持されている状況でした。本願寺や三好長慶は討伐を受けた後許されて臣従した形となっていますが、それもまた不安定要因でありましょう。何よりも、畿内の諸勢力は地域の生産性が高いということもあるのですが、中小の実力者がひしめき合っていて図抜けた実力者がいませんでした。三好元長や本願寺などはその中でも戦力や資金力があった方かもしれませんが、その片鱗を見せただけで寄ってたかって潰され、三好などにもそれを自力ではねのけられるまでの力量はまだ備わっていなかったわけです。
 アメリカのマーケティングの神様マイケルポーターは競争が激化する原因として、同レベルの規模の競合が多くいること、すでに競争を維持するためのコスト(サンクコスト)を大量に支払ってしまっていること、撤退が難しいことなどを挙げておりますが、この頃の畿内豪族衆がその条件にまさにあてはまります。競争激化の条件にはもう一つありました。業界全体がシュリンクしていることです。戦国の秩序崩壊で足利殿の支配領域は大幅に減ぜられております。よって細川晴元には政権を維持する実力はありませんでしたし、それを維持するための資金もこと欠いておりました。

 洛中から法華宗徒を追い出したのは彼らにとっての都合はよかったかもしれないのですが、京の街もろとも灰にしてしまっておりました。洛内産業の主たるものは、馬借、土蔵・酒屋、すなわち運送業、金融業であり、その経営者の多くが熱心な法華宗徒でした。敗戦後の延暦寺は焼けた法華衆諸寺院の跡地の引き渡しを要求しますが、それに幕府は躊躇しております。洛中復興には洛中商人の協力が不可欠でしたが、跡地を延暦寺に引き渡してしまうと町衆の協力が得られなくなるからと考えられます。
 とはいえ、元々の合戦の経緯としては洛中法華諸寺院が延暦寺の末寺化要求を拒否したことが原因で起こった合戦であり、六角定頼ら武家衆はそれに加勢する形で参戦した態になっております。よって、幕府も延暦寺の要求を拒める筋ではありません。幕府としては延暦寺の要求に対して拒否はせず、とはいっても回答もしないまま時間稼ぎをする戦術に出ました。とは言うものの、その間に三好長慶と木澤長政が上洛戦をそれぞれ挑んでその度ごとに細川晴元たちは京から逃げ出す始末です。いい加減にしてくれと言う機運がやんごとない筋から盛り上がってきました。

 それが結実したのが1542年(天文十一年)十一月十四日。後奈良天皇が法華還住の詔勅を出したのでした。以前に先代の後柏原天皇の朝餉を町衆の餅屋(後の粽屋川端道喜の前身)である渡辺進が用意したことを紹介したとおり、町衆は帝の台所にまで進出しておりました。渡辺進は法華衆徒であり、この時天文法難によって堺に亡命しております。すなわち、亡命者は寺院関係者だけではなく町衆にも及んでおり、町衆抜きでの朝廷の台所事情は悪化の一途をたどっておりました。しかも間の悪いことに松本問答が起こる直前の1536年(天文五年)二月二十六日に後奈良天皇は東海の今川家、後北条家をスポンサーに即位の礼を執り行っておりました。後奈良天皇の践祚が1526年(大永六年)ですから十年待った後にようやく行えた即位の礼であったわけですが、その直後に京の街は丸焼けになってしまい、朝廷御用達の渡辺進も京にいられなくなってしまったわけです。恐らくは彼は元武士であったこともあり、法華衆の一部隊を率いる立場だったのではないかと想像します。即位の礼と言う一大イベントがあった直後に起こった王都の荒廃でしたので、朝廷の財務状況は幕府以上にひどい有様であったと思われます。
 その間の二度の兵禍に幕府は無策であまつさえ自分だけ京を放棄する始末です。復興は急務でありましたが、叡山と幕府と町衆の連携が上手く取れずに時間だけがいたずらに経過して、さしもの後奈良天皇もしびれを切らしてしまったようでした。

 法華還住の勅によって堺に亡命していた法華衆徒は晴れて京に戻り、荒廃した街の復興スピードも確かに加速したのですが、延暦寺の問題が解決しておりませんでした。1546年(天文十五年)に延暦寺は復興中の洛中法華寺院に対し、改めて末寺化要求を突き付けます。この時は六角家被官の進藤貞治・平井高好の仲裁が成功して、翌1547年(天文十六年)に洛中法華諸寺院が日吉社の御祭礼に対して毎年百貫の進納を行うことで妥協が図られました。延暦寺としては何としても現金収入が必要であり、末寺化はその一環でしたが、法華衆徒は今回は巧みに交渉を進めて祭礼費用の拠出でおりあったわけです。

 本稿では法華宗にかかわる流れだけを追いましたが、この間幕府は三好長慶が台頭したり、木澤長政が討ち取られたり大きな動揺が生じております。そんな中、天文五年から十一年まで京の法華宗徒が堺におりました。洛中二十一ヶ寺の中の本門流(日隆門流)の本能寺は堺の法華衆寺院顕本寺を亡命中の本山としております。そこは三好元長が殉難した地であり、その遺児長慶とのコネクションが育まれるきっかけになったと言えるでしょう。

 復興した京は以前とは異なる様相を呈しておりました。朝廷・幕府のある上京と町屋が密集する下京にはそれぞれ堀と城壁が巡らされ、斯波氏の邸宅である武衛館を中間点とする回廊でつながる構造となったわけです。そして還住寺院の妙顕寺や妙覚寺は環壕都市の外郭にある出丸のような配置になっています。すなわち、京は城塞都市となって外敵の侵入を防ぐ構造に変わったのでした。

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2018年3月 3日 (土)

中漠:晴天航路編⑮木澤のオッサンの唄Ⅳ

 一庫城救援後、木澤長政は越水城を攻めますが、それと同時に足利義晴宛に一通の手紙を送ります。そこには自分が上洛をするので、京都の警護役に任命して欲しいという要請でした。この当時京都は天文法華乱からすでに六年も経過しているにもかかわらず、荒廃から立ち直れていませんでした。それは金を持っている商人の大半が法華宗徒であり、京都に法華禁止の禁制を敷いているからでした。将軍足利義晴も細川晴元も自らの軍を持っておらず、諸侯に動員をかけることで軍を掌握していたので、京は戦国時代の真っ最中に事実上無防備都市だったわけです。そんな中、東には高国政権を支えていた六角定頼がおり、朝倉孝景も健在です。西にも石山合戦時には敵対していた波多野稙通がおり、そんな諸侯が気が向けばいつでも京を攻め落とせる状況になっていました。そんな中、右京太夫(右京兆)として将軍を支える立場に立たされてみれば、必要以上に旧高国勢力に過敏になるのはある意味当然でした。

 その一方で怯える晴元を宥めることもせずにあまつさえ塩川政年を攻撃する軍勢まで出した三好政長にも不満がでるのは当然でそんな気分が書状に現れうることもやむを得ざることでありましょう。木澤長政の要望が通るなら、晴元の不安は解消されて足利義晴と細川晴元との関係も修復されるはずでしたので、多少の愚痴がでていても、それは小事にすぎないはずでした。
 しかし、実際の受け止められ方は全くの逆で、この書状は木澤長政によるクーデター宣言と受け取られてしまったのです。細川晴元は恐慌状態に陥って自邸を引き払って北岩倉(現在国際会議場のある場所)に避難してしまいました。足利義晴もこの書状に不快感を示し、将軍御所から東山の慈照寺に引きこもってしまいます。茨木長隆や三好政長はそんな細川晴元を宥めるべきでした。なぜならここで木澤を敵にして倒してしまえば、次に標的になるのは間違いなく彼らであるはずなのですから。しかし、木澤の書状に彼ら側近衆への不満もつづられていたことが、木澤と晴元との間の溝を決定的なものにしてしまったのでした。

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  たった一通の手紙が再び京を将軍と管領(厳密には晴元は管領になっておらず、持っている位は右京兆のみ)のいない都市にしてしまいました。その報に接すると木澤長政は越水城攻めを諦めて河内に帰陣します。三年もたたずに二度までも京の防備が無くなる事態は京の真の主人である後奈良天皇に一つの決断を促すことにありますが、それは次稿に記します。いずれにせよ、これは足利義晴の計略にまんまとはまった状況になりました。細川晴元は足利義晴に要請し、伊賀守護の仁木某に南山城の笠置山城を攻撃させる許可を得ます。仁木某は笠置山城に伊賀・甲賀から集めた乱波・透波(忍者のこと)を送り込んで攻城を試みます。これが戦国時代における忍者の活用の初めであるらしい。これは二日の攻撃ののちに諦めたようですが、この失敗は細川晴元をより本気にさせました。細川晴元は足利義晴を動かして今度は本願寺に木澤長政との手切れを命じます。三宅国村などは本願寺と関係が深く、本願寺には逆らえません。結果として一庫城の塩川政年、伊丹親興、三宅国村らが足利義晴・細川晴元に帰順してしまい、木澤長政の一庫城救援は何の為だったかわからないありさまとなってしまいました。

 そしてさらに河内でより重大な事態が起こってしまいます。またしても細川晴元が足利義晴を動かして、今度は紀州潜伏中の尾州畠山稙長に南河内守護の尾州畠山弥九郎の討伐を命じたのでした。尾州畠山家は細川晴元にとって仇敵で、その存続を許す条件が弥九郎という宗家との関係もよくわからない者を守護に置くことだったはずですが、そんなことはきれいさっぱり忘れ去られた仕儀でした。
 そこまでした後に、細川晴元は北岩倉から摂津芥川まで移動して、そこで陣立てを始めます。ひとたび敵と認定したなら手段を選ばない細川晴元や茨木長隆のやり口そのものですが、足利義晴からしてみれば笑いが止まらなかったことでしょう。三好長慶は引っかからなかったが木澤長政はまんまと術中にはまってしまったことに。そして自らの怒りによって検断しているつもりの細川晴元も茨木長隆・三好政長ら晴元側近も気づいていないのです。もし、彼らがもう少し注意深ければ次に生贄にされるのが彼らであり、彼らに累を及ぶことを防いでくれていたのが木澤長政であったことに気づいたはずでした。

 遊佐長教にとって木澤長政は細川晴元との交渉を仲介して尾州畠山派国人衆の居場所を河内に作ってくれた恩人のはずでした。尾州畠山家当主の稙長ら兄弟を河内から追い出したのも細川晴元の望みをかなえることによって、一所を守る為でしたが、その約束事を弊履のごとく捨て去れる細川晴元やその後ろで糸を引く足利義晴らにはこれ以上ついてゆけないと感じたことでしょう。しかし、木澤に味方して安寧を確保することはもはや無理でした。遊佐長教は尾州畠山弥九郎の側近である斉藤山城親子を尾州畠山稙長の命と称して誅殺することによって、自らの旗幟を鮮明にしました。これを見た弥九郎は高屋城をでて信貴山城に落ち延びます。

 気が付けば、木澤長政は完全に孤立していました。木澤長政は助けを求めに来た尾州畠山弥九郎に信貴山城を任せ、自らは同じ生駒山系にある二上山城に陣取ります。そして細川晴元の命を奉じて南河内方面から攻め寄せてくる遊佐長教軍と太平寺近辺で合戦に及びました。乱戦の中、互いにもうひと押しで敵を崩せるようになったところで援軍が表れます。木澤長政はこれを信貴山城から弥九郎が挟撃にやってきたものと勘違いしますが、実際は北摂方面から南下してきた三好長慶、政長軍でした。三好軍の猛攻に木澤軍は崩壊し、立て直しの為に飯盛山城に脱出するように命じますが、三好・遊佐両軍の猛追に追いつかれ、木澤長政と彼の家臣たちの多くが討ち死にしてしまいました。この戦いは木澤長政の終焉の地名にちなんで太平寺合戦と呼ばれています。

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※国土地理院地図(https://maps.gsi.go.jp/)を加工

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※国土地理院地図(https://maps.gsi.go.jp/)を加工

 木澤長政のことを外道と難じる向きもありますが、実際主君である総州畠山義堯殺しの時、飯盛山城で畠山・三好連合軍に追い詰められていた状況です。暴走する本願寺門徒を真っ先に咎めたのは木澤長政であり、山科本願寺が法華衆と六角定頼に焼かれていた時には彼は摂津・河内の戦場にいました。むしろ命令を下せる立場にいたのは細川六郎のそば近くにいた茨木長隆であったと考えられます。石山合戦においては両属状態の敵軍河内門徒衆を時に尾州畠山方として、時に本願寺門徒と見立てて攻撃し、状況をうまく使い分けながら相手勢力を削りました。だからと言って本願寺も、尾州畠山家も滅ぼすことはせず、巧みに政治的共存ができるように図った政治的手腕は大したものだと思います。天文法華の乱においても三千にも及ぶ洛中民間人虐殺を行ったのは主に六角定頼の足軽兵と、細川政元の焼き討ち以来兵力・財力縮小著しい叡山僧兵たちです。ここにおいても茨木長隆はそれを止められる立場にあったはずですが、法華禁止令を出してそれを煽る始末です。

 むしろ木澤長政は打ち続く戦乱で疲弊した河内・大和の国人衆の利益代表に自らがなることで彼らを保護しておりました。尾州畠山長経の暗殺は自らの代表としての地位を保証する細川晴元の疑心を払拭する為でした。さすがに細川晴元がこれほどの短期間に無原則な変心を繰り返したのは木澤長政にとって想定外なことだったでしょう。木澤長政は智者であり、ある意味仁者でもありました。最大多数の最大利益を図る中で細川晴元・茨木長隆のエキセントリックさ、そして黒幕足利義晴が高国殺しの恨みを決して忘れていないことを軽く見ていたことが、彼の身を滅ぼしてしまった原因ではなかったかと思います。
 そして木澤長政を失ってもなお、細川晴元は足利義晴の危険性を十二分に理解していませんでした。

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