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2018年3月24日 (土)

中漠:晴天航路編⑱堺がもたらしたものが細川晴元を奔らす

 1546年(天文十五年)三好政長と長慶は、氏綱方として叛意を明らかにした遊佐長教を討つべく、堺に入ります。しかし、この情報は事前に漏れていたらしく、堺は逆に遊佐軍に包囲されてしまいました。かつて、河内の門徒衆は堺に襲い掛かって三好長慶の父、元長を自害に追い込んだこともありました。しかし、今回は堺を治める会合衆が仲介に立って、三好軍は撤兵することになります。戦乱の世の中にあっていずれの勢力にも与しない自治都市堺の面目躍如と言う所ですが、実はこの時堺は紀州根来寺と組んで新兵器の開発を行っていたのです。1543年(天文十二年)に南西諸島の種子島に漂着した中国の商船(海賊船とも言う)に同乗していたポルトガル人が所有していた火縄銃が領主種子島時堯の前で実演の上で買い取られます。鉄砲自体はこれ以前も日本に入っていて、例えば永正三河乱(伊勢宗瑞の三河征服)で岩津城攻めに使われたなどの話が三河物語にも載っておりますが、いまいち信ぴょう性ある話としては考えられていないようです。事実としても西洋流の火縄銃ではなく、中国で使われていた火砲の一種であろうと考えられています。この二丁の鉄砲のうち一丁は島津義久に献上されるのですが、同時に種子島時堯は自領の刀鍛冶に命じてこれのレプリカを作らせていました。このニュースをいち早く察知した堺商人橘屋又三郎、根来寺の津田算長が製法を学び、故郷に帰って鉄砲作りを始めたのです。もっとも、根来で鉄砲を作るにしても、火薬の材料になる硝石は日本国内では入手のめどが立っていませんでした。なので輸入に頼るしかないのですが、そのためには根来寺も貿易港である堺に協力を頼まざるを得ないという関係にあったものと思われます。

 河内と紀州は畠山家の所領でした。なので根来寺と協力関係にある堺衆の意向を無視して堺を蹂躙することは遊佐長教も本意ではないという所だったのかもしれません。もっとも、遊佐長教が鉄砲の重要性を認識していたかどうかは定かではありません。ただ、後に根来衆や雑賀衆が量産した鉄砲で強力な鉄砲隊を組織したことを考えれば、河内・紀州の事実上の統治者である彼の耳にもその重要性を含めて情報が入っていたとしてもおかしくはありません。
 逆に言うなら細川晴元とことを構えることを考えていた畠山稙長あたりが自陣営を強化するための情報を求めていたのでしょう。種子島時堯の鉄砲入手の翌年に根来寺津田算長が鉄砲製造技術学習を目的とした種子島来島します。これはたいへん迅速な行動でしたし、そもそも、の細川氏綱が挙兵した1542年(天文十一年)十二月に彼に付き従っていた者の中に根来衆がいたと言います。そんなわけでしたので、三好軍の堺入りを遊佐長教に教えたのは堺衆達だったのかもしれません。

 三好軍が堺で出鼻を挫かれて撤退したことは摂津一円に大きな影響を及ぼします。翌月に遊佐長教は摂津西成郡の大塚城を攻囲しつつ調略の手を伸ばします。西成郡と言えば石山本願寺のある所です。遊佐長教は石山本願寺に河内の寺領の還付を申し出ています。また、細川晴元は自陣営での出兵を依頼しました。これらに対して本願寺は兵は出さないがどちらにも良い顔をしました。この時証如は大塚城攻めの遊佐と中嶋砦に籠もる三好の双方に差し入れを施して累が自陣営に及ばぬようにしたのでした。しかし、三宅国村・池田信正ら摂津国人達が遊佐長教・細川氏綱方に降参してしまいました。そして大塚城も遊佐長教の手に落ちてしまいます。

 そして、その影響は摂津一国に留まりませんでした。1546年(天文十五年)九月十三日、氏綱方の上野玄蕃頭元治が、京に向かって進軍します。かつて山城高雄山に挙兵した細川晴国を助けて摂津から攻め寄せた薬師寺国長を討ち取ったのも彼でした。晴国軍はいったんは京に攻め込みましたが、戦力は続かず、その後摂河方面に転戦して本願寺防衛戦に加わった挙げ句に敗北しました。細川晴国は戦場脱出に失敗して自害を強いられましたが、上野玄蕃は逃げ延びたようです。上野玄蕃率いる氏綱勢の上洛を受けて対抗する細川晴元は将軍を置いて早々に京を捨てます。

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 1539年(天文八年)に三好長慶が上洛軍を起こした時もそうでしたが、細川晴元は京を拠点にしているにもかかわらず、京を守る気が欠片もありません。そもそも彼は京育ちではありませんし、天文法華の乱においては京の町衆に対して虐殺を行った側の人間でした。京の街は天文八年時点では復興もままならない状況でしたが、それから七年経過して復興はある程度進んでいました。それを促進させたのが後奈良天皇の赦免の宣旨を受けて堺に避難していた京の町衆と法華宗本山寺院でした。1546年(天文十五年)の時点で本満寺(六条門流分派)、本禅寺(陣門流)、妙伝寺(身延門流)、本隆寺(真門流)、頂妙寺(日常門流)、妙蓮寺(本門八品門流)、立本寺(四条門流分派)とのちに十六本山をなす法華寺院中七つの寺院が復帰しておりました。その復帰を助けたのが京の町衆であれば、細川政元が京の町衆に恨まれていることを気づくのは自然なことですし、下手に京で戦争を起こそうものなら背後をつかれて寝首をかかれかねませんでした。細川高国は如意ヶ嶽、船岡山、等持院で京を脅かす三好軍をことごとく撃退して京の守護者としてのプレゼンスを高めたわけですが、細川晴元はそんなことができる状況ではなかったのです。

 丹波国は波多野氏が取り仕切っていましたが、波多野稙通はこの前年に没して晴通の代になっていました。晴通の姉妹が三好長慶の妻となっていましたので、一応は晴元方と言えるわけですが、細川晴国の乱においては晴国派についていましたので、実際の向背は定かならぬ所はあったかと思います。まあそれでも洛中の法華衆よりもましと彼は考えたのでしょう。洛中の法華衆も京に自分達を守る政権が存在しない以上、自分達の身は自分達で守ると、同時に宗旨を異にする人からは施しも受けないし、祈祷などの宗教的恩恵も与えない不受布施義を言い出す一派が勢力を増してゆきます。この不受布施義は足利義教の時代の日親(日常門流)が始めた主張ですが、細川晴元のこの時の振る舞いがその主張に説得力を与えてしまったことは間違いないでしょう。

 穿った見方ではありますが、堺に入った鉄砲が根来寺を通じて遊佐長教らとのパイプを作った結果、三好軍の撤退をもたらし、その敗報が摂津・山城諸侯をして氏綱勢力に靡かせた上に、堺に匿われていた京の町衆が京へ帰還することで彼らに疎まれていた細川晴元が京にいられなくなって三度目の京都防衛放棄に至りました。本稿では触れられませんでしたが、そんな細川晴元の背中を押した人物がいます。室町殿足利義晴でした。

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