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2018年3月 3日 (土)

中漠:晴天航路編⑮木澤のオッサンの唄Ⅳ

 一庫城救援後、木澤長政は越水城を攻めますが、それと同時に足利義晴宛に一通の手紙を送ります。そこには自分が上洛をするので、京都の警護役に任命して欲しいという要請でした。この当時京都は天文法華乱からすでに六年も経過しているにもかかわらず、荒廃から立ち直れていませんでした。それは金を持っている商人の大半が法華宗徒であり、京都に法華禁止の禁制を敷いているからでした。将軍足利義晴も細川晴元も自らの軍を持っておらず、諸侯に動員をかけることで軍を掌握していたので、京は戦国時代の真っ最中に事実上無防備都市だったわけです。そんな中、東には高国政権を支えていた六角定頼がおり、朝倉孝景も健在です。西にも石山合戦時には敵対していた波多野稙通がおり、そんな諸侯が気が向けばいつでも京を攻め落とせる状況になっていました。そんな中、右京太夫(右京兆)として将軍を支える立場に立たされてみれば、必要以上に旧高国勢力に過敏になるのはある意味当然でした。

 その一方で怯える晴元を宥めることもせずにあまつさえ塩川政年を攻撃する軍勢まで出した三好政長にも不満がでるのは当然でそんな気分が書状に現れうることもやむを得ざることでありましょう。木澤長政の要望が通るなら、晴元の不安は解消されて足利義晴と細川晴元との関係も修復されるはずでしたので、多少の愚痴がでていても、それは小事にすぎないはずでした。
 しかし、実際の受け止められ方は全くの逆で、この書状は木澤長政によるクーデター宣言と受け取られてしまったのです。細川晴元は恐慌状態に陥って自邸を引き払って北岩倉(現在国際会議場のある場所)に避難してしまいました。足利義晴もこの書状に不快感を示し、将軍御所から東山の慈照寺に引きこもってしまいます。茨木長隆や三好政長はそんな細川晴元を宥めるべきでした。なぜならここで木澤を敵にして倒してしまえば、次に標的になるのは間違いなく彼らであるはずなのですから。しかし、木澤の書状に彼ら側近衆への不満もつづられていたことが、木澤と晴元との間の溝を決定的なものにしてしまったのでした。

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  たった一通の手紙が再び京を将軍と管領(厳密には晴元は管領になっておらず、持っている位は右京兆のみ)のいない都市にしてしまいました。その報に接すると木澤長政は越水城攻めを諦めて河内に帰陣します。三年もたたずに二度までも京の防備が無くなる事態は京の真の主人である後奈良天皇に一つの決断を促すことにありますが、それは次稿に記します。いずれにせよ、これは足利義晴の計略にまんまとはまった状況になりました。細川晴元は足利義晴に要請し、伊賀守護の仁木某に南山城の笠置山城を攻撃させる許可を得ます。仁木某は笠置山城に伊賀・甲賀から集めた乱波・透波(忍者のこと)を送り込んで攻城を試みます。これが戦国時代における忍者の活用の初めであるらしい。これは二日の攻撃ののちに諦めたようですが、この失敗は細川晴元をより本気にさせました。細川晴元は足利義晴を動かして今度は本願寺に木澤長政との手切れを命じます。三宅国村などは本願寺と関係が深く、本願寺には逆らえません。結果として一庫城の塩川政年、伊丹親興、三宅国村らが足利義晴・細川晴元に帰順してしまい、木澤長政の一庫城救援は何の為だったかわからないありさまとなってしまいました。

 そしてさらに河内でより重大な事態が起こってしまいます。またしても細川晴元が足利義晴を動かして、今度は紀州潜伏中の尾州畠山稙長に南河内守護の尾州畠山弥九郎の討伐を命じたのでした。尾州畠山家は細川晴元にとって仇敵で、その存続を許す条件が弥九郎という宗家との関係もよくわからない者を守護に置くことだったはずですが、そんなことはきれいさっぱり忘れ去られた仕儀でした。
 そこまでした後に、細川晴元は北岩倉から摂津芥川まで移動して、そこで陣立てを始めます。ひとたび敵と認定したなら手段を選ばない細川晴元や茨木長隆のやり口そのものですが、足利義晴からしてみれば笑いが止まらなかったことでしょう。三好長慶は引っかからなかったが木澤長政はまんまと術中にはまってしまったことに。そして自らの怒りによって検断しているつもりの細川晴元も茨木長隆・三好政長ら晴元側近も気づいていないのです。もし、彼らがもう少し注意深ければ次に生贄にされるのが彼らであり、彼らに累を及ぶことを防いでくれていたのが木澤長政であったことに気づいたはずでした。

 遊佐長教にとって木澤長政は細川晴元との交渉を仲介して尾州畠山派国人衆の居場所を河内に作ってくれた恩人のはずでした。尾州畠山家当主の稙長ら兄弟を河内から追い出したのも細川晴元の望みをかなえることによって、一所を守る為でしたが、その約束事を弊履のごとく捨て去れる細川晴元やその後ろで糸を引く足利義晴らにはこれ以上ついてゆけないと感じたことでしょう。しかし、木澤に味方して安寧を確保することはもはや無理でした。遊佐長教は尾州畠山弥九郎の側近である斉藤山城親子を尾州畠山稙長の命と称して誅殺することによって、自らの旗幟を鮮明にしました。これを見た弥九郎は高屋城をでて信貴山城に落ち延びます。

 気が付けば、木澤長政は完全に孤立していました。木澤長政は助けを求めに来た尾州畠山弥九郎に信貴山城を任せ、自らは同じ生駒山系にある二上山城に陣取ります。そして細川晴元の命を奉じて南河内方面から攻め寄せてくる遊佐長教軍と太平寺近辺で合戦に及びました。乱戦の中、互いにもうひと押しで敵を崩せるようになったところで援軍が表れます。木澤長政はこれを信貴山城から弥九郎が挟撃にやってきたものと勘違いしますが、実際は北摂方面から南下してきた三好長慶、政長軍でした。三好軍の猛攻に木澤軍は崩壊し、立て直しの為に飯盛山城に脱出するように命じますが、三好・遊佐両軍の猛追に追いつかれ、木澤長政と彼の家臣たちの多くが討ち死にしてしまいました。この戦いは木澤長政の終焉の地名にちなんで太平寺合戦と呼ばれています。

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※国土地理院地図(https://maps.gsi.go.jp/)を加工

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※国土地理院地図(https://maps.gsi.go.jp/)を加工

 木澤長政のことを外道と難じる向きもありますが、実際主君である総州畠山義堯殺しの時、飯盛山城で畠山・三好連合軍に追い詰められていた状況です。暴走する本願寺門徒を真っ先に咎めたのは木澤長政であり、山科本願寺が法華衆と六角定頼に焼かれていた時には彼は摂津・河内の戦場にいました。むしろ命令を下せる立場にいたのは細川六郎のそば近くにいた茨木長隆であったと考えられます。石山合戦においては両属状態の敵軍河内門徒衆を時に尾州畠山方として、時に本願寺門徒と見立てて攻撃し、状況をうまく使い分けながら相手勢力を削りました。だからと言って本願寺も、尾州畠山家も滅ぼすことはせず、巧みに政治的共存ができるように図った政治的手腕は大したものだと思います。天文法華の乱においても三千にも及ぶ洛中民間人虐殺を行ったのは主に六角定頼の足軽兵と、細川政元の焼き討ち以来兵力・財力縮小著しい叡山僧兵たちです。ここにおいても茨木長隆はそれを止められる立場にあったはずですが、法華禁止令を出してそれを煽る始末です。

 むしろ木澤長政は打ち続く戦乱で疲弊した河内・大和の国人衆の利益代表に自らがなることで彼らを保護しておりました。尾州畠山長経の暗殺は自らの代表としての地位を保証する細川晴元の疑心を払拭する為でした。さすがに細川晴元がこれほどの短期間に無原則な変心を繰り返したのは木澤長政にとって想定外なことだったでしょう。木澤長政は智者であり、ある意味仁者でもありました。最大多数の最大利益を図る中で細川晴元・茨木長隆のエキセントリックさ、そして黒幕足利義晴が高国殺しの恨みを決して忘れていないことを軽く見ていたことが、彼の身を滅ぼしてしまった原因ではなかったかと思います。
 そして木澤長政を失ってもなお、細川晴元は足利義晴の危険性を十二分に理解していませんでした。

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