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2018年3月10日 (土)

中漠:晴天航路編⑯法華の帰還

 天文法華の大虐殺以降、京の復興は一向に進まず、その間三好長慶や木澤長政の軍勢が京を脅かしても、将軍や右京大夫は京を防衛するどころか御所を洛外に移して逃亡する始末で、誰も京の街を守ろうと考えるものはいませんでした。せいぜい木澤長政くらいなもので、彼はそれを言い出したせいで滅ぼされてしまいました。

 細川晴元のいる幕府は政権基盤が脆弱です。政元の時代には細川家内衆と阿波細川家、和泉細川家一門が強固な結束によって足利将軍が持っていた奉公衆の機能を代替しました。高国の時代には大内義興という中国・北九州地方をまとめあげる実力を持った大名がその政権の下支えをし、それを失った時に高国政権は一気に不安定化します。晴元に至っては一門衆はバラバラであり、強力な支持をしてくれる地域パワーもなく、内衆や地元で政権を支えた畠山氏も新陳代謝が進んで一代でのし上がった茨木氏や木澤氏、大和の筒井氏らの下支えて辛うじて維持されている状況でした。本願寺や三好長慶は討伐を受けた後許されて臣従した形となっていますが、それもまた不安定要因でありましょう。何よりも、畿内の諸勢力は地域の生産性が高いということもあるのですが、中小の実力者がひしめき合っていて図抜けた実力者がいませんでした。三好元長や本願寺などはその中でも戦力や資金力があった方かもしれませんが、その片鱗を見せただけで寄ってたかって潰され、三好などにもそれを自力ではねのけられるまでの力量はまだ備わっていなかったわけです。
 アメリカのマーケティングの神様マイケルポーターは競争が激化する原因として、同レベルの規模の競合が多くいること、すでに競争を維持するためのコスト(サンクコスト)を大量に支払ってしまっていること、撤退が難しいことなどを挙げておりますが、この頃の畿内豪族衆がその条件にまさにあてはまります。競争激化の条件にはもう一つありました。業界全体がシュリンクしていることです。戦国の秩序崩壊で足利殿の支配領域は大幅に減ぜられております。よって細川晴元には政権を維持する実力はありませんでしたし、それを維持するための資金もこと欠いておりました。

 洛中から法華宗徒を追い出したのは彼らにとっての都合はよかったかもしれないのですが、京の街もろとも灰にしてしまっておりました。洛内産業の主たるものは、馬借、土蔵・酒屋、すなわち運送業、金融業であり、その経営者の多くが熱心な法華宗徒でした。敗戦後の延暦寺は焼けた法華衆諸寺院の跡地の引き渡しを要求しますが、それに幕府は躊躇しております。洛中復興には洛中商人の協力が不可欠でしたが、跡地を延暦寺に引き渡してしまうと町衆の協力が得られなくなるからと考えられます。
 とはいえ、元々の合戦の経緯としては洛中法華諸寺院が延暦寺の末寺化要求を拒否したことが原因で起こった合戦であり、六角定頼ら武家衆はそれに加勢する形で参戦した態になっております。よって、幕府も延暦寺の要求を拒める筋ではありません。幕府としては延暦寺の要求に対して拒否はせず、とはいっても回答もしないまま時間稼ぎをする戦術に出ました。とは言うものの、その間に三好長慶と木澤長政が上洛戦をそれぞれ挑んでその度ごとに細川晴元たちは京から逃げ出す始末です。いい加減にしてくれと言う機運がやんごとない筋から盛り上がってきました。

 それが結実したのが1542年(天文十一年)十一月十四日。後奈良天皇が法華還住の詔勅を出したのでした。以前に先代の後柏原天皇の朝餉を町衆の餅屋(後の粽屋川端道喜の前身)である渡辺進が用意したことを紹介したとおり、町衆は帝の台所にまで進出しておりました。渡辺進は法華衆徒であり、この時天文法難によって堺に亡命しております。すなわち、亡命者は寺院関係者だけではなく町衆にも及んでおり、町衆抜きでの朝廷の台所事情は悪化の一途をたどっておりました。しかも間の悪いことに松本問答が起こる直前の1536年(天文五年)二月二十六日に後奈良天皇は東海の今川家、後北条家をスポンサーに即位の礼を執り行っておりました。後奈良天皇の践祚が1526年(大永六年)ですから十年待った後にようやく行えた即位の礼であったわけですが、その直後に京の街は丸焼けになってしまい、朝廷御用達の渡辺進も京にいられなくなってしまったわけです。恐らくは彼は元武士であったこともあり、法華衆の一部隊を率いる立場だったのではないかと想像します。即位の礼と言う一大イベントがあった直後に起こった王都の荒廃でしたので、朝廷の財務状況は幕府以上にひどい有様であったと思われます。
 その間の二度の兵禍に幕府は無策であまつさえ自分だけ京を放棄する始末です。復興は急務でありましたが、叡山と幕府と町衆の連携が上手く取れずに時間だけがいたずらに経過して、さしもの後奈良天皇もしびれを切らしてしまったようでした。

 法華還住の勅によって堺に亡命していた法華衆徒は晴れて京に戻り、荒廃した街の復興スピードも確かに加速したのですが、延暦寺の問題が解決しておりませんでした。1546年(天文十五年)に延暦寺は復興中の洛中法華寺院に対し、改めて末寺化要求を突き付けます。この時は六角家被官の進藤貞治・平井高好の仲裁が成功して、翌1547年(天文十六年)に洛中法華諸寺院が日吉社の御祭礼に対して毎年百貫の進納を行うことで妥協が図られました。延暦寺としては何としても現金収入が必要であり、末寺化はその一環でしたが、法華衆徒は今回は巧みに交渉を進めて祭礼費用の拠出でおりあったわけです。

 本稿では法華宗にかかわる流れだけを追いましたが、この間幕府は三好長慶が台頭したり、木澤長政が討ち取られたり大きな動揺が生じております。そんな中、天文五年から十一年まで京の法華宗徒が堺におりました。洛中二十一ヶ寺の中の本門流(日隆門流)の本能寺は堺の法華衆寺院顕本寺を亡命中の本山としております。そこは三好元長が殉難した地であり、その遺児長慶とのコネクションが育まれるきっかけになったと言えるでしょう。

 復興した京は以前とは異なる様相を呈しておりました。朝廷・幕府のある上京と町屋が密集する下京にはそれぞれ堀と城壁が巡らされ、斯波氏の邸宅である武衛館を中間点とする回廊でつながる構造となったわけです。そして還住寺院の妙顕寺や妙覚寺は環壕都市の外郭にある出丸のような配置になっています。すなわち、京は城塞都市となって外敵の侵入を防ぐ構造に変わったのでした。

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