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2018年3月17日 (土)

中漠:晴天航路編⑰氏綱、立つ

 細川高国派は大物崩れで壊滅したかのように見えましたが、実際はそうでもなく天文錯乱のさなかに彼の弟の晴国が挙兵し、薬師寺国長を討つなどして頑張っていました。しかし、その活動は第一次石山合戦の喧騒にかき消されるようにすり潰された上に、最後の頼みの石山本願寺にも見捨てられた形で自害という最期に至ります。ただそれで細川高国党が全滅したかと言えば、必ずしもそうでもないところが戦国時代の戦国時代らしいところとも言えます。
 細川晴国亡き後、その志を継ぐ者が現れます。名を細川氏綱と言い、細川高国の養子でした。晴国は一応叔父にあたるわけで身内と言えば身内だったのですが、晴国の挙兵時に氏綱は全くと言ってもよいほど表に出てきませんでした。それには理由があって、細川晴国が挙兵した折、その最大の支援者が丹波八上の波多野稙通であったのですね。細川氏綱は細川高国の養子と言いましたが、氏綱の実父は細川尹賢と言い、彼が高国に讒言をして波多野稙通の弟の香西元盛を誅殺させたことで波多野稙通の怒りを買い、それが細川高国政権の崩壊につながりました。細川尹賢の最期も共に戦った細川高国を見限って六郎に降伏した直後に、意を翻した六郎の命令で木澤長政に処刑されるという実に無様な人生の終末を迎えました。その後の政治のごたごたに辟易して波多野稙通はかつて細川高国に対して抱いていた反発を治められるようになりましたが、弟の仇の遺児となると、流石に手放しで共に戦えるとは言えなかったのではないか、そういう気分を読んで細川氏綱は遠慮をしていたのではないかと私は思います。

 その晴国の失敗から六年後の1542年(天文十一年)十二月に細川氏綱は和泉にて挙兵します。たまたまかも知れませんが、ちょうどこれに前後して、駿河から武田信虎が上京していました。もし、ここに細川政元がいれば、彼が赤澤澤蔵軒宗益にしたように彼に兵を預けて氏綱にあたらせたかも知れません。しかし、この時期の細川晴元は木澤長政に背かれたと思い込んだあまりにこれを討ち取らせて、非常にナーバスになっていました。甲斐で武名を轟かせたこの歴戦の勇士に兵を与えてみようなどという興はわかなかったようです。細川晴元の政権基盤は極めて脆弱で、細川氏綱という自らの地位を代替しうる資格者の登場は、彼にとって致命的な脅威となりうるものです。しかも、足利義晴、六角定頼、朝倉孝景らは元細川高国政権の人々でもありました。そんな中、晴元の妻の妹を娶った武田晴信の父にあたる武田信虎は畿内の色のついていない人材でかつ、甲斐からは追放中の身の上なので使い捨ても可能(使い捨ては細川晴元の得意技でもあります)、同時に駿河今川氏の支援も当てに出来るおいしい人物であったはずなのですが、細川晴元は華麗にスルーしたわけです。一方の武田信虎は摂津石山に向かい本願寺証如(彼も姻族を通して武田晴信と細川晴元につながっています)と会見したり、奈良に遊歴したりしていますので、この氏綱の反乱には興味を持っていただろうし、それに対策を講じない細川晴元を見限るきっかけにもなったのではないでしょうか。

 とは言え、幕府側が何も対応をしなかったわけではなく、氏綱が堺や摂津住吉まで迫ったところを細川元常、三好政長・長慶勢が撃退します。武田信虎はそんな戦況を横目に駿河に帰りました。さらに和泉国菱木に転進したところを和泉国守護細川元常がこれを破りますが、山間部に逃してしまいました。この局面で細川晴元がやっておくべきことは、氏綱の身柄の確保でした。それが出来ずに野に放ってしまったことはより大きな禍根を残すことになってしまったのでした。氏綱は潜伏しつつ、各地に檄を飛ばして反晴元闘争を煽ります。三好政長・長慶はその火消しに追われて丹波・山城を転戦します。

 細川氏綱の蜂起を支援したのは畠山稙長と言われていますが、おそらくはこの段階においては積極的な関与はしていなかったのではないかと思います。と言うのは、稙長存命中の氏綱の攻撃目標はもっぱら和泉・摂津あたりで、追い散らされても河内方面に逃げていないのですね。また、河内から援軍が送られたということもありません。それだけに規模の大きな戦いになっていないわけでしたが、この戦いが激化するのはむしろ稙長の死後になります。氏綱挙兵の二年後、1545年(天文十四年)五月十五日に畠山稙長は享年四十二で没しました。この死をめぐって河内の畠山家中は混乱します。稙長本人は自らの後継に能登守護の畠山義続を指名したらしいのですが、家中が納得せず、稙長の弟の政国を立てようとしたところに細川晴元が介入し、相続を認めませんでした。畠山四郎なる人物が一時的に立てられましたが、あっという間に引きずりおろされます。そして畠山家中は改めて政国を立て、氏綱支持を強めていったのでした。つくづく細川晴元はこの手の政治工作が下手くそです。政国は陣代の形で家中を総攬することになりましたが、実質的には遊佐長政が権力を握ります。

 天文一向一揆後、遊佐長教は木澤長政と組みつつ尾州畠山弥九郎を奉じる形で南河内を支配していましたが、足利義晴の陰謀によって木澤長政が孤立してゆく流れの中で、遊佐長教も木澤長政と主人である尾州畠山弥九郎を見捨てて畠山稙長に従わざるを得なくなり、あまつさえ太平寺合戦では自らの軍兵が木澤長政を討ち取るという皮肉を演じてしまいます。木澤長政の滅亡によって河内国における総州畠山家勢力は一掃されてしまいました。それによって河内一国は畠山稙長と遊佐長教ら尾州畠山党の手に落ちるわけです。木澤と組むことで桂川合戦の折に波多野兄弟に追い散らされて以降奪われていた河内を取り戻すことは出来たものの、その木澤が細川晴元に近すぎたがゆえに滅ぼされたのを遊佐長教は目の当たりにしたわけです。彼がとるべき戦略は細川晴元とは一定の距離をとることでした。かといって足利義晴に対しては交渉次第で味方につけることにつなげうる駒、すなわち、細川晴元の代替となりうる資格保有者である氏綱を手元に置くことは決して悪くはないと判断したわけです。そして、河内には彼の行動を止める人物は一人もいなくなっていたのでした。


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コメント

いつも楽しませていただいております。ここで武田信虎に注目されているのは面白いですね。信虎の在京活動には興味があります。
ところで、「天文一向一揆後、遊佐長教は……」の文章が重複しているようです。ご確認ください。

投稿: k-holy | 2018年3月19日 (月) 18時09分

K-holy様、いらっしゃいませ。貴ブログ拝見して勉強させていただいております。武田信虎は三好政長とも接触した形跡があって、それはこの上洛時ではないかと考えております。いずれ記事にする予定です。あと、ご指摘ありがとうございました。文章を見直して再アップさせていただきました。宜しくお願い致します。

投稿: 巴々 | 2018年3月20日 (火) 21時40分

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