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2018年4月28日 (土)

中漠:晴天航路編㉓池田家騒動

 舎利寺合戦の勝利により細川晴元の立場は強化されたはずでした。その立て役者は六角定頼です。彼が細川晴元側につくことで足利義晴が屈服し、京の町衆も晴元支持勢力として取り込むことに成功しました。あとは、河内国を平定することによって畿内における細川晴元政権は安定するはずでした。六角定頼がそこに乗り出すわけですが、洛中法華と比叡山との講和の取り持ちという成功実績が定頼自身の自信につながっていたものと思われます。京において足利義晴、細川晴元、比叡山延暦寺、洛中法華が一和をなした経済効果は小さくありません。その効果を戦争に吸い取られている状況は六角定頼にとって望ましいことではありませんでした。三好と遊佐が潰しあって消耗するのを待つ選択肢もありましたが、今回の三好には阿波細川家の支援がついております。畠山・遊佐が潰れるのを待てば、三好宗三を含めた三好勢のプレゼンスは管領代六角定頼を脅かしかねないことも懸念材料としてあったのでしょう。
 六角定頼は大和に向かい、そこに遊佐長教を呼びつけて講和の談判をしました。恐らく講和条件は細川氏綱を担がないことの一点だけだったと思います。そこがかなうなら畠山・遊佐体制の存続は三好家への牽制となって六角定頼にとっては都合がよかったわけです。そして、三好と遊佐の友誼の証しとして、三好宗家当主の三好長慶は遊佐長教の娘を娶ることになりました。

 政略結婚ということなのですが、以前も同じようなことがありました。第一次石山合戦の陰に隠れた細川晴国の乱への後始末として三好長慶は波多野稙通の娘を娶っていたのです。これを通して一時は細川晴国に靡いていた波多野稙通は細川晴元の家臣として復帰することができたわけでした。その後の展開は野党的な扱いでありましたが、波多野稙通はその後反乱などは企てることもなく没しています。三好長慶は遊佐長教の娘の婚姻以前に波多野稙通の娘を故あって離縁をしております。遊佐の娘との婚姻を含め政略結婚だったと言われるゆえんでしょう。しかし、同様の効果が得られるかどうかについて、六角定頼は読み違えをしていたようです。まず、細川晴国の時は本願寺と三宅国村を通じて晴国を自害させておりました。しかし、今回は氏綱の身柄を拘束できず潜伏するのを許してしまっています。そして、河内の畠山氏は紀州、摂津・河内の三好氏は淡路・阿波という後背地を持った大規模勢力であることを見落としていました。そして三好長慶は三好宗家当主の立場でありながら、幕府においては細川晴元の命令を受けた三好宗三の指示で動く立場でありました。三好長慶が摂津越水に入った頃であれば、彼の弟三好之虎や安宅冬康はまだ幼少で阿波も淡路も掌握できておりませんでしたが、舎利寺近辺の戦闘で総力戦を戦わなければならない事態に陥った頃には三好軍になくてはならない支援勢力として育っておりました。そして弟たちは長兄ほど三好元長の死に関わる三好宗三の責任を我慢できるほど人格者ではありませんでした。三好宗三は自らを憎む一門衆の視線を躱しつつ、三好長慶をコントロールしなければならないという至難の業を強いられており、野党勢力である遊佐長教が三好宗家当主の岳父になることは、その難度が何倍にも高まることと等価でした。

 崩れつつある宗家と三好宗三のパワーバランスに対しては、細川晴元は何らかの手を打つ必要に迫られました。細川晴元は危機的状況下にあっては必ず悪手を打つという奇癖があります。初期の数手は細川六郎こと晴元本人というよりも筆頭祐筆茨木長隆の手によるものであろうと思われますが、今回のこの行動は紛れもなく細川晴元本人の責に帰する判断でした。すなわち、摂津国人池田信正を自邸に呼びつけ、先の離反の責任を問う形で自害を強いたのでした。池田家は摂津中央部北方に勢力を持っており、彼の妻が三好宗三の娘です。二人の間には長正という嫡男がいて、三好宗三との関係は深いはずだったのですが、細川氏綱を奉じた畠山・遊佐勢力が伸長すると三宅国村らとともに氏綱方に寝返ったことが細川晴元の逆鱗に触れ、一度は認めた帰参を覆したというのが表向きの理由でした。恐らくこれは裏の理由があると私は思います。すなわち、摂津池田領に三好宗三の意で動く勢力を確保することにあったのでしょう。池田信正のように情勢如何によって細川晴元を裏切られては困るのです。細川晴元は宗家当主ではない三好宗三を重用し、三好長慶に宗三の命令をきかせることで、三好家を意のままに動かし、宗三もその立場の不安定さから細川晴元を裏切ることができない状況にありました。その宗三と三好宗家のパワーバランスが崩れつつある中、池田家家督を信正から取り上げて宗三の外孫にあたる長正に移すことで池田家における三好宗三の影響力を高めることを期待したわけです。恐らく当初は穏便に家名存続を条件に出家隠遁を迫ったものの、拒まれたために自害を命じたものと思われます。

 しかし、事態はこれだけでは収まりませんでした。池田信正の処刑は池田家のみならず、摂津国人衆に大きな動揺を引き起こします。天文年間を振り返れば摂津国人で細川晴元を見放したことのない者の方が少数派です。まずきっかけとなった池田家で御家騒動が発生します。次期当主は否応もなく長正に決したものの、三好宗三に近しい池田家家臣の一派を悉く池田領から追い出したのです。これは池田家の細川晴元に対する手切れの表明にほかなりませんでした。そして三好長慶ですが、池田信正が籠もっていた池田城を開城させたのはほかならぬ長慶でした。その条件として信正の生命の保証があったはずなので、メンツが丸潰れになっていました。岳父や弟たちからの示唆や池田家中からの求めもあったのでしょう、池田家騒動の翌日、三好長慶は細川晴元の奉行衆に充てて三好宗三入道への弾劾状を出します。すなわち、その書状の内容は池田信正の死の原因は三好宗三が池田家乗っ取りを策して細川晴元に讒言をしたためであるから、これを処断すべし、と。

 三好長慶の言い分は、細川晴元の命令による池田信正の処刑の責任を三好宗三一人に負わせるということでした。すなわち処刑を命じた細川晴元に責任はないと言っているにも等しかったわけです。にもかかわらず細川晴元は三好長慶の提案を拒否します。この行動によって細川晴元が三好家のことをどんな風に考えていたのか、弁解の余地なく露わになってしまいました。こうなってしまえば決裂は必然です。六角定頼が敷いた和平路線はわずか四か月で破たんするにいたります。ひとたび傾いたパワーバランスは六角定頼の弥縫策程度では、如何ともし難いほど勢いがついていたのでした。

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2018年4月21日 (土)

中漠:晴天航路編㉒左馬頭、萬に不弁

 前稿のヒキは詐欺のようなもので、実際に足利義維や本願寺が何かをしたということもなく、何かが出来た状況でもありませんでした。本稿では実際にあった事、ありえただろうことを峻別しつつとり進めてゆきたいと思います。

 河内で遊佐長教が細川氏綱と尾州畠山政国を奉じて挙兵し、京近辺では氏綱派の上野元治が上洛軍を起こすと、細川晴元は不利を感じて丹波へ逃れますが、将軍足利義晴は京に残ります。足利義維は阿波平島にいてこのチャンスをずっと待っていました。細川晴元と足利義晴が決別したということは、細川晴元は新たな旗印を必要とするはずです。それは自分自身以外にいないと足利義維が考えたとしても不思議ではないでしょう。足利義維は上洛の意向を阿波守護細川持隆と三好之虎に伝えたものと思われます。そして、どうやら断られたらしい。「思われます」や「らしい」、などと言う推測文を使うのは、その後、足利義維が1547年(天文十六年)二月二十五日に本願寺証如に宛てて上洛の意向を伝え、そのための斡旋を依頼しているという事実が証如の日記に記されているからです。足利義維にとって、本願寺証如は政治的つながりの極めて薄い人物でした。堺幕府崩壊の直接の原因を作ったのがその証如本人の檄文です。その後本願寺は細川晴元に討伐されたとはいえ、その頃には主従関係は途切れ、細川晴元は新たに足利義晴を主人と仰いでいました。なのでその間本願寺と足利義維は何の関係修復もできていませんでした。阿波を治める細川持隆や三好之虎らが足利義維の意向を受諾していたとすれば、本願寺に上洛の斡旋を頼む理由などはないと言えます。

 本願寺にしても細川晴元と氏綱との争いの中で去就の定まらぬ門徒系摂津国人たちの動向にやきもきしておりました。細川晴元が京都を脱出する直前に三宅国村が晴元方から氏綱方に鞍替えしています。彼は摂津教行寺という本願寺教団寺院の坊官の娘を妻にしており、第一次石山合戦においても本願寺方で戦った人物です。教行寺は興正寺とともに、幕府と本願寺の和睦を仲介した寺でもあるので、摂津国人のこうした動きは細川晴元の本願寺に向ける疑惑の視線を強めてしまうので、本願寺にとって迷惑な話でした。そして二月二十二日に三宅国村の守る摂津三宅城は三好軍の反攻で陥落してしまったのです。この時期細川晴元方の勢力は非常に不安定でした。恐らく本願寺は勝ち馬に乗りたい。少なくとも勝った方を敵に回すことだけは避けなければならないと意を固めたことでしょう。

 足利義維から上洛斡旋を依頼する書状が降ってわいたのは三宅城陥落の三日後でした。まずは、なぜよりによって本願寺にと言う疑問が浮かびますが、恐らくは阿波細川家の支援が受けられていないのだと察せられます。しかし、これを奇貨として手元に居くだけでも結構なリスクがありました。なので証如はあえてこれを黙殺していた訳なのですが、その翌月に足利義晴は勝軍山城に陣を敷いて反晴元であることを宣言してしまったので、細川晴元がとりうる政策の選択肢として足利義維を担ぐ可能性が出てきました。そして、管領代の六角定頼が細川晴元方に寝返ると、足利義晴は勝軍山城を自焼きして坂本に引きこもってしまいます。足利義維としては、将軍交代の実現可能性の高まりを感じずにはいられません。
 七月二十一日、本願寺の庭先である舎利寺近辺で三好軍と遊佐軍が激突してしまいました。本願寺にとってはどちらが勝っても面倒くさい話です。もともと本願寺の前身である石山御坊は蓮如が旧畠山宗家の血を引く蓮能と一緒に河内方面の村や国人衆を教化して細川政元の味方につけるために建てられた寺院です。なので、ここにかかわりの深い河内衆は結構いますし、そういう事情だから石山戦争を戦い抜くことができましたし、逆に多大な犠牲を払って戦争を終わらせざるを得ない羽目にも陥った訳です。それだけに旗幟を鮮明にする時期とやり方を慎重にしなければなりませんでした。証如の日記に舎利寺合戦の話がないのは書かなかった訳ではなく、書けなかったのではなかったかと思います。舎利寺合戦は三好方が勝利し、戦場は河内高屋城に移ります。三好軍が河内門徒を圧迫すると面倒なことになる懸念はありますが、とりあえず今までのスタンスを通せることに本願寺が胸をなでおろしたところに、もう一波乱発生します。

 1547年(天文十六年)十一月三日足利義維が阿波平島を出て堺に上陸したのでした。これはその四か月前に足利義晴が逃亡先の坂本から京に戻ったことが影響したものと思われます。その時の足利義晴は傲慢な挙動に出て、敵対していた細川晴元らに対して「お前たちの罪は許してやるので京に戻ってやる」という居直りを前面に押し出した科白を言ってのけたのでした。実質敗北した足利義晴にこういう言葉を吐かせる余地はないはずですが、それにもかかわらず、そんな態度を貫けたのは六角定頼が帰洛を求めたからでしょう。
 足利義維は堺に入りました。かつては京兆家の細川六郎(晴元)、阿波守護細川持隆、その家臣三好元長らと幕閣衆らを引き連れて幕府組織をそのまま作れるような陣容だったのですが、この時は本当に義維単独でした。すがるべきは、細川晴元しかいませんでした。しかし、舎利寺合戦の勝利で細川晴元は余裕を持つことができていたのです。ぶっちゃけ、足利義晴が細川氏綱を認めないと言ってくれるならそれで十分だったのです。むしろ足利義晴が細川晴元方につくことで、反抗する河内衆の戦意を削ぐこともできます。細川晴元は今度の戦いで三好家に大きな借りを作ってしまったので、これ以上問題を長引かせることは自身の致命傷にもつながりかねませんでした。なので、足利義晴が表面を取り繕ってでも実質降参したのなら、それを受け入れない理由はなかったのです。
 本願寺はそんな情報も得て安心していたのですが、そんな証如の前に意外な人物が現れます。前関白九条稙通でした。実は彼の父親である九条尚経が証如を猶子としていました。彼が関白に就任したのは天文一揆のさなかでした。父親が反乱を起こしている本願寺の証如ということもあり、京内では法華宗が自検断体制をとって山科本願寺を焼き払っていたということもあって、関白在任中はほとんど禁裏に出仕できる状況ではなく、1534年(天文三年)に両一年で関白職を辞して摂津・播磨方面をうろうろすることになります。そんな経歴を持つ彼が石山本願寺に押しかけて、足利義維が堺にいること、そして万事に「不弁」(経済的に困窮していること)な境遇にいることを告げられると、証如としては平伏せざるを得ませんでした。証如は足利義維のために銭千疋を用立ててこれを贈ります。流石にそれ以上の助力はできる状況ではありません。その一方で足利義維は頭を下げた証如の姿を見て状況を悟るしかありませんでした。

 足利義維は失意のうちに淡路に去ったことが証如の耳に入ったのはその翌月でした。舎利寺合戦という大規模戦闘があったにもかかわらず、色々な人間が自分の都合でそれを糊塗していました。政治の季節がこの時期の畿内一帯におとずれていたのです。

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2018年4月14日 (土)

中漠:晴天航路編㉑舎利寺合戦

  将軍山城の足利義晴に対して差し向けられた細川軍は主力ではありませんでした。何と言っても河内を手中に収めた遊佐長教が畠山政国の保護者として細川氏綱を旗印にして虎視眈々と三好政長が守る河内十七箇所に攻めこむ体制を整えておりましたので細川晴元もここに戦力を集め対抗します。まずは尾州畠山政国に対抗して総州畠山尚誠を参陣させます。彼は木澤長政の傀儡として北河内を治めていた畠山在氏の息子です。畠山在氏は太平寺合戦で木澤長政が滅びて後、大和に逃れておりました。以後泣かず飛ばずだったわけですが、尾州畠山家との決戦ということで細川晴元が担ぎ出してきたわけでした。こうしないと河内攻めの大義名分が立たないという事情があったようです。

 次に細川一門衆を動員し、和泉細川家と阿波細川家にも援軍を要請しました。それに呼応したのが和泉からは松浦興信、そして阿波細川家が送り込んできたのが三好之虎と安宅冬康の両名でした。二人は三好長慶の弟です。三好之虎は出家後の号である三好実休といったほうが通りがよいのですが、この時はまだ出家前です。正確に言うとこの頃の名乗りは之相でした。ややこしいので、本稿では出家前は之虎で統一します。別名を義賢とも言うらしいのですが、足利将軍の許しを得ずして将軍家の通字である「義」は使えません。また、この時の将軍から見た三好之虎の立場は家臣(細川晴元)の陪臣(家臣の家来=三好長慶)の弟、またはせいぜい家臣(細川晴元)の分家(細川持隆)の陪臣という立場であり、三好家当主の長慶を差し置いて「義」の字を拝領できたとは考えにくい。もう一つの可能性としては、阿波平島に寓居している足利義維(この時点で名前を義冬に改名してますが、義維で統一します)から与えられたというものですが、これも同じ理由から考えにくいです。と言うか義賢は義維が元服後に最初に名乗った名前ですから、偏諱(かたいみな)どころか自分の名前をそのままくれてやったことになりますので、義晴以上にありえません。三好之虎は畿内で細川晴元に仕える三好長慶の代理として阿波国にある三好領の経営を任されていました。同時に阿波・讃岐守護細川持隆に仕えてこれを支えておりました。もう一人の安宅冬康は曾祖父の三好之長が淡路守護の細川尚春を謀殺して手に入れた淡路において海賊衆を率いる安宅一族に三好家から入った養子です。安宅氏は阿波と畿内を繋ぐ水運を担い水軍をも所有しておりました。ほかにも別稿で紹介する予定の有能な弟たちもいるのですが、三好長慶にとってこの二人の参陣はとても心強いものであったと想像します。それと同時にこの三兄弟にとってその絆を強固にした共通体験が存在していました。それは父親である三好元長の死です。二人の弟たちはおそらくは、その死に責任をもつ三好政長を嫌っていたものと思います。三好長慶とて三好政長の排除を求めて挙兵した経験があります。しかし現実は厳しいものでした。身をもってそのことを知ったがゆえに、長慶は二人の弟たちを宥めて協力を求めていたはずです。しかし、それは後々になって破綻することになるのですが、それも別稿で記したいと思います。

 尾州畠山稙長の死によって、遊佐長教の立場はかつての木澤長政に匹敵するほど強化されておりました。総州畠山尚誠は大和に没落した在氏の息子で河内国への影響力はほとんど失っており、細川晴元の庇護を得て辛うじて存続できている存在です。ただ、摂津国人衆を籠絡しつつ、細川氏綱を担ぎ京に上野元治を派遣。それに恐れをなした細川政元が都落ちし、足利義晴が遊佐長教の企てに賛同してくれたまではよかったのですが、その後の展開が全て後手に回っておりました。このあたりの遊佐をはじめとした河内勢の事情を書いてくれている本はなかなか見つからないので勝手に想像するしかないのですが、細川晴元側が時間稼ぎのために河内国人衆の不満分子に調略を仕掛けていたのかも知れません。遊佐長教は畠山政国を傀儡にしたうえで細川氏綱を立てていますが、氏綱はごく一部の例外を除いて京兆家内衆を臣下としていない根無し草です。彼の味方をするとして、京兆家家督を継がせたうえで管領に据えるためにはいろいろな無理があります。第一に遊佐長教の主君は細川京兆家と同格です。畠山家は室町幕府で管領を出すことができる管領家の一角なのですから、助ける義理はあまりないのです。だから、遊佐長教のやり方に反感を抱く国人衆は細川晴元と接触してもおかしくはありません。畠山稙長から政国への継承もすんなり進められたわけではなく、中途で幕府の介入があって一時的に畠山四郎という人物が家督についたこともあったそうです。当然畠山家中には四郎なる人物を擁立する勢力がいて、遊佐長教はそれを排除して政国を据えたわけですが、近江の六角定頼が細川晴元の調略にあって足利義晴とたもとを分かったのと同様に、畠山四郎または尾州畠山一族の一部勢力が細川晴元に誼を通じ、これの対策に追われていたのかも知れません。

 気づいた時には、河内十七箇所に接する三好政長の居城である榎並城に入った三好三兄弟を中心とする細川京兆家勢力が南下をはじめていました。時に1547年(天文十六年)七月二十一日。遊佐長教は畠山政国を奉じて高屋城を進発します。両軍乾坤一擲を期し、摂津欠郡生野の舎利寺近辺にて大軍の激突となり、応仁の乱以来最大級の戦闘だった、と言われています。ただ、実勢は不明で、足利季世記には両軍力戦の結果、戦死者遊佐勢四百名、三好勢五十名というものもあれば、二条寺主家記抜粋には両軍二千名の戦死者とばらばらです。戦場の舞台になった舎利寺北方数キロのところに石山本願寺があるのですが、その時期における証如の日記を読んでも当日は通常営業をしていて「近代無双」の大合戦があった気配がありません。

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※国土地理院地図(https://maps.gsi.go.jp/)を加工

 足利季世記では、河内衆三木午ノ助、四国衆篠原雅楽助、安宅左京亮ら名のある武士の戦士が戦死者として記され、晴元方の畠山尚誠と松浦肥前守の武功が強調されています。畠山尚誠は総州畠山家復興という悲願を実現させるため先鋒を仰せつかったのでしょう。彼に味方する河内国人衆もいて士気も高かったと想像します。戦闘は数刻の間に終わったので、双方の後詰めが戦いあう展開にはならず、分が悪いと感じた遊佐勢が高屋城に引き上げて終わったと思われます。ここに至るまで遊佐長教は激変するパワーバランスの中をうまく泳ぎ渡り、盟友木澤長政を自らの手で討ち取って河内を掌中に収めた男でした。それだけにここまで無理に勢力拡大したことも理解していて、傷が深くなる前に勢力を温存して退散したのでしょう。そして、畠山政国とともに籠城の構えを見せます。これを三好軍が囲み、膠着状態になりました。

 天文初年に堺幕府が分裂した折、三好元長が派遣した三好一秀の軍が木澤長政の守る飯盛山城を囲んだことがありましたが、三好軍が河内入りするのはその状況の再現ということとなります。三好元長と一秀はその折に不覚をとり、死に至りました。三好元長の息子、長慶ら三兄弟が河内の城を囲む中、天文初年の惨劇にかかわりの深い人物が堺を訪れています。

 かつての堺公方、足利義維でした。そしてその背後には本願寺証如の影があったのです。

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2018年4月 7日 (土)

中漠:晴天航路編⑳勝軍山城の陣Ⅱ

 細川晴元は丹波神尾山城から摂津神呪寺を経て摂津越水城に居場所を移します。丹波衆は波多野稙通が死んで間もなく、今一つ信用が置けなかったためでありましょう。波多野稙通自身が以前に細川晴国が起こした反乱のバックアップをしていましたし、いつ氏綱側に寝返るかわからなかったのでした。東摂津の国人衆は既に細川氏綱方の調略にあっています。細川晴元が絶対裏切らないと信じうる三好政長は河内十七箇所の榎並城にいて、そこは遊佐長教の勢力圏と接する最前線でした。身の安全を考えると彼の居場所は三好長慶のいる越水城しかありませんでした。それとても、三好長慶の実父の元長を本願寺勢に命じて殺害させた張本人が細川晴元でしたから落ち着くに落ち着けないという所が本音だったでしょう。

 しかし、この時期の三好長慶は実直に細川晴元に仕えております。1539年(天文八年)には三好政長が任されていた河内十七箇所の代官職を自らのものにすべく上洛の兵を起こしたくらい細川晴元の権威を認めておりませんでした。その折は三好長慶も若年であり、石山合戦の頃から三好軍を指導していた三好伊賀守連盛が元長の仇である細川晴元や三好政長を嫌っていたせいであるのかもしれません。それも河内十七箇所代官任命騒動の決着の折に失脚して堺に亡命したといいます。それ以後細川政元は三好長慶を懐柔しました。その意を受けて三好政長も家督を息子に譲り、自らは出家して三好宗三と名乗ります。ただ、細川晴元は三好宗三を長慶よりもより近くに置くという態度だけは崩しませんでした。

 細川氏綱の挙兵以後、細川晴元はこれに呼応する諸侯の鎮圧に三好長慶を起用するようになります。しかし、その時は必ず三好宗三とペアで使うことにしておりました。やはり手放しで使える人材とは考えていなかったのでしょう。ただし、三好宗家には三好長慶だけではなく、三好之虎(実休)、安宅冬康、十河一存ら兄弟がいて、天文年間も後半になると彼らがそれぞれ阿波守護家、淡路水軍、讃岐衆の重役として頭角を現してきており、淡路や四国から援軍を出して長兄を助けられるようになると三好長慶自身も必ずしも三好宗三や細川晴元に頼る必要が無くなってきます。それだけに細川晴元は三好宗三と長慶のバランスを考えながら使ってゆくことをより慎重に考えざるを得なくなっていました。

 とは言え、都落ちしている細川晴元としては一刻も早い京都奪還を目指す必要がありました。幸い上洛ルートにいる氏綱派の摂津・山城国人衆は河内の遊佐軍のようなまとまった力を持っているわけではありませんでした。加えて四国から三好之虎が兄長慶を助けるために援軍を送ってきました。これに力を得た細川晴元は三好兄弟に反撃を命じます。三好長慶・之虎兄弟は瞬く間に原田城(豊中市)、三宅城(茨木市)を抜きます。三宅城を守っていたのは第一次石山合戦で本願寺勢に加わり、その調停に奔走した三宅国村です。彼は逃亡して潜伏しました。

 その間京では足利義晴が氏綱方につくことを宣言し、氏綱派の上野玄蕃の進駐に対し洛中の町衆が反発、延暦寺が洛中法華衆に吹っかけてくる難題に六角定頼が仲介するという出来事が立て続けに起きる今一つピリッとしない状況でした。恐らくはこの時点で六角定頼と細川晴元との交渉が始まっていたものと思われます。細川晴元としても京の町衆をどうするのか、再び天文法華の乱を起こすことの損得は思い知っております。何しろ、京を焼いて以来、京が外敵に襲われる度に細川晴元は都落ちを余儀なくされるのです。

 元々京の土地は外敵からの防御が難しい上に、洛外で防御陣を敷いても、町衆に憎まれていてはいつ背後から襲われるともしれません。せめて洛外に防衛線を張れる程度には京の町衆とは良好な関係を保ちたいと思うのも人情でありましょう。そう考えると延暦寺が突然思いついたように洛中法華の末寺化要求などをぶち上げたのも、最初から書かれたシナリオに沿ったものであったとも考えられますね。延暦寺としては交渉で洛中法華から金をせしめることができるし、六角氏は仲介の労をとったことで虐殺の汚名を和らげることに成功しました。後は、形式上の岳父である六角定頼と細川晴元が和解をすれば、京の体制をより強化することができます。足利義晴はよい面の皮でした。
 原田、三宅両城を落とした後も摂津国人衆の調略は続き、六月には池田城の池田信正と芥川城を占拠していた薬師寺元房を降伏させて山城への出入り口を確保します。この状況下にあって京で六角定頼は延暦寺と京の法華衆との和解交渉を進めていたわけです。

 東摂津には三好軍を従えた細川晴元が着々と反撃の準備を整えていました。京の町衆にとって三好は「京を侵略する悪の軍団」と同義です。洛中法華にしてみれば、ここで延暦寺の要求を全て突っぱねれば第二次天文法華の乱が起こりかねないと考えられても不思議はないでしょう。天文十六年の延暦寺と洛中法華の和約に六角定頼が仲介した意味は、延暦寺の要求を洛中法華が呑む限りにおいて六角定頼が管領代として京を守ることを約束したものと同義です。なのでこの和約は洛中法華にとって何としても結んでおかねばならないものでした。と、同時に六角定頼にはその約定を守る義務が生じていたのでした。その前提で現在の戦況を見るならば、明らかに足利義晴方は不利です。細川晴元が京に送ったのは三好衆ではなく、丹波衆でした。京の町衆の抵抗感を和らげる配慮があったものでありましょう。この時点の丹波は前年に去就の定まらない波多野稙長が死んでおり、細川晴元方が勢力を維持できていました。上野元治の上洛は細川晴国の乱の時と違って、丹波も抑えられていない状況下での上洛であったわけです。

 上野元治は洛西を焼かれるとそのまま撤退してしまいました。六角定頼はこの丹波軍側に寝返ります。もとより足利義晴の戦術には無理がありました。北白川に城を作って西からくる敵に相対峙するということは、京の町を戦場にすることと同義です。結局の所、足利義晴は孤立し、勝軍山城を自焼きして坂本への撤退を余儀なくされるのでした。足利義晴が修復した勝軍山城は京の寺社、町衆を総動員した絢爛豪華なものであったと伝えられていますが、自らの手で灰燼に帰してしまったとのことです。そんなムダな公共工事をするなら自分の所に回せー! という延暦寺の叫びが聞こえてきそうな一事でした。

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※国土地理院地図(https://maps.gsi.go.jp/)を加工

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