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2018年4月 7日 (土)

中漠:晴天航路編⑳勝軍山城の陣Ⅱ

 細川晴元は丹波神尾山城から摂津神呪寺を経て摂津越水城に居場所を移します。丹波衆は波多野稙通が死んで間もなく、今一つ信用が置けなかったためでありましょう。波多野稙通自身が以前に細川晴国が起こした反乱のバックアップをしていましたし、いつ氏綱側に寝返るかわからなかったのでした。東摂津の国人衆は既に細川氏綱方の調略にあっています。細川晴元が絶対裏切らないと信じうる三好政長は河内十七箇所の榎並城にいて、そこは遊佐長教の勢力圏と接する最前線でした。身の安全を考えると彼の居場所は三好長慶のいる越水城しかありませんでした。それとても、三好長慶の実父の元長を本願寺勢に命じて殺害させた張本人が細川晴元でしたから落ち着くに落ち着けないという所が本音だったでしょう。

 しかし、この時期の三好長慶は実直に細川晴元に仕えております。1539年(天文八年)には三好政長が任されていた河内十七箇所の代官職を自らのものにすべく上洛の兵を起こしたくらい細川晴元の権威を認めておりませんでした。その折は三好長慶も若年であり、石山合戦の頃から三好軍を指導していた三好伊賀守連盛が元長の仇である細川晴元や三好政長を嫌っていたせいであるのかもしれません。それも河内十七箇所代官任命騒動の決着の折に失脚して堺に亡命したといいます。それ以後細川政元は三好長慶を懐柔しました。その意を受けて三好政長も家督を息子に譲り、自らは出家して三好宗三と名乗ります。ただ、細川晴元は三好宗三を長慶よりもより近くに置くという態度だけは崩しませんでした。

 細川氏綱の挙兵以後、細川晴元はこれに呼応する諸侯の鎮圧に三好長慶を起用するようになります。しかし、その時は必ず三好宗三とペアで使うことにしておりました。やはり手放しで使える人材とは考えていなかったのでしょう。ただし、三好宗家には三好長慶だけではなく、三好之虎(実休)、安宅冬康、十河一存ら兄弟がいて、天文年間も後半になると彼らがそれぞれ阿波守護家、淡路水軍、讃岐衆の重役として頭角を現してきており、淡路や四国から援軍を出して長兄を助けられるようになると三好長慶自身も必ずしも三好宗三や細川晴元に頼る必要が無くなってきます。それだけに細川晴元は三好宗三と長慶のバランスを考えながら使ってゆくことをより慎重に考えざるを得なくなっていました。

 とは言え、都落ちしている細川晴元としては一刻も早い京都奪還を目指す必要がありました。幸い上洛ルートにいる氏綱派の摂津・山城国人衆は河内の遊佐軍のようなまとまった力を持っているわけではありませんでした。加えて四国から三好之虎が兄長慶を助けるために援軍を送ってきました。これに力を得た細川晴元は三好兄弟に反撃を命じます。三好長慶・之虎兄弟は瞬く間に原田城(豊中市)、三宅城(茨木市)を抜きます。三宅城を守っていたのは第一次石山合戦で本願寺勢に加わり、その調停に奔走した三宅国村です。彼は逃亡して潜伏しました。

 その間京では足利義晴が氏綱方につくことを宣言し、氏綱派の上野玄蕃の進駐に対し洛中の町衆が反発、延暦寺が洛中法華衆に吹っかけてくる難題に六角定頼が仲介するという出来事が立て続けに起きる今一つピリッとしない状況でした。恐らくはこの時点で六角定頼と細川晴元との交渉が始まっていたものと思われます。細川晴元としても京の町衆をどうするのか、再び天文法華の乱を起こすことの損得は思い知っております。何しろ、京を焼いて以来、京が外敵に襲われる度に細川晴元は都落ちを余儀なくされるのです。

 元々京の土地は外敵からの防御が難しい上に、洛外で防御陣を敷いても、町衆に憎まれていてはいつ背後から襲われるともしれません。せめて洛外に防衛線を張れる程度には京の町衆とは良好な関係を保ちたいと思うのも人情でありましょう。そう考えると延暦寺が突然思いついたように洛中法華の末寺化要求などをぶち上げたのも、最初から書かれたシナリオに沿ったものであったとも考えられますね。延暦寺としては交渉で洛中法華から金をせしめることができるし、六角氏は仲介の労をとったことで虐殺の汚名を和らげることに成功しました。後は、形式上の岳父である六角定頼と細川晴元が和解をすれば、京の体制をより強化することができます。足利義晴はよい面の皮でした。
 原田、三宅両城を落とした後も摂津国人衆の調略は続き、六月には池田城の池田信正と芥川城を占拠していた薬師寺元房を降伏させて山城への出入り口を確保します。この状況下にあって京で六角定頼は延暦寺と京の法華衆との和解交渉を進めていたわけです。

 東摂津には三好軍を従えた細川晴元が着々と反撃の準備を整えていました。京の町衆にとって三好は「京を侵略する悪の軍団」と同義です。洛中法華にしてみれば、ここで延暦寺の要求を全て突っぱねれば第二次天文法華の乱が起こりかねないと考えられても不思議はないでしょう。天文十六年の延暦寺と洛中法華の和約に六角定頼が仲介した意味は、延暦寺の要求を洛中法華が呑む限りにおいて六角定頼が管領代として京を守ることを約束したものと同義です。なのでこの和約は洛中法華にとって何としても結んでおかねばならないものでした。と、同時に六角定頼にはその約定を守る義務が生じていたのでした。その前提で現在の戦況を見るならば、明らかに足利義晴方は不利です。細川晴元が京に送ったのは三好衆ではなく、丹波衆でした。京の町衆の抵抗感を和らげる配慮があったものでありましょう。この時点の丹波は前年に去就の定まらない波多野稙長が死んでおり、細川晴元方が勢力を維持できていました。上野元治の上洛は細川晴国の乱の時と違って、丹波も抑えられていない状況下での上洛であったわけです。

 上野元治は洛西を焼かれるとそのまま撤退してしまいました。六角定頼はこの丹波軍側に寝返ります。もとより足利義晴の戦術には無理がありました。北白川に城を作って西からくる敵に相対峙するということは、京の町を戦場にすることと同義です。結局の所、足利義晴は孤立し、勝軍山城を自焼きして坂本への撤退を余儀なくされるのでした。足利義晴が修復した勝軍山城は京の寺社、町衆を総動員した絢爛豪華なものであったと伝えられていますが、自らの手で灰燼に帰してしまったとのことです。そんなムダな公共工事をするなら自分の所に回せー! という延暦寺の叫びが聞こえてきそうな一事でした。

Photo
※国土地理院地図(https://maps.gsi.go.jp/)を加工

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