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2018年4月14日 (土)

中漠:晴天航路編㉑舎利寺合戦

  将軍山城の足利義晴に対して差し向けられた細川軍は主力ではありませんでした。何と言っても河内を手中に収めた遊佐長教が畠山政国の保護者として細川氏綱を旗印にして虎視眈々と三好政長が守る河内十七箇所に攻めこむ体制を整えておりましたので細川晴元もここに戦力を集め対抗します。まずは尾州畠山政国に対抗して総州畠山尚誠を参陣させます。彼は木澤長政の傀儡として北河内を治めていた畠山在氏の息子です。畠山在氏は太平寺合戦で木澤長政が滅びて後、大和に逃れておりました。以後泣かず飛ばずだったわけですが、尾州畠山家との決戦ということで細川晴元が担ぎ出してきたわけでした。こうしないと河内攻めの大義名分が立たないという事情があったようです。

 次に細川一門衆を動員し、和泉細川家と阿波細川家にも援軍を要請しました。それに呼応したのが和泉からは松浦興信、そして阿波細川家が送り込んできたのが三好之虎と安宅冬康の両名でした。二人は三好長慶の弟です。三好之虎は出家後の号である三好実休といったほうが通りがよいのですが、この時はまだ出家前です。正確に言うとこの頃の名乗りは之相でした。ややこしいので、本稿では出家前は之虎で統一します。別名を義賢とも言うらしいのですが、足利将軍の許しを得ずして将軍家の通字である「義」は使えません。また、この時の将軍から見た三好之虎の立場は家臣(細川晴元)の陪臣(家臣の家来=三好長慶)の弟、またはせいぜい家臣(細川晴元)の分家(細川持隆)の陪臣という立場であり、三好家当主の長慶を差し置いて「義」の字を拝領できたとは考えにくい。もう一つの可能性としては、阿波平島に寓居している足利義維(この時点で名前を義冬に改名してますが、義維で統一します)から与えられたというものですが、これも同じ理由から考えにくいです。と言うか義賢は義維が元服後に最初に名乗った名前ですから、偏諱(かたいみな)どころか自分の名前をそのままくれてやったことになりますので、義晴以上にありえません。三好之虎は畿内で細川晴元に仕える三好長慶の代理として阿波国にある三好領の経営を任されていました。同時に阿波・讃岐守護細川持隆に仕えてこれを支えておりました。もう一人の安宅冬康は曾祖父の三好之長が淡路守護の細川尚春を謀殺して手に入れた淡路において海賊衆を率いる安宅一族に三好家から入った養子です。安宅氏は阿波と畿内を繋ぐ水運を担い水軍をも所有しておりました。ほかにも別稿で紹介する予定の有能な弟たちもいるのですが、三好長慶にとってこの二人の参陣はとても心強いものであったと想像します。それと同時にこの三兄弟にとってその絆を強固にした共通体験が存在していました。それは父親である三好元長の死です。二人の弟たちはおそらくは、その死に責任をもつ三好政長を嫌っていたものと思います。三好長慶とて三好政長の排除を求めて挙兵した経験があります。しかし現実は厳しいものでした。身をもってそのことを知ったがゆえに、長慶は二人の弟たちを宥めて協力を求めていたはずです。しかし、それは後々になって破綻することになるのですが、それも別稿で記したいと思います。

 尾州畠山稙長の死によって、遊佐長教の立場はかつての木澤長政に匹敵するほど強化されておりました。総州畠山尚誠は大和に没落した在氏の息子で河内国への影響力はほとんど失っており、細川晴元の庇護を得て辛うじて存続できている存在です。ただ、摂津国人衆を籠絡しつつ、細川氏綱を担ぎ京に上野元治を派遣。それに恐れをなした細川政元が都落ちし、足利義晴が遊佐長教の企てに賛同してくれたまではよかったのですが、その後の展開が全て後手に回っておりました。このあたりの遊佐をはじめとした河内勢の事情を書いてくれている本はなかなか見つからないので勝手に想像するしかないのですが、細川晴元側が時間稼ぎのために河内国人衆の不満分子に調略を仕掛けていたのかも知れません。遊佐長教は畠山政国を傀儡にしたうえで細川氏綱を立てていますが、氏綱はごく一部の例外を除いて京兆家内衆を臣下としていない根無し草です。彼の味方をするとして、京兆家家督を継がせたうえで管領に据えるためにはいろいろな無理があります。第一に遊佐長教の主君は細川京兆家と同格です。畠山家は室町幕府で管領を出すことができる管領家の一角なのですから、助ける義理はあまりないのです。だから、遊佐長教のやり方に反感を抱く国人衆は細川晴元と接触してもおかしくはありません。畠山稙長から政国への継承もすんなり進められたわけではなく、中途で幕府の介入があって一時的に畠山四郎という人物が家督についたこともあったそうです。当然畠山家中には四郎なる人物を擁立する勢力がいて、遊佐長教はそれを排除して政国を据えたわけですが、近江の六角定頼が細川晴元の調略にあって足利義晴とたもとを分かったのと同様に、畠山四郎または尾州畠山一族の一部勢力が細川晴元に誼を通じ、これの対策に追われていたのかも知れません。

 気づいた時には、河内十七箇所に接する三好政長の居城である榎並城に入った三好三兄弟を中心とする細川京兆家勢力が南下をはじめていました。時に1547年(天文十六年)七月二十一日。遊佐長教は畠山政国を奉じて高屋城を進発します。両軍乾坤一擲を期し、摂津欠郡生野の舎利寺近辺にて大軍の激突となり、応仁の乱以来最大級の戦闘だった、と言われています。ただ、実勢は不明で、足利季世記には両軍力戦の結果、戦死者遊佐勢四百名、三好勢五十名というものもあれば、二条寺主家記抜粋には両軍二千名の戦死者とばらばらです。戦場の舞台になった舎利寺北方数キロのところに石山本願寺があるのですが、その時期における証如の日記を読んでも当日は通常営業をしていて「近代無双」の大合戦があった気配がありません。

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※国土地理院地図(https://maps.gsi.go.jp/)を加工

 足利季世記では、河内衆三木午ノ助、四国衆篠原雅楽助、安宅左京亮ら名のある武士の戦士が戦死者として記され、晴元方の畠山尚誠と松浦肥前守の武功が強調されています。畠山尚誠は総州畠山家復興という悲願を実現させるため先鋒を仰せつかったのでしょう。彼に味方する河内国人衆もいて士気も高かったと想像します。戦闘は数刻の間に終わったので、双方の後詰めが戦いあう展開にはならず、分が悪いと感じた遊佐勢が高屋城に引き上げて終わったと思われます。ここに至るまで遊佐長教は激変するパワーバランスの中をうまく泳ぎ渡り、盟友木澤長政を自らの手で討ち取って河内を掌中に収めた男でした。それだけにここまで無理に勢力拡大したことも理解していて、傷が深くなる前に勢力を温存して退散したのでしょう。そして、畠山政国とともに籠城の構えを見せます。これを三好軍が囲み、膠着状態になりました。

 天文初年に堺幕府が分裂した折、三好元長が派遣した三好一秀の軍が木澤長政の守る飯盛山城を囲んだことがありましたが、三好軍が河内入りするのはその状況の再現ということとなります。三好元長と一秀はその折に不覚をとり、死に至りました。三好元長の息子、長慶ら三兄弟が河内の城を囲む中、天文初年の惨劇にかかわりの深い人物が堺を訪れています。

 かつての堺公方、足利義維でした。そしてその背後には本願寺証如の影があったのです。

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