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2018年4月28日 (土)

中漠:晴天航路編㉓池田家騒動

 舎利寺合戦の勝利により細川晴元の立場は強化されたはずでした。その立て役者は六角定頼です。彼が細川晴元側につくことで足利義晴が屈服し、京の町衆も晴元支持勢力として取り込むことに成功しました。あとは、河内国を平定することによって畿内における細川晴元政権は安定するはずでした。六角定頼がそこに乗り出すわけですが、洛中法華と比叡山との講和の取り持ちという成功実績が定頼自身の自信につながっていたものと思われます。京において足利義晴、細川晴元、比叡山延暦寺、洛中法華が一和をなした経済効果は小さくありません。その効果を戦争に吸い取られている状況は六角定頼にとって望ましいことではありませんでした。三好と遊佐が潰しあって消耗するのを待つ選択肢もありましたが、今回の三好には阿波細川家の支援がついております。畠山・遊佐が潰れるのを待てば、三好宗三を含めた三好勢のプレゼンスは管領代六角定頼を脅かしかねないことも懸念材料としてあったのでしょう。
 六角定頼は大和に向かい、そこに遊佐長教を呼びつけて講和の談判をしました。恐らく講和条件は細川氏綱を担がないことの一点だけだったと思います。そこがかなうなら畠山・遊佐体制の存続は三好家への牽制となって六角定頼にとっては都合がよかったわけです。そして、三好と遊佐の友誼の証しとして、三好宗家当主の三好長慶は遊佐長教の娘を娶ることになりました。

 政略結婚ということなのですが、以前も同じようなことがありました。第一次石山合戦の陰に隠れた細川晴国の乱への後始末として三好長慶は波多野稙通の娘を娶っていたのです。これを通して一時は細川晴国に靡いていた波多野稙通は細川晴元の家臣として復帰することができたわけでした。その後の展開は野党的な扱いでありましたが、波多野稙通はその後反乱などは企てることもなく没しています。三好長慶は遊佐長教の娘の婚姻以前に波多野稙通の娘を故あって離縁をしております。遊佐の娘との婚姻を含め政略結婚だったと言われるゆえんでしょう。しかし、同様の効果が得られるかどうかについて、六角定頼は読み違えをしていたようです。まず、細川晴国の時は本願寺と三宅国村を通じて晴国を自害させておりました。しかし、今回は氏綱の身柄を拘束できず潜伏するのを許してしまっています。そして、河内の畠山氏は紀州、摂津・河内の三好氏は淡路・阿波という後背地を持った大規模勢力であることを見落としていました。そして三好長慶は三好宗家当主の立場でありながら、幕府においては細川晴元の命令を受けた三好宗三の指示で動く立場でありました。三好長慶が摂津越水に入った頃であれば、彼の弟三好之虎や安宅冬康はまだ幼少で阿波も淡路も掌握できておりませんでしたが、舎利寺近辺の戦闘で総力戦を戦わなければならない事態に陥った頃には三好軍になくてはならない支援勢力として育っておりました。そして弟たちは長兄ほど三好元長の死に関わる三好宗三の責任を我慢できるほど人格者ではありませんでした。三好宗三は自らを憎む一門衆の視線を躱しつつ、三好長慶をコントロールしなければならないという至難の業を強いられており、野党勢力である遊佐長教が三好宗家当主の岳父になることは、その難度が何倍にも高まることと等価でした。

 崩れつつある宗家と三好宗三のパワーバランスに対しては、細川晴元は何らかの手を打つ必要に迫られました。細川晴元は危機的状況下にあっては必ず悪手を打つという奇癖があります。初期の数手は細川六郎こと晴元本人というよりも筆頭祐筆茨木長隆の手によるものであろうと思われますが、今回のこの行動は紛れもなく細川晴元本人の責に帰する判断でした。すなわち、摂津国人池田信正を自邸に呼びつけ、先の離反の責任を問う形で自害を強いたのでした。池田家は摂津中央部北方に勢力を持っており、彼の妻が三好宗三の娘です。二人の間には長正という嫡男がいて、三好宗三との関係は深いはずだったのですが、細川氏綱を奉じた畠山・遊佐勢力が伸長すると三宅国村らとともに氏綱方に寝返ったことが細川晴元の逆鱗に触れ、一度は認めた帰参を覆したというのが表向きの理由でした。恐らくこれは裏の理由があると私は思います。すなわち、摂津池田領に三好宗三の意で動く勢力を確保することにあったのでしょう。池田信正のように情勢如何によって細川晴元を裏切られては困るのです。細川晴元は宗家当主ではない三好宗三を重用し、三好長慶に宗三の命令をきかせることで、三好家を意のままに動かし、宗三もその立場の不安定さから細川晴元を裏切ることができない状況にありました。その宗三と三好宗家のパワーバランスが崩れつつある中、池田家家督を信正から取り上げて宗三の外孫にあたる長正に移すことで池田家における三好宗三の影響力を高めることを期待したわけです。恐らく当初は穏便に家名存続を条件に出家隠遁を迫ったものの、拒まれたために自害を命じたものと思われます。

 しかし、事態はこれだけでは収まりませんでした。池田信正の処刑は池田家のみならず、摂津国人衆に大きな動揺を引き起こします。天文年間を振り返れば摂津国人で細川晴元を見放したことのない者の方が少数派です。まずきっかけとなった池田家で御家騒動が発生します。次期当主は否応もなく長正に決したものの、三好宗三に近しい三宅家家臣の一派を悉く池田領から追い出したのです。これは池田家の細川晴元に対する手切れの表明にほかなりませんでした。そして三好長慶ですが、池田信正が籠もっていた池田城を開城させたのはほかならぬ長慶でした。その条件として信正の生命の保証があったはずなので、メンツが丸潰れになっていました。岳父や弟たちからの示唆や池田家中からの求めもあったのでしょう、池田家騒動の翌日、三好長慶は細川晴元の奉行衆に充てて三好宗三入道への弾劾状を出します。すなわち、その書状の内容は池田信正の死の原因は三好宗三が池田家乗っ取りを策して細川晴元に讒言をしたためであるから、これを処断すべし、と。

 三好長慶の言い分は、細川晴元の命令による池田信正の処刑の責任を三好宗三一人に負わせるということでした。すなわち処刑を命じた細川晴元に責任はないと言っているにも等しかったわけです。にもかかわらず細川晴元は三好長慶の提案を拒否します。この行動によって細川晴元が三好家のことをどんな風に考えていたのか、弁解の余地なく露わになってしまいました。こうなってしまえば決裂は必然です。六角定頼が敷いた和平路線はわずか四か月で破たんするにいたります。ひとたび傾いたパワーバランスは六角定頼の弥縫策程度では、如何ともし難いほど勢いがついていたのでした。

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