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2018年4月21日 (土)

中漠:晴天航路編㉒左馬頭、萬に不弁

 前稿のヒキは詐欺のようなもので、実際に足利義維や本願寺が何かをしたということもなく、何かが出来た状況でもありませんでした。本稿では実際にあった事、ありえただろうことを峻別しつつとり進めてゆきたいと思います。

 河内で遊佐長教が細川氏綱と尾州畠山政国を奉じて挙兵し、京近辺では氏綱派の上野元治が上洛軍を起こすと、細川晴元は不利を感じて丹波へ逃れますが、将軍足利義晴は京に残ります。足利義維は阿波平島にいてこのチャンスをずっと待っていました。細川晴元と足利義晴が決別したということは、細川晴元は新たな旗印を必要とするはずです。それは自分自身以外にいないと足利義維が考えたとしても不思議ではないでしょう。足利義維は上洛の意向を阿波守護細川持隆と三好之虎に伝えたものと思われます。そして、どうやら断られたらしい。「思われます」や「らしい」、などと言う推測文を使うのは、その後、足利義維が1547年(天文十六年)二月二十五日に本願寺証如に宛てて上洛の意向を伝え、そのための斡旋を依頼しているという事実が証如の日記に記されているからです。足利義維にとって、本願寺証如は政治的つながりの極めて薄い人物でした。堺幕府崩壊の直接の原因を作ったのがその証如本人の檄文です。その後本願寺は細川晴元に討伐されたとはいえ、その頃には主従関係は途切れ、細川晴元は新たに足利義晴を主人と仰いでいました。なのでその間本願寺と足利義維は何の関係修復もできていませんでした。阿波を治める細川持隆や三好之虎らが足利義維の意向を受諾していたとすれば、本願寺に上洛の斡旋を頼む理由などはないと言えます。

 本願寺にしても細川晴元と氏綱との争いの中で去就の定まらぬ門徒系摂津国人たちの動向にやきもきしておりました。細川晴元が京都を脱出する直前に三宅国村が晴元方から氏綱方に鞍替えしています。彼は摂津教行寺という本願寺教団寺院の坊官の娘を妻にしており、第一次石山合戦においても本願寺方で戦った人物です。教行寺は興正寺とともに、幕府と本願寺の和睦を仲介した寺でもあるので、摂津国人のこうした動きは細川晴元の本願寺に向ける疑惑の視線を強めてしまうので、本願寺にとって迷惑な話でした。そして二月二十二日に三宅国村の守る摂津三宅城は三好軍の反攻で陥落してしまったのです。この時期細川晴元方の勢力は非常に不安定でした。恐らく本願寺は勝ち馬に乗りたい。少なくとも勝った方を敵に回すことだけは避けなければならないと意を固めたことでしょう。

 足利義維から上洛斡旋を依頼する書状が降ってわいたのは三宅城陥落の三日後でした。まずは、なぜよりによって本願寺にと言う疑問が浮かびますが、恐らくは阿波細川家の支援が受けられていないのだと察せられます。しかし、これを奇貨として手元に居くだけでも結構なリスクがありました。なので証如はあえてこれを黙殺していた訳なのですが、その翌月に足利義晴は勝軍山城に陣を敷いて反晴元であることを宣言してしまったので、細川晴元がとりうる政策の選択肢として足利義維を担ぐ可能性が出てきました。そして、管領代の六角定頼が細川晴元方に寝返ると、足利義晴は勝軍山城を自焼きして坂本に引きこもってしまいます。足利義維としては、将軍交代の実現可能性の高まりを感じずにはいられません。
 七月二十一日、本願寺の庭先である舎利寺近辺で三好軍と遊佐軍が激突してしまいました。本願寺にとってはどちらが勝っても面倒くさい話です。もともと本願寺の前身である石山御坊は蓮如が旧畠山宗家の血を引く蓮能と一緒に河内方面の村や国人衆を教化して細川政元の味方につけるために建てられた寺院です。なので、ここにかかわりの深い河内衆は結構いますし、そういう事情だから石山戦争を戦い抜くことができましたし、逆に多大な犠牲を払って戦争を終わらせざるを得ない羽目にも陥った訳です。それだけに旗幟を鮮明にする時期とやり方を慎重にしなければなりませんでした。証如の日記に舎利寺合戦の話がないのは書かなかった訳ではなく、書けなかったのではなかったかと思います。舎利寺合戦は三好方が勝利し、戦場は河内高屋城に移ります。三好軍が河内門徒を圧迫すると面倒なことになる懸念はありますが、とりあえず今までのスタンスを通せることに本願寺が胸をなでおろしたところに、もう一波乱発生します。

 1547年(天文十六年)十一月三日足利義維が阿波平島を出て堺に上陸したのでした。これはその四か月前に足利義晴が逃亡先の坂本から京に戻ったことが影響したものと思われます。その時の足利義晴は傲慢な挙動に出て、敵対していた細川晴元らに対して「お前たちの罪は許してやるので京に戻ってやる」という居直りを前面に押し出した科白を言ってのけたのでした。実質敗北した足利義晴にこういう言葉を吐かせる余地はないはずですが、それにもかかわらず、そんな態度を貫けたのは六角定頼が帰洛を求めたからでしょう。
 足利義維は堺に入りました。かつては京兆家の細川六郎(晴元)、阿波守護細川持隆、その家臣三好元長らと幕閣衆らを引き連れて幕府組織をそのまま作れるような陣容だったのですが、この時は本当に義維単独でした。すがるべきは、細川晴元しかいませんでした。しかし、舎利寺合戦の勝利で細川晴元は余裕を持つことができていたのです。ぶっちゃけ、足利義晴が細川氏綱を認めないと言ってくれるならそれで十分だったのです。むしろ足利義晴が細川晴元方につくことで、反抗する河内衆の戦意を削ぐこともできます。細川晴元は今度の戦いで三好家に大きな借りを作ってしまったので、これ以上問題を長引かせることは自身の致命傷にもつながりかねませんでした。なので、足利義晴が表面を取り繕ってでも実質降参したのなら、それを受け入れない理由はなかったのです。
 本願寺はそんな情報も得て安心していたのですが、そんな証如の前に意外な人物が現れます。前関白九条稙通でした。実は彼の父親である九条尚経が証如を猶子としていました。彼が関白に就任したのは天文一揆のさなかでした。父親が反乱を起こしている本願寺の証如ということもあり、京内では法華宗が自検断体制をとって山科本願寺を焼き払っていたということもあって、関白在任中はほとんど禁裏に出仕できる状況ではなく、1534年(天文三年)に両一年で関白職を辞して摂津・播磨方面をうろうろすることになります。そんな経歴を持つ彼が石山本願寺に押しかけて、足利義維が堺にいること、そして万事に「不弁」(経済的に困窮していること)な境遇にいることを告げられると、証如としては平伏せざるを得ませんでした。証如は足利義維のために銭千疋を用立ててこれを贈ります。流石にそれ以上の助力はできる状況ではありません。その一方で足利義維は頭を下げた証如の姿を見て状況を悟るしかありませんでした。

 足利義維は失意のうちに淡路に去ったことが証如の耳に入ったのはその翌月でした。舎利寺合戦という大規模戦闘があったにもかかわらず、色々な人間が自分の都合でそれを糊塗していました。政治の季節がこの時期の畿内一帯におとずれていたのです。

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