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2018年5月27日 (日)

中漠:晴天航路編㉗はてなの宗三Ⅱ

 三好宗三の墓所の宗旨は三好家が代々帰依していた真言宗でも、今谷明氏らが昔から縁があったと強調している法華宗でも、後に三好長慶が帰依することになる大徳寺派臨済宗でもありません。堺にある善長寺という西山派浄土宗がその宗旨です。同寺は後に鎮西派総本山の知恩院寺末になるのですが、三好政勝が父宗三の菩提を弔うために建立した寺院です。例外はあるものの法号に「宗」がつくのは大徳寺・妙心寺派臨済宗の特徴であり、彼は大徳寺に帰依した武野紹鴎や津田(天王寺屋)宗達とも親交があったはずなだけに、意外と言えば意外です。このあたりの事情は色々想像できそうですが、想像の域をでないので深入りはしませんが、畿内において嫌われぬいた三好家にいて、自分は違うのだとして活動した結果、彼は政治的な立場以外に別な顔で歴史に名を残すことになります。それは数寄者、すなわち風流を愛で、風雅を好むありようで、武辺とは対極にある立ち位置です。

 本稿では、そんな数寄者としての三好宗三を描写したのち、その実態を考察してみたいと思います。前稿では今川義元の佩刀となった義元左文字(宗三左文字)を紹介しましたが、今回は茶器について紹介します。

2.松島壺
 1568年(永禄十一年)に織田信長が上洛した時、信長の上洛を祝って堺の商人今井宗久が茶壺を贈ります。銘じて松島壺。山上宗二が後年記した山上宗二記によると、釉薬が垂れた部分がいくつもの瘤を作っていてその様が世に絶景と謳われている陸前国(宮城県)松島のようである所から銘じられたらしい。元々は足利義政の家宝でそれを三好宗三が所持し、息子の政勝(後の政康・宗渭)に伝えられたものを武野紹鴎が引き取り、娘婿の今井宗久が受け継いで織田信長に送られたという経緯らしい。これが三好宗三の持ち物であったことは間違いないようで、1549年(天文十八年)二月十八日の朝に三好宗三が津田宗達、武野紹鴎らと開いた茶会にこの壺を用いた記録が天王寺屋(津田宗達の屋号)茶会記という書物に記されています。このほかに松永久秀からも茶入れが贈られます。九十九髪茄子茶入と銘じられた当時においても国宝級の宝です。これもまた、三好宗三所有のものであったそうです。元々は足利義満が使っていたもので、受け継いだ足利義政が山名政豊に譲りこれを村田珠光が銭九十九貫で買い取ったことで、九十九という銘がついたらしい。さらにこれが三好宗三に渡り、朝倉宗滴から越前国の小袖屋を通じて松永久秀の手に渡った折には一千貫の値がついていたということです。
 織田信長の佩刀が三好宗三由来の義元左文字であることを知った今井宗久と松永久秀が示し合わせて三好宗三所縁の珍宝を献上して歓心を買ったという所でありましょう。これに気をよくしたのか、織田信長はその翌年に天下の名物を集めるようにと指示します。

松島壺の来歴:
 足利義政→三好宗三→三好政勝(宗渭)→武野紹鴎→今井宗久→織田信長(消失)山上宗二記

 気になるのは、これらの宝がどんなルートで三好宗三の手に渡ったのかです。松島壺は元々東山御物、つまり足利義政が保有していた宝物蔵の宝であり、これが戦乱の中で散逸していたのを三好宗三が手に入れたと山上宗二は自著に書くのですが、それ以外の書物でその事実を追いかけられません。山上宗二は天文十三年生まれなので、三好宗三が戦死した時はわずか六歳の小僧に過ぎません。堺商人である山上宗二が『松島壺は東山御物であり、三好宗三の手に渡っていたものである』と記録に記すためには、どこかしらに元になる記録があるはずなのですね。

 そして、もう一つ不自然なのは、1549年(天文十八年)二月十一日から十三日の三日間、三好宗三は津田宗達・武野紹鴎らと茶会を開いたという話です。前年の十月に三好長慶が摂津越水(西宮市)で三好宗三弾劾の兵をあげ、その月内には摂津国人衆の大方は三好長慶方についてしまっていました。三好宗三はその時まで在京だったのですが、翌正月二十四日に丹波国を経由して摂津池田城下を放火しています。例の茶会はこの後ということになるのですが、彼らはどこで茶会を開いていたのでしょうか?

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※国土地理院地図(https://maps.gsi.go.jp/)を加工

 考えられる場所は、京、榎並城、堺くらいです。しかし、京の場合は、敵を前に出陣した大将が前線を抜け出すことになるので考えにくい。榎並城であれば十一日の茶会に宗三が後に東山御物の松島壺を堺から来訪した商人たちに披露という意味であり得るかも知れませんが、その翌日に津田宗達が、翌々日に武野紹鴎が交代で亭主となって茶会を開いています。その茶会に武野紹鴎は紹鴎茄子と後に呼ばれる名物茶器を持ち込んでいるわけです。これから戦場になる場所に壊れやすい名物茶器をわざわざ持ち込むことが考えられるのかという部分が気になります。堺と考えた場合には、宗三が堺に向かうのにわざわざ丹波を経由して軍を進めた理由がわからなくなります。京から堺へ向かうには摂津経由のほかに河内経由のルートがあるはずで、淀川南岸沿いに下ってゆけば河内十七箇所に榎並城があり、そこから堺に向かえば反乱の地である摂津は避けることができます。それを避けたのは河内の遊佐長教も反乱に加わっていたからとも考えられます。現に、茶会の五日後に三好長慶と遊佐長教の二人は堺で逢っています。いかに堺が政治的中立を保つ自治都市を謳っていたとしてもこれは考えにくいのです。
 もっとも、これは足利季世記や細川両家記の記述が正しいことを前提としたものであり、今後の研究や新資料の発見によって江口合戦に至る展開が訂正される可能性も無きにしもあらずなのですが、現在の所それらに代わる史料は見当たりません。よって足利季世記・細川両家記の記事よりも天王寺屋会記の記述の方が誤っているのでないかと私は疑っています。次稿ではそれを前提にした考察を進めてゆきたいと思います。

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2018年5月19日 (土)

中漠:晴天航路編㉖はてなの宗三Ⅰ

 江口合戦において三好宗三が討ち死にしたことにより、細川晴元は京を維持できなくなり、大御所足利義晴、将軍足利義藤(後の義輝)とともに都落ちすることになります。

 本稿では少し別な角度から三好宗三という人物を中心として記述をしてみます。
 いきなりの脱線で恐縮ですが、私が好きな落語に『はてなの茶碗』という咄があります。特に故桂米朝による語り口が逸品で京商人と上方商人の気質の違いを上手く演じ分けられていてとても楽しい咄です。あらすじをざっくり言うと、京の古物商、茶道具屋の金兵衛、通称茶金さんが上方から京に流れてきた油売りが持ち込んできた清水焼の数茶碗(単位売りされる安手の茶碗)を元手に千両の価値を生んでしまうというものです。
 元々は量産品の一山数文程度の茶碗であり、茶金さんが清水寺の茶店でたまたま手にした茶碗だったのですが、何が気になったのか表を見、裏を見て考え込んだ挙げ句に「はてな?」と言い残して立ち去ったのを、目撃した油屋がきっと価値があるものに違いないと茶屋の主人から強奪するように(一応、二両という数茶碗の単品としては破格値で買い取ってます)持ち去り、それを茶道具屋に持ち込んで売りつけようとしたのですが、その茶碗は入れた茶が洩る疵物でした。しかし、表面にも裏にもそれらしい傷はなく、釉薬にムラもないので「はてな?」と首をかしげてそのままにしたものだったのです。このオチに油屋は「天下一の茶道具屋の金兵衛ともあろうものがそんなややこしい茶の飲み方をするな」と無茶ぶりの逆ギレをするのですが、それも一理ありとした茶金さんが二両の値でその茶碗を買い取ることにします。二両は茶碗の目利きとしての自分への評価に対する対価であるとしたのですね。
 この話を付き合いのある関白鷹司公にするとこれを面白がって風雅な和歌がつき、さらに天聴にも達して時の帝から万葉仮名で「はてな?」と記された箱書きがすわってしまい、途方もない値打ちがつくいたところを鴻池善右衛門が売れと言う。茶金さんが帝の箱書きが付いたものを売買の対象にできないと答えると、千両で質として受け取るからとっとと質流れにしろと要求し、かくして茶金さんの手元に千両の小判が残ったという次第です。

 話の前ふりとしては少し冗長でしたが、以上の話の眼目はいわゆる古物・骨とう品の価値を決めるものは製品そのものの品質ではなく、来歴とそれに付随する物語であるということなのですね。そして現代の日本にも残っている茶道具、骨とう品の物語に三好宗三が深くかかわっているのです。

1.宗三左文字
 木澤長政が滅び、法華宗徒の赦免がなされた翌年、1543年(天文十二年)に駿河国から旅の僧がやってきます。その名を無人斎道有、武田信虎のことです。後世の歴史においては、息子に甲斐国を追われて失意を癒すためのセンチメンタルジャーニーみたいな感じになっていますが、実際は駿河に娘と婿がいて何不自由のない暮らしをさせてもらっていて、その婿と甲斐にいる息子は良好な関係を保っておりました。端的に言えば隠居して自由な立場になったわけです。以降私の脚色が入りますが、これが天文の世の赤澤総益目指して意気込んで細川晴元に自分を売り込みに行ったわけですが、当時の幕府はほとんど形骸化していました。三好や木澤の反乱が相次いで京の復興もままならず、晴元自身に軍事力はほとんどなくて攻められるたびに京都を出て行っている始末です。流石に道有入道もあきれ果てて、旅の目的を息子の嫁姉妹の婿と婿候補の品定めに切り替えます。つまり、細川晴元と本願寺証如です。前に記事を書いた時にも触れましたが、この人はこういうことをするのが好きなようなのですね。

そんな傷心の武田入道に三好政長が一振りの日本刀をプレゼントします。左文字派という南北朝期の筑前の刀工を祖とする一派によるもので、刀工の名は伝わっていない刀でした。この刀は三好政長の出家後の法号から銘じて宗三左文字と呼ばれます。これが信虎から婿殿の今川義元に譲られました。今川義元はこの宗三左文字が痛く気に入ったらしく、戦場に佩刀として持ち歩くようになります。永禄三年の桶狭間の合戦において、今川義元は敗れて討ち死にするわけですが、義元の佩刀は戦利品として織田信長の手に渡りました。以後、豊臣・徳川と天下人の手に渡って現在国宝となったりするわけですが、この話にはちょっとした矛盾が含まれています。

 と言うのは、三好政長が武田信虎に刀を送るチャンスがあったのは、彼がまだ俗人であったころではないかと思われるのです。三好政長はこの翌年、つまり1544年(天文十三年)に嫡男政康(正確にはこの頃は政勝と名乗っています。)に譲っているのですね。普通に考えて家督を譲る前に出家はないだろうと思われるからです。まあ、1543年(天文十二年)の信虎上洛の折には誼を通じるだけであった、出家後に駿河に刀だけ送ったという話で済むかもしれません。ただ、それだとどんな名目で信虎に送ったのだろうか、それがなんで今川義元に譲られたのだろうかと思ってしまうのですね。信虎は義元より長生きしていますので、形見分けというわけではないでしょう。宗三もなぜ直接義元に送らなかったのか。信虎でワンクッションおく意図がいまいちわかりません。なのでこの左文字は武田信虎の畿内旅行中に三好政長が今川義元に贈与すべく信虎に託したと考えるのが一番自然ということになります。按ずるに銘は後世の人間がつけたから、というところでしょうか。

宗三左文字の来歴:
 三好宗三→武田信虎→今川義元→織田信長→豊臣秀吉→豊臣秀頼→徳川家康→徳川家→建勲神社(現存)

 あるいは、元々この刀は義元左文字として伝わってきたもので、その刀を贈ったのがたまたま三好政長であったから、宗三左文字という別名でも呼ばれるようになったという考え方もできます。好事家の間では三好政長ではなく、三好宗三と呼ばれるのが通りが良いので、政長と呼んでいたころに譲られた刀であっても後付けで宗三左文字と呼ばれるようになったという説明ならそれはそれでしっくりきます。
 では好事家の間で通りの良い宗三という人物イメージはどのように形成されたのか、次稿で考察してみたいと思います。

1543年(天文_十二年)_六月_____武田信虎、京に上る。この月、本願寺証如と面会。
___________八月__九日_武田信虎、奈良遊歴。
______________十五日_武田信虎、駿河に戻る。
1544年(天文_十三年)_五月_____三好政長、家督を政康に譲り、出家して宗三と名乗る。
1560年(永禄__三年)_五月_十九日 桶狭間合戦。織田信長、宗三左文字を今川義元より分捕る。

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2018年5月12日 (土)

中漠:晴天航路編㉕江口合戦

 1548年(天文十七年)十月二十八日、細川晴元に宛ての三好宗三弾劾要請が拒絶されたことを受けて、三好長慶は摂津越水城から出陣しました。先鋒を務めるのは讃岐守護代十河一存。彼は三好之虎、安宅冬康と同じく三好長慶の弟で、鬼十河と恐れられる猛将でした。事前に根回しをしていたらしく、摂津国衆の大半は三好長慶方につきます。三好長慶になびかなかったのは茨木城の茨木長隆と伊丹城の伊丹親興くらいでした。三好長慶は岳父遊佐長教、松浦興信にも与同を呼びかけました。狙いは摂津・河内双方へ睨みを利かせられる河内十七箇所の制圧です。ここは三好宗三(政長)の息子政勝が守備する榎並城により統治されておりました。三好長慶は要するに細川晴元に三好宗三を罰しないとまず宗三の息子を血祭りにあげて上洛するぞと脅していたのです。十二月に入って京の東福寺に禁制(そこには乱暴狼藉をしないことを保証する文書)を発給していますので、目的地は京、というより京にいる三好宗三がターゲットでした。

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※国土地理院地図(https://maps.gsi.go.jp/)を加工


 一月二十二日に摂津芥川城(大阪府高槻市)の芥川孫十郎から互いに警戒すべき旨の連絡が入ります。京で軍が動いたことを察知したのでしょう。その二日後に京にいるはずの三好宗三が丹波国を通り、一庫城(兵庫県川西市)経由で池田城に放火します。摂津国人の多くが長慶側につき、河内方面も遊佐長教が押さえていたため、自分の居城であり、息子の政勝が守備する榎並城に戻ろうとしていたのでした。伊丹親興の助けを借りて二月下旬には柴島城を攻め落とします。一方その頃、三好長慶は堺にいて遊佐長教と今後の方針について会合を行っております。遊佐長教はそれからすぐさま河内十七箇所に侵攻して榎並城を囲みました。

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※国土地理院地図(https://maps.gsi.go.jp/)を加工

 三月に入って三好長慶は宗三が占拠した柴島城を奪還して榎並城包囲網に加わります。宗三は榎並城から切り離されて孤軍化、やむを得ず晴元派の摂津国人伊丹親興のいる伊丹城まで退きます。三好軍と遊佐軍は榎並城に猛攻を加えますが、三好政勝は持ちこたえます。というより、榎並城を囮に宗三や細川晴元をおびき寄せることにしたのでしょう。この策にまんまと細川晴元までがおびき寄せられてしまいます。

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※国土地理院地図(https://maps.gsi.go.jp/)を加工

 四月二十六日に細川晴元も丹波経由で摂津一庫城に入り、武庫郡に向けて攻勢に出ます。翌日伊丹親興が尼崎を焼き、晴元軍はそのまま東進して三宅城(大阪府茨木市)を攻め落としました。ここはもともと三宅国村の居城だったのですが、舎利寺合戦の直前に遊佐長教についたせいで三好長慶に落とされていました。細川晴元の攻勢の時点で三宅国村が三宅城主に復帰していたかは明らかではないのですが、後に彼は三好長慶方についてこの城を取り戻します。細川晴元派攻め取った三宅城を香西元成(下香西氏、香西元長(上香西氏)とは別系統の細川家被官)に守らせます。これにより今度は芥川城を守る芥川孫十郎が東西に挟まれることになります。香西元成は芥川城攻撃のために兵を出しますが、この攻撃は三好一門の三好長逸により、惣持寺西川原あたりで防がれます。地名から見て安威川河川敷のJR東海道線と阪急京都線に挟まれたあたりの西岸ではないかと思います。防いだとは言え、芥川城が落ちれば京から摂津ルートで軍が通れるようになりますので、余談の許さない状況となりました。三宅城に後詰め勢として五月五日に三宅宗三が、二十八日に細川晴元が三宅城に入ります。一方、この頃本願寺が細川氏綱に太刀を贈り、氏綱方への旗幟を鮮明にしました。状況的に柴島を三好長慶に占領されて周囲の勢力が皆氏綱側になびいたことと、三宅城が本願寺方の城であり、それが細川晴元勢に奪われたことが証如を刺激したのかも知れません。

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※国土地理院地図(https://maps.gsi.go.jp/)を加工

 そしてそこで近江から西国街道を西進する六角勢の来訪を待つことになりました。この時、六角高頼は息子義賢に一万の軍勢を与えて援軍に向かわせることにしたのですが、その準備に手間取っておりました。そうしている間にも孤立した榎並城へ三好長慶、安宅冬康、十河一存ら三好兄弟と遊佐長教が攻め立てていました。榎並城から三宅城はそう離れていないだけに三好宗三は切歯扼腕します。

 細川晴元は六角義賢の援軍が来るまで待つようにと説得しますが、三好宗三は聞き入れませんでした。彼は高畑直長、平井新左衛門、田井源介、波々伯部左衛門尉ら細川晴元の馬廻衆と、先遣隊として派遣された六角氏被官新庄直昌らを引き連れて三宅城を出て川沿いに下って江口城に入ります。恐らくは榎並城包囲陣を牽制するためだと思われます。大編成の援軍接近に当たって、肝心の榎並城が陥落していては援軍の意味が無くなります。それどころか丹波ルートで摂津に入った晴元軍が次の標的として狙われる危険性もありました。しかし、この行動が三好宗三の致命傷になってしまいます。江口に入った翌日、六月十二日の合戦で新庄直昌が討ち取られてしまい、宗三は江口城に籠もるしかありませんでした。

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※国土地理院地図(https://maps.gsi.go.jp/)を加工


 江口城は三方を神崎川と淀川に挟まれた堅城として知られていましたが、柴島城が三好長慶に占拠されている情勢で、神崎川と淀川の水路を封鎖されると完全に孤立してしまう地形でした。加えて江口城への籠城は当初の予定にありませんでしたので、さほどの兵糧の準備もなく、数日を経ずして空腹で戦意が大きくそがれてしまいました。三好長慶は二人の弟安宅冬康と十河一存を神崎川対岸の別府村に陣を敷かせて糧道を遮断させてしまいました。もとより三好側には淡路の安宅水軍がついていましたので、水上における優位を容易に確保できる状況でした。そして陸続きに三好長慶がいる柴島城と対峙していたのです。三好勢にとっては望外の獲物が釣れた心地であったでしょう。

 三好長慶はこの段階に至っても積極的に三好宗三を攻めようとしませんでした。彼はあくまで細川晴元からの和議、宗三達の排除の条件を呑むことを待っていたようです。しかし、細川晴元は最後までそれを拒みました。六月二十四日には六角勢一万が山崎に到着する見込みとの知らせが飛び込んできました。細川晴元が宗三を救いたいなら三宅城を出て別府村近辺に軍を置いて牽制すべきでしたが、それもまた行っていません。あくまでも六角勢と合流するまで三宅城で待つことにしていたのです。

 川舟を 留て近江の勢もこず 問んともせぬ 人を待つかな

 上の狂歌は足利季世記に載っている三好宗三が近江勢の援軍を待ち焦がれる歌で、事実上の辞世の句となりました。近江勢が来ないことに対する愚痴というよりも、その近江勢が迫る中、江口への攻城軍に対する牽制を行わない細川晴元への愚痴とうかつな軍事行動で死地に赴くことになったことへの自嘲も含まれているようにも私には見えます。六角義賢が山崎に到着する予定である六月二十四日、別府村にいた十河一存が三宅城を強襲して牽制をかけると同時に兵を返して神崎川を押し渡り江口城への攻撃を始めてしまいました。強襲偵察の結果、三宅城に反撃できる兵力が残っていないことを見て取ってのことです。これは全く合理的な判断で、これ以上手をこまねいていては六角勢一万が戦場に到着してしまいます。守りの薄い江口城の攻囲にこれ以上時間を割いている場合ではありませんでした。それに押される形で柴島より三好長慶が江口城を攻めると、城はあっという間に落ちてしまいました。高畑直長、平井新左衛門、田井源介、波々伯部左衛門尉ら晴元の馬廻衆は悉く討ち取られ、三好宗三も淀川へ渡って榎並城へ落ち延びようとしたところを遊佐勢の足軽衆に討ち取られてしまったのです。

 榎並の三好政勝もこの報を受けて榎並城を脱出。三宅城の細川晴元も兵を返さざるを得なくなり、翌日には丹波経由で京に逃げ帰ってしまいました。三好長慶・遊佐長教連合軍は見事に三好宗三の勢力を撃破した訳ですが、三好長慶の本当の戦争目的は細川晴元との再度の和睦にありました。そちらの目的は果たせないまま、天下を相手にした戦いへ踏み出すことになります。

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2018年5月 5日 (土)

中漠:晴天航路編㉔愛される三好のために

 細川晴元と三好長慶の対立の根は相当深いものでした。そもそもを説き起こせば、曾祖父に当たる三好之長が応仁の乱の折に京で土一揆を起こしたことに起因します。何年にも及ぶ長期の在陣で心がすさんでいたこともあり、部下を慰撫して士気を高める為に、部隊長の彼としては何かしなければならなかった訳です。そうしなければ主君阿波細川成之への忠義を果たすこともかなわないでしょう。ただ、その手段として京の土蔵を襲うことを選んだのが間違いでした。京に駐留する他の連中もやっているという弁解が残されていますが、言い訳以外の何物でもありません。ここで京の町衆から札付きの悪党というレッテルが張られてしまいました。

 後になってそんな彼を改めて見出したのが、細川政元でした。彼は三好之長を赤澤澤蔵軒宗益と組ませて大和と河内を平らげさせました。三好之長としては幼君細川澄元とその養父政元の為に実直に命令を遂行した訳でしたが、彼と組んだ赤澤宗益は三好之長以上の悪評の持ち主です。彼は勝利の為であれば寺社仏閣を躊躇なく破壊するという中世人離れした価値観の持ち主でした。そんな訳で寺社仏閣が山のようにある大和や河内平定が三好之長の悪評を覆すに至らなかったことは想像に難くありません。しかもその直後細川政元は暗殺され、彼の養子高国が宗家を乗っ取って澄元は排除されてしまいます。細川政元に弾圧された寺社仏閣は因果応報と囃し立てました。その片棒を担いていたのが之長です。

 さらに之長と三好党は排除された澄元の為に京の奪還戦を三度試みました。細川高国や京の町衆にとって三好之長の名は略奪者、寺社仏閣の破壊者細川政元の片棒担ぎに加えて、京を執拗に狙う侵略者という肩書きがつきました。細川高国は京と将軍を防衛する為に三好之長を悪鬼羅刹のように喧伝したことは想像に難くありません。三好之長はいいところまで行くのですが、最後に敗れ、捕虜になったうえで処刑されてしまいます。細川高国にとっては、長く続いた京都防衛戦における目に見える勝利の象徴でした。しかも、間の悪いことにその直後に彼の主君である足利義稙が三好家の根拠地の阿波へ出奔してしまいました。細川高国は播磨で拘留されていた足利義晴を新たな主君として奉じましたが、高国を管領職につけたのは足利義稙であったので、その正統性は大きく揺らいでしまいます。その為、細川高国は必要以上に三好家と阿波を悪魔化して喧伝せざるを得ませんでした。

 その悪評の犠牲になったのが三好元長でした。祖父之長が死んだのと同時に父長秀をはじめとする三好家重鎮も討たれていましたので、そういった悪評についての事情もよくわからないまま宗家を継承していたのです。足利義稙が連れてきた亀王丸と細川澄元の遺児六郎を新たに中心にすえ、再起を図る為に着々と力をためていたところに、機会がやってきました。細川高国が波多野稙長をはじめとする丹波国人衆と対立し、波多野稙長が阿波細川家に靡いてきたのでした。阿波細川家当主持隆はこれに応じて三好家に援軍を出すように命じました。その命に従い三好元長が先遣隊として送り出したのが一族の三好勝長と政長の兄弟です。彼らは桂川原で波多野・柳本軍に合流し、そのまま細川高国軍と衝突しました。世に言う桂川原の合戦です。この合戦で三好勝長は瀕死の重傷を負い、間もなく亡くなりました。この段階でおそらく三好政長は畿内において三好家がいかに嫌われているのかを知ります。三好政長はこの両者の間を取り持とうとするのですが、三好家分家の当主代行というその立場はあまりに弱いものでした。三好家当主の三好元長は政長を押しのけて第一線に出ます。三好勝長、政長兄弟は足利義維、細川六郎の上洛の為の露払いがその役目でした。その中に上洛に向けて現地勢力との折衝が含まれていたかも知れませんが、その役目は勝長に負わされていたのでしょう。三好元長は、その時点で政長は分家当主ではなく、上洛の地ならしに権限を持たない者では荷が重いと判断したと思われます。宗家当主に京を離れよと命じられれば、三好政長は京を去らざるを得ませんでした。政長は不満と不安を抱えながら堺に戻ります。

 その頃、堺に上陸した足利義維と細川六郎の帷幕の中に茨木長隆という摂津国人がいました。彼は畿内の事情をよく知るものとして三好元長がスカウトした人物ですが、その彼が一番初めに直面したのは、摂津・丹波国人衆と三好家との間の認識ギャップです。これは相当深刻なものでした。
 早い話、摂津・丹波の国衆が目指していることは自領の安堵でした。京を何度も脅かした悪魔のような三好家と組むのは、自分たちが追い出した細川高国の代理として六郎を迎えたかったことにつきます。三好家の認識としては、足利義稙が理想とした天下に号令する足利幕府の再興があったのですが、摂丹国衆としては義維・義晴で別れて戦争になることは避けたかったのです。三好政長と茨木長隆の問題意識はここで一致を見ます。それを何とかする為には、三好家当主の考え方を改めさせなければなりませんが、それには時間が必要でした。
 案の定三好元長は京で柳本賢治と対立します。京を治める為には細川高国が広めた悪名高い三好家の当主本人がやるには無理がありすぎました。政長としてはここで讒言をしてでも宗家当主に第一線を引かせることがより良い解であると判断したのでしょう。時間をかけて元長に時局をわきまえてもらう必要がありました。三好政長は茨木長隆、木澤長政と組んで三好元長の足を引っ張りにかかります。三好元長は京にいられなくなり、幕閣連中にも憤って阿波に引き上げます。

 三好政長から見れば、これは短慮でした。そのせいで細川高国が勢いづいて上洛戦を始めたのですから。幕府は三好元長を追い出す直接の原因となった柳本賢治にこれを迎え撃たせますが、あえなく敗北。京も占領されかける中、三好元長に泣きつきます。三好元長は気を取り直して細川高国を滅ぼしました。そして、京に上って柳本甚五郎を殺害するというまた同じことを繰り返してしまいます。これに激怒した摂丹河国人衆の中には足利義維に三好元長がついてくるなら、堺公方は要らない、朽木の足利義晴と和睦するという意見まで飛び出します。堺幕府の危機を感じた三好元長が畠山義堯とともにその過激派の一人河内の木澤長政を攻め、堺幕府分裂の危機が生じました。茨木長隆が先走って本願寺を動かし、三好元長と畠山義堯を討ち取りましたが、その後本願寺が暴走。三好政長は三好宗家の力が幕府の安定の為に不可欠であることを痛感します。その為には宗家をうまくコントロールしつつ使う必要がありました。

 一向一揆を三好家の力を使って治めた新幕府体制は、すったもんだの末に将軍に足利義晴、管領(正確には管領は名乗っていない)に細川晴元、それを支える六角定頼、波多野稙長、木澤長政、茨木長隆、三好政長らを中心とした体制になりました。三好政長は堺幕府成立時に元長が賜っていた河内十七箇所を領し、細川晴元の側近として使えることになります。そして、三好宗家当主三好千熊丸は西摂津瀬戸内沿いの越水を与えられます。政長の領地と比べ京からは遠く、細川家中では外様扱いでした。この扱いに不満を持った三好長慶(千熊丸)が上洛戦を仕掛けたことがありますが、細川晴元は京を逃げ出しまともに相手をしてくれませんでした。木澤長政や三好政長のとりなしで事なきを得たものの、細川晴元はこれで三好長慶を恐れるようになります。元々足利義維から義晴へ乗り換える時に茨木長隆や木澤長政らに三好の悪評を吹き込まれていたのでしょう。その折に三好元長の彼ら視点から見た「暴走」もいろいろ尾ひれをつけてあげつらわれてもいたのかも知れません。何より三好長慶の上洛騒動の折、京都の街は晴元自身が破壊していてほぼ廃墟な状況にありましたので、満足な防御態勢も敷けず、迎え撃てば確実に負ける情勢にあったのです。第一の破局はここにありました。

 それを取り繕ったのが細川持隆と三好政長でした。三好長慶の情に訴え、晴元政権の存続を同意させたのです。三好長慶は細川晴元が自分自身に対して直接命令を下すことに恐怖を感じていることを悟りました。細川晴元の政権存続に三好軍の力は不可欠です。しかし、同時に命令を下して背かれ、破滅することを恐れていました。だから三好に対する晴元のすべての命令は気心の知れた政長を通して行われました。これは時間をかければ解決するという期待がありました。だから政長も出家して宗三と名乗り、第一線を退いた立場になれば晴元も三好長慶を使うようになると考えたようですが、晴元が宗三を手放しませんでした。

 細川氏綱の反乱鎮定には三好軍の力が不可欠でした。今回は足利義晴までが氏綱方につきました。しかも、畿内の三好家だけではなく、四国の勢力の助力までかりだしていたのでした。四国・淡路から来た三好之虎や安宅冬康は細川晴元が三好家に抱く恐怖心に対する理解はありません。同時に晴元と政長は彼らの父を裏切った仇であるという思いも捨てきれていませんでした。三好宗三の勢力を強めて三好宗家と対抗させる手が裏目に出た時が、三好長慶にとって細川晴元に差し伸べた最後のチャンスでした。しかし、結局細川晴元は三好宗三を手放すことはできませんでした。三好長慶もまた、曾祖父や父のように畿内の人々に恐れられる三好家よりも、三好宗三がした「愛される三好」の為の努力を怠った訳ではありません。しかし、その努力は肝心の細川晴元に一切伝わっていなかったのです。
 残すところは戦争しかありませんでした。

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