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2018年5月19日 (土)

中漠:晴天航路編㉖はてなの宗三Ⅰ

 江口合戦において三好宗三が討ち死にしたことにより、細川晴元は京を維持できなくなり、大御所足利義晴、将軍足利義藤(後の義輝)とともに都落ちすることになります。

 本稿では少し別な角度から三好宗三という人物を中心として記述をしてみます。
 いきなりの脱線で恐縮ですが、私が好きな落語に『はてなの茶碗』という咄があります。特に故桂米朝による語り口が逸品で京商人と上方商人の気質の違いを上手く演じ分けられていてとても楽しい咄です。あらすじをざっくり言うと、京の古物商、茶道具屋の金兵衛、通称茶金さんが上方から京に流れてきた油売りが持ち込んできた清水焼の数茶碗(単位売りされる安手の茶碗)を元手に千両の価値を生んでしまうというものです。
 元々は量産品の一山数文程度の茶碗であり、茶金さんが清水寺の茶店でたまたま手にした茶碗だったのですが、何が気になったのか表を見、裏を見て考え込んだ挙げ句に「はてな?」と言い残して立ち去ったのを、目撃した油屋がきっと価値があるものに違いないと茶屋の主人から強奪するように(一応、二両という数茶碗の単品としては破格値で買い取ってます)持ち去り、それを茶道具屋に持ち込んで売りつけようとしたのですが、その茶碗は入れた茶が洩る疵物でした。しかし、表面にも裏にもそれらしい傷はなく、釉薬にムラもないので「はてな?」と首をかしげてそのままにしたものだったのです。このオチに油屋は「天下一の茶道具屋の金兵衛ともあろうものがそんなややこしい茶の飲み方をするな」と無茶ぶりの逆ギレをするのですが、それも一理ありとした茶金さんが二両の値でその茶碗を買い取ることにします。二両は茶碗の目利きとしての自分への評価に対する対価であるとしたのですね。
 この話を付き合いのある関白鷹司公にするとこれを面白がって風雅な和歌がつき、さらに天聴にも達して時の帝から万葉仮名で「はてな?」と記された箱書きがすわってしまい、途方もない値打ちがつくいたところを鴻池善右衛門が売れと言う。茶金さんが帝の箱書きが付いたものを売買の対象にできないと答えると、千両で質として受け取るからとっとと質流れにしろと要求し、かくして茶金さんの手元に千両の小判が残ったという次第です。

 話の前ふりとしては少し冗長でしたが、以上の話の眼目はいわゆる古物・骨とう品の価値を決めるものは製品そのものの品質ではなく、来歴とそれに付随する物語であるということなのですね。そして現代の日本にも残っている茶道具、骨とう品の物語に三好宗三が深くかかわっているのです。

1.宗三左文字
 木澤長政が滅び、法華宗徒の赦免がなされた翌年、1543年(天文十二年)に駿河国から旅の僧がやってきます。その名を無人斎道有、武田信虎のことです。後世の歴史においては、息子に甲斐国を追われて失意を癒すためのセンチメンタルジャーニーみたいな感じになっていますが、実際は駿河に娘と婿がいて何不自由のない暮らしをさせてもらっていて、その婿と甲斐にいる息子は良好な関係を保っておりました。端的に言えば隠居して自由な立場になったわけです。以降私の脚色が入りますが、これが天文の世の赤澤総益目指して意気込んで細川晴元に自分を売り込みに行ったわけですが、当時の幕府はほとんど形骸化していました。三好や木澤の反乱が相次いで京の復興もままならず、晴元自身に軍事力はほとんどなくて攻められるたびに京都を出て行っている始末です。流石に道有入道もあきれ果てて、旅の目的を息子の嫁姉妹の婿と婿候補の品定めに切り替えます。つまり、細川晴元と本願寺証如です。前に記事を書いた時にも触れましたが、この人はこういうことをするのが好きなようなのですね。

そんな傷心の武田入道に三好政長が一振りの日本刀をプレゼントします。左文字派という南北朝期の筑前の刀工を祖とする一派によるもので、刀工の名は伝わっていない刀でした。この刀は三好政長の出家後の法号から銘じて宗三左文字と呼ばれます。これが信虎から婿殿の今川義元に譲られました。今川義元はこの宗三左文字が痛く気に入ったらしく、戦場に佩刀として持ち歩くようになります。永禄三年の桶狭間の合戦において、今川義元は敗れて討ち死にするわけですが、義元の佩刀は戦利品として織田信長の手に渡りました。以後、豊臣・徳川と天下人の手に渡って現在国宝となったりするわけですが、この話にはちょっとした矛盾が含まれています。

 と言うのは、三好政長が武田信虎に刀を送るチャンスがあったのは、彼がまだ俗人であったころではないかと思われるのです。三好政長はこの翌年、つまり1544年(天文十三年)に嫡男政康(正確にはこの頃は政勝と名乗っています。)に譲っているのですね。普通に考えて家督を譲る前に出家はないだろうと思われるからです。まあ、1543年(天文十二年)の信虎上洛の折には誼を通じるだけであった、出家後に駿河に刀だけ送ったという話で済むかもしれません。ただ、それだとどんな名目で信虎に送ったのだろうか、それがなんで今川義元に譲られたのだろうかと思ってしまうのですね。信虎は義元より長生きしていますので、形見分けというわけではないでしょう。宗三もなぜ直接義元に送らなかったのか。信虎でワンクッションおく意図がいまいちわかりません。なのでこの左文字は武田信虎の畿内旅行中に三好政長が今川義元に贈与すべく信虎に託したと考えるのが一番自然ということになります。按ずるに銘は後世の人間がつけたから、というところでしょうか。

宗三左文字の来歴:
 三好宗三→武田信虎→今川義元→織田信長→豊臣秀吉→豊臣秀頼→徳川家康→徳川家→建勲神社(現存)

 あるいは、元々この刀は義元左文字として伝わってきたもので、その刀を贈ったのがたまたま三好政長であったから、宗三左文字という別名でも呼ばれるようになったという考え方もできます。好事家の間では三好政長ではなく、三好宗三と呼ばれるのが通りが良いので、政長と呼んでいたころに譲られた刀であっても後付けで宗三左文字と呼ばれるようになったという説明ならそれはそれでしっくりきます。
 では好事家の間で通りの良い宗三という人物イメージはどのように形成されたのか、次稿で考察してみたいと思います。

1543年(天文_十二年)_六月_____武田信虎、京に上る。この月、本願寺証如と面会。
___________八月__九日_武田信虎、奈良遊歴。
______________十五日_武田信虎、駿河に戻る。
1544年(天文_十三年)_五月_____三好政長、家督を政康に譲り、出家して宗三と名乗る。
1560年(永禄__三年)_五月_十九日 桶狭間合戦。織田信長、宗三左文字を今川義元より分捕る。

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