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2018年5月27日 (日)

中漠:晴天航路編㉗はてなの宗三Ⅱ

 三好宗三の墓所の宗旨は三好家が代々帰依していた真言宗でも、今谷明氏らが昔から縁があったと強調している法華宗でも、後に三好長慶が帰依することになる大徳寺派臨済宗でもありません。堺にある善長寺という西山派浄土宗がその宗旨です。同寺は後に鎮西派総本山の知恩院寺末になるのですが、三好政勝が父宗三の菩提を弔うために建立した寺院です。例外はあるものの法号に「宗」がつくのは大徳寺・妙心寺派臨済宗の特徴であり、彼は大徳寺に帰依した武野紹鴎や津田(天王寺屋)宗達とも親交があったはずなだけに、意外と言えば意外です。このあたりの事情は色々想像できそうですが、想像の域をでないので深入りはしませんが、畿内において嫌われぬいた三好家にいて、自分は違うのだとして活動した結果、彼は政治的な立場以外に別な顔で歴史に名を残すことになります。それは数寄者、すなわち風流を愛で、風雅を好むありようで、武辺とは対極にある立ち位置です。

 本稿では、そんな数寄者としての三好宗三を描写したのち、その実態を考察してみたいと思います。前稿では今川義元の佩刀となった義元左文字(宗三左文字)を紹介しましたが、今回は茶器について紹介します。

2.松島壺
 1568年(永禄十一年)に織田信長が上洛した時、信長の上洛を祝って堺の商人今井宗久が茶壺を贈ります。銘じて松島壺。山上宗二が後年記した山上宗二記によると、釉薬が垂れた部分がいくつもの瘤を作っていてその様が世に絶景と謳われている陸前国(宮城県)松島のようである所から銘じられたらしい。元々は足利義政の家宝でそれを三好宗三が所持し、息子の政勝(後の政康・宗渭)に伝えられたものを武野紹鴎が引き取り、娘婿の今井宗久が受け継いで織田信長に送られたという経緯らしい。これが三好宗三の持ち物であったことは間違いないようで、1549年(天文十八年)二月十八日の朝に三好宗三が津田宗達、武野紹鴎らと開いた茶会にこの壺を用いた記録が天王寺屋(津田宗達の屋号)茶会記という書物に記されています。このほかに松永久秀からも茶入れが贈られます。九十九髪茄子茶入と銘じられた当時においても国宝級の宝です。これもまた、三好宗三所有のものであったそうです。元々は足利義満が使っていたもので、受け継いだ足利義政が山名政豊に譲りこれを村田珠光が銭九十九貫で買い取ったことで、九十九という銘がついたらしい。さらにこれが三好宗三に渡り、朝倉宗滴から越前国の小袖屋を通じて松永久秀の手に渡った折には一千貫の値がついていたということです。
 織田信長の佩刀が三好宗三由来の義元左文字であることを知った今井宗久と松永久秀が示し合わせて三好宗三所縁の珍宝を献上して歓心を買ったという所でありましょう。これに気をよくしたのか、織田信長はその翌年に天下の名物を集めるようにと指示します。

松島壺の来歴:
 足利義政→三好宗三→三好政勝(宗渭)→武野紹鴎→今井宗久→織田信長(消失)山上宗二記

 気になるのは、これらの宝がどんなルートで三好宗三の手に渡ったのかです。松島壺は元々東山御物、つまり足利義政が保有していた宝物蔵の宝であり、これが戦乱の中で散逸していたのを三好宗三が手に入れたと山上宗二は自著に書くのですが、それ以外の書物でその事実を追いかけられません。山上宗二は天文十三年生まれなので、三好宗三が戦死した時はわずか六歳の小僧に過ぎません。堺商人である山上宗二が『松島壺は東山御物であり、三好宗三の手に渡っていたものである』と記録に記すためには、どこかしらに元になる記録があるはずなのですね。

 そして、もう一つ不自然なのは、1549年(天文十八年)二月十一日から十三日の三日間、三好宗三は津田宗達・武野紹鴎らと茶会を開いたという話です。前年の十月に三好長慶が摂津越水(西宮市)で三好宗三弾劾の兵をあげ、その月内には摂津国人衆の大方は三好長慶方についてしまっていました。三好宗三はその時まで在京だったのですが、翌正月二十四日に丹波国を経由して摂津池田城下を放火しています。例の茶会はこの後ということになるのですが、彼らはどこで茶会を開いていたのでしょうか?

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※国土地理院地図(https://maps.gsi.go.jp/)を加工

 考えられる場所は、京、榎並城、堺くらいです。しかし、京の場合は、敵を前に出陣した大将が前線を抜け出すことになるので考えにくい。榎並城であれば十一日の茶会に宗三が後に東山御物の松島壺を堺から来訪した商人たちに披露という意味であり得るかも知れませんが、その翌日に津田宗達が、翌々日に武野紹鴎が交代で亭主となって茶会を開いています。その茶会に武野紹鴎は紹鴎茄子と後に呼ばれる名物茶器を持ち込んでいるわけです。これから戦場になる場所に壊れやすい名物茶器をわざわざ持ち込むことが考えられるのかという部分が気になります。堺と考えた場合には、宗三が堺に向かうのにわざわざ丹波を経由して軍を進めた理由がわからなくなります。京から堺へ向かうには摂津経由のほかに河内経由のルートがあるはずで、淀川南岸沿いに下ってゆけば河内十七箇所に榎並城があり、そこから堺に向かえば反乱の地である摂津は避けることができます。それを避けたのは河内の遊佐長教も反乱に加わっていたからとも考えられます。現に、茶会の五日後に三好長慶と遊佐長教の二人は堺で逢っています。いかに堺が政治的中立を保つ自治都市を謳っていたとしてもこれは考えにくいのです。
 もっとも、これは足利季世記や細川両家記の記述が正しいことを前提としたものであり、今後の研究や新資料の発見によって江口合戦に至る展開が訂正される可能性も無きにしもあらずなのですが、現在の所それらに代わる史料は見当たりません。よって足利季世記・細川両家記の記事よりも天王寺屋会記の記述の方が誤っているのでないかと私は疑っています。次稿ではそれを前提にした考察を進めてゆきたいと思います。

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