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2018年5月12日 (土)

中漠:晴天航路編㉕江口合戦

 1548年(天文十七年)十月二十八日、細川晴元に宛ての三好宗三弾劾要請が拒絶されたことを受けて、三好長慶は摂津越水城から出陣しました。先鋒を務めるのは讃岐守護代十河一存。彼は三好之虎、安宅冬康と同じく三好長慶の弟で、鬼十河と恐れられる猛将でした。事前に根回しをしていたらしく、摂津国衆の大半は三好長慶方につきます。三好長慶になびかなかったのは茨木城の茨木長隆と伊丹城の伊丹親興くらいでした。三好長慶は岳父遊佐長教、松浦興信にも与同を呼びかけました。狙いは摂津・河内双方へ睨みを利かせられる河内十七箇所の制圧です。ここは三好宗三(政長)の息子政勝が守備する榎並城により統治されておりました。三好長慶は要するに細川晴元に三好宗三を罰しないとまず宗三の息子を血祭りにあげて上洛するぞと脅していたのです。十二月に入って京の東福寺に禁制(そこには乱暴狼藉をしないことを保証する文書)を発給していますので、目的地は京、というより京にいる三好宗三がターゲットでした。

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※国土地理院地図(https://maps.gsi.go.jp/)を加工


 一月二十二日に摂津芥川城(大阪府高槻市)の芥川孫十郎から互いに警戒すべき旨の連絡が入ります。京で軍が動いたことを察知したのでしょう。その二日後に京にいるはずの三好宗三が丹波国を通り、一庫城(兵庫県川西市)経由で池田城に放火します。摂津国人の多くが長慶側につき、河内方面も遊佐長教が押さえていたため、自分の居城であり、息子の政勝が守備する榎並城に戻ろうとしていたのでした。伊丹親興の助けを借りて二月下旬には柴島城を攻め落とします。一方その頃、三好長慶は堺にいて遊佐長教と今後の方針について会合を行っております。遊佐長教はそれからすぐさま河内十七箇所に侵攻して榎並城を囲みました。

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※国土地理院地図(https://maps.gsi.go.jp/)を加工

 三月に入って三好長慶は宗三が占拠した柴島城を奪還して榎並城包囲網に加わります。宗三は榎並城から切り離されて孤軍化、やむを得ず晴元派の摂津国人伊丹親興のいる伊丹城まで退きます。三好軍と遊佐軍は榎並城に猛攻を加えますが、三好政勝は持ちこたえます。というより、榎並城を囮に宗三や細川晴元をおびき寄せることにしたのでしょう。この策にまんまと細川晴元までがおびき寄せられてしまいます。

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※国土地理院地図(https://maps.gsi.go.jp/)を加工

 四月二十六日に細川晴元も丹波経由で摂津一庫城に入り、武庫郡に向けて攻勢に出ます。翌日伊丹親興が尼崎を焼き、晴元軍はそのまま東進して三宅城(大阪府茨木市)を攻め落としました。ここはもともと三宅国村の居城だったのですが、舎利寺合戦の直前に遊佐長教についたせいで三好長慶に落とされていました。細川晴元の攻勢の時点で三宅国村が三宅城主に復帰していたかは明らかではないのですが、後に彼は三好長慶方についてこの城を取り戻します。細川晴元派攻め取った三宅城を香西元成(下香西氏、香西元長(上香西氏)とは別系統の細川家被官)に守らせます。これにより今度は芥川城を守る芥川孫十郎が東西に挟まれることになります。香西元成は芥川城攻撃のために兵を出しますが、この攻撃は三好一門の三好長逸により、惣持寺西川原あたりで防がれます。地名から見て安威川河川敷のJR東海道線と阪急京都線に挟まれたあたりの西岸ではないかと思います。防いだとは言え、芥川城が落ちれば京から摂津ルートで軍が通れるようになりますので、余談の許さない状況となりました。三宅城に後詰め勢として五月五日に三宅宗三が、二十八日に細川晴元が三宅城に入ります。一方、この頃本願寺が細川氏綱に太刀を贈り、氏綱方への旗幟を鮮明にしました。状況的に柴島を三好長慶に占領されて周囲の勢力が皆氏綱側になびいたことと、三宅城が本願寺方の城であり、それが細川晴元勢に奪われたことが証如を刺激したのかも知れません。

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※国土地理院地図(https://maps.gsi.go.jp/)を加工

 そしてそこで近江から西国街道を西進する六角勢の来訪を待つことになりました。この時、六角高頼は息子義賢に一万の軍勢を与えて援軍に向かわせることにしたのですが、その準備に手間取っておりました。そうしている間にも孤立した榎並城へ三好長慶、安宅冬康、十河一存ら三好兄弟と遊佐長教が攻め立てていました。榎並城から三宅城はそう離れていないだけに三好宗三は切歯扼腕します。

 細川晴元は六角義賢の援軍が来るまで待つようにと説得しますが、三好宗三は聞き入れませんでした。彼は高畑直長、平井新左衛門、田井源介、波々伯部左衛門尉ら細川晴元の馬廻衆と、先遣隊として派遣された六角氏被官新庄直昌らを引き連れて三宅城を出て川沿いに下って江口城に入ります。恐らくは榎並城包囲陣を牽制するためだと思われます。大編成の援軍接近に当たって、肝心の榎並城が陥落していては援軍の意味が無くなります。それどころか丹波ルートで摂津に入った晴元軍が次の標的として狙われる危険性もありました。しかし、この行動が三好宗三の致命傷になってしまいます。江口に入った翌日、六月十二日の合戦で新庄直昌が討ち取られてしまい、宗三は江口城に籠もるしかありませんでした。

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※国土地理院地図(https://maps.gsi.go.jp/)を加工


 江口城は三方を神崎川と淀川に挟まれた堅城として知られていましたが、柴島城が三好長慶に占拠されている情勢で、神崎川と淀川の水路を封鎖されると完全に孤立してしまう地形でした。加えて江口城への籠城は当初の予定にありませんでしたので、さほどの兵糧の準備もなく、数日を経ずして空腹で戦意が大きくそがれてしまいました。三好長慶は二人の弟安宅冬康と十河一存を神崎川対岸の別府村に陣を敷かせて糧道を遮断させてしまいました。もとより三好側には淡路の安宅水軍がついていましたので、水上における優位を容易に確保できる状況でした。そして陸続きに三好長慶がいる柴島城と対峙していたのです。三好勢にとっては望外の獲物が釣れた心地であったでしょう。

 三好長慶はこの段階に至っても積極的に三好宗三を攻めようとしませんでした。彼はあくまで細川晴元からの和議、宗三達の排除の条件を呑むことを待っていたようです。しかし、細川晴元は最後までそれを拒みました。六月二十四日には六角勢一万が山崎に到着する見込みとの知らせが飛び込んできました。細川晴元が宗三を救いたいなら三宅城を出て別府村近辺に軍を置いて牽制すべきでしたが、それもまた行っていません。あくまでも六角勢と合流するまで三宅城で待つことにしていたのです。

 川舟を 留て近江の勢もこず 問んともせぬ 人を待つかな

 上の狂歌は足利季世記に載っている三好宗三が近江勢の援軍を待ち焦がれる歌で、事実上の辞世の句となりました。近江勢が来ないことに対する愚痴というよりも、その近江勢が迫る中、江口への攻城軍に対する牽制を行わない細川晴元への愚痴とうかつな軍事行動で死地に赴くことになったことへの自嘲も含まれているようにも私には見えます。六角義賢が山崎に到着する予定である六月二十四日、別府村にいた十河一存が三宅城を強襲して牽制をかけると同時に兵を返して神崎川を押し渡り江口城への攻撃を始めてしまいました。強襲偵察の結果、三宅城に反撃できる兵力が残っていないことを見て取ってのことです。これは全く合理的な判断で、これ以上手をこまねいていては六角勢一万が戦場に到着してしまいます。守りの薄い江口城の攻囲にこれ以上時間を割いている場合ではありませんでした。それに押される形で柴島より三好長慶が江口城を攻めると、城はあっという間に落ちてしまいました。高畑直長、平井新左衛門、田井源介、波々伯部左衛門尉ら晴元の馬廻衆は悉く討ち取られ、三好宗三も淀川へ渡って榎並城へ落ち延びようとしたところを遊佐勢の足軽衆に討ち取られてしまったのです。

 榎並の三好政勝もこの報を受けて榎並城を脱出。三宅城の細川晴元も兵を返さざるを得なくなり、翌日には丹波経由で京に逃げ帰ってしまいました。三好長慶・遊佐長教連合軍は見事に三好宗三の勢力を撃破した訳ですが、三好長慶の本当の戦争目的は細川晴元との再度の和睦にありました。そちらの目的は果たせないまま、天下を相手にした戦いへ踏み出すことになります。

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