« 中漠:晴天航路編㉗はてなの宗三Ⅱ | トップページ | 中漠:晴天航路編㉙晴天已に死す »

2018年6月 2日 (土)

中漠:晴天航路編㉘はてなの宗三Ⅲ

  前稿で1549年(天文十八年)二月十一日~十三日に三好宗三が茶会に参加したという記録は、足利季世記・細川両家記が語る江口合戦における合戦経過と矛盾する旨、書きました。足利季世記・細川両家記よりも天王寺屋会記の方を疑う根拠は極めてシンプルなものです。天王寺屋会記の1561年(永禄四年)六月二十四日に津田宗達が三好宗三のために十三回忌を偲ぶ茶会を開いているのですね。三好宗三と堺商人との間に深い絆があったことを示す記事ではあるのですが、私は逆にこの記事に違和感を抱きました。念のために三回忌にあたる1551年(天文二十年)、七回忌にあたる1555年(天文二十四年)の記事を調べてみたのですが、そこには天王寺屋会記には三好宗三に関する記事は何もありません。併せて天文十八年以前に三好宗三と堺衆とのつながりを示す史料も私自身は目にしておりません。天王寺屋会記自体の書き起こしも天文十八年から始められております。1549年(天文十八年)の茶会記事から1561年(永禄四年)の十三回忌回向の茶会までの期間において天王寺屋会記が三好宗三について言及したのは、1550年(天文十九年)三月九日に河原九郎兵衛という人物が亭主を務めた茶会に津田宗達が出席した折に、使われた伊勢天目が三好宗三からのものであると記されているのみです。宗三を経て名物となった茶器は数多くあるようですが、この天目茶碗についてはどうも名物扱いされていないようです。

 ただ、付き合いはあったものの三好宗三は三好長慶に討たれたのですから、津田宗達は三好長慶に遠慮したかもしれないとも考えられなくはありません。しかし、十三回忌の年は前年に十河一存が亡くなっているものの、三好長慶政権はまだ健在です。おかしくなり始めるのは翌年三好実休(之虎)が久米田合戦で戦死して以降で三好長慶の政権自体は1564年(永禄七年)に長慶が病死するまで続きます。津田宗達ら堺商人と三好長慶らとの付き合いは1551年(天文二十年)に始まっており、天王寺屋会記にもしばしば三好実休(出家前は豊前と記載)らを初めとして、三好長慶、安宅冬康、松永久秀ら三好政権の中枢部との茶会記事が載せられておりますし、一番付き合いのあった三好実休に対しては三回忌回向の茶会を開いていて、長慶死後も三好三人衆らとの茶会は織田信長上洛まで続いています。但し三好実休の七回忌回向や十三回忌回向をやった形跡はありませんし、1549年(天文十八年)二月十一日時点で三好宗三の手元にあった松島壺はどのような手段で息子の三好政勝の手に渡ったのか、政勝は江口合戦の敗北後榎並城を脱出したのですが、その脱出に松島壺を伴って逃げたのか、さらにその後三好政勝は京・近江・丹波を転戦することになるのですが、三好・畠山の勢力下にあった堺にいた武野紹鴎が1555年(弘治元年)十月二十九日に亡くなるまでにどのような手段で接触して松島壺を託したのか、突っ込みどころは結構多いです。

 上記のことを総合して推測するなら、1549年(天文十八年)二月十一日~十三日に三好宗三と堺商人(津田宗達、武野紹鴎他)らが行った三日連続の茶会は実際にはなかった可能性があります。過去記事で夢窓疎石の相国寺開山や華叟宗曇の大徳寺住持就任など、実際にはありえない開山・住持就任記録が寺伝に残ることがあることを触れましたが、その多くの動機は弟子が師を称揚し、自らの権威づけをすることにありました。それに似たような動機でこの記事がねじ込まれたと考えられます。堺の商人にもこの記事を書いて後世に残さねばならない事情があったのではないでしょうか。

 その動機についてはやはり、1568年(永禄十一年)十月の織田信長の上洛にあったと私は考えます。この時、松永久秀は三好三人衆と対立しておりました。三好三人衆が京から追い払われた後、信長のもとに松永久秀は織田方への旗幟を鮮明にすべく、伺候します。この時、堺商人今井宗久も随行しております。この時の今井宗久は堺衆の利益代表として信長への恭順の意を示しに来ておりました。松永久秀と今井宗久は織田信長の歓心をいかにして買うかに腐心しておりました。松永久秀は武将であれば、武功を示すことでその信を買うことはできます。しかし、堺商人が鉄砲調達や米などの物資を要求されるのは困ることでした。そんなコストを上乗せされれば、彼らの商売の邪魔になります。この時、今井宗久は岳父武野紹鴎より松島壺を譲り受けておりました。伝では三好宗三のものであったものを三好政勝(政康)が受け継ぎ、武野紹鴎が手に入れたらしい。今井宗久は信長にこの茶壺を贈ることで、茶道具マニアに育てて高額な茶器を彼経由で流通させることで戦費負担軽減を策します。松永久秀も同意して天文法華の乱中に散逸していた所を手に入れた九十九茄子という茶器を提供することにします。しかし、その当時茶道の素養がなかった信長に興味を持たせるためには何らかの手段で彼の関心を引く必要があります。そのために持ち出されたのが、三好政長であったのではないでしょうか。信長は今川義元を討ち取った時にその佩刀を戦利品として常に手元においておりました。その刀の出所は三好政長が武田信虎を通して今川義元に与えたものでした。織田信長は義元左文字を愛用しておりましたから、同じ三好政長(宗三)が好んだ品物として差し出せば興味を引くと踏んだのでありましょう。しかし、堺衆は三好実休をはじめとする人々との交流はありましたが、肝心の三好宗三とのコネクションは本当はなかった。それ故、宗三が死ぬ前に武野紹鴎が三好宗三と逢い、三好宗三が松島壺を所持していたということと、死後も宗三の死を悼んでいたことを後付けてよいので記録に残しておく必要があったのでしょう。

 松島壺は現存していませんが、伝によると釉薬のムラが瘤のように盛り上がっている特徴があったと言います。それを松島の絶景に例えることで興を生んだわけですが、景徳鎮の白磁や高麗青磁のようなシンメトリーの美を理想とする作陶者にとっては見た目に難のある不良品に過ぎません。それは湯を飲むための茶碗でありながら傷もないのに湯が洩るという「はてなの茶碗」にも見られる不具合です。目利きや数寄者がその不完全性を興と認め、織田信長のような権力者(はてなでは帝や関白)がその価値を裏打ちすることによって名物と呼ばれる財宝に化けたのです。現在、三好宗三という人物は将軍家から受け継いだ東山御物の宝物を自らのコレクションに加えていた美術蒐集家として有名ですが、その実態については精密な検証が必要であるように私は思います。そしてもし史実の三好宗三が巷間言われているような数寄者でないとすれば、数寄者としての三好宗三のイメージは堺商人の手によるビジネスモデルが生み出したものと言えるでしょう。これはあくまでも仮説で、今後どこかで間違いに気づいて修正することもあるかもしれません。

 実際に織田信長は今井宗久ら堺商人の意図を組んで、自らが名物マニアになるだけではなく、家臣たちにも名物を分け与え、流通させるようになります。その流通に関与することで堺商人は莫大な財産をえることになります。別稿で記すつもりですが、そこに大徳寺はがっちり食い込み林下の隆盛につながることになるのですが、それは既に宗教が求める求道とは別物でした。求道とは異なる次元で銭が流通し価値ある財が育つことによって近世の扉が開かれることになるのです。

Photo_7


|

« 中漠:晴天航路編㉗はてなの宗三Ⅱ | トップページ | 中漠:晴天航路編㉙晴天已に死す »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/164985/66763544

この記事へのトラックバック一覧です: 中漠:晴天航路編㉘はてなの宗三Ⅲ:

« 中漠:晴天航路編㉗はてなの宗三Ⅱ | トップページ | 中漠:晴天航路編㉙晴天已に死す »