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2018年6月 9日 (土)

中漠:晴天航路編㉙晴天已に死す

 我慢の人である三好長慶が三好宗三を討って得たものは、細川晴元の徹底的な拒絶でした。細川晴元は京に戻るや否や大御所足利義晴と将軍足利義藤を連れて近江国朽木に逃れ徹底抗戦の構えに出ます。これ、三好軍がまだ上洛すらしていない段階でそうしてしまうのですね。江口合戦の時点で六角氏の援軍が山崎まで来ていましたし、淀を押さえておけば京都を守るための戦いを構想できたかも知れません。しかし、細川晴元はこの期に及んでさえ京を守る気が全くありませんでした。

 応仁の乱が終結まで十一年もかかったように河内と摂津を敵に回した状況で京を守りきるのは結構キツイです。しかも三好長慶はつい直前まで細川家の直属軍の主力を張っていた人物です。細川晴元には使える手駒はほぼありません。戦場から三好宗三の息子の政勝が脱出してきましたので、一応の体裁は整いましたが、岳父の六角定頼と丹波国八上城にいる波多野晴通に頼らざるを得ない状況です。丹波国も八木城の内藤国貞が三好長慶と通じておりますので、決して安閑とできる状況ではありません。京にいてこれを迎え撃つことは自殺行為とも言えました。一方の三好軍は1549年(天文十八年)七月には軍を洛中に進めております。

 例によって京の街は何回目かの「三好が来る」恐慌が起きていたのではないかと想像するのですが、この時点で京の町には堺への亡命組が帰還し始めております。つまり、洛中法華十六ヶ寺と一緒に戻ってきた富裕な法華宗徒商人達です。堺は長年三好の勢力下にあって繁栄してきた街でした。早い者は還住勅許が出る1542年(天文十一年)前後から戻り始めましたが、勢いがついたのは恐らくは1547年(天文十六年)の延暦寺との和睦からでありましょう。その間の亡命生活で実際の三好氏というのは京で噂する程の悪鬼でも羅刹でもないことを実感したのだと思います。1536年(天文五年)の天文法華の乱の前日のように街には将軍も管領もいなくなっておりましたが、ここで自検断や打ち回りなどを言い出さなくなったのは、虐殺を回避するための知恵でありましょう。とは言え一つ間違えれば京の街が再び兵禍に蹂躙されることも想定されるので、京の街は緊張した空気に包まれていたことは確かでしょう。

 そんな中で三好長慶への抗戦を主張した者がおりました。大御所足利義晴です。そして東山如意ヶ嶽(大文字山)近くに城を建てることを命じました。三好氏が京に入ったと言ってもその領域は東山一帯までには及んでいなかったようです。足利義晴は桂川合戦後、長く朽木で鬱屈していたこともあり、叶わぬまでも京で戦う姿勢を見せることの大切さを心得ていたのかも知れません。翌三月に足利義晴は朽木から穴太に進出します。彼はこの時死病に罹っておりましたが、その病身を押してのことです。恐らく死期は悟っていたでしょうし、勝機のないことも知っていたでしょう。それでも足利義晴の名を三好軍に、そして洛中の人々にも思い起こさせようとせずにはいられなかったのではないでしょうか。

 そもそも足利義晴は足利義稙のせいで京を追われた足利義澄の息子で生まれも京ではなく近江の水茎岡山城でした。しかもそこには兄弟の義維もいて彼は将軍になるべくして生まれたわけではありません。父足利義澄が失意の中で死に、水茎岡山城は開城、彼の身柄は赤松義村に預けられることとなりました。しかし、赤松義村は被官浦上村宗との抗争に敗れて浦上村宗が彼を預かることになります。それまでずっと名前も覚えられない日陰者の生活でした。

 そんな彼が日の目を見るようになったのが、将軍足利義稙が管領細川高国と対立の上で出奔したことです。細川高国は足利義稙の後継として彼を見出し、新将軍義晴として擁立しました。但しこの時、足利義稙は自分の後継候補として彼の兄弟義維を指名し、彼を引き連れて阿波に落ち延びております。そういうわけで彼は将軍職を継承したものの、その正統性を欠いたまま将軍職を継ぎました。彼の立場は足利義稙の出奔で即位の礼の開催が延期しかけてブチ切れた後柏原天皇によって支持されて安定を得ますが、もし足利義稙が彼を選んでいれば、あるいは足利義稙が一人で阿波に落ち延びていれば、細川高国は誰を新将軍に選んだのか、などの正統性をめぐる問題は常に付きまとっておりました。細川高国が丹波国人との抗争に敗れて足利義晴は再び近江朽木に動座することになります。兄弟の足利義維は堺に上陸して幕府組織を作っておりました。義晴のいる朽木の幕府と義維の堺幕府のいずれが正統の幕府になるかは情勢次第でひっくり返る状況だったわけです。足利義晴は生き残りを賭けて畿内の国人衆に働きかけました。

 意外なことに細川高国を追い出した丹波国人衆であっても、足利義晴に対する感情はさほど悪いものではありませんでした。むしろ足利義維を選ぶともれなくついてくる三好元長が嫌われていて、茨木長隆、木澤長政のようにむしろ義晴に期待する武将が出始めておりました。そして彼らが書いたシナリオに細川六郎、三好政長が加わり堺幕府が瓦解します。とは言え、この時の進め方がかなり強引だったこともあって、三好宗家の遺恨を受けるとともに夥しい血が流れました。京の街も丸焼けになっております。

 それらの困難を乗り越えて足利義晴は京に戻ることができました。しかし、細川六郎には政治家としての資質はあまりありませんでした。足利義晴は六郎に偏諱を与えて晴元と名乗らせましたが、その期待に応えられる器ではなかったのです。彼は茨木長隆のシナリオに乗って三好元長を殺害させて生じた遺恨、法華宗徒が蟠踞する京の街を焼かせたことから生じた遺恨にとらわれていました。なので三好長慶が上洛のそぶりを少しでも見せればすぐに京を捨てて逃げ出します。政治は京で取られるべきものなのに京兆家当主がこれでは政局が安定するわけもありません。足利義晴は将軍職を義藤に譲って大御所となり、管領代に六角定頼を任じ六角氏を通して政治ができる体制を作りました。管領代の名のもとに叡山と洛中法華を和解させて京の町衆の安寧を保証させました。六角定頼は天文法華乱での虐殺の当事者でしたが、そんな彼が仲介者になれたのは足利義晴が管領代の資格を与えたからだと思われます。細川晴元は京兆家当主でしたが、管領と名乗ったことはありません。つまり、六角定頼は将軍の名代として和議をなしたという見方もできるわけですね。

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※国土地理院地図(https://maps.gsi.go.jp/)を加工

 足利義晴はそうして繋いだ洛中の人々との関係を保身のために捨ててしまう細川晴元のやり方に異議を申し立てたのでした。但し、彼の寿命はそこで尽きていました。1550年(天文十九年)五月四日に足利義晴は亡くなります。死因は水腫とのことです。足利義晴が慈照寺裏の如意ヶ嶽近辺に立てた城は中尾城と呼ばれ、義晴の代わりに将軍足利義藤が入ってこれと対峙しますが、十一月に入って三好軍が攻勢に出て東山一帯を威圧するとともに大津・松本周辺を放火したことにより、後背が危うくなったため足利義藤は中尾城を自焼きして堅田に撤退します。それは勝軍山城の顛末と似た物でしたが、寺社地域である東山に上がった中尾城の煙は足利義晴を送る荼毘の火にも見立てられましょう。
 足利義稙に選ばれ、阿波に入って一時は堺に幕府まで作った足利義維は、後に再び堺に上陸するも不弁のまま阿波への帰還を余儀なくされました。一方の足利義晴が自らの手で差し向けた軍は最後まで京に居残ることによって室町殿としての生涯を全うすることができました。そのことによって将軍位は足利義藤に継承され、足利義晴は後世に足利十二代将軍として記憶されることになります。ワナビーとして生涯を終えた足利義維と苦渋に満ちた生涯を送った足利義晴、はたしてどちらがより幸せな人生を送れたのでしょうか。

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