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2020年1月25日 (土)

中漠:善人令和編⑤タイトロープの和平交渉


 伊勢貞孝は交渉による足利義藤の還京をもくろんでいたものと思われます。その為には細川氏綱の受け入れと細川晴元の切り捨ても視野に入っていたでしょう。すなわち、この事態の発生の原因は細川晴元の家内統制の失敗にあり、彼にその責任を取ってもらえばすべては解決するということです。
 伊勢貞孝が帰洛した翌月、三好長慶の被官、松永良頼が大津に進出、堅田の足利義藤と対峙しましたが、琵琶湖を渡ってきた六角義賢の増援によって阻まれます。しかし、堅田も戦場になりそうだということで、足利義藤は朽木まで撤退します。伊勢貞孝にとってはこれで当面は「幕府軍」と三好軍との直接の武力衝突の危険は回避されたことになります。

 三好長慶にとっても三好宗三を討ち取った後、探し求めていた落としどころの提供者を得た心地だったでしょう。彼の父親の三好元長はかつて上洛してそこを統治していた柳本賢治と争い、後にその息子の柳本甚次郎を討ち取った結果、京にいられなくなるという大失態を演じています。彼としてはその轍を踏むわけにはいきませんでしたので、京の統治実績を持つ伊勢貞孝の帰還は願ったり叶ったりだったろうと思われます。伊勢貞孝はわずかな人数の雑掌しか連れてきていませんでしたが、三好長慶は彼に洛中の裁判権を与えています。洛中の町衆にとっても、勝手を知らない三好軍に無茶をされるよりも、勝手を知った政所執事に入ってもらった方がよりましであったに違いありません。

 三好長慶は本拠を洛外の山城国紀伊郡にある吉祥院とさだめ、そこで軍の指揮を執っていました。三月四日、そこに伊勢貞孝が挨拶にきます。洛中の裁判権を預けられたとはいえつい先日まで彼は敵でしたので、三好側は屋敷周辺の警戒を強化します。すると警戒網に二人の童子が引っかかりました。童子らは吉祥院を襲って三好長慶と伊勢貞孝を焼き殺す計画があると自白します。山科言継の日記によるとここから六十人ばかりの襲撃者が捕らえられ、処刑されたとのことです。

 その十日後、伊勢貞孝訪問の返礼として今度は三好長慶が伊勢貞孝邸へ赴きます。さすがに六十人もの襲撃者が襲ってくるということはなかったですが、より深刻な事件が起きております。伊勢貞孝邸に暗殺者が紛れ込んでいて三好長慶に襲い掛かったのでした。三好長慶は初撃を脇息で受けたものの、二の太刀、三の太刀で浅手を受けます。そこで何とか逃げおおせて刺客は取り押さえられます。その者の名は幕府奉公衆進士晴舎の一族、進士賢光。幕府側の人間でした。三好長慶はいったん芥川に引き上げます。和平交渉どころではなくなったわけです。しかし、伊勢貞孝は京を去ることはしませんでした。三好長慶は退去したとはいえ、京にはまだ三好党が残っています。伊勢貞孝の真意が奈辺にあるか不明ですが、彼は京の実務的な統治をおこなうことに執着していたといえるでしょう。

 その翌日には細川晴元配下の三好政勝と香西元成らが千本通りを南下して五条通りまで軍を率いて放火しました。しかし、この頃の京の街は東部に堀と塀を築いて外敵が入ってこないように守りを固めていました。これは1536年(天文五年)天文法華乱で灰燼に帰した京の街は荒廃し、以後の政局は安定しなかったのです。そこで1542年(天文十一年)の後奈良天皇の法華宗還住勅許、1547年(天文十六年)の法華宗と延暦寺との和議がなされて追放された法華宗と富裕層が京に帰還して復興が加速します。その際二度と京が攻められないよう帰洛法華宗やその他の寺院は町の外郭に城の尖塔のように配置されその寺院を板塀と堀で囲った城塞都市を形成したのでした。三好政勝軍はこの洛中城塞都市の外側をデモンストレーションしただけに過ぎなかったのです。

 おかげで伊勢貞孝は何事も起こっていないかのように洛中城塞都市内の裁判行政にいそしむことができました。もし彼が足利義藤の意を受けて三好長慶を罠にはめようと考えていたなら、伊勢貞孝はここで三好政勝軍を洛中城塞の中に引き入れてしまってもよかったわけです。しかし、彼はそうしませんでした。この状況は足利義藤陣営が必ずしも一枚岩ではないことを示しています。

 三好長慶は伊勢貞孝を疑って追い出すこともできたかもしれません。しかし、彼の父親の汚名を雪ぐためにも洛中での荒事は可能な限り回避したかったものと思われます。伊勢貞孝はそのための重要なキーパーソンでした。これは事態を主体的に動かす意思は三好長慶にはなかったことを示し、その行く末は伊勢貞孝の意向に委ねられていたともいえます。三好長慶の活路は足利義藤側もまた一枚岩ではないということにありました。それ自体がタイトロープのような心もとない道筋です。そしてそれに頼るしかない三好長慶の忍耐力を試す事件が河内国において起こってしまいます。

 彼の岳父にして数少ない同盟者であった遊佐長教の死でした。

 

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2020年1月18日 (土)

中漠:善人令和編④伊勢貞孝は帰洛したい

 伊勢氏は代々室町幕府の政所執事と言う役職を務めており、将軍の側近として勝ち組の将軍に仕え続けておりました。政所というのはいわば幕府の財務省のような役所であり、政所執事とは財務大臣の役職と言えます。とは言え、戦国期の幕府は財源の多くを失っており、その権限は縮小しておりました。その戦国期の政所執事を占めていたのが伊勢一族だった訳です。

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 伊勢貞親は八代将軍足利義政に仕え、義政の弟義視を嫌って義尚を強力に支持したことが応仁の乱の炎に油を注ぐ結果になっています。その後継の貞宗は義政、義尚、義材(後の義尹、義稙)の歴代将軍に仕えますが、細川政元が明応の政変を起こすと彼が立てた足利義澄にためらわず仕えています。さらにその子の貞陸は永正の錯乱で細川政元が暗殺されて、足利義材が義尹と名を変えて再上洛するとそれまで仕えていた義澄を捨てて義尹に仕えます。その義尹が義稙と名前を変えて京を出奔するまでの間に貞陸は亡くなっているのですが、義稙出奔後に将軍になった義晴に貞陸の息子の貞忠が仕えます。貞忠は息子がおらず、曾祖父にあたる貞親の弟、貞藤の子孫の貞孝を養子に迎え後継ぎとしました。時に1535年(天文四年)、天文錯乱の真っ最中です。その翌年に洛中法華が弾圧・一掃された後、室町殿は正式に京に復帰し、貞孝の幕府財務官としての任務が始まります。

 その時の京は焼け野原でした。六角定頼が延暦寺に加担して法華宗を奉じる町衆ごと京を焼き払っていたからです。幕府の財政を預かる立場の伊勢貞孝からしてみれば、桂川合戦以降ずっと帰還を待ち望んでいた京を滅ぼされたも同然でした。復興するにせよ六角定頼が京のブルジョア階層である法華衆を殺戮し、その生き残りも細川晴元が追放したことで町の復興はままなりませんでした。
 但し、延暦寺は追放した洛中法華寺院の占有を求めましたが、幕府の意向でそれははぐらかしたままにしていました。山法師を洛中に入れるのはもってのほか、という認識があったようです。このあたり、幕府財政を司さどる伊勢貞孝の意見だったのではないかと私は想像しています。これによって金を持っている洛中法華の町衆が復帰できる芽は残された訳です。

 町衆の追放そのものは天文十一年の後奈良天皇の綸旨によって解除されますが、延暦寺の意向を抜きにしたものでしたので町そのものの復興はあまり進みませんでした。
 原因は細川晴元のせいだったのですが、天文十六年に彼と同じ管領職の有資格者である細川氏綱が反乱を起こしたため、細川晴元は京を留守にします。彼は京の防衛よりも管領職を横取りされる可能性を排除することを優先したのです。
 その隙に細川氏綱派の上野玄蕃が上洛してきたのですが、足利義晴はこれと戦うこともせず、京を脱出することもなく、六角定頼を管領代にして叡山と洛中法華との和議の仲介をさせます。それ以降妙顕寺や本国寺ら法華宗の主要寺院の帰還が始まって洛中復興が加速します。これも伊勢貞孝の立場からすれば京の復興が進めばその分幕府の財政も豊かになるので歓迎すべきことでした。

 しかし足利義晴は細川晴元の江口合戦の敗北に巻き込まれる形で京からの脱出を余儀なくされます。伊勢貞孝は政所執事であるためこれに帯同しましたが、伊勢貞孝はこれに不満を持っていたことは想像に難くありません。そもそもが今回の都落ちの原因を作ったのは細川晴元と三好宗三であり、三好長慶も含め全て細川京兆家家中における勢力争いに過ぎず、室町殿はそのとばっちりを食らっただけだったのです。足利義晴は命を懸けて京に帰還するための戦いを最期まで継続しました。伊勢貞孝はそれには付き合った訳ですが、足利義晴の死は見方を変えてみれば一つのきっかけになりうることに気づいたのでした。
 すなわち、敗北した細川晴元を切って細川氏綱をその代替とするという選択です。これが可能だと思う原因は江口合戦から二年も経つのに三好長慶はいまだに政権構想らしきものを立ててこないことにありました。その気になれば阿波平島の足利義冬(もと義維)を公方、細川氏綱を管領として新幕府を建て、下文を発給して諸国国人を味方につけることも可能でした。しかしそこには手をつけようとしないのは室町殿と関係を持ちたい顕われに違いありません。
 そして何よりも法華の復帰で新たに洛中の利権が形成されようとする中、洛外に居続けることはその利権を手放すことと同義であり、足利義藤の幕府の崩壊にも直結しかねないと考えたからだと思われます。
 意を決した伊勢貞孝は堅田の陣を離れて京に帰還します。三好長慶には実効性ある政権構想の持ち合わせはない。そして政権構想が無いのであれば、交渉で足利義藤を帰洛させることができるという確信のもとに。

 しかし、公方である足利義藤の方はその意図を十分に汲んでいなかったようです。あるいは、その意図を理解した上で伊勢貞孝を京に返せば三好長慶は油断すると踏んだようです。その結果、足利義藤陣営はよりリスキーな賭けに手を出すこととなりました。

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2020年1月11日 (土)

中漠:善人令和編③暗殺の季節


 そもそも三好長慶の挙兵は摂津国人池田信正に対する細川晴元の処罰に端を発します。池田信正は細川晴元に背いたところを三好長慶のとりなしで一度は許されていたので、それが後になって覆されたことに腹を立てたことが原因でした。それでも主君である細川晴元を憚って直接反逆するのではなく、細川晴元の側近である三好宗三(俗名政長)の責任ということにして細川晴元に三好宗三の処罰を求めていました。
 これに対して細川晴元は三好長慶の要求を拒否して全面戦争に至ります。三好長慶も負けるわけにはいかないので三好之虎(後の三好実休)、十河一存ら三好一門衆や河内の遊佐長教の応援を得て対抗しますが、細川晴元はあっさりと敗れ、三好宗三も戦死します。それだけではなく京で将軍親子とも戦って、これを追い出してしまう羽目になってしまいました。しかもその逃避行の最中に足利義晴は亡くなってしまい、三好のせいで父親が死んだと将軍足利義藤に思われても仕方のない状況になっています。

 三好長慶としては江口合戦から将軍を京から追い出すまでずっと講和の機会を探っていたのですが、敵はもちろん味方の三好一門衆や河内衆達までもがそれを阻んでいたのです。三好一門衆である三好之虎ら長慶の弟達は彼らの父である三好元長の死をめぐって三好宗三・細川晴元を恨んでいました。河内衆を率いる遊佐長教は細川晴元に河内国をいいようにされていました。河内国は長く尾州・総州両畠山家の抗争が続き疲弊したところを細川晴元に介入されていたのです。そのせいで遊佐長教は主家筋にあたる尾州畠山長経の殺害を強いられています。この事件は歴史家今谷明氏に「遊佐長教は腹に一物持っている人物」と評される原因の一つとなっているのですが、実際のところ長教は何度も中央の政局に苦汁を嘗めさせられた人物です。彼はそれに抵抗する為に細川高国の養子である氏綱を担いでいました。細川氏綱は実父である細川尹賢が香西元盛に対して讒言しさえしなければ細川高国から管領職を継承していた筈の京兆家家督継承有資格者でしたから、細川晴元にとっては共に天をいただかざる敵でした。故に三好長慶を支える一門衆も河内衆も戦争をどこで終わらせるかという点においては長慶と見解を異にしていたわけです。

 要するに三好宗三を討ち取って細川晴元と将軍親子を京から追い出したものの、それは全て成り行きでしかなかったということでした。類例を探すなら桂川合戦後の摂津・丹波国人衆達が似ているでしょう。彼らは細川高国・尹賢打倒の為に阿波に逼塞する足利義維・細川六郎、そして三好元長達と手を組みました。しかし、その後に起こった政権構想をめぐる路線対立は、以前の拙稿にて紹介した通り悲惨な結末を迎えています。

 三好長慶は振り上げたこぶしの降ろしどころに困りぬいているのですが、それは父親を畳の上で見取ってやれなかった足利義藤も同じでした。義藤が自分で動かせる軍隊で三好軍・遊佐軍を撃破するのが無理なことはここ一連の戦いから証明されています。戦争を終わらせる決め手を共に欠いて状況は膠着してしまいました。

 三好家は当主の長慶派と宗三の息子の政勝派に分裂しており、長慶と弟達との思惑も一致していません。足利義藤の傍には細川晴元もいます。四国から三好之虎と十河一存が来ていますが、彼らの主君は讃岐・阿波守護の細川持隆です。細川京兆家当主である細川晴元を使って持隆を動かし四国から畿内に来た三好一門衆の動きを統制させることも不可能ではないでしょう。また、河内衆も両畠山家の当主が没落した後バラバラになった各勢力を遊佐長教の力量でつなぎ止めているにすぎません。そんな中で三好長慶と遊佐長教の二人は勢いだけで京を占領してしまったのです。足利義藤にとって天文錯乱の時とは違って丹波国人衆は概ね将軍方であり、亡き父義晴が残した六角氏や朝倉氏などの旧高国派のネットワークは維持されています。彼らを除くことさえ出来れば、三好長慶率いる西摂津・四国連合軍、遊佐長教率いる河内郡は瓦解し、その隙をついて京を挽回することは可能であるように見えたのです。

 故にここまでの状況から彼らが打てる次の一手として「暗殺」と言う手段が浮かび上がってくるのはある意味必然でした。

 

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2020年1月 4日 (土)

中漠:善人令和編②聖者が京にやってきた


 前編では三好長慶が軍を率いて上洛し、室町将軍足利義晴・義藤(後の義輝)親子を京から追い出したところまで語りました。本編はその続きになりますが、本稿のタイトルが言う聖者とは三好長慶のことではありません。この頃一人の聖人が都を訪れていました。名をフランシスコ・ザビエルといいます。

 ザビエルは今のスペイン北東部、バスク地方出身の宣教師です。ザビエルの出生時、バスク地方はナバラ王国に支配されていましたが、ほどなく隣国のカスティーリャ・アラゴン王国に亡ぼされました。ザビエルの父は王国の宰相でしたが動乱の中で死にました。この時ナバラ国王はフランスに亡命しています。ザビエルの一族もフランス国王の庇護を受けた亡命貴族として遇されます。とはいえフランシスコは末子であり、若年だったのでパリ大学で哲学を勉強させてもらっていました。
 しかし、このパリ大学で出会った同郷のイグナチオ・デ・ロヨラの影響を受けて聖職者の道を志すようになります。ロヨラは同郷とはいえ、バスク回復戦を挑んだナバラ国王派に対してカスティーリャ方として戦って負傷し、除隊したという経歴の持ち主です。ロヨラは療養生活中にカトリックの教えを探求し、新たな宗教的境地に至ります。そしてパリ大学で知り合ったザビエルを含めた仲間にこれを広めてイエズス会という宗教結社を作りました。そしてロヨラはローマ教皇庁にイエズス会を修道会として認めるよう申請をしました。ロヨラの宗教的境地とそこに至るために考案された「霊操」という修行法は教皇庁にも肯定的に受け入れられ、三年後に教皇パウルス三世の認可を得ます。

 ロヨラの理想を大まかに記すと、神と教会を頂点とした軍隊的規律をもった宗教組織を作ることです。そして神への忠誠を呼び起こす手段として「霊操」という修行法を考案しました。「霊操」とはまず毎日異なるテーマを設定して黙想させ、司祭が信者の答えを吟味して信仰が誤った方向に行かないよう指導するという臨済宗の公案禅に近い方法です。ローマ教会はこの頃西欧で勃興してきたプロテスタントに頭を悩ませていました。免罪符という聖書にない集金手段の採用が批判されたためなのですが、それに比べれば「霊操」は健全な信仰心の涵養手段として受け入れやすいものでした。修道会として認められたイエズス会はロヨラの教えを世界中に広めることを画策します。

 ローマ教会がイエズス会を公認したことを知ったポルトガルの敬虔王ことジョアン三世はロヨラにアジア植民地人の教化を依頼します。目的は植民地支配にキリスト教を利用することでした。特に神への忠誠を求めるイエズス会の教義は都合がよかったのです。そこで派遣されたのがフランシスコ・ザビエルでした。ザビエルは当時ポルトガル領だったインドのゴアからマラッカに渡って信者を獲得してポルトガル王の期待に応えます。マラッカのポルトガル植民地で行った布教中に出会ったのが、ヤジロウという日本人でした。彼は薩摩出身で、人を殺した後、ポルトガル船に便乗してマラッカまで逃げてきたのでした。ザビエルはこの日本人の懺悔を聞く過程で、布教に適した地として日本を認識します。

 ザビエルはヤジロウを伴って鹿児島に上陸しました。しかし薩摩での布教ははかばかしくなく、肥前国平戸を経由して周防国山口に移ります。領主は大内義隆でしたが、ザビエルが男色を批判したせいで彼を怒らせてしまい、早々に京に向けて出発しました。瀬戸内航路で堺の豪商日比屋了珪と出会いその知己を得ます。彼は京都にいた商人仲間の小西隆佐に話をつけてくれて、ザビエルはようやく日本の首都京都にたどり着けました。京で天皇・将軍との会見を求めますが、この頃の京都は三好長慶に細川晴元と将軍親子が追放された直後でした。しかも、国主に会うのになぜかお土産を忘れる失態を犯しています。後奈良天皇がいる禁裏の敷居を超えるにはイエズス会流の清貧だけでは足りません。宗論を戦わせに延暦寺にも向かいますが、門前払いされてしまいます。失意のザビエルは平戸に戻るとそこで戦略を変え、自らの法衣を華美なものに変えました。そして再び山口に戻って大内義隆に欧州の文物を献上すると、大内義隆は手のひらを返してザビエルを歓待します。ここで五百人の信者を獲得して一応の満足を得たザビエルは同行していたコスメ・デ・トーレスに後事を託し、豊後の大友義鎮の招きにより府内で布教した後、日本を去ります。

 ザビエルの京における布教活動そのものはあまり実りあるものではありませんでしたが、ザビエルの日本行きによって作られた日本人とのコネクションは彼の後継者の大いなる助けとなります。堺衆日比屋了珪・小西隆佐らもそうですが、上洛した帰り道の山口で出会った名もなき半盲の琵琶法師、洗礼後の名のみが知られるロレンソ了斎がキリスト教の日本布教に重要な役割を果たすことになるのです。

 

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