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2020年1月11日 (土)

中漠:善人令和編③暗殺の季節


 そもそも三好長慶の挙兵は摂津国人池田信正に対する細川晴元の処罰に端を発します。池田信正は細川晴元に背いたところを三好長慶のとりなしで一度は許されていたので、それが後になって覆されたことに腹を立てたことが原因でした。それでも主君である細川晴元を憚って直接反逆するのではなく、細川晴元の側近である三好宗三(俗名政長)の責任ということにして細川晴元に三好宗三の処罰を求めていました。
 これに対して細川晴元は三好長慶の要求を拒否して全面戦争に至ります。三好長慶も負けるわけにはいかないので三好之虎(後の三好実休)、十河一存ら三好一門衆や河内の遊佐長教の応援を得て対抗しますが、細川晴元はあっさりと敗れ、三好宗三も戦死します。それだけではなく京で将軍親子とも戦って、これを追い出してしまう羽目になってしまいました。しかもその逃避行の最中に足利義晴は亡くなってしまい、三好のせいで父親が死んだと将軍足利義藤に思われても仕方のない状況になっています。

 三好長慶としては江口合戦から将軍を京から追い出すまでずっと講和の機会を探っていたのですが、敵はもちろん味方の三好一門衆や河内衆達までもがそれを阻んでいたのです。三好一門衆である三好之虎ら長慶の弟達は彼らの父である三好元長の死をめぐって三好宗三・細川晴元を恨んでいました。河内衆を率いる遊佐長教は細川晴元に河内国をいいようにされていました。河内国は長く尾州・総州両畠山家の抗争が続き疲弊したところを細川晴元に介入されていたのです。そのせいで遊佐長教は主家筋にあたる尾州畠山長経の殺害を強いられています。この事件は歴史家今谷明氏に「遊佐長教は腹に一物持っている人物」と評される原因の一つとなっているのですが、実際のところ長教は何度も中央の政局に苦汁を嘗めさせられた人物です。彼はそれに抵抗する為に細川高国の養子である氏綱を担いでいました。細川氏綱は実父である細川尹賢が香西元盛に対して讒言しさえしなければ細川高国から管領職を継承していた筈の京兆家家督継承有資格者でしたから、細川晴元にとっては共に天をいただかざる敵でした。故に三好長慶を支える一門衆も河内衆も戦争をどこで終わらせるかという点においては長慶と見解を異にしていたわけです。

 要するに三好宗三を討ち取って細川晴元と将軍親子を京から追い出したものの、それは全て成り行きでしかなかったということでした。類例を探すなら桂川合戦後の摂津・丹波国人衆達が似ているでしょう。彼らは細川高国・尹賢打倒の為に阿波に逼塞する足利義維・細川六郎、そして三好元長達と手を組みました。しかし、その後に起こった政権構想をめぐる路線対立は、以前の拙稿にて紹介した通り悲惨な結末を迎えています。

 三好長慶は振り上げたこぶしの降ろしどころに困りぬいているのですが、それは父親を畳の上で見取ってやれなかった足利義藤も同じでした。義藤が自分で動かせる軍隊で三好軍・遊佐軍を撃破するのが無理なことはここ一連の戦いから証明されています。戦争を終わらせる決め手を共に欠いて状況は膠着してしまいました。

 三好家は当主の長慶派と宗三の息子の政勝派に分裂しており、長慶と弟達との思惑も一致していません。足利義藤の傍には細川晴元もいます。四国から三好之虎と十河一存が来ていますが、彼らの主君は讃岐・阿波守護の細川持隆です。細川京兆家当主である細川晴元を使って持隆を動かし四国から畿内に来た三好一門衆の動きを統制させることも不可能ではないでしょう。また、河内衆も両畠山家の当主が没落した後バラバラになった各勢力を遊佐長教の力量でつなぎ止めているにすぎません。そんな中で三好長慶と遊佐長教の二人は勢いだけで京を占領してしまったのです。足利義藤にとって天文錯乱の時とは違って丹波国人衆は概ね将軍方であり、亡き父義晴が残した六角氏や朝倉氏などの旧高国派のネットワークは維持されています。彼らを除くことさえ出来れば、三好長慶率いる西摂津・四国連合軍、遊佐長教率いる河内郡は瓦解し、その隙をついて京を挽回することは可能であるように見えたのです。

 故にここまでの状況から彼らが打てる次の一手として「暗殺」と言う手段が浮かび上がってくるのはある意味必然でした。

 

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