« 中漠:善人令和編③暗殺の季節 | トップページ | 中漠:善人令和編⑤タイトロープの和平交渉 »

2020年1月18日 (土)

中漠:善人令和編④伊勢貞孝は帰洛したい

 伊勢氏は代々室町幕府の政所執事と言う役職を務めており、将軍の側近として勝ち組の将軍に仕え続けておりました。政所というのはいわば幕府の財務省のような役所であり、政所執事とは財務大臣の役職と言えます。とは言え、戦国期の幕府は財源の多くを失っており、その権限は縮小しておりました。その戦国期の政所執事を占めていたのが伊勢一族だった訳です。

Photo_20200111173501


 伊勢貞親は八代将軍足利義政に仕え、義政の弟義視を嫌って義尚を強力に支持したことが応仁の乱の炎に油を注ぐ結果になっています。その後継の貞宗は義政、義尚、義材(後の義尹、義稙)の歴代将軍に仕えますが、細川政元が明応の政変を起こすと彼が立てた足利義澄にためらわず仕えています。さらにその子の貞陸は永正の錯乱で細川政元が暗殺されて、足利義材が義尹と名を変えて再上洛するとそれまで仕えていた義澄を捨てて義尹に仕えます。その義尹が義稙と名前を変えて京を出奔するまでの間に貞陸は亡くなっているのですが、義稙出奔後に将軍になった義晴に貞陸の息子の貞忠が仕えます。貞忠は息子がおらず、曾祖父にあたる貞親の弟、貞藤の子孫の貞孝を養子に迎え後継ぎとしました。時に1535年(天文四年)、天文錯乱の真っ最中です。その翌年に洛中法華が弾圧・一掃された後、室町殿は正式に京に復帰し、貞孝の幕府財務官としての任務が始まります。

 その時の京は焼け野原でした。六角定頼が延暦寺に加担して法華宗を奉じる町衆ごと京を焼き払っていたからです。幕府の財政を預かる立場の伊勢貞孝からしてみれば、桂川合戦以降ずっと帰還を待ち望んでいた京を滅ぼされたも同然でした。復興するにせよ六角定頼が京のブルジョア階層である法華衆を殺戮し、その生き残りも細川晴元が追放したことで町の復興はままなりませんでした。
 但し、延暦寺は追放した洛中法華寺院の占有を求めましたが、幕府の意向でそれははぐらかしたままにしていました。山法師を洛中に入れるのはもってのほか、という認識があったようです。このあたり、幕府財政を司さどる伊勢貞孝の意見だったのではないかと私は想像しています。これによって金を持っている洛中法華の町衆が復帰できる芽は残された訳です。

 町衆の追放そのものは天文十一年の後奈良天皇の綸旨によって解除されますが、延暦寺の意向を抜きにしたものでしたので町そのものの復興はあまり進みませんでした。
 原因は細川晴元のせいだったのですが、天文十六年に彼と同じ管領職の有資格者である細川氏綱が反乱を起こしたため、細川晴元は京を留守にします。彼は京の防衛よりも管領職を横取りされる可能性を排除することを優先したのです。
 その隙に細川氏綱派の上野玄蕃が上洛してきたのですが、足利義晴はこれと戦うこともせず、京を脱出することもなく、六角定頼を管領代にして叡山と洛中法華との和議の仲介をさせます。それ以降妙顕寺や本国寺ら法華宗の主要寺院の帰還が始まって洛中復興が加速します。これも伊勢貞孝の立場からすれば京の復興が進めばその分幕府の財政も豊かになるので歓迎すべきことでした。

 しかし足利義晴は細川晴元の江口合戦の敗北に巻き込まれる形で京からの脱出を余儀なくされます。伊勢貞孝は政所執事であるためこれに帯同しましたが、伊勢貞孝はこれに不満を持っていたことは想像に難くありません。そもそもが今回の都落ちの原因を作ったのは細川晴元と三好宗三であり、三好長慶も含め全て細川京兆家家中における勢力争いに過ぎず、室町殿はそのとばっちりを食らっただけだったのです。足利義晴は命を懸けて京に帰還するための戦いを最期まで継続しました。伊勢貞孝はそれには付き合った訳ですが、足利義晴の死は見方を変えてみれば一つのきっかけになりうることに気づいたのでした。
 すなわち、敗北した細川晴元を切って細川氏綱をその代替とするという選択です。これが可能だと思う原因は江口合戦から二年も経つのに三好長慶はいまだに政権構想らしきものを立ててこないことにありました。その気になれば阿波平島の足利義冬(もと義維)を公方、細川氏綱を管領として新幕府を建て、下文を発給して諸国国人を味方につけることも可能でした。しかしそこには手をつけようとしないのは室町殿と関係を持ちたい顕われに違いありません。
 そして何よりも法華の復帰で新たに洛中の利権が形成されようとする中、洛外に居続けることはその利権を手放すことと同義であり、足利義藤の幕府の崩壊にも直結しかねないと考えたからだと思われます。
 意を決した伊勢貞孝は堅田の陣を離れて京に帰還します。三好長慶には実効性ある政権構想の持ち合わせはない。そして政権構想が無いのであれば、交渉で足利義藤を帰洛させることができるという確信のもとに。

 しかし、公方である足利義藤の方はその意図を十分に汲んでいなかったようです。あるいは、その意図を理解した上で伊勢貞孝を京に返せば三好長慶は油断すると踏んだようです。その結果、足利義藤陣営はよりリスキーな賭けに手を出すこととなりました。

Photo_20200111173502

|

« 中漠:善人令和編③暗殺の季節 | トップページ | 中漠:善人令和編⑤タイトロープの和平交渉 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 中漠:善人令和編③暗殺の季節 | トップページ | 中漠:善人令和編⑤タイトロープの和平交渉 »