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2020年2月29日 (土)

中漠:善人令和編⑩六角定頼は見限りたい


 相国寺合戦における細川晴元方の敗北を受けて細川晴元を見限った人物がいます。細川晴元の岳父、六角定頼です。彼は管領を名乗れなかった細川晴元を差し置き管領代を務めていました。

 彼は婿殿のために色々尽くしました。江口合戦には援軍を送り込んだものの到着前に細川軍は粉砕されてしまいましたが、三好長慶軍が大津に入って堅田にいた将軍と婿殿に迫ろうとした時には琵琶湖を渡って将軍を救いました。おかげで足利義藤たちは朽木に逃れることができました。
 彼は一貫して権力基盤が脆弱な足利将軍家と細川晴元を庇護し続けましたが、ここにきて考えを改めつつありました。すなわち、細川晴元がこれ以上敗北を重ねて足利将軍家のお荷物になるのであれば、細川晴元を切り捨てて三好長慶と和睦した方がよいのではないかと考えたのです。この一連の戦いは細川晴元の家内統制の失敗が原因であり、その責は細川晴元にありました。不始末の尻拭いに辟易しはじめていた六角定頼が、婿殿を見放すきっかけは相国寺合戦ではなかったかと私は見ています。

 この合戦で相国寺は悉く焼けてしまいます。織田信長の頃に茶会を開いた記録はあるものの、再建は進まず、信長の死後に西笑承兌が登場するまで果たせませんでした。相国寺を戦場にすることを選んだのは三好政勝と香西元成の両名でした。彼らにしてみれば、進軍コースに洛中を外し、洛中に兵を入れなかったのは、京の町衆と比叡山延暦寺を仲裁した六角定頼の顔を立ててのことだったでしょう。しかし、彼らは知らなかったようです。六角定頼はその青春時代を相国寺で過ごしていたことを。

 六角定頼は1495年(明応四年)に六角高頼の次男として誕生しました。彼には氏綱という三つ違いの兄がいて彼が嫡男として家督を継ぐことになっていました。定頼は十歳の時に僧になるために相国寺に入ります。そこで与えられた名前は吉侍者というものでした。兄氏綱は1506年(永正三年)に家督を継ぎますが、実権は惣領の六角高頼が握っていました。その翌年に時の管領細川政元が暗殺され、後継争いに乗じて流亡中の足利義尹(もと十代将軍足利義材のちの足利義稙)が上洛すると、足利義澄を水茎岡山城に匿います。しかし、1511年(永正八年)船岡山合戦で細川澄元が敗れ、足利義澄も病死すると、水茎岡山城を開城させて降伏し、以後南近江は足利義尹を支持します。六角家家督の氏綱は、1516年(永正十三年)に戦傷を負います。おそらく守護代伊庭貞隆との抗争によるもののようです。惣領の六角高頼は相国寺にいた次男の吉侍者を還俗させ、定頼と名乗らせて家督とします。この時六角定頼二十二歳。その二年後に兄の氏綱は亡くなり、さらにその二年後に父高頼も死ぬと、名実ともに六角家の当主となりました。彼の青春時代は相国寺にあったわけです。

 その翌年に足利義稙は阿波に出奔して敵方に回ります。管領細川高国は播磨国の浦上村宗のもとに預けられていた亀王丸を義晴と名乗らせて将軍職につけると、六角定頼もこれに従います。しかし内訌で細川高国は失脚。定頼は京を追われた将軍義晴を自領の扶桑寺に迎えました。そして細川晴元や木澤長政、柳本賢治らと交渉して、彼らを足利義維・三好元長らから引き離すことに成功します。しかし、足利義晴の帰京に際し洛中法華衆と延暦寺との諍いに介入したために大きなミソをつけてしまいました。

 この時洛中の法華衆は一万の兵を動員できる程の実力を持っています。細川晴元は本願寺に裏切られたばかりで洛中に自治組織を持つ法華衆にも懐疑の目を向けていました。六角定頼も禅僧出身とはいえ、近江の領主である以上延暦寺は無視できず、争論が荒れた場合、延暦寺につかざるを得ません。運悪く彼の配下の兵は町衆を虐殺した上に、京の街を全て灰にしました。法華宗徒の多くが京の裕福な町衆だったため、やむを得ない部分はありますが、京の街は焦土と化しました。そして調子に乗った細川晴元が京に法華宗禁止の命令を出したおかげで京の復興は十年遅れてしまいます。

 天文十六年(1547年)に細川氏綱が蜂起してその鎮圧のために細川晴元が京を離れると足利義晴は六角定頼を管領代に指名します。六角家は足利一門ではないため管領にはなれないのですが、その有資格者である細川晴元が管領を名乗っていない状況で管領代に指名されたということは、事実上管領になったのと同じでした。彼は延暦寺と法華衆の和議をまとめ、洛中復興に道筋をつけます。以後の兵乱で京が蹂躙されることはありませんでした。三好政勝らもその経緯はわかっていたと思いますが、相国寺を燃やしたことは六角定頼の恨みを買う十分な出来事だったようです。

 六角定頼は三好長慶と足利義藤が京に帰ることを前提とした和平交渉に踏み切ります。もちろん、その交渉次第で京兆家当主の座を細川晴元から取り上げることも含めてです。しかし、その交渉の途上で六角定頼の寿命は尽きかけていました。

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2020年2月22日 (土)

中漠:善人令和編⑨三好政勝の古戦場巡り


 三好長慶や遊佐長教への襲撃並びに暗殺事件の背後にいたのは細川晴元だったと考えられます。伊勢貞孝が帰洛した所を見ても、足利義藤の身辺は一枚岩ではない事は明らかです。そして暗殺という手段が横行したのは手持ちの武力で敵を打倒できない事の裏返しでした。
 もちろん長慶・長教達はスネに傷を持っているので、色々な所から恨みを買っています。しかし、結果を出す事に迫られていたのは間違いなく細川晴元だったでしょう。本来、細川晴元は三好長慶の主人であり、細川晴元が自家の家臣統制に失敗した結果、将軍達まで京を追われてしまったのです。足利義藤達からしてみればとばっちりを受けたようなものでした。遊佐長教の暗殺は成功したものの、依然三好長慶は健在です。

 進士賢光に襲撃された直後に細川晴元配下の軍勢が洛中に入りましたが、それは天文法華乱後に築かれた洛中城塞外での示威行為にすぎませんでした。それで京から三好長慶の軍勢を追い出せるわけではありません。
 ただ、この行軍ルートは少し奇妙でした。細川晴元達は堅田にいるわけですが、東山を超えて大原路を南下し、岩倉を経て京都盆地が見えた所をまっすぐ西に向かって長坂口から船岡山を回り込み、千本通伝いに五条通まで下ってその周囲に焼き働きをしてそのまま帰っていきました。明らかに町衆が復興した洛中城塞を避けて進軍しているのですが、大原路から京に入るのであれば、長坂口まで回り込まずに、鞍馬口を通った方が近いわけです。
 これは遊佐長教が暗殺された翌々月の三好政勝、香西元成らの二回目の示威行動でその意図が見えてきます。この時も大原路からわざわざ長坂口に回り込んだ後、船岡山から等持院に向かった後反転して相国寺を目指してそこに陣取ったのでした。これはおそらく大永年間に細川高国が三好軍を破った船岡山合戦と等持院合戦の戦場をわざわざめぐっていたようです。細川晴元は自らを細川高国に見立ててかつての戦いのように三好軍を撃退すると息巻いているわけでした。ツッコミどころとしては、三好政勝も香西元成も細川晴元が四国から連れてきた家臣で、細川晴元は三好軍の総大将であった細川澄元の息子であるという所ですね。

 かなり児戯めいた挑発だったわけですが、三好長慶はこれにガチで対応しました。松永久秀、長頼兄弟に兵を持たせて相国寺を囲ませたのです。彼らは三好長慶が西摂津の越水城に入った以後に採用された被官で久秀には周旋の才能が、長頼には軍才がありました。三好宗家の家臣団は天文の乱で一向門徒に一度壊滅させられていますので人材が払底していました。兄弟は幼く他の一門衆はそれぞれ家中で担当する役割が決まっていて天文の乱後に越水城主になった三好長慶には使いづらかったのでした。故に東摂津または西山城辺り(摂津国島上郡五百住に住する入江氏諸流説が有力)にいた無名の兄弟を採用したわけです。無名といってもこの辺りは寺社の荘園や惣村が多く教育も充実していたようで、松永兄弟はその才能を三好家の為に大いに役立て、相国寺の政勝・香西軍の排除の為に集めた兵が四万にものぼりました。

 対抗する三好政勝・香西元成はそれぞれの本拠地から切り離されています。朽木に足利義藤と細川晴元はいますが、大兵力を長期に置けるはずもありません。なので動員兵力は近隣の土豪岩倉氏や山中氏の支援を受けた三千程度でした。兵力差は十倍以上あります。それでも三好政勝らは奮戦し、戦いは夜戦となります。照明確保の為に相国寺が燃やされました。払暁には三好政勝・香西元成軍は撤退しましたが、相国寺の伽藍は烏有に帰しました。

 この合戦でよくわからないのは相国寺に陣取った三好政勝・香西元成の二人に勝利条件が見えない事です。暗殺未遂事件まで三好長慶は京都の南側の吉祥院にいました。しかし政勝・香西は長慶の拠点に攻撃を加えるわけでもなく、洛中に軍を進めるわけでもありませんでした。船岡山や等持院へ異様な古戦場めぐりをした後相国寺に三好長慶軍を迎え撃つ事に戦術上の意味があるとは思えません。
 建武の乱においては後醍醐天皇は延暦寺に遷座し洛中に兵を縦横させ、上洛した足利尊氏軍を苦しめました。建武の乱における洛中攻防は二回あって、一度目は北畠顕家が東から攻め入り、二度目は四条隆資が京都西側の淀に陣して退路を塞いで足利尊氏を苦しめます。応仁の乱においては洛中全部が灰になっても細川勝元は京を退去せずに禁裏と将軍を確保し続け長期戦から調略戦に持ち込みました。相国寺合戦における三好政勝らにはそうした作戦がありません。天文法華乱後の法華衆還住以降、洛中に軍を入られなくなっています。そういうハンデがある上に三好長慶暗殺にも失敗している条件下で勝利を収めるのは無理ゲーでした。そんな中で彼らができた事は次の戦いを見据えて最後まで戦う事だったのかもしれません。

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出典:国土地理院ウェブサイト(https://maps.gsi.go.jp/)の地形図を修正

1551年(天文二十 年)  一月三十 日 伊勢貞孝、帰洛。
  二月  七日 志賀里にて松永長頼率いる三好軍を六角義賢軍が制す。
  十 日 足利義藤、堅田より朽木に移る
  三月  七日 吉祥院での三好長慶暗殺計画が露見。
  十四日 三好長慶、奉公衆進士賢光に伊勢貞孝邸で暗殺されかける。
  十五日 三好政勝、香西元成ら五条通まで進出して放火
  五月  五日 遊佐長教、珠阿弥に高屋城で暗殺される。
  七月 十四日 三好政勝、香西元成軍、上洛。相国寺付近で合戦し、敗北して撤退。

 

 

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2020年2月15日 (土)

中漠:善人令和編⑧遊佐長教の死は重い


 遊佐長教の戦国武将としての力量はかなり高いと私は評価しています。応仁の乱以降戦乱が続き、国力が疲弊した河内国において、兵を動員して戦果を挙げる機会は限られています。その限られた機会を活かすために機が熟すまでは守勢を保ち、一たび勝機を見出すや一気に敵を倒す。倒すところまでもっていくのが遊佐長教の戦い方であったと思います。

 例えば第一次石山合戦の最終局面において、天文四年四月に高屋城より軍を発するや、飯盛山城の木澤長政と合流してそのまま河内八箇所、そして摂河国境の杜河内、稲田、長田の本願寺防御陣を抜いて本願寺寺内まで軍をすすめ、本願寺を降伏させるに至ります。それまでは南河内国人衆で、本願寺と戦える味方集めをしていました。畠山家臣の本願寺門徒は数多く、石山に法主が入山した時点で両属などありえないとの判断からでしょう。下手をすれば主君畠山稙長は討たれていたかもしれず、彼を紀州に追い出した判断は間違いではないと思います。

 太平寺合戦においては、木澤長政と雌雄を決する戦いを行い、戦線膠着の中、三好軍の援軍が木澤軍の後背に現れ、木澤軍が崩れたところを追撃し、木澤長政を討ち取っています。

 三好長慶自身も遊佐長教にしてやられたことがありました。氏綱討伐のために堺まで進出したところ、それを遊佐長教に捕捉されて堺の町全体を包囲されたことがあります。この時は堺町衆の周旋で三好長慶は助かりましたが、下手をすれば父親である三好元長と同じ場所で命を終えたかもしれなかったのです。

 江口合戦においても、江口城陥落で淀川をわたって榎並城に落ち延びようとした三好宗三を討ち取っています。彼が生きて榎並城に入っていれば、山城摂津国境の山崎までいた六角軍の援軍はそのまま南下して戦闘が続いた可能性はあります。

 舎利寺合戦は遊佐長教の負け戦とされていますが、がっぷり四つに組んだ後に戦況不利とみるや撤兵しています。そもそもこの合戦、近年にない大合戦といわれているわりにはその近所にいた本願寺証如の日記には書かれていないし、武将クラスの戦死者もいないよくわからない合戦です。遊佐長教は負けない戦いをしたという評価も可能ではないかと思います。

 このように遊佐長教は独特な政治センスと共に、軍事センスも備えていました。彼が三好長慶の足りない部分を補って補佐し続けていれば、三好政権のありようも変わっていたと思います。少なくとも彼が尾州畠山家と三好長慶との関係を保ちつつ河内国をまとめ続けていれば、少なくとも三好実休が久米田合戦で死ぬことはなかったはずです。

 遊佐長教が命を落としたのは、戦陣の中ではなく、彼の居城若江城においてでした。彼は昵懇にしていた時宗僧の珠阿弥と酒を飲み、酩酊して寝込んだところを珠阿弥によって刺し殺されたとのことです。つい二か月前三好長慶が進士賢光に襲撃されたばかりですので、足利義藤または細川晴元の仕業とも考えられるのですが、それ以前に彼は河内で総州畠山派や木澤長政だけではなく、主君や本願寺門徒の国衆相手に裏切りを繰り返しており、彼を恨んでいる人間はたくさんいました。

 その代表格として目されたのが萱振賢継でした。彼の本貫地である河内国若江郡萱振(八尾市)には恵光寺という本願寺教団寺院が作った寺内町があります。ここは平野川の八尾木から分流して新開池に注ぐする楠根川沿いにある在所で、蓮淳の近江国近松顕証寺に属していました。天文一揆後その蓮淳が河内国渋川郡(八尾市)の西証寺に入って寺号を顕証寺に改め、寺内を再興したのでした。蓮如の頃もそうでしたが、本願寺教団には河川開発のノウハウが蓄積されていました。大和川と淀川水系の河川が縦横に注ぎ込む河内国にとっては蓮淳の河内再開発ブランは大変魅力的でした。蓮淳は北河内の交野郡招堤(枚方市)にも道場を建立します。そこには畠山家家臣野尻氏の勢力圏でもありました。萱振・野尻は遊佐体制の重鎮ではあったのですが、親門徒の立ち位置にもあったのです。ただし、蓮淳は遊佐長教の死の2年前に寂しています。
 さらにもう一人、河内には重要人物がいました。彼の名前は安見宗房。大和国出身で南山城に在任した経歴のある旧木澤党で太平寺合戦後に遊佐長教の配下に入ったものです。遊佐長教の死の時点で彼の主筋の畠山高政は二十五歳になっていました。彼もまた遊佐長教によって行動を制約されていた者の一人です。遊佐長教が死ぬことで何とかバランスが取れていたこれら勢力の均衡が崩れることになります。遊佐長教の嫡子の信教はこのころ四歳でした。遊佐長教の死は三好家を含む合意のもと、百日間秘されることとなりました。

 三好長慶にとってさらに悪いことはこれまで遊佐長教が庇護してきた細川氏綱を彼自身が引き取らなければならなくなったことです。細川氏綱擁立は遊佐長教がはじめたことですが、長教の横死後氏綱の立場を代弁するものが河内国にいなくなってしまいます。三好長慶は遊佐長教の遺産を引き継ぐしかありませんでした。

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出典:国土地理院ウェブサイト(https://maps.gsi.go.jp/ )地形図を修正して使用。

 

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2020年2月 8日 (土)

中漠:善人令和編⑦持たざる者の身を焦がす憧憬


 前稿の最後に示した非業の最期を遂げる人物とは、遊佐長教のことです。
 今谷明氏の「戦国 三好一族」では油断ならぬ野心家と評されています。彼は三好長慶の同盟者として大きな貢献をしたはずで、同書が三好氏の視点で書かれているにもかかわらず、辛い評価しか得られていません。それも無理からぬことで彼の人生は裏切りの連続でした。主家を裏切ったことも度々あり、木澤長政と並んで河内の下克上の体現者と言われても仕方ない部分があります。
 しかし、その下克上は彼の野心よりは、本願寺、木澤長政や細川晴元など尾州畠山家を脅かす者から主人を守ろうとした結果ではないかと私は考えています。阿波から来た細川晴元は総州畠山家と緊密であり、本願寺とのコネクションを有していました。いずれの勢力も河内国に頑強に根を張っています。その状況で高屋城に尾州畠山当主を置くことは細川晴元の圧力の矢面に立つことになるわけです。

 遊佐長教が歴史の表舞台に登場するのは、天文錯乱において紀州に逼塞していた畠山稙長とともに河内国高屋城を取り返した時です。当時の河内国は細川高国の失脚に伴い、尾州畠山稙長は総州畠山義堯に河内を追われていましたが、細川高国を追い出した足利義維方も決定的な力を持ってません。上洛前に内紛が発生し、総州畠山義堯は一向門徒勢に屠られてしまいました。これを奇貨として尾州畠山稙長が河内入りをしたわけです。しかし、石山本願寺はすぐに細川六郎とも対立し、本願寺は石山で細川六郎を敵にして戦う羽目に陥ります。しかも、本願寺証如の檄に応じて総州畠山義堯を滅ぼした主力は、一向門徒の河内国人衆でした。
 本願寺のおかげで高屋城を取り返せましたが、そのまま石山本願寺に味方することは危険でした。何より河内国人衆の多くは畠山家家臣であると同時に門徒であったので、証如の機嫌を損ねた場合、総州畠山義堯の二の舞になりかねませんでした。そこで、遊佐長教は尾州畠山稙長を紀州に戻したうえで、木澤長政、細川六郎と手を組んだのです。河内門徒達はこれに怒りましたが、尾州畠山家の生き残りを考えるなら妥当な策と言えます。
 戦後になると、今度は河内に尾州畠山家の当主を置くことに細川六郎改め晴元は難色を示します。稙長はもちろんその兄弟も晴元は拒否し、河内国は木澤長政と遊佐長教の共同統治体制にされてしまいます。そんな中、稙長の弟長経が高屋城に居座ってしまい、どうにもならなくなったため、武力で駆逐するに至ります。
 そして、尾州畠山家の内情に干渉してきた木澤長政が細川晴元と対立するようになると、晴元方について木澤長政を討ち取りました。木澤長政の最期はまさに罠にはめられたようなものであり、遊佐長教としては細川晴元を信用できません。故に細川氏綱を奉じて戦うことにしたのです。

 しかし、舎利寺の戦いで細川晴元に負けます。その和睦の証として三好長慶を婿に迎えます。長教は三好長慶が細川陣営の中で際立って強いにもかかわらず、微妙な立場にいることに気づきます。苦労人遊佐長教には、三好長慶の、細川晴元や三好宗三にいいように使われつつも他人を憎み切れない人柄にやきもきして説教の一つもかましそうな、そんなツッコミ役を期待しても良いのではないか、と妄想するのです。前稿にて紹介したトライガン・マキシマムに出てくるニコラス・D・ウルフウッドのように。

 このニコラス・D・ウルフウッドというキャラクターは前稿でふれたバッシュ・ザ・スタンピードの相方です。関西弁のえせ牧師で、商売道具として担いでいる巨大な十字架がそのままロケットランチャーやマシンガンになる素敵な兵装を駆使して戦うガンマンです。彼は殺し屋組織に育てられた孤児で、牧師は仮の姿なんですね。相当苦労してきたし、意に沿わない非道も繰り返し強いられ続けた人生を歩んできました。なので誰に何と言われようと不殺を貫くバッシュ・ザ・スタンピードにはついつい説教をしてしまうのですね。

 しかしバッシュも不殺の生き方を変えたりはしない。何度も殺されかけるのにバッシュは死にかけながらも不殺を通します。バッシュには超人的な能力持ちという設定があって、ウルフウッドはそれに嫉妬します。自分は何度も諦めて意に添わぬことも強いられ続けたのに、バッシュは自分の超人的な力と運だけで諦めずにすんでいると。
 それは持たざる者の身を焦がす憧憬でもあります。でも、付き合いを重ねるうちにそれが違うことに彼は気づきます。決して諦めずにすんでいるわけではなく、彼は色々彼自身が大事と思ってきたものを失っています。その結果彼の笑顔も空っぽになってしまいました。しかし、彼はそこでこれ以上何も失うまいと決意したのです。

 遊佐長教が三好長慶の生きざまに何を見出したのかはわかりませんが、上記のようなシチュエーションを考えるのはありだと思います。

 

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2020年2月 1日 (土)

中漠:善人令和編⑥不殺の行く末


 歴史考察における見立てというのは弊害もあるのですが、使い出のある方法論です。ここでいう見立てとは、既存の別の物語におけるキャラクターやストーリーを史実に当てはめて理解するやり方です。利点としては複雑な事件などの背景を既存の物語の構図に当てはめることによって、わかりやすく説明できることが挙げられます。反面、それは一面的な理解となってしまって重要な史実を見落としてしまうことや、見当はずれな理解となってしまうリスクもあります。三好氏の研究は最近進んでいるものの、織田信長が登場する以前の戦国史は未整理な部分も多く、暫定的な理解を得る手段としてこうした見立てを使ってみることも、リスクを自覚した上ではありなのではないかと考えています。

 三好長慶を物語の登場人物の類型に当てはめると、その属性として「不殺」が浮かび上がります。いやいや、三好宗三を殺したやんけ、というツッコミもありなんですが、実際に宗三を討ち取ったのは遊佐長教軍です。太平寺合戦においても三好軍は活躍したのですが、実際に敵将木澤長政を討ち取ったのも遊佐軍でした。無論三好長慶率いる三好軍は強いし、故に細川晴元も長慶を遠ざけつつも彼を使わざるを得ませんでした。しかし意外なほど長慶は敵将を討ち取っていません。後々政権を担うことになっても、政敵となった足利義藤(義輝)や、細川晴元を滅ぼそうとしない微温的な態度を貫いています。

 強いけど「不殺」。この類型には、るろうに剣心の主人公緋村剣心が真っ先に思い浮かぶのですが、本稿の趣旨的には少し古くてマイナーな「トライガン・マキシマム」という漫画にでてくるバッシュ・ザ・スタンピードを紹介したいと思います。話を大幅に端折って紹介するなら、移民宇宙船が事故で辺境惑星に漂着します。その過酷な環境下では国家の保護はもちろんなくて法も機能せず、生き延びるために無法もまかり通る有様です。まさに西部劇のような状況下で愛銃を引っ提げて無法者と戦う凄腕のガンマンであるバッシュ・ザ・スタンピードの活躍を描いた物語です。彼はとある事件に巻き込まれて街の善良な人々を死に追いやってしまった過去を持ちます。それは彼に非は全くない事件ではあるのですが、その惨禍のすさまじさから彼には「暴走(スタンピード)」という二つ名がつけられるのですね。彼はそれを自らの罪として背負って「不殺」の生き方を選び、それを貫き通します。その姿が三好長慶に被るのです。

 三好長慶が歴史の舞台に登場した時、三好家には大変な悪評がついて回っていました。これは彼の曽祖父の三好之長のせいです。曰く彼は応仁乱中に洛中で略奪し、寺社仏閣や焼きまくった細川政元の片棒を担ぎ、京を何度も侵略した極悪人という感じです。しかし、応仁乱中の略奪は他の部隊もやっていて、寺社仏閣の焼き討ちもやっていたのは細川政元配下の赤澤宗益です。三好之長は赤澤宗益と一緒に一度だけ大和・河内で戦っただけです。京への侵略については之長に言わせると主君細川澄元から管領の座を奪った細川高国の方が簒奪者です。しかし、運の悪いことに最終的に三好之長は細川高国に敗北して捕らえられ、彼の主君細川澄元も後方で病死します。細川高国の勝利であり、虜になった三好之長は高国の勝利の象徴でした。細川高国は自らの正当性を主張するために三好之長を実態以上に悪魔化して喧伝しました。この風評被害を受けたのが之長の孫(長慶の父)の元長でした。
 彼は丹波国人衆が細川高国と対立した折に、丹波国人の要請に従って畿内入りしたのですが、細川高国の宣伝のせいで畿内国人衆に嫌われぬいていました。元長は祖父の仇である細川高国を討ち取り、三好軍の強さを誇示しましたが、逆に細川六郎の祐筆である茨木長隆に本願寺門徒軍団を差し向けられて滅ぼされてしまいました。

 三好長慶の歴史デビューはこの父三好元長を滅ぼした三好家に対する悪評への対処からでした。しかも、父親が死んだ直接の原因となった本願寺教団とその時父親が攻め滅ぼそうとしていた木澤長政、父親を見捨てた細川六郎らとの和議を整えることが、彼に課された初任務だったわけです。三好長慶はこの親の仇達に対して私情を捨ててことに当たりました。しかも、彼は摂津国の西端の越水に封じられて政権中枢から外されています。普通だったらブチ切れるところですが、三好長慶はそれに耐え、武威を示しつつも仁者であろうとしました。三好長慶の仁者への道には気の遠くなるほど数多くの困難が待ち受けており、彼はそれを信じがたいペースで克服していきます。

 「トライガン・マキシマム」には、バッシュ・ザ・スタンピードといういわれのない罪を背負った善人の傍らで彼の行いを偽善と糾弾する登場人物が現れます。その人物は物語の終盤で非業の最期を遂げるわけですが、三好長慶の人生にも彼と同じ役回りを果たした人物がいたと私は見立てております。次稿でその人物を紹介したいと思います。

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