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2020年2月22日 (土)

中漠:善人令和編⑨三好政勝の古戦場巡り


 三好長慶や遊佐長教への襲撃並びに暗殺事件の背後にいたのは細川晴元だったと考えられます。伊勢貞孝が帰洛した所を見ても、足利義藤の身辺は一枚岩ではない事は明らかです。そして暗殺という手段が横行したのは手持ちの武力で敵を打倒できない事の裏返しでした。
 もちろん長慶・長教達はスネに傷を持っているので、色々な所から恨みを買っています。しかし、結果を出す事に迫られていたのは間違いなく細川晴元だったでしょう。本来、細川晴元は三好長慶の主人であり、細川晴元が自家の家臣統制に失敗した結果、将軍達まで京を追われてしまったのです。足利義藤達からしてみればとばっちりを受けたようなものでした。遊佐長教の暗殺は成功したものの、依然三好長慶は健在です。

 進士賢光に襲撃された直後に細川晴元配下の軍勢が洛中に入りましたが、それは天文法華乱後に築かれた洛中城塞外での示威行為にすぎませんでした。それで京から三好長慶の軍勢を追い出せるわけではありません。
 ただ、この行軍ルートは少し奇妙でした。細川晴元達は堅田にいるわけですが、東山を超えて大原路を南下し、岩倉を経て京都盆地が見えた所をまっすぐ西に向かって長坂口から船岡山を回り込み、千本通伝いに五条通まで下ってその周囲に焼き働きをしてそのまま帰っていきました。明らかに町衆が復興した洛中城塞を避けて進軍しているのですが、大原路から京に入るのであれば、長坂口まで回り込まずに、鞍馬口を通った方が近いわけです。
 これは遊佐長教が暗殺された翌々月の三好政勝、香西元成らの二回目の示威行動でその意図が見えてきます。この時も大原路からわざわざ長坂口に回り込んだ後、船岡山から等持院に向かった後反転して相国寺を目指してそこに陣取ったのでした。これはおそらく大永年間に細川高国が三好軍を破った船岡山合戦と等持院合戦の戦場をわざわざめぐっていたようです。細川晴元は自らを細川高国に見立ててかつての戦いのように三好軍を撃退すると息巻いているわけでした。ツッコミどころとしては、三好政勝も香西元成も細川晴元が四国から連れてきた家臣で、細川晴元は三好軍の総大将であった細川澄元の息子であるという所ですね。

 かなり児戯めいた挑発だったわけですが、三好長慶はこれにガチで対応しました。松永久秀、長頼兄弟に兵を持たせて相国寺を囲ませたのです。彼らは三好長慶が西摂津の越水城に入った以後に採用された被官で久秀には周旋の才能が、長頼には軍才がありました。三好宗家の家臣団は天文の乱で一向門徒に一度壊滅させられていますので人材が払底していました。兄弟は幼く他の一門衆はそれぞれ家中で担当する役割が決まっていて天文の乱後に越水城主になった三好長慶には使いづらかったのでした。故に東摂津または西山城辺り(摂津国島上郡五百住に住する入江氏諸流説が有力)にいた無名の兄弟を採用したわけです。無名といってもこの辺りは寺社の荘園や惣村が多く教育も充実していたようで、松永兄弟はその才能を三好家の為に大いに役立て、相国寺の政勝・香西軍の排除の為に集めた兵が四万にものぼりました。

 対抗する三好政勝・香西元成はそれぞれの本拠地から切り離されています。朽木に足利義藤と細川晴元はいますが、大兵力を長期に置けるはずもありません。なので動員兵力は近隣の土豪岩倉氏や山中氏の支援を受けた三千程度でした。兵力差は十倍以上あります。それでも三好政勝らは奮戦し、戦いは夜戦となります。照明確保の為に相国寺が燃やされました。払暁には三好政勝・香西元成軍は撤退しましたが、相国寺の伽藍は烏有に帰しました。

 この合戦でよくわからないのは相国寺に陣取った三好政勝・香西元成の二人に勝利条件が見えない事です。暗殺未遂事件まで三好長慶は京都の南側の吉祥院にいました。しかし政勝・香西は長慶の拠点に攻撃を加えるわけでもなく、洛中に軍を進めるわけでもありませんでした。船岡山や等持院へ異様な古戦場めぐりをした後相国寺に三好長慶軍を迎え撃つ事に戦術上の意味があるとは思えません。
 建武の乱においては後醍醐天皇は延暦寺に遷座し洛中に兵を縦横させ、上洛した足利尊氏軍を苦しめました。建武の乱における洛中攻防は二回あって、一度目は北畠顕家が東から攻め入り、二度目は四条隆資が京都西側の淀に陣して退路を塞いで足利尊氏を苦しめます。応仁の乱においては洛中全部が灰になっても細川勝元は京を退去せずに禁裏と将軍を確保し続け長期戦から調略戦に持ち込みました。相国寺合戦における三好政勝らにはそうした作戦がありません。天文法華乱後の法華衆還住以降、洛中に軍を入られなくなっています。そういうハンデがある上に三好長慶暗殺にも失敗している条件下で勝利を収めるのは無理ゲーでした。そんな中で彼らができた事は次の戦いを見据えて最後まで戦う事だったのかもしれません。

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出典:国土地理院ウェブサイト(https://maps.gsi.go.jp/)の地形図を修正

1551年(天文二十 年)  一月三十 日 伊勢貞孝、帰洛。
  二月  七日 志賀里にて松永長頼率いる三好軍を六角義賢軍が制す。
  十 日 足利義藤、堅田より朽木に移る
  三月  七日 吉祥院での三好長慶暗殺計画が露見。
  十四日 三好長慶、奉公衆進士賢光に伊勢貞孝邸で暗殺されかける。
  十五日 三好政勝、香西元成ら五条通まで進出して放火
  五月  五日 遊佐長教、珠阿弥に高屋城で暗殺される。
  七月 十四日 三好政勝、香西元成軍、上洛。相国寺付近で合戦し、敗北して撤退。

 

 

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