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2020年2月29日 (土)

中漠:善人令和編⑩六角定頼は見限りたい


 相国寺合戦における細川晴元方の敗北を受けて細川晴元を見限った人物がいます。細川晴元の岳父、六角定頼です。彼は管領を名乗れなかった細川晴元を差し置き管領代を務めていました。

 彼は婿殿のために色々尽くしました。江口合戦には援軍を送り込んだものの到着前に細川軍は粉砕されてしまいましたが、三好長慶軍が大津に入って堅田にいた将軍と婿殿に迫ろうとした時には琵琶湖を渡って将軍を救いました。おかげで足利義藤たちは朽木に逃れることができました。
 彼は一貫して権力基盤が脆弱な足利将軍家と細川晴元を庇護し続けましたが、ここにきて考えを改めつつありました。すなわち、細川晴元がこれ以上敗北を重ねて足利将軍家のお荷物になるのであれば、細川晴元を切り捨てて三好長慶と和睦した方がよいのではないかと考えたのです。この一連の戦いは細川晴元の家内統制の失敗が原因であり、その責は細川晴元にありました。不始末の尻拭いに辟易しはじめていた六角定頼が、婿殿を見放すきっかけは相国寺合戦ではなかったかと私は見ています。

 この合戦で相国寺は悉く焼けてしまいます。織田信長の頃に茶会を開いた記録はあるものの、再建は進まず、信長の死後に西笑承兌が登場するまで果たせませんでした。相国寺を戦場にすることを選んだのは三好政勝と香西元成の両名でした。彼らにしてみれば、進軍コースに洛中を外し、洛中に兵を入れなかったのは、京の町衆と比叡山延暦寺を仲裁した六角定頼の顔を立ててのことだったでしょう。しかし、彼らは知らなかったようです。六角定頼はその青春時代を相国寺で過ごしていたことを。

 六角定頼は1495年(明応四年)に六角高頼の次男として誕生しました。彼には氏綱という三つ違いの兄がいて彼が嫡男として家督を継ぐことになっていました。定頼は十歳の時に僧になるために相国寺に入ります。そこで与えられた名前は吉侍者というものでした。兄氏綱は1506年(永正三年)に家督を継ぎますが、実権は惣領の六角高頼が握っていました。その翌年に時の管領細川政元が暗殺され、後継争いに乗じて流亡中の足利義尹(もと十代将軍足利義材のちの足利義稙)が上洛すると、足利義澄を水茎岡山城に匿います。しかし、1511年(永正八年)船岡山合戦で細川澄元が敗れ、足利義澄も病死すると、水茎岡山城を開城させて降伏し、以後南近江は足利義尹を支持します。六角家家督の氏綱は、1516年(永正十三年)に戦傷を負います。おそらく守護代伊庭貞隆との抗争によるもののようです。惣領の六角高頼は相国寺にいた次男の吉侍者を還俗させ、定頼と名乗らせて家督とします。この時六角定頼二十二歳。その二年後に兄の氏綱は亡くなり、さらにその二年後に父高頼も死ぬと、名実ともに六角家の当主となりました。彼の青春時代は相国寺にあったわけです。

 その翌年に足利義稙は阿波に出奔して敵方に回ります。管領細川高国は播磨国の浦上村宗のもとに預けられていた亀王丸を義晴と名乗らせて将軍職につけると、六角定頼もこれに従います。しかし内訌で細川高国は失脚。定頼は京を追われた将軍義晴を自領の扶桑寺に迎えました。そして細川晴元や木澤長政、柳本賢治らと交渉して、彼らを足利義維・三好元長らから引き離すことに成功します。しかし、足利義晴の帰京に際し洛中法華衆と延暦寺との諍いに介入したために大きなミソをつけてしまいました。

 この時洛中の法華衆は一万の兵を動員できる程の実力を持っています。細川晴元は本願寺に裏切られたばかりで洛中に自治組織を持つ法華衆にも懐疑の目を向けていました。六角定頼も禅僧出身とはいえ、近江の領主である以上延暦寺は無視できず、争論が荒れた場合、延暦寺につかざるを得ません。運悪く彼の配下の兵は町衆を虐殺した上に、京の街を全て灰にしました。法華宗徒の多くが京の裕福な町衆だったため、やむを得ない部分はありますが、京の街は焦土と化しました。そして調子に乗った細川晴元が京に法華宗禁止の命令を出したおかげで京の復興は十年遅れてしまいます。

 天文十六年(1547年)に細川氏綱が蜂起してその鎮圧のために細川晴元が京を離れると足利義晴は六角定頼を管領代に指名します。六角家は足利一門ではないため管領にはなれないのですが、その有資格者である細川晴元が管領を名乗っていない状況で管領代に指名されたということは、事実上管領になったのと同じでした。彼は延暦寺と法華衆の和議をまとめ、洛中復興に道筋をつけます。以後の兵乱で京が蹂躙されることはありませんでした。三好政勝らもその経緯はわかっていたと思いますが、相国寺を燃やしたことは六角定頼の恨みを買う十分な出来事だったようです。

 六角定頼は三好長慶と足利義藤が京に帰ることを前提とした和平交渉に踏み切ります。もちろん、その交渉次第で京兆家当主の座を細川晴元から取り上げることも含めてです。しかし、その交渉の途上で六角定頼の寿命は尽きかけていました。

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