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2020年2月15日 (土)

中漠:善人令和編⑧遊佐長教の死は重い


 遊佐長教の戦国武将としての力量はかなり高いと私は評価しています。応仁の乱以降戦乱が続き、国力が疲弊した河内国において、兵を動員して戦果を挙げる機会は限られています。その限られた機会を活かすために機が熟すまでは守勢を保ち、一たび勝機を見出すや一気に敵を倒す。倒すところまでもっていくのが遊佐長教の戦い方であったと思います。

 例えば第一次石山合戦の最終局面において、天文四年四月に高屋城より軍を発するや、飯盛山城の木澤長政と合流してそのまま河内八箇所、そして摂河国境の杜河内、稲田、長田の本願寺防御陣を抜いて本願寺寺内まで軍をすすめ、本願寺を降伏させるに至ります。それまでは南河内国人衆で、本願寺と戦える味方集めをしていました。畠山家臣の本願寺門徒は数多く、石山に法主が入山した時点で両属などありえないとの判断からでしょう。下手をすれば主君畠山稙長は討たれていたかもしれず、彼を紀州に追い出した判断は間違いではないと思います。

 太平寺合戦においては、木澤長政と雌雄を決する戦いを行い、戦線膠着の中、三好軍の援軍が木澤軍の後背に現れ、木澤軍が崩れたところを追撃し、木澤長政を討ち取っています。

 三好長慶自身も遊佐長教にしてやられたことがありました。氏綱討伐のために堺まで進出したところ、それを遊佐長教に捕捉されて堺の町全体を包囲されたことがあります。この時は堺町衆の周旋で三好長慶は助かりましたが、下手をすれば父親である三好元長と同じ場所で命を終えたかもしれなかったのです。

 江口合戦においても、江口城陥落で淀川をわたって榎並城に落ち延びようとした三好宗三を討ち取っています。彼が生きて榎並城に入っていれば、山城摂津国境の山崎までいた六角軍の援軍はそのまま南下して戦闘が続いた可能性はあります。

 舎利寺合戦は遊佐長教の負け戦とされていますが、がっぷり四つに組んだ後に戦況不利とみるや撤兵しています。そもそもこの合戦、近年にない大合戦といわれているわりにはその近所にいた本願寺証如の日記には書かれていないし、武将クラスの戦死者もいないよくわからない合戦です。遊佐長教は負けない戦いをしたという評価も可能ではないかと思います。

 このように遊佐長教は独特な政治センスと共に、軍事センスも備えていました。彼が三好長慶の足りない部分を補って補佐し続けていれば、三好政権のありようも変わっていたと思います。少なくとも彼が尾州畠山家と三好長慶との関係を保ちつつ河内国をまとめ続けていれば、少なくとも三好実休が久米田合戦で死ぬことはなかったはずです。

 遊佐長教が命を落としたのは、戦陣の中ではなく、彼の居城若江城においてでした。彼は昵懇にしていた時宗僧の珠阿弥と酒を飲み、酩酊して寝込んだところを珠阿弥によって刺し殺されたとのことです。つい二か月前三好長慶が進士賢光に襲撃されたばかりですので、足利義藤または細川晴元の仕業とも考えられるのですが、それ以前に彼は河内で総州畠山派や木澤長政だけではなく、主君や本願寺門徒の国衆相手に裏切りを繰り返しており、彼を恨んでいる人間はたくさんいました。

 その代表格として目されたのが萱振賢継でした。彼の本貫地である河内国若江郡萱振(八尾市)には恵光寺という本願寺教団寺院が作った寺内町があります。ここは平野川の八尾木から分流して新開池に注ぐする楠根川沿いにある在所で、蓮淳の近江国近松顕証寺に属していました。天文一揆後その蓮淳が河内国渋川郡(八尾市)の西証寺に入って寺号を顕証寺に改め、寺内を再興したのでした。蓮如の頃もそうでしたが、本願寺教団には河川開発のノウハウが蓄積されていました。大和川と淀川水系の河川が縦横に注ぎ込む河内国にとっては蓮淳の河内再開発ブランは大変魅力的でした。蓮淳は北河内の交野郡招堤(枚方市)にも道場を建立します。そこには畠山家家臣野尻氏の勢力圏でもありました。萱振・野尻は遊佐体制の重鎮ではあったのですが、親門徒の立ち位置にもあったのです。ただし、蓮淳は遊佐長教の死の2年前に寂しています。
 さらにもう一人、河内には重要人物がいました。彼の名前は安見宗房。大和国出身で南山城に在任した経歴のある旧木澤党で太平寺合戦後に遊佐長教の配下に入ったものです。遊佐長教の死の時点で彼の主筋の畠山高政は二十五歳になっていました。彼もまた遊佐長教によって行動を制約されていた者の一人です。遊佐長教が死ぬことで何とかバランスが取れていたこれら勢力の均衡が崩れることになります。遊佐長教の嫡子の信教はこのころ四歳でした。遊佐長教の死は三好家を含む合意のもと、百日間秘されることとなりました。

 三好長慶にとってさらに悪いことはこれまで遊佐長教が庇護してきた細川氏綱を彼自身が引き取らなければならなくなったことです。細川氏綱擁立は遊佐長教がはじめたことですが、長教の横死後氏綱の立場を代弁するものが河内国にいなくなってしまいます。三好長慶は遊佐長教の遺産を引き継ぐしかありませんでした。

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出典:国土地理院ウェブサイト(https://maps.gsi.go.jp/ )地形図を修正して使用。

 

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