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2020年3月28日 (土)

中漠:善人令和編⑭贖罪の蓮淳Ⅱ


 太平寺合戦後、蓮淳が再住した河内顕証寺はかなり危うい状況でした。これまで蓮淳は木澤長政を窓口にして八尾近辺の再開発を行ってきたのですが、木澤の死でその全てが覆りかねなかったのです。蓮淳は一刻も早く遊佐長教との関係を築く必要に迫られました。そんな蓮淳と遊佐長教とのパイプ役になりえるのは、河内国萱振を根拠地とする萱振飛騨守賢継の他にはいなかったでしょう。

 萱振賢継は遊佐長教が死んだ時点で河内国人衆の中で重要な地位を占めていたことは間違いありません。その萱振氏の根拠地にある恵光寺の住持延深は蓮淳の孫です。それまでに尾州家当主の紀州への押し込め状態は一旦解けているので、萱振領主の萱振賢継がそこにいてもおかしくはないでしょう。この後本願寺が弾圧された話もないので太平寺合戦の影響を本願寺は乗り切ることができたといえるでしょう。但し、木澤長政の死後、遊佐長教は細川氏綱を支援して細川晴元に反旗を翻します。これまでずっと細川京兆家の意向に従って教団運営を進めてきた蓮淳にとっては許容しがたい状況でした。

 そこで蓮淳は河内北部山城国境の招堤という地に新たにな道場を作って寺内町を開拓します。ここから国境を越えるとすぐに石清水八幡宮にいきつきます。北は淀川で南と西側は生駒山脈の稜線に挟まれており、切所に防御拠点を置けば敵を足止めできますし、山城や摂津に逃げ出すことも容易な場所です。河内北部には出口(ひらパーのすぐそば)という蓮如が拓いた寺内町があり、西証寺(顕証寺)還住実現と同時に本願寺教団に返されていたのですが、ここにはなぜか入りませんでした。本願寺教団は河内国の中央部に顕証寺・恵光寺、北部に出口・招堤のそれぞれの拠点を持って河内情勢の変動に備えます。すなわち、どちらが勝っても本願寺教団が生き残れるようにしたわけです。

 河内情勢変動への備えは決して杞憂ではなく、木澤長政死後に河内一国を制圧した遊佐長教は近隣の国人衆へ調略活動を開始します。これを察知した細川晴元は三好宗三・長慶らを堺に派遣しますが、遊佐長教は先手を取って軍を動員し、堺を囲みます。この時は堺の会合衆が仲介して衝突は回避されましたが、実質三好軍の敗北でした。この敗北は摂河泉の国衆を動揺させて遊佐派は勢いづき、これの対処に細川晴元は自ら京を留守にして出陣します。さらにその隙に足利義晴までもが細川氏綱支持を打ち出すところまで事態が発展してしまうのです。

 蓮淳は重大な選択を迫られます。河内顕証寺を維持するために遊佐長教と結ぶか、河内を退出するかの二択です。遊佐長教は細川氏綱を保護している以上、細川晴元が前者を許容しないことは容易に想像がつきます。この時本願寺は非戦に徹しました。つまり細川晴元にも、細川氏綱とも関係を持つが、軍事力は提供しないという方針でした。これはかなり危うい選択ですが、本願寺におとなしくしてほしいのは細川晴元も遊佐長教も同様だったでしょう。また天文錯乱のような大混乱は避けたいと思っていたはずです。

 細川軍は舎利寺合戦で遊佐長教を打ち破りますが、とどめを刺すまでに至りませんでした。遊佐長教はしぶとく生き残り、逆に三好長慶を取り込んでしまいます。それと同時期に三好宗三が摂津統治で失策をしでかし、三好衆が分裂、淡路・阿波衆は三好長慶につくに至って本願寺はこれ以上どちらにも良い顔をすることができなくなってしまいました。結果として証如は細川氏綱に太刀を送ります。本願寺は遊佐長教に屈服したのでした。

 ここまでの経緯を蓮淳は石山本願寺の大幹部として目の当たりにしていました。そしてその苦悩はかつて明応年間の河内における畠山氏の抗争において石山御坊にいた蓮能が味わったものと同じであると悟ります。あの時蓮淳は細川政元の意を汲んで河内抗争への本願寺の積極的介入を進めましたが、戦国時代という王法が存在しない時代に特定の勢力に肩入れした結果、本願寺は大損害を被ってしまいました。その応報として蓮淳はかつての蓮能と同じく、共存と協調を望んだにもかかわらず遊佐長教への屈服を強いられたのでした。

 江口合戦に遊佐・三好長慶連合軍は勝利し、細川晴元は京を追われます。蓮淳の寿命もつきかけていました。その死の床において彼はかつて証如の名において罰せさせた二人の人物の破門を解くことを遺言します。それは実悟と顕誓、大小一揆で本山に背いた加賀三箇寺方の生き残りでした。実悟に至っては蓮能の息子でもあり、無間地獄の人生を強いられた人とも言えました。実悟は蓮淳の死後に河内八箇所と十七箇所の境にある古橋という地に願得寺を建てます。その寺号はかつて自分が住した加賀の寺の名を引き継いだものでした。蓮淳は結局、蓮能のいた石山御坊や加賀三箇寺と同じ道を進み、その判断のやむを得ざるところを認め、死に臨んでその贖罪をしたのです。

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1543年(天文 十二年)   蓮淳、河内北端の招堤に道場を建て、開拓する。
1546年(天文 十五年) 八月 十六日 三好長慶、遊佐長教退治のため、和泉堺に入る。
  十九日 遊佐長教、堺を包囲。
  二十 日 三好長慶、堺商人の仲介で、堺を脱出。
1550年(天文 十九年) 五月 十七日 本願寺証如、細川氏綱に馬・太刀を贈る。
  二十四日 江口合戦にて三好宗三、三好長慶に討たれる。
  八月 十八日 蓮淳、示寂。この日までに実悟、赦免される。

 

 

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2020年3月21日 (土)

中漠:善人令和編⑬贖罪の蓮淳Ⅰ


 蓮如が石山入りした折、河内国の布教拠点として選ばれたのは渋川郡久宝寺村(現八尾市)でした。ここに西証寺と号する寺院を建てて活動したわけですが、この寺院の経営は蓮如と蓮能との間に生まれた実順に託されました。実順も兄の実賢、母の蓮能と一緒に大坂一乱に連座して罰せられましたが、三年後に西証寺住持に復帰、その座を息子の実真に譲りました。この実真が1529年(享禄二年)に寂しますが、彼には後継者がいませんでした。この後を蓮淳が継いで寺号を顕証寺に改めます。これは近江国近松にあった同名寺院の寺号を引き継いだもので、石山に移った本願寺と同様の処置だったのでしょう。

 この時期は証如が畠山在氏(実質木澤長政)から本願寺系寺院の河内還住の言質を取った1538年(天文七年)以降だと私は考えています。顕証寺への寺号変更が山科陥落以降だったとしても、普通に考えて天文錯乱以前に蓮淳が河内に拠点を持っていたのなら主戦場となったそこに行った筈ですから。

 そして蓮淳は復興事業を始めるのですが、顕証寺の安全のために周辺地域も復興する必要がありました。すでに蓮如の時代にその種はまかれていたのですが、顕証寺の近隣寺院として再開発されたのが、若江郡萱振でした。萱振には恵光寺という本願寺系寺院があり、ここの住持は賢心と号し、蓮淳の弟子であったと伝えられています。但しこれは寺伝によくある後付けの可能性も踏まえておいた方がよいでしょう。この地の領主は萱振賢継といい、尾州畠山稙長の家臣です。但しこの時畠山稙長は遊佐長教によって紀州に押し込められていました。なので萱振賢継もこの時点で河内国にいなかった可能性はありますが、後に萱振氏に降りかかった災難の規模を考えると、少なくとも一族はこの地で本願寺門徒となっていた可能性は高いと思います。

 この時尾州畠山家が河内国に持つ権益を守っていたのは遊佐長教でした。しかし河内国は事実上木澤長政が牛耳っており、遊佐長教は木澤長政とその背後にいる細川晴元の機嫌を損ねないようふるまう必要がありました。これは結構危ういハンドリングだったのです。遊佐長教が当主不在の尾州畠山家の所領を運営するためには、「主家の承認」を仰ぐ必要がありました。遊佐長教の家は尾州畠山家の譜代家臣ではありましたが、同格の国人衆がいて、彼らに指示を出すためには「主家の承認」がどうしても必要だったからです。この調整は難航します。これは畠山稙長はもちろん、遊佐長教にも決められませんでした。河内における尾州畠山家の勢力伸長を細川晴元が警戒していて、彼の気分を害さない人物を選ぶ必要があったのです。

 本願寺系寺院の河内還住も、遊佐長教からしてみれば面白くない話でした。天文一揆を鎮めるために丹下賢盛のような尾州畠山派と本願寺に両属する国人衆を切って木澤長政と同盟したのに、戦後はその木澤長政が本願寺を取り込んで尾州畠山家の領域に楔を打ち込んできたのですから。ただこの時の遊佐長教は木澤長政と細川晴元の圧力をいかにかわすかで精一杯でした。

 そのような河内情勢を蓮淳は十二分に把握していなかったか、おそらくは楽観視していたと思われます。河内顕証寺と恵光寺の復興がなったので顕証寺を嫡男の実淳に、恵光寺を実淳の甥にあたる延深にまかせて、自ら光応寺と名乗ってに隠居します。

 ところがこの新体制は長続きしませんでした。木澤長政の急激な勢力伸長に今度は細川晴元が警戒するようになり、足利義晴もそれをあおって木澤長政は孤立、これを機会と見た遊佐長政が高屋城に尾州畠山政国(稙長が死んで家督を継いだ弟)を迎え入れ、細川晴元と連合して太平寺合戦で木澤長政を討ち取ったのでした。これは蓮淳が隠居した翌年、1542年(天文十一年)三月十七日のことでした。事態はそれだけではすまず、同じ年の六月に蓮淳の息子で河内顕証寺の実淳が示寂します。

 本願寺系寺院の河内還住が認められてから太平寺合戦まで四年しかたっていません。その間に蓮淳から実淳への顕証寺住持の代替わりがありましたから、実淳の住持在任期間は四年に満たない筈です。わずか数年で勤めを果たせなくなるような人物に顕証寺をまかせるとは思えませんので、これは何らかの事件や事故に巻き込まれたと考えるべきでしょう。西証寺還住の経緯から、河内顕証寺は木澤与党であると思われたのかもしれません。この窮地に蓮淳は河内顕証寺に戻り、立て直しを図らなければならなくなりました。

 蓮淳はこれまでずっと細川家と深くかかわりながら教団運営をしてきました。木澤長政にしても、背後には細川晴元がいて、その威光のもとで影響力を行使してきた人物です。それに対して遊佐長教の立場は尾州畠山家家臣であり、明応の政変以降、高国の代を除き細川家と対立し続けてきた家柄です。太平寺合戦の結果、蓮淳はこの遊佐長教に対して正面から対峙しなければならなくなったのでした。


1529年(享禄  二年)    河内西証寺実真、寂す。のち、蓮淳、西証寺に入り、寺号を顕証寺に改める。
1536年(天文  五年) 一月二十 日 証如、木澤長政と面会。大和国にある本願寺系寺院の還住を依頼する。
1537年(天文  六年) 十 月  二日 証如、木澤長政より大和国本善寺・勝林坊還住の申しつけを受ける。
1538年(天文  七年) 一月二十一日 証如、畠山在氏より河内国出口・久宝寺御坊の還住の言質を得る。
1542年(天文 十一年) 三月 十七日 大平寺合戦、木澤長政、三好長慶と遊佐長教に討ち取られる。
  六月____     実淳、寂す。蓮淳、河内顕証寺住持に復帰する。

 

 

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2020年3月14日 (土)

中漠:善人令和編⑫本願寺系寺院還住問題

 ここで少し時代を戻して天文錯乱後の本願寺教団の動向について述べておきます。天文錯乱後の本願寺教団の課題は安全保障の確立に尽きました。山科本願寺は破却されて復興の見込みが立たない以上、本拠を石山に置き続けざるを得ませんでした。しかし、本願寺の実質的な指導者である蓮淳にとって、石山の地は本願寺教団の本拠地にふさわしい場所ではなかったのです。

 そもそも石山は蓮淳の父、蓮如が細川政元の要請に応えて河内にいる尾州畠山家の勢力を削ぐための拠点として選ばれた土地でした。そこに能登畠山家に仕えていた旧畠山宗家(畠山国清系)の血を引く蓮能を連れて布教活動を始めたわけです。石山は河内国を南北に貫く大和川水系の終着点にありました。蓮如は応仁の乱時に越前国吉崎に拠点を移して以降、治水と水郷開発力を教勢拡大のためのビジネスモデルとすることに成功します。これに蓮如自身の話術と蓮能が持つ畠山家の血筋の力で河内布教に注力したのでしたが、志半ばで蓮如は示寂します。

 間の悪いことにこの時、細川政元に味方していた総州畠山義豊が尾州畠山尚順に討たれており、細川政元の意を呈して河内で布教活動をしていた本願寺勢力は孤立してしまいます。ところが、尾州畠山尚順は総州畠山義豊の息子義英と和解。細川政元は自らの願望とは異なる河内の平和の形に激怒し、本願寺の実如に河内への派兵を命じます。しかし、石山の蓮能はこれを拒否しました。実如は実如で細川政元に加賀一揆の不始末を許してもらったという蓮如以来の大きな借りがありましたので蓮能の言い分をのめません。この対立は抜き差しならないところまできて、やむを得ず実如と蓮淳は下間頼慶を派遣して石山御坊の蓮能と息子たちを逮捕した上で処罰しました。ここで蓮淳は蓮能一党と河内門徒衆の恨みをかっていたのですね。

 そういった事情があったため、蓮淳はのちの天文錯乱で山科本願寺が焼かれた後に証如が拠点とした石山には帯同しなかったわけですが、他人任せでは事態は悪化する一方だったのでやむを得ず自ら石山入りしたのでした。そして有効な和議とするために、かなり教団側に無茶を強いました。継戦派の幹部を石山から追い出し、戦には負けるように戦争指導した上で降伏したのです。

 乱後の幕府での対本願寺窓口は河内国守護代木澤長政が担っておりました。一応守護として総州畠山在氏を戴いておりましたが、ぶっちゃけ傀儡です。その木澤に対する本願寺側の交渉相手は証如が務めました。この証如ですがネゴシエーターとしては意外な実力を発揮します。曽祖父の蓮如は一休宗純に匹敵する頭の回転の速さと話術で信者を獲得しましたが、証如は利害を異にする相手と友好関係を築き妥協を引き出すために使ったものは「酒」でした。清廉さを求められる仏教教団の指導者としてはいかがなものかと思われますが、悪人正機の世界観を持つ本願寺教団にあってはこれもありなのでしょう。証如はほろ酔い気分の木澤長政に大和国から追放された教団寺院の還住を求めると、酒で気分が大きくなったのか木澤長政は自分は大和国守護であると僭称して請け合った、と証如の日記に書かれています。

 証如による接待の翌年の1537年(天文六年)には本願寺教団寺院の大和還住を実現させます。越智氏は高取城を一向衆に襲われた被害者で、木澤長政からの還住要請には渋りまくっていたのですが、これを一喝して本願寺系寺院の再建を押し切ったのでした。

 ただし、この時点で木澤長政の本拠地のある河内国への本願寺教団寺院の還住問題については未決着でした。先の天文錯乱において河内国の国人衆は二分されました。本願寺を受け入れて国人衆が両属となり、法主の命令で再び城を攻められてはたまったものではありませんので、無理からぬ話であったと思います。

 それだけに敵に回せば厄介な部分もありますが、本願寺を味方にすると国内が潤うのです。本願寺教団は蓮如以来治水を得意としていました。彼らは川の中州に堤防を作ってそこを生活空間にしました。それによって今まで居住が難しかった地域に人を集めることができたのです。今まで使い途のなかった土地が農地に化けたりするのです。効果はそれだけではなく、川が自然の堀となって外敵の侵入も防ぎます。同時に川を使った流通も可能になるわけです。河内国はその国名が示す通り、大和川や淀川水系が縦横に流れ込む湿地帯でした。本願寺はこれをまるまる田地や物流拠点に変える力をもっていたのです。

 天文錯乱後の本願寺は武家勢力に対してひたすら恭順を示しておりましたが、それだけではなく彼らが河内に入ることで木澤長政らにいかなる利益がもたらされるかをアピールしたものと思われます。その結果、1538年(天文七年)に河内還住が認められました。河内国における寺院再興プロジェクトのリーダーとして現地に派遣されたのが蓮淳だったのです。

 

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2020年3月 8日 (日)

中漠:善人令和編⑪細川晴元の逃亡


 三好長慶と遊佐長教に対する暗殺事件について、足利義藤が黒幕だったという説があります。確かに足利義藤は父親の義晴よりもアクティブで政治参加意欲も強い人物でした。しかし彼が関与した証拠はなく、三好長慶達も他に恨まれる理由はいくつもありました。三好長慶の上洛により足利義藤に仕える幕臣達は京に居場所を失っています、遊佐長教は木澤長政や三好宗三を討ち取っています。いずれも暗殺される理由に事欠きません。また、足利義藤には三好長慶と手を組む選択肢もありえました。一方の細川晴元は三好長慶が細川氏綱を抱えている以上、折り合う余地はありません。もしこの二人のいずれかが暗殺を教唆したと言うのなら、その動機は細川晴元の方が強かったに違いありません。

 相国寺合戦の結果、政所執事伊勢貞孝だけではなく、管領代六角定頼までが足利義藤帰洛交渉に乗り出しました。六角定頼はこの交渉途上で亡くなりますが、その嫡男義賢が引き継ぎます。おそらくこの交渉において最も機微な部分がこの細川晴元の扱いであったでしょう。この時三好長慶は細川氏綱を自らの保護下に置いていました。遊佐長教が死んでいたからです。もし彼が生きていたなら、暗殺してでも細川晴元の命を奪うか、細川氏綱を紀伊の山奥に押し込めていたでしょう。全体最適を図る為であれば、主筋の殺害にまで関与した遊佐長教なら状況次第でそれをやったはずです。しかし、三好長慶には最初からそのような選択はなく、細川氏綱を蔑ろにするような条件をのむこともしませんでした。

 さらに三好長慶は細川晴元への処罰も要求していません。この期に及んで三好長慶の目的は細川晴元との和解にありました。お互いそのような解決で済ませるには多くの犠牲を払い過ぎていたにもかかわらずです。三好長慶はそのような障害を戦場で勝利を重ねることによって排除してきました。細川晴元はこれを拒否し戦い続けましたが、軍事的才覚に関しては三好長慶の方が二枚も三枚も上手でした。

 和解の条件の一番重要な部分は細川氏綱に右京太夫の官位を与えること、つまり細川京兆家の当主とすることでした。これは足利将軍家、六角家、伊勢家にとっては受け入れやすい条件でした。なぜなら彼らはかつて管領細川高国に支えられており、氏綱は高国の後継者だったからです。もし桂川合戦が細川高国の敗北に終わっていなければ、氏綱は高国の後を継いでいたはずです。長年将軍を支えた細川晴元の忠節を忘れ去ったわけではありませんが、晴元は江口合戦以降、失策を重ね過ぎました。彼に任せていては将軍の帰洛もままなりません。

 細川晴元は前右京太夫摂津国守護として幕府に仕える形になります。その執事を務めるのは当然三好長慶ということになります。三好長慶はこの戦勝での出世は一切望まず、摂津守護代の立場のままです。ただし、晴元には聡明丸(後の細川昭元)という嫡男がいました。三好長慶は聡明丸の後見人を務めることになります。三好宗三を除き細川晴元の筆頭家臣として采配をふるう。これが三好長慶が求めた解決案でした。そして細川氏綱の奉行人に摂津国人茨木長隆をあてがいます。これは長年細川晴元に筆頭祐筆として仕えた茨木長隆を氏綱の奉行衆に加えることで、細川晴元と氏綱との連携をさせようという配慮だったと思われます。

 しかし、細川晴元にとってはそのすべてが三好長慶による悪意そのものでしかありませんでした。彼からすれば長慶の専横で細川家家長の座を氏綱に奪われ、息子を人質に取られたも同然でした。そして茨木長隆の氏綱奉行人任命は摂津国人の人事権を長慶が握ったことを意味しました。そもそも茨木長隆は三好長慶の父元長を一向門徒衆に打ち取らせた張本人でした。当時の細川晴元はまだ元服したばかりでそれが何を意味するかは十分に理解していなかったはずです。さらには京の町も焦土化してしまいました。長ずるにつれてそれらのことがどれだけの怨嗟を巻き起こしたかを知り、細川晴元は長く心を弱らせていました。それを支えていたのが三好宗三だったわけです。茨木長隆はともに罪を犯した共犯者であり、それが別の主人を戴くことは考えられませんでした。要するに細川晴元は三好長慶に強烈な劣等感を抱き、三好長慶が提示した現実的な和解案を正当に評価することができなくなっていたのでした。

 もし遊佐長教が傍にいたなら、細川晴元と茨木長隆を父親の仇として三好長慶に討たせていたと思います。戦争に敗北した武士が受け入れるべき結末とも言えます。しかし、三好長慶はそうしませんでした。彼は復讐という大義で野蛮な殺戮することをよしとしない善人であったと言えるでしょう。しかし、それは細川晴元にとって侮辱以外の何物でもありません。朽木から都に帰る足利義藤とは逆に、細川晴元は出家して単身北国に逃亡したのでした。かくて長慶の善行は事態を悪化させるに至ります。

 

1551年(天文二十 年) 七月 十四日 三好政勝、香西元成軍、上洛。相国寺付近で合戦し、敗北して撤退。
1552年(天文二十一年) 一月  二日 近江国の六角定頼、没。
二十八日 六角義賢の仲介で足利義藤と三好長慶が和睦。
細川聡明丸(後の昭元)、三好長慶の人質となるが、晴元若狭へ亡命。
細川氏綱、京兆家の家督を継ぐ。

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