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2020年3月 8日 (日)

中漠:善人令和編⑪細川晴元の逃亡


 三好長慶と遊佐長教に対する暗殺事件について、足利義藤が黒幕だったという説があります。確かに足利義藤は父親の義晴よりもアクティブで政治参加意欲も強い人物でした。しかし彼が関与した証拠はなく、三好長慶達も他に恨まれる理由はいくつもありました。三好長慶の上洛により足利義藤に仕える幕臣達は京に居場所を失っています、遊佐長教は木澤長政や三好宗三を討ち取っています。いずれも暗殺される理由に事欠きません。また、足利義藤には三好長慶と手を組む選択肢もありえました。一方の細川晴元は三好長慶が細川氏綱を抱えている以上、折り合う余地はありません。もしこの二人のいずれかが暗殺を教唆したと言うのなら、その動機は細川晴元の方が強かったに違いありません。

 相国寺合戦の結果、政所執事伊勢貞孝だけではなく、管領代六角定頼までが足利義藤帰洛交渉に乗り出しました。六角定頼はこの交渉途上で亡くなりますが、その嫡男義賢が引き継ぎます。おそらくこの交渉において最も機微な部分がこの細川晴元の扱いであったでしょう。この時三好長慶は細川氏綱を自らの保護下に置いていました。遊佐長教が死んでいたからです。もし彼が生きていたなら、暗殺してでも細川晴元の命を奪うか、細川氏綱を紀伊の山奥に押し込めていたでしょう。全体最適を図る為であれば、主筋の殺害にまで関与した遊佐長教なら状況次第でそれをやったはずです。しかし、三好長慶には最初からそのような選択はなく、細川氏綱を蔑ろにするような条件をのむこともしませんでした。

 さらに三好長慶は細川晴元への処罰も要求していません。この期に及んで三好長慶の目的は細川晴元との和解にありました。お互いそのような解決で済ませるには多くの犠牲を払い過ぎていたにもかかわらずです。三好長慶はそのような障害を戦場で勝利を重ねることによって排除してきました。細川晴元はこれを拒否し戦い続けましたが、軍事的才覚に関しては三好長慶の方が二枚も三枚も上手でした。

 和解の条件の一番重要な部分は細川氏綱に右京太夫の官位を与えること、つまり細川京兆家の当主とすることでした。これは足利将軍家、六角家、伊勢家にとっては受け入れやすい条件でした。なぜなら彼らはかつて管領細川高国に支えられており、氏綱は高国の後継者だったからです。もし桂川合戦が細川高国の敗北に終わっていなければ、氏綱は高国の後を継いでいたはずです。長年将軍を支えた細川晴元の忠節を忘れ去ったわけではありませんが、晴元は江口合戦以降、失策を重ね過ぎました。彼に任せていては将軍の帰洛もままなりません。

 細川晴元は前右京太夫摂津国守護として幕府に仕える形になります。その執事を務めるのは当然三好長慶ということになります。三好長慶はこの戦勝での出世は一切望まず、摂津守護代の立場のままです。ただし、晴元には聡明丸(後の細川昭元)という嫡男がいました。三好長慶は聡明丸の後見人を務めることになります。三好宗三を除き細川晴元の筆頭家臣として采配をふるう。これが三好長慶が求めた解決案でした。そして細川氏綱の奉行人に摂津国人茨木長隆をあてがいます。これは長年細川晴元に筆頭祐筆として仕えた茨木長隆を氏綱の奉行衆に加えることで、細川晴元と氏綱との連携をさせようという配慮だったと思われます。

 しかし、細川晴元にとってはそのすべてが三好長慶による悪意そのものでしかありませんでした。彼からすれば長慶の専横で細川家家長の座を氏綱に奪われ、息子を人質に取られたも同然でした。そして茨木長隆の氏綱奉行人任命は摂津国人の人事権を長慶が握ったことを意味しました。そもそも茨木長隆は三好長慶の父元長を一向門徒衆に打ち取らせた張本人でした。当時の細川晴元はまだ元服したばかりでそれが何を意味するかは十分に理解していなかったはずです。さらには京の町も焦土化してしまいました。長ずるにつれてそれらのことがどれだけの怨嗟を巻き起こしたかを知り、細川晴元は長く心を弱らせていました。それを支えていたのが三好宗三だったわけです。茨木長隆はともに罪を犯した共犯者であり、それが別の主人を戴くことは考えられませんでした。要するに細川晴元は三好長慶に強烈な劣等感を抱き、三好長慶が提示した現実的な和解案を正当に評価することができなくなっていたのでした。

 もし遊佐長教が傍にいたなら、細川晴元と茨木長隆を父親の仇として三好長慶に討たせていたと思います。戦争に敗北した武士が受け入れるべき結末とも言えます。しかし、三好長慶はそうしませんでした。彼は復讐という大義で野蛮な殺戮することをよしとしない善人であったと言えるでしょう。しかし、それは細川晴元にとって侮辱以外の何物でもありません。朽木から都に帰る足利義藤とは逆に、細川晴元は出家して単身北国に逃亡したのでした。かくて長慶の善行は事態を悪化させるに至ります。

 

1551年(天文二十 年) 七月 十四日 三好政勝、香西元成軍、上洛。相国寺付近で合戦し、敗北して撤退。
1552年(天文二十一年) 一月  二日 近江国の六角定頼、没。
二十八日 六角義賢の仲介で足利義藤と三好長慶が和睦。
細川聡明丸(後の昭元)、三好長慶の人質となるが、晴元若狭へ亡命。
細川氏綱、京兆家の家督を継ぐ。

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