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2020年3月21日 (土)

中漠:善人令和編⑬贖罪の蓮淳Ⅰ


 蓮如が石山入りした折、河内国の布教拠点として選ばれたのは渋川郡久宝寺村(現八尾市)でした。ここに西証寺と号する寺院を建てて活動したわけですが、この寺院の経営は蓮如と蓮能との間に生まれた実順に託されました。実順も兄の実賢、母の蓮能と一緒に大坂一乱に連座して罰せられましたが、三年後に西証寺住持に復帰、その座を息子の実真に譲りました。この実真が1529年(享禄二年)に寂しますが、彼には後継者がいませんでした。この後を蓮淳が継いで寺号を顕証寺に改めます。これは近江国近松にあった同名寺院の寺号を引き継いだもので、石山に移った本願寺と同様の処置だったのでしょう。

 この時期は証如が畠山在氏(実質木澤長政)から本願寺系寺院の河内還住の言質を取った1538年(天文七年)以降だと私は考えています。顕証寺への寺号変更が山科陥落以降だったとしても、普通に考えて天文錯乱以前に蓮淳が河内に拠点を持っていたのなら主戦場となったそこに行った筈ですから。

 そして蓮淳は復興事業を始めるのですが、顕証寺の安全のために周辺地域も復興する必要がありました。すでに蓮如の時代にその種はまかれていたのですが、顕証寺の近隣寺院として再開発されたのが、若江郡萱振でした。萱振には恵光寺という本願寺系寺院があり、ここの住持は賢心と号し、蓮淳の弟子であったと伝えられています。但しこれは寺伝によくある後付けの可能性も踏まえておいた方がよいでしょう。この地の領主は萱振賢継といい、尾州畠山稙長の家臣です。但しこの時畠山稙長は遊佐長教によって紀州に押し込められていました。なので萱振賢継もこの時点で河内国にいなかった可能性はありますが、後に萱振氏に降りかかった災難の規模を考えると、少なくとも一族はこの地で本願寺門徒となっていた可能性は高いと思います。

 この時尾州畠山家が河内国に持つ権益を守っていたのは遊佐長教でした。しかし河内国は事実上木澤長政が牛耳っており、遊佐長教は木澤長政とその背後にいる細川晴元の機嫌を損ねないようふるまう必要がありました。これは結構危ういハンドリングだったのです。遊佐長教が当主不在の尾州畠山家の所領を運営するためには、「主家の承認」を仰ぐ必要がありました。遊佐長教の家は尾州畠山家の譜代家臣ではありましたが、同格の国人衆がいて、彼らに指示を出すためには「主家の承認」がどうしても必要だったからです。この調整は難航します。これは畠山稙長はもちろん、遊佐長教にも決められませんでした。河内における尾州畠山家の勢力伸長を細川晴元が警戒していて、彼の気分を害さない人物を選ぶ必要があったのです。

 本願寺系寺院の河内還住も、遊佐長教からしてみれば面白くない話でした。天文一揆を鎮めるために丹下賢盛のような尾州畠山派と本願寺に両属する国人衆を切って木澤長政と同盟したのに、戦後はその木澤長政が本願寺を取り込んで尾州畠山家の領域に楔を打ち込んできたのですから。ただこの時の遊佐長教は木澤長政と細川晴元の圧力をいかにかわすかで精一杯でした。

 そのような河内情勢を蓮淳は十二分に把握していなかったか、おそらくは楽観視していたと思われます。河内顕証寺と恵光寺の復興がなったので顕証寺を嫡男の実淳に、恵光寺を実淳の甥にあたる延深にまかせて、自ら光応寺と名乗ってに隠居します。

 ところがこの新体制は長続きしませんでした。木澤長政の急激な勢力伸長に今度は細川晴元が警戒するようになり、足利義晴もそれをあおって木澤長政は孤立、これを機会と見た遊佐長政が高屋城に尾州畠山政国(稙長が死んで家督を継いだ弟)を迎え入れ、細川晴元と連合して太平寺合戦で木澤長政を討ち取ったのでした。これは蓮淳が隠居した翌年、1542年(天文十一年)三月十七日のことでした。事態はそれだけではすまず、同じ年の六月に蓮淳の息子で河内顕証寺の実淳が示寂します。

 本願寺系寺院の河内還住が認められてから太平寺合戦まで四年しかたっていません。その間に蓮淳から実淳への顕証寺住持の代替わりがありましたから、実淳の住持在任期間は四年に満たない筈です。わずか数年で勤めを果たせなくなるような人物に顕証寺をまかせるとは思えませんので、これは何らかの事件や事故に巻き込まれたと考えるべきでしょう。西証寺還住の経緯から、河内顕証寺は木澤与党であると思われたのかもしれません。この窮地に蓮淳は河内顕証寺に戻り、立て直しを図らなければならなくなりました。

 蓮淳はこれまでずっと細川家と深くかかわりながら教団運営をしてきました。木澤長政にしても、背後には細川晴元がいて、その威光のもとで影響力を行使してきた人物です。それに対して遊佐長教の立場は尾州畠山家家臣であり、明応の政変以降、高国の代を除き細川家と対立し続けてきた家柄です。太平寺合戦の結果、蓮淳はこの遊佐長教に対して正面から対峙しなければならなくなったのでした。


1529年(享禄  二年)    河内西証寺実真、寂す。のち、蓮淳、西証寺に入り、寺号を顕証寺に改める。
1536年(天文  五年) 一月二十 日 証如、木澤長政と面会。大和国にある本願寺系寺院の還住を依頼する。
1537年(天文  六年) 十 月  二日 証如、木澤長政より大和国本善寺・勝林坊還住の申しつけを受ける。
1538年(天文  七年) 一月二十一日 証如、畠山在氏より河内国出口・久宝寺御坊の還住の言質を得る。
1542年(天文 十一年) 三月 十七日 大平寺合戦、木澤長政、三好長慶と遊佐長教に討ち取られる。
  六月____     実淳、寂す。蓮淳、河内顕証寺住持に復帰する。

 

 

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