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2020年4月25日 (土)

中漠:善人令和編⑯萱振族滅


 遊佐長教の死は摂津・河内に激震を走らせました。三好長慶は二度の襲撃を生き延びましたが、遊佐長教にはその幸運の恩恵はなかったこと、そしてこの時朽木に逃れていた幕府との交渉が微妙な段階に入っていたことがその衝撃を増幅したのです。三好長慶にとってこの戦いはあくまでも細川晴元に頭を下げさせる為のものでした。なので足利義藤と戦うところまでは考えていません。そして遊佐長教の死により細川氏綱の身分保証は三好長慶が代理人となって進めなければならなくなったのです。その間隙に細川晴元の意を受けた三好政勝・香西元成らが洛外にちょっかいをかけて挑発します。三好長慶には状況を整理する時間が必要でした。なので遊佐長教の死は百日間秘されます。

 この期間三好長慶は河内国の体制再編を行いました。遊佐長教の下には上郡代の萱振賢継と下郡代の安見宗房がそれぞれの領域を代表していました。三好長慶としては河内国を代表して一つにまとめる人物を欲していました。そしてその条件として遊佐長教に代わって三好長慶との同盟関係を維持してくれることが必須です。これは最初から選択肢はほとんどありませんでした。三好長慶の眼鏡にかなったのは安見宗房です。ただ、彼は大和国出身の余所者で、養子に入った安見家も旧総州畠山派の中の序列は低い方です。その点で言うと高屋城にいる野尻氏の方が上ではあるのですが、木澤長政没落時の去就や大和国北端から河内交野郡に勢力を食い込ませている鷹山弘頼が安見宗房の後ろ盾となっていたなどの事情があって、たまたまそうなっているに過ぎませんでした。もちろんこれは河内国全体の利益の為に遊佐長教があえてそうしていたのです。

 三好長慶としては高屋城にいる尾州畠山家の重臣達を遊佐長教の代わりにすることには抵抗がありました。彼らは紀州にいる尾州畠山政国・高政親子に近すぎ、せっかく幕府との交渉の為に遊佐長教が河内守護(尾州畠山政国)を遠ざけてくれた意味がなくなってしまいます。なので三好長慶は下郡代安見宗房の子息を上郡代萱振賢継の娘婿として萱振家に迎えさせることとしました。要するに体裁を整えた人質です。対細川戦争にかかわる軍事指揮権は安見宗房にまかせるが、その生殺与奪は萱振賢継が握る形と言えるでしょう。

 三好長慶としてはこれでまとまれば御の字でしたが、どう考えても釣り合いが取れません。遊佐長教は尾州畠山家の譜代の重臣で実力も備え、主君に対して押し込めまでする実力者でした。河内出身でもない総州畠山派の残党の中でも小勢力かつ、大和の鷹山弘頼の助けで何とかなっている安見宗房は小物に過ぎました。高屋城の畠山家重臣層の中でも遊佐長教のやり口に不満を持っていた者は大勢いたでしょう。それをまとめ切れるかと言えばおそらくは無理だったと思われます。三好長慶としては何とかして幕府との和平交渉の間だけでも持ってほしいという心境だったのかもしれません。

 1552年(天文二十一年)一月二十八日に三好連合と幕府との和解が成立すると、安見宗房はクーデターを敢行します。飯盛山上に贅をつくした屋敷を作り、そこに萱振賢継を招待します。萱振側からみれば婿殿の父の招きですので、断らずに応じたわけですが、これが罠でした。飯盛山城に入った萱振一行はすべて斬殺され、安見宗房はそのまま兵を高屋城に向けたのでした。遊佐長教を殺害した真の犯人は萱振賢継であると決めつけたのです。この時点で高屋城には尾州畠山家当主も遊佐家当主もいません。遊佐長教の嫡男はこの時まだ齢五歳です。萱振賢継も留守でその一族衆と集住していた畠山家重臣野尻氏らがいましたがそれらにも襲い掛かって殺害したのでした。粛清は徹底し、萱振一族は族滅させられたと言います。

 この一見は単純に安見宗房の暴走というわけではありませんでした。萱振賢継の弟隆生が飯盛山城から脱出に成功して大和国に入りますが、筒井氏の追っ手につかまって高屋城に送られました。そして、安見宗房からさらにその黒幕の存在の連絡が入ります。遊佐長教暗殺の黒幕とは長教の弟で根来寺に住んでいる松坊だと言うのです。松坊はそのころ有馬温泉に湯治中でした。三好長慶は有馬に討手を差し向け、松坊を討ち取りました。なので大和国の筒井氏、摂津の三好長慶はこの「仇討ち」に関与していたとみることができます。
 それだけではなく、高屋城制圧後に安見宗房を中心とした新体制をしきます。まず守護ですが、紀州から尾州畠山高政を呼び寄せました。父親の政国はまだ存命のようですが、河内に再び出る気力はなかったようです。そして遊佐家の五歳の嫡子(後の信教)の補佐に一門衆の遊佐太藤をつけます。さらに丹下城の丹下盛知を呼び寄せ支配体制を固めました。騒動で討ち取った野尻氏の後継として安見宗房は自分の息子をつけ、野尻宗泰と名乗らせました。

 萱振も野尻もその勢力圏に本願寺教団寺院があり、それぞれの庇護を得ていた地でした。そこがにわかに安見宗房の手に落ちたわけです。蓮淳はすでにこの世の者ではありません。また、証如も萱振族滅の二年後に示寂します。蓮淳がいかに努力しても河内の支配者はめまぐるしく変わり、王法以先の実践は本願寺にとって困難を極めておりました。


〇遊佐家略系図

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〇萱振族滅関連年表

1550年(天文 十九年) 八月 十八日 蓮淳、示寂
1551年(天文二十 年)  五月  五日 遊佐長教、珠阿弥に高屋城で暗殺される。
  七月 十四日 三好政勝、香西元成軍、上洛。相国寺付近で合戦し、敗北して撤退。
  十二月____     三好長慶、安見宗房の子息に萱振賢継の娘を娶らせ、養子にさせる。
1552年(天文二十一年) 一月  二日 近江国の六角定頼、没
  二十八日 六角義賢の仲介で足利義藤と三好長慶が和睦。
細川聡明丸(後の昭元)、三好長慶の人質となるが、晴元若狭へ亡命。
細川氏綱、京兆家の家督を継ぐ。
  二月二十一日 安見宗房、萱振賢継を遊佐長教暗殺犯として族滅する。
1554年(天文二十二年) 五月     安見宗房、高屋城において鷹山弘頼を切腹せしむる。
1554年(天文二十三年) 八月 十三日 証如、示寂

 

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2020年4月11日 (土)

中漠:善人令和編⑮遊佐の王国


 遊佐長教の暗殺犯は珠阿弥ということになっていますが、彼がなぜ暗殺をしたのか、彼の背後にはどんな勢力がいたのかは謎です。足利義藤や細川晴元が疑われるのは、ぶっちゃけ一番偉いからで有名税のようなものです。実行犯である珠阿弥を含め遊佐長教は勢力拡大に無理を重ねていましたから色々な階層から恨まれていたのは間違いありません。

 そのあたりを考察する前に、遊佐長教が治める河内国の体制を描写しておきます。不明な点・不勉強な点については想像を加味して進めますが、ご容赦ください。

 河内国は南北に高屋城・飯盛山城と統括する拠点があります。遊佐長教の根拠地はこの中間にあたる若江を根拠地にしていますが、基本的に高屋城に常駐していました。高屋城には尾州畠山政国がいたはずなのですが、この時はまた高屋城をでて紀州に押し込められています。江口合戦後のことなので、おそらくは尾州畠山政国は管領になることを望んだのかもしれません。なんといっても明応の政変以前には尾州畠山政長が管領を務めており、以来細川家に独占されていた管領職に復帰することは代々の宿願であったとおもわれます。しかし、遊佐長教としてはまずは河内国の安定を優先させたかったはずです。木澤長政や三好宗三を討ち取ったとはいえ、彼らの息のかかった勢力はまだまだ大勢いました。国の体制固めをすっ飛ばして管領職についてもなにもよいことはありません。よしんば管領職を得たとしても動かせる兵力は紀州と河内の二ヶ国のみです。後は拝み倒して婿殿の三好長慶から摂津と四国勢の与力を出してもらうことがやっとでしょう。管領になるということは将軍を支えて天下に号令することと同義です。現状そんなことは夢物語ですし、やったとしても無駄に兵力を消耗させるだけになりかねません。現に細川政元から細川晴元までの歴代細川家当主も畿内の国を治めるだけで消耗しきっていました。遊佐長教としては総州畠山家との抗争がやっと終わった今こそ平和の配当を手にして河内国を強国にすることの方が優先度が高いと判断したのではなかったでしょうか。そのために川が国の縦横に流れる河内国の治水開発を行ってくれる本願寺も、天文錯乱のようなバカはやらせないことが前提ですが、必要な者たちでした。

 その本願寺と遊佐長教とのパイプ役として機能したのが前項でも紹介した萱振賢継だったと私は見ております。彼は河内南部を統括する上郡代として遊佐長教とともに高屋城に入っておりました。その立場から天文錯乱時には遊佐長教に追い出された門徒武士だったと想像できます。天文錯乱時に本願寺方として戦った記録のある河内国人としては丹下盛賢がいます。彼は天文錯乱後に紀州の主君のもとに落ち延び、その復帰と共に河内国丹下城に戻って、畠山稙長と遊佐長教との調整役を果たしました。ちなみにこの人物は畠山稙長の死去時に殉死をしています。その死を惜しんだ遊佐長教は同様に畠山稙長の紀州随伴組で紀州小守護代として主君と苦楽を共にした平(ひら)盛知に丹下の名跡を継がせます。もっとも、同時に盛知の後継に遊佐家の身内を押し込んで丹下家掌握も図っていますので、単純に美談とするわけにはいきません。

 おそらくは萱振賢継も、丹下盛賢同様畠山稙長の河内復帰時に萱振に舞い戻ったと想像できます。遊佐長教は萱振賢継とともに高屋城にいることで、河内国の門徒武士に目を光らせていたのでしょう。同様に河内国北辺、招堤を含む牧郷を根拠地とした野尻氏も高屋城に住まわされていました。

 そして、河内国北部(下河内郡)を統括する飯盛山城ですが、ここに郡代として入っていたのが、安見宗房という人物です。彼は斎藤道三、松永久秀、豊臣秀吉と同種の、自らの才覚のみで成り上がった人物でした。
 もともとは大和国の中村圓賀という越智家家臣の息子で、「オチカタドノ」(即ち有力武士に嫁いだ越智家出身の奥方)の中間(ちゅうげん=身辺の世話役)だったといいます。その彼が河内国北部の星田あたりにいた安見友重の養子となったと言います。この安見氏は代々総州畠山家の被官でした。そして国境の向こうにいる大和国鷹山の鷹山弘頼と協調して木澤長政配下で働いていたらしい。そして太平寺合戦に前後して彼らは遊佐長教に従うようになりました。

 この鷹山弘頼と安見宗房は木澤長政が遊佐長教に打ち取られた後も、遊佐長教に用いられ安見宗房は飯盛山城に、鷹山弘頼は大和国鷹山に加えて河内国私部あたりに領地を増やします。河内国の伝統的な有力家臣は高屋城に集住させて、遊佐長教に恭順した木澤長政の残党には木澤から奪った領地の一部を与えて懐柔した格好でした。江口合戦の勝利後はその配当とした山城守護代枠を鷹山弘頼と安見宗房に与えています。相応の戦功があったと見てよいでしょう。

 伊勢貞孝が和平の使者として京に戻り、これから足利義藤と和平交渉に臨もうとした際に、遊佐長教は暗殺されます。河内には短期間で統一した歪みが残っていました。これを整理するためには今しばらくの時間が必要でしたが、遊佐長教にはそれが許されていませんでした。河内国は再び阿鼻叫喚の巷に投げ出されます。

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