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2020年4月11日 (土)

中漠:善人令和編⑮遊佐の王国


 遊佐長教の暗殺犯は珠阿弥ということになっていますが、彼がなぜ暗殺をしたのか、彼の背後にはどんな勢力がいたのかは謎です。足利義藤や細川晴元が疑われるのは、ぶっちゃけ一番偉いからで有名税のようなものです。実行犯である珠阿弥を含め遊佐長教は勢力拡大に無理を重ねていましたから色々な階層から恨まれていたのは間違いありません。

 そのあたりを考察する前に、遊佐長教が治める河内国の体制を描写しておきます。不明な点・不勉強な点については想像を加味して進めますが、ご容赦ください。

 河内国は南北に高屋城・飯盛山城と統括する拠点があります。遊佐長教の根拠地はこの中間にあたる若江を根拠地にしていますが、基本的に高屋城に常駐していました。高屋城には尾州畠山政国がいたはずなのですが、この時はまた高屋城をでて紀州に押し込められています。江口合戦後のことなので、おそらくは尾州畠山政国は管領になることを望んだのかもしれません。なんといっても明応の政変以前には尾州畠山政長が管領を務めており、以来細川家に独占されていた管領職に復帰することは代々の宿願であったとおもわれます。しかし、遊佐長教としてはまずは河内国の安定を優先させたかったはずです。木澤長政や三好宗三を討ち取ったとはいえ、彼らの息のかかった勢力はまだまだ大勢いました。国の体制固めをすっ飛ばして管領職についてもなにもよいことはありません。よしんば管領職を得たとしても動かせる兵力は紀州と河内の二ヶ国のみです。後は拝み倒して婿殿の三好長慶から摂津と四国勢の与力を出してもらうことがやっとでしょう。管領になるということは将軍を支えて天下に号令することと同義です。現状そんなことは夢物語ですし、やったとしても無駄に兵力を消耗させるだけになりかねません。現に細川政元から細川晴元までの歴代細川家当主も畿内の国を治めるだけで消耗しきっていました。遊佐長教としては総州畠山家との抗争がやっと終わった今こそ平和の配当を手にして河内国を強国にすることの方が優先度が高いと判断したのではなかったでしょうか。そのために川が国の縦横に流れる河内国の治水開発を行ってくれる本願寺も、天文錯乱のようなバカはやらせないことが前提ですが、必要な者たちでした。

 その本願寺と遊佐長教とのパイプ役として機能したのが前項でも紹介した萱振賢継だったと私は見ております。彼は河内南部を統括する上郡代として遊佐長教とともに高屋城に入っておりました。その立場から天文錯乱時には遊佐長教に追い出された門徒武士だったと想像できます。天文錯乱時に本願寺方として戦った記録のある河内国人としては丹下盛賢がいます。彼は天文錯乱後に紀州の主君のもとに落ち延び、その復帰と共に河内国丹下城に戻って、畠山稙長と遊佐長教との調整役を果たしました。ちなみにこの人物は畠山稙長の死去時に殉死をしています。その死を惜しんだ遊佐長教は同様に畠山稙長の紀州随伴組で紀州小守護代として主君と苦楽を共にした平(ひら)盛知に丹下の名跡を継がせます。もっとも、同時に盛知の後継に遊佐家の身内を押し込んで丹下家掌握も図っていますので、単純に美談とするわけにはいきません。

 おそらくは萱振賢継も、丹下盛賢同様畠山稙長の河内復帰時に萱振に舞い戻ったと想像できます。遊佐長教は萱振賢継とともに高屋城にいることで、河内国の門徒武士に目を光らせていたのでしょう。同様に河内国北辺、招堤を含む牧郷を根拠地とした野尻氏も高屋城に住まわされていました。

 そして、河内国北部(下河内郡)を統括する飯盛山城ですが、ここに郡代として入っていたのが、安見宗房という人物です。彼は斎藤道三、松永久秀、豊臣秀吉と同種の、自らの才覚のみで成り上がった人物でした。
 もともとは大和国の中村圓賀という越智家家臣の息子で、「オチカタドノ」(即ち有力武士に嫁いだ越智家出身の奥方)の中間(ちゅうげん=身辺の世話役)だったといいます。その彼が河内国北部の星田あたりにいた安見友重の養子となったと言います。この安見氏は代々総州畠山家の被官でした。そして国境の向こうにいる大和国鷹山の鷹山弘頼と協調して木澤長政配下で働いていたらしい。そして太平寺合戦に前後して彼らは遊佐長教に従うようになりました。

 この鷹山弘頼と安見宗房は木澤長政が遊佐長教に打ち取られた後も、遊佐長教に用いられ安見宗房は飯盛山城に、鷹山弘頼は大和国鷹山に加えて河内国私部あたりに領地を増やします。河内国の伝統的な有力家臣は高屋城に集住させて、遊佐長教に恭順した木澤長政の残党には木澤から奪った領地の一部を与えて懐柔した格好でした。江口合戦の勝利後はその配当とした山城守護代枠を鷹山弘頼と安見宗房に与えています。相応の戦功があったと見てよいでしょう。

 伊勢貞孝が和平の使者として京に戻り、これから足利義藤と和平交渉に臨もうとした際に、遊佐長教は暗殺されます。河内には短期間で統一した歪みが残っていました。これを整理するためには今しばらくの時間が必要でしたが、遊佐長教にはそれが許されていませんでした。河内国は再び阿鼻叫喚の巷に投げ出されます。

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