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2020年5月30日 (土)

中漠:善人令和編⑳勝瑞の変


 舎利寺合戦においては、四国勢を交えた細川晴元とオール三好での戦いだったわけですが、その直後に三好家が長慶派と宗三派に分裂します。遊佐長教の調略に三好長慶がかかった形になったわけですが、形勢の悪い時には細川氏綱を隠してしまえる遊佐長教のしたたかさが惜しまれます。宗三派による摂津国人の懐柔に失敗した結果の分裂だったわけで、三好宗三・政勝親子は孤立していました。

 三好宗三・政勝親子の掣肘の為に四国勢(含む淡路)からは安宅冬康と十河一存が参加します。三好之虎が出てこなかったのはおそらくは同じ勝瑞城にいる細川持隆に遠慮したというところでしょうか。逆に細川持隆は安宅冬康と十河一存を止めることができませんでした。三好長慶が唱えたのはあくまでも摂津国の仕置きに失敗した三好宗三・政勝の排除であり、三好一門の惣領権の行使と言われれば、押し切ることも難しかったのかもしれません。
 ただ、戦の経過は宗三達の排除だけでは済みませんでした。三好長慶は摂津国人のあらかたを調略した上で、三好政勝がいる榎並城を遊佐長教とともに包囲すると、三好宗三と細川晴元までが釣れてしまいます。

 先手を取った三好長慶としては江口城に三好宗三を包囲します。その気になればすぐに落とせる江口城を囲んだだけで攻城はしませんでした。江口城内の三好宗三は籠城前提でこの城に入ったわけではありませんので、突破戦を試みますが、押し返されてしまいます。三好長慶としては三好宗三を拘束して細川晴元と交渉をする腹積もりだったのでしょう。しかし、細川晴元は頑なで、妥協するどころか対立構造を三好一族の抗争から足利幕府対三好長慶にもってゆくつもりでした。細川晴元は近江の六角氏に救援を求めます。結局タイムアップが迫り、三好長慶は江口城を落とします。三好宗三はその場では死なずに息子のいる榎並城に落ちようとしましたが、遊佐長教の網にかかって討ち死にします。

 細川晴元は三好宗三の死によって、三好家の内訌から足利幕府対三好長慶の構図に持ってゆくことに成功したと言えます。遊佐長教に背中を押された形なんですが、これが足利将軍まで京から坂本に避難させる結果になりました。これは三好長慶にとっては想定外だったはずです。この状況をまずいと感じたのか細川持隆はどうも安宅冬康と十河一存を撤収させたようなのですね。細川持隆からしてみれば、三好家中の成敗権の行使として二人の助力を認めたわけですが、幕府体制を揺るがす結果となってしまったのですから。しかも、事態を悪い方に推し進めた遊佐長教は暗殺されて彼が保護していた細川氏綱の代弁者の役目は三好長慶が負うしかなくなってしまったのでした。結果細川氏綱は京兆家家督と管領職を回復し、足利義藤は京に戻りました。細川晴元は排除されたものの、一見元のさやに納まったように見えます。しかし、この状況は四国の細川氏綱にとっては、高国系の氏綱を京兆家家督と認める体制に疑問を持たざるを得なかったでしょう。

 しかも、細川晴元は諦めていませんでした。若狭国小浜から三好政勝・香西元成らをつかって京を挑発し、波多野晴通もこれに呼応します。氏綱が守護することになった丹波国平定の為に兵を出さねばならない事態になっていました。三好長逸と松永兄弟達は京に置いておかねばなりません。弟三名は四国に帰っていて、河内の安見宗房も河内のゴタゴタを収めている最中で軍の動員には時間がかかりました。やむを得ず自らが総大将になって丹波に遠征し、波多野稙通の八上城を包囲しますが、芥川孫十郎の離反によって戦線を維持できなくなります。この敗戦は足利義藤をして細川晴元にも勝ち目ありとの判断をさせ、彼は霊山城に入ります。三好長慶は窮地に陥るわけです。

 三好長慶と細川晴元の保護者として四国から援助し続けてきた細川持隆としては困った形となりました。当然宗家当主の細川晴元からは自分に味方するように要請が来ていたものと思われます。しかし、細川持隆が阿波守護として細川晴元を助けようとする時に実際に動くのは三好之虎、安宅冬康、十河一存ら三好長慶の弟達です。その中でも十河一存は江口合戦の序盤で細川晴元のいる三宅城に強襲偵察を仕掛けた確信犯でもありますので、素直に言うことを聞くとも思えませんでした。

 とは言え、長い年月をかけて育て上げた三好軍団を割るわけにはいかないという逡巡もあったと思われます。その躊躇は逆に三好長慶の弟達によってつかれることとなりました。

  1553年(天文二十二年)六月 十七日 細川持隆は三好之虎の暗殺を計画したと言います。これを察知した三好之虎は十河一存とともに勝瑞城を包囲、細川持隆は籠城して周辺の国人衆に救援を求めますが、助けは入らず、絶望して自害しました。世にいう勝瑞の変です。

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2020年5月16日 (土)

中漠:善人令和編⑲細川持隆の本懐


 幕閣の争いにおいては伊勢貞孝が機先を制して上野信孝を圧倒していました。三好長慶と足利義藤との会見のセッティングおよびこの騒動の落としどころまでシナリオを書いていたのはおそらくは伊勢貞孝であったでしょう。では、なぜ足利義藤はその路線に乗らなかったのでしょうか。足利義藤が三好長慶の下克上を快く思わなかったとか、幕閣から抜け駆けして三好長慶方についた伊勢貞孝が気に入らなかったとか、対立する二つの勢力のバランサーとしての立場を維持したかったから、とか色々考えられるのですが、もう一つ考慮に入れておくべき要素があるかと思います。それは、足利義藤が細川晴元との関係を完全に断ち切った場合、細川晴元が阿波にいる足利義冬(義維)を担ぎ出してくるという可能性に思い至ったという事もあるかもしれません。

 細川晴元は若狭国小浜に亡命しているとはいえ、旧領地への影響力は絶大でした。丹波国は波多野晴通が、摂津国には芥川孫十郎が三好長慶に対して抵抗を始めたのです。しかも芥川孫十郎は三好一門衆の一人でした。三好衆は長慶率いる一門衆と政勝が率いている旧宗三軍に分裂していました。江口合戦では細川晴元と敵対することも厭わなかったのですが、三好長慶が細川氏綱を立てる事に対しては、長慶配下の一門衆すら割れるのです。芥川孫十郎の父は芥川長光といい、祖父の三好之長とともに等持院合戦で細川高国に討たれています。その死は助命を条件とした投降であったにもかかわらず、武器を取り上げられた後に死罪を言い渡されるという騙し討ち的なものでした。三好長慶の特異な性格は置くとして、細川高国の後継者を謳う細川氏綱を芥川孫十郎が信用できないのはやむを得ない部分があったでしょう。

 では、もう一つの京兆家が守護職を受け継ぐ讃岐国はどうでしょうか。ここは阿波守護の細川持隆に委ねられていて、天文錯乱で決別して以来疎遠になっていますが、彼の元々の望みは足利義冬(当時は足利義維)を将軍に、細川晴元を管領とする幕府を築くことを願い、その為の犠牲も多々払ってきました。ここで細川晴元がかつての政権構想の実現を細川持隆に持ち掛けたとすれば、堺幕府復活不可避なわけです。義藤にとっては将軍位を追い落とされる危険が巨大化するというわけでした。そういう不安が足利義藤にあったとすれば、三好長慶に肩入れする伊勢貞孝の意見を容れるにはリスクが伴うと考えざるを得ないところだったでしょう。ここは三好長慶とは一定の距離を置くことが必要と判断したと考えられます。

 この考えはおそらくは杞憂ではなかったと思われます。足利義冬がいた四国阿波において、阿波細川家中のお家騒動が発生しました。当事者となったのは讃岐および阿波守護細川持隆、そして阿波国守護代三好之虎と讃岐国守護代十河一存の三好兄弟でした。阿波細川家は両細川の乱において細川澄元・晴元親子、そして足利義冬(義維)を一貫して保護し、その上洛活動を助けてきました。その甲斐あって足利義維(義冬)と細川六郎(晴元)を堺に入れてそこに幕府組織を構築することに成功します。しかし、その成功は一時的なものにすぎず、堺の幕府は無惨な崩壊を迎えるに至ります。その諸行無常を目の当たりにして細川持隆は四国に引きこもることにしました。もちろん、堺幕府崩壊に伴い三好元長をはじめとする有為な人材を数多く失なったために領国である讃岐・阿波、そして三好之長の代に手に入れた淡路の経営再建に注力せざるを得なかったという事情もあったりします。結局畿内には細川六郎(晴元)、三好千熊丸(長慶)、三好政長(宗三)のみを送り、その間のフォローはあまりできていません。そのせいで三好長慶は苦労することになるわけです。

 但し、細川持隆は千熊丸以外の三好元長の遺児たちを四国でしっかり教育し、阿波細川家の次代を支える人材として育て上げました。次男の之虎は自らの居城の勝瑞城に住まわせて阿波国守護代として右腕としました。三男の冬康は淡路の水軍衆安宅氏の養子に入り、安宅冬康として淡路水軍衆を率いて畿内と四国の流通を担うようになります。四男の一存は細川宗家から預かっている讃岐国の守護代として讃岐衆を率います。あと一人、冬長という末弟がいて淡路島の志知の国人野口氏の養子に入ったという記録もあるのですが、この人物はどうやら早世したようで、詳しいことはわかっていません。

 木澤長政が畿内の動乱に巻き込まれて戦死すると、細川氏綱が挙兵します。細川晴元は三好宗三、長慶らを使ってこれを攻め滅ぼそうとしますが、木澤亡き後の摂河国人衆の向背は定かならずという状況で、宗三・長慶は苦戦します。そこで三好之虎が安宅冬康の船に乗って援軍に駆け付けるようになりました。彼らが一堂に会して細川氏綱と遊佐長教軍を舎利寺で破った折には細川持隆は自らが育てた三好元長の息子たちの活躍を聞いて、今は亡き三好元長に面目を施したと感じたに違いありません。しかし、事態は彼の望まない方向に進んでゆくのです。

 

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2020年5月 9日 (土)

中漠:善人令和編⑱足利義藤という男


 丹波遠征をめぐる一連の騒動で足利義藤は三好長慶の性格を把握したようです。戦争指揮能力と正義感は高いが、詰めが甘い善人であり、根回しが必要な利害関係の調整も不得意というところでしょうか。海千山千の曲者を相手にしてきた足利将軍の相としては軽く見えたとのでしょう。実際は遊佐長教が木澤長政や三好宗三を殺すところ、安見宗房が萱振一族を族滅したところを見ていましたし、安見宗房の主張を受けて自らも、根来寺松坊にいたという遊佐長教の弟を有馬温泉にて捕縛殺害しているので、決して子供っぽい正義感だけを振り回しているわけではないのですけれどね。

 1552年(天文二十一年)四月に三好長慶の丹波遠征が失敗して細川晴元方の兵が京近辺に現れ始めると、幕閣の意見が二つに割れます。一つは奉公衆上野信孝を中心とした細川晴元派と、三好長慶との和解を主導した政所執事伊勢貞孝を中心とした細川氏綱・三好長慶派です。上野信孝の先祖は観応の擾乱の頃に岩見国守護をやっていた上野頼兼です。1509年(永正六年)に足利義尹(義稙)の配下として備中鬼邑城を任せられたという記録があるそうです。本稿が1550年代あたりの話をしていますので、ざっと四十年前から現役武将をやっている古参であったことがわかります。

 細川晴元軍の京近辺への出没に備えて、足利義藤は現在の東山清水寺から丸山公園あたりにあった霊山城の改修を始めます。そのために足利義藤は洛中寺社に竹・木・人夫の提供を命令したのですが、これに政所執事の伊勢貞孝が反対します。一月に京へ帰ってきたばかりなのに十月には戦に備えた徴発を行うのは寺社の不満を買うだけだと思ったのでしょう。しかし、上野信孝を始めとした幕府奉公衆はこれを伊勢貞孝の専横として非難したのです。

 改修着手から一ヶ月も経たぬうちに細川晴元軍が高尾から西岡近辺を放火しつつ上洛します。迎え撃つ三好軍にとっては奇襲だったようで、西院城を自焼きして霊山城まで撤退。両軍はその翌日に清水坂で両軍交戦しました。このことによって、霊山城改修の先見性は証明されます。細川晴元軍は河内から安見宗房が兵を引き連れて上洛しつつある報を受けて撤退しました。但し、この合戦は細川軍が方々に放火し、建仁寺も類焼したわりに戦死者はでず、双方手負いが六、七名にとどまったことが、三好長慶と親三好派幕閣にある疑いをもたげさせます。すなわち幕府の中に親細川晴元派の勢力がいて、手引きしたのではないかということです。

 年が明けて1553年(天文二十二年)の元旦、三好長慶は足利義藤に拝謁します。先の清水坂合戦における助力への謝意を申し述べるためでしたが、足利義藤は三好長慶を叱ります。足利義藤にしてみれば、丹波遠征失敗だけではなく京の治安を脅かされたことは三好長慶の失態でした。あるいは義藤側近に讒言をする者がいたのでしょう。三好長慶は不穏な空気を感じて八日には淀城に撤収します。以前も襲撃を受けているので警戒はやむなしですが、三好長慶に落ち度なしとはしないがここまで追い詰めるのは不当と考えた伊勢貞孝が反撃にでました。

 伊勢貞孝は立場を同じくする幕臣、松田光致、大和晴完、松田盛秀、松田光秀、結城貞胤、中沢光利らと起請文を交わして同心し、三好長慶を讒訴する上野信孝ら六名を弾劾します。六名のうち今谷明氏の著書に乗っているのが上野、彦部、細川刑部の三名です。上野は上野信孝、彦部は足利幕府創業期に活躍した高師直と同じ高階氏の末裔でこの時期は彦部晴直が当主だったと考えられます。細川家で刑部の官職を持っているのは和泉上守護家当主の細川元常でした。和泉国は江口合戦の頃に守護代松浦守が三好長慶方について細川元常は晴元とともに京を追われていました。和睦で京に帰還したものの、三好長慶について含むところがあったものと思われます。この弾劾書に三好長慶および、細川氏綱の弟で典厩家を継いだ細川藤賢の連署を得た上、足利義藤と三好長慶との再度の談判にさらに多くの幕臣たちの賛同を得ました。

 上野信孝らは型に嵌められたと言ってよいでしょう。幕府内でここまで多数の幕閣のメンバーを巻き込まれては足利義藤も鉾を収めざるを得ません。二月二十六日に三好長慶は清水寺で足利義藤と会見します。それはこの騒動の後始末を足利義藤にさせるための儀式でした。弾劾された六名から人質を出させて三好長慶に預ける事が落としどころです。これで決着すれば室町幕府は一丸となって丹波から攻めてくる細川晴元一派の掃討ができるはずでした。しかし、足利義藤はこういう形で自らの意思を縛られることを嫌う人間だったのです。三月八日に足利義藤は改修された霊山城に入り、三好長慶と決別します。同時期に芥川城の芥川孫十郎が再び背き、若狭国小浜にいた細川晴元も若狭武田氏の支援を受けて挙兵します。

 事態は新たな段階に入りました。

1552年(天文二十一年) 四月二十五日 三好長慶、晴元方波多野晴通を八上城に攻めるも、芥川孫十郎の寝返りで撤退。
六月  五日 三好長慶、細川聡明丸を越水城に移す。
八月  下旬 細川晴元軍、小浜から山城国小野郷に進出との噂が京に流れる。
十 月二十 日 細川晴元軍、内藤国貞を破り、丹波国河瀬城を奪取。
末___ 足利義藤、洛北霊山城の改修を開始。
十一月二十七日 細川晴元軍、高尾から嵯峨に進出。三好方西院城を自焼きして霊山城に撤退。
二十八日 清水坂合戦。晴元軍と三好軍、五条坂で交戦。建仁寺焼ける。
十二月____ 芥川孫十郎、三好長慶に帰参する。
1553年(天文二十二年) 正月  一日 三好長慶、足利義藤に拝謁するも、不穏な雰囲気を感じる。
八日 三好長慶、淀城に退く。この後、足利義藤と和解。
二月二十六日 三好長慶、清水寺にて足利義藤と会見。
反三好派幕府奉公衆からの人質を求める。
三月  八日 足利義藤と三好長慶が決別し、東山霊山城に籠る。
芥川孫十郎再度三好長慶に背き、摂津芥川城に籠城する。
十六日 細川晴元、挙兵



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2020年5月 2日 (土)

中漠:善人令和編⑰丹波遠征

 京近辺の情勢に戻ります。足利義藤と幕府の一行は目出度く京に帰還しました。細川氏綱は悲願であった細川京兆家の家督となり、三好長慶の下には細川晴元の嫡子聡明丸が戻ってきました。三好長慶に今回の戦争における恩賞はありませんでした。長慶としては三好宗三に罰を与えることができたし、将軍たちには不便な思いをさせたことが申しわけなく、恩賞をもらうのは筋が違うと思っていたのでしょう。これで長慶と聡明丸との間にきちんとした主従関係を結ぶことができ、三好長慶としては満足していたのではないかと思います。細川晴元に逃げられたという一点を除けば。

 この一点の為に面倒な仕事が残ってしまいました。細川氏綱の丹波守護継承です。細川京兆家家督には漏れなく摂津・丹波・讃岐守護がついてきます。このうち讃岐守護については阿波細川家の細川持隆に任せていて、摂津国は三好宗三亡き今、三好長慶が支配下に置いていました。残りの丹波ですが、ここは国人衆の意見が割れます。明確に氏綱支持を表明したのは八木城の内藤国貞でした。彼は細川高国が管領をしていた頃からの高国派でした。細川晴元が実権を握った後はいやいや従っていましたが、三好長慶が氏綱を奉じるに及んで晴元にも反旗を翻したのです。

 一方、氏綱に従わない丹波国人代表が波多野晴通でした。波多野晴通の妹は三好長慶の妻で、二人の間には義興(この当時の名乗りは慶興)という嫡男がいたのですが、舎利寺合戦後の和睦で三好長慶が遊佐長教の娘を嫁に迎えるにあたり、波多野晴通の妹は離縁となりました。和睦の時点で遊佐長教は細川氏綱の擁立をあきらめたことになったはずなのですが、実態はそうではないという情報を妹経由で晴通は知ったのでしょう。細川高国とその係累は祖父稙通の代からの仇敵でした。三好長慶とは縁を切ったものの、三好長慶は戦の勝利を重ねて何時しか細川氏綱を足利義藤に認めさせるまでに至ったのです。この情勢変化に波多野晴通はついてゆけませんでした。幸い細川晴元は逃亡していて三好長慶に屈したわけではありません。故に挙兵して細川氏綱は認めないと宣言したのでした。

 細川京兆家が戦国時代の長きに渡って京で権力を握り続けられたのは丹波国を抑えていたからです。摂津国は応仁の乱の最中に大内軍に蹂躙されて以来四国勢の侵攻ルートになっていましたし、和泉国は京からやや遠い。京のある山城国に隣接していてなおかつ山がちで攻めにくい地勢の丹波は細川京兆家の力の源泉であったといっても過言ではありません。事実細川高国は丹波衆の波多野稙通兄弟の信望を失った結果失脚しましたし、明智光秀は織田信長の命令でここを征服するのに五年かかりました。なので三好長慶としてはこれを放置できませんでした。自ら軍を率いて波多野晴通討伐に赴きます。

 戦いは波多野晴通の居城八上城を三好軍が囲む展開になりました。山城なので攻略に時間がかかります。しかし、その間に摂津国で反三好長慶の旗幟を現した国人衆が出てきました。芥川城の芥川孫十郎と池田城の池田長正です。芥川孫十郎は三好一族で宗家とは之長の代から枝分かれした一門衆です。1520年(永正十七年)に三好之長が上洛戦を仕掛け、上洛の途上に之長の孫にあたる三好長光に芥川城が与えられました。それ以降長光は芥川を氏としましたが、上洛した一門衆は長光はもちろん之長を含めて等持院合戦の敗北で討ち取られてしまいました。孫十郎は芥川長光の息子です。その後四国に逼塞していた細川六郎(晴元)が堺に上陸した際、三好の一族衆として孫十郎は本州に渡り、芥川城をあてがわれたのでした。彼は三好家は高国系細川家を排して澄元系細川家を盛り立てることが当たり前だと考えていたようです。

 池田長正の場合は少し複雑です。彼の母方の祖父は三好政長(宗三)で、息子の政勝が細川晴元の下で三好長慶と戦っているのですが、父親の信正は細川晴元に誅殺されています。この時、池田家の家臣衆は抗議の意味で家内の三好政長派重臣を追放したことが、三好長慶による三好政長弾劾のきっかけとなりました。池田家と三好政長の関係の契機になったと思われる三好政長の榎並城入りは1536年(天文五年)なので、長正はこの時おそらく十代後半くらいで老臣の補佐があったものと思われます。その老臣衆にしても細川晴元と戦うことはあっても細川氏綱に仕えることは想像の範囲外だったのでしょう。

 三好長慶は猪名川谷経由で越水城に戻り、芥川・池田両氏に説得工作を行います。その結果1552年(天文二十一年)十二月には芥川孫十郎は帰参しました。この段階で細川氏綱を担ぐことのリスクに三好長慶は気づいたものと思われます。しかも、最初に氏綱を担いだ遊佐長教はすでに鬼籍に入っています。そして事態はより悪い方向にエスカレートすることになるのです。

1552年(天文二十一年) 一月二十八日 六角義賢の仲介で足利義藤と三好長慶が和睦。
細川聡明丸(後の昭元)、三好長慶の人質となるが、晴元若狭へ亡命。
細川氏綱、京兆家の家督を継ぐ。
二月二十一日 安見宗房、萱振賢継を遊佐長教暗殺犯として萱振氏を族滅する。
四月二十五日 三好長慶、晴元方波多野晴通を八上城を囲む。
五月二十三日 三好長慶、芥川孫十郎の寝返りにより八上城から撤退。
十二月____ 芥川孫十郎、三好長慶に帰参する。

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