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2020年5月16日 (土)

中漠:善人令和編⑲細川持隆の本懐


 幕閣の争いにおいては伊勢貞孝が機先を制して上野信孝を圧倒していました。三好長慶と足利義藤との会見のセッティングおよびこの騒動の落としどころまでシナリオを書いていたのはおそらくは伊勢貞孝であったでしょう。では、なぜ足利義藤はその路線に乗らなかったのでしょうか。足利義藤が三好長慶の下克上を快く思わなかったとか、幕閣から抜け駆けして三好長慶方についた伊勢貞孝が気に入らなかったとか、対立する二つの勢力のバランサーとしての立場を維持したかったから、とか色々考えられるのですが、もう一つ考慮に入れておくべき要素があるかと思います。それは、足利義藤が細川晴元との関係を完全に断ち切った場合、細川晴元が阿波にいる足利義冬(義維)を担ぎ出してくるという可能性に思い至ったという事もあるかもしれません。

 細川晴元は若狭国小浜に亡命しているとはいえ、旧領地への影響力は絶大でした。丹波国は波多野晴通が、摂津国には芥川孫十郎が三好長慶に対して抵抗を始めたのです。しかも芥川孫十郎は三好一門衆の一人でした。三好衆は長慶率いる一門衆と政勝が率いている旧宗三軍に分裂していました。江口合戦では細川晴元と敵対することも厭わなかったのですが、三好長慶が細川氏綱を立てる事に対しては、長慶配下の一門衆すら割れるのです。芥川孫十郎の父は芥川長光といい、祖父の三好之長とともに等持院合戦で細川高国に討たれています。その死は助命を条件とした投降であったにもかかわらず、武器を取り上げられた後に死罪を言い渡されるという騙し討ち的なものでした。三好長慶の特異な性格は置くとして、細川高国の後継者を謳う細川氏綱を芥川孫十郎が信用できないのはやむを得ない部分があったでしょう。

 では、もう一つの京兆家が守護職を受け継ぐ讃岐国はどうでしょうか。ここは阿波守護の細川持隆に委ねられていて、天文錯乱で決別して以来疎遠になっていますが、彼の元々の望みは足利義冬(当時は足利義維)を将軍に、細川晴元を管領とする幕府を築くことを願い、その為の犠牲も多々払ってきました。ここで細川晴元がかつての政権構想の実現を細川持隆に持ち掛けたとすれば、堺幕府復活不可避なわけです。義藤にとっては将軍位を追い落とされる危険が巨大化するというわけでした。そういう不安が足利義藤にあったとすれば、三好長慶に肩入れする伊勢貞孝の意見を容れるにはリスクが伴うと考えざるを得ないところだったでしょう。ここは三好長慶とは一定の距離を置くことが必要と判断したと考えられます。

 この考えはおそらくは杞憂ではなかったと思われます。足利義冬がいた四国阿波において、阿波細川家中のお家騒動が発生しました。当事者となったのは讃岐および阿波守護細川持隆、そして阿波国守護代三好之虎と讃岐国守護代十河一存の三好兄弟でした。阿波細川家は両細川の乱において細川澄元・晴元親子、そして足利義冬(義維)を一貫して保護し、その上洛活動を助けてきました。その甲斐あって足利義維(義冬)と細川六郎(晴元)を堺に入れてそこに幕府組織を構築することに成功します。しかし、その成功は一時的なものにすぎず、堺の幕府は無惨な崩壊を迎えるに至ります。その諸行無常を目の当たりにして細川持隆は四国に引きこもることにしました。もちろん、堺幕府崩壊に伴い三好元長をはじめとする有為な人材を数多く失なったために領国である讃岐・阿波、そして三好之長の代に手に入れた淡路の経営再建に注力せざるを得なかったという事情もあったりします。結局畿内には細川六郎(晴元)、三好千熊丸(長慶)、三好政長(宗三)のみを送り、その間のフォローはあまりできていません。そのせいで三好長慶は苦労することになるわけです。

 但し、細川持隆は千熊丸以外の三好元長の遺児たちを四国でしっかり教育し、阿波細川家の次代を支える人材として育て上げました。次男の之虎は自らの居城の勝瑞城に住まわせて阿波国守護代として右腕としました。三男の冬康は淡路の水軍衆安宅氏の養子に入り、安宅冬康として淡路水軍衆を率いて畿内と四国の流通を担うようになります。四男の一存は細川宗家から預かっている讃岐国の守護代として讃岐衆を率います。あと一人、冬長という末弟がいて淡路島の志知の国人野口氏の養子に入ったという記録もあるのですが、この人物はどうやら早世したようで、詳しいことはわかっていません。

 木澤長政が畿内の動乱に巻き込まれて戦死すると、細川氏綱が挙兵します。細川晴元は三好宗三、長慶らを使ってこれを攻め滅ぼそうとしますが、木澤亡き後の摂河国人衆の向背は定かならずという状況で、宗三・長慶は苦戦します。そこで三好之虎が安宅冬康の船に乗って援軍に駆け付けるようになりました。彼らが一堂に会して細川氏綱と遊佐長教軍を舎利寺で破った折には細川持隆は自らが育てた三好元長の息子たちの活躍を聞いて、今は亡き三好元長に面目を施したと感じたに違いありません。しかし、事態は彼の望まない方向に進んでゆくのです。

 

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