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2020年5月 2日 (土)

中漠:善人令和編⑰丹波遠征

 京近辺の情勢に戻ります。足利義藤と幕府の一行は目出度く京に帰還しました。細川氏綱は悲願であった細川京兆家の家督となり、三好長慶の下には細川晴元の嫡子聡明丸が戻ってきました。三好長慶に今回の戦争における恩賞はありませんでした。長慶としては三好宗三に罰を与えることができたし、将軍たちには不便な思いをさせたことが申しわけなく、恩賞をもらうのは筋が違うと思っていたのでしょう。これで長慶と聡明丸との間にきちんとした主従関係を結ぶことができ、三好長慶としては満足していたのではないかと思います。細川晴元に逃げられたという一点を除けば。

 この一点の為に面倒な仕事が残ってしまいました。細川氏綱の丹波守護継承です。細川京兆家家督には漏れなく摂津・丹波・讃岐守護がついてきます。このうち讃岐守護については阿波細川家の細川持隆に任せていて、摂津国は三好宗三亡き今、三好長慶が支配下に置いていました。残りの丹波ですが、ここは国人衆の意見が割れます。明確に氏綱支持を表明したのは八木城の内藤国貞でした。彼は細川高国が管領をしていた頃からの高国派でした。細川晴元が実権を握った後はいやいや従っていましたが、三好長慶が氏綱を奉じるに及んで晴元にも反旗を翻したのです。

 一方、氏綱に従わない丹波国人代表が波多野晴通でした。波多野晴通の妹は三好長慶の妻で、二人の間には義興(この当時の名乗りは慶興)という嫡男がいたのですが、舎利寺合戦後の和睦で三好長慶が遊佐長教の娘を嫁に迎えるにあたり、波多野晴通の妹は離縁となりました。和睦の時点で遊佐長教は細川氏綱の擁立をあきらめたことになったはずなのですが、実態はそうではないという情報を妹経由で晴通は知ったのでしょう。細川高国とその係累は祖父稙通の代からの仇敵でした。三好長慶とは縁を切ったものの、三好長慶は戦の勝利を重ねて何時しか細川氏綱を足利義藤に認めさせるまでに至ったのです。この情勢変化に波多野晴通はついてゆけませんでした。幸い細川晴元は逃亡していて三好長慶に屈したわけではありません。故に挙兵して細川氏綱は認めないと宣言したのでした。

 細川京兆家が戦国時代の長きに渡って京で権力を握り続けられたのは丹波国を抑えていたからです。摂津国は応仁の乱の最中に大内軍に蹂躙されて以来四国勢の侵攻ルートになっていましたし、和泉国は京からやや遠い。京のある山城国に隣接していてなおかつ山がちで攻めにくい地勢の丹波は細川京兆家の力の源泉であったといっても過言ではありません。事実細川高国は丹波衆の波多野稙通兄弟の信望を失った結果失脚しましたし、明智光秀は織田信長の命令でここを征服するのに五年かかりました。なので三好長慶としてはこれを放置できませんでした。自ら軍を率いて波多野晴通討伐に赴きます。

 戦いは波多野晴通の居城八上城を三好軍が囲む展開になりました。山城なので攻略に時間がかかります。しかし、その間に摂津国で反三好長慶の旗幟を現した国人衆が出てきました。芥川城の芥川孫十郎と池田城の池田長正です。芥川孫十郎は三好一族で宗家とは之長の代から枝分かれした一門衆です。1520年(永正十七年)に三好之長が上洛戦を仕掛け、上洛の途上に之長の孫にあたる三好長光に芥川城が与えられました。それ以降長光は芥川を氏としましたが、上洛した一門衆は長光はもちろん之長を含めて等持院合戦の敗北で討ち取られてしまいました。孫十郎は芥川長光の息子です。その後四国に逼塞していた細川六郎(晴元)が堺に上陸した際、三好の一族衆として孫十郎は本州に渡り、芥川城をあてがわれたのでした。彼は三好家は高国系細川家を排して澄元系細川家を盛り立てることが当たり前だと考えていたようです。

 池田長正の場合は少し複雑です。彼の母方の祖父は三好政長(宗三)で、息子の政勝が細川晴元の下で三好長慶と戦っているのですが、父親の信正は細川晴元に誅殺されています。この時、池田家の家臣衆は抗議の意味で家内の三好政長派重臣を追放したことが、三好長慶による三好政長弾劾のきっかけとなりました。池田家と三好政長の関係の契機になったと思われる三好政長の榎並城入りは1536年(天文五年)なので、長正はこの時おそらく十代後半くらいで老臣の補佐があったものと思われます。その老臣衆にしても細川晴元と戦うことはあっても細川氏綱に仕えることは想像の範囲外だったのでしょう。

 三好長慶は猪名川谷経由で越水城に戻り、芥川・池田両氏に説得工作を行います。その結果1552年(天文二十一年)十二月には芥川孫十郎は帰参しました。この段階で細川氏綱を担ぐことのリスクに三好長慶は気づいたものと思われます。しかも、最初に氏綱を担いだ遊佐長教はすでに鬼籍に入っています。そして事態はより悪い方向にエスカレートすることになるのです。

1552年(天文二十一年) 一月二十八日 六角義賢の仲介で足利義藤と三好長慶が和睦。
細川聡明丸(後の昭元)、三好長慶の人質となるが、晴元若狭へ亡命。
細川氏綱、京兆家の家督を継ぐ。
二月二十一日 安見宗房、萱振賢継を遊佐長教暗殺犯として萱振氏を族滅する。
四月二十五日 三好長慶、晴元方波多野晴通を八上城を囲む。
五月二十三日 三好長慶、芥川孫十郎の寝返りにより八上城から撤退。
十二月____ 芥川孫十郎、三好長慶に帰参する。

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