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2020年5月 9日 (土)

中漠:善人令和編⑱足利義藤という男


 丹波遠征をめぐる一連の騒動で足利義藤は三好長慶の性格を把握したようです。戦争指揮能力と正義感は高いが、詰めが甘い善人であり、根回しが必要な利害関係の調整も不得意というところでしょうか。海千山千の曲者を相手にしてきた足利将軍の相としては軽く見えたとのでしょう。実際は遊佐長教が木澤長政や三好宗三を殺すところ、安見宗房が萱振一族を族滅したところを見ていましたし、安見宗房の主張を受けて自らも、根来寺松坊にいたという遊佐長教の弟を有馬温泉にて捕縛殺害しているので、決して子供っぽい正義感だけを振り回しているわけではないのですけれどね。

 1552年(天文二十一年)四月に三好長慶の丹波遠征が失敗して細川晴元方の兵が京近辺に現れ始めると、幕閣の意見が二つに割れます。一つは奉公衆上野信孝を中心とした細川晴元派と、三好長慶との和解を主導した政所執事伊勢貞孝を中心とした細川氏綱・三好長慶派です。上野信孝の先祖は観応の擾乱の頃に岩見国守護をやっていた上野頼兼です。1509年(永正六年)に足利義尹(義稙)の配下として備中鬼邑城を任せられたという記録があるそうです。本稿が1550年代あたりの話をしていますので、ざっと四十年前から現役武将をやっている古参であったことがわかります。

 細川晴元軍の京近辺への出没に備えて、足利義藤は現在の東山清水寺から丸山公園あたりにあった霊山城の改修を始めます。そのために足利義藤は洛中寺社に竹・木・人夫の提供を命令したのですが、これに政所執事の伊勢貞孝が反対します。一月に京へ帰ってきたばかりなのに十月には戦に備えた徴発を行うのは寺社の不満を買うだけだと思ったのでしょう。しかし、上野信孝を始めとした幕府奉公衆はこれを伊勢貞孝の専横として非難したのです。

 改修着手から一ヶ月も経たぬうちに細川晴元軍が高尾から西岡近辺を放火しつつ上洛します。迎え撃つ三好軍にとっては奇襲だったようで、西院城を自焼きして霊山城まで撤退。両軍はその翌日に清水坂で両軍交戦しました。このことによって、霊山城改修の先見性は証明されます。細川晴元軍は河内から安見宗房が兵を引き連れて上洛しつつある報を受けて撤退しました。但し、この合戦は細川軍が方々に放火し、建仁寺も類焼したわりに戦死者はでず、双方手負いが六、七名にとどまったことが、三好長慶と親三好派幕閣にある疑いをもたげさせます。すなわち幕府の中に親細川晴元派の勢力がいて、手引きしたのではないかということです。

 年が明けて1553年(天文二十二年)の元旦、三好長慶は足利義藤に拝謁します。先の清水坂合戦における助力への謝意を申し述べるためでしたが、足利義藤は三好長慶を叱ります。足利義藤にしてみれば、丹波遠征失敗だけではなく京の治安を脅かされたことは三好長慶の失態でした。あるいは義藤側近に讒言をする者がいたのでしょう。三好長慶は不穏な空気を感じて八日には淀城に撤収します。以前も襲撃を受けているので警戒はやむなしですが、三好長慶に落ち度なしとはしないがここまで追い詰めるのは不当と考えた伊勢貞孝が反撃にでました。

 伊勢貞孝は立場を同じくする幕臣、松田光致、大和晴完、松田盛秀、松田光秀、結城貞胤、中沢光利らと起請文を交わして同心し、三好長慶を讒訴する上野信孝ら六名を弾劾します。六名のうち今谷明氏の著書に乗っているのが上野、彦部、細川刑部の三名です。上野は上野信孝、彦部は足利幕府創業期に活躍した高師直と同じ高階氏の末裔でこの時期は彦部晴直が当主だったと考えられます。細川家で刑部の官職を持っているのは和泉上守護家当主の細川元常でした。和泉国は江口合戦の頃に守護代松浦守が三好長慶方について細川元常は晴元とともに京を追われていました。和睦で京に帰還したものの、三好長慶について含むところがあったものと思われます。この弾劾書に三好長慶および、細川氏綱の弟で典厩家を継いだ細川藤賢の連署を得た上、足利義藤と三好長慶との再度の談判にさらに多くの幕臣たちの賛同を得ました。

 上野信孝らは型に嵌められたと言ってよいでしょう。幕府内でここまで多数の幕閣のメンバーを巻き込まれては足利義藤も鉾を収めざるを得ません。二月二十六日に三好長慶は清水寺で足利義藤と会見します。それはこの騒動の後始末を足利義藤にさせるための儀式でした。弾劾された六名から人質を出させて三好長慶に預ける事が落としどころです。これで決着すれば室町幕府は一丸となって丹波から攻めてくる細川晴元一派の掃討ができるはずでした。しかし、足利義藤はこういう形で自らの意思を縛られることを嫌う人間だったのです。三月八日に足利義藤は改修された霊山城に入り、三好長慶と決別します。同時期に芥川城の芥川孫十郎が再び背き、若狭国小浜にいた細川晴元も若狭武田氏の支援を受けて挙兵します。

 事態は新たな段階に入りました。

1552年(天文二十一年) 四月二十五日 三好長慶、晴元方波多野晴通を八上城に攻めるも、芥川孫十郎の寝返りで撤退。
六月  五日 三好長慶、細川聡明丸を越水城に移す。
八月  下旬 細川晴元軍、小浜から山城国小野郷に進出との噂が京に流れる。
十 月二十 日 細川晴元軍、内藤国貞を破り、丹波国河瀬城を奪取。
末___ 足利義藤、洛北霊山城の改修を開始。
十一月二十七日 細川晴元軍、高尾から嵯峨に進出。三好方西院城を自焼きして霊山城に撤退。
二十八日 清水坂合戦。晴元軍と三好軍、五条坂で交戦。建仁寺焼ける。
十二月____ 芥川孫十郎、三好長慶に帰参する。
1553年(天文二十二年) 正月  一日 三好長慶、足利義藤に拝謁するも、不穏な雰囲気を感じる。
八日 三好長慶、淀城に退く。この後、足利義藤と和解。
二月二十六日 三好長慶、清水寺にて足利義藤と会見。
反三好派幕府奉公衆からの人質を求める。
三月  八日 足利義藤と三好長慶が決別し、東山霊山城に籠る。
芥川孫十郎再度三好長慶に背き、摂津芥川城に籠城する。
十六日 細川晴元、挙兵



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