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2020年6月 6日 (土)

中漠:善人令和編㉑鑓場義戦


 細川持隆が殺害された理由は何でしょうか。にわかに足利義冬の息子(義栄)を擁立して上洛しようと思い立ったが、三好之虎に露見したとか、三好之虎をにわかに憎み、相撲見物にかこつけて暗殺しようとした所、露見してしまったとか、色々憶測されているわけですが、子供の頃から三好兄弟を見守り続けてきた阿波の太守がこの期に及んで謀略に走るとは考えにくいです。

 強いて言うなら、江口合戦後に畿内から弟達を引きあげさせたことで、三好長慶が甚だ不利を蒙ったせいかも知れません。三好之虎は兄を助けに行きたかったにもかかわらず、細川持隆がそれも認めなかった。だからではないかと私は考えています。細川持隆による足利義栄擁立説もあるのですが、何しろ戦っている当事者が細川晴元と三好長慶という身内同士です。彼にしてみれば、こんな騒乱に巻き込まれたくないというのが本音だったのではないでしょうか。現に彼は天文錯乱においても肝心な所で三好元長を見捨てて四国にひきこもっていました。身内の争いごとが嫌いな性格だったのでしょう。

 細川持隆が作り上げた讃岐・阿波・淡路三国の体制は畿内の細川晴元の為の常備軍という位置づけでした。すなわち、舎利寺合戦の時のように細川晴元の号令の下に三好長慶とその弟達が集結し、武威を天下に示す。その為に三好之虎、安宅冬康、十河一存らが育てられたのです。流動化する戦局に対しもてあますほどの力を持っているにもかかわらず、その行使を禁じられた弟達はストレスがたまっていたはずでした。その間に、遊佐長教は暗殺され、丹波遠征を行った三好長慶は芥川孫十郎の離反により撤退を余儀なくされ、さらには将軍足利義藤に敵対されて窮地に追いやられます。なので、この下克上の原因は細川持隆の工作の結果というよりも、兄長慶の窮地を救う為に一刻も早く四国勢を畿内に入れようと焦った弟達の暴走という方が実態に近いのではないかと思います。

 最大の障害である細川持隆を除いた後には、新体制を構築する必要がありました。その旗印が細川持隆の遺児真之です。この二年前に周防国で大内義隆が陶隆房(晴賢)に討ち取られ、子の義長が立てられたのと同じ流れでした。いわば主君押し込めの失敗例であり、陶隆房も謀反の三年後に毛利元就に滅ぼされます。今回の三好兄弟の謀反についても一族以外の阿波・讃岐国人衆への根回しは不十分でした。

 細川持隆が最後を迎えた勝瑞城の南西、吉野川の対岸に芝原城があります。細川持隆の家臣としてそこを守っていたのが久米安芸守です。彼の妻は細川持隆の妹だそうです。彼が佐野丹波守や仁木高将、小倉重信、野田内蔵助ら、同志を集めて三好之虎一党に戦いを挑みました。彼には義広(または義弘)という諱が後世に伝えられているのですが、「三好義賢」と同じく足利将軍から偏諱をもらえる立場にありません。また、久米安芸守一党の反乱は義挙として後世に伝えられており、義広という諱は「正義を広める」という意味にもとれます。故に義広という諱は実際に久米安芸守が名乗ったのではなく、彼の生き様を後世に伝える際に新たにつけられたいわば「真田幸村」のようなものではないかと私は考えています。そして久米安芸守は三好之虎の舅でした。すなわち、彼の娘が三好之虎の妻だったわけです。久米安芸守が集めえた兵は寡兵でしたが、舅として婿の無道を罰しなければならない責務を負っていました。かたや三好之虎は阿波勢を率いて四国はもちろん畿内にもその覇を見せつけた実力者です。その動員力は久米安芸守が到底太刀打ちできるものではありませんでした。

 両軍は黒田鑓場という地で対決しますが、「衆寡敵せず」の言葉通り、久米安芸守勢は敗北します。追い詰められつつも旧主の恩義を言いつのりながら攻めかかる久米安芸守に三好之虎の軍兵は刃を向けられませんでした。その最期はそれに憤激しての自刎だったとされています。三好之虎は主君のみならず、舅までも殺害してしまったわけです。阿波守護家は細川真之に継がせたとはいえ、その正当性はボロボロでした。それでも之虎には阿波の体制を立て直して畿内で孤立しつつある兄長慶を助けなければなりません。その為にとった手段が亡き主君細川持隆の妻で現当主の細川真之の母を自らの妻として迎えるということでした。持隆の妻の名は小少将という名が伝わっており、阿波国西条東城を任されていた岡本牧西の娘だそうです。これにより岡本氏の支持は取り付けられ、母小少将を通して阿波守護細川真之をコントロール下に置くことが可能になったわけです。もう一人の妻である久米安芸守の娘の運命も推して知るべしでしょう。

 之虎には兄長慶を一刻も早く助けたいという一念しかなかったかも知れません。しかしこれは人倫に悖る行いでした。この善人を疾く助ける為にとられた行動は実に迂遠でかつ、無道に堕ちたものだったのです。

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