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2020年6月13日 (土)

中漠:善人令和編㉒細川持隆の年齢について

 ここまで細川持隆は勝瑞の変の段階で五十七歳、宗家の細川晴元とは十七歳の年齢差があり、長慶を始めとする三好兄弟の親代わりとなって支えてきた保護者として記載してきました。本稿は今谷明氏の「戦国三好一族」を主に参考とし、腹落ちしない部分は調べながら書いてきたのですが、細川持隆の年齢について面白い別説に行き当たりましたので、紹介します。

 端的に言うと、細川持隆は従来細川晴元の年長の従兄弟と言われてきましたが、実は細川晴元の弟であり、晴元より一、二才年少であるという説です。これは「戦国期細川権力の研究」の中で馬部隆弘氏が提唱されている説です。

〇細川両家記 享禄五年三月三日条
 御舎弟讃州を以申分られけれ共、晴元御心ゆかず

〇細川高国晴元闘争記
 六郎君(細川晴元)高弟讃州府君、齢僅十五六、眉宇秀発、友愛之情、凡眉睫間、擁万騎、救兄於危難間

 簡単に言うと上記戦記物の史料においては讃州と呼ばれる人物が細川晴元の弟とされ、それが持隆であると言っているわけです。そして細川持隆を晴元の従兄弟としているのは、近世以降の系図史料かららしい。この説明は細川之持の死が天文二年頃であるとされた先学の説を否定する中で提示された情報であり、持隆の年齢を目的とした論考ではないのですが、実に興味深い内容です。

 この説が正しいとすれば、当ブログにおける持隆に関する四国事情も書き直す必要があるのですが、ほかにも重要なポイントがあります。

 その最たる部分は天文錯乱前後に細川晴元が足利義維から義晴へ鞍替えした際に、細川持隆の意見が顧みられなかった理由です。持隆の制止は彼が若輩なため説得力が伴わなかったのだとはっきりします。そうだとすると、阿波陣営の首脳には三好元長以外の大人がいないことになってしまいます。今谷説だと「管領代」茨木長隆が影響力を発揮したせいとしていました。この説はぽっと出の摂津国人がいきなり管領代になること、そして反三好元長派を形成して細川晴元を頭に据える才覚があったのかという点で不自然さは否めませんでした。現に茨木長隆は後に細川氏綱の奉行人になりましたが、この時はほとんど目立った動きはしていません。馬部氏の著書の説明によると細川晴元の後見役として細川讃州家(阿波守護家)の一族に可竹軒周聡という人物がいて、この人物が細川晴元の方針転換に重要な役割を果たしたことになっています。この可竹軒周聡は僧籍にあり、細川晴元の側近集団である御前衆の筆頭として貢献していました。そして細川晴元がこの可竹軒周聡に対し敬語を使っていることから、細川一門讃州家(阿波守護家)出身で晴元・持隆らを後見していた立場にあったと推測されているわけです。御前衆の構成メンバーは可竹軒周聡、木澤長政、三好政長、茨木長隆です。
 ただ、可竹軒周聡は天文錯乱を境に登場しなくなり、御前衆筆頭も木澤長政に代わります。細川両家記天文二年二月十日条に一向門徒勢が堺を襲撃した折、御前衆数人が討ち死にしたという記載があるのですが、実際は木澤長政、三好政長、茨木長隆らは生きており、ここでそれ以後登場しなくなる可竹軒周聡が討ち死にしたのではないかという説も立てられています。これもまた興味深く、茨木長隆が役者不足な所をうまく補っていると思います。ただ、少なくとも茨木長隆については細川六郎の代理として署名した書状が残されていますが、可竹軒周聡の立ち位置については、まだまだ私自身勉強しなければならない部分があります。

 そのほか、細川晴国の乱、氏綱の乱で活躍した高国派残党をまとめ上げて山城丹波国境で挙兵した上野玄蕃を当ブログでは今谷氏の著書に倣って上野元治としていましたが、馬部氏の考証にて元治は年齢的に一世代前の人物であり、この時代においてはその孫の国慶を充てるのが妥当なのだそうです。

 また、天文錯乱(第一次石山戦争)にて幕府と本願寺との間の講和に三好千熊丸(長慶の幼名)が仲介者となった時、阿波にいた千熊丸と細川晴元との仲介役になったのが光勝院周適という僧です。光勝院は京兆家の祖である細川頼春の菩提寺で阿波守護家の庇護下で発展した禅宗寺院でした。その住持である光勝院周適も細川阿波守護家の者と考えられています。三好千熊丸にとっては主筋にあたる人物であり、虫の良すぎる細川晴元・三好政長らの懇願をとりなすにはうってつけの人物であったでしょう。そして、幼少の三好千熊丸の補佐として和睦を実効性あるものにするために奮戦した三好伊賀の実名が三好連盛であることが記されていました。

 総じて「戦国期細川権力の研究」は、今谷氏の著書の中で下克上の世の中とはいえ過激なことが横行していると感じる事件について、史料に基づいてある程度納得できる立場の人物による関与があることが示唆されています。但し、可竹軒周聡、上野玄蕃国慶、光勝院周適、三好連盛らの実際の立ち位置などが細川持隆の実年齢を含めて、その根拠に整合性が取れているかどうか、まだ腹落ちしていません。同書は図書館で借りてチラ見しているだけなのですが、ぜひ購入して詳しく勉強したい所です。ただ、この本はぶ厚くて重くて何より少々お高い。けどそれに見合った内容であることは間違いありません。少しずつでも読み込んでみようかと思います。

 

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