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2020年7月25日 (土)

中漠:善人令和編㉖鷹山弘頼と遊佐長教


 木澤長政が幕府の敵になった結果、鷹山弘頼は自らの存立基盤を脅かされます。当然、幕府からは木澤長政を見限れとの命令が来た筈です。鷹山弘頼はそれに従いました。摂津・山城との国境が近く、河内にも領地を持っている鷹山弘頼は現実的な判断をしたわけです。三好宗三・長慶率いる細川軍が東高野街道を南下して、木澤・遊佐が激突する高屋城を目指して迫っていました。細川晴元につくと決めたならば、何が何でも木澤長政を没落させるしかなかったでしょう。さもなければ、自身が木澤長政に報復されてしまいます。その為には総州畠山在氏がいる飯盛山城を何とかしなければなりませんでした。

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 飯盛山城は眼下に東高野街道を臨み、その向こうには深野池が迫る切所でした。深野池内には三箇城と呼ばれる水上施設が飯盛山城の支城として機能しています。飯盛山城の総州畠山在氏がその気になれば、南下する三好軍をある程度足止めすることは簡単なことだったはずです。現に高屋城攻略の為に軍を進めていた木澤長政は背後から迫っている軍が三好軍であるとはつゆほども考えていませんでした。
 鷹山弘頼と安見宗房が取ったと考えられる方法は、河内私部城から兵を出して深野池内の三箇城と飯盛山麓の野崎を抑え、三好軍の通行を可能にすると同時に飯盛山に使いを出して総州畠山在氏が木澤長政に加担しないよう説得することだったのではないでしょうか。

 実際、摂津芥川城から淀川を越えて南下した三好軍は飯盛山からの妨害を受けたという記録もなく、木澤長政と遊佐長教が激突しているさなかの高屋城近辺の戦場に間に合うことができました。そしてそれが遊佐軍勝利をもたらし、1542年(天文十一年)三月十七日に木澤長政は太平寺にて遊佐長教の兵に討たれたのです。飯盛山城の畠山在氏への交渉ははかどらず、翌年一月までかかって飯盛山城は開城しました。その攻囲軍の中に鷹山弘頼と安見宗房はいたものと思われます。三箇城・野崎の押さえはあくまでも想像にすぎませんが、太平寺合戦がらみの功績で鷹山弘頼が細川晴元から感状をもらったのは史実です。退去した総州畠山在氏の身柄は本願寺が預かることになりました。

 太平寺合戦の戦後処理では、色々な政治的な思惑が錯綜したことは間違いありません。細川晴元は自らの虎の子である三好宗三・長慶を投入して木澤軍を撃破したものの、大将の木澤長政を討ち取ったのは遊佐長教でした。もし、三好勢が木澤長政を討ち取っていたなら、河内北部は細川晴元の分国になっていたでしょう。結局、飯盛山城は破棄されて、河内国は遊佐長教に委ねられることになりました。それに伴い、鷹山弘頼・安見宗房は遊佐長教に従うようになります。とはいっても、鷹山弘頼は大和国にも属しています。彼は1544年(天文十三年)に筒井順昭の柳生城攻めに増援として参陣し、柳生城を攻め落としています。

 鷹山弘頼としては木澤長政の死を契機とした危機をうまく乗り越えて河内と大和に両属する小領主としての安寧を得たはずでしたが、遊佐長教はそれを許しませんでした。1545年(天文十四年)に尾州畠山稙長が没すると、遊佐長教は細川氏綱を奉じて細川晴元に反旗を翻します。摂河泉の国人衆に調略をかけ、自らの軍勢に引き入れました。鷹山弘頼と安見宗房に対して提示された条件は破格なものでした。山城上三郡を治める守護代の地位です。その意図は安見宗房を取り立てる為ではないかと思います。すなわち、中間あがりの軽輩である安見宗房を大和と河内でそれなりの地位を持つ鷹山弘頼とセットで扱うことによって、安見宗房により大きな権限を持てるようにする為の方便です。

 遊佐長教は戦国武将としてはあまり戦場に立ちたがらないタイプです。しかし、常に戦場以外の所で勝つ為の布石を打ち、一たび出陣するや高確率で勝ちを拾う軍才の持ち主でした。天文の錯乱で本願寺をボコり、木澤長政を討ち取った手腕はその最たるものです。むろん、その勝利をもたらしたのは本願寺の時は木澤軍の、木澤長政の時は三好勢の力を借りてはいるのですが、そこに遊佐長教がいなければ、木澤長政は太平寺合戦で負けても討ち取られる所まではいかずに戦場を脱出できたような気がします。そうなれば、歴史はまた変わっていたでしょう。そして、これは個人的な想像ですが、太平寺合戦の折に飯盛山城にいた総州畠山在氏に開城を説得したのは安見宗房だったのではなかったかと思っています。開城後の畠山在氏は本願寺の世話になるわけですが、遊佐の反逆を機に細川晴元方につくものの最終的に三好長慶・遊佐連合に没落を余儀なくされます。その息子の尚誠が大和に逃れたわけですが、その地が越智氏の所領高取城の近くでした。「オチカタドノ」の中間出身の安見宗房が越智氏に話をつけて居場所を作ったのかもしれません。

1542年(天文 十一年) 三月 十七日 太平寺合戦。木澤長政、戦死。
1544年(天文 十三年) 七月二十九日 鷹山・十市の援兵600人、筒井方として参戦し、柳生城攻略『多聞院日記』
1546年(天文 十五年) 九月 十三日 上野玄蕃(細川国慶)、上洛。
  この月 安見宗房、氏綱方の武将として史料に現れる。
  十 月 鷹山弘頼・安見宗房、氏綱方の遊佐長教に山城上三郡守護代に任じられる。



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2020年7月18日 (土)

中漠:善人令和編㉕鷹山弘頼と木澤長政


 三好長慶は1553年(天文二十二年)八月一日の東山霊前城合戦において単独で戦っていた訳ではありません。途中で安見宗房率いる河内勢と合流しています。しかし、その河内の状況は非常に流動的でした。安見宗房には相方として抜擢された鷹山弘頼がいた筈でしたが、この合戦には参戦していません。それもその筈、同年五月に高屋城にて謀殺されていたのでした。本稿では、そんな鷹山弘頼のプロファイルを追ってまいります。

 鷹山氏は興福寺の官符衆徒の一族です。大和国人は概ね興福寺の檀徒であり官符衆徒は僧形で興福寺に武力を提供する大和の名族でした。鷹山庄は飯盛山の北東にあり平安時代に歴代興福寺別当を輩出する一条院に属する荘園として開発されました。ただ、鷹山庄の官符衆徒鷹山氏が記録に出てくるのは戦国時代の前後当たりです。一応鷹山氏は源頼光の末裔を称しておりますが、真偽は不明です。応仁の乱の頃に大和に流れてきた山名氏の被官ではないかという説もあるそうです。

 鷹山家は官符衆徒としては後発なので、大和の国人同士のしがらみには囚われずに小回りを利かせました。例えば、明応の政変後の1498年(明応七年)、細川政元に味方する興福寺大乗院系官符衆徒古市澄胤に自らの居城鷹山城を提供して敵対勢力秋篠氏と戦った記録があるそうです。鷹山庄は一条院が開発した荘園でしたが、鷹山氏は大乗院系の古市澄胤に加担したのでした。その前年、古市澄胤は筒井氏と戦って敗れ、山城国に逃げていたのですが、この戦いはその復讐戦です。さらにこの翌年に細川政元の命を受けて延暦寺を焼いた赤澤宗益が大和国をも蹂躙しました。鷹山庄は山城・河内と国境を接していて京の動向、特に赤澤宗益のヤバさも把握しやすかったものと見られます。

 1523年(大永三年)頃には父親と目される鷹山頼慶が亡くなり、鷹山弘頼が後を継いだと見られます。この頃大和国で勢力を持っていたのは一条院系官符衆徒の筒井氏で、1528年(享禄元年)鷹山衆はその配下として薬師寺西塔を焼いたりもしています。享禄年中には鷹山庄近隣の飯盛山に木澤長政が入りました。その後木澤長政は主君畠山義堯と争ってこれを倒し、嫡男在氏を傀儡として河内支配権を得ます。

 飯盛山は深野池を眼下に見下ろし、北河内と摂津全域を見渡せる好立地にありましたが、鷹山城はその見晴らしの良い飯盛山の死角にありました。木澤長政が飯盛山で安住するためには鷹山氏との良好な関係維持は必須だったでしょう。この辺は想像ですが、木澤長政は鷹山弘頼を畠山在氏に引き合わせ、その被官として河内国私部城を任せることにしたと思われます。木澤長政は筒井順興・順昭親子とも仲が良く、大和国守護と自称できる程度には大和国人衆を結束させることができたのです。

 そのきっかけは、天文錯乱における一向門徒衆の大和侵入でした。この時長年筒井家と争ってきた越智家当主の家弘は居城高取城を門徒衆に襲撃されましたが、筒井順興・十市氏らの援兵で撃退できました。ともに外敵を撃退したという実績が越智氏の敵意を薄れさせたようです。その越智氏出身の妻女の中間(身の回りの世話係)がいました。越智家家臣中村圓賀の息子と言われていますが、彼の後年の立ち回りを見るに、周旋の才と教養を身に着けた人物でした。その出会いはあくまで想像ですが、筒井氏の関与があったのではないかと思います。この中間はこの前後に河内国星田に領地を持つ安見友重の養子となり、安見宗房と名乗ります。私部近隣の星田に大和国出身者が入ることで鷹山氏も勢力を固めることができたのではないでしょうか。

 将軍足利義晴、管領細川晴元を中心にして丹波・摂津・河内の国人衆がこれを支えるのが、木澤長政の政権構想であり、その実現に当時の幕閣の中では最も真摯に取り組んでいました。木澤家は元々管領家畠山氏の在京官僚の家系でした。政治的なセンスと知見は持ちあわせていたのですが、ぶっちゃけ細川晴元は管領の器ではありませんでした。山城・摂津・丹波三国の守護であるにもかかわらず、洛中は天文法華乱で焼き尽くし、政権維持に必要な武力を保持する家臣三好長慶を忌み嫌うなど、晴元自身がトラブルメーカーだったのです。そのマイナスをフォローしようと木澤長政は尽力したのですが、他の幕閣衆には警戒され、さらに足利義晴に利用されて幕府の敵扱いされるに至ります。同盟者である南河内の遊佐長教にも背かれ、木澤長政は二上城に入って遊佐軍と戦います。

 この時、木澤長政の本城である飯盛山城には総州畠山在氏がいました。彼は木澤長政の傀儡でしたが、河内国主の資格保有者でした。そして、その北方の摂津河内国境の芥川では遊佐軍と木澤軍の戦争に介入するために細川晴元が三好衆を従えて南下しようとしていました。飯盛山近隣の大和国鷹山・河内国私部を領して木澤長政を支えてきた鷹山弘頼にも転機が来ていました。

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〇鷹山氏関連年表Ⅰ

1470年(文明  二年)   鷹山頼栄、鷹山城を築く。
1498年(明応  七年)   竹林寺、兵火により焼失。古市氏が鷹山城を根拠として秋篠氏・宝来氏と合戦
1500年(明応  九年)   鷹山頼栄(二代)没『鷹山家略譜』
1504年(永正  元年)   鷹山頼秀(三代)没『鷹山家略譜』
1519年(永正 十六年)   鷹山頼宗(四代)没『鷹山家略譜』
1523年(大永  三年)   高山頼慶(五代)没
1528年(大永  八年)    鷹山・矢田・超昇寺の三人衆と秋篠氏との戦いで薬師寺西塔を焼く
1531年(享禄  四年)   木澤長政、飯森山城で畠山義堯と合戦する。
1540年(天文  九年)   鷹山頼春(一門衆)没(墓塔)
1542年(天文 十一年) 三月 十七日 太平寺合戦。木澤長政、戦死。



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2020年7月 4日 (土)

中漠:善人令和編㉔丹波内藤家の黄昏


 東山霊山城合戦が起こった同じ月の二十二日、芥川城に籠城していた芥川孫十郎が降伏・開城します。彼の妻は三好三好長慶の妹でした。三好長慶率いる二万五千の軍勢は将軍脱出後の東山霊山城をわずか一日で陥落させていますので、芥川城はその気になればいつでも落とせたはずです。時間をかけて籠城戦を行っていたのは身内意識があったためかもしれません。開城後、彼は三好之虎のもとに引き取られ、その後の消息はわかりません。

 これをもって三好長慶と足利幕府が取り交わした和議は破談となり、この和議によって京兆家家督として管領になった細川氏綱の立場が宙に浮いてしまいます。和議以降、細川氏綱は各所に書状を送り幕府の命令を伝えておりました。それは三好長慶らの添書を必要とするものではありますが、一応機能はしていたのでした。しかし、和議の破綻で細川氏綱の書状には価値がなくなってしまいました。氏綱の書状の効力は三好長慶がその実効性を裏打ちし、それを将軍足利義藤が認めるという均衡があって初めて成立するものでした。義藤を欠いた今、細川氏綱は三好長慶にとって荷物以外の何物でもありませんでした。それでも彼を支える理由は残っていました。それが丹波国八木城にいる内藤国貞の存在でした。

 内藤国貞は丹波守護代として細川高国に仕えてました。細川尹賢の讒言によって細川高国が香西元盛を誅殺し、その兄弟の波多野稙通、柳本賢治が反乱を起こした時、これに呼応して高国の追い落としにこそ加担しましたが、その実細川高国の復権に手を貸している節があります。京で政務をとっていた柳本賢治が播磨に進出した細川高国・浦上村宗らに暗殺された折、六角氏の支援を受けた内藤彦七が細川高国方として一時京を占領しています。その後細川高国が戦死してこの占領もとん挫しますが、波多野兄弟が担いだ細川六郎(後の晴元)も政権を掌握する前に本願寺の暴走を止められず危機を迎えます。そこで波多野稙通ら丹波国衆は細川高国の弟晴国を支援します。晴国が挙兵した高雄山は波多野稙通の居城八上城より、内藤国貞の居城八木城の方がより近い位置にあり、先に述べた内藤彦七と同様細川高国方として協力していたと考えてよいでしょう。その後、細川晴国は門徒武士の三宅国村を通して本願寺方について石山入りしますが、本願寺には細川晴国を上洛させる意思はありませんでした。そして本願寺は幕府に降伏し、晴国が亡ぶと、丹波国衆は細川晴元に服します。

 それから十年ばかりはこともなく歳月が過ぎ、河内の遊佐長教が細川氏綱を擁立すると、摂津・丹波の国人衆の一部はこれに呼応します。丹波国でいち早く細川氏綱支持を打ち出したのは内藤国貞でした。遊佐長教は三好長慶を味方に引き入れて京に進出。細川晴元と足利義晴・義藤親子を京から叩き出すも、自らは暗殺されてしまいます。三好長慶が遊佐を引き継ぎ、足利義藤の帰京を実現しましたが、細川晴元の抵抗は続きます。摂津・丹波の国人衆や阿波衆に働きかけてこれを分裂させることに成功します。三好長慶は細川晴元の丹波の拠点をたたこうとしますが、摂津・山城国境にある芥川城の芥川孫十郎が晴元側につきます。三好方の分裂は阿波にも及び、そのせいで阿波守護の細川持隆は三好之虎、十河一存らの手で殺されるに至ります。

 この分裂は内藤家にも及んでいました。先の東山霊山城合戦の前哨戦で三好勢が守る西院小泉城を攻めていたのは内藤彦七でした。彼は享禄年間には細川高国方として柳本賢治敗死後の京を一時的に占領していました。細川氏綱は細川高国の後継者として名乗りを上げた人物です。それゆえに内藤国貞は氏綱を支持しましたのですが、内藤彦七はこの時、細川晴元方の大将として三好勢に敵対したのです。この時丹波にも三好軍は入っていて率いていたのは松永長頼、松永久秀の弟です。彼は八木城城主内藤国貞の支援のもとで八上城にいる波多野晴通討伐をしていたのですが、八上城を囲んでいた間に香西元成・三好政勝は八木城を破り、内藤国貞を討ち取ってしまいました。

 八木城が細川晴元の手に落ちたということは、松永長頼は敵中に孤立し、京に駐留する三好勢も脅威にさらされることになります。その報を知った松永長頼はすぐに八上城の攻囲を解き、山陰道を引き返して一日で八木城を奪還しました。しかし、内藤国貞の戦死は細川氏綱にとって大きな痛手となります。氏綱を支えていた三好長慶、遊佐長教、安見宗房および、その父祖は細川高国の直臣だった経験はありません。摂津の国人衆は実質的に三好長慶の傘下に収まっている中、細川氏綱の唯一の譜代衆と言える存在だったのです。国貞には男児がなく、松永長頼は内藤家に婿入りして内藤宗勝と名乗って八木城を確保します。これによって、細川氏綱はますます政治的立場を小さくしてゆくことになりました。

 

1553年(天文二十二年) 正月__一日 三好長慶、足利義藤に拝謁するも、不穏な雰囲気を感じる。
八日 三好長慶、淀城に退く。この後、足利義藤と和解。
二月二十六日 三好長慶、清水寺にて足利義藤と会見。
反三好派幕府奉公衆からの人質を求める。
三月__八日 足利義藤と三好長慶が決別し、東山霊山城に籠る。
芥川孫十郎再度三好長慶に背き、摂津芥川城に籠城する。
十六日 細川晴元、挙兵
六月_十七日 勝瑞の変。細川持隆、三好之虎に討たれる。
七月____ 足利義藤、細川晴元を赦免する。
八月__一日 東山霊山城合戦。足利義藤、三好長慶に敗れて朽木に逃れる。
八月二十二日 三好長慶、芥川城を降伏させる。芥川孫十郎、阿波に退去後消息を絶つ。
九月 十八日 三好政勝、香西元成、丹波国八木城を攻落。城主内藤国貞、討死。
後、松永長頼が奪還。国貞子息貞勝後見として内藤宗勝と名乗る。

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