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2020年7月 4日 (土)

中漠:善人令和編㉔丹波内藤家の黄昏


 東山霊山城合戦が起こった同じ月の二十二日、芥川城に籠城していた芥川孫十郎が降伏・開城します。彼の妻は三好三好長慶の妹でした。三好長慶率いる二万五千の軍勢は将軍脱出後の東山霊山城をわずか一日で陥落させていますので、芥川城はその気になればいつでも落とせたはずです。時間をかけて籠城戦を行っていたのは身内意識があったためかもしれません。開城後、彼は三好之虎のもとに引き取られ、その後の消息はわかりません。

 これをもって三好長慶と足利幕府が取り交わした和議は破談となり、この和議によって京兆家家督として管領になった細川氏綱の立場が宙に浮いてしまいます。和議以降、細川氏綱は各所に書状を送り幕府の命令を伝えておりました。それは三好長慶らの添書を必要とするものではありますが、一応機能はしていたのでした。しかし、和議の破綻で細川氏綱の書状には価値がなくなってしまいました。氏綱の書状の効力は三好長慶がその実効性を裏打ちし、それを将軍足利義藤が認めるという均衡があって初めて成立するものでした。義藤を欠いた今、細川氏綱は三好長慶にとって荷物以外の何物でもありませんでした。それでも彼を支える理由は残っていました。それが丹波国八木城にいる内藤国貞の存在でした。

 内藤国貞は丹波守護代として細川高国に仕えてました。細川尹賢の讒言によって細川高国が香西元盛を誅殺し、その兄弟の波多野稙通、柳本賢治が反乱を起こした時、これに呼応して高国の追い落としにこそ加担しましたが、その実細川高国の復権に手を貸している節があります。京で政務をとっていた柳本賢治が播磨に進出した細川高国・浦上村宗らに暗殺された折、六角氏の支援を受けた内藤彦七が細川高国方として一時京を占領しています。その後細川高国が戦死してこの占領もとん挫しますが、波多野兄弟が担いだ細川六郎(後の晴元)も政権を掌握する前に本願寺の暴走を止められず危機を迎えます。そこで波多野稙通ら丹波国衆は細川高国の弟晴国を支援します。晴国が挙兵した高雄山は波多野稙通の居城八上城より、内藤国貞の居城八木城の方がより近い位置にあり、先に述べた内藤彦七と同様細川高国方として協力していたと考えてよいでしょう。その後、細川晴国は門徒武士の三宅国村を通して本願寺方について石山入りしますが、本願寺には細川晴国を上洛させる意思はありませんでした。そして本願寺は幕府に降伏し、晴国が亡ぶと、丹波国衆は細川晴元に服します。

 それから十年ばかりはこともなく歳月が過ぎ、河内の遊佐長教が細川氏綱を擁立すると、摂津・丹波の国人衆の一部はこれに呼応します。丹波国でいち早く細川氏綱支持を打ち出したのは内藤国貞でした。遊佐長教は三好長慶を味方に引き入れて京に進出。細川晴元と足利義晴・義藤親子を京から叩き出すも、自らは暗殺されてしまいます。三好長慶が遊佐を引き継ぎ、足利義藤の帰京を実現しましたが、細川晴元の抵抗は続きます。摂津・丹波の国人衆や阿波衆に働きかけてこれを分裂させることに成功します。三好長慶は細川晴元の丹波の拠点をたたこうとしますが、摂津・山城国境にある芥川城の芥川孫十郎が晴元側につきます。三好方の分裂は阿波にも及び、そのせいで阿波守護の細川持隆は三好之虎、十河一存らの手で殺されるに至ります。

 この分裂は内藤家にも及んでいました。先の東山霊山城合戦の前哨戦で三好勢が守る西院小泉城を攻めていたのは内藤彦七でした。彼は享禄年間には細川高国方として柳本賢治敗死後の京を一時的に占領していました。細川氏綱は細川高国の後継者として名乗りを上げた人物です。それゆえに内藤国貞は氏綱を支持しましたのですが、内藤彦七はこの時、細川晴元方の大将として三好勢に敵対したのです。この時丹波にも三好軍は入っていて率いていたのは松永長頼、松永久秀の弟です。彼は八木城城主内藤国貞の支援のもとで八上城にいる波多野晴通討伐をしていたのですが、八上城を囲んでいた間に香西元成・三好政勝は八木城を破り、内藤国貞を討ち取ってしまいました。

 八木城が細川晴元の手に落ちたということは、松永長頼は敵中に孤立し、京に駐留する三好勢も脅威にさらされることになります。その報を知った松永長頼はすぐに八上城の攻囲を解き、山陰道を引き返して一日で八木城を奪還しました。しかし、内藤国貞の戦死は細川氏綱にとって大きな痛手となります。氏綱を支えていた三好長慶、遊佐長教、安見宗房および、その父祖は細川高国の直臣だった経験はありません。摂津の国人衆は実質的に三好長慶の傘下に収まっている中、細川氏綱の唯一の譜代衆と言える存在だったのです。国貞には男児がなく、松永長頼は内藤家に婿入りして内藤宗勝と名乗って八木城を確保します。これによって、細川氏綱はますます政治的立場を小さくしてゆくことになりました。

 

1553年(天文二十二年) 正月__一日 三好長慶、足利義藤に拝謁するも、不穏な雰囲気を感じる。
八日 三好長慶、淀城に退く。この後、足利義藤と和解。
二月二十六日 三好長慶、清水寺にて足利義藤と会見。
反三好派幕府奉公衆からの人質を求める。
三月__八日 足利義藤と三好長慶が決別し、東山霊山城に籠る。
芥川孫十郎再度三好長慶に背き、摂津芥川城に籠城する。
十六日 細川晴元、挙兵
六月_十七日 勝瑞の変。細川持隆、三好之虎に討たれる。
七月____ 足利義藤、細川晴元を赦免する。
八月__一日 東山霊山城合戦。足利義藤、三好長慶に敗れて朽木に逃れる。
八月二十二日 三好長慶、芥川城を降伏させる。芥川孫十郎、阿波に退去後消息を絶つ。
九月 十八日 三好政勝、香西元成、丹波国八木城を攻落。城主内藤国貞、討死。
後、松永長頼が奪還。国貞子息貞勝後見として内藤宗勝と名乗る。

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