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2020年7月18日 (土)

中漠:善人令和編㉕鷹山弘頼と木澤長政


 三好長慶は1553年(天文二十二年)八月一日の東山霊前城合戦において単独で戦っていた訳ではありません。途中で安見宗房率いる河内勢と合流しています。しかし、その河内の状況は非常に流動的でした。安見宗房には相方として抜擢された鷹山弘頼がいた筈でしたが、この合戦には参戦していません。それもその筈、同年五月に高屋城にて謀殺されていたのでした。本稿では、そんな鷹山弘頼のプロファイルを追ってまいります。

 鷹山氏は興福寺の官符衆徒の一族です。大和国人は概ね興福寺の檀徒であり官符衆徒は僧形で興福寺に武力を提供する大和の名族でした。鷹山庄は飯盛山の北東にあり平安時代に歴代興福寺別当を輩出する一条院に属する荘園として開発されました。ただ、鷹山庄の官符衆徒鷹山氏が記録に出てくるのは戦国時代の前後当たりです。一応鷹山氏は源頼光の末裔を称しておりますが、真偽は不明です。応仁の乱の頃に大和に流れてきた山名氏の被官ではないかという説もあるそうです。

 鷹山家は官符衆徒としては後発なので、大和の国人同士のしがらみには囚われずに小回りを利かせました。例えば、明応の政変後の1498年(明応七年)、細川政元に味方する興福寺大乗院系官符衆徒古市澄胤に自らの居城鷹山城を提供して敵対勢力秋篠氏と戦った記録があるそうです。鷹山庄は一条院が開発した荘園でしたが、鷹山氏は大乗院系の古市澄胤に加担したのでした。その前年、古市澄胤は筒井氏と戦って敗れ、山城国に逃げていたのですが、この戦いはその復讐戦です。さらにこの翌年に細川政元の命を受けて延暦寺を焼いた赤澤宗益が大和国をも蹂躙しました。鷹山庄は山城・河内と国境を接していて京の動向、特に赤澤宗益のヤバさも把握しやすかったものと見られます。

 1523年(大永三年)頃には父親と目される鷹山頼慶が亡くなり、鷹山弘頼が後を継いだと見られます。この頃大和国で勢力を持っていたのは一条院系官符衆徒の筒井氏で、1528年(享禄元年)鷹山衆はその配下として薬師寺西塔を焼いたりもしています。享禄年中には鷹山庄近隣の飯盛山に木澤長政が入りました。その後木澤長政は主君畠山義堯と争ってこれを倒し、嫡男在氏を傀儡として河内支配権を得ます。

 飯盛山は深野池を眼下に見下ろし、北河内と摂津全域を見渡せる好立地にありましたが、鷹山城はその見晴らしの良い飯盛山の死角にありました。木澤長政が飯盛山で安住するためには鷹山氏との良好な関係維持は必須だったでしょう。この辺は想像ですが、木澤長政は鷹山弘頼を畠山在氏に引き合わせ、その被官として河内国私部城を任せることにしたと思われます。木澤長政は筒井順興・順昭親子とも仲が良く、大和国守護と自称できる程度には大和国人衆を結束させることができたのです。

 そのきっかけは、天文錯乱における一向門徒衆の大和侵入でした。この時長年筒井家と争ってきた越智家当主の家弘は居城高取城を門徒衆に襲撃されましたが、筒井順興・十市氏らの援兵で撃退できました。ともに外敵を撃退したという実績が越智氏の敵意を薄れさせたようです。その越智氏出身の妻女の中間(身の回りの世話係)がいました。越智家家臣中村圓賀の息子と言われていますが、彼の後年の立ち回りを見るに、周旋の才と教養を身に着けた人物でした。その出会いはあくまで想像ですが、筒井氏の関与があったのではないかと思います。この中間はこの前後に河内国星田に領地を持つ安見友重の養子となり、安見宗房と名乗ります。私部近隣の星田に大和国出身者が入ることで鷹山氏も勢力を固めることができたのではないでしょうか。

 将軍足利義晴、管領細川晴元を中心にして丹波・摂津・河内の国人衆がこれを支えるのが、木澤長政の政権構想であり、その実現に当時の幕閣の中では最も真摯に取り組んでいました。木澤家は元々管領家畠山氏の在京官僚の家系でした。政治的なセンスと知見は持ちあわせていたのですが、ぶっちゃけ細川晴元は管領の器ではありませんでした。山城・摂津・丹波三国の守護であるにもかかわらず、洛中は天文法華乱で焼き尽くし、政権維持に必要な武力を保持する家臣三好長慶を忌み嫌うなど、晴元自身がトラブルメーカーだったのです。そのマイナスをフォローしようと木澤長政は尽力したのですが、他の幕閣衆には警戒され、さらに足利義晴に利用されて幕府の敵扱いされるに至ります。同盟者である南河内の遊佐長教にも背かれ、木澤長政は二上城に入って遊佐軍と戦います。

 この時、木澤長政の本城である飯盛山城には総州畠山在氏がいました。彼は木澤長政の傀儡でしたが、河内国主の資格保有者でした。そして、その北方の摂津河内国境の芥川では遊佐軍と木澤軍の戦争に介入するために細川晴元が三好衆を従えて南下しようとしていました。飯盛山近隣の大和国鷹山・河内国私部を領して木澤長政を支えてきた鷹山弘頼にも転機が来ていました。

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〇鷹山氏関連年表Ⅰ

1470年(文明  二年)   鷹山頼栄、鷹山城を築く。
1498年(明応  七年)   竹林寺、兵火により焼失。古市氏が鷹山城を根拠として秋篠氏・宝来氏と合戦
1500年(明応  九年)   鷹山頼栄(二代)没『鷹山家略譜』
1504年(永正  元年)   鷹山頼秀(三代)没『鷹山家略譜』
1519年(永正 十六年)   鷹山頼宗(四代)没『鷹山家略譜』
1523年(大永  三年)   高山頼慶(五代)没
1528年(大永  八年)    鷹山・矢田・超昇寺の三人衆と秋篠氏との戦いで薬師寺西塔を焼く
1531年(享禄  四年)   木澤長政、飯森山城で畠山義堯と合戦する。
1540年(天文  九年)   鷹山頼春(一門衆)没(墓塔)
1542年(天文 十一年) 三月 十七日 太平寺合戦。木澤長政、戦死。



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