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2020年8月29日 (土)

中漠:善人令和編㉘芥川城入城


 東山霊山城合戦に勝利した三好長慶は、そのまま兵を摂津に戻して芥川攻城戦を続行します。この城を守る芥川孫十郎はここまで追い詰められるまでに何度か降伏と挙兵を繰り返していましたが、年貢の納めどきは近づいていました。
 三好長慶はここまでやっても芥川孫十郎を討ち取ろうという気は起きていませんでした。江口合戦においても三好宗三への最終攻撃をためらっていた三好長慶ですが、ここでも同じ癖が出ています。対する芥川孫十郎も、阿波細川持隆が三好之虎・十河一存兄弟に殺害され、都に迫っていた細川晴元勢が足利義藤ごと敗北したことに限界を感じざるを得ませんでした。
 
 その結果、東山霊山城合戦と同じ月の八月二十二日に芥川孫十郎は芥川山城を開城します。芥川山城は淀川支流の芥川に三方を囲まれた三好山(この後三好長慶が芥川山城に入ることでこう呼ばれます)にあり、芥川自体は川幅数メートル程度の小さい川なのですが、山中の川が生じさせた浸食作用のせいか三好山側の川岸は切り立った崖になっています。そのせいで攻城に手間がかかるかといえば、周囲の山が三好山より高いため、押さえること自体は容易です。いわんや万単位の軍勢を集めることができる三好長慶であれば、攻め落とすことは楽勝なはずなのですがあえてそうせず、芥川孫十郎の心が折れるまで待ちました。このあたりとても三好長慶らしいと思います。行き場を失った芥川孫十郎は三好之虎を頼って阿波に立ち去ったと伝えられていますが、その後の消息は不明です。主君である細川晴元を見捨てられずに宗家に反逆した芥川孫十郎にとって、宗家に役に立とうとして主君である阿波守護細川持隆を殺害した三好之虎とは思想的に相容れないはずです。考えられることと言えば、宗家を裏切る罪を犯した罰を求めての阿波行きであったのかもしれません。もしそうだとすれば、もの悲しさを感じざるを得ません。

 ここまで三好長慶は西摂津の越水城を拠点にしてきましたが、京の騒乱が立て続けに起こり越水城の遠さを感じざるを得ませんでした。その点、北摂津にある芥川城は摂津国中で最も京に近い場所にありました。芥川山城から芥川を下り、西国街道と交差するあたりに支城があり、ここも芥川城と呼ばれていました。平時はここを拠点とし、敵から攻められたときに山城に籠もるようになっています。そして、西国街道を西に下ると摂津国を横断して越水まで一本道です。三好長慶は越水城から芥川山城に拠点を移すことにしました。ここはかつて細川晴元も天文錯乱の頃に拠点としたことがあります。もちろん、現在はなりを潜めていますが、越水から京に向かう西国街道の途中には江口合戦では晴元に味方していた伊丹氏や、三好宗三と血族関係を持つ池田氏など、一筋縄では行かない国人衆がいますが、越水と芥川から挟撃できるので彼らへのにらみにもなります。また、芥川を船で下るとそのまま淀川に出ることができ、榎並、大物、堺まで陸路を使うよりも短時間で到着することが可能です。

 無論、欠点もあります。京へのルートを確保するためにはここだけを押さえても足りないということです。芥川城を東に向かい、山城国境に向かうためには桜井宿を通る必要があり、そこから大山崎を抜ける必要があるのです。桜井宿は太平記の中で湊川合戦に向かう楠木正成が息子の正行に教えを垂れて離別した桜井の別れで有名な所です。桜井宿と芥川城の間には淀川右岸の鵜殿の葦原と若山に挟まれた切所があり、さらに桜井から山城国に入るには同じく山と川に挟まれた大山崎の切所を通らねばなりません。大山崎を麓とした山は羽柴秀吉と明智光秀が戦った天王山で、ここに山崎城という山城があったそうです。大山崎からの淀川対岸には男山八幡宮があり、大山崎の油座の利権を保有していました。故に、京へのルートを確保するためには桜井宿、山崎城の確保とともに、男山八幡宮への目配りも欠かせなかったわけです。

 その他には、芥川城の眺望の問題もありました。芥川城は三好山に建てられ、芥川を天然の堀とし、断崖上に城郭のある山城ではありました。左右に山裾が広がっているとともに、それらの山は三好山より標高が高く、死角の大きい地形でした。三好山自体に防御力はあるものの、周囲の山より低いため、奇襲に弱そうな立地です。また、山城国境近くににある城ですが国境の山地が邪魔をして京方面を直接見渡すことはできません。唯一視野の広がる南側への眺望は芥川流域や淀川が一望できるのですが、その向こうにひときわ大きく見える山こそが、かつての木澤長政の居城であり、今は安見宗房が城主を務めている飯盛山なのでした。飯盛山からは京の街はもちろん、摂津のほぼ全域を眺望することができます。三好長慶がこの時点でそれを羨んだかどうかはわかりませんが、三好長慶は芥川山城を新たな本拠地として、細川晴元への反撃を開始することとなります。

 

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2020年8月 8日 (土)

中漠:善人令和編㉗鷹山弘頼の謀殺


 1546年(天文十五年)は普段は待ちの姿勢を貫く遊佐長教が積極的に動いた年でした。鷹山弘頼と安見宗房が山城上三郡(南山城の三郡)守護代に任じられたのもその布石でした。遊佐長教は摂津衆にも調略を仕掛け、晴元の勢力を蚕食したため、細川晴元は兵を率いて摂津に下っていました。入れ替わりに氏綱派の上野玄蕃が上洛したのです。この時将軍足利義晴も裏で細川氏綱とつながっていました。目論見通りにいけば細川晴元を失脚に追い込めた筈ですが、上野軍は準備不十分な状況下の上洛だったため、兵糧を現地調達に頼らざるを得なくなり、それが京中上下の反発を招くことになります。上野軍の失策に呆れた管領代六角定頼は寝返ります。そして丹波から来た細川晴元軍が上野玄蕃を追い払うと、鷹山弘頼・安見宗房も京を撤収せざるを得ませんでした。

 その後、安見宗房はかつての木澤長政の本拠地である飯盛山城を任されます。細川晴元はこの時までに一時氏綱方に奪われていた芥川城を奪還していましたが、敵の本拠高屋城を攻めるために、芥川城ではなく、榎並城に兵を集結させました。この時、細川晴元軍の主力が四国勢と合流する都合を考えると榎並城の方がよかったことは確かですが、芥川城から南下し東高野街道経由で高屋城に向かう進路は、途中飯盛山城の突破を要し、そこにまともに戦う気がある武将が配置された状況下での進軍は無理だったということでしょう。かくて舎利寺近辺で合戦が起き、敗北した遊佐長教の野望は潰えたかのように見えました。そこに再び介入したのが六角定頼です。放置しておけば三好長慶は高屋城を落としていたでしょうし、細川晴元政権は盤石なものになったと思われます。それも、六角定頼は望まなかったのでしょう。

 遊佐長教はその期を逃さず三好長慶を引き込んで再戦を挑みます。江口が戦場になった時、これに六角定頼も呼ばれたのですが間に合わずに三好宗三が敗死、細川晴元も敗走して将軍と一緒に京を捨ててしまいます。策士策に溺れたというところでしょうか。遊佐長教の影響力は紀伊・河内だけではなく、畿内全域に広がりつつありました。ここから遊佐長教が暗殺される間の安見宗房の動向はよくわかりませんが、後の情勢を見るに、遊佐長教にもそれなりに評価される働きをしていたと想像できます。

 遊佐長教の暗殺は河内国に大きな動揺をもたらしましたが、一族の遊佐太藤が陣代となりました。遊佐長教の嫡男はいましたが、僅か四歳だったのです。そしてその直後に遊佐・三好連合と足利義藤との和睦が成立し、遊佐太藤はそのまま将軍足利義藤の御供衆に任じられます。そのため河内国人衆を掌握する時間的余裕はありませんでした。その結果遊佐家の内衆同志で抗争が起こり、安見宗房が萱振・野尻両家を乗っ取ったわけです。譜代の遊佐家内衆はこれを支持し、河内守護として畠山高政を継承させて粛清後の体制固めをしました。

 しかし、足利義藤と遊佐・三好連合との和睦は一年余りで破綻します。と同時に立場を保証する者を失った遊佐太藤は河内国内の権力基盤が弱かったため失脚します。畠山高政はこの時六歳の遊佐長教の嫡男に信教と名乗らせて守護代に任じました。安見宗房の主導だったことは疑いないでしょう。彼は河内代表として三好軍とともに細川晴元らと戦い、実績を積んでゆきました。

 その反面、鷹山弘頼は遊佐長教暗殺前後からこれといった活動をしていません。実は事件の前年の1550年(天文十九年)六月二十日、大和国最大の実力者である筒井順昭が寂しました。彼は病を得て自らの死期を悟ると、延暦寺に隠棲します。そして木阿弥という盲目の僧を影武者に仕立て、当時二歳の嫡子順慶が成長するまで自らの死を伏せ、木阿弥が代理で大和国を統治するよう命じました。筒井順昭は河内の木澤長政、遊佐長教の支援を得て大和国で勢力を伸張させましたが、死の翌年に遊佐長教が暗殺されることは想定外だったでしょう。影武者には世情を鑑みた柔軟な対応をとれる筈はなく、その指示は現状維持的なものになった筈です。河内と大和に両属する鷹山弘頼はこの激動の情勢下、自重するしかなかったでしょう。

 これが飯盛山城を拠点とする安見宗房には不気味に映ったのではないかと私は想像します。自分は死を賭けた政治闘争をしているのに、鷹山弘頼が協力しないのです。丹波でも摂津でも阿波でも戦いの種は撒かれていました。鷹山弘頼の領地、大和国鷹山および河内国私部は飯盛山の搦め手と大手にあります。これらの状況は安見宗房の心に疑心暗鬼を生んだのではないでしょうか。1553年(天文二十二年)五月、鷹山弘頼は高屋城に招かれ、その場で畠山高政より自害を仰せつかります。その旧領は安見宗房に接収され、安見宗房は河内国最大の実力者となるとともに、大和国との戦争の火種にもなってゆくのでした。

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