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2020年8月 8日 (土)

中漠:善人令和編㉗鷹山弘頼の謀殺


 1546年(天文十五年)は普段は待ちの姿勢を貫く遊佐長教が積極的に動いた年でした。鷹山弘頼と安見宗房が山城上三郡(南山城の三郡)守護代に任じられたのもその布石でした。遊佐長教は摂津衆にも調略を仕掛け、晴元の勢力を蚕食したため、細川晴元は兵を率いて摂津に下っていました。入れ替わりに氏綱派の上野玄蕃が上洛したのです。この時将軍足利義晴も裏で細川氏綱とつながっていました。目論見通りにいけば細川晴元を失脚に追い込めた筈ですが、上野軍は準備不十分な状況下の上洛だったため、兵糧を現地調達に頼らざるを得なくなり、それが京中上下の反発を招くことになります。上野軍の失策に呆れた管領代六角定頼は寝返ります。そして丹波から来た細川晴元軍が上野玄蕃を追い払うと、鷹山弘頼・安見宗房も京を撤収せざるを得ませんでした。

 その後、安見宗房はかつての木澤長政の本拠地である飯盛山城を任されます。細川晴元はこの時までに一時氏綱方に奪われていた芥川城を奪還していましたが、敵の本拠高屋城を攻めるために、芥川城ではなく、榎並城に兵を集結させました。この時、細川晴元軍の主力が四国勢と合流する都合を考えると榎並城の方がよかったことは確かですが、芥川城から南下し東高野街道経由で高屋城に向かう進路は、途中飯盛山城の突破を要し、そこにまともに戦う気がある武将が配置された状況下での進軍は無理だったということでしょう。かくて舎利寺近辺で合戦が起き、敗北した遊佐長教の野望は潰えたかのように見えました。そこに再び介入したのが六角定頼です。放置しておけば三好長慶は高屋城を落としていたでしょうし、細川晴元政権は盤石なものになったと思われます。それも、六角定頼は望まなかったのでしょう。

 遊佐長教はその期を逃さず三好長慶を引き込んで再戦を挑みます。江口が戦場になった時、これに六角定頼も呼ばれたのですが間に合わずに三好宗三が敗死、細川晴元も敗走して将軍と一緒に京を捨ててしまいます。策士策に溺れたというところでしょうか。遊佐長教の影響力は紀伊・河内だけではなく、畿内全域に広がりつつありました。ここから遊佐長教が暗殺される間の安見宗房の動向はよくわかりませんが、後の情勢を見るに、遊佐長教にもそれなりに評価される働きをしていたと想像できます。

 遊佐長教の暗殺は河内国に大きな動揺をもたらしましたが、一族の遊佐太藤が陣代となりました。遊佐長教の嫡男はいましたが、僅か四歳だったのです。そしてその直後に遊佐・三好連合と足利義藤との和睦が成立し、遊佐太藤はそのまま将軍足利義藤の御供衆に任じられます。そのため河内国人衆を掌握する時間的余裕はありませんでした。その結果遊佐家の内衆同志で抗争が起こり、安見宗房が萱振・野尻両家を乗っ取ったわけです。譜代の遊佐家内衆はこれを支持し、河内守護として畠山高政を継承させて粛清後の体制固めをしました。

 しかし、足利義藤と遊佐・三好連合との和睦は一年余りで破綻します。と同時に立場を保証する者を失った遊佐太藤は河内国内の権力基盤が弱かったため失脚します。畠山高政はこの時六歳の遊佐長教の嫡男に信教と名乗らせて守護代に任じました。安見宗房の主導だったことは疑いないでしょう。彼は河内代表として三好軍とともに細川晴元らと戦い、実績を積んでゆきました。

 その反面、鷹山弘頼は遊佐長教暗殺前後からこれといった活動をしていません。実は事件の前年の1550年(天文十九年)六月二十日、大和国最大の実力者である筒井順昭が寂しました。彼は病を得て自らの死期を悟ると、延暦寺に隠棲します。そして木阿弥という盲目の僧を影武者に仕立て、当時二歳の嫡子順慶が成長するまで自らの死を伏せ、木阿弥が代理で大和国を統治するよう命じました。筒井順昭は河内の木澤長政、遊佐長教の支援を得て大和国で勢力を伸張させましたが、死の翌年に遊佐長教が暗殺されることは想定外だったでしょう。影武者には世情を鑑みた柔軟な対応をとれる筈はなく、その指示は現状維持的なものになった筈です。河内と大和に両属する鷹山弘頼はこの激動の情勢下、自重するしかなかったでしょう。

 これが飯盛山城を拠点とする安見宗房には不気味に映ったのではないかと私は想像します。自分は死を賭けた政治闘争をしているのに、鷹山弘頼が協力しないのです。丹波でも摂津でも阿波でも戦いの種は撒かれていました。鷹山弘頼の領地、大和国鷹山および河内国私部は飯盛山の搦め手と大手にあります。これらの状況は安見宗房の心に疑心暗鬼を生んだのではないでしょうか。1553年(天文二十二年)五月、鷹山弘頼は高屋城に招かれ、その場で畠山高政より自害を仰せつかります。その旧領は安見宗房に接収され、安見宗房は河内国最大の実力者となるとともに、大和国との戦争の火種にもなってゆくのでした。

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