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2020年9月26日 (土)

中漠:善人令和編㉛平島公方の冒険


 三好家は足利義冬(義維)を将軍職につける気はない。そのことを悟った足利義冬は阿波を出奔することにしました。三好家が足利義冬に対して冷淡な態度をとり続けている理由はよくわかりません。三好兄弟の父、元長が死んだ時に彼だけが生きて帰ってきたことに割り切れない思いを抱いてしまったせいなのかな、とも思います。何しろあの細川六郎ですら、天文錯乱の阿鼻叫喚の中、畿内に踏みとどまって戦ったのです。その姿がどんなに無様なものであったとしても、堺公方よりは胆力を持ち合わせていたことは確かでしょう。細川六郎も一時は淡路に退避していたのですから、せめて三好千熊丸が畿内に戻った時に行動を共にしていたとすれば、細川六郎が足利義晴に取り込まれるブレーキにはなったに違いありません。

 堺から退去した後、名前を義維から義冬に変えて阿波国平島の地で隠忍の日々を過ごすも未練は残っていたようで、1547年(天文十六年)頃に細川氏綱の挙兵に呼応した足利義晴が都を追われたタイミングで足利義冬は堺に再上陸しています。しかも、堺幕府を滅ぼした張本人の本願寺証如に上洛のあっせんを依頼するという節操のなさを見せつけてきました。この時は本願寺が金を払ってお引き取り願ったわけですが、それでも諦めきれなかったようです。

 保護者であった細川持隆が三好之虎・十河一存に討ち取られ、三好一族が公儀となっても足利義冬を公方として京に呼ぼうという話は出てきません。細川氏綱だけでも荷物で彼が出す命令のフォローもできなくなっているのに、畿内に三好家と被らない人脈を持たない公方様を戴くことは三好家にとって危険行為に他なりません。もっとも、三好家は自家の存続に汲々としていて阿波公方のことは考えてなかった可能性も無きにしも非ずです。1547年(天文十六年)の時もそうですが、阿波出奔を止めたり、追いかけたりした話がないのですね。ことによると淡路水軍の安宅冬康が関与していたかもしれません。偶然かも知れませんが三好兄弟の中で平島公方と同じ偏諱を持つのは彼だけで、後世において仁将の評判が高い人物と評されています。平島公方の境遇に同情したのかも、とも思うのですが状況からの推察にすぎません。

 行き先の心当たりはありました。防長太守大内氏です。足利義冬にとって妻の実家でした。かつて、大内義興が養父の流れ公方だった足利義尹(義材・義稙)を担いで上洛し、将軍職につける助けをしました。あわよくば自分もそうなるかもしれないという期待もあったと思われます。阿波細川家は足利義稙を迎え入れて以降、防長の大内氏とは昵懇の関係になりました。細川持隆の正妻は足利義冬の妻と姉妹でした。なので頼っても少なくとも邪険にされることはないと踏んでのことだったと思われます。京の街は細川晴元が焼き尽くしてしまいましたが、大内氏の本拠地山口は将軍家から分捕った勘合貿易の貿易港博多から上がる利益により大いに潤っておりました。戦乱を経ていない分京都よりは住み心地が良く、金回りの良い分阿波平島より繁栄している筈でした。

 しかし、足利義冬が向かった頃の大内氏は見る影もなく衰退していました。最盛期の大内義興はとっくに亡くなっており、後を継いだ義隆も重臣陶隆房(のち晴賢に改名)の反逆で討ち取られてしまいました。この時、細川晴元、武田晴信、本願寺証如の妻の父である転法輪三条公頼も巻き添えを食って死んでいます。そして、陶隆房は大内義隆に代わって九州豊後の大友義鑑の息子(大友義鎮の弟)を後継にすえ、大内義長と名乗らせます。大友義鑑の妻も大内義興の娘であり、大内氏と大友氏は姻族でつながっていました。大内義隆は大友義鑑の子供である義長を猶子にしていたのです。ただし、義長の母は大内義興の母ではなく、公家の坊城氏出身の者でした。なので血のつながりはありませんが、陶隆房は相続権のない猶子を無理やり養子ということにして大内家の後を継がせたのでした。足利義冬を受け入れたというのも、陶晴賢が少しでも権威づけをしたかったのでしょう。

 しかし、この陶晴賢の戦略は足利義冬が山口に入って半年もしないうちに破綻します。周囲を武断政策で威圧していましたが、毛利元就と厳島で戦い、討ち死にしたのです。その後大内義長は三年間防長二国を持たせますが、毛利元就が満を持して攻め込むと、大内家はあっけなく滅びます。その結果、毛利家は防長二国を手に入れ、大友義鎮も博多港を手に入れたのでした。自動的に足利義冬も毛利氏の保護下に入ったわけですが、毛利元就なり隆元なりがこの奇貨をどのように扱ったのかはわかりません。

 1563年(永禄六年)に三好長逸が足利義冬を迎えに来たため、足利義冬は阿波に戻ります。この前年に三好実休は久米田合戦で戦死しており、三好家も彼を本格的に使うことができる状況が整いつつありました。奇妙なことに、この同じ年の八月四日に毛利家家督の隆元が急死しております。もし毛利家が足利義冬を利用しようとしていたなら、隆元の死がその方針を変えさせたのかもしれません。その証拠にその二年後の1565年(永禄八年)二月十六日に隆元の子の幸鶴丸は足利義輝の偏諱を得て輝元と名乗るようになるのですが、同じ年の五月十九日に足利義輝は二条御所にて三好長逸ら三好三人衆によって討ち取られます。そして、そのころまでに中風に罹り健康上の問題を抱えた足利義冬に代わり、息子の義栄が将軍に擁立されるに至るのです。

 このあたりの毛利家と三好家との間でどのような駆け引きがあったのか、興味深いところです。

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2020年9月19日 (土)

中漠:善人令和編㉚三好会議


 足利義藤が朽木に落ち延びることになった原因は、側近の上野信孝と伊勢貞孝の対立にありました。伊勢貞孝は三好長慶と組み、洛中利権を取り込んで幕閣の中での影響力を強めようとしていました。それに対して上野信孝は三好長慶を目の敵にしたのです。これはいわゆる指桑罵槐と呼ばれるもので、三好長慶を罵りつつ、じつは伊勢貞孝を攻撃しようとしたのでしょう。しかし、こういう京風の駆け引きに縁のない三好長慶の怒りを買い、上野信孝も引くに引けなくなりました。その結果が足利義輝の都落ちです。この時苦節を共にした幕臣たちの多くは将軍を見限って都に戻ったそうです。三好長慶が足利義輝に同道した幕臣たちの知行地を取り上げると宣言したせいでもありました。足利義藤は家内統制に失敗し、自らの無力さを痛感したに違いありません。

 朽木での生活は足利義藤に自らの生き方を考え直す良いきっかけになったのかもしれません。心機一転の為か、足利義藤は義輝と改名します。利益に負ける家臣たちがいない朽木で、自らの敗因やあるべき将軍像などをじっくり考える時間はあった筈です。その結果、足利義輝は強さを志向するようになります。端的に言えば侮られることを極端に嫌う性向になりました。具体的には後々剣豪塚原卜伝に剣術を学んだり、上杉謙信、斎藤義龍、織田信長など地方の新興戦国大名を呼びつけたりするようになります。細川晴元にしても、遊佐長教が推したてた尾州畠山当主に対し、何度も拒否権を行使して当主を挿げ替えたり、思い出し怒り(としか呼びようのない感情)で池田信正を自害させたりしてエキセントリックに力を誇示したがるところがあります。その原因は三好長慶の風貌にあるのではないかと妄想しています。おそらく三好長慶は信長の野望で設定された顔グラなどでイメージされる優男風の好男子ではなく、京雀を恐怖のどん底に陥れた曽祖父の之長をも連想させるドズル・ザビ風の魁偉な容姿だったのかもしれません。その姿に上司である細川晴元も、足利義輝もびびってしまい、それを克服しようとあがいた結果が細川晴元のエキセントリックな行動であり、足利義輝の脳筋志向なのでしょう。

 足利義輝はいずれ起こるであろうチャンスを待った筈です。そのチャンスとは、阿波から将軍のいない京に足利義冬(義維の改名後の名前)を迎え入れること。偽将軍を担ぐ悪人を糾弾する大義名分が得えられる瞬間でした。三好長慶は畿内の統治を自らの実力のみで維持している状況です。破れたりとは言え細川晴元の勢力もまだ健在であり、付け入るスキはまだありそうでした。

 一方、芥川山城に入った三好長慶は今後の方針を考えなければなりませんでした。内藤国貞が死に、それ以前に遊佐長教や上野玄蕃頭(細川国慶)も死んだことで、細川氏綱を管領として支えることに無理が生じ始めていました。三好長慶の立場からしてみれば、細川氏綱を担いだために阿波国守護細川持隆と芥川山城の芥川孫十郎を失うことになっていました。ぶっちゃけ、細川氏綱が命令書を出しても従う者はほとんどいません。それどころか、実効性がないことを理由に細川氏綱ではなく、三好長慶に命令を出してもらう依頼が増え続けていたのです。それは三好長慶が足利義藤を相手取って東山霊山城合戦を戦っている最中ですらそうだったのです。将軍が京を去ったため、現状の政治体制を維持することは不可能でした。

 1554年(天文二十三年)十月十二日、三好長慶は淡路炬ノ口に兄弟を集め会議を開きます。この会議のそもそもの名目は、足利義藤(義輝)が三好長慶と喧嘩する前に、出雲の尼子晴久に八カ国守護なんてものを与えたために備前・美作・播磨が勢力圏だった赤松晴政の領地のうち備前・美作を分捕られた上に、播磨領も国人衆が分裂して収拾がつかなくなりました。そこで赤松晴政は三好長慶に救援を頼んだのでした。会議はこのために開かれたわけです。合議の結果、三好軍は出兵して依藤城に籠もる国人を降しています。しかし会議の主眼は三人の弟たちとともに今後の方針を定めることにあったと思います。

 将軍足利義輝は三好長慶に敵対して近江に逃れ、細川氏綱は支援者である遊佐長教、上野玄蕃頭、内藤国貞らを失い、彼の命令は何らの実効性を持たないことが明らかになりました。阿波国平島にいる足利義冬(義維)を上洛させて将軍職につける選択肢もあったかもしれませんが、命令に実効性が伴わないという点では細川氏綱と大差ありません。三好長慶は細川晴元との和議はならず、弟の三好之虎と十河一存も主君の細川持隆とその家臣の久米安芸守を討ち取っており、三好家自体が主家から隔絶してしまっています。こうなると、三好長慶は三好家自身を自力救済するしかありませんでした。そのために、足利義輝の命令で混乱した播磨国内に播磨国守護赤松晴政の要請を受けて介入する公儀としての役割を果たそうとしたのだと思われます。領国内外に様々な脅威が存在し、その対処のため色々なケースが想定されるために、同盟者である尾州畠山高政・安見宗房や、主筋の細川氏綱も参加させられない会議だったのでしょう。

 その中で一つだけ三好家のコンセンサスとしてあったのは足利義冬を擁立しないことでした。
 このため、この三好会議の翌年に足利義冬は阿波を出奔することとなります。

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2020年9月 5日 (土)

中漠:善人令和編㉙平島公方の冒険


 三好家は足利義冬(義維)を将軍職につける気はない。そのことを悟った足利義冬は阿波を出奔することにしました。三好家が足利義冬に対して冷淡な態度をとり続けている理由はよくわかりません。三好兄弟の父、元長が死んだ時に彼だけが生きて帰ってきたことに割り切れない思いを抱いてしまったせいなのかな、とも思います。何しろあの細川六郎ですら、天文錯乱の阿鼻叫喚の中、畿内に踏みとどまって戦ったのです。その姿がどんなに無様なものであったとしても、堺公方よりは胆力を持ち合わせていたことは確かでしょう。細川六郎も一時は淡路に退避していたのですから、せめて三好千熊丸が畿内に戻った時に行動を共にしていたとすれば、細川六郎が足利義晴に取り込まれるブレーキにはなったに違いありません。

 堺から退去した後、名前を義維から義冬に変えて阿波国平島の地で隠忍の日々を過ごすも未練は残っていたようで、1547年(天文十六年)頃に細川氏綱の挙兵に呼応した足利義晴が都を追われたタイミングで足利義冬は堺に再上陸しています。しかも、堺幕府を滅ぼした張本人の本願寺証如に上洛のあっせんを依頼するという節操のなさを見せつけてきました。この時は本願寺が金を払ってお引き取り願ったわけですが、それでも諦めきれなかったようです。

 保護者であった細川持隆が三好之虎・十河一存に討ち取られ、三好一族が公儀となっても足利義冬を公方として京に呼ぼうという話は出てきません。細川氏綱だけでも荷物で彼が出す命令のフォローもできなくなっているのに、畿内に三好家と被らない人脈を持たない公方様を戴くことは三好家にとって危険行為に他なりません。もっとも、三好家は自家の存続に汲々としていて阿波公方のことは考えてなかった可能性も無きにしも非ずです。1547年(天文十六年)の時もそうですが、阿波出奔を止めたり、追いかけたりした話がないのですね。ことによると淡路水軍の安宅冬康が関与していたかもしれません。偶然かも知れませんが三好兄弟の中で平島公方と同じ偏諱を持つのは彼だけで、後世において仁将の評判が高い人物と評されています。平島公方の境遇に同情したのかも、とも思うのですが状況からの推察にすぎません。

 行き先の心当たりはありました。防長太守大内氏です。足利義冬にとって妻の実家でした。かつて、大内義興が養父の流れ公方だった足利義尹(義材・義稙)を担いで上洛し、将軍職につける助けをしました。あわよくば自分もそうなるかもしれないという期待もあったと思われます。阿波細川家は足利義稙を迎え入れて以降、防長の大内氏とは昵懇の関係になりました。細川持隆の正妻は足利義冬の妻と姉妹でした。なので頼っても少なくとも邪険にされることはないと踏んでのことだったと思われます。京の街は細川晴元が焼き尽くしてしまいましたが、大内氏の本拠地山口は将軍家から分捕った勘合貿易の貿易港博多から上がる利益により大いに潤っておりました。戦乱を経ていない分京都よりは住み心地が良く、金回りの良い分阿波平島より繁栄している筈でした。

 しかし、足利義冬が向かった頃の大内氏は見る影もなく衰退していました。最盛期の大内義興はとっくに亡くなっており、後を継いだ義隆も重臣陶隆房(のち晴賢に改名)の反逆で討ち取られてしまいました。この時、細川晴元、武田晴信、本願寺証如の妻の父である転法輪三条公頼も巻き添えを食って死んでいます。そして、陶隆房は大内義隆に代わって九州豊後の大友義鑑の息子(大友宗麟の弟)を後継にすえます。大友義鑑の妻も大内義興の娘であり、大内氏と大友氏は姻族でつながっていました。大内義隆は大友義鑑の子供である義英を猶子にしていたのです。ただし、義英の母は大内義興の母ではなく、公家の坊城氏出身の者でした。なので血のつながりはありませんが、陶隆房は相続権のない猶子を無理やり養子ということにして大内家の後を継がせたのでした。足利義冬を受け入れたというのも、陶晴賢が少しでも権威づけをしたかったのでしょう。

 しかし、この陶晴賢の戦略は足利義冬が山口に入って半年もしないうちに破綻します。周囲を武断政策で威圧していましたが、毛利元就と厳島で戦い、討ち死にしたのです。その後大内義長は三年間防長二国を持たせますが、毛利元就が満を持して攻め込むと、大内家はあっけなく滅びます。その結果、毛利家は防長二国を手に入れ、大友義鎮も博多港を手に入れたのでした。自動的に足利義冬も毛利氏の保護下に入ったわけですが、毛利元就なり隆元なりがこの奇貨をどのように扱ったのかはわかりません。

 1563年(永禄六年)に三好長逸が足利義冬を迎えに来たため、足利義冬は阿波に戻ります。この前年に三好実休は久米田合戦で戦死しており、三好家も彼を本格的に使うことができる状況が整いつつありました。奇妙なことに、この同じ年の八月四日に毛利家家督の隆元が急死しております。もし毛利家が足利義冬を利用しようとしていたなら、隆元の死がその方針を変えさせたのかもしれません。その証拠にその二年後の1565年(永禄八年)二月十六日に隆元の子の幸鶴丸は足利義輝の偏諱を得て義輝と名乗るようになるのですが、同じ年の五月十九日に足利義輝は二条御所にて三好長逸ら三好三人衆によって討ち取られます。そして、そのころまでに中風に罹り健康上の問題を抱えた足利義冬に代わり、息子の義栄が将軍に擁立されるに至るのです。

 このあたりの毛利家と三好三人衆との間でどのような駆け引きがあったのか、興味深いところです。

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