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2020年9月19日 (土)

中漠:善人令和編㉙三好会議


 足利義藤が朽木に落ち延びることになった原因は、側近の上野信孝と伊勢貞孝の対立にありました。伊勢貞孝は三好長慶と組み、洛中利権を取り込んで幕閣の中での影響力を強めようとしていました。それに対して上野信孝は三好長慶を目の敵にしたのです。これはいわゆる指桑罵槐と呼ばれるもので、三好長慶を罵りつつ、じつは伊勢貞孝を攻撃しようとしたのでしょう。しかし、こういう京風の駆け引きに縁のない三好長慶の怒りを買い、上野信孝も引くに引けなくなりました。その結果が足利義輝の都落ちです。この時苦節を共にした幕臣たちの多くは将軍を見限って都に戻ったそうです。三好長慶が足利義輝に同道した幕臣たちの知行地を取り上げると宣言したせいでもありました。足利義藤は家内統制に失敗し、自らの無力さを痛感したに違いありません。

 朽木での生活は足利義藤に自らの生き方を考え直す良いきっかけになったのかもしれません。心機一転の為か、足利義藤は義輝と改名します。利益に負ける家臣たちがいない朽木で、自らの敗因やあるべき将軍像などをじっくり考える時間はあった筈です。その結果、足利義輝は強さを志向するようになります。端的に言えば侮られることを極端に嫌う性向になりました。具体的には後々剣豪塚原卜伝に剣術を学んだり、上杉謙信、斎藤義龍、織田信長など地方の新興戦国大名を呼びつけたりするようになります。細川晴元にしても、遊佐長教が推したてた尾州畠山当主に対し、何度も拒否権を行使して当主を挿げ替えたり、思い出し怒り(としか呼びようのない感情)で池田信正を自害させたりしてエキセントリックに力を誇示したがるところがあります。その原因は三好長慶の風貌にあるのではないかと妄想しています。おそらく三好長慶は信長の野望で設定された顔グラなどでイメージされる優男風の好男子ではなく、京雀を恐怖のどん底に陥れた曽祖父の之長をも連想させるドズル・ザビ風の魁偉な容姿だったのかもしれません。その姿に上司である細川晴元も、足利義輝もびびってしまい、それを克服しようとあがいた結果が細川晴元のエキセントリックな行動であり、足利義輝の脳筋志向なのでしょう。

 足利義輝はいずれ起こるであろうチャンスを待った筈です。そのチャンスとは、阿波から将軍のいない京に足利義冬(義維の改名後の名前)を迎え入れること。偽将軍を担ぐ悪人を糾弾する大義名分が得えられる瞬間でした。三好長慶は畿内の統治を自らの実力のみで維持している状況です。破れたりとは言え細川晴元の勢力もまだ健在であり、付け入るスキはまだありそうでした。

 一方、芥川山城に入った三好長慶は今後の方針を考えなければなりませんでした。内藤国貞が死に、それ以前に遊佐長教や上野玄蕃頭(細川国慶)も死んだことで、細川氏綱を管領として支えることに無理が生じ始めていました。三好長慶の立場からしてみれば、細川氏綱を担いだために阿波国守護細川持隆と芥川山城の芥川孫十郎を失うことになっていました。ぶっちゃけ、細川氏綱が命令書を出しても従う者はほとんどいません。それどころか、実効性がないことを理由に細川氏綱ではなく、三好長慶に命令を出してもらう依頼が増え続けていたのです。それは三好長慶が足利義藤を相手取って東山霊山城合戦を戦っている最中ですらそうだったのです。将軍が京を去ったため、現状の政治体制を維持することは不可能でした。

 1554年(天文二十三年)十月十二日、三好長慶は淡路炬ノ口に兄弟を集め会議を開きます。この会議のそもそもの名目は、足利義藤(義輝)が三好長慶と喧嘩する前に、出雲の尼子晴久に八カ国守護なんてものを与えたために備前・美作・播磨が勢力圏だった赤松晴政の領地のうち備前・美作を分捕られた上に、播磨領も国人衆が分裂して収拾がつかなくなりました。そこで赤松晴政は三好長慶に救援を頼んだのでした。会議はこのために開かれたわけです。合議の結果、三好軍は出兵して依藤城に籠もる国人を降しています。しかし会議の主眼は三人の弟たちとともに今後の方針を定めることにあったと思います。

 将軍足利義輝は三好長慶に敵対して近江に逃れ、細川氏綱は支援者である遊佐長教、上野玄蕃頭、内藤国貞らを失い、彼の命令は何らの実効性を持たないことが明らかになりました。阿波国平島にいる足利義冬(義維)を上洛させて将軍職につける選択肢もあったかもしれませんが、命令に実効性が伴わないという点では細川氏綱と大差ありません。三好長慶は細川晴元との和議はならず、弟の三好之虎と十河一存も主君の細川持隆とその家臣の久米安芸守を討ち取っており、三好家自体が主家から隔絶してしまっています。こうなると、三好長慶は三好家自身を自力救済するしかありませんでした。そのために、足利義輝の命令で混乱した播磨国内に播磨国守護赤松晴政の要請を受けて介入する公儀としての役割を果たそうとしたのだと思われます。領国内外に様々な脅威が存在し、その対処のため色々なケースが想定されるために、同盟者である尾州畠山高政・安見宗房や、主筋の細川氏綱も参加させられない会議だったのでしょう。

 その中で一つだけ三好家のコンセンサスとしてあったのは足利義冬を擁立しないことでした。
 このため、この三好会議の翌年に足利義冬は阿波を出奔することとなります。

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