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2020年10月24日 (土)

中漠:善人令和編㉝三好家の宗旨報告書Ⅰ(三好之長・三好元長)


 三好元長以前の三好家の宗旨について調べがつきました。三好元長の墓所は阿波見性寺にあり、祖父三好之長及び息子の実休、孫の長治らの墓とともに鎮座しております。見性寺は現在臨済宗妙心寺派に属していますが、それは関ヶ原合戦後に阿波国に入った蜂須賀家政の宗旨によるものと考えてよいでしょう。この見性寺に見性寺記録という史料が残されており、見性寺開創時の事情が書かれておりました。これによると、見性寺はもともと鎌倉時代の阿波守護小笠原長久が父祖を祀る為、1249年(宝治三年)美馬郡岩倉に御浄山宝珠寺という菩提寺を建てたのが始まりです。開山は紀州高野山金剛三昧院覚心の弟子筋の翠桂僧都であり、七世隆庵が勝幡城に移したという経緯がありました。

 覚心は坊号を心地又は無本といいます。一見すると真言宗と結論付けてしまいそうになりますが、覚心は鎌倉時代に純粋禅普及のきっかけを作った円爾の勧めで南宋に渡り、公案集の無門関の著者で知られる無門恵開から印可を得た禅僧でもありました。彼は当初金剛三昧院を拠点としていましたが、紀州由良荘の地頭葛城景倫が1227年(安貞元年)に源実朝の菩提を弔うために建立していた西方寺へ、1258年(正嘉二年)に覚心が移って禅宗寺としています。鎌倉時代にはよくあった話です。覚心の禅は臨済禅の階梯に真言宗の要素を含めたハイブリッドなものだったそうです。覚心は後に亀山上皇から法燈禅師の号を得てその系譜は法燈派と呼ばれます。

 覚心は1298年(永仁六年)に寂します。宝珠寺は以後小笠原一族が維持したわけですが、本寺の西方寺には政争が待っていました。後醍醐天皇の代になって、既に寂していた覚心に円明国師の号が追贈されます。そして後醍醐天皇は足利尊氏に敗れて吉野に南朝を開き、崩御します。その後を後村上天皇が継いで1340年(南朝年号:延元五年)四月二十八日に南朝の年号を興国とするわけですが、この興国号が後村上天皇から西方寺に下されます。西方寺は紀伊国由良郡にあります。南朝の勢力下でした。否応はありません。

 その同時期、阿波の小笠原氏は細川和氏らが四国に攻め込むと阿波守護小笠原家は滅亡します。そしてその傍流の三好家が細川氏の被官として存続します。宝珠寺は阿波守護家から三好家が管理を引き継いだのでしょう。宗旨は南朝公認の物ですが、そこは三好家は足利将軍から見れば陪臣に過ぎませんので目こぼしがあったものと思われます。後に南北朝は合一しますが、興国寺は南朝年号の寺号のまま通します。

 戦国時代に入って三好家は頭角を現します。三好之長は応仁の乱末期に京で土一揆を起こして悪評を立てますが、すぐに国元に返されます。後に細川政元の後継者の一人、細川澄元の執事として再上洛しますが、この悪評に足を引っ張られました。細川政元が暗殺されると澄元が継ぎますが、その時に主君澄元とトラブルを起こして詫びの意味で剃髪して喜雲と名乗り、家督を息子の長秀に譲りました。但し実権はしっかり之長が握っています。澄元政権は足利義尹の反撃で潰え、以後京都奪還の戦をしばしば起こします。1511年(永正八年)の船岡山合戦で、之長を連れてゆかなかった細川澄元は細川高国・大内義興らに惨敗を喫します。その立て直しに三好之長は奔走するのですが、その折に宝珠寺の寺号を見性寺と改めて阿波守護家の本拠である勝瑞城内に寺基を移しています。しかし、之長は1520年(永正十七年)五月の等持院合戦で敗れ、討たれてしまいます。

 その雪辱を果たそうと孫の元長も頑張ります。しかし、細川澄元の息子の六郎とともに、足利義維を担いで堺に幕府をつくりました。しかし、之長の悪評が彼の足を引っ張ります。足利義維に将軍宣下させるべく、その下準備に上洛しますが、先に上洛していた柳本賢治と争いになり、へそを曲げて阿波に帰ってしまいます。その隙をついて細川高国は反撃に出て柳本賢治を討って京の奪還をはかろうとしてので、堺幕府の面々は三好元長に頼み込んで細川高国を討たせます。しかし、京の柳本党の甚五郎が元長を認めなかったため、これを攻め殺してせっかくの武功もチャラにしてしまいます。これに反省した元長は剃髪して海雲入道と号します。しかし、この反省策は功を奏さず、堺幕府は分裂。本願寺が敵に回って三好海雲入道は堺幕府と運命を共にしました。

 長い苦闘の末、弘治年間に入ってようやく政局は安定します。その為に三好家に必要とされたことは権力の源泉である一門の結束固めでした。三好之長・元長を祀ることはその大きな一助になる筈です。しかし、この安定の背後には後奈良天皇の影の支援がありました。それを考えると一門の宗旨である南朝の色のついた法燈派臨済宗での法要は行いづらかったのではないかと思われます。

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2020年10月18日 (日)

中漠:善人令和編㉜弘治改元


 天文は二十四年で終わりをつげ、新たに弘治の年号が宣せられました。1555年(天文二十四年=弘治元年)の時点で当今(とうぎん・当代の天皇の事)であった後奈良天皇は健勝であり、代始の改元ではありません。干支は乙卯(きのとう)で、甲子でも辛酉でもありませんでした。直近の改元干支は1561年(永禄四年)の辛酉まで待つ必要があります。残るは人心一新を狙いとした天災・戦災などによる改元という事になりますが、このパターンの改元に対して主導権を持つ室町将軍は京にいません。前回の天文改元の時にも、将軍足利義晴は朽木にいて細川六郎(晴元)との連携の元で改元を行った先例はあります。ただこの時は堺幕府が崩壊して足利義晴の政権復帰が十分に見込めていました。それに引き換え、今回の朽木における足利義輝の状況はよくありませんでした。京を追われてから二年、反撃らしい反撃が出来なかったのですから。

 後年、後奈良天皇が崩御して正親町天皇が践祚をし、その代始として永禄に改元された折、その連絡が朽木に三ヶ月届かなかった事がありました。その間弘治年号付の書状を発給していた足利義輝の怒りを招き、義輝方の再度の攻勢を招いたという説が天野忠幸氏より提唱されております。説得力のある話ではあるのですが、それでは同じく足利義輝が朽木亡命中に行われた弘治改元についてはどうだったのかが気になりました。私が読んだ天野氏の著書では弘治も永禄と同じく改元にかかる負担を負っていない旨が書かれていたのですが、永禄改元が代始によるものだった事に対して、弘治には足利将軍がらみの理由が希薄です。本稿においては、それを考察してみようと思います。

 まず気になるのは、弘治改元に対し足利義輝がほぼ反応していない点です。これには以下の三点が考えられます。
 ① 足利義晴は改元の意味を知らなかった。
 ② 足利義晴が改元の要請をした。
 ③ 足利義輝は三好長慶と合意の上で改元を行った。

 ①については、永禄改元になって初めて足利将軍の意向で年号が定まる事に気づいた事になり、開戦に踏み切る気持ちは理解できるのですが、将軍足利義晴の嫡男として生まれて、後継者としての教育も受けているはずの足利義輝が知らないという事は考えにくいです。義輝は剣豪から剣の手ほどきを直接乞うほど勉強熱心ですし、実力はあっても正統性皆無な新興戦国大名に自らの偏諱を与えるなど戦略的な行動をとれる人物です。そんな義輝が改元の意味を学んでいなかったはずはありません。

 かと言って②のように改元要請を足利義輝が自ら行った可能性については、この時点で改元要請する動機が希薄です。また、天野氏の著書によると弘治・永禄改元に幕府からの費用負担はなかったとしています。ただ朝廷と朽木御所との交流は維持され、時候の献上品は義輝から送られていたそうですが、それは改元費用ではありませんでした。永禄年間に辛酉・甲子年がありましたが、足利義輝はこれを懈怠しました。足利義輝は改元に消極的な将軍だったと言えるでしょう。

 故に残るのが③の可能性です。ぱっと見一番あり得ません。何と言っても足利義輝を京から追い出したのは三好長慶なのですから。しかし、視点を少しずらしてみると足利義輝と三好長慶との間の繋ぎとなりうる存在が浮かび上がってきます。それは領地没収という三好長慶の恫喝に屈して足利義輝を見捨てて朽木から京に帰った幕臣たちです。おそらく彼らは政所執事の伊勢貞孝が預かる形になったと見るのが自然でしょう。つまり、京には将軍のいない幕府組織が存在したわけです。不本意ながら将軍を裏切る形になった彼らがその保身のために試みる事は何かを想像するなら、それはおそらく三好長慶と足利義輝との和睦です。

 その第一段階として彼らが果たそうとした事は何か。それは第一に三好長慶の政権強化だったでしょう。三好家を中心に据えた政権は、三好家の傑出した軍事力を背景にして畿内中心部に平和を実現していたのです。もちろん、下克上によるものである事には違いなく、政権の正当性は極めて薄いものでした。幕府運営の経験のない三好一門には改元という発想そのものが生じないでしょうし、改元が政権強化に役立つとも思い寄らなかったはずです。

 三好長慶政権の基盤強化は、足利義輝にとって面白い話ではありません。しかし、それに匹敵する利益を足利義輝が得ていたとすれば、話は別でしょう。それはすなわち、三好長慶が足利義冬を担がない事の確約だったのではないかと思います。足利義輝が都落ちしてすぐに和睦交渉が始まり、交渉の前提として足利義冬を三好長慶が奉じない事が求められたのでしょう。それは翌年三好兄弟が一堂に集まって検討され、結果、足利義冬が周防に移るよう仕向けられました。その結果和睦交渉は本格化し、その報酬として改元を足利義輝も認めたというところではなかったでしょうか。


1553年(天文二十二年) 八月  一日 東山霊山城合戦。足利義藤、三好長慶に敗れて朽木に逃れる。
1554年(天文二十三年) 十 月 十二日 淡路炬ノ口会議。三好長慶、之虎、安宅冬康、十河一存ら一堂に会す。
1555年(天文二十四年) 四月____      この月、足利義冬(義維)、阿波を出奔し周防に移る。
1555年(弘治  元年) 十 月二十三日 弘治に改元。

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2020年10月 3日 (土)

中漠:善人令和編㉛戦国時代の改元事情


 東山霊山城合戦で足利義藤(義輝)を都から追い落として以来、三好長慶による政権は比較的平穏でした。そんな三好政権に一つの政治的イベントが降ってきます。それが、後奈良天皇による改元の布告でした。その意義については、次稿で考察することとし、本稿では改元そのものの意味と意義について述べてゆきたいと思います。

 言うまでもなく、改元は天皇が保持する大権の一つです。明治以降は一世一元と定められていますが、それ以前は一代に何度も改元を行うことが出来ました。とは言っても気分屋気まぐれで改元を行われては国の民も困りますので、いくつかの原則がありました。

 第一に代始の改元と呼ばれるものです。これは天皇が代替わりした時に行われる改元で、天皇践祚で始まる新帝の御代を言祝ぐ意味合いがありました。戦国時代のような戦乱相続く時代では、戦争原因が取り除けないことが分かっていても、年号を変えることで気分が一新できれば良いと思われたのか、大嘗祭や即位の礼などの儀式よりは金がかからずすむのか、これだけはやらせてもらえておりました。但し、譲位して上皇の身分を許せるほど戦国時代の朝廷や幕府の財政は潤沢ではありません。戦国時代においては、文正(土御門天皇)、文亀(後柏原天皇)、享禄(後奈良天皇)、永禄(正親町天皇)、文禄(後陽成天皇)があたります。

 第二に、甲子改元です。昔は年を認識するのに年号の他に十干十二支(じっかんじゅうにし)というものを使っていました。十干とは甲乙丙丁戊己庚辛壬癸の十種類の文字です。十二支とは現代も年賀状に使う子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥の十二の動物になぞらえたおなじみの文字ですね。この十干と十二支の文字を前からひとつづつとって組み合わせて干支をを形成して年を数えます。甲子、乙丑、丙寅、丁卯・・・と続き、干や支の文字が最後まで来たら、最初の文字に戻って続けられます。十干は十種類、十二支は十二種類ありますから、二週目からは違う組み合わせになりますが、六十個目の癸亥までくると、最初の干支に戻ります。東アジア漢字文化圏では中国以外にも我が国をはじめ様々な国が独自年号を使っていましたが、十干十二支がさす年は同じなため、さしている年を国際的に認識できる仕組みとなっています。その最初の干支が甲子(音読み:かっし・訓読み:きのえね)というわけですが、甲子が十干十二支の最初に当たるため、干支が改まるタイミングとして、革命、すなわち王朝交代が起きやすいと考えられたのでした。戦国時代においては永正改元がこれにあたります。但し、永禄七年は甲子にあたりますが、改元は行われていません。

 第三に、辛酉改元です。これも十干十二支の一つで、甲子から数えて五十八番目の年に当たります。陰陽五行説に当てはめると縁起が悪く、甲子と同様革命が起こりやすい年と考えられていました。よって、革命を防ぐために自ら率先して改元することで革命を防ぐ考えがあったとされています。このルールも甲子同様戦国時代であっても守られています。ただ、辛酉年の三年後は必ず甲子に当たるため、辛酉改元の年号は必ず三年までで四年目に改元が来ることになります。戦国時代においては文亀改元がこれに当たります。御柏原天皇の代始改元でもありますが、践祚そのものは前年であり代始を辛酉改元に併せて行ったものと思われます。同じく永禄四年も辛酉に当たりますが、改元は行われていません。

 第四に、天災・戦災による改元です。人心一新を狙いとした改元枠で、色々理由をつけては改元が行われました。しかし、戦国時代においては、予算制約が大きくネックになるとともに、三代将軍の足利義満以来、室町殿の意向抜きでは改元はできませんでした。戦国時代に入って将軍の権威は低下したものの、その権限は管領に移り、天皇が勝手に行使できるものでもありませんでした。応仁はその原因となった御霊合戦が原因の改元です。文明はその前年に足利義政の弟義視が東軍大将から西軍に寝返って西幕府を拓いたために足利義政が主導権を取り戻すためでした。長享は足利義尚が父から独立して親政するタイミングでの改元ですし、延徳はその義尚病没後、義材が継いだための改元です。明応はその前々年に義政が中風で、前年に義視が腫瘍により同じ日に亡くなっており、後ろ盾を失いつつある足利義材が行ったものでした。大永は足利義稙(義材)の出奔後、播磨に幽閉していた亀王丸を細川高国が将軍として奉じて義晴を名乗らせた時の権威付けであり、天文は足利義維を奉じて四国から畿内にわたった細川晴元が、義維を見限って義晴につき、三好元長を葬ったタイミングで行われました。

 ここまで見てきたように戦国時代の改元事情は代始と十干十二支を除けば足利幕府の都合によるものばかりでしたが、弘治に関しては、私が見るところこれらの原則から外れた改元となっています。次稿にて詳細を見てゆきたいと思います。

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