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2020年10月18日 (日)

中漠:善人令和編㉜弘治改元


 天文は二十四年で終わりをつげ、新たに弘治の年号が宣せられました。1555年(天文二十四年=弘治元年)の時点で当今(とうぎん・当代の天皇の事)であった後奈良天皇は健勝であり、代始の改元ではありません。干支は乙卯(きのとう)で、甲子でも辛酉でもありませんでした。直近の改元干支は1561年(永禄四年)の辛酉まで待つ必要があります。残るは人心一新を狙いとした天災・戦災などによる改元という事になりますが、このパターンの改元に対して主導権を持つ室町将軍は京にいません。前回の天文改元の時にも、将軍足利義晴は朽木にいて細川六郎(晴元)との連携の元で改元を行った先例はあります。ただこの時は堺幕府が崩壊して足利義晴の政権復帰が十分に見込めていました。それに引き換え、今回の朽木における足利義輝の状況はよくありませんでした。京を追われてから二年、反撃らしい反撃が出来なかったのですから。

 後年、後奈良天皇が崩御して正親町天皇が践祚をし、その代始として永禄に改元された折、その連絡が朽木に三ヶ月届かなかった事がありました。その間弘治年号付の書状を発給していた足利義輝の怒りを招き、義輝方の再度の攻勢を招いたという説が天野忠幸氏より提唱されております。説得力のある話ではあるのですが、それでは同じく足利義輝が朽木亡命中に行われた弘治改元についてはどうだったのかが気になりました。私が読んだ天野氏の著書では弘治も永禄と同じく改元にかかる負担を負っていない旨が書かれていたのですが、永禄改元が代始によるものだった事に対して、弘治には足利将軍がらみの理由が希薄です。本稿においては、それを考察してみようと思います。

 まず気になるのは、弘治改元に対し足利義輝がほぼ反応していない点です。これには以下の三点が考えられます。
 ① 足利義晴は改元の意味を知らなかった。
 ② 足利義晴が改元の要請をした。
 ③ 足利義輝は三好長慶と合意の上で改元を行った。

 ①については、永禄改元になって初めて足利将軍の意向で年号が定まる事に気づいた事になり、開戦に踏み切る気持ちは理解できるのですが、将軍足利義晴の嫡男として生まれて、後継者としての教育も受けているはずの足利義輝が知らないという事は考えにくいです。義輝は剣豪から剣の手ほどきを直接乞うほど勉強熱心ですし、実力はあっても正統性皆無な新興戦国大名に自らの偏諱を与えるなど戦略的な行動をとれる人物です。そんな義輝が改元の意味を学んでいなかったはずはありません。

 かと言って②のように改元要請を足利義輝が自ら行った可能性については、この時点で改元要請する動機が希薄です。また、天野氏の著書によると弘治・永禄改元に幕府からの費用負担はなかったとしています。ただ朝廷と朽木御所との交流は維持され、時候の献上品は義輝から送られていたそうですが、それは改元費用ではありませんでした。永禄年間に辛酉・甲子年がありましたが、足利義輝はこれを懈怠しました。足利義輝は改元に消極的な将軍だったと言えるでしょう。

 故に残るのが③の可能性です。ぱっと見一番あり得ません。何と言っても足利義輝を京から追い出したのは三好長慶なのですから。しかし、視点を少しずらしてみると足利義輝と三好長慶との間の繋ぎとなりうる存在が浮かび上がってきます。それは領地没収という三好長慶の恫喝に屈して足利義輝を見捨てて朽木から京に帰った幕臣たちです。おそらく彼らは政所執事の伊勢貞孝が預かる形になったと見るのが自然でしょう。つまり、京には将軍のいない幕府組織が存在したわけです。不本意ながら将軍を裏切る形になった彼らがその保身のために試みる事は何かを想像するなら、それはおそらく三好長慶と足利義輝との和睦です。

 その第一段階として彼らが果たそうとした事は何か。それは第一に三好長慶の政権強化だったでしょう。三好家を中心に据えた政権は、三好家の傑出した軍事力を背景にして畿内中心部に平和を実現していたのです。もちろん、下克上によるものである事には違いなく、政権の正当性は極めて薄いものでした。幕府運営の経験のない三好一門には改元という発想そのものが生じないでしょうし、改元が政権強化に役立つとも思い寄らなかったはずです。

 三好長慶政権の基盤強化は、足利義輝にとって面白い話ではありません。しかし、それに匹敵する利益を足利義輝が得ていたとすれば、話は別でしょう。それはすなわち、三好長慶が足利義冬を担がない事の確約だったのではないかと思います。足利義輝が都落ちしてすぐに和睦交渉が始まり、交渉の前提として足利義冬を三好長慶が奉じない事が求められたのでしょう。それは翌年三好兄弟が一堂に集まって検討され、結果、足利義冬が周防に移るよう仕向けられました。その結果和睦交渉は本格化し、その報酬として改元を足利義輝も認めたというところではなかったでしょうか。


1553年(天文二十二年) 八月  一日 東山霊山城合戦。足利義藤、三好長慶に敗れて朽木に逃れる。
1554年(天文二十三年) 十 月 十二日 淡路炬ノ口会議。三好長慶、之虎、安宅冬康、十河一存ら一堂に会す。
1555年(天文二十四年) 四月____      この月、足利義冬(義維)、阿波を出奔し周防に移る。
1555年(弘治  元年) 十 月二十三日 弘治に改元。

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