« 中漠:善人令和編㉚平島公方の冒険 | トップページ | 中漠:善人令和編㉜弘治改元 »

2020年10月 3日 (土)

中漠:善人令和編㉛戦国時代の改元事情


 東山霊山城合戦で足利義藤(義輝)を都から追い落として以来、三好長慶による政権は比較的平穏でした。そんな三好政権に一つの政治的イベントが降ってきます。それが、後奈良天皇による改元の布告でした。その意義については、次稿で考察することとし、本稿では改元そのものの意味と意義について述べてゆきたいと思います。

 言うまでもなく、改元は天皇が保持する大権の一つです。明治以降は一世一元と定められていますが、それ以前は一代に何度も改元を行うことが出来ました。とは言っても気分屋気まぐれで改元を行われては国の民も困りますので、いくつかの原則がありました。

 第一に代始の改元と呼ばれるものです。これは天皇が代替わりした時に行われる改元で、天皇践祚で始まる新帝の御代を言祝ぐ意味合いがありました。戦国時代のような戦乱相続く時代では、戦争原因が取り除けないことが分かっていても、年号を変えることで気分が一新できれば良いと思われたのか、大嘗祭や即位の礼などの儀式よりは金がかからずすむのか、これだけはやらせてもらえておりました。但し、譲位して上皇の身分を許せるほど戦国時代の朝廷や幕府の財政は潤沢ではありません。戦国時代においては、文正(土御門天皇)、文亀(後柏原天皇)、享禄(後奈良天皇)、永禄(正親町天皇)、文禄(後陽成天皇)があたります。

 第二に、甲子改元です。昔は年を認識するのに年号の他に十干十二支(じっかんじゅうにし)というものを使っていました。十干とは甲乙丙丁戊己庚辛壬癸の十種類の文字です。十二支とは現代も年賀状に使う子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥の十二の動物になぞらえたおなじみの文字ですね。この十干と十二支の文字を前からひとつづつとって組み合わせて干支をを形成して年を数えます。甲子、乙丑、丙寅、丁卯・・・と続き、干や支の文字が最後まで来たら、最初の文字に戻って続けられます。十干は十種類、十二支は十二種類ありますから、二週目からは違う組み合わせになりますが、六十個目の癸亥までくると、最初の干支に戻ります。東アジア漢字文化圏では中国以外にも我が国をはじめ様々な国が独自年号を使っていましたが、十干十二支がさす年は同じなため、さしている年を国際的に認識できる仕組みとなっています。その最初の干支が甲子(音読み:かっし・訓読み:きのえね)というわけですが、甲子が十干十二支の最初に当たるため、干支が改まるタイミングとして、革命、すなわち王朝交代が起きやすいと考えられたのでした。戦国時代においては永正改元がこれにあたります。但し、永禄七年は甲子にあたりますが、改元は行われていません。

 第三に、辛酉改元です。これも十干十二支の一つで、甲子から数えて五十八番目の年に当たります。陰陽五行説に当てはめると縁起が悪く、甲子と同様革命が起こりやすい年と考えられていました。よって、革命を防ぐために自ら率先して改元することで革命を防ぐ考えがあったとされています。このルールも甲子同様戦国時代であっても守られています。ただ、辛酉年の三年後は必ず甲子に当たるため、辛酉改元の年号は必ず三年までで四年目に改元が来ることになります。戦国時代においては文亀改元がこれに当たります。御柏原天皇の代始改元でもありますが、践祚そのものは前年であり代始を辛酉改元に併せて行ったものと思われます。同じく永禄四年も辛酉に当たりますが、改元は行われていません。

 第四に、天災・戦災による改元です。人心一新を狙いとした改元枠で、色々理由をつけては改元が行われました。しかし、戦国時代においては、予算制約が大きくネックになるとともに、三代将軍の足利義満以来、室町殿の意向抜きでは改元はできませんでした。戦国時代に入って将軍の権威は低下したものの、その権限は管領に移り、天皇が勝手に行使できるものでもありませんでした。応仁はその原因となった御霊合戦が原因の改元です。文明はその前年に足利義政の弟義視が東軍大将から西軍に寝返って西幕府を拓いたために足利義政が主導権を取り戻すためでした。長享は足利義尚が父から独立して親政するタイミングでの改元ですし、延徳はその義尚病没後、義材が継いだための改元です。明応はその前々年に義政が中風で、前年に義視が腫瘍により同じ日に亡くなっており、後ろ盾を失いつつある足利義材が行ったものでした。大永は足利義稙(義材)の出奔後、播磨に幽閉していた亀王丸を細川高国が将軍として奉じて義晴を名乗らせた時の権威付けであり、天文は足利義維を奉じて四国から畿内にわたった細川晴元が、義維を見限って義晴につき、三好元長を葬ったタイミングで行われました。

 ここまで見てきたように戦国時代の改元事情は代始と十干十二支を除けば足利幕府の都合によるものばかりでしたが、弘治に関しては、私が見るところこれらの原則から外れた改元となっています。次稿にて詳細を見てゆきたいと思います。

Photo_20201003193201 

|

« 中漠:善人令和編㉚平島公方の冒険 | トップページ | 中漠:善人令和編㉜弘治改元 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 中漠:善人令和編㉚平島公方の冒険 | トップページ | 中漠:善人令和編㉜弘治改元 »