2018年1月20日 (土)

中漠:晴天航路編⑨蓮淳・イスト・ヴィーダー・ダー

 タイトルはドイツ語です。直訳すると「蓮淳がまたここにいる」、意訳すると「帰ってきた蓮淳」という感じになります。とある映画化された小説のタイトルをパクってます。すみません。
  下間頼玄、頼盛親子には味方についた三好千熊丸を説得して阿波にいる足利義維を確保し、細川晴国が山城にいる間に連携するという手もあったはずです。それができなかったのは恐らくは蓮淳の存在があったからだと私は見ています。下間頼盛は石山に入山するまでは伊勢にいました。同じ国の長嶋願証寺には蓮淳がいたのですから、当然頼盛は石山への入山前に蓮淳に挨拶くらいはしたはずですし、蓮淳の方も下間頼盛にやってはいけないことを言い含めておくくらいのことはしていたのではないか、と想像しています。

  それでも木澤長政や細川六郎との戦闘は避け得なかったわけですが、この時下間親子には勝利条件の設定をすることができませんでした。細川晴国を手元に置いていた以上、細川六郎が本願寺を許すことはできませんし、かといって、かといって連枝寺院である富田教行寺のコネクションを通じて頼ってきた細川晴国や石山に入り込んでいた細川高国の旧臣たちを追い出すことは下間親子には許されていませんでした。細川高国の旧臣衆は状況から見て畠山稙長派河内国人衆として入山したものと思われます。石山本願寺には畠山家の血を引く一家衆の実従がいました。

 下間一族は大谷家の家宰に過ぎず、一門一家の意向に反した行動は取れなかったものと思われます。かつては実如と蓮淳の命令で下間頼慶が石山御坊にいた蓮能親子を捕縛しましたが、実如はすでにこの世の者ではなく、蓮淳も伊勢に亡命中です。石山にいる証如はまだ若年ですし、三河本宗寺の実円はこの一連の戦いにおいての存在感は極めて薄いです。とはいえ彼は何らかの働きをしていたことは間違いなく、享禄錯乱で三河兵を加賀に送り、1534年(天文三年)に下間頼玄より美濃・尾張・三河三国の兵を番衆として石山に派遣する要請を受けたことは確かで、その前年にあった西美濃衆の石山派遣にも関与していたのではないかと想像できるのですが、実際どこにいたかは史料に出てこないのでわかりません。石山にいたのならもう少し明瞭な形で史料に残るはずですが、石山にいなかったのか、または故意に記録を残さなかったのか、よくわかりません。いずれにせよ、石山の法主一門には実従以外に意思決定ができる人物はいなかったはずです。下間頼盛としては河内門徒衆から離れるために法主を連れて晴国派の巣窟となった石山からの脱出を試みるのが精いっぱいでした。この試みは失敗します。退避先が晴国派の三宅国村のもとというのでは、細川六郎からの赦免を勝ち取れる見込みがなかったためと推察します。

 結局、下間親子ができたことは石山に味方を集めて本願寺のみを防衛することだけでした。その結果、波多野稙通や尾州畠山稙長ら本願寺の力を利用して自らの勢力の拡大を図ったものは手を引いたり、脱落したりし、その結果細川六郎の最大の脅威である細川晴国も山城の占領地を維持することができなくなります。本願寺は孤立し、勝利の展望が見えなくなって頼みの綱の三好伊賀(連盛)も去ってゆきました。劣勢はますます明らかになってゆきます。ここに至って本願寺を救うのは個々の戦闘の勝利ではないことが誰の目にも明らかになったのでした。

 この状況を待っていた人物がいました。恐らくそれは下間頼盛に証如を守り切ることだけを命じ、それ以外のことをすることを禁じた人物。すなわち蓮淳です。彼は伊勢で逼塞しつつ、戦闘の状況を見守っていました。水面下では京の公家や石山の実従、教行寺実誓、本稿ではあまり言及しておりませんでしたが、紀伊に下った興正寺衆らと接触を図り続けていたと思われます。1535年(天文四年)四月七日に南河内高屋城で遊佐長教によるクーデター後の畠山軍が蜂起すると、これに対応して下間頼盛が自ら兵を率いて出陣しました。蓮淳はその間隙に滑り込むように石山本願寺に入ります。それ以後、下間頼盛は二度と本願寺に入ることはありませんでした。

 畠山軍は五月三十日には河内八ヶ所(河内十七ヶ所南方の荘園群)に侵入し、そこから東進して杜河内、長田、稲田の本願寺防衛の城砦群と次々と落とし、翌月十一日には天王寺近辺の諸村を焼きます。もはや本願寺は目の前にありました。その翌日に畠山軍と本願寺勢が戦うのですが、ここで本願寺は大敗北を喫します。後奈良天皇がこの戦いを本願寺滅亡と評したくらいの大負けでした。恐らくここで戦ったのは下間頼盛が加賀から連れ帰ってきた兵と丹下盛賢ら旧畠山稙長派の河内衆であったと思われます。それから半月も経たぬうちに本願寺は紀州から増援を得ておりますので、蓮淳は現在の本願寺勢の主力である河内衆の力を削ぐことを策していたようです。

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※国土地理院地図(https://maps.gsi.go.jp/)を加工

 紀州からやってきたのは傭兵集団雑賀衆(この頃はまだ鉄砲を持っていません)と、紀州に下っていた興正寺衆でした。興正寺は蓮如に折伏された浄土真宗仏光寺派の分派で、興正寺衆は証如が石山御坊に入り第一次和睦後に本願寺に入山したものの、証如との間にゴタゴタがあったらしく、すぐには法主との対面は許されずに和睦破談後の戦闘でにっちもさっちもいかなくなった段階でようやく対面かなったものの、紀伊に下るように命じられたという石山本願寺の体制においては非主流の立場に追いやられておりました。蓮淳はこの興正寺衆と富田教行寺衆(これには三宅国村も含まれます)に和平交渉をさせました。本山に残っていた下間頼玄は筆頭奏者の任を解かれ、その翌年に没します。後任奏者は弟の頼慶です。蓮淳も下間頼慶も蓮能一派粛清という脛に傷を持つ身なので石山入りには心理的抵抗があったようですが、情勢的には山科本願寺再建はほぼ不可能になっていました。腹を割って蓮能の遺児実従と話をし、妥協が図られたものと推察します。むしろ、証如が石山を新たな拠点として本願寺を運営するならば、畠山家との関係修復は不可避であり、畠山家の血を引いている実従の存在は不可欠なものであったでしょう。興正寺と富田教行寺が進めていた和睦交渉は順調に進み、九月には本願寺が封鎖していた摂津水路の閉鎖を解除、三宅氏を介して人質を幕府に引き渡します。十一月になってようやく和議が整うわけですが、和議を整えるだけなら蓮淳がいなくてもできたことであり、大事なことは和議を実効性のあるものにしてゆくことでした。そのために蓮淳が行ったことは容赦のない粛清の嵐でした。

 私はその粛清第一号を徳川家康の祖父松平清康としています。詳しくは「川の戦国史・英雄編」をご参照ください。異論は認めます。松平清康が尾張守山で阿部弥七郎に斬殺された翌月に、下間頼玄は没します。死因はわかりませんが、暗殺が横行していたこの時代に実にタイミングの良い死であったろうと思います。この戦いにおいて降伏を許されない立場の者がおりました。細川晴国です。彼は下間頼盛と一緒に本願寺継戦派の門徒宗を中嶋砦に集めて抗戦します。三好軍がこれに当たりますが、この間まで味方だった者たちと戦うことには気が引けたのか、手こずります。木澤長政がこれに介入し、証如も攻城軍に補給物資を送ったり、砦の兵たちに破門をちらつかせたりすることで七月二十七日に中嶋砦は陥落します。哀れをとどめたのが、細川晴国でした。彼は堺に落ち延びて再起を図ることを勧められます。勧めたのは彼を本願寺に仲介した三宅国村でした。三宅国村は晴国一行が天王寺までたどり着くや態度を豹変させて細川晴国に自害を勧めました。すべてに見捨てられての死です。下間頼秀・頼盛兄弟もその二年後に本山が送った刺客により死を賜っております。その翌年に堅田本福寺の明宗が寂します。実如の代に近江顕証寺にいた蓮淳と争った遺恨の果てに三度の破門食らった結果、配下の門徒衆は飢え死にしてゆくことを目の当たりにした上での憤死でした。蓮淳は自分がコントロールできないものを極度に恐れていたようです。

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 その一方で、細川晴国を本願寺に引き入れてしまった富田教行寺の実誓にはお咎めがありませんでした。教行寺衆が和睦に意を尽くしたことと、蓮淳は伯父に当たるわけですが、女系でも大伯父でかつ祖母が蓮淳の同母妹です。三河本宗寺実円は美濃・尾張・三河門徒衆を動員できる立場であり、下間頼玄・頼盛親子を御すべき立場であったはずですが、十分な端ら指揮をしていませんでした。蓮淳は美濃・尾張の動員権を取り上げて伊勢長嶋願証寺にいる次男実恵に与えました。実円はその後播磨英賀本徳寺の経営に注力することになります。大阪湾に面した石山を本山とするとなれば、瀬戸内海沿岸にある英賀はより重要性を帯びるだろうことを見越してのことでしょう。

〇教行寺実誓関連系図
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 身内、それも蓮能の息子の実従を除けば蓮祐系の兄弟に実に甘い裁定であると思います。

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2018年1月13日 (土)

中漠:晴天航路編⑧調略合戦

 証如の石山退去に失敗した下間頼玄、頼盛親子は腹をくくるしかありませんでした。何より優先したのが石山本願寺防衛のために、諸国の門徒衆に動員をかけたことです。四月四日に蓮応こと、下間頼玄は飛騨国白川郷の照蓮寺に本願寺防衛のための出兵以来の書状を送ります。この書状には、照蓮寺だけではなく、美濃、尾張、三河三国の坊主衆の動員命令も出ていることが記されています。

〇照蓮寺宛蓮応(下間頼玄)書状 金龍静著 一向一揆論 吉川弘文館刊行 より引用
能以書状申候。仍此方之近所まで敵罷出、方々令放火候。雖然当御山之儀、堅固御座候。乍去為御用心ニ候之間、美濃・尾張・三川三ヶ国坊主衆、可有上洛之由、被仰出候間。貴所之儀同前ニて候。乍御大儀上洛待入候。拙者も二月辺より、此方致祇候事候。必々御上待申候。恐々謹言。
四月四日 蓮応(花押)
照蓮寺御房
   進之候

 これらの地域は1531年(享禄四年)大小一揆の折に加賀に派遣された三河坊主衆の行軍ルートにある国々でした。この前年に大垣の順行寺を初めとする西美濃十ヶ所や揖保郡永徳寺グループの門徒衆が本山防衛のために参上し戦ったと言います。
 このころ、木澤長政は越智氏に協力して大和に向かっており、吉野の一向衆の拠点である本善寺を攻め落としました。ここは実従の実兄である実玄が住持を務めている御一家寺院でもあります。これを機に石山本願寺は和議の破棄に踏み切りました。そして、仲介の労をとった三好家に働きかけて三好伊賀(連盛)と久介を味方につけることに成功します。三好伊賀は一門衆に連なっているものの、のちに失脚しますので詳しいことはよくわからないのですが、少なくとも宗家の中枢にいた人物ではないかと思われます。この三好伊賀に対して宗家千熊丸が掣肘したという話はありませんので、私は三好宗家は伊賀に与同、もしくは好意的中立の立場にいたと考えております。元々が無理筋の講和でしたし、講和の実効性を担保する勢力はどこにもいませんでした。こうなることはある意味必然であったでしょう。

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 大和国でも吉野の一向衆が反撃に出て金峰山寺を焼きます。そして中嶋から豊中のライン、八尾に防衛線を引いて細川六郎方に敵対しました。これに対して六郎方は木澤長政を介して大きな一手を打ちます。それは尾州畠山方を支える遊佐長教を調略して当主の畠山稙長を追放することでした。この時までに尾州畠山稙長は高屋城を回復、総州派主力の木澤長政は摂津伊丹に陣を構え北から本願寺と対峙していました。尾州派としては失地回復のチャンスでしたが、この時河内には事実上二人の国主がいる状態になっています。一人は高屋城の畠山稙長、そしてもう一人は石山本願寺にいる証如でした。

 遊佐長教は畠山家の譜代の重臣です。河内門徒衆の主力の多くは尾州畠山家臣たちでした。それが本願寺証如に靡いてゆくさまを見せつけられていたものと思われます。そこで木澤長政が囁いた誘惑の一言、「河内を南北に分けて飯盛山城を中心とした北河内を総州畠山在氏が、高屋城を中心とした南河内を尾州畠山稙長を後々に呼び戻して治め、木澤は北守護代、遊佐は南守護代として分け取りにしよう」という提案は遊佐長教にとって魅惑的に聞こえたかもしれません。

 実はこの時までに遊佐長教が判断を迷う出来事が丹波で起こっていた形跡があります。こういう言い方をするのは確証がないからなのですが、どうもそれまで細川晴国方についていた波多野稙通が細川六郎方についたようなのです。状況証拠として考えられることが幾つかあります。1533年(天文二年)六月五日に波多野稙通は丹波母坪城を陥落させて赤澤景盛を討ち取りましたが、それと同時期に丹波黒井城も攻め取って城主赤井時家を播磨に追いやっております。ところが、天文一揆後には波多野稙通は細川晴元に仕えて、黒井城を母坪城と一緒に赤井時家に引き渡しております。本願寺が完全に降伏した後であれば、丹波征伐が起こっても不思議はなかったはずですが、それを回避し得たのは恐らくはこの時点で本願寺方を見限って中立に転じたからではないかと思います。

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 そしてもう一つ。遊佐長教が畠山稙長を河内から追放した翌々月の十月十三日に摂津国大融寺(大阪市北区)に上野玄蕃頭が陣取ってそのまま「河内せさ堂」という所に出征したという話が出てきます。この上野玄蕃頭は1533年(天文二年)六月十八日には山城国高雄山城にいて攻め込んできた細川六郎方の薬師寺国長を討ち取っております。高雄山城は細川晴国の根拠地であり、この後晴国は京に攻め込んでいたのです。少なくとも1534年(天文三年)三月十二日に証如が榎並に移った時には六郎方から細川晴国に味方するつもりだろうと疑われる程度にはその勢力は顕在だったはずが、いつの間にか山城の戦場を離れて十月には石山防衛戦争に参陣しているのです。そして1536年(天文五年)初頭には上野玄蕃頭の主君細川晴国が本願寺継戦派とともに中嶋砦に立てこもることになります。つまり1534(天文三年)年の三月から十月の間に細川晴国は戦線を維持できなくなって本願寺に移っていたようなのですね。山城での戦闘は1533年(天文二年)の十二月に洛中法華衆が洛西諸集落を放火して回った以降はこれといった動きはありません。そうした中で、高雄山城を拠点とした細川晴国が自らの勢力圏を維持できなくなる事情とは丹波の波多野稙通が六郎方についたという所が妥当なのではないか、という気がします。

 細川晴国の本願寺退転という情報が遊佐長教に入っていたとすれば、摂津欠郡から摂津淀川流域北岸以外はすべて六郎方すなわち反本願寺勢力の手に落ちたということになります。大和襲撃で興福寺も敵に回しているとすれば、本願寺は本当に四面楚歌に陥っています。これを支援する勢力は、私怨で戦っている三好伊賀を除くと尾州畠山家しかいない状況はお寒い限りです。遊佐長教はクーデターを起こして主君尾州畠山稙長を紀伊に追放してその弟の長経を擁立、木澤長政と結託して六郎方につきました。これに反発した尾州畠山派の丹下盛賢は本願寺に入山します。しかし、細川晴国と同様本願寺に入った時点で詰んでいるとも言えました。

 冒頭の手紙にも書かれていた通り、下間頼玄が飛騨照蓮寺に申し入れたのは、番衆を派遣して本願寺を防衛せよということだけでした。そこには何の戦略もありません。例えば三好千熊丸を介して阿波細川持隆を説得し、阿波に逼塞している足利義維を将軍として再び担ぎ、それを管領として助ける細川晴国が上洛するルートを確保するために淀川を遡れなどの号令が証如の口から発せられたとすれば、波多野稙通や尾州畠山稙長、そして遊佐長教も乗ることはできたかもしれません。しかし、摂津欠郡の外にいて本願寺と手を組み得る諸勢力をすべて本願寺の中に取り込んでしまった結果、本願寺は孤立せざるを得ませんでした。
 その中で一人気を吐いていたのが三好伊賀でした。彼が率いる三好勢は六郎方を押しに押しまくりますが、細川六郎方が守る伊丹、池田両城を落とすには至りません。

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※国土地理院地図(https://maps.gsi.go.jp/)を加工


結局1534年(天文三年)十月末に木澤長政の仲介で和睦をせざるを得ませんでした。本願寺はますます孤立を深めてゆきます。

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2018年1月 6日 (土)

中漠:晴天航路編⑦河内の重力に魂を惹かれる

 下間頼秀の後を受けたのはその弟頼盛と二人の父親頼玄でした。頼盛は前線指揮官タイプでしたので、証如側近のとりまとめとしては心もとなく、天文三年の二月に寺務のベテランである父親がフォローすることになったということでありましょう。このあたり想像というか妄想なのですが、彼らが北伊勢にいる蓮淳から期待されていた役割はおそらく証如を石山と河内以外のどこかに移すことであったのではないかと思われます。そんな思いとは裏腹に、頼秀が退いた翌月に尾州畠山基信(稙長の弟)が石山本願寺に味方することを宣言します。尾州家は親細川高国派で桂川ら合戦後に河内を追い出されていた連中でした。それが本願寺に味方すると宣言することは、本願寺に和議の条件を破らせて、細川高国の弟である晴国方に引き込む意図が見え見えです。証如をこのまま石山に置いておけば、和議が敗れることは必定でした。

 そんな折、淀川対岸の摂津国三宅城(大阪府茨木市)の三宅国村から自ら本願寺教団門徒となって証如の味方になる旨の書状が届きました。この前年、摂津国守護代薬師寺国長が細川六郎方として山城国高雄に攻め込んで逆に討ち取られるという事態になっておりました。東摂津に力の真空が生まれております。彼自身は機会主義的な考えの持ち主であり、彼はその勢力の真空を自らの手で埋めたいと考えておりました。しかし、摂津国人の一人にすぎない彼単独でそれを行うのは困難であることは彼自身も理解しております。そこで考えたことが本願寺と組むことでした。

 彼には本願寺との間のパイプがありました。彼の妻が本願寺門徒であり、それも三宅城からほど近い富田教行寺の坊官である下間頼広の娘です。富田教行寺は蓮如が開き、八男蓮芸に与えた寺院で、山科と石山の中間に位置しておりました。本気で畠山氏を折伏するつもりだった蓮如が細川氏の支援を受けやすい摂津に作った後方支援拠点であったのでしょう。山科、富田、石山は川でつながる地勢でもあります。天文年間の時点では蓮芸はすでに寂しており、子の実誓の代になっておりました。下間頼広は実誓の側近でありました。教行寺は山科陥落の煽りを受けて、都から押し寄せてきた法華宗徒によって焼かれておりましたが、この時点においては細川晴国が西岡を押さえて京を攻めているところでした。法華宗はそれに対抗して洛西の集落に放火をするのがせいぜいです。当面法華衆が攻めてくる恐れはありませんでした。

 和約を維持したい下間頼盛と頼玄にとって証如を石山に留めておくことは和約破棄への一本道でしかありませんでした。証如の避難先に困っていたところで、この三宅国村の申し出は願ったりというところではなかったでしょうか。連枝である蓮芸のいた教行寺の縁者ということであればなおさらです。とりあえず証如を三宅国村の保護下に置いたうえで教行寺の再興を行うことであれば、和議の維持自体はできるとふんだのでしょう。すでに尾州畠山基信の本願寺助勢の宣言は木澤長政の攻撃を招いてしまっていました。木澤長政は本願寺の動向よりも、尾州畠山家の動きの方に敏感に反応します。そして、浅香道場の攻撃においてもそうだったのですが、そのことが本願寺を窮地に陥れることなど微塵も斟酌しない人物でもあったのです。下間頼盛らは本来であれば三宅国村との間に綿密な打ち合わせをする必要があったのですが、事態はそれを許しませんでした。

 下間頼盛は証如を連れて石山本願寺を脱出します。目指す場所は摂津国三宅と思われますが、その途上にある中洲の榎並まで来たところで足が止まります。理由はおそらく下間頼盛と三宅国村との間に認識のギャップが存在したからと思われます。すなわち、下間頼盛は和議条件に即して石山以外の証如の落ち着き先として三宅城そしていずれは富田教行寺を考えていたのに対し、三宅国村はそうではなかったということではないでしょうか?すなわち、証如の北上は証如に賛同する河内門徒軍を引き連れたものを期待していたのではないかと思っております。それはもちろん、西岡を掌握して洛中に迫る細川晴国を助けるためであり、洛中法華衆を駆逐したうえで山科本願寺を奪い返すためではなかったでしょうか。

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 一瞬で畠山義堯や三好元長を屠った証如の檄の威力を見ればそれもまた不可能ではないように思われます。しかし、それは下間頼盛には受け入れられないことでした。細川晴国に助力するということ自体、和議の条件を破ることになります。榎並から三宅城までは半日もかからない行程ですが、そこに留まり数日間を費やすということは、下間頼盛と三宅国村との間で交渉ごとがあったと解釈すれば、つじつまが合うのではないでしょうか。おそらく頼盛としては三宅国村には細川晴国と手を切ってほしかったし、国村からしてみれば、法華衆しかいない洛中を陥落させることは容易であり、下間頼盛が山科奪回を躊躇する理由がわからないということだったのでしょう。

 しかし、幕府にとっては証如を榎並に移したという行為自体が本願寺の異心を疑うに十分なことでした。曰く本願寺は三宅国村を頼って細川晴国に同心した、と。ここに下間頼盛と本願寺教団は進退窮まることになりました。

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2017年12月30日 (土)

中漠:晴天航路編⑥誘い受けの講和条件

  細川晴国の挙兵によって石山御坊の証如たちが得たものは、体制固めのための時間でした。それまでの石山御坊は山科本願寺の陥落でその傍にいたのは曾祖叔父にあたる実従と山科陥落の報を受けて加賀から急遽石山に駆けつけた下間頼秀だけだったのですから。
 実従にとって石山御坊は母親や兄弟たちとその幼時を過ごした土地でもありました。実従の母親は旧畠山宗家の血を引く蓮能であり、当時石山御坊にいた蓮能母子は細川政元が企図した畠山征伐の障害になるという理由で実如に捕縛されて京に連行されたことがあります。証如の側近衆の一人に下間頼慶という法主家宰相の下間頼秀の叔父がいたのですが、彼は蓮能、実従ら母子を石山から連行した張本人でもありました。故に下間頼慶は証如と同道して石山入りはできなかったものと考えられます。山科陥落の直前まで本願寺の実権を握っていた蓮淳も伊勢長嶋に退避しており、その兄弟である連枝衆も蓮淳が粛清した後でした。本願寺教団の法主である証如もまだまだ若年であり、よってこの時実従の行動を牽制し得たものはどこにもおりませんでした。もっともこの時にそのような行動をとり得た一族衆は一人だけいないわけではありませんでした。それは三河国本宗寺、播磨国本徳寺の住持である実円で、彼は証如の叔父にあたりました。彼は大小一揆において三河兵を加賀に派遣したこと、第一次石山戦争において石山防衛に三河兵を動員した痕跡はあるのですが、本願寺の歴史においてこの時の実円の行動の詳細を追うことができません。
 石山入りした証如を助けるべく、紀州から門徒衆が殺到して木澤長政や細川六郎を追い散らしましたが、これを主導したのは実従と考えて差し支えないと思います。なんと言っても紀州は畠山氏の領国であり、畠山氏の内紛が延々と続いてしまう理由は紀伊国が山深く、ここにこもってしまうとなまなかな手段では追討することができないからでした。そしてついこの間まで総州畠山義堯の居城であった高屋城にいつの間にか尾州畠山家の稙長が新城主に収まっていました。総州畠山義堯を打ち取ったのは証如が動員した門徒衆です。つまりはそういうことでありました。
 実従が動員した紀伊・河内門徒衆は戦線を西摂津まで押し上げて膠着します。そんな折に丹波の波多野稙通と山城国の細川晴国が反細川六郎の狼煙を上げたことに、証如一行は救われた思いがしたに違いありません。

 ただ、細川六郎と茨木長隆・木澤長政の三人組は政治的センスが一本抜けています。三好千熊丸を担ぎ出して本願寺に示した講和条件が二つばかりあるのですが、これが二つともやらかしちゃっています。まあ細川六郎と茨木長隆がやらかしちゃったから今のこの事態があるわけですが、木澤長政が加わってもそれは一向に改まる気配すらありません。最初に示したのが、細川六郎を管領と認めること。そもそも本願寺の軍事行動は細川六郎を助けるために始めたことなので、これ自体は妥当と言えるかもしれないのですが、それも細川晴国が挙兵する前までのことです。細川晴国が山城国西岡で勢力を張っている中でわざわざこんな条件を持ち出すこと自体、本願寺が細川晴国を立てて六郎たちに敵対することを恐れていることがバレバレです。そしてもう一つの条件が、足利義晴を将軍と認めることをよりにもよって三好千熊丸に言わせたことです。父三好元長亡き後、千熊丸は阿波細川持隆の庇護を受けていました。同時に、細川持隆は堺公方足利義維を平島に匿っています。細川持隆と縁切りする形で足利義晴を担ぎ、三好元長を滅ぼした細川六郎としては、足利義維が公方として足利義晴と対立する形になることは何としても阻止したかったわけです。三好千熊丸を仲裁者としてこの条件を呑ませるということは、三好千熊丸にも同様にその条件を従わせることと同義でした。和議の条件と言ってもこれはどちらも細川六郎の弱点以外の何物でもなく、彼らは自分の弱点を自ら言いふらしているのと同然でした。そのくせ、六郎方は本願寺だけではなく、波多野稙通、細川晴国、そして尾州畠山稙長ら反細川勢力に囲まれていて、戦線維持にも窮している状況でした。どこまでマゾなのか、ひょっとして誘い受けなのか、と突っ込みたくなるほどです。

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 それでも本願寺が講和条件を呑んだのはやはり時間がほしかったからでありましょう。山科本願寺の崩壊で蓮淳は去り、実円はどこかにいるはずなのですが、存在感はありません。実際に証如を支えているのは実従と加賀から駆けつけた下間頼秀くらいなものでした。方針を決めるにも本願寺のブレインたちは散り散りになっていてこれをまとめる時間を必要としていたのでした。

 講和がなって石山御坊は石山本願寺と名を改めると、各地に潜伏していた幹部たちが新たな本山に集結し始めます。具体的には下間頼秀の弟の頼盛や、興正寺衆たちでした。興正寺衆とは、蓮如の折伏によって仏光寺派から本願寺教団に転宗した一派で山科に拠点を持っていました。山科本願寺の陥落と同時に拠点を失っていましたが、このタイミングで石山に参陣します。山科陥落時に本山と折り合いをまずくしたのか、参陣が遅れたためかよくわからないのですが、この時興正寺衆は証如に詫び状を送っております。証如の方も興正寺衆の石山在陣は認めたものの、この味方勢力と証如の対面は見送られてしまいました。そして頼盛の潜伏先は伊勢です。伊勢は蓮淳が避難している長嶋願証寺がある国でもありました。蓮淳や下間頼慶ら幹部衆の復帰はまだ先のことになります。この状況は石山組と退避組との間には穏やかならざる対立があったものと考えられます。それを象徴するのが1533年(天文二年)十二月の下間頼秀の離山でした。

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 立ち上がったばかりの石山本願寺がこれから体制固めをしていかなければならない時期、下間頼秀は若年の証如の手足となって教団を指揮してゆかなければならない立場にありました。天文二年の和睦の功労者です。確かに講和に従わない者たちの小競り合いは散発していましたが、それがこの時点での失脚にまで至る理由とは言えないでしょう。頼秀の失脚後に弟の頼盛がやらかす証如拉致事件とのつながりを考えるに、これは石山を「本願寺」にしてしまったことへの反発ではないかと思われます。石山を本山にする以上、その運営には畠山氏が支配する河内門徒衆の支援が不可欠になります。しかし、永正二年にはその畠山一族出身の蓮能のいた石山御坊を前法主の実如が弾圧を加えました。下間頼慶は蓮能母子を逮捕拘束した張本人ですが、その逮捕拘束された中の一人である実従は天文二年には石山本願寺で証如を支える側近衆の一人になっています。石山は身に覚えのある面々には剣呑すぎて近寄れない場所です。とは言え、それを表立って口にできないでしょうから、頼秀を責め立てる口実として用いたのはなぜ山科奪回を諦めたのか、ということだったでしょう。現実問題、洛中に法華衆が充満している状況での山科復帰は自殺行為でしか無いのですが、本願寺を石山に移してしまった責任はだれかがとらねばならなかったということではなかったでしょうか。

 この時期細川晴国の乱は最盛期で山城国西岡にて勝利を収めて京にも迫っております。波多野稙通も母坪城を落として赤澤景盛を討ちとっております。細川六郎方の苦戦が続く中、石山本願寺の新たなる船出は早くも迷走するに至るのでした。

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2017年12月23日 (土)

中漠:晴天航路編⑤細川晴国の乱

 細川晴国は大物にて無念の戦死を遂げた細川高国の弟でした。彼が起こした反乱は天文の錯乱(第一次石山戦争)の陰に隠れて見えにくいものですが、乱の展開に大きな影響を与えています。おそらくはこの挙兵の仕込みは波多野稙通によるものであったと思われます。彼の弟の一人、香西元盛を細川政賢の讒訴で失い、それが細川高国に対して戦いを挑むきっかけとなったのですが、もう一人の弟の柳本賢治も高国によって暗殺されました。賢治が率いていた柳本衆も細川六郎の起こした不条理な内乱のせいで壊滅の憂き目にあいました。波多野稙通にしてみれば細川六郎は細川高国を討ち取った時点で足利義維を担いで上洛していれば良かったのです。茨木長隆や木澤長政のような摂津・河内国人衆に良い顔をして三好と足利義維を排除するような小細工を弄したが故に無用な内乱が留まるところを知らず拡大したわけでした。彼が早い段階で細川六郎を見限っていたとしても、それは不思議でもなんでもありません。彼は幕府に運命を弄ばれた弟たちとは違って細川京兆家とは距離をとり、慎重に丹波国に勢力を扶植しておりました。とは言え、彼もまた自らの実力で得た領地を保証してくれる存在を欲していました。六郎の能力不足はあきらかでしたので、代わりを探して見つけたのが細川晴国であったわけでしょう。

 細川晴国は丹波国境に近い山城国高雄山にて挙兵しました。それに機を合わせて波多野稙通は西丹波の母坪城へ攻め入っています。ここを守っていたのは赤澤景盛、おそらくは宗益・長経の縁者でありましょう。赤澤景盛は緒戦は防いで桑実寺にいる足利義晴より感状を得ております。波多野稙通は足利義晴から敵認定されてしまったわけですが、この人物は細川高国に擁立されたにもかかわらず、その高国を討ち取った六郎と結ぶような人物でもありました。波多野稙通は戦で勝ちを連ねればいくらでも状況をひっくり返せると考えていたものと思われます。彼としてみれば最終的に京都に将軍を中心とした五畿内管領体制を整わせるのが目的であったはずです。

 細川晴国の挙兵の直前、桂川、淀川沿いに洛中法華宗徒軍が石山御坊に向けて行軍しておりました。晴国の挙兵はその退路を脅します。細川六郎は晴国に対して摂津国高槻にいた薬師寺国長を差し向けます。彼は細川政元対して反乱を企てた薬師寺元一の遺児でした。幼年故許され、後に細川高国に認められ摂津守護代を務め、その死後は六郎に仕えていたのです。しかし、薬師寺国長は高雄山まで攻め込んだものの返り討ちにあってしまいました。薬師寺国長の敗死により、京と摂津のルートは分断されたことになります。これによって洛中の町衆で組織された法華軍団は浮き足立った役立たずになります。

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 西摂津の池田・伊丹両城にいた 細川六郎、茨木長隆、木澤長政にとってもここで本願寺教団と殴り合いをしている場合ではなくなりました。細川晴国は細川六郎を代替する資格の保有者で、北方にはその支援者の波多野稙通がいて、はさみうちの状況になっていました。六郎・木澤長政は本願寺との和睦を策します。その白羽の矢が当たったのが、三好千熊丸でした。おそらくは消去法でしょうが、この両当事者が千熊丸にとっては親の仇でした。このあたりすごく茶番劇めいています。この時の三好千熊丸には一門を統率して意思を示すだけの力がありませんでした。自らの情を殺して、自分の手で未来を切り開くために、やむなくこの申し出を受けたのです。このあたりのお膳立てをしたのは、千熊丸本人ではなく、一門衆の一人、三好伊賀守連盛という人物であったらしい。しかし、事態はそう簡単に収まってはくれませんでした。

 細川晴国や波多野稙通の存在です。波多野稙通は母坪城を陥落させて赤澤景盛を討ち取りました。細川晴国も薬師寺国長を返り討ちにして高雄を守り切った勝利の余勢をかって京へと軍を進めます。この間京都を守っていたのは良くも悪くも法華宗徒たちでした。将軍も管領もいない町を守り続けてきた自負も芽生え始めていました。山科の本願寺を破り、摂津富田の教行寺も焼き、石山に迫った軍団も持っていました。細川六郎に貸しを作る意味でも、戦う意義を感じていたようです。1533年(天文二年)十月二十二日細川晴国勢と法華宗徒勢が西院で戦います。晴国勢にも京を目前にして抵抗はないだろうと思っていたのかも知れません。法華勢は無事京を守りおおせたのでした。十二月には細川晴元勢が西岡に侵入しましたが、ここを任されていた野田弾正忠らが守り通したようです。晴国勢は内野大宮といいますから、旧大内裏のあった場所(明徳の乱で山名勢が戦った場所でもあります)まで迫りましたが、結局都を占拠するにはいたりませんでした。その事態打開にすがったのが、六郎方との和睦によって体制固めの時間を得た石山御坊でした。

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※国土地理院地図(https://maps.gsi.go.jp/)を加工


 その時間を利して東摂津の国人三宅国村が本願寺に与し、細川晴国を支援します。三宅氏は茨木氏の所領春日荘に隣接する三宅荘の荘官の出であり、三宅国村の妻は摂津富田の教行寺の坊官、下間頼広の娘であり、彼もまた本願寺と縁の強い人物でした。結局のところ細川晴国がその存在感を示したのはここまでで、こののちジリ貧になってゆきます。本願寺が防戦一方になると細川晴国も占領地を維持できず、三宅国村らとともに、摂津中島砦の防備に駆り出されてしまいます。そこが落ちたのち、三宅国村は細川晴国を見限り、石山本願寺降伏後堺に亡命することになった途上、天王寺において自害を強いられてしまいました。しかし、彼が稼いだ時間が石山御坊の証如たちの運命をも変えてゆくことになります。

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2017年12月16日 (土)

中漠:晴天航路編④両属の衆

 飯盛山城を攻囲された木澤長政を救助するために門徒衆を動員する戦略を立てたのは茨木長隆で間違いないでしょう。彼の出自である茨木氏は摂津国にある興福寺所有の荘園の荘官出身でした。彼と本願寺を繋ぐ縁ですが、一世代前の一族に茨木近江守という人物がいて、彼の娘が本願寺坊官、下間頼善の妻でした。その子である頼慶は1506年(永正三年)の大坂一乱において蓮能母子を逮捕する役目を仰せつかっています。異母兄が頼玄と言い、こちらの系統が下間宗家筋であり、頼玄は天文乱中法主の側近として証如を支えました。子供の頼秀、頼盛兄弟は本願寺軍団の司令官として加賀出陣や本山防衛線を戦っていました。茨木氏は本願寺教団の中枢にパイプを持っていたわけです。

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 茨木長隆に相対する本願寺教団の窓口は下間頼慶、そしてその背後にいたのは顕証寺蓮淳で間違いない所と思います。法主の外戚である彼以外に普段は山科にいる証如を石山に出向かせることは難しいと思われるからです。
  逆に言うと、茨木長隆の要求に応えるためには、証如本人を石山御坊に向かわせなければならない事情があったのですね。ここに至る以前に本願寺は何度か軍事力を行使しています。例えば、大坂一乱、例えば大小一揆、そこには加賀門徒や三河門徒が本願寺兵として派遣されております。しかし、この時は山科本願寺が頼みにする加賀門徒兵は大小一揆で分裂し、三河門徒はその鎮圧に駆り出されておりました。河内門徒衆は蓮能一派が弾圧されていたことを忘れていません。すなわち、蓮淳だけでは河内門徒に命令を下してそれを実現することは難しいと考えていた故の証如の動座だったわけであり、その結果は畠山義堯、三好一秀、三好元長を討ち取ると言う出来すぎた働きでした。蓮淳としては、目的を果たした後で証如を山科本願寺に戻せば彼らをまとめる大義が無くなるので問題はないと考えたのでしょう。しかし、飯盛山と堺で挙げた河内門徒衆の戦功は自ら自身の力を自覚するに十分なものでした。そして総州畠山義堯が居城としていた高屋城にはいつのまにか尾州畠山稙長が居座ってしまいました。畠山家と本願寺に両属する彼らにとって、大義とはいくらでも挿げ替えがきくものであったのでした。かくて、大和で暴挙が企てられ、制御のきかない河内門徒衆の行動は本山の存続にも影響する危機を生み出したのです。おそらく、木澤長政本人は尾州畠山派の拠点を叩くつもりで行った浅香道場襲撃が引き金になって本願寺と幕府の戦争が始まってしまいました。

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 京では法華宗徒が動員されて、近江六角勢とともに洛中・洛外の門徒勢力に攻めかかったのでした。 このあたり、かなり迅速です。1532年(天文元年)八月十二日、柳本信堯・山村正次率いる柳本衆、在京法華衆、六角定頼連合軍が蓮淳が住持を務める大津顕証寺を陥落させます。その十二日後の二十四日に山科本願寺も焼亡するわけですが、ここで蓮淳は奇妙な行動をとります。山科本願寺を脱出する証如に帯同せず、遠路勢尾国境の長嶋願証寺まで単身で逃げたのでした。
 そしてこの時に堅田本福寺の住持明宗がとった態度を理由に蓮淳は後に三度目の破門を言い渡しています。これが何を意味するかを考えてみます。まず、蓮淳が北伊勢長嶋まで逃げおおせられたのは、そのタイミングは不明なものの東への脱出ルートを確保できていたことを意味します。当然孫にあたる証如も同道させることもできたはずなのですが、結果として叶いませんでした。その過程で本福寺明宗が破門されていることを考えに加えると、脱出ルートは堅田から北近江へ水路を使い、美濃から川伝いに伊勢へ向かう経路であり、明宗は証如帯同に反対をしたと考えられます。この頃までに本福寺は蓮淳によってほぼ壊滅状態に追い込まれていましたが、堅田衆を使った妨害は可能と考えられたせいではなかったでしょうか?
 結果として宗祖御影像を初めとする寺宝とともに証如を山科本願寺から脱出させ、石山御坊へと迎えたのは、証如の側近衆の一人、実従でした。彼は畠山氏の血を引く蓮能の息子の一人であり、幼時は石山御坊に住していました。

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 ここの判断は難しい所です。もし、証如が願証寺入りしていれば、河内門徒衆は大義を失い、天文錯乱は小規模なものになったかもしれません。あるいは、別の教主が立てられて教団分裂の可能性もありました。大和国吉野の本善寺には実従の兄であり、蓮如の息子でもある実考がいました。彼もまた蓮能の血を引いており、河内門徒衆にとっては神輿にしやすい人材であったと言えます。しかし、そうしたとしても、石山御坊の陥落は避け得なかったものと思います。分派するにしても新造の法主では求心力を得られないはずです。分派しなくても史実においては本願寺の大苦戦は避けようがなかったのですから、これはやむをえざる判断かと思います。

 かくて、蓮淳が脱落した後に証如一行は石山に入りました。北伊勢の長嶋に落ちた蓮淳は失脚した態になっておりました。幕府と本願寺とのパイプはここで完全に断ち切れてしまったわけです。証如石山入りの報をきいて真っ先に駆けつけてきたのが紀伊門徒衆でした。木澤長政はこれを撃退しようとしたのですが返り討ちにあってしまいます。そればかりか、堺にいた細川六郎までが脱出を余儀なくされました。このことで本願寺勢は俄に勢いづき、摂津国の大物(尼崎)、山田(千里丘)あたりで戦線が拮抗します。木澤長政、細川六郎らは堺を追われて摂津国内でこれに対陣しました。

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 ここでさらに事態をややこしくする人物が登場します。名を細川八郎晴国と言い、細川高国の弟でした。大物崩れで無念の死を遂げた兄の遺志を継ぎ、本願寺方について参戦します。


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2017年12月 9日 (土)

中漠:晴天航路編③木澤のオッサンの唄Ⅱ

 少し時を遡って蜂起した河内門徒衆がどんな人々であったかを考察します。彼らはかつて石山御坊にいた蓮如と蓮能によって教化された人々でした。蓮如は細川政元への義理もあり、総州畠山義豊を支援するつもりで布教を進めていたと考えられますが、その義豊は尾州畠山尚順によって討ち取られ、それに前後して蓮如も寂してしまいます。遺された蓮能とその実賢を筆頭とする子供たちは畠山旧宗家の血を引いていました。彼女たちの立場で、戦乱の河内国で何かを働きかけようとするならば、それは尾州畠山家と総州畠山家との和睦を進め、平和を実現することであったと考えられます。そして、それは実現しました。1504年末、尾州畠山尚順と総州畠山義英は和睦にいたします。しかし、その和睦は細川政元にとってすこぶる都合の悪いものでした。細川政元は時の本願寺法主実如に畠山討伐を命じます。蓮能はこれにあらがいますが、実如は加賀門徒衆を河内に派遣し、石山御坊の蓮能一派を拘束することで細川政元に協力します。そして細川政元は赤澤宗益・三好之長の二人を派遣して、大和・河内を蹂躙しました。その後細川政元が暗殺されて周防に逼塞していた足利義稙が上洛すると、細川高国と尾州畠山尚順がそれに味方し、河内国は尾州家が支配するようになりました。しかし、1527年(大永七年)に細川高国が内紛によって京から没落し、畠山稙長(尚順の子)も柳本賢治に攻められ、紀州に没落します。柳本賢治ら堺幕府派はここに総州畠山義堯(義英の息子)を置いて河内を支配させたわけです。

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 拘束された蓮能とその息子たちに対するその後の本願寺における扱いは冷たいものでした。彼女たちは破門を言い渡された後、三年後に一応は許されます。細川高国治下で恭順することで生き残った本願寺は体制固めを行い、法主との血縁の近さで家門の序列を定めたのですが、法主実如の兄弟たちには「連枝」の家格が与えられたものの、蓮能の息子たちにはそれより一段落ちる「一家」の家格があてがわれたのです。彼女たちは石山御坊に戻ることは許されず、各自の寺院があてがわれました。その一人の実悟などは早い時期に加賀三ヶ寺の一つ、本泉寺の蓮悟の養子として迎えられて本泉寺の後継者と目されていました。大坂一乱の折には加賀にいて無関係だったのですが、あおりを受けて後継者の立場を外され、末寺に追われる目にあいました。蓮如・蓮能によって教化された河内門徒衆を長く支配したのは畠山尚順・稙長ら尾州畠山家の面々でした。総州畠山義堯は細川高国の都落ちで河内を任されたにすぎず、尾州派の残党も国内にいて不安定な状況でした。

  さらに悪いことに京都や堺においても指導者層の内輪もめで誰につけば安心であるかをはっきり示す人物はいませんでした。そんな中に現れたのが証如だったわけです。形勢としては、総州勢が畠山義堯派と木澤派に分裂して争っていたところを旧尾州派の門徒衆が証如を担いで襲い掛かったというところでした。木澤長政はこれによって命を救われましたが、河内の支配者はいなくなってしまったのでした。証如は返す刀で門徒衆を堺に向かわせ、三好元長を屠ると山科本願寺に戻ってしまいます。茨木長隆の策は、手術で病巣を取り除いたものの、開腹した傷口を縫い合わせもせず、そのまま放置したに等しい所業でした。

  この頃の本願寺兵は軍団の体をなしておらず、それぞれがそれぞれの利害で動く連中でした。彼らにとって国境を接する大和国は尾州畠山尚順と大和国人衆が同盟を結んでいたこともあり、尾州畠山家旧臣でかつ門徒衆である彼らにとっては勢力範囲の一部でした。そして、彼らの大和衆への働きかけは興福寺への狼藉という最悪の結果を生み出すことになります。ではどのような大義が彼らにあったか、それを端的に示すのが尾州畠山稙長の存在です。彼は桂川原合戦後、柳本賢治に河内を追われて紀州に潜伏していたのでした。そして、河内門徒衆の興福寺襲撃に前後して攻め滅ぼされた総州畠山義堯が拠点としていた高屋城に遊佐長教に守られながら、こっそりと入っていたのでした。後に三河一向一揆を起こす三河門徒もそうでしたが、河内門徒衆も王法を体現する領主と仏法を体現する法主に両属していたわけです。
 証如と蓮淳は興福寺襲撃と言う暴挙を止めにかかりますが、収まらなかったのは、この場はより都合のよい王法の主人に従ったにすぎなかったでしょう。あるいは、大坂一乱で蓮能一派を捕縛したことも影響しているのかもしれません。彼らは仏法の楽土を築くために門徒衆は蜂起したのであって、細川家の走狗になりたかったわけではありません。説得は難航し、それより早く幕府の方が先に本願寺全体を敵認定してしまいました。

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 木澤長政はいち早く総州畠山義堯の遺児在氏の身柄を確保すると、自らの居城飯盛山城に置きます。木澤長政にはそうしなければならない理由がありました。すなわち、彼の配下にも門徒衆がいたはずだからです。こと河内での戦いの局面において本願寺対幕府の形にしては総州家を二つに割ってしまった木沢勢は自派から門徒衆をぶっこ抜かれ、動乱の渦にのみこまれていたことでしょう。総州畠山在氏にとって木澤長政は親の仇でもあるのですが、彼自らが手を下したわけではありません。結果として彼は木澤長政の傀儡となってしまうのですが、木澤長政の保護下に入ることで総州畠山軍団は再びまとまることができました。そして木澤長政は尾州派河内門徒の拠点である浅香道場を襲撃します。これの報復として本願寺坊官下間刑部太夫が堺を襲いますが、これを返り討ちにしたのが木澤長政でした。

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2017年12月 2日 (土)

中漠:晴天航路編②木澤のオッサンの唄Ⅰ

 戦国時代の畿内における権力抗争はまことに凄まじく、敵味方が簡単に入れ替わってしまいます。そんな中でひときわ異彩を放っていたのが、中世人離れした価値観の持ち主である赤澤宗益や宗益の振る舞いに新たな価値を見出そうとした古市澄胤などの一代英傑たちでした。その延長線上に位置する傑物で天文錯乱に大きくかかわり、歴史にひときわ大きな光彩を放っていた人物を本稿にて紹介したいと思います。名を木澤長政といいます。彼は毀誉褒貶の激しい人物ではありますが、戦国時代を語るに欠かせない英傑の一人であると思います。

  木澤長政の前半生は不明です。ただ、同じ木澤姓の人物が畠山持国に仕えていたことが確認されておりますので、その縁者ではないかと思われます。応仁の乱からこちら主家畠山氏は尾州家と総州家に分裂して飽くことのない戦いに明け暮れていました。鷲尾隆康の日記である二水記の1530年(享禄三年)十二月十八日の記事によると、彼は元々畠山家の被官であったが、命令によって遊佐某を生害した後に出奔。その後細川高国の被官人になり、河内で活躍して堺の細川六郎に仕えることになったという意味の記述があります。この頃、木澤長政は暗殺された柳本賢治の後釜として京の治安を守る任を得ていました。これはあくまでも上洛した木澤長政の来歴を噂として書きとめられた話で、正確であるかどうかはわかりません。

 木澤長政は畠山総州家の義堯に仕えておりました。桂川原で都落ちした細川高国が浦上村宗と組んで上洛戦を挑んだ時、京を守っていた柳本賢治が播磨に出陣、その留守に京を守るように言いつけられたのが、木澤長政でした。畠山家は応仁の乱以前は山城守護を任されていました。それ以後、明応年間には配下の遊佐弥六を送り込んだりして、チャンスを見ては南山城への影響力を確保しようと工作しております。木澤長政の在京もその一環であったのかもしれません。京に入った噂については、遊佐弥六のように畠山家の干渉ととられることを避けるために敢えて細川家被官の立場を強調したとも考えられます。

 柳本賢治は播磨であえなく暗殺の憂き目にあい、その結果、高国・村宗連合は勢いづいて京都も占領されかけます。そんな中、京を守っていたはずの木澤長政はいつの間にか行方不明になりました。高国・村宗連合は結局中嶋の戦いで敗れ、大物崩れで全滅します。そのタイミングで元高国派の重鎮で細川六郎(晴元)に寝返っていた細川尹賢を摂津で捕縛して殺害しています。この功をもって京の防衛を放棄した罪は許されたようです。ただし、許してくれたのは細川六郎とその側近衆であって、主君である総州畠山義堯からしてみれば、細川も柳本もいない京を確保する絶好のチャンスをみすみす逃したことになるのでしょう。彼の祖父にあたる義豊も南山城に家臣の遊佐弥六を派遣して既成事実づくりを試みましたが、その時は細川政元配下の赤澤宗益に蹴散らされました。国境に高国方の六角軍がいたものの、やりようはあったのかもしれません。

 しかし、それは結果論です。前例として大内義興を引き連れた足利義尹(義材・義稙)が京を席巻した前例もあり、誰も大物崩れなどの大番狂わせが起こるなど予想の立てようもなかったはずです。ともあれ、細川高国と浦上村宗が排除されたことによって、実質的には三好元長が幕政を仕切る路線が確定しました。将軍候補の足利義維と管領候補の細川六郎がどちらも若年であったためです。いち早く総州畠山義堯は三好元長を支持いたしますが、丹波や摂津の国人衆は三好之長の孫の台頭に眉をひそめました。木澤長政もその一人です。そんな空気を読んで三好一門衆の中から三好政長も同調して元長いびりを始めます。三好元長は戦争に強くて補給指揮にも優れた軍人でしたが、煽り耐性にかけていたようです。京で政治的に敵対していた柳本賢治の息子、甚次郎を討ち取ってしまったのです。このことが細川六郎と三好元長の関係を決定的に悪化させてしまいました。しかも、六郎の傍には変節した一門衆の三好政長や摂津国人茨木長隆、そして木澤長政も控えていて反三好元長ラインを形成してしまいます。阿波守護に保護されていた恩も忘れて細川六郎は摂津・河内国人衆の手の内に入ってしまったのでした。しかし、それは総州畠山義堯の頭ごなしに行われていたことでした。ですので彼は三好元長と諮り、木澤長政が籠もる飯盛山城を攻めます。この攻城戦には三好元長は一門の一秀を援軍によこします。彼は元長の大叔父、つまり三好之長の弟にあたる人物です。木澤長政にしてみれば普通に考えて勝てる戦ではありませんでした。

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  絶体絶命の木沢長政に助け船を出したのは細川六郎の右筆筆頭茨木長隆でした。彼の縁者の妻が本願寺教団の幹部である下間氏出身者であったらしい。彼は下間氏を通して証如を動かしました。木澤長政はその時、畠山義堯に攻められていて関与は出来なかったものと思われます。証如は自ら摂津闕郡の石山御坊に入って摂河泉の門徒衆に号令をかけました。証如は蓮如の曾孫にあたり、名望も高かったこともあるでしょう、何より自ら石山まで出向いたことが身業の報謝行、すなわち本願を果たしてくれる阿弥陀如来に対して行動で感謝の意を示すこと、を促す結果になったのです。証如の檄に呼応して蜂起した摂河泉の門徒衆の規模は半端なものではありませんでした。津波の如く飯盛山上を包囲した畠山・三好連合軍を飲み込んで後には何も残さなかったのです。

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2017年11月25日 (土)

中漠:晴天航路編①はじめに

 本編のタイトルは中国三国志の時代を描いた『蒼天航路』のパクリです。『蒼』が示すのは言うまでもなく中国の漢王朝ですが、蒼天航路は曹操を始めとする乱世の群雄達の生きざまを活写した名作です。そのひそみに倣い、本編の『晴』が示す室町十二代将軍足利義晴と木澤長政ら同時代を生きた群雄達の活躍について以前の稿とは視点を変えつつ描写を試みたいと思います。
 蒼天航路の蒼は漢王朝を指すにも拘らず、実は曹操の生涯を描いた物語であったように、本編「晴天航路編」の主人公は足利義晴ではありません。三好長慶の前半生を軸に入れ代わり立ち代わり登場しては消え去っていった一代英傑達の生きざまをちりばめつつ進めてまいります。とはいえ、本編の冒頭においては晴天に象徴される足利義晴の治世を俎上に上げて、この時代がどのような特徴を持っていたのかを素描いたします。

 足利義晴を始めとしてその時代を生きた群雄達に決定的に欠けていたもの。それは正統性でした。足利義晴が永正八年に生まれた場所は京ではなく、父義澄の亡命先である近江国水茎岡山城でした。義澄を近江に追いやったのは彼が将軍職につく前に将軍を務めていた足利義尹(義材・義稙)です。

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 つまり足利義澄はクーデターを起こした細川政元に祭り上げられた傀儡であって、足利義晴の父の時点で正統性は希薄なものでした。細川政元もまた香西元長・薬師寺長忠らのクーデターに巻き込まれて暗殺され、後ろ盾を無くした義澄は前将軍足利義尹(義材)の逆襲を受けて近江に亡命を余儀なくされていたのでした。足利義晴は亡命先で生まれた子供ですが、そこで生まれた子供は彼一人ではありませんでした。彼が生を受ける二年前、彼の母とは別の女性が足利義澄との間に産んだ子供がいました。長じて足利義維と名乗ります。系図史料では弟ということにされていますが、実際は異母兄だったようです。
 政権を奪回した足利義尹とその手先となった細川高国の方針は基本専守防衛であり、正面切って足利義澄を滅ぼそうとはしませんでした。その足利義澄のために阿波の細川澄元と三好之長らが京奪還のために戦いを仕掛けますが結果として義澄は将軍職に復することなく、近江国水茎岡山城で亡くなります。旗頭の足利義澄がいなくなると、南近江の六角高頼は京の足利義尹と和議を結んで義澄の二人の遺児を細川高国に引き渡しました。
 細川高国はこのうちの亀王丸(後の義晴)を播磨の赤松義村に預けました。この赤松義村はこの後浦上村宗に下克上を食らって殺害され、足利亀王丸は浦上村宗の預かりとなります。この時点で足利亀王丸こと後義晴は将軍職を継ぎようが無くなっていたはずなのですが、ここで運命の大逆転が起こります。

 まず足利義稙(義材→義尹)には実子がおりませんでした。そして彼の政権は常に阿波の細川澄元と三好之長の侵略を受け続けておりました。彼の家臣細川高国、大内義興、畠山尚順らは義稙を盛り立ててこの侵略に抗っていましたが、阿波勢は武力行使だけではなく不満分子に対する調略も隙あらば試みておりました。そしてその調略にひっかかったのが、あろうことか足利義稙本人だったのです。
 この時点で阿波勢は足利義澄という自らの旗印を失っております。細川澄元と三好之長らが細川高国を打ち破ったとして、将軍がいなければ政権の体をなしません。そして細川高国の政権も長期にわたって人々は惓んでおりました。周防の大内義興も平和にかかるコストに耐え切れずに本国に引きこもってしまった今、強力な政権に再編するためには、阿波勢と組むこともありではないかと足利義稙は考えてしまったのでした。

 1520年(永正十七年)に京に向かって攻めてきた阿波勢に細川高国はいったん京を明け渡すことを足利義稙に提案しますが、義稙はそれを拒絶して阿波勢を迎え入れます。しかし、阿波勢の総大将の細川澄元はこの時死病にかかっておりました。阿波軍が統制を欠いた間隙をついて細川高国は反撃に転じ三好之長を等持院で補足してこれを討ち捕ります。そして細川澄元も阿波に戻って間もなく亡くなり、阿波の脅威が無くなったのでした。この想定外の展開に足利義稙は細川高国に対する面目を失い、京を出奔します。
 足利義稙が阿波に落ち延びた際に足利義澄の遺児の一人を自らの後継者としました。彼が選んだ後継者は足利亀王、元服して義賢、後に義維と名乗ります。つまり、もう一人の遺児であった亀王丸こと足利義晴は選ばれなかったのでした。しかし皮肉なことに、ここで足利義稙に選ばれなかったことこそが、足利義晴を将軍職に就任させた決定的な理由となりました。

 すなわち、京に残された細川高国が足利義稙がいなくなった後、後継の将軍として播磨にいた足利亀王丸を選んだのでした。細川高国ももともと細川政元の三人いた養子の一人とはいえ本来は政元の後継者としての期待はされていなかったのですが、足利義尹(義稙)に選ばれたことで管領職につくことができた人物でした。政元自身が自らの後継者として選んでいたのはライバルとなった澄元の方でした。なので、彼もまた正統性を欠いていた人物の一人です。すなわち、本来管領になれるはずのない人物が将軍になれるはずのない人物を将軍に祭り上げたわけでした。だれもがドンびくほどの正統性のなさです。しかし、ここで足利亀王丸=義晴の正統性の保証を買って出る人物が現れます。禁裏にいる後柏原天皇です。彼は践祚の後、ずっと即位の礼を開くことができていませんでした。主にスポンサーである足利義稙が出費を惜しんだためです。なので後柏原天皇は皇位にありながら出費を切り詰め、本願寺などの大口スポンサーを得て即位の礼のための準備を少しずつ整えていたのでした。にもかかわらず、足利義稙の出奔によってその即位の礼の実施がさらに遅れそうになってしまいます。これにブチ切れた後柏原天皇は即位の礼挙行と引き換えに足利義晴の将軍就任を認めたのでした。

 足利義稙も阿波で亡くなり政情は一時安定したようにも見えます。ところが、細川澄元や三好之長が死んでも、調略の手が鈍らないのが阿波勢でした。今度は細川高国の一門衆細川尹賢と丹波国人衆との諍いに乗じて丹波国人衆を味方につけたのです。これにはたまらず、細川高国は足利義晴と共に近江国朽木に落ち延びました。そして再び阿波勢に対抗するために策をめぐらせることを強いられます。足利義晴は自らを将軍に選んだ細川高国と将軍であることを保証した後柏原天皇から引き離されて朽木に閑居することを強いられます。
 政局は一寸先は闇。何がどうなってもおかしくないほどの不安定さを露呈していたのでした。本編では足利義晴が都を追われて以降に入れ代わり立ち代わり現れ、儚い輝きを放って消えていった群雄達を描いてまいります。

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2017年2月26日 (日)

中漠:林下編Ⅱ⑭戦国時代中盤の大徳寺の生存戦略

 今まで述べてきたとおり、妙心寺は独立後に着々と戦国大名をパトロンにつけて地盤を固め、ついには今川・武田二大勢力の政治顧問を自派から輩出するようになります。その様なことをせざるを得ないのも、ひとえに両細川の乱によってかつて妙心寺の後ろ盾になっていてくれた細川家が疲弊して、天下に号令する力を失ってしまったからでした。

 もう一方の林下の巨頭、大徳寺派臨済宗の活動方針は概ね妙心寺に似た感じでした。戦国大名に取り入って地元に寺院を建てたり、本寺の敷地に塔頭を作ったりして、ゆくゆくは政治顧問的な役割を担おうか、と言った感じです。妙心寺のやり方と比較すると、比較的負担をかけないやり方でした。
 大徳寺がアプローチをかけたのは、伊勢亀山国人領主の関氏、豊後の大友氏、能登畠山氏そして三好氏です。軽く触れておきますと、関盛衡には大徳寺内に塔頭正受院、豊後の大友義鎮には同じく塔頭瑞峯院を建立しております。ただし、大友氏に関しては若干考察を加えなければならないことがありまして、瑞峯院の創建は1535年(天文四年)だったりします。この時、開基であるはずの大友義鎮は六歳児でしかありません。元服すらもしておらず塩法師丸と呼ばれていた頃でした。大友義鎮が宗麟という大徳寺派風の法号を名乗るのは、これよりずっと下って1563年(永禄六年)、三十七歳になってからです。よって、これは寺伝によくある何らかの意図をもった改変でありましょう。
 
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 そのあたりの事情を考察するために、この頃の大徳寺の状況を素描しますと、大徳寺の歴代住持たちによる本寺内に塔頭寺院建立は、法流の派閥化にもなっているのですね。陽峯宗韶の龍泉庵に始まって、東溪宗牧の龍源院、古嶽宗亘の大仙院などが作られたのですが、そこに自らの直弟子たちを住まわせてそこから大徳寺住持候補を出すようになったわけです。すなわち、臨済宗大徳寺派の中に派中派を作ったようなもので、それぞれ塔頭寺院の名をとって龍泉派、龍源派(南派)、大仙派(北派)とよばれました。これに一休宗純の弟子たちの拠点となっていた非主流の塔頭寺院真珠庵の系統(真珠派)を加えて大徳寺四派とも総称されております。ではなぜ派中派などを作るようにしたのかと言えば、おそらくは二度と関山派等、彼らにとっての外部勢力に住持職をとらせないようにするためであろうと思います。
 細川政元が斃れ、両細川の乱に突入することで幕府管領の力は衰え、それと機を一にして妙心寺は大徳寺とは別の寺院として独立し、当面の危機は脱したものの、幕府が秩序を回復すればいつまた妙心寺が大徳寺住持の座を狙ってくるかもしれません。その際に寺域内に塔頭を立てておき、歴代住持をそこの出身者に限る慣例を作っておけば、その予防となると考えられたのではないでしょうか。それぞれの塔頭に有力大名の外護があれば、その影響力を行使することもできます。そもそも、妙心寺自身が地方にウイングを広げて影響力の確保を模索している状況でしたので、それに対して四の五の言っている状況ではなかったわけです。別の時代に類例を探すなら江戸期紀州家出身の八代将軍徳川吉宗が、自らの子息に御三卿を名乗らせて江戸城中に住まわせたことが似てるかもしれません。それ以前は徳川宗家の血が絶えた場合は尾張・紀州・水戸の御三家より後継を出す慣例あったのですが、その決まりによって将軍家を継いだ吉宗がその慣例を無効化するために編み出した戦術でした。それ以後、幕末の家茂まで御三家出身将軍の出現は阻止しおおせたのでした。

 大徳寺寺域内に塔頭興臨院を建立したのは、能登国守護の畠山義総でした。この頃の能登は正面の越中国で本願寺派と分国守護の長尾為景が抗争を繰り広げており、その対立に対して第三者的立場をキープできたので比較的安定しておりました。宗家の総州家と尾州家は没落しつつある中、なんとか勢力維持しつづけております。
 大徳寺が非業の最期を遂げた三好元長のために堺に南宗寺を建立したのは、北条氏綱が今川義元との抗争した後、彼の孫の三好長慶が細川晴元を打倒して畿内の実権を握った後のことです。天文初年の時点では北条氏綱を除いて大徳寺はさしたる勢力をもったパトロンを有しているわけではありませんでしたが、大徳寺に武野紹鴎という茶人が参禅するにあたって、クリーンヒットを放つ糸口をつかみますが、それはまた次稿にて紹介したいと思います。


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