2020年9月 5日 (土)

中漠:善人令和編㉙平島公方の冒険


 三好家は足利義冬(義維)を将軍職につける気はない。そのことを悟った足利義冬は阿波を出奔することにしました。三好家が足利義冬に対して冷淡な態度をとり続けている理由はよくわかりません。三好兄弟の父、元長が死んだ時に彼だけが生きて帰ってきたことに割り切れない思いを抱いてしまったせいなのかな、とも思います。何しろあの細川六郎ですら、天文錯乱の阿鼻叫喚の中、畿内に踏みとどまって戦ったのです。その姿がどんなに無様なものであったとしても、堺公方よりは胆力を持ち合わせていたことは確かでしょう。細川六郎も一時は淡路に退避していたのですから、せめて三好千熊丸が畿内に戻った時に行動を共にしていたとすれば、細川六郎が足利義晴に取り込まれるブレーキにはなったに違いありません。

 堺から退去した後、名前を義維から義冬に変えて阿波国平島の地で隠忍の日々を過ごすも未練は残っていたようで、1547年(天文十六年)頃に細川氏綱の挙兵に呼応した足利義晴が都を追われたタイミングで足利義冬は堺に再上陸しています。しかも、堺幕府を滅ぼした張本人の本願寺証如に上洛のあっせんを依頼するという節操のなさを見せつけてきました。この時は本願寺が金を払ってお引き取り願ったわけですが、それでも諦めきれなかったようです。

 保護者であった細川持隆が三好之虎・十河一存に討ち取られ、三好一族が公儀となっても足利義冬を公方として京に呼ぼうという話は出てきません。細川氏綱だけでも荷物で彼が出す命令のフォローもできなくなっているのに、畿内に三好家と被らない人脈を持たない公方様を戴くことは三好家にとって危険行為に他なりません。もっとも、三好家は自家の存続に汲々としていて阿波公方のことは考えてなかった可能性も無きにしも非ずです。1547年(天文十六年)の時もそうですが、阿波出奔を止めたり、追いかけたりした話がないのですね。ことによると淡路水軍の安宅冬康が関与していたかもしれません。偶然かも知れませんが三好兄弟の中で平島公方と同じ偏諱を持つのは彼だけで、後世において仁将の評判が高い人物と評されています。平島公方の境遇に同情したのかも、とも思うのですが状況からの推察にすぎません。

 行き先の心当たりはありました。防長太守大内氏です。足利義冬にとって妻の実家でした。かつて、大内義興が養父の流れ公方だった足利義尹(義材・義稙)を担いで上洛し、将軍職につける助けをしました。あわよくば自分もそうなるかもしれないという期待もあったと思われます。阿波細川家は足利義稙を迎え入れて以降、防長の大内氏とは昵懇の関係になりました。細川持隆の正妻は足利義冬の妻と姉妹でした。なので頼っても少なくとも邪険にされることはないと踏んでのことだったと思われます。京の街は細川晴元が焼き尽くしてしまいましたが、大内氏の本拠地山口は将軍家から分捕った勘合貿易の貿易港博多から上がる利益により大いに潤っておりました。戦乱を経ていない分京都よりは住み心地が良く、金回りの良い分阿波平島より繁栄している筈でした。

 しかし、足利義冬が向かった頃の大内氏は見る影もなく衰退していました。最盛期の大内義興はとっくに亡くなっており、後を継いだ義隆も重臣陶隆房(のち晴賢に改名)の反逆で討ち取られてしまいました。この時、細川晴元、武田晴信、本願寺証如の妻の父である転法輪三条公頼も巻き添えを食って死んでいます。そして、陶隆房は大内義隆に代わって九州豊後の大友義鑑の息子(大友宗麟の弟)を後継にすえます。大友義鑑の妻も大内義興の娘であり、大内氏と大友氏は姻族でつながっていました。大内義隆は大友義鑑の子供である義英を猶子にしていたのです。ただし、義英の母は大内義興の母ではなく、公家の坊城氏出身の者でした。なので血のつながりはありませんが、陶隆房は相続権のない猶子を無理やり養子ということにして大内家の後を継がせたのでした。足利義冬を受け入れたというのも、陶晴賢が少しでも権威づけをしたかったのでしょう。

 しかし、この陶晴賢の戦略は足利義冬が山口に入って半年もしないうちに破綻します。周囲を武断政策で威圧していましたが、毛利元就と厳島で戦い、討ち死にしたのです。その後大内義長は三年間防長二国を持たせますが、毛利元就が満を持して攻め込むと、大内家はあっけなく滅びます。その結果、毛利家は防長二国を手に入れ、大友義鎮も博多港を手に入れたのでした。自動的に足利義冬も毛利氏の保護下に入ったわけですが、毛利元就なり隆元なりがこの奇貨をどのように扱ったのかはわかりません。

 1563年(永禄六年)に三好長逸が足利義冬を迎えに来たため、足利義冬は阿波に戻ります。この前年に三好実休は久米田合戦で戦死しており、三好家も彼を本格的に使うことができる状況が整いつつありました。奇妙なことに、この同じ年の八月四日に毛利家家督の隆元が急死しております。もし毛利家が足利義冬を利用しようとしていたなら、隆元の死がその方針を変えさせたのかもしれません。その証拠にその二年後の1565年(永禄八年)二月十六日に隆元の子の幸鶴丸は足利義輝の偏諱を得て義輝と名乗るようになるのですが、同じ年の五月十九日に足利義輝は二条御所にて三好長逸ら三好三人衆によって討ち取られます。そして、そのころまでに中風に罹り健康上の問題を抱えた足利義冬に代わり、息子の義栄が将軍に擁立されるに至るのです。

 このあたりの毛利家と三好三人衆との間でどのような駆け引きがあったのか、興味深いところです。

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2020年8月29日 (土)

中漠:善人令和編㉘芥川城入城


 東山霊山城合戦に勝利した三好長慶は、そのまま兵を摂津に戻して芥川攻城戦を続行します。この城を守る芥川孫十郎はここまで追い詰められるまでに何度か降伏と挙兵を繰り返していましたが、年貢の納めどきは近づいていました。
 三好長慶はここまでやっても芥川孫十郎を討ち取ろうという気は起きていませんでした。江口合戦においても三好宗三への最終攻撃をためらっていた三好長慶ですが、ここでも同じ癖が出ています。対する芥川孫十郎も、阿波細川持隆が三好之虎・十河一存兄弟に殺害され、都に迫っていた細川晴元勢が足利義藤ごと敗北したことに限界を感じざるを得ませんでした。
 
 その結果、東山霊山城合戦と同じ月の八月二十二日に芥川孫十郎は芥川山城を開城します。芥川山城は淀川支流の芥川に三方を囲まれた三好山(この後三好長慶が芥川山城に入ることでこう呼ばれます)にあり、芥川自体は川幅数メートル程度の小さい川なのですが、山中の川が生じさせた浸食作用のせいか三好山側の川岸は切り立った崖になっています。そのせいで攻城に手間がかかるかといえば、周囲の山が三好山より高いため、押さえること自体は容易です。いわんや万単位の軍勢を集めることができる三好長慶であれば、攻め落とすことは楽勝なはずなのですがあえてそうせず、芥川孫十郎の心が折れるまで待ちました。このあたりとても三好長慶らしいと思います。行き場を失った芥川孫十郎は三好之虎を頼って阿波に立ち去ったと伝えられていますが、その後の消息は不明です。主君である細川晴元を見捨てられずに宗家に反逆した芥川孫十郎にとって、宗家に役に立とうとして主君である阿波守護細川持隆を殺害した三好之虎とは思想的に相容れないはずです。考えられることと言えば、宗家を裏切る罪を犯した罰を求めての阿波行きであったのかもしれません。もしそうだとすれば、もの悲しさを感じざるを得ません。

 ここまで三好長慶は西摂津の越水城を拠点にしてきましたが、京の騒乱が立て続けに起こり越水城の遠さを感じざるを得ませんでした。その点、北摂津にある芥川城は摂津国中で最も京に近い場所にありました。芥川山城から芥川を下り、西国街道と交差するあたりに支城があり、ここも芥川城と呼ばれていました。平時はここを拠点とし、敵から攻められたときに山城に籠もるようになっています。そして、西国街道を西に下ると摂津国を横断して越水まで一本道です。三好長慶は越水城から芥川山城に拠点を移すことにしました。ここはかつて細川晴元も天文錯乱の頃に拠点としたことがあります。もちろん、現在はなりを潜めていますが、越水から京に向かう西国街道の途中には江口合戦では晴元に味方していた伊丹氏や、三好宗三と血族関係を持つ池田氏など、一筋縄では行かない国人衆がいますが、越水と芥川から挟撃できるので彼らへのにらみにもなります。また、芥川を船で下るとそのまま淀川に出ることができ、榎並、大物、堺まで陸路を使うよりも短時間で到着することが可能です。

 無論、欠点もあります。京へのルートを確保するためにはここだけを押さえても足りないということです。芥川城を東に向かい、山城国境に向かうためには桜井宿を通る必要があり、そこから大山崎を抜ける必要があるのです。桜井宿は太平記の中で湊川合戦に向かう楠木正成が息子の正行に教えを垂れて離別した桜井の別れで有名な所です。桜井宿と芥川城の間には淀川右岸の鵜殿の葦原と若山に挟まれた切所があり、さらに桜井から山城国に入るには同じく山と川に挟まれた大山崎の切所を通らねばなりません。大山崎を麓とした山は羽柴秀吉と明智光秀が戦った天王山で、ここに山崎城という山城があったそうです。大山崎からの淀川対岸には男山八幡宮があり、大山崎の油座の利権を保有していました。故に、京へのルートを確保するためには桜井宿、山崎城の確保とともに、男山八幡宮への目配りも欠かせなかったわけです。

 その他には、芥川城の眺望の問題もありました。芥川城は三好山に建てられ、芥川を天然の堀とし、断崖上に城郭のある山城ではありました。左右に山裾が広がっているとともに、それらの山は三好山より標高が高く、死角の大きい地形でした。三好山自体に防御力はあるものの、周囲の山より低いため、奇襲に弱そうな立地です。また、山城国境近くににある城ですが国境の山地が邪魔をして京方面を直接見渡すことはできません。唯一視野の広がる南側への眺望は芥川流域や淀川が一望できるのですが、その向こうにひときわ大きく見える山こそが、かつての木澤長政の居城であり、今は安見宗房が城主を務めている飯盛山なのでした。飯盛山からは京の街はもちろん、摂津のほぼ全域を眺望することができます。三好長慶がこの時点でそれを羨んだかどうかはわかりませんが、三好長慶は芥川山城を新たな本拠地として、細川晴元への反撃を開始することとなります。

 

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2020年8月 8日 (土)

中漠:善人令和編㉗鷹山弘頼の謀殺


 1546年(天文十五年)は普段は待ちの姿勢を貫く遊佐長教が積極的に動いた年でした。鷹山弘頼と安見宗房が山城上三郡(南山城の三郡)守護代に任じられたのもその布石でした。遊佐長教は摂津衆にも調略を仕掛け、晴元の勢力を蚕食したため、細川晴元は兵を率いて摂津に下っていました。入れ替わりに氏綱派の上野玄蕃が上洛したのです。この時将軍足利義晴も裏で細川氏綱とつながっていました。目論見通りにいけば細川晴元を失脚に追い込めた筈ですが、上野軍は準備不十分な状況下の上洛だったため、兵糧を現地調達に頼らざるを得なくなり、それが京中上下の反発を招くことになります。上野軍の失策に呆れた管領代六角定頼は寝返ります。そして丹波から来た細川晴元軍が上野玄蕃を追い払うと、鷹山弘頼・安見宗房も京を撤収せざるを得ませんでした。

 その後、安見宗房はかつての木澤長政の本拠地である飯盛山城を任されます。細川晴元はこの時までに一時氏綱方に奪われていた芥川城を奪還していましたが、敵の本拠高屋城を攻めるために、芥川城ではなく、榎並城に兵を集結させました。この時、細川晴元軍の主力が四国勢と合流する都合を考えると榎並城の方がよかったことは確かですが、芥川城から南下し東高野街道経由で高屋城に向かう進路は、途中飯盛山城の突破を要し、そこにまともに戦う気がある武将が配置された状況下での進軍は無理だったということでしょう。かくて舎利寺近辺で合戦が起き、敗北した遊佐長教の野望は潰えたかのように見えました。そこに再び介入したのが六角定頼です。放置しておけば三好長慶は高屋城を落としていたでしょうし、細川晴元政権は盤石なものになったと思われます。それも、六角定頼は望まなかったのでしょう。

 遊佐長教はその期を逃さず三好長慶を引き込んで再戦を挑みます。江口が戦場になった時、これに六角定頼も呼ばれたのですが間に合わずに三好宗三が敗死、細川晴元も敗走して将軍と一緒に京を捨ててしまいます。策士策に溺れたというところでしょうか。遊佐長教の影響力は紀伊・河内だけではなく、畿内全域に広がりつつありました。ここから遊佐長教が暗殺される間の安見宗房の動向はよくわかりませんが、後の情勢を見るに、遊佐長教にもそれなりに評価される働きをしていたと想像できます。

 遊佐長教の暗殺は河内国に大きな動揺をもたらしましたが、一族の遊佐太藤が陣代となりました。遊佐長教の嫡男はいましたが、僅か四歳だったのです。そしてその直後に遊佐・三好連合と足利義藤との和睦が成立し、遊佐太藤はそのまま将軍足利義藤の御供衆に任じられます。そのため河内国人衆を掌握する時間的余裕はありませんでした。その結果遊佐家の内衆同志で抗争が起こり、安見宗房が萱振・野尻両家を乗っ取ったわけです。譜代の遊佐家内衆はこれを支持し、河内守護として畠山高政を継承させて粛清後の体制固めをしました。

 しかし、足利義藤と遊佐・三好連合との和睦は一年余りで破綻します。と同時に立場を保証する者を失った遊佐太藤は河内国内の権力基盤が弱かったため失脚します。畠山高政はこの時六歳の遊佐長教の嫡男に信教と名乗らせて守護代に任じました。安見宗房の主導だったことは疑いないでしょう。彼は河内代表として三好軍とともに細川晴元らと戦い、実績を積んでゆきました。

 その反面、鷹山弘頼は遊佐長教暗殺前後からこれといった活動をしていません。実は事件の前年の1550年(天文十九年)六月二十日、大和国最大の実力者である筒井順昭が寂しました。彼は病を得て自らの死期を悟ると、延暦寺に隠棲します。そして木阿弥という盲目の僧を影武者に仕立て、当時二歳の嫡子順慶が成長するまで自らの死を伏せ、木阿弥が代理で大和国を統治するよう命じました。筒井順昭は河内の木澤長政、遊佐長教の支援を得て大和国で勢力を伸張させましたが、死の翌年に遊佐長教が暗殺されることは想定外だったでしょう。影武者には世情を鑑みた柔軟な対応をとれる筈はなく、その指示は現状維持的なものになった筈です。河内と大和に両属する鷹山弘頼はこの激動の情勢下、自重するしかなかったでしょう。

 これが飯盛山城を拠点とする安見宗房には不気味に映ったのではないかと私は想像します。自分は死を賭けた政治闘争をしているのに、鷹山弘頼が協力しないのです。丹波でも摂津でも阿波でも戦いの種は撒かれていました。鷹山弘頼の領地、大和国鷹山および河内国私部は飯盛山の搦め手と大手にあります。これらの状況は安見宗房の心に疑心暗鬼を生んだのではないでしょうか。1553年(天文二十二年)五月、鷹山弘頼は高屋城に招かれ、その場で畠山高政より自害を仰せつかります。その旧領は安見宗房に接収され、安見宗房は河内国最大の実力者となるとともに、大和国との戦争の火種にもなってゆくのでした。

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2020年7月25日 (土)

中漠:善人令和編㉖鷹山弘頼と遊佐長教


 木澤長政が幕府の敵になった結果、鷹山弘頼は自らの存立基盤を脅かされます。当然、幕府からは木澤長政を見限れとの命令が来た筈です。鷹山弘頼はそれに従いました。摂津・山城との国境が近く、河内にも領地を持っている鷹山弘頼は現実的な判断をしたわけです。三好宗三・長慶率いる細川軍が東高野街道を南下して、木澤・遊佐が激突する高屋城を目指して迫っていました。細川晴元につくと決めたならば、何が何でも木澤長政を没落させるしかなかったでしょう。さもなければ、自身が木澤長政に報復されてしまいます。その為には総州畠山在氏がいる飯盛山城を何とかしなければなりませんでした。

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 飯盛山城は眼下に東高野街道を臨み、その向こうには深野池が迫る切所でした。深野池内には三箇城と呼ばれる水上施設が飯盛山城の支城として機能しています。飯盛山城の総州畠山在氏がその気になれば、南下する三好軍をある程度足止めすることは簡単なことだったはずです。現に高屋城攻略の為に軍を進めていた木澤長政は背後から迫っている軍が三好軍であるとはつゆほども考えていませんでした。
 鷹山弘頼と安見宗房が取ったと考えられる方法は、河内私部城から兵を出して深野池内の三箇城と飯盛山麓の野崎を抑え、三好軍の通行を可能にすると同時に飯盛山に使いを出して総州畠山在氏が木澤長政に加担しないよう説得することだったのではないでしょうか。

 実際、摂津芥川城から淀川を越えて南下した三好軍は飯盛山からの妨害を受けたという記録もなく、木澤長政と遊佐長教が激突しているさなかの高屋城近辺の戦場に間に合うことができました。そしてそれが遊佐軍勝利をもたらし、1542年(天文十一年)三月十七日に木澤長政は太平寺にて遊佐長教の兵に討たれたのです。飯盛山城の畠山在氏への交渉ははかどらず、翌年一月までかかって飯盛山城は開城しました。その攻囲軍の中に鷹山弘頼と安見宗房はいたものと思われます。三箇城・野崎の押さえはあくまでも想像にすぎませんが、太平寺合戦がらみの功績で鷹山弘頼が細川晴元から感状をもらったのは史実です。退去した総州畠山在氏の身柄は本願寺が預かることになりました。

 太平寺合戦の戦後処理では、色々な政治的な思惑が錯綜したことは間違いありません。細川晴元は自らの虎の子である三好宗三・長慶を投入して木澤軍を撃破したものの、大将の木澤長政を討ち取ったのは遊佐長教でした。もし、三好勢が木澤長政を討ち取っていたなら、河内北部は細川晴元の分国になっていたでしょう。結局、飯盛山城は破棄されて、河内国は遊佐長教に委ねられることになりました。それに伴い、鷹山弘頼・安見宗房は遊佐長教に従うようになります。とはいっても、鷹山弘頼は大和国にも属しています。彼は1544年(天文十三年)に筒井順昭の柳生城攻めに増援として参陣し、柳生城を攻め落としています。

 鷹山弘頼としては木澤長政の死を契機とした危機をうまく乗り越えて河内と大和に両属する小領主としての安寧を得たはずでしたが、遊佐長教はそれを許しませんでした。1545年(天文十四年)に尾州畠山稙長が没すると、遊佐長教は細川氏綱を奉じて細川晴元に反旗を翻します。摂河泉の国人衆に調略をかけ、自らの軍勢に引き入れました。鷹山弘頼と安見宗房に対して提示された条件は破格なものでした。山城上三郡を治める守護代の地位です。その意図は安見宗房を取り立てる為ではないかと思います。すなわち、中間あがりの軽輩である安見宗房を大和と河内でそれなりの地位を持つ鷹山弘頼とセットで扱うことによって、安見宗房により大きな権限を持てるようにする為の方便です。

 遊佐長教は戦国武将としてはあまり戦場に立ちたがらないタイプです。しかし、常に戦場以外の所で勝つ為の布石を打ち、一たび出陣するや高確率で勝ちを拾う軍才の持ち主でした。天文の錯乱で本願寺をボコり、木澤長政を討ち取った手腕はその最たるものです。むろん、その勝利をもたらしたのは本願寺の時は木澤軍の、木澤長政の時は三好勢の力を借りてはいるのですが、そこに遊佐長教がいなければ、木澤長政は太平寺合戦で負けても討ち取られる所まではいかずに戦場を脱出できたような気がします。そうなれば、歴史はまた変わっていたでしょう。そして、これは個人的な想像ですが、太平寺合戦の折に飯盛山城にいた総州畠山在氏に開城を説得したのは安見宗房だったのではなかったかと思っています。開城後の畠山在氏は本願寺の世話になるわけですが、遊佐の反逆を機に細川晴元方につくものの最終的に三好長慶・遊佐連合に没落を余儀なくされます。その息子の尚誠が大和に逃れたわけですが、その地が越智氏の所領高取城の近くでした。「オチカタドノ」の中間出身の安見宗房が越智氏に話をつけて居場所を作ったのかもしれません。

1542年(天文 十一年) 三月 十七日 太平寺合戦。木澤長政、戦死。
1544年(天文 十三年) 七月二十九日 鷹山・十市の援兵600人、筒井方として参戦し、柳生城攻略『多聞院日記』
1546年(天文 十五年) 九月 十三日 上野玄蕃(細川国慶)、上洛。
  この月 安見宗房、氏綱方の武将として史料に現れる。
  十 月 鷹山弘頼・安見宗房、氏綱方の遊佐長教に山城上三郡守護代に任じられる。



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2020年7月18日 (土)

中漠:善人令和編㉕鷹山弘頼と木澤長政


 三好長慶は1553年(天文二十二年)八月一日の東山霊前城合戦において単独で戦っていた訳ではありません。途中で安見宗房率いる河内勢と合流しています。しかし、その河内の状況は非常に流動的でした。安見宗房には相方として抜擢された鷹山弘頼がいた筈でしたが、この合戦には参戦していません。それもその筈、同年五月に高屋城にて謀殺されていたのでした。本稿では、そんな鷹山弘頼のプロファイルを追ってまいります。

 鷹山氏は興福寺の官符衆徒の一族です。大和国人は概ね興福寺の檀徒であり官符衆徒は僧形で興福寺に武力を提供する大和の名族でした。鷹山庄は飯盛山の北東にあり平安時代に歴代興福寺別当を輩出する一条院に属する荘園として開発されました。ただ、鷹山庄の官符衆徒鷹山氏が記録に出てくるのは戦国時代の前後当たりです。一応鷹山氏は源頼光の末裔を称しておりますが、真偽は不明です。応仁の乱の頃に大和に流れてきた山名氏の被官ではないかという説もあるそうです。

 鷹山家は官符衆徒としては後発なので、大和の国人同士のしがらみには囚われずに小回りを利かせました。例えば、明応の政変後の1498年(明応七年)、細川政元に味方する興福寺大乗院系官符衆徒古市澄胤に自らの居城鷹山城を提供して敵対勢力秋篠氏と戦った記録があるそうです。鷹山庄は一条院が開発した荘園でしたが、鷹山氏は大乗院系の古市澄胤に加担したのでした。その前年、古市澄胤は筒井氏と戦って敗れ、山城国に逃げていたのですが、この戦いはその復讐戦です。さらにこの翌年に細川政元の命を受けて延暦寺を焼いた赤澤宗益が大和国をも蹂躙しました。鷹山庄は山城・河内と国境を接していて京の動向、特に赤澤宗益のヤバさも把握しやすかったものと見られます。

 1523年(大永三年)頃には父親と目される鷹山頼慶が亡くなり、鷹山弘頼が後を継いだと見られます。この頃大和国で勢力を持っていたのは一条院系官符衆徒の筒井氏で、1528年(享禄元年)鷹山衆はその配下として薬師寺西塔を焼いたりもしています。享禄年中には鷹山庄近隣の飯盛山に木澤長政が入りました。その後木澤長政は主君畠山義堯と争ってこれを倒し、嫡男在氏を傀儡として河内支配権を得ます。

 飯盛山は深野池を眼下に見下ろし、北河内と摂津全域を見渡せる好立地にありましたが、鷹山城はその見晴らしの良い飯盛山の死角にありました。木澤長政が飯盛山で安住するためには鷹山氏との良好な関係維持は必須だったでしょう。この辺は想像ですが、木澤長政は鷹山弘頼を畠山在氏に引き合わせ、その被官として河内国私部城を任せることにしたと思われます。木澤長政は筒井順興・順昭親子とも仲が良く、大和国守護と自称できる程度には大和国人衆を結束させることができたのです。

 そのきっかけは、天文錯乱における一向門徒衆の大和侵入でした。この時長年筒井家と争ってきた越智家当主の家弘は居城高取城を門徒衆に襲撃されましたが、筒井順興・十市氏らの援兵で撃退できました。ともに外敵を撃退したという実績が越智氏の敵意を薄れさせたようです。その越智氏出身の妻女の中間(身の回りの世話係)がいました。越智家家臣中村圓賀の息子と言われていますが、彼の後年の立ち回りを見るに、周旋の才と教養を身に着けた人物でした。その出会いはあくまで想像ですが、筒井氏の関与があったのではないかと思います。この中間はこの前後に河内国星田に領地を持つ安見友重の養子となり、安見宗房と名乗ります。私部近隣の星田に大和国出身者が入ることで鷹山氏も勢力を固めることができたのではないでしょうか。

 将軍足利義晴、管領細川晴元を中心にして丹波・摂津・河内の国人衆がこれを支えるのが、木澤長政の政権構想であり、その実現に当時の幕閣の中では最も真摯に取り組んでいました。木澤家は元々管領家畠山氏の在京官僚の家系でした。政治的なセンスと知見は持ちあわせていたのですが、ぶっちゃけ細川晴元は管領の器ではありませんでした。山城・摂津・丹波三国の守護であるにもかかわらず、洛中は天文法華乱で焼き尽くし、政権維持に必要な武力を保持する家臣三好長慶を忌み嫌うなど、晴元自身がトラブルメーカーだったのです。そのマイナスをフォローしようと木澤長政は尽力したのですが、他の幕閣衆には警戒され、さらに足利義晴に利用されて幕府の敵扱いされるに至ります。同盟者である南河内の遊佐長教にも背かれ、木澤長政は二上城に入って遊佐軍と戦います。

 この時、木澤長政の本城である飯盛山城には総州畠山在氏がいました。彼は木澤長政の傀儡でしたが、河内国主の資格保有者でした。そして、その北方の摂津河内国境の芥川では遊佐軍と木澤軍の戦争に介入するために細川晴元が三好衆を従えて南下しようとしていました。飯盛山近隣の大和国鷹山・河内国私部を領して木澤長政を支えてきた鷹山弘頼にも転機が来ていました。

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〇鷹山氏関連年表Ⅰ

1470年(文明  二年)   鷹山頼栄、鷹山城を築く。
1498年(明応  七年)   竹林寺、兵火により焼失。古市氏が鷹山城を根拠として秋篠氏・宝来氏と合戦
1500年(明応  九年)   鷹山頼栄(二代)没『鷹山家略譜』
1504年(永正  元年)   鷹山頼秀(三代)没『鷹山家略譜』
1519年(永正 十六年)   鷹山頼宗(四代)没『鷹山家略譜』
1523年(大永  三年)   高山頼慶(五代)没
1528年(大永  八年)    鷹山・矢田・超昇寺の三人衆と秋篠氏との戦いで薬師寺西塔を焼く
1531年(享禄  四年)   木澤長政、飯森山城で畠山義堯と合戦する。
1540年(天文  九年)   鷹山頼春(一門衆)没(墓塔)
1542年(天文 十一年) 三月 十七日 太平寺合戦。木澤長政、戦死。



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2020年7月 4日 (土)

中漠:善人令和編㉔丹波内藤家の黄昏


 東山霊山城合戦が起こった同じ月の二十二日、芥川城に籠城していた芥川孫十郎が降伏・開城します。彼の妻は三好三好長慶の妹でした。三好長慶率いる二万五千の軍勢は将軍脱出後の東山霊山城をわずか一日で陥落させていますので、芥川城はその気になればいつでも落とせたはずです。時間をかけて籠城戦を行っていたのは身内意識があったためかもしれません。開城後、彼は三好之虎のもとに引き取られ、その後の消息はわかりません。

 これをもって三好長慶と足利幕府が取り交わした和議は破談となり、この和議によって京兆家家督として管領になった細川氏綱の立場が宙に浮いてしまいます。和議以降、細川氏綱は各所に書状を送り幕府の命令を伝えておりました。それは三好長慶らの添書を必要とするものではありますが、一応機能はしていたのでした。しかし、和議の破綻で細川氏綱の書状には価値がなくなってしまいました。氏綱の書状の効力は三好長慶がその実効性を裏打ちし、それを将軍足利義藤が認めるという均衡があって初めて成立するものでした。義藤を欠いた今、細川氏綱は三好長慶にとって荷物以外の何物でもありませんでした。それでも彼を支える理由は残っていました。それが丹波国八木城にいる内藤国貞の存在でした。

 内藤国貞は丹波守護代として細川高国に仕えてました。細川尹賢の讒言によって細川高国が香西元盛を誅殺し、その兄弟の波多野稙通、柳本賢治が反乱を起こした時、これに呼応して高国の追い落としにこそ加担しましたが、その実細川高国の復権に手を貸している節があります。京で政務をとっていた柳本賢治が播磨に進出した細川高国・浦上村宗らに暗殺された折、六角氏の支援を受けた内藤彦七が細川高国方として一時京を占領しています。その後細川高国が戦死してこの占領もとん挫しますが、波多野兄弟が担いだ細川六郎(後の晴元)も政権を掌握する前に本願寺の暴走を止められず危機を迎えます。そこで波多野稙通ら丹波国衆は細川高国の弟晴国を支援します。晴国が挙兵した高雄山は波多野稙通の居城八上城より、内藤国貞の居城八木城の方がより近い位置にあり、先に述べた内藤彦七と同様細川高国方として協力していたと考えてよいでしょう。その後、細川晴国は門徒武士の三宅国村を通して本願寺方について石山入りしますが、本願寺には細川晴国を上洛させる意思はありませんでした。そして本願寺は幕府に降伏し、晴国が亡ぶと、丹波国衆は細川晴元に服します。

 それから十年ばかりはこともなく歳月が過ぎ、河内の遊佐長教が細川氏綱を擁立すると、摂津・丹波の国人衆の一部はこれに呼応します。丹波国でいち早く細川氏綱支持を打ち出したのは内藤国貞でした。遊佐長教は三好長慶を味方に引き入れて京に進出。細川晴元と足利義晴・義藤親子を京から叩き出すも、自らは暗殺されてしまいます。三好長慶が遊佐を引き継ぎ、足利義藤の帰京を実現しましたが、細川晴元の抵抗は続きます。摂津・丹波の国人衆や阿波衆に働きかけてこれを分裂させることに成功します。三好長慶は細川晴元の丹波の拠点をたたこうとしますが、摂津・山城国境にある芥川城の芥川孫十郎が晴元側につきます。三好方の分裂は阿波にも及び、そのせいで阿波守護の細川持隆は三好之虎、十河一存らの手で殺されるに至ります。

 この分裂は内藤家にも及んでいました。先の東山霊山城合戦の前哨戦で三好勢が守る西院小泉城を攻めていたのは内藤彦七でした。彼は享禄年間には細川高国方として柳本賢治敗死後の京を一時的に占領していました。細川氏綱は細川高国の後継者として名乗りを上げた人物です。それゆえに内藤国貞は氏綱を支持しましたのですが、内藤彦七はこの時、細川晴元方の大将として三好勢に敵対したのです。この時丹波にも三好軍は入っていて率いていたのは松永長頼、松永久秀の弟です。彼は八木城城主内藤国貞の支援のもとで八上城にいる波多野晴通討伐をしていたのですが、八上城を囲んでいた間に香西元成・三好政勝は八木城を破り、内藤国貞を討ち取ってしまいました。

 八木城が細川晴元の手に落ちたということは、松永長頼は敵中に孤立し、京に駐留する三好勢も脅威にさらされることになります。その報を知った松永長頼はすぐに八上城の攻囲を解き、山陰道を引き返して一日で八木城を奪還しました。しかし、内藤国貞の戦死は細川氏綱にとって大きな痛手となります。氏綱を支えていた三好長慶、遊佐長教、安見宗房および、その父祖は細川高国の直臣だった経験はありません。摂津の国人衆は実質的に三好長慶の傘下に収まっている中、細川氏綱の唯一の譜代衆と言える存在だったのです。国貞には男児がなく、松永長頼は内藤家に婿入りして内藤宗勝と名乗って八木城を確保します。これによって、細川氏綱はますます政治的立場を小さくしてゆくことになりました。

 

1553年(天文二十二年) 正月__一日 三好長慶、足利義藤に拝謁するも、不穏な雰囲気を感じる。
八日 三好長慶、淀城に退く。この後、足利義藤と和解。
二月二十六日 三好長慶、清水寺にて足利義藤と会見。
反三好派幕府奉公衆からの人質を求める。
三月__八日 足利義藤と三好長慶が決別し、東山霊山城に籠る。
芥川孫十郎再度三好長慶に背き、摂津芥川城に籠城する。
十六日 細川晴元、挙兵
六月_十七日 勝瑞の変。細川持隆、三好之虎に討たれる。
七月____ 足利義藤、細川晴元を赦免する。
八月__一日 東山霊山城合戦。足利義藤、三好長慶に敗れて朽木に逃れる。
八月二十二日 三好長慶、芥川城を降伏させる。芥川孫十郎、阿波に退去後消息を絶つ。
九月 十八日 三好政勝、香西元成、丹波国八木城を攻落。城主内藤国貞、討死。
後、松永長頼が奪還。国貞子息貞勝後見として内藤宗勝と名乗る。

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2020年6月21日 (日)

中漠:善人令和編㉓将軍逃亡


 足利義藤が帰洛して以降、三好長慶は負け続きでした。そして負けが込んでくると、長慶の軍団は分裂の様相を呈してきます。その原因は三好長慶による細川氏綱擁立にありました。
 江口合戦までは三好長慶と細川晴元との対立が主軸で、細川晴元は三好宗三ではなく長慶を重用しろというのが三好側の言い分でした。三好宗三は細川晴元のお気に入りではありましたが、三好家の序列では一門の傍流にすぎません。長慶はその頃、細川氏綱を奉じる遊佐長教と組んではいましたが、建前としてはあくまでも摂津国人池田家への介入でしくじった三好宗三への処罰を細川晴元に求めたのが江口合戦の名分でした。

 三好長慶は江口合戦には勝利しましたが、結局細川晴元の屈服までには至りませんでした。そうこうしているうちに遊佐長教は暗殺されて、いつの間にか三好長慶が細川氏綱の保護者の立場となっていました。遊佐長教は三好長慶の岳父でしたから長慶には否応はありませんが、一門衆にとっては微妙だったのは間違いないでしょう。足利義藤にしても、細川晴元に都落ちさせられたものの、晴元単独では京都奪還は望めない。それどころか、五山派の総本山とも言うべき相国寺を燃やしてしまって『だめだこいつ、早く何とかしないと』状態になっていました。六角氏や朝倉氏などの義藤(と言うかその父親義晴)の与党の大名達は元々細川高国派でもありました。足利義藤にとって摂津・丹波、そして山城国からなる畿内中心部の主はべつに細川晴元でなくともよかったのです。しかし、この新体制は今一つうまく機能せず、長慶を中心とした三好家は割れて以前のように実力を従前に発揮できなくなっています。そう、細川晴元はぎりぎりまで追い詰められはしましたが、その後善戦していたのでした。

 さらに言うなら足利義藤の還京は伊勢貞孝の抜け駆けに引きずられたものでした。この人物は足利義藤への忠誠よりも、在京の利権を優先します。後にそれが露骨に表れた為に自滅する運命をたどることになるのですが、伊勢貞孝のこの行動は幕閣を真っ二つに割ることになります。当然足利義藤にとって愉快な話ではありません。三好長慶との戦いのきっかけになった、幕閣人質要求の対象者は反伊勢貞孝派です。要するに伊勢貞孝が三好長慶と結託して幕府を牛耳ろうとしているという構図でした。伊勢家も山城国一揆の頃には京兆家当主(政元から高国の頃)の言いなりでしたが、氏綱に貞孝を抑える力量がないのは明らかでした。

 1553年(天文二十二年)東山霊山城に入っていた足利義藤は七月になって密かに細川晴元を赦免します。それに呼応して細川晴元は洛北長坂口、船岡山に陣地を構築して気勢を上げます。この時は河内の安見宗房が撃退しますが、細川晴元の蠢動は収まりませんでした。この時三好長慶は芥川城に籠城する芥川孫十郎の説得の為、摂津・山城国境にいました。芥川城は西国街道を扼する要地にあり東側は淀川と天王山山系が接する切所なので、摂津越水から西国街道を進む三好長慶の進軍を阻みうる地形であることは確かなのですが、三月に蜂起した芥川孫十郎に対し、四ヶ月経ても三好長慶はこれにかかりきりでした。細川晴元が各地で三好方の切り崩しに成功している中、三好長慶は後手を踏んでいることは否めません。

 足利義藤は段階を一歩進めて細川晴元に洛中の三好勢の排除を命じました。七月二十八日、細川晴元軍に延暦寺・醍醐寺宗徒達が加わった一千の軍勢が洛中の三好家の拠点に火を放ちます。京中における三好方の拠点は洛中城塞外にある西院小泉城のみとなってしまいました。翌日、足利義藤は細川勢の出仕を求めます。現れたのは晴元の腹心である香西元成と丹波国人の内藤彦七でした。細川晴元軍は残る三好勢の拠点西院小泉城の攻略にかかります。

 三好氏の洛中拠点が焼かれ、西院小泉城が危地に陥っていることはすぐに三好長慶の耳に入り、芥川の囲みは一旦放棄して小泉城救援に向かいます。途中で合流した河内の安見宗房軍と併せて二万五千の大軍だったと言います。細川晴元軍を率いた内藤彦七は三好勢接近の報に戦意を失い、小泉城を攻め切れず、東山霊山城に引き上げます。内藤彦七が霊山城に帰った時、足利義藤はそこにいませんでした。すでに船岡山に撤退していたのです。

 八月一日、上洛した三好軍は東山霊山城に殺到し、これを陥落させました。大軍で囲んで鉄砲を打ち込み脅しをかけると守将の松田監物は自害し、城兵は総崩れとなって城を自焼きして撤退しました。足利義藤は帰る場所を失って朽木に逃れざるを得ませんでした。色々な所で三好長慶の勢力が分裂していたのは事実だし、細川晴元軍が度々洛中に侵入できたのも事実でした。しかし、細川晴元の抵抗はしょせんゲリラ的なものであり、足利義藤には晴元の勢力を誇大に見せていたのでしょう。足利義藤はまんまと細川晴元に吊り上げられたのでした。

 

1553年(天文二十二年) 正月__一日 三好長慶、足利義藤に拝謁するも、不穏な雰囲気を感じる。
八日 三好長慶、淀城に退く。この後、足利義藤と和解。
二月二十六日 三好長慶、清水寺にて足利義藤と会見。
反三好派幕府奉公衆からの人質を求める。
三月__八日 足利義藤と三好長慶が決別し、東山霊山城に籠る。
芥川孫十郎再度三好長慶に背き、摂津芥川城に籠城する。
十六日 細川晴元、挙兵
六月_十七日 勝瑞の変。細川持隆、三好之虎に討たれる。
七月____     足利義藤、細川晴元を赦免する。
八月__一日 東山霊山城合戦。足利義藤、三好長慶に敗れて朽木に逃れる。

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2020年6月13日 (土)

中漠:善人令和編㉒細川持隆の年齢について

 ここまで細川持隆は勝瑞の変の段階で五十七歳、宗家の細川晴元とは十七歳の年齢差があり、長慶を始めとする三好兄弟の親代わりとなって支えてきた保護者として記載してきました。本稿は今谷明氏の「戦国三好一族」を主に参考とし、腹落ちしない部分は調べながら書いてきたのですが、細川持隆の年齢について面白い別説に行き当たりましたので、紹介します。

 端的に言うと、細川持隆は従来細川晴元の年長の従兄弟と言われてきましたが、実は細川晴元の弟であり、晴元より一、二才年少であるという説です。これは「戦国期細川権力の研究」の中で馬部隆弘氏が提唱されている説です。

〇細川両家記 享禄五年三月三日条
 御舎弟讃州を以申分られけれ共、晴元御心ゆかず

〇細川高国晴元闘争記
 六郎君(細川晴元)高弟讃州府君、齢僅十五六、眉宇秀発、友愛之情、凡眉睫間、擁万騎、救兄於危難間

 簡単に言うと上記戦記物の史料においては讃州と呼ばれる人物が細川晴元の弟とされ、それが持隆であると言っているわけです。そして細川持隆を晴元の従兄弟としているのは、近世以降の系図史料かららしい。この説明は細川之持の死が天文二年頃であるとされた先学の説を否定する中で提示された情報であり、持隆の年齢を目的とした論考ではないのですが、実に興味深い内容です。

 この説が正しいとすれば、当ブログにおける持隆に関する四国事情も書き直す必要があるのですが、ほかにも重要なポイントがあります。

 その最たる部分は天文錯乱前後に細川晴元が足利義維から義晴へ鞍替えした際に、細川持隆の意見が顧みられなかった理由です。持隆の制止は彼が若輩なため説得力が伴わなかったのだとはっきりします。そうだとすると、阿波陣営の首脳には三好元長以外の大人がいないことになってしまいます。今谷説だと「管領代」茨木長隆が影響力を発揮したせいとしていました。この説はぽっと出の摂津国人がいきなり管領代になること、そして反三好元長派を形成して細川晴元を頭に据える才覚があったのかという点で不自然さは否めませんでした。現に茨木長隆は後に細川氏綱の奉行人になりましたが、この時はほとんど目立った動きはしていません。馬部氏の著書の説明によると細川晴元の後見役として細川讃州家(阿波守護家)の一族に可竹軒周聡という人物がいて、この人物が細川晴元の方針転換に重要な役割を果たしたことになっています。この可竹軒周聡は僧籍にあり、細川晴元の側近集団である御前衆の筆頭として貢献していました。そして細川晴元がこの可竹軒周聡に対し敬語を使っていることから、細川一門讃州家(阿波守護家)出身で晴元・持隆らを後見していた立場にあったと推測されているわけです。御前衆の構成メンバーは可竹軒周聡、木澤長政、三好政長、茨木長隆です。
 ただ、可竹軒周聡は天文錯乱を境に登場しなくなり、御前衆筆頭も木澤長政に代わります。細川両家記天文二年二月十日条に一向門徒勢が堺を襲撃した折、御前衆数人が討ち死にしたという記載があるのですが、実際は木澤長政、三好政長、茨木長隆らは生きており、ここでそれ以後登場しなくなる可竹軒周聡が討ち死にしたのではないかという説も立てられています。これもまた興味深く、茨木長隆が役者不足な所をうまく補っていると思います。ただ、少なくとも茨木長隆については細川六郎の代理として署名した書状が残されていますが、可竹軒周聡の立ち位置については、まだまだ私自身勉強しなければならない部分があります。

 そのほか、細川晴国の乱、氏綱の乱で活躍した高国派残党をまとめ上げて山城丹波国境で挙兵した上野玄蕃を当ブログでは今谷氏の著書に倣って上野元治としていましたが、馬部氏の考証にて元治は年齢的に一世代前の人物であり、この時代においてはその孫の国慶を充てるのが妥当なのだそうです。

 また、天文錯乱(第一次石山戦争)にて幕府と本願寺との間の講和に三好千熊丸(長慶の幼名)が仲介者となった時、阿波にいた千熊丸と細川晴元との仲介役になったのが光勝院周適という僧です。光勝院は京兆家の祖である細川頼春の菩提寺で阿波守護家の庇護下で発展した禅宗寺院でした。その住持である光勝院周適も細川阿波守護家の者と考えられています。三好千熊丸にとっては主筋にあたる人物であり、虫の良すぎる細川晴元・三好政長らの懇願をとりなすにはうってつけの人物であったでしょう。そして、幼少の三好千熊丸の補佐として和睦を実効性あるものにするために奮戦した三好伊賀の実名が三好連盛であることが記されていました。

 総じて「戦国期細川権力の研究」は、今谷氏の著書の中で下克上の世の中とはいえ過激なことが横行していると感じる事件について、史料に基づいてある程度納得できる立場の人物による関与があることが示唆されています。但し、可竹軒周聡、上野玄蕃国慶、光勝院周適、三好連盛らの実際の立ち位置などが細川持隆の実年齢を含めて、その根拠に整合性が取れているかどうか、まだ腹落ちしていません。同書は図書館で借りてチラ見しているだけなのですが、ぜひ購入して詳しく勉強したい所です。ただ、この本はぶ厚くて重くて何より少々お高い。けどそれに見合った内容であることは間違いありません。少しずつでも読み込んでみようかと思います。

 

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2020年6月 6日 (土)

中漠:善人令和編㉑鑓場義戦


 細川持隆が殺害された理由は何でしょうか。にわかに足利義冬の息子(義栄)を擁立して上洛しようと思い立ったが、三好之虎に露見したとか、三好之虎をにわかに憎み、相撲見物にかこつけて暗殺しようとした所、露見してしまったとか、色々憶測されているわけですが、子供の頃から三好兄弟を見守り続けてきた阿波の太守がこの期に及んで謀略に走るとは考えにくいです。

 強いて言うなら、江口合戦後に畿内から弟達を引きあげさせたことで、三好長慶が甚だ不利を蒙ったせいかも知れません。三好之虎は兄を助けに行きたかったにもかかわらず、細川持隆がそれも認めなかった。だからではないかと私は考えています。細川持隆による足利義栄擁立説もあるのですが、何しろ戦っている当事者が細川晴元と三好長慶という身内同士です。彼にしてみれば、こんな騒乱に巻き込まれたくないというのが本音だったのではないでしょうか。現に彼は天文錯乱においても肝心な所で三好元長を見捨てて四国にひきこもっていました。身内の争いごとが嫌いな性格だったのでしょう。

 細川持隆が作り上げた讃岐・阿波・淡路三国の体制は畿内の細川晴元の為の常備軍という位置づけでした。すなわち、舎利寺合戦の時のように細川晴元の号令の下に三好長慶とその弟達が集結し、武威を天下に示す。その為に三好之虎、安宅冬康、十河一存らが育てられたのです。流動化する戦局に対しもてあますほどの力を持っているにもかかわらず、その行使を禁じられた弟達はストレスがたまっていたはずでした。その間に、遊佐長教は暗殺され、丹波遠征を行った三好長慶は芥川孫十郎の離反により撤退を余儀なくされ、さらには将軍足利義藤に敵対されて窮地に追いやられます。なので、この下克上の原因は細川持隆の工作の結果というよりも、兄長慶の窮地を救う為に一刻も早く四国勢を畿内に入れようと焦った弟達の暴走という方が実態に近いのではないかと思います。

 最大の障害である細川持隆を除いた後には、新体制を構築する必要がありました。その旗印が細川持隆の遺児真之です。この二年前に周防国で大内義隆が陶隆房(晴賢)に討ち取られ、子の義長が立てられたのと同じ流れでした。いわば主君押し込めの失敗例であり、陶隆房も謀反の三年後に毛利元就に滅ぼされます。今回の三好兄弟の謀反についても一族以外の阿波・讃岐国人衆への根回しは不十分でした。

 細川持隆が最後を迎えた勝瑞城の南西、吉野川の対岸に芝原城があります。細川持隆の家臣としてそこを守っていたのが久米安芸守です。彼の妻は細川持隆の妹だそうです。彼が佐野丹波守や仁木高将、小倉重信、野田内蔵助ら、同志を集めて三好之虎一党に戦いを挑みました。彼には義広(または義弘)という諱が後世に伝えられているのですが、「三好義賢」と同じく足利将軍から偏諱をもらえる立場にありません。また、久米安芸守一党の反乱は義挙として後世に伝えられており、義広という諱は「正義を広める」という意味にもとれます。故に義広という諱は実際に久米安芸守が名乗ったのではなく、彼の生き様を後世に伝える際に新たにつけられたいわば「真田幸村」のようなものではないかと私は考えています。そして久米安芸守は三好之虎の舅でした。すなわち、彼の娘が三好之虎の妻だったわけです。久米安芸守が集めえた兵は寡兵でしたが、舅として婿の無道を罰しなければならない責務を負っていました。かたや三好之虎は阿波勢を率いて四国はもちろん畿内にもその覇を見せつけた実力者です。その動員力は久米安芸守が到底太刀打ちできるものではありませんでした。

 両軍は黒田鑓場という地で対決しますが、「衆寡敵せず」の言葉通り、久米安芸守勢は敗北します。追い詰められつつも旧主の恩義を言いつのりながら攻めかかる久米安芸守に三好之虎の軍兵は刃を向けられませんでした。その最期はそれに憤激しての自刎だったとされています。三好之虎は主君のみならず、舅までも殺害してしまったわけです。阿波守護家は細川真之に継がせたとはいえ、その正当性はボロボロでした。それでも之虎には阿波の体制を立て直して畿内で孤立しつつある兄長慶を助けなければなりません。その為にとった手段が亡き主君細川持隆の妻で現当主の細川真之の母を自らの妻として迎えるということでした。持隆の妻の名は小少将という名が伝わっており、阿波国西条東城を任されていた岡本牧西の娘だそうです。これにより岡本氏の支持は取り付けられ、母小少将を通して阿波守護細川真之をコントロール下に置くことが可能になったわけです。もう一人の妻である久米安芸守の娘の運命も推して知るべしでしょう。

 之虎には兄長慶を一刻も早く助けたいという一念しかなかったかも知れません。しかしこれは人倫に悖る行いでした。この善人を疾く助ける為にとられた行動は実に迂遠でかつ、無道に堕ちたものだったのです。

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2020年5月30日 (土)

中漠:善人令和編⑳勝瑞の変


 舎利寺合戦においては、四国勢を交えた細川晴元とオール三好での戦いだったわけですが、その直後に三好家が長慶派と宗三派に分裂します。遊佐長教の調略に三好長慶がかかった形になったわけですが、形勢の悪い時には細川氏綱を隠してしまえる遊佐長教のしたたかさが惜しまれます。宗三派による摂津国人の懐柔に失敗した結果の分裂だったわけで、三好宗三・政勝親子は孤立していました。

 三好宗三・政勝親子の掣肘の為に四国勢(含む淡路)からは安宅冬康と十河一存が参加します。三好之虎が出てこなかったのはおそらくは同じ勝瑞城にいる細川持隆に遠慮したというところでしょうか。逆に細川持隆は安宅冬康と十河一存を止めることができませんでした。三好長慶が唱えたのはあくまでも摂津国の仕置きに失敗した三好宗三・政勝の排除であり、三好一門の惣領権の行使と言われれば、押し切ることも難しかったのかもしれません。
 ただ、戦の経過は宗三達の排除だけでは済みませんでした。三好長慶は摂津国人のあらかたを調略した上で、三好政勝がいる榎並城を遊佐長教とともに包囲すると、三好宗三と細川晴元までが釣れてしまいます。

 先手を取った三好長慶としては江口城に三好宗三を包囲します。その気になればすぐに落とせる江口城を囲んだだけで攻城はしませんでした。江口城内の三好宗三は籠城前提でこの城に入ったわけではありませんので、突破戦を試みますが、押し返されてしまいます。三好長慶としては三好宗三を拘束して細川晴元と交渉をする腹積もりだったのでしょう。しかし、細川晴元は頑なで、妥協するどころか対立構造を三好一族の抗争から足利幕府対三好長慶にもってゆくつもりでした。細川晴元は近江の六角氏に救援を求めます。結局タイムアップが迫り、三好長慶は江口城を落とします。三好宗三はその場では死なずに息子のいる榎並城に落ちようとしましたが、遊佐長教の網にかかって討ち死にします。

 細川晴元は三好宗三の死によって、三好家の内訌から足利幕府対三好長慶の構図に持ってゆくことに成功したと言えます。遊佐長教に背中を押された形なんですが、これが足利将軍まで京から坂本に避難させる結果になりました。これは三好長慶にとっては想定外だったはずです。この状況をまずいと感じたのか細川持隆はどうも安宅冬康と十河一存を撤収させたようなのですね。細川持隆からしてみれば、三好家中の成敗権の行使として二人の助力を認めたわけですが、幕府体制を揺るがす結果となってしまったのですから。しかも、事態を悪い方に推し進めた遊佐長教は暗殺されて彼が保護していた細川氏綱の代弁者の役目は三好長慶が負うしかなくなってしまったのでした。結果細川氏綱は京兆家家督と管領職を回復し、足利義藤は京に戻りました。細川晴元は排除されたものの、一見元のさやに納まったように見えます。しかし、この状況は四国の細川氏綱にとっては、高国系の氏綱を京兆家家督と認める体制に疑問を持たざるを得なかったでしょう。

 しかも、細川晴元は諦めていませんでした。若狭国小浜から三好政勝・香西元成らをつかって京を挑発し、波多野晴通もこれに呼応します。氏綱が守護することになった丹波国平定の為に兵を出さねばならない事態になっていました。三好長逸と松永兄弟達は京に置いておかねばなりません。弟三名は四国に帰っていて、河内の安見宗房も河内のゴタゴタを収めている最中で軍の動員には時間がかかりました。やむを得ず自らが総大将になって丹波に遠征し、波多野稙通の八上城を包囲しますが、芥川孫十郎の離反によって戦線を維持できなくなります。この敗戦は足利義藤をして細川晴元にも勝ち目ありとの判断をさせ、彼は霊山城に入ります。三好長慶は窮地に陥るわけです。

 三好長慶と細川晴元の保護者として四国から援助し続けてきた細川持隆としては困った形となりました。当然宗家当主の細川晴元からは自分に味方するように要請が来ていたものと思われます。しかし、細川持隆が阿波守護として細川晴元を助けようとする時に実際に動くのは三好之虎、安宅冬康、十河一存ら三好長慶の弟達です。その中でも十河一存は江口合戦の序盤で細川晴元のいる三宅城に強襲偵察を仕掛けた確信犯でもありますので、素直に言うことを聞くとも思えませんでした。

 とは言え、長い年月をかけて育て上げた三好軍団を割るわけにはいかないという逡巡もあったと思われます。その躊躇は逆に三好長慶の弟達によってつかれることとなりました。

  1553年(天文二十二年)六月 十七日 細川持隆は三好之虎の暗殺を計画したと言います。これを察知した三好之虎は十河一存とともに勝瑞城を包囲、細川持隆は籠城して周辺の国人衆に救援を求めますが、助けは入らず、絶望して自害しました。世にいう勝瑞の変です。

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