2017年2月26日 (日)

中漠:林下編Ⅱ⑭戦国時代中盤の大徳寺の生存戦略

 今まで述べてきたとおり、妙心寺は独立後に着々と戦国大名をパトロンにつけて地盤を固め、ついには今川・武田二大勢力の政治顧問を自派から輩出するようになります。その様なことをせざるを得ないのも、ひとえに両細川の乱によってかつて妙心寺の後ろ盾になっていてくれた細川家が疲弊して、天下に号令する力を失ってしまったからでした。

 もう一方の林下の巨頭、大徳寺派臨済宗の活動方針は概ね妙心寺に似た感じでした。戦国大名に取り入って地元に寺院を建てたり、本寺の敷地に塔頭を作ったりして、ゆくゆくは政治顧問的な役割を担おうか、と言った感じです。妙心寺のやり方と比較すると、比較的負担をかけないやり方でした。
 大徳寺がアプローチをかけたのは、伊勢亀山国人領主の関氏、豊後の大友氏、能登畠山氏そして三好氏です。軽く触れておきますと、関盛衡には大徳寺内に塔頭正受院、豊後の大友義鎮には同じく塔頭瑞峯院を建立しております。ただし、大友氏に関しては若干考察を加えなければならないことがありまして、瑞峯院の創建は1535年(天文四年)だったりします。この時、開基であるはずの大友義鎮は六歳児でしかありません。元服すらもしておらず塩法師丸と呼ばれていた頃でした。大友義鎮が宗麟という大徳寺派風の法号を名乗るのは、これよりずっと下って1563年(永禄六年)、三十七歳になってからです。よって、これは寺伝によくある何らかの意図をもった改変でありましょう。
 
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 そのあたりの事情を考察するために、この頃の大徳寺の状況を素描しますと、大徳寺の歴代住持たちによる本寺内に塔頭寺院建立は、法流の派閥化にもなっているのですね。陽峯宗韶の龍泉庵に始まって、東溪宗牧の龍源院、古嶽宗亘の大仙院などが作られたのですが、そこに自らの直弟子たちを住まわせてそこから大徳寺住持候補を出すようになったわけです。すなわち、臨済宗大徳寺派の中に派中派を作ったようなもので、それぞれ塔頭寺院の名をとって龍泉派、龍源派(南派)、大仙派(北派)とよばれました。これに一休宗純の弟子たちの拠点となっていた非主流の塔頭寺院真珠庵の系統(真珠派)を加えて大徳寺四派とも総称されております。ではなぜ派中派などを作るようにしたのかと言えば、おそらくは二度と関山派等、彼らにとっての外部勢力に住持職をとらせないようにするためであろうと思います。
 細川政元が斃れ、両細川の乱に突入することで幕府管領の力は衰え、それと機を一にして妙心寺は大徳寺とは別の寺院として独立し、当面の危機は脱したものの、幕府が秩序を回復すればいつまた妙心寺が大徳寺住持の座を狙ってくるかもしれません。その際に寺域内に塔頭を立てておき、歴代住持をそこの出身者に限る慣例を作っておけば、その予防となると考えられたのではないでしょうか。それぞれの塔頭に有力大名の外護があれば、その影響力を行使することもできます。そもそも、妙心寺自身が地方にウイングを広げて影響力の確保を模索している状況でしたので、それに対して四の五の言っている状況ではなかったわけです。別の時代に類例を探すなら江戸期紀州家出身の八代将軍徳川吉宗が、自らの子息に御三卿を名乗らせて江戸城中に住まわせたことが似てるかもしれません。それ以前は徳川宗家の血が絶えた場合は尾張・紀州・水戸の御三家より後継を出す慣例あったのですが、その決まりによって将軍家を継いだ吉宗がその慣例を無効化するために編み出した戦術でした。それ以後、幕末の家茂まで御三家出身将軍の出現は阻止しおおせたのでした。

 大徳寺寺域内に塔頭興臨院を建立したのは、能登国守護の畠山義総でした。この頃の能登は正面の越中国で本願寺派と分国守護の長尾為景が抗争を繰り広げており、その対立に対して第三者的立場をキープできたので比較的安定しておりました。宗家の総州家と尾州家は没落しつつある中、なんとか勢力維持しつづけております。
 大徳寺が非業の最期を遂げた三好元長のために堺に南宗寺を建立したのは、北条氏綱が今川義元との抗争した後、彼の孫の三好長慶が細川晴元を打倒して畿内の実権を握った後のことです。天文初年の時点では北条氏綱を除いて大徳寺はさしたる勢力をもったパトロンを有しているわけではありませんでしたが、大徳寺に武野紹鴎という茶人が参禅するにあたって、クリーンヒットを放つ糸口をつかみますが、それはまた次稿にて紹介したいと思います。


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2017年2月18日 (土)

中漠:林下編Ⅱ⑬妙心寺のいざない

  妙心寺派臨済宗の進出はこれに留まらず、遠江・三河という今川義元が再進出した領域にも広がってゆきます。その一つが遠江国引佐の龍泰寺(龍潭寺)です。ここは奈良時代に行基が建てた古刹だったのですが、のちに井伊家が菩提寺にしていました。
 1507年(永正四年)に当時自浄院と呼ばれていた龍潭寺に悟渓宗頓の妙心寺東海派の流れをくむ文叔瑞郁が逗留します。この翌年に死ぬ当主直氏のためということもあるかもしれませんが、京で管領細川政元がこの年に暗殺された影響で妙心寺が新たな外護先を求めたのかもしれません。但し、文叔瑞郁は自浄院に腰を据えて入ったわけではなく、それから兄松岡貞正のいる信州下伊那郡市田に松源寺を建立してそこの住持におさまります。1513年(永正十年)のことです。その二年後に文叔瑞郁は上洛して妙心寺の住持を務めることになります。その間、自浄院(龍潭寺)に妙心寺派の住持が入った話はありませんので、この時点で妙心寺派臨済宗への改宗を伴ったものではなかったものと思われます。その間に井伊直氏の後を継いだ井伊直平・直宗親子は遠江守護斯波義達の求めに応じて曳馬城の大河内貞綱とともに反今川の戦いを起こし、敗れてしまいます。
 自浄院が龍泰寺(のち龍潭寺)と寺号を改め、妙心寺派臨済宗に宗旨が改まったのは。天文年間になって文叔瑞郁の弟子である黙宗瑞渕がここに入ってからのことと言われております。今年の大河ドラマの主人公である井伊直虎を含む井伊家歴代の墓があります。ただ、この寺を建てて後、井伊家には内紛や戦争で次々と一門衆が亡くなる不幸が起こり、一時はほぼ滅亡状態になりますので、決して験の良いものではありませんでした。

 この辺りは小和田哲男氏の著書の受け売りになります。天文年間の井伊家の惣領は直平でしたが、事実上隠居していたようで、1542年(天文十一年)にその息子の直宗が今川義元とともに三河田原の合戦に従軍し、直宗はそこで討ち死にしたと寛政重修諸家譜に書かれておりますが、実際今川義元がその年に田原に進出したとする記録はないそうです。また、1539年(天文八年)に直宗の息子である直盛が文書発給をしております。一方の直宗の方は現存する文書は残っていません。一概には言えないのですが、この頃にはすでに家督が直盛に移っていたと考えて良いでしょう。いずれにせよ家督は直平の子や孫の代に移っていました。

 また、小和田氏は面白い考証をしていて、井伊家が今川氏に従属した時期を築山殿(徳川家康の正妻)を使って考察しています。築山殿は徳川家康よりも一、二歳年上であること。築山殿の母親は今川義元の妹ということになっていますが、実は井伊直平の娘が今川義元の側室として入り、それから間もなく関口親永に今川義元の妹として下賜されたということらしいです。
 徳川家康の生誕が1542年(天文十一年)十二月二十六日ですので、築山殿が家康より二歳年上だと仮定すると、彼女は1540年(天文九年)生まれになります。婚姻して子供を作るために必要な時間を概ね二年とすると、関口親永が井伊直平の娘を今川義元の妹として下げ渡されたのは、1538年(天文七年)。だとすれば、今川義元が井伊直平の娘を側室としたのは概ね1536年(天文五年)くらいになるかもしれない。ちなみにこれ以前は今川義元は栴岳承芳として僧籍に入っていますので、嫁をとることはできません。なので、今川義元は権力を奪取してからかなり早い段階で井伊家を傘下に取り込んだのであろう、というのが小和田氏の推測です。

 この頃の今川義元は政権掌握と同時に後北条氏を敵に回してしまって、西に目を向ける暇はほとんどなかったはずです。それが可能であったのはやはり信州市田の松源寺にいた文叔瑞郁と井伊直平のコネクションであり、文叔瑞郁の弟子である黙宗瑞淵の説得を受けて井伊直平ら井伊一統が今川義元に従うことにしたのでしょう。

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 もう一つが三河国大津(現在の豊橋市老津町。吉田と田原の中間あたり)にある太平寺です。ここは元々南浦紹明の弟子(宗峰妙超の兄弟弟子にあたります)峰翁祖一が開いた寺で、後渥美半島に進出した田原戸田氏の帰依を受けていたのですが、1547年(天文十六年)に田原戸田康光が松平竹千代拉致事件の咎で今川家の太原崇孚に滅ぼされた翌年、今川義元の命で駿府の臨済寺末寺として編入されております。
 
 明らかに今川義元が今川家の家督を継いで以来妙心寺派はその威光でウィングを西に伸ばしておりました。その延長上にあるのが尾張国です。ここは元々日峰宗舜が犬山に瑞泉寺を建てていましたが、さらに支配層への食い込みをはかっていたのです。そのターゲットとなったのが平手政秀でした。彼は織田信秀の片腕として、信長の守り役として、ときに織田宗家をはじめとした家中やときに上洛して朝廷に信秀の名前で献金するなどの辣腕のネゴシエーターでした。妙心寺派は沢彦宗恩を平手政秀に接触させて織田信秀の嫡男信長の教育係にしました。信秀の死後、平手政秀は信長と対立して自刃するに至ります。諌死とも言われています。信長は平手の菩提を弔わせるために沢彦宗恩に命じて菩提寺を立てさせました。これが政秀寺です。

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 小瀬甫庵の信長記は言います。「爰に今川義元は天下へ切て上り、国家の邪路を正さんとて数万騎を率し駿河国を打ち立てて遠江、三河をも程なく切り従え、恣に猛威を振るいしかば(後略)」と。桶狭間合戦が上洛のための戦いであるか、単なる局地戦に後詰めとして出兵したものか、諸説が戦わされていますが、甫庵信長記は天下(京)に上るための出兵と書いているのですね。今川義元の尾張出兵の目的自体がそのまま上洛するためであったかどうかは定かではありません。しかし、少なくとも妙心寺派はそのための道を作っていたようにもみえます。そして、小瀬甫庵の墓所が加賀国金沢の普明院というところにあるのですが、ここもまた妙心寺派臨済宗の寺でした。

 妙心寺が今川義元を京に導こうとしていた、少なくともそのための協力を惜しまなかった。そのことは研究に値するテーマなのではないか、と私は思います。

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2017年2月11日 (土)

中漠:林下編Ⅱ⑫黄金回廊

 以前、1495年(明応四年)と1498年(明応七年)に起こった明応大震災についての話をし、今川氏親は周辺諸侯の救済の為に西進したのではないかという仮説を立てました。しかし、よく考えると今川氏親が治める駿河国における地震と津波の被害もまた甚大です。いわば条件は尾張の斯波家を含む他の東海道の領主達と一緒なのです。その中で、今川家がいち早く外征の準備を整えられたのはなぜかを考えるに、今川氏親が治める駿河国にのみ存在する金鉱のせいだったのではないかと思いつくに至りました。

 地震が起こった後の復興レースの中、先立つものがなければ再建もままなりませんし、津波を被った農地は当面使い物にならなくなっていた筈です。社会インフラも破壊されていたことでしょう。駿河国にはこの大災害という脅威を、機会に変え得る内部資源を有しておりました。安倍(梅ヶ島)と富士にある金山です。この危急にあって金を以て財を贖い、復興投資をすることで近隣諸勢力の糾合をはかる挙にでたのではないかと思っております。

 今川家が拠点としている駿河国駿府には安倍川が流れているのですが、この川の源流あたりに梅ヶ島があります。この当時、金山と言っても、金を含む地層から採掘するのではなく、川底をさらってふるいにかけて砂金を選別する方法で金が採られていました。そして、この地震からおよそ二十年後、1519年(永正十六年)の今川氏親は三條西実隆を初めとする朝廷や幕府に金配りを始めています。この頃の金採掘には坑道掘りが採用されて採掘量を大幅に増やしております。そのことが判るのは、1516年(永正十三年)に大河内貞綱が斯波義達の支援を受けて遠江国引馬城を占拠したのですが、これの制圧の為に今川氏親は金山衆を動員して城外から穴を掘らせて水源を断ち、落城させたのでした。三條西実隆が幕府への金配りを日記に記すのはこの三年後。氏親は遠江国での斯波義達との抗争に勝利し、幕府にも遠江領有の正当性を認めさせる為の贈与であったと考えられます。

 これの最初のきっかけを想像するに、明応大地震で安倍川源流地域の地層が崩れて鉱床が露出したのかも知れません。おそらくは地震後、わずかに安倍川での砂金採取量があがり、調べてみると梅ヶ島あたりの地層に金の鉱床が露呈していたのが発見され、これを掘り返すことが始まったのではないでしょうか。その為の組織が金山衆でありましょう。鉱山開発は当時としては大規模な設備投資と土木技術が必要で、採算に見合う技術蓄積を二十年かけて行ってきたものと思われます。外れれば全ての投資が無駄になるリスキーな事業でしたが、こと安倍(梅ヶ島)金山に関しては成功例として記録されることになりました。
 砂金は安倍川以外にも富士川源流の一つ、早川上流域にも産出しておりました。そこの領主が穴山氏です。安倍(梅ヶ島)金山の繁盛を横目に見つつ、領地に金鉱脈の存在を知りつつも、今川家と同様な開発する為の技術を持てずに手をこまねいていたものと思われます。その当時の穴山氏の領主は穴山信友で、武田信虎に臣従していました。武田家と今川家は対立していたので、今川家から技術導入など考えられなかったわけですね。
 それが花倉の乱が起こって勝利者今川義元が武田信虎と組むことになります。武田宗家も黒川山に金鉱を持っておりました。今川家、穴山家、武田宗家の三者はともに妙心寺派臨済宗に帰依しており、その関係もあって技術移転は円滑に進んだと見ることも可能かと思います。

 そして、この時代において日本の鉱業は一大ブレークスルーを迎えます。1533年(天文二年)、博多商人神屋寿禎が朝鮮国出身の宗丹・慶寿の協力のもと鉱物精錬法である灰吹き法を確立したのです。この手法が使われる以前は掘り出した鉱物の不純物を取り除く方法は事実上存在せず、掘り出された鉱石は鉱石のまま輸出されたり、そのままでも精錬の不要な砂金の状態で流通されていたりしていたわけです。
 灰吹き法を簡単に説明すると、るつぼに灰を敷き詰め、その上に金・銀等の鉱石を置いて熱すると鉱石は解けるのですが、不純物は灰に交じって分離し、最終的に金や銀のインゴッドが出来上がるという手法です。この技術は戦国期に各国の鉱山に急速に普及し、金山の採算性も向上し、産量も大幅に増えました。穴山信友は湯之奥金山、武田晴信は黒川金山の開発を進めます。

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 その資金を持って武田宗家は信玄堤を整備し、信濃侵攻を進め、今川家は三河から尾張攻めを敢行しました。武田信玄は北条家が占領していた駿河国深沢城を今川氏親の顰に倣って黒川金山衆を動員してこれに攻撃させております。

 しかし、もう一方の今川義元は武運拙く討ち死にし、松平元康改め徳川家康に背かれて遠江を失って存亡の危機に立ちます。ここで冷徹に武田信玄は駿河今川領を吸収します。今川義元と言う優れたリーダーを失って、駿河国が過去の駿河国ではなくなったことと、潜在敵国である徳川家や北条家に海へのルートを扼されたり、安倍金山を持たれることを嫌ったりしたことも理由になるのではないでしょうか。

 駿河方面を得たのは穴山信君でした。しかし、その後武田家そのものも存亡の危機に立ち、その時穴山信君は武田勝頼を見限って織田に降伏します。そこで富士川から海への回廊部分と甲斐河内地方は安堵されました。穴山信君にとってはここを確保できていればいつでも武田家は復興できるものと考えていたのでしょう。諏訪家の当主が武田家を名乗れるのであれば、より血の近い穴山家が武田宗家を名乗っても何の不都合もないのですから。とはいえ、その穴山信君は本能寺の変に巻き込まれて、神君伊賀越えの途上に脱落して落命します。

 穴山家の遺領は徳川家康が家臣ごと丸抱えし、その勢いで甲斐信濃の旧武田家版図をあっという間にのみこみます。その徳川家康も豊臣秀吉に領地を取り上げられて関東に移封させられます。豊臣秀吉は甲州・駿州をまるまる自分の子飼いの部将達に与え、自らは黄金をあしらった装飾を好み、天正大判・小判を鋳造して黄金関白と称されるようになりました。こういう大胆な用兵や散財が可能になったのも、黒川、湯之奥、安倍(梅ヶ島)に代表される甲駿の「黄金回廊」の財力の賜物でもあったでしょう。

 関ヶ原合戦で徳川家康率いる東軍が西軍に勝利した後、駿河には自らが入り、甲斐国には譜代家臣に支配させております。この一事をもっても、甲駿の黄金回廊の重要性は認識できるかと思います。

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2017年2月 5日 (日)

中漠:林下編Ⅱ⑪武田家の宗旨報告書Ⅴ(武田晴信・大井流武田氏)

  今までの書きぶりで甲斐国に妙心寺派臨済宗が入り込んだのは、今川義元の影響のように書いてきましたが、実はもう一つルートがあります。それが今回お話しする大井流武田家です。大井家は以下の系図にあるように穴山家同様、武田一門衆を形成する一族で、巨摩郡大井近辺を領する国衆でした。戦国期の武田家内訌においては、穴山家とともに、今川氏親と結んで武田信虎と対抗しましたが、結局今川家は撤退し、和睦を結ばざるを得なくなりました。その条件として大井家が武田宗家に差し出したのが、大井の方です。

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 大井家対武田宗家の合戦の舞台となったのが大井信達の居城、上野城(別説に富田城)でした。和睦後に武田信虎は大井信達をはじめとする国衆に館の甲府集住を命じます。これに反発したのが大井信達でしたが、この時の反乱はあえなく鎮圧され、出家隠遁をせざる得なくなる羽目に陥ります。この時に号した名前が、大井入道宗芸というものでした。彼の死後戒名は本習院殿熊学宗芸庵主です。「宗」のついた法号は今まで見てきた通り、大徳寺・妙心寺系のものであり、彼もまた妙心寺との関わりがあるように見える人物でした。隠遁後の大井宗芸は和歌に親しむ悠々自適の生活をおくったとのことです。しかし、彼の居城跡は房号に似た本重寺という富士門流法華宗寺院になっており、彼の墓もそこにあります。
 大井一族はもう一つ菩提寺をもっていました。武田氏の支流ですので、もともとの宗旨は天台宗なのですが、大井氏進出以前、巨摩郡大井郷鮎沢に建っていたその寺は真言宗寺院として建立されており西光寺と号しておりました。行基が開基したそうですが、鎌倉時代末期の1316年(正和五年)、甲斐出身の名僧夢窓疎石がここを臨済宗寺院長禅寺と改めます。夢窓疎石の手になるものですから、大徳寺・妙心寺系の臨済宗ではなく、五山秩序の中に入った寺院ということになります。その後大井一族がそこを菩提寺にしたらしいです。

 戦国時代に入って、五山の秩序は崩壊します。そのすきをついて、長禅寺に入った一人の僧がおりました。その名も岐秀元伯と言います。彼は妙心寺の悟渓宗頓(東海派の祖)の流れを汲む僧であり、信虎と結婚する前の大井信達の娘、のちの大井の方の絶大なる信頼を得ていたと言います。
 大井の方は信虎と結婚し、嫡男晴信を設けると、この息子の教育係に岐秀元伯をつけたらしい。鮎沢の長禅寺には勝千代(晴信の幼名)が子供のころに遊んだ木馬が残されているとのことです。また、古狸がこの木馬に化けて勝千代を化かそうとしたところ、聡明な勝千代はこれを喝破して見事に撃退したなどという話も残されているらしい。
 もっとも、勝千代が住んでいた躑躅ヶ崎館と鮎沢の長禅寺は子供の足で通うには遠すぎる場所にあり、話の信ぴょう性は薄いとも言います。いずれにせよ、この話は今川義元が妙心寺派に転向する以前の話ということになります。

 1536年(天文五年)に花倉の乱がおこって玄広恵探が栴岳承芳(今川義元)に討たれたのと同じ年に、勝千代は元服して晴信と名乗ります。齢十六でした。それ以後も武田晴信は岐秀元伯を私的な家庭教師として彼から学問を学びました。
 甲斐国の妙心寺派にとって中心寺院はあくまでも恵林寺であり、そこは明叔慶浚、希菴玄密、鳳栖玄梁、天桂玄長、快川紹喜と妙心寺派(主として東海派)の僧ががっちりローテーションを組んで保ち続けておりました。

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 1552年(天文二十一年)武田晴信は三十一歳で出家して信玄と名乗るまでに岐秀元伯から碧巌録という臨済宗の公案集全七巻中五巻までをマスターしていたと甲陽軍鑑は言います。そして、法号の信玄の「玄」の字は臨済義玄と関山慧玄の玄であるとも言っているのですね。そして同じ年に大井の方は亡くなります。彼女は夫信虎が駿河に「追放」されても甲斐に残りました。戦国の妻として、宗家のもとで実家を守る責任が優先されたということでしょう。信玄はそんな大井の方の為に、躑躅ヶ崎館の一角に寺院を建立し、そこを長禅寺と名付け、岐秀元伯を開山に、大井の方を開基ということにしました。鮎沢にあった長禅寺はそのまま大井家の菩提寺として機能して区別の為に古長禅寺と呼びならわされます。

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2017年1月29日 (日)

中漠:林下編Ⅱ⑩武田家の宗旨報告書Ⅳ(穴山流武田氏)

  穴山家は甲斐武田家の一門衆で、足利尊氏に従って軍功をあげた武田信武の子から始まるとされる一流です。尊氏に認められてそれまで甲斐守護だった石和流武田家から甲斐守護の座を取り戻し、甲斐に入府して以後は甲斐守護家を信武流で占めることになります。穴山家祖は信武の子であり嫡男信成の弟である義武からということになっていますが、このころは穴山氏を名乗ることもなく、義武は子をなしておらず、次代の満春も一家を立てたわけではありません。満春は宗家の信満が上杉禅秀の乱に関わって罰せられた折には、穴山満春(還俗して武田信元)が代理で守護を任じられたこともあったりしますので、宗家当主の弟として、当主に万一があった場合の代役としての位置づけでありました。
 家名の穴山がある甲斐国の河内地方は南北朝時代までは南朝方の南部氏が治めておりました。南部氏といえば、日蓮のために身延山久遠寺をあてがった南部実長が属した一族であり、河内地方は日蓮の宗廟の所在地でもありました。満春の後に当主の弟のポジションについたのが、信介で彼が河内地方の旧南部領をあてがわれ、穴山を根拠地としたのが穴山氏としての実質的なスタートでした。
 河内地方は北に武田宗家、南に今川家に挟まれた位置にあり、内訌を続ける宗家と力を蓄えてゆく今川家に挟まれていたために、弱体化する武田宗家の一門衆として独立性を獲得するに至ります。そればかりか宗家の内訌にも積極的に加担しております。例えば、武田信重は穴山家の一族衆に暗殺されており、穴山信懸は武田信縄と油川信恵の抗争において、信縄方につくとともに伊勢宗瑞とも繋がっておりました。それが息子の清五郎に暗殺され穴山家も混乱するわけですが、同じく信懸の子、信綱は清五郎を討って今川方につきました。それを信虎に攻められて以後、宗家に従属するわけですが、清五郎は信懸の子と伝えられているにもかかわらず、穴山の系図から除かれることになっております。宗家の武田信虎は穴山家を取り込むために嫡男信友に信虎の娘南松院をあてがいました。晴信の姉に当たります。
 今川氏輝の頃は北条家と組んで武田家と対立している状況でありましたが、これが花蔵の乱によって今川義元が今川家家督を継ぐと、武田家に接近します。穴山家は甲駿同盟に積極的な支持をしておりました。

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 以上の流れを鑑みた上で、穴山氏歴代の菩提寺を調べてみました。但し、信介以前は調べがついておりません。信懸は甲斐国河内地方の独立勢力として宗家の武田信虎に対抗しておりましたが、息子とされる清五郎に暗殺されております。その菩提寺が建忠寺といいます。後に信虎の娘(晴信の姉)の菩提寺の末寺として臨済宗妙心寺派になりますが、元々の宗旨は把握できていません。信虎が曹洞宗に帰依しておりましたので、その信虎と共同歩調をとった穴山信綱の菩提寺も曹洞宗となります。とはいえ、この頃の信懸も信綱も今川家と武田家との間で表裏比興をやっていたわけで、結果として信綱の菩提寺が信虎と同じ曹洞宗になっているものの、彼自身が帰依していたかどうかの確証はありません。今川義元と武田信虎が同盟を結んだ時の穴山氏の当主が信友で、彼も今川義元、武田晴信に倣って妙心寺派臨済宗に帰依し、生前である天文年間に自らの菩提寺とする円蔵院を建立しました。穴山信君は今川義元の死後に今川領駿河江尻を領し、晩年に江尻に霊泉寺を建立し、梅雪斎と号しました。開山は速伝宗販です。

信懸  1513年(永正十 年) 建忠寺 ?⇒臨済宗妙心寺派南松院末
信綱  1531年(享禄 四年) 竜雲寺 曹洞宗
信友  1560年(永禄 三年) 円蔵院 臨済宗妙心寺派
信君  1582年(天正十 年) 霊泉寺 臨済宗妙心寺派
                   満福寺 曹洞宗

南松院 1566年(永禄 九年?) 南松院 臨済宗妙心寺派

 明叔慶浚が恵林寺を再興というか、妙心寺派の拠点として以来、妙心寺派それも悟渓宗頓を祖とする東海派の僧侶たちがこぞって武田家に入って寺社を整備してゆきました。武田晴信が付き合った妙心寺派の高僧は明叔慶浚、希菴玄密、鳳栖玄梁、岐秀元伯、快川紹喜、天桂玄長と有名どころをいれただけでざっと六名になります。そしてともに妙心寺派のネットワークに属する今川義元と武田晴信がそれぞれ三河・尾張と信濃の征服に動き出すわけでした。

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2017年1月15日 (日)

中漠:林下編Ⅱ⑧武田家の宗旨報告書Ⅱ(武田信虎)

 武田信虎が甲斐国主の座を追われた理由は私には判じかねます。武田信虎は有能な軍略家で不安定な甲斐国を実力で統一しました。その過程で色々恨みを買っていたと言うことはあったかとは思います。但し、武田信虎暴君説の論拠の多くは根拠のないものらしい。存外、信虎は権力にはあまり執着しないさばさばした人格であったのではないでしょうか?
 1541年(天文十年)、今川義元に嫁いだ娘に会うために駿河国に赴いた武田信虎は帰路の道を板垣信方・甘利虎泰ら武田家の重臣たちに塞がれて甲斐国に帰国できなくなりました。武田晴信を担いだクーデターということなのですが、信虎がこれに抵抗したという形跡が感じられないのですね。彼は二年ほど駿河に留まった後、上京して畿内漫遊の旅をしております。
 実は、このクーデター勃発の翌月に相模では北条氏綱が病死しております。恐らく彼が長くないという情報は甲斐国にも入っていたのではないでしょうか。武田信虎にとって北条氏綱はよい好敵手でした。関東の内乱に乗じて信虎は小弓公方や山内・扇谷上杉と同盟して北条家を攻めておりましたが、氏綱はその才幹でその悉くを退けております。信虎と同盟を結んだ今川家も北条氏綱に駿河国河東一帯を占領される始末です。ことほどかように北条氏綱は甲斐国主武田信虎にとって脅威ではありましたが、彼が病床に伏したことを聞き及んで一時代の終わりを悟ったのかもしれません。

 武田信虎は京の足利義晴の側近とも接触を図っております。1526年(大永六年)には諏訪家との抗争の最中に足利義晴から和睦の勧告と一緒に上洛の打診も受けておりました。北条氏綱が死ねば甲斐国は今川家との同盟もあるので息子晴信に任せても安泰であり、自らのセカンドライフの選択として以前足利義晴から勧められていた上洛を果たしたいと願ったのではないでしょうか? 但し、甲斐国の地政学的位置からして上洛軍を仕立てて京にたどり着くことは無謀です。それと似たことを先に北条早雲こと伊勢宗瑞と今川氏親が試してみましたが、三河で松平長親に止められて、尾張国に到達することもできませんでした。
 現実解として、赤澤宗益のように兵を率いずに単身で上洛するしかありませんでしたが、それをするには武田信虎の名前はビッグネームになりすぎておりました。何しろ混沌とした甲斐一国を統一したばかりではなく、武名を関東と信濃にまで轟かせていたのです、徒手での上洛は京での活動に支障をきたすでしょう。

 それに権謀術数渦巻く京の地に足を踏み入れるに当たり、どこに落とし穴が掘られているかもわかりません。京に活動の拠点を置くにせよ、その選択肢を間違えれば自分が築き上げてきた甲斐国にもその累が及ぶことになります。それも避けるとなれば、クーデターで国を追われた一介の素浪人という筋書きをつけておけば、先方も諦めてくれると判断されたのではないでしょうか。クーデター後から上洛までの間に信虎は出家し、無人斎道有と名乗っております。宗旨は息子と婿、武田晴信と今川義元が奉じた妙心寺派臨済宗ではなく、道元・峨山韶碩の法脈につながる雲軸派曹洞宗のもので、彼自身の菩提寺は大泉寺にあります。

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 上洛前の滞在先として今川家はふさわしいものでした。今川義元と太原崇孚は在京経験者でありましたし、彼の母親の寿桂尼も京の公家出身者でありました。彼らが駿府に移植した京文化は上洛しても田舎者と侮られない程度の基礎知識をつけるにはうってつけでありましたでしょう。1543年(天文十二年)に準備をしっかり整えて上洛を敢行しますが、京の状況は細川政元の時代と比べるべくもありませんでした。細川晴元は足利義晴を御しきることができず、自前の兵も持っておらず、遊佐や三好が木澤を討ち取るのも傍観するくらいに弱体で、微妙なバランスの中で政権維持をすることに汲々としている状況でした。なので、幕臣として奉公しても使い潰されてしまうというオチが最初から見えておりました。細川晴元は転法輪三条家を通じて息子と姻族関係を結んでおりましたが、あまりこれを助ける気にはなれなかったと思われます。この時の上洛はわずか二か月あまりで切り上げられました。
 ただし、この旅にはもう一つ目的があって、本願寺証如と面会しております。この翌年、証如の嫡男(後の顕如)が転法輪三条家出身の娘と婚約することになります。どうも息子の嫁の親族が嫁いだ先の顔を見たかったもようなのですね。
 実は武田信虎にはそういうせっかちな側面があり、細川晴元政権崩壊後に改めて上洛し、晴れて彼は足利義輝の奉公衆に収まるのですが、後に設けた自分の娘を京の公家菊亭晴季に嫁がせることになったのですが、この嫁入り前にこの舅殿が婿の家に押しかけるということをやらかします。この情景は京童によって以下のように落首で揶揄されました。

 むこいりをまだせぬ先の舅入りきくていよりはたけた入道

 こういう御茶目な人物ではありますが、追放されたからと言って武田家や今川家の監視下に隷従させられたというわけでもなく、自由な政治活動にいそしむことが出来ております。これはむしろ自らの能力を領国統治ではなく、息子や娘婿の走狗として活動することに生きがいを感じていたと思われます。実際その夢はかなり良い所まで実現するのですが、長生きをし過ぎた結果、娘婿と息子の夢が破れる様を見てしまうこととなります。

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2017年1月 7日 (土)

中漠:林下編Ⅱ⑦甲駿同盟

 花倉の乱における栴岳承芳派の動きは極めてスピーディで、氏輝の死から二ヶ月も過ぎないうちに室町殿から偏諱を拝領しています。しかも許可を得た時点では玄広恵探という対抗馬が武装蜂起している状況でした。玄広恵探がその間に栴岳承芳を攻め殺していた可能性もあったのですから、幕府にとってもギャンブルであったに違いありません。というか、足利義晴には回答を引き延ばして勝者が決まるまで待つという選択肢もあったはずです。

 この時期、畿内においては、本願寺を実質的に率いる蓮淳が青蓮院門跡を仲介に細川晴元に降伏、ちなみに足利義晴は細川六郎に偏諱を与えて晴元と名乗らせています。将軍義晴、管領細川晴元体制が着々とできつつあったのですが、その最後の仕上げとして、洛中に自治組織を形成していた洛中法華衆を延暦寺と六角定頼に排除させているところでした。洛中は戦火に包まれて応仁の乱以上の被害を出したといいます。

 その同じ月に武田信虎の嫡男勝千代が元服して足利義晴から偏諱を賜り晴信と名乗ります。それと同時に転法院三条公頼の娘と結婚するのです。そして、この翌年同じく転法院三条公頼の娘が細川晴元に嫁ぎます。この娘は武田へ輿入れした三条の方の姉にあたり、結婚する直前に六角定頼の猶子となっていました。つまり、転法輪三条家が中心となって細川右京兆家、六角家、今川家、武田家が血縁に基づく同盟関係を構築したということです。
 これは驚異的なスピードで進められたことで、細川晴元が帰洛するにあたり、新体制のグランドデザインを考えた上でのことなのでしょう。転法院三条家と妙心寺を通じて今川、武田両家は幕府・朝廷と密接な関係を持つに至ったわけです。

 この動きを小田原の北条氏綱の目から見れば、クーデターのように見えたことでしょう。後北条氏は今川家の部将として伊豆・相模から南関東に進出しようとしていましたが、それを妨害していたのが甲斐の武田信虎です。ついこの間今川氏輝と武田対策の為の直接会談を行ったところが、氏輝が急死してその後継の義元が武田信虎と同盟を結び、その背後には細川晴元までがいるということになります。後北条家の南関東における勢力の急伸は古河公方を始めとする関東諸勢力の警戒の的になっておりました。それを支えていたのが主筋である今川家であったのですが、それがあろうことか敵対する武田家と同盟を結んでしまったことで今川家と後北条家との関係は破たんするに至ります。

 1537年(天文六年)二月下旬、今川氏綱は軍を率いて駿河国河東地域に進出、富士川以東を占拠します。河東地域には太原崇孚の本貫地である庵原郡も含まれていますので、報復といってよいでしょう。周囲を敵に囲まれているとはいえ、後北条家の結束は強く、軍事力も旺盛であったわけです。さらに、娘婿である遠江の堀越貞基とその子氏延を味方に引き入れ、今川家を逆包囲する格好になってしまいます。堀越氏は今川了俊直系の子孫で、遠江国が斯波家に守護を任されていた時代も有力な親今川家の在地勢力であり続けました。それが氏親の代で遠江国は今川家に奪還されて、今川領の西の最前線に立っていたわけです。花倉の乱においては花倉殿派に属していたようですが、後北条氏の後押しで今川家と対立するに至りました。この間、今川義元は西三河の領国を追放された(もしくは亡命した)松平仙千代(広忠)を保護し、岡崎城主復帰の為の援助をしていますが、その手段が今川軍の派遣といった軍事的手段ではなかったことはこの情勢を見れば推測できるかと思います。

 そもそも、甲駿同盟は畿内の細川晴元が体制を固める為に転法輪三条家と妙心寺を使って今川家と武田家を巻き込んで強行されたもので、色々な無理がありました。その同盟を機能させる為にテコ入れが行われることになります。

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2016年12月29日 (木)

中漠:林下編Ⅱ⑥武田家の宗旨報告書Ⅰ(源義光~武田信虎)

 武田氏は平安時代に活躍した新羅三郎義光の流れをくむ清和源氏で、本貫地は常陸国那賀郡武田郷です。この地を源義光の三男義清が受け継いで武田冠者と呼ばれるのですが、近隣の有力者大掾氏(桓武平氏)と争った結果、勅勘を蒙り甲斐国市河荘に配流となり、ここから甲斐武田氏が始まります。甲斐武田氏は信義の代において以仁王の令旨を賜り、反平家陣営として挙兵、独立勢力として富士川合戦に参戦、源頼朝軍と連携して平家陣営と対座し、これを崩壊させるに至ります。
 その後、武田一族は源頼朝により各個に切り崩しを受け、鎌倉殿の御家人になります。武田信義の長男一条忠頼と次男板垣兼信はそれぞれ誅殺、流罪の憂き目にあい、武田氏家督を継いだのは三男信光でした。彼は治承・寿永の乱(平家滅亡)に貢献した結果、甲斐国と安芸国の守護に任じられます。厳島神社のある安芸国は平家の牙城でしたので、鎌倉幕府としてはここを抑える必要があり、信政以降の武田宗家は安芸守護を担当することになります。甲斐の方は信政の弟の政綱に任され、彼の系統は石和武田氏として勢力を維持しますが、後になって政綱の曾孫の政義が甲斐守護に任じられます。政義は楠木正成の赤坂籠城戦に幕府方として参戦しますが、後醍醐天皇の隠岐脱出を見て船上山に馳せ参じ、甲斐守護をゲットしたばかりか一時は安芸守護家を抑えて武田宗家扱いされたりもします。しかし南北朝の動乱の中で去就を誤り足利幕府樹立後に後醍醐方についたために甲斐守護代に討たれて石和流武田家は没落します。幕府はこれに代わって安芸守護の信武に甲斐国守護を任じます。そして長男の信成に甲斐守護を次男の氏信には安芸守護を任せます。この後の中国地方は、足利直冬や山名時氏が猛威をふるって佐東郡の分国守護に落とされますが、安芸武田氏は存続します。
 嫡流信成系の甲斐守護家も順風満帆とはいかず、孫の信満は上杉禅秀の乱に加担した咎で幕府に討たれています。それ以後甲斐武田氏は混迷期に入るわけですが、守護代跡部氏が勢力を伸長させてゆきます。これを何とか抑えたのが信満の曾孫の信昌でした。しかし、彼も後継を巡る家督争いを起こしてしまって混迷は続き、最終的に信虎が甲斐国を掌握してようやく甲斐守護武田氏が機能し始めるわけです。

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 以下、そんな武田氏の宗旨のあらましを述べてゆきたいと思います。
 源義光は元服の儀式を近江国園城寺新羅善神堂で行ったことから新羅三郎と呼ばれています。彼の墓所はこの園城寺の近くと鎌倉にあります。鎌倉に墓所があるのは義光流の嫡流佐竹氏の館が鎌倉にあったためで、この墓所は後に法華宗六条門流の大宝寺になっています。義光の子孫の清光、信義の菩提寺が創建当時は天台宗で後に曹洞宗に改められているので、園城寺系天台宗と考えて差し支えないと思います。但し、信光の菩提寺(これも後に曹洞宗に改められていますが)の信光寺は真言宗でした。これは信光の代に河内源氏を清和源氏嫡流と認めて源頼朝の御家人となったために宗旨も変えさせられたのかもしれません。武田宗家の安芸守護時代は追いかけきれていないのですが、甲斐守護復帰をした信武の菩提寺は法泉寺といい、夢窓派臨済宗でした。寺伝においては1330年(元徳二年)に「甲斐国主」武田信武が夢窓疎石の弟子の月舟周勲を呼んで法泉寺を建立し、信武は月舟周勲の開山を望みましたが月舟周勲はこれを辞退し師の夢窓疎石を開山として自らは二世住持として住したそうです。但し、この話は多少脚色が入っています。まず、1330年時点で甲斐国と武田信武の関係は薄いのです。というのは、法泉寺建立と同じ年に甲斐守護の二階堂道蘊が夢窓疎石本人を開山に同じ甲斐国に恵林寺を建てさせております。甲斐国には石和流武田氏はいましたがまだ国主を張れるほどの権威を持っていなかったのですね。夢窓疎石が法泉寺建立時点で甲斐国に逗留していたのであれば、弟子の月舟周勲が実際に寺をつくったとしても夢窓疎石が甲斐に在国していたなら名前だけ譲る必要もありません。
 よって法泉寺は信武が甲斐守護に任じられた後に建てられたものであると推測します。その時点で夢窓疎石は南禅寺や天龍寺にいて甲斐国の寺院建立に直接コミットすることはできません。また、ずっと後に恵林寺が武田晴信によって妙心寺派寺院として復興され明叔慶浚・鳳栖玄梁・快川紹喜らの僧侶が派遣されるようになります。法泉寺も甲府五山に選ばれるのですが、代々の武田氏の庇護を受けてきた立場から、法泉寺の創建年次を恵林寺のそれと合わせたのでしょう。
 信武の子の信成は臨済宗の抜隊得勝の向嶽寺に寄進していますが、菩提寺のありかは確定できませんでした。院号が継統院なので、それが菩提寺の名であると思われます。信成の子、信春の院号が慈徳院であり、ここが向嶽寺派臨済宗の寺なので同様な形ではないかと思います。
 武田信満は上杉禅秀の乱に巻き込まれて死にましたから菩提寺を考える余裕はありませんでした。反逆者として討ち取られた信満の菩提を弔ったのが業海本浄が開いた棲雲寺でした。業海本浄(?-1352年)は中峰明本(幻住派祖)の弟子で夢窓疎石と同時代人なのですが、武田信満の孫の信守がこの業海本浄を開山に武田信守が開基になって能成寺を創建したなる記述もあるのですが、これは時代があいません。信満の子で、信守の父である信重は甲斐国の内紛に巻き込まれて亡くなっています。信満・信重二代は不慮の死を得ているので、この二代の宗旨は信守の意向で幻住派臨済宗になったものと考えてよいと思います。


●墓所から見る武田氏歴代の宗旨

義光 園城寺
     多福寺→大宝寺 ?→法華宗
清光 清光寺 天台宗→曹洞宗
信義 願成寺 天台宗→臨済宗→曹洞宗
信光 信光寺 真言宗→曹洞宗
信政 - 信時 - 時綱 - 信宗 安芸守護の時代
信武 法泉寺 臨済宗 夢窓疎石(月舟周勲) 1330年(元徳二年)
信成 継統院?
信春 慈徳院 臨済宗 
信満 棲雲寺 臨済宗 業海本浄(中峰明本(幻住派祖)の弟子)
信重 成就院 臨済宗→浄土宗 円光寺に寺基を移す。
信守 能成寺 臨済宗 業海本浄
信昌 永昌院 曹洞宗 一華文英 1504年(永正元年)
信縄 恵雲院 曹洞宗
     聖徳寺 曹洞宗
信虎 大泉寺 曹洞宗 天桂禅長 1521年(大永元年)
晴信 大泉寺 曹洞宗
     恵林寺 臨済宗(妙心寺派)

 守護代跡部氏を駆逐して甲斐国に一応の体制を敷いた武田信昌が奉じたのは曹洞宗でした。能登国総持寺の峨山韶碩の流れを引く一華文英を招いて永昌寺を建立します。甲斐国にはすでに雲岫宗竜が広厳院を開創しており信昌はそこに寄進を施しておりました。その流れで永昌寺は信昌の菩提寺となります。信昌が引き起こした後継者争いは武田信虎が勝ちます。その過程で曹洞宗雲岫宗竜の門派は味方につけており、武田信虎は雲岫宗竜派の天桂禅長を開山に大泉寺を建立しました。臨済宗は応仁の乱で幕府奇行が崩壊した折に機能不全を起こしていた為、地方に強い曹洞宗が勢力を伸ばしたものと思われます。武田信虎は過去にさかのぼって武田氏の宗旨を曹洞宗に変えようとしますが、それを阻止するきっかけが南の駿河国で起こりました。
 花倉の乱です。

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2016年12月17日 (土)

中漠:林下編Ⅱ⑤今川家の宗旨報告書Ⅷ(今川氏輝・今川心範)

 天文五年三月十七日の今川氏輝・彦五郎の死から花倉の乱が起こります。氏輝・彦五郎の死の原因については皆が謎としていますが、容疑者として最初に浮かんでくるのは最大の受益者である今川義元、太原崇孚、武田信虎であることは間違いがないでしょう。私は不勉強なのでこれを説として唱えた記事や論文を読んだことはありませんが、この時代を研究した人であれば、誰でも一度は考えることであろうかと思います。

 ことの経緯を時系列で述べれば1536年(天文五年)二月五日、今川氏輝は相模国小田原を訪問しました。歌会に参加という名目ですが、この月の二十六日に京において後奈良天皇が即位の礼を執り行っております。この時に儀式のスポンサーとなったのが今川氏輝と北条氏綱の両名でした。後奈良天皇については、践祚の翌年、桂川原合戦が起こって、敗北した管領細川高国と足利義晴が京を脱出、以後戦乱に次ぐ戦乱で本来スポンサーとなるべき将軍や管領が京にいないという異常事態がずっと続いていたわけでした。この前年、摂津の石山本願寺が室町幕府に降伏することによって長い騒乱に一応のピリオドが打たれ将軍・管領の帰還にもめどが立ち、苦しい台所事情ではあったものの待ちきれなくなった後奈良天皇が強行したのです。(但しこの直後に天文の法華の乱が起こって京の街は烏有に帰してしまうことになります)
 もちろんこの訪問には両者の同盟関係を強化し、対武田の作戦を練る意味もあったと思われます。武田信虎は息子晴信の嫁に上杉朝興の娘をもらっていて、扇谷上杉氏と連合を組んでおりました。扇谷上杉氏と対立していたのが北条家と言う関係です。もっとも、晴信の嫁は結婚の翌年、出産の折に亡くなっております。

 そして三月十七日、今川氏輝と彦五郎が死にます。前月には歌会訪問で隣国に出かけていたのですから、病気だったとも考えづらく、しかも彦五郎と同時の死です。この彦五郎という人物は実は正体が定かではありません。その存在がほぼこの事件にのみ、氏輝とペアでしか出てこない人物で、通説では今川氏輝の弟ということになっています。それは、甲斐国常在寺僧侶の手になる「妙法寺記」という記録に「駿河ノ屋形兄弟死去メサレ候」とあるからなのですね。ただ、今川家にとって彦五郎と言う名乗りは嫡男、すなわち後継者候補と同義であるにもかかわらず、ほとんど史料に出てこないのです。氏輝と彦五郎の父親である氏親が死んだ時の記録に「今川氏親公葬記」と言う記録が出てくるのですが、ここには氏輝と花蔵之御曹司としての玄広恵探と善得寺御曹司としての方菊丸(義元)しか出てこないのですね。寿桂尼が彼の死後に定源寺殿への寄進を行っていて、定源寺殿が彦五郎の諡号に比定できるので存在はしているようなのですが、謎の人物です。
 前稿にも書きましたが、今川家における彦五郎の名前の重さを考えるなら、氏親の次男というよりも、氏輝の長男と考えた方がよいというものがありました。大変説得力がある考え方だと思います。
 
 今川氏輝の死因ですが、浅羽系図という文書に「為氏輝入水、今川怨霊也」という記述があって溺死説とか、それに派生して入水自殺説やさらに氏輝が精神を病んでいた説なども出ているのですが、具体性に欠ける記述に基づく憶測の域を出ないと思います。そもそもの文書は「惣持院、為氏輝入水、今川怨霊也」であり、普通に読んだら入水したのは氏輝ではなく、惣持院という人物であるようです。少なくとも彦五郎は氏輝の代理が出来ると判断される程度には壮健なのですから、これらの説は彦五郎が同じ日に死んだ理由と一緒に提示しないとだめなのではないでしょうか?

 だとすると、氏輝は急病死か暗殺、彦五郎は後継と目されていた為暗殺あたりが妥当でありましょう。氏輝と彦五郎が同時に死んだことにより後継者候補が二人名乗り出ます。玄広恵探と栴岳承芳です。玄広恵探は年長ではありましたが、生母は福島氏で正妻ではありませんでした。栴岳承芳は氏親の正妻寿桂尼を生母としていますが、彼が打ち出した政策はそれまでの今川家の外交を根本から変えるものでした。すなわち、北条ではなく、武田と結ぶ政策です。そもそも、栴岳承芳の父氏親は親族の小鹿範満によって乗っ取られかけていたものを細川勝元の後押しで派遣されてきた伊勢宗瑞(北条早雲)のおかげで相続できたのであり、以後も混迷を深める関東公方家・管領家の騒乱を一手に引き受けて今川家の安寧に貢献してきた一族です。それを考えるなら武田との提携などはあり得ないことでした。実母である寿桂尼にしても氏親・氏輝の代理として執政に参与していた立場上賛同しづらいものであったものと思われます。

 玄広恵探が蜂起、寿桂尼が戸惑う中、栴岳承芳は京に還御したばかりの将軍義晴に工作して還俗時の名乗りに将軍の名の一字拝領の内定をもらってしまいます。この場合、普通は「晴」の嫡流の通字ではないものをもらうのですが、将軍家の通字である「義」を拝領して義元と名乗ることになったのですね。しかもこれは三条西実隆を動かして実現したものでした。三条西実隆は寿桂尼の出身である中御門家(名家)よりも家格が高く(大臣家)、しかも細川高国とのつながりが深い人物です。この時点で細川高国は亡くなっていますが、高国が担いでいた足利義晴とのコネクションを活かしたものでしょう。
 寿桂尼はこれにはキレたようで、注書(重書)と呼ばれる重要文書をもって玄広恵探陣営に同心します。この行為については栴岳承派の寿桂尼が内戦にならずに済むように妥協案を持って行った所を玄広恵探に拉致監禁されたという解釈もありますが、多少強引な感じがします。結局、両軍が激突して勝ったのは栴岳承芳派でした。玄広恵探は今川館を攻略できず、本拠地の花倉城を岡部親綱が攻め落として決着となりました。寿桂尼が持ち出した注書は岡部親綱が奪還に成功しています。

 晴れて勝利した栴岳承芳は今川義元を名乗ります。その彼が最初にやったことは、兄であり先代今川家当主である氏輝の葬儀でした。それまでの今川家歴代は真言宗か曹洞宗で葬儀が行われてきたのですが、新当主である今川義元はそれを改めて、臨済宗で葬送することに決めます。彼が氏輝の為の菩提寺として選んだのは本拠地である駿府に所在する善得院でした。ここは彼が最初に修行を始めた善得寺の駿府出張所のような末寺ではありましたが、ここの寺号を丁寧にも「臨済」寺と改めてそこに亡兄を祀ったのでした。しかも、臨済寺の宗旨は建仁寺系ではなく、妙心寺の大休宗休を開山として迎え入れたのです。実質的には九英承菊(太原崇孚)が住持をつとめます。臨済寺は今川館のすぐ近くにあり、軍師としていつでも当主を補佐できるような体制となったわけです。彼らはつい直前には建仁寺の高僧を呼んで法要をやっていたわけで、花倉の乱以前にはあり得なかった大転換でした。

 氏輝入水説に出てきた浅羽本今川系図ですが、「惣持院、為氏輝入水、今川怨霊也」は読み下すと、惣持院は、氏輝の為に入水す。今川の怨霊也。となります。惣持院とは駿河浅間神社寺域内にある真言宗寺院だったのですが、明治期の廃仏毀釈で取り壊されております。惣持院は浅間神社別当の役職であり、氏輝の時代における惣持院は今川義元の叔父、今川心範のことを指すそうです。彼が氏輝の為に入水したとすれば、こうした強硬な改宗行動への抗議の自殺だったのかもしれません。そして彼が抱いた恨みは今川家の怨霊のように見えたのかもしれませんね。

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2016年12月11日 (日)

中漠:林下編Ⅱ④今川家の宗旨報告書Ⅶ(太原崇孚・今川義元)

 以前の記事「飛騨国興亡」にて、三木直頼が禅昌寺を創建した折、都合よく一族の中から杲天宗恵という妙心寺で修行した僧が現れてここを任された話をいたしました。そしてその折十分な根拠も示さないまま、細川六郎(晴元)の意向である旨書かせていただきました。そのあたりがどんな事情だったか、今川氏のケースにおいて端的にでておりますので、事実関係を述べた後で考察してみたいと思います。

 今川氏親には六人の男児がおり、嫡男の氏輝と次男の彦五郎、それから末子で那古屋今川家に養子に行った氏豊以外は仏門に入っておりました。三男の玄広恵探と四男の象耳泉奘は真言律宗を修め、五男の方菊丸(栴岳承芳・義元)は禅宗でした。
 方菊丸には駿河国人である庵原氏出身の九英承菊が家庭教師としてついて、禅修行を行ったのですが、その行った先は駿河国善得寺です。1522年(大永二年)に二人は建仁寺に入り、1530年(享禄三年)に得度して承芳と名乗ります。この時十二歳です。その後三年間二人は上洛して建仁寺でしています。建仁寺の修行期間中に承芳は栴岳の号をもらって栴岳承芳となります。実はこの期間、京の街は戦乱に巻き込まれていたのですね。

 1530年(享禄三年)に京には将軍も管領もいませんでした。細川家が高国派と六郎(晴元)派に分裂して管領高国は京を追われて備前の浦上村宗のもとにおり、将軍の足利義晴は近江国朽木に逃れておりました。細川六郎(晴元)は阿波国で足利義澄の遺児義維を奉じて泉州堺に仮幕府を立てておりました。この時京を収めていた六郎(晴元)派の柳本賢治は播磨へ出陣して高国・浦上連合軍と対峙していましたが、暗殺されその軍団は撤退を余儀なくされました。その余勢をかって洛外に高国派の与党が砦を構え、洛中の六郎(晴元)派と戦闘に及んでおります。この直後に細川高国と浦上村宗は三好元長と戦って戦死することで洛中の脅威は一旦去るのですが、悪いことは重なります。その翌年に細川六郎(晴元)派として戦った本願寺門徒が暴走して堺仮幕府と抗争を始めます。堺幕府側は洛中法華宗徒に命じて洛中洛外の本願寺教団寺院の破却を命じて、京は阿鼻叫喚の巷に叩き落とされます。建仁寺は本願寺教団でも法華でもありませんが、普通に修行を続けられる環境ではなかったと思われます。

 1533年(天文二年)十二月までは栴岳承芳と九英承菊は駿河国にいたことは確認されています。そしてその後再び上洛して建仁寺に戻ったようです。洛中・洛外から本願寺教団寺院が一掃され、洛中の安寧が確保されたためでしょう。1533年(天文二年)に九英承菊と承芳は再上洛して建仁寺に入りますが、二年ほどして九英承菊は心変わりをして承芳とともに妙心寺の門を叩き、九英承菊は太原崇孚と名を改めたということになっています。太原崇孚は建仁寺での修行にあきたらないものを感じていたと言われてますが、実際彼が太原崇孚を名乗るのは1544年(天文十三年)になってからで、しかも一年余り後の1535年(天文四年)には駿河国に帰国していますので、妙心寺に入って応灯関流の厳しい修行をやりたかったから、という動機についてはやや首をかしげるところがあります。

 1535年(天文四年)に栴岳承芳らが帰国したのは、栴岳承芳が最初に入った駿府にある善得寺の師である琴溪承舜の七回忌に主席するためです。もともと高峰顕日の弟子の大勲天策が建てた天寧寺という寺号で関東管領上杉憲顕・能憲親子の帰依をうけていたのが、上杉禅秀の乱の結果、今川氏が管理する官寺になったものです。当然、この時点で同じ臨済宗とは言え妙心寺派とは関係のない寺でした。もし、九英承菊と栴岳承芳が妙心寺派に転宗したことを公にしていれば、七回忌の会合は出席しにくいものであったでしょう。琴溪承舜の七回忌を仕切ったのは建仁寺の常庵竜崇でした。彼は以前駿河滞在中に今川方菊丸に得度をした人物でもあります。

 この七回忌の後、栴岳承芳と九英承菊は京に戻らず駿河に在国し続けました。今川氏輝の命によって善得寺周辺の防備を命ぜられたようです。善得寺は城塞としての機能も持っていたらしく、今川の武将として栴岳承芳を起用しようとしたらしい。このあたりは庵原氏の勢力圏でもありました。今川氏輝は北条氏と同盟(と言うかもともと今川家と北条家は主従です)関係にあり、共同して甲斐国で勢力を伸ばしている守護の武田信虎と戦っておりました。武田氏との小競り合いはずっと続いており、必ずしも戦況ははかばかしくなかったようです。
 今川氏輝は栴岳承芳に東駿河の守りを任せて国政の充実をはかりますが、ここで今川家に一大事件が起こるのです。

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