2020年10月24日 (土)

中漠:善人令和編㉝三好家の宗旨報告書Ⅰ(三好之長・三好元長)


 三好元長以前の三好家の宗旨について調べがつきました。三好元長の墓所は阿波見性寺にあり、祖父三好之長及び息子の実休、孫の長治らの墓とともに鎮座しております。見性寺は現在臨済宗妙心寺派に属していますが、それは関ヶ原合戦後に阿波国に入った蜂須賀家政の宗旨によるものと考えてよいでしょう。この見性寺に見性寺記録という史料が残されており、見性寺開創時の事情が書かれておりました。これによると、見性寺はもともと鎌倉時代の阿波守護小笠原長久が父祖を祀る為、1249年(宝治三年)美馬郡岩倉に御浄山宝珠寺という菩提寺を建てたのが始まりです。開山は紀州高野山金剛三昧院覚心の弟子筋の翠桂僧都であり、七世隆庵が勝幡城に移したという経緯がありました。

 覚心は坊号を心地又は無本といいます。一見すると真言宗と結論付けてしまいそうになりますが、覚心は鎌倉時代に純粋禅普及のきっかけを作った円爾の勧めで南宋に渡り、公案集の無門関の著者で知られる無門恵開から印可を得た禅僧でもありました。彼は当初金剛三昧院を拠点としていましたが、紀州由良荘の地頭葛城景倫が1227年(安貞元年)に源実朝の菩提を弔うために建立していた西方寺へ、1258年(正嘉二年)に覚心が移って禅宗寺としています。鎌倉時代にはよくあった話です。覚心の禅は臨済禅の階梯に真言宗の要素を含めたハイブリッドなものだったそうです。覚心は後に亀山上皇から法燈禅師の号を得てその系譜は法燈派と呼ばれます。

 覚心は1298年(永仁六年)に寂します。宝珠寺は以後小笠原一族が維持したわけですが、本寺の西方寺には政争が待っていました。後醍醐天皇の代になって、既に寂していた覚心に円明国師の号が追贈されます。そして後醍醐天皇は足利尊氏に敗れて吉野に南朝を開き、崩御します。その後を後村上天皇が継いで1340年(南朝年号:延元五年)四月二十八日に南朝の年号を興国とするわけですが、この興国号が後村上天皇から西方寺に下されます。西方寺は紀伊国由良郡にあります。南朝の勢力下でした。否応はありません。

 その同時期、阿波の小笠原氏は細川和氏らが四国に攻め込むと阿波守護小笠原家は滅亡します。そしてその傍流の三好家が細川氏の被官として存続します。宝珠寺は阿波守護家から三好家が管理を引き継いだのでしょう。宗旨は南朝公認の物ですが、そこは三好家は足利将軍から見れば陪臣に過ぎませんので目こぼしがあったものと思われます。後に南北朝は合一しますが、興国寺は南朝年号の寺号のまま通します。

 戦国時代に入って三好家は頭角を現します。三好之長は応仁の乱末期に京で土一揆を起こして悪評を立てますが、すぐに国元に返されます。後に細川政元の後継者の一人、細川澄元の執事として再上洛しますが、この悪評に足を引っ張られました。細川政元が暗殺されると澄元が継ぎますが、その時に主君澄元とトラブルを起こして詫びの意味で剃髪して喜雲と名乗り、家督を息子の長秀に譲りました。但し実権はしっかり之長が握っています。澄元政権は足利義尹の反撃で潰え、以後京都奪還の戦をしばしば起こします。1511年(永正八年)の船岡山合戦で、之長を連れてゆかなかった細川澄元は細川高国・大内義興らに惨敗を喫します。その立て直しに三好之長は奔走するのですが、その折に宝珠寺の寺号を見性寺と改めて阿波守護家の本拠である勝瑞城内に寺基を移しています。しかし、之長は1520年(永正十七年)五月の等持院合戦で敗れ、討たれてしまいます。

 その雪辱を果たそうと孫の元長も頑張ります。しかし、細川澄元の息子の六郎とともに、足利義維を担いで堺に幕府をつくりました。しかし、之長の悪評が彼の足を引っ張ります。足利義維に将軍宣下させるべく、その下準備に上洛しますが、先に上洛していた柳本賢治と争いになり、へそを曲げて阿波に帰ってしまいます。その隙をついて細川高国は反撃に出て柳本賢治を討って京の奪還をはかろうとしてので、堺幕府の面々は三好元長に頼み込んで細川高国を討たせます。しかし、京の柳本党の甚五郎が元長を認めなかったため、これを攻め殺してせっかくの武功もチャラにしてしまいます。これに反省した元長は剃髪して海雲入道と号します。しかし、この反省策は功を奏さず、堺幕府は分裂。本願寺が敵に回って三好海雲入道は堺幕府と運命を共にしました。

 長い苦闘の末、弘治年間に入ってようやく政局は安定します。その為に三好家に必要とされたことは権力の源泉である一門の結束固めでした。三好之長・元長を祀ることはその大きな一助になる筈です。しかし、この安定の背後には後奈良天皇の影の支援がありました。それを考えると一門の宗旨である南朝の色のついた法燈派臨済宗での法要は行いづらかったのではないかと思われます。

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2020年10月18日 (日)

中漠:善人令和編㉜弘治改元


 天文は二十四年で終わりをつげ、新たに弘治の年号が宣せられました。1555年(天文二十四年=弘治元年)の時点で当今(とうぎん・当代の天皇の事)であった後奈良天皇は健勝であり、代始の改元ではありません。干支は乙卯(きのとう)で、甲子でも辛酉でもありませんでした。直近の改元干支は1561年(永禄四年)の辛酉まで待つ必要があります。残るは人心一新を狙いとした天災・戦災などによる改元という事になりますが、このパターンの改元に対して主導権を持つ室町将軍は京にいません。前回の天文改元の時にも、将軍足利義晴は朽木にいて細川六郎(晴元)との連携の元で改元を行った先例はあります。ただこの時は堺幕府が崩壊して足利義晴の政権復帰が十分に見込めていました。それに引き換え、今回の朽木における足利義輝の状況はよくありませんでした。京を追われてから二年、反撃らしい反撃が出来なかったのですから。

 後年、後奈良天皇が崩御して正親町天皇が践祚をし、その代始として永禄に改元された折、その連絡が朽木に三ヶ月届かなかった事がありました。その間弘治年号付の書状を発給していた足利義輝の怒りを招き、義輝方の再度の攻勢を招いたという説が天野忠幸氏より提唱されております。説得力のある話ではあるのですが、それでは同じく足利義輝が朽木亡命中に行われた弘治改元についてはどうだったのかが気になりました。私が読んだ天野氏の著書では弘治も永禄と同じく改元にかかる負担を負っていない旨が書かれていたのですが、永禄改元が代始によるものだった事に対して、弘治には足利将軍がらみの理由が希薄です。本稿においては、それを考察してみようと思います。

 まず気になるのは、弘治改元に対し足利義輝がほぼ反応していない点です。これには以下の三点が考えられます。
 ① 足利義晴は改元の意味を知らなかった。
 ② 足利義晴が改元の要請をした。
 ③ 足利義輝は三好長慶と合意の上で改元を行った。

 ①については、永禄改元になって初めて足利将軍の意向で年号が定まる事に気づいた事になり、開戦に踏み切る気持ちは理解できるのですが、将軍足利義晴の嫡男として生まれて、後継者としての教育も受けているはずの足利義輝が知らないという事は考えにくいです。義輝は剣豪から剣の手ほどきを直接乞うほど勉強熱心ですし、実力はあっても正統性皆無な新興戦国大名に自らの偏諱を与えるなど戦略的な行動をとれる人物です。そんな義輝が改元の意味を学んでいなかったはずはありません。

 かと言って②のように改元要請を足利義輝が自ら行った可能性については、この時点で改元要請する動機が希薄です。また、天野氏の著書によると弘治・永禄改元に幕府からの費用負担はなかったとしています。ただ朝廷と朽木御所との交流は維持され、時候の献上品は義輝から送られていたそうですが、それは改元費用ではありませんでした。永禄年間に辛酉・甲子年がありましたが、足利義輝はこれを懈怠しました。足利義輝は改元に消極的な将軍だったと言えるでしょう。

 故に残るのが③の可能性です。ぱっと見一番あり得ません。何と言っても足利義輝を京から追い出したのは三好長慶なのですから。しかし、視点を少しずらしてみると足利義輝と三好長慶との間の繋ぎとなりうる存在が浮かび上がってきます。それは領地没収という三好長慶の恫喝に屈して足利義輝を見捨てて朽木から京に帰った幕臣たちです。おそらく彼らは政所執事の伊勢貞孝が預かる形になったと見るのが自然でしょう。つまり、京には将軍のいない幕府組織が存在したわけです。不本意ながら将軍を裏切る形になった彼らがその保身のために試みる事は何かを想像するなら、それはおそらく三好長慶と足利義輝との和睦です。

 その第一段階として彼らが果たそうとした事は何か。それは第一に三好長慶の政権強化だったでしょう。三好家を中心に据えた政権は、三好家の傑出した軍事力を背景にして畿内中心部に平和を実現していたのです。もちろん、下克上によるものである事には違いなく、政権の正当性は極めて薄いものでした。幕府運営の経験のない三好一門には改元という発想そのものが生じないでしょうし、改元が政権強化に役立つとも思い寄らなかったはずです。

 三好長慶政権の基盤強化は、足利義輝にとって面白い話ではありません。しかし、それに匹敵する利益を足利義輝が得ていたとすれば、話は別でしょう。それはすなわち、三好長慶が足利義冬を担がない事の確約だったのではないかと思います。足利義輝が都落ちしてすぐに和睦交渉が始まり、交渉の前提として足利義冬を三好長慶が奉じない事が求められたのでしょう。それは翌年三好兄弟が一堂に集まって検討され、結果、足利義冬が周防に移るよう仕向けられました。その結果和睦交渉は本格化し、その報酬として改元を足利義輝も認めたというところではなかったでしょうか。


1553年(天文二十二年) 八月  一日 東山霊山城合戦。足利義藤、三好長慶に敗れて朽木に逃れる。
1554年(天文二十三年) 十 月 十二日 淡路炬ノ口会議。三好長慶、之虎、安宅冬康、十河一存ら一堂に会す。
1555年(天文二十四年) 四月____      この月、足利義冬(義維)、阿波を出奔し周防に移る。
1555年(弘治  元年) 十 月二十三日 弘治に改元。

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2020年10月 3日 (土)

中漠:善人令和編㉛戦国時代の改元事情


 東山霊山城合戦で足利義藤(義輝)を都から追い落として以来、三好長慶による政権は比較的平穏でした。そんな三好政権に一つの政治的イベントが降ってきます。それが、後奈良天皇による改元の布告でした。その意義については、次稿で考察することとし、本稿では改元そのものの意味と意義について述べてゆきたいと思います。

 言うまでもなく、改元は天皇が保持する大権の一つです。明治以降は一世一元と定められていますが、それ以前は一代に何度も改元を行うことが出来ました。とは言っても気分屋気まぐれで改元を行われては国の民も困りますので、いくつかの原則がありました。

 第一に代始の改元と呼ばれるものです。これは天皇が代替わりした時に行われる改元で、天皇践祚で始まる新帝の御代を言祝ぐ意味合いがありました。戦国時代のような戦乱相続く時代では、戦争原因が取り除けないことが分かっていても、年号を変えることで気分が一新できれば良いと思われたのか、大嘗祭や即位の礼などの儀式よりは金がかからずすむのか、これだけはやらせてもらえておりました。但し、譲位して上皇の身分を許せるほど戦国時代の朝廷や幕府の財政は潤沢ではありません。戦国時代においては、文正(土御門天皇)、文亀(後柏原天皇)、享禄(後奈良天皇)、永禄(正親町天皇)、文禄(後陽成天皇)があたります。

 第二に、甲子改元です。昔は年を認識するのに年号の他に十干十二支(じっかんじゅうにし)というものを使っていました。十干とは甲乙丙丁戊己庚辛壬癸の十種類の文字です。十二支とは現代も年賀状に使う子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥の十二の動物になぞらえたおなじみの文字ですね。この十干と十二支の文字を前からひとつづつとって組み合わせて干支をを形成して年を数えます。甲子、乙丑、丙寅、丁卯・・・と続き、干や支の文字が最後まで来たら、最初の文字に戻って続けられます。十干は十種類、十二支は十二種類ありますから、二週目からは違う組み合わせになりますが、六十個目の癸亥までくると、最初の干支に戻ります。東アジア漢字文化圏では中国以外にも我が国をはじめ様々な国が独自年号を使っていましたが、十干十二支がさす年は同じなため、さしている年を国際的に認識できる仕組みとなっています。その最初の干支が甲子(音読み:かっし・訓読み:きのえね)というわけですが、甲子が十干十二支の最初に当たるため、干支が改まるタイミングとして、革命、すなわち王朝交代が起きやすいと考えられたのでした。戦国時代においては永正改元がこれにあたります。但し、永禄七年は甲子にあたりますが、改元は行われていません。

 第三に、辛酉改元です。これも十干十二支の一つで、甲子から数えて五十八番目の年に当たります。陰陽五行説に当てはめると縁起が悪く、甲子と同様革命が起こりやすい年と考えられていました。よって、革命を防ぐために自ら率先して改元することで革命を防ぐ考えがあったとされています。このルールも甲子同様戦国時代であっても守られています。ただ、辛酉年の三年後は必ず甲子に当たるため、辛酉改元の年号は必ず三年までで四年目に改元が来ることになります。戦国時代においては文亀改元がこれに当たります。御柏原天皇の代始改元でもありますが、践祚そのものは前年であり代始を辛酉改元に併せて行ったものと思われます。同じく永禄四年も辛酉に当たりますが、改元は行われていません。

 第四に、天災・戦災による改元です。人心一新を狙いとした改元枠で、色々理由をつけては改元が行われました。しかし、戦国時代においては、予算制約が大きくネックになるとともに、三代将軍の足利義満以来、室町殿の意向抜きでは改元はできませんでした。戦国時代に入って将軍の権威は低下したものの、その権限は管領に移り、天皇が勝手に行使できるものでもありませんでした。応仁はその原因となった御霊合戦が原因の改元です。文明はその前年に足利義政の弟義視が東軍大将から西軍に寝返って西幕府を拓いたために足利義政が主導権を取り戻すためでした。長享は足利義尚が父から独立して親政するタイミングでの改元ですし、延徳はその義尚病没後、義材が継いだための改元です。明応はその前々年に義政が中風で、前年に義視が腫瘍により同じ日に亡くなっており、後ろ盾を失いつつある足利義材が行ったものでした。大永は足利義稙(義材)の出奔後、播磨に幽閉していた亀王丸を細川高国が将軍として奉じて義晴を名乗らせた時の権威付けであり、天文は足利義維を奉じて四国から畿内にわたった細川晴元が、義維を見限って義晴につき、三好元長を葬ったタイミングで行われました。

 ここまで見てきたように戦国時代の改元事情は代始と十干十二支を除けば足利幕府の都合によるものばかりでしたが、弘治に関しては、私が見るところこれらの原則から外れた改元となっています。次稿にて詳細を見てゆきたいと思います。

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2020年9月26日 (土)

中漠:善人令和編㉚平島公方の冒険


 三好家は足利義冬(義維)を将軍職につける気はない。そのことを悟った足利義冬は阿波を出奔することにしました。三好家が足利義冬に対して冷淡な態度をとり続けている理由はよくわかりません。三好兄弟の父、元長が死んだ時に彼だけが生きて帰ってきたことに割り切れない思いを抱いてしまったせいなのかな、とも思います。何しろあの細川六郎ですら、天文錯乱の阿鼻叫喚の中、畿内に踏みとどまって戦ったのです。その姿がどんなに無様なものであったとしても、堺公方よりは胆力を持ち合わせていたことは確かでしょう。細川六郎も一時は淡路に退避していたのですから、せめて三好千熊丸が畿内に戻った時に行動を共にしていたとすれば、細川六郎が足利義晴に取り込まれるブレーキにはなったに違いありません。

 堺から退去した後、名前を義維から義冬に変えて阿波国平島の地で隠忍の日々を過ごすも未練は残っていたようで、1547年(天文十六年)頃に細川氏綱の挙兵に呼応した足利義晴が都を追われたタイミングで足利義冬は堺に再上陸しています。しかも、堺幕府を滅ぼした張本人の本願寺証如に上洛のあっせんを依頼するという節操のなさを見せつけてきました。この時は本願寺が金を払ってお引き取り願ったわけですが、それでも諦めきれなかったようです。

 保護者であった細川持隆が三好之虎・十河一存に討ち取られ、三好一族が公儀となっても足利義冬を公方として京に呼ぼうという話は出てきません。細川氏綱だけでも荷物で彼が出す命令のフォローもできなくなっているのに、畿内に三好家と被らない人脈を持たない公方様を戴くことは三好家にとって危険行為に他なりません。もっとも、三好家は自家の存続に汲々としていて阿波公方のことは考えてなかった可能性も無きにしも非ずです。1547年(天文十六年)の時もそうですが、阿波出奔を止めたり、追いかけたりした話がないのですね。ことによると淡路水軍の安宅冬康が関与していたかもしれません。偶然かも知れませんが三好兄弟の中で平島公方と同じ偏諱を持つのは彼だけで、後世において仁将の評判が高い人物と評されています。平島公方の境遇に同情したのかも、とも思うのですが状況からの推察にすぎません。

 行き先の心当たりはありました。防長太守大内氏です。足利義冬にとって妻の実家でした。かつて、大内義興が養父の流れ公方だった足利義尹(義材・義稙)を担いで上洛し、将軍職につける助けをしました。あわよくば自分もそうなるかもしれないという期待もあったと思われます。阿波細川家は足利義稙を迎え入れて以降、防長の大内氏とは昵懇の関係になりました。細川持隆の正妻は足利義冬の妻と姉妹でした。なので頼っても少なくとも邪険にされることはないと踏んでのことだったと思われます。京の街は細川晴元が焼き尽くしてしまいましたが、大内氏の本拠地山口は将軍家から分捕った勘合貿易の貿易港博多から上がる利益により大いに潤っておりました。戦乱を経ていない分京都よりは住み心地が良く、金回りの良い分阿波平島より繁栄している筈でした。

 しかし、足利義冬が向かった頃の大内氏は見る影もなく衰退していました。最盛期の大内義興はとっくに亡くなっており、後を継いだ義隆も重臣陶隆房(のち晴賢に改名)の反逆で討ち取られてしまいました。この時、細川晴元、武田晴信、本願寺証如の妻の父である転法輪三条公頼も巻き添えを食って死んでいます。そして、陶隆房は大内義隆に代わって九州豊後の大友義鑑の息子(大友義鎮の弟)を後継にすえ、大内義長と名乗らせます。大友義鑑の妻も大内義興の娘であり、大内氏と大友氏は姻族でつながっていました。大内義隆は大友義鑑の子供である義長を猶子にしていたのです。ただし、義長の母は大内義興の母ではなく、公家の坊城氏出身の者でした。なので血のつながりはありませんが、陶隆房は相続権のない猶子を無理やり養子ということにして大内家の後を継がせたのでした。足利義冬を受け入れたというのも、陶晴賢が少しでも権威づけをしたかったのでしょう。

 しかし、この陶晴賢の戦略は足利義冬が山口に入って半年もしないうちに破綻します。周囲を武断政策で威圧していましたが、毛利元就と厳島で戦い、討ち死にしたのです。その後大内義長は三年間防長二国を持たせますが、毛利元就が満を持して攻め込むと、大内家はあっけなく滅びます。その結果、毛利家は防長二国を手に入れ、大友義鎮も博多港を手に入れたのでした。自動的に足利義冬も毛利氏の保護下に入ったわけですが、毛利元就なり隆元なりがこの奇貨をどのように扱ったのかはわかりません。

 1563年(永禄六年)に三好長逸が足利義冬を迎えに来たため、足利義冬は阿波に戻ります。この前年に三好実休は久米田合戦で戦死しており、三好家も彼を本格的に使うことができる状況が整いつつありました。奇妙なことに、この同じ年の八月四日に毛利家家督の隆元が急死しております。もし毛利家が足利義冬を利用しようとしていたなら、隆元の死がその方針を変えさせたのかもしれません。その証拠にその二年後の1565年(永禄八年)二月十六日に隆元の子の幸鶴丸は足利義輝の偏諱を得て輝元と名乗るようになるのですが、同じ年の五月十九日に足利義輝は二条御所にて三好長逸ら三好三人衆によって討ち取られます。そして、そのころまでに中風に罹り健康上の問題を抱えた足利義冬に代わり、息子の義栄が将軍に擁立されるに至るのです。

 このあたりの毛利家と三好家との間でどのような駆け引きがあったのか、興味深いところです。

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2020年9月19日 (土)

中漠:善人令和編㉙三好会議


 足利義藤が朽木に落ち延びることになった原因は、側近の上野信孝と伊勢貞孝の対立にありました。伊勢貞孝は三好長慶と組み、洛中利権を取り込んで幕閣の中での影響力を強めようとしていました。それに対して上野信孝は三好長慶を目の敵にしたのです。これはいわゆる指桑罵槐と呼ばれるもので、三好長慶を罵りつつ、じつは伊勢貞孝を攻撃しようとしたのでしょう。しかし、こういう京風の駆け引きに縁のない三好長慶の怒りを買い、上野信孝も引くに引けなくなりました。その結果が足利義輝の都落ちです。この時苦節を共にした幕臣たちの多くは将軍を見限って都に戻ったそうです。三好長慶が足利義輝に同道した幕臣たちの知行地を取り上げると宣言したせいでもありました。足利義藤は家内統制に失敗し、自らの無力さを痛感したに違いありません。

 朽木での生活は足利義藤に自らの生き方を考え直す良いきっかけになったのかもしれません。心機一転の為か、足利義藤は義輝と改名します。利益に負ける家臣たちがいない朽木で、自らの敗因やあるべき将軍像などをじっくり考える時間はあった筈です。その結果、足利義輝は強さを志向するようになります。端的に言えば侮られることを極端に嫌う性向になりました。具体的には後々剣豪塚原卜伝に剣術を学んだり、上杉謙信、斎藤義龍、織田信長など地方の新興戦国大名を呼びつけたりするようになります。細川晴元にしても、遊佐長教が推したてた尾州畠山当主に対し、何度も拒否権を行使して当主を挿げ替えたり、思い出し怒り(としか呼びようのない感情)で池田信正を自害させたりしてエキセントリックに力を誇示したがるところがあります。その原因は三好長慶の風貌にあるのではないかと妄想しています。おそらく三好長慶は信長の野望で設定された顔グラなどでイメージされる優男風の好男子ではなく、京雀を恐怖のどん底に陥れた曽祖父の之長をも連想させるドズル・ザビ風の魁偉な容姿だったのかもしれません。その姿に上司である細川晴元も、足利義輝もびびってしまい、それを克服しようとあがいた結果が細川晴元のエキセントリックな行動であり、足利義輝の脳筋志向なのでしょう。

 足利義輝はいずれ起こるであろうチャンスを待った筈です。そのチャンスとは、阿波から将軍のいない京に足利義冬(義維の改名後の名前)を迎え入れること。偽将軍を担ぐ悪人を糾弾する大義名分が得えられる瞬間でした。三好長慶は畿内の統治を自らの実力のみで維持している状況です。破れたりとは言え細川晴元の勢力もまだ健在であり、付け入るスキはまだありそうでした。

 一方、芥川山城に入った三好長慶は今後の方針を考えなければなりませんでした。内藤国貞が死に、それ以前に遊佐長教や上野玄蕃頭(細川国慶)も死んだことで、細川氏綱を管領として支えることに無理が生じ始めていました。三好長慶の立場からしてみれば、細川氏綱を担いだために阿波国守護細川持隆と芥川山城の芥川孫十郎を失うことになっていました。ぶっちゃけ、細川氏綱が命令書を出しても従う者はほとんどいません。それどころか、実効性がないことを理由に細川氏綱ではなく、三好長慶に命令を出してもらう依頼が増え続けていたのです。それは三好長慶が足利義藤を相手取って東山霊山城合戦を戦っている最中ですらそうだったのです。将軍が京を去ったため、現状の政治体制を維持することは不可能でした。

 1554年(天文二十三年)十月十二日、三好長慶は淡路炬ノ口に兄弟を集め会議を開きます。この会議のそもそもの名目は、足利義藤(義輝)が三好長慶と喧嘩する前に、出雲の尼子晴久に八カ国守護なんてものを与えたために備前・美作・播磨が勢力圏だった赤松晴政の領地のうち備前・美作を分捕られた上に、播磨領も国人衆が分裂して収拾がつかなくなりました。そこで赤松晴政は三好長慶に救援を頼んだのでした。会議はこのために開かれたわけです。合議の結果、三好軍は出兵して依藤城に籠もる国人を降しています。しかし会議の主眼は三人の弟たちとともに今後の方針を定めることにあったと思います。

 将軍足利義輝は三好長慶に敵対して近江に逃れ、細川氏綱は支援者である遊佐長教、上野玄蕃頭、内藤国貞らを失い、彼の命令は何らの実効性を持たないことが明らかになりました。阿波国平島にいる足利義冬(義維)を上洛させて将軍職につける選択肢もあったかもしれませんが、命令に実効性が伴わないという点では細川氏綱と大差ありません。三好長慶は細川晴元との和議はならず、弟の三好之虎と十河一存も主君の細川持隆とその家臣の久米安芸守を討ち取っており、三好家自体が主家から隔絶してしまっています。こうなると、三好長慶は三好家自身を自力救済するしかありませんでした。そのために、足利義輝の命令で混乱した播磨国内に播磨国守護赤松晴政の要請を受けて介入する公儀としての役割を果たそうとしたのだと思われます。領国内外に様々な脅威が存在し、その対処のため色々なケースが想定されるために、同盟者である尾州畠山高政・安見宗房や、主筋の細川氏綱も参加させられない会議だったのでしょう。

 その中で一つだけ三好家のコンセンサスとしてあったのは足利義冬を擁立しないことでした。
 このため、この三好会議の翌年に足利義冬は阿波を出奔することとなります。

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2020年8月29日 (土)

中漠:善人令和編㉘芥川城入城


 東山霊山城合戦に勝利した三好長慶は、そのまま兵を摂津に戻して芥川攻城戦を続行します。この城を守る芥川孫十郎はここまで追い詰められるまでに何度か降伏と挙兵を繰り返していましたが、年貢の納めどきは近づいていました。
 三好長慶はここまでやっても芥川孫十郎を討ち取ろうという気は起きていませんでした。江口合戦においても三好宗三への最終攻撃をためらっていた三好長慶ですが、ここでも同じ癖が出ています。対する芥川孫十郎も、阿波細川持隆が三好之虎・十河一存兄弟に殺害され、都に迫っていた細川晴元勢が足利義藤ごと敗北したことに限界を感じざるを得ませんでした。
 
 その結果、東山霊山城合戦と同じ月の八月二十二日に芥川孫十郎は芥川山城を開城します。芥川山城は淀川支流の芥川に三方を囲まれた三好山(この後三好長慶が芥川山城に入ることでこう呼ばれます)にあり、芥川自体は川幅数メートル程度の小さい川なのですが、山中の川が生じさせた浸食作用のせいか三好山側の川岸は切り立った崖になっています。そのせいで攻城に手間がかかるかといえば、周囲の山が三好山より高いため、押さえること自体は容易です。いわんや万単位の軍勢を集めることができる三好長慶であれば、攻め落とすことは楽勝なはずなのですがあえてそうせず、芥川孫十郎の心が折れるまで待ちました。このあたりとても三好長慶らしいと思います。行き場を失った芥川孫十郎は三好之虎を頼って阿波に立ち去ったと伝えられていますが、その後の消息は不明です。主君である細川晴元を見捨てられずに宗家に反逆した芥川孫十郎にとって、宗家に役に立とうとして主君である阿波守護細川持隆を殺害した三好之虎とは思想的に相容れないはずです。考えられることと言えば、宗家を裏切る罪を犯した罰を求めての阿波行きであったのかもしれません。もしそうだとすれば、もの悲しさを感じざるを得ません。

 ここまで三好長慶は西摂津の越水城を拠点にしてきましたが、京の騒乱が立て続けに起こり越水城の遠さを感じざるを得ませんでした。その点、北摂津にある芥川城は摂津国中で最も京に近い場所にありました。芥川山城から芥川を下り、西国街道と交差するあたりに支城があり、ここも芥川城と呼ばれていました。平時はここを拠点とし、敵から攻められたときに山城に籠もるようになっています。そして、西国街道を西に下ると摂津国を横断して越水まで一本道です。三好長慶は越水城から芥川山城に拠点を移すことにしました。ここはかつて細川晴元も天文錯乱の頃に拠点としたことがあります。もちろん、現在はなりを潜めていますが、越水から京に向かう西国街道の途中には江口合戦では晴元に味方していた伊丹氏や、三好宗三と血族関係を持つ池田氏など、一筋縄では行かない国人衆がいますが、越水と芥川から挟撃できるので彼らへのにらみにもなります。また、芥川を船で下るとそのまま淀川に出ることができ、榎並、大物、堺まで陸路を使うよりも短時間で到着することが可能です。

 無論、欠点もあります。京へのルートを確保するためにはここだけを押さえても足りないということです。芥川城を東に向かい、山城国境に向かうためには桜井宿を通る必要があり、そこから大山崎を抜ける必要があるのです。桜井宿は太平記の中で湊川合戦に向かう楠木正成が息子の正行に教えを垂れて離別した桜井の別れで有名な所です。桜井宿と芥川城の間には淀川右岸の鵜殿の葦原と若山に挟まれた切所があり、さらに桜井から山城国に入るには同じく山と川に挟まれた大山崎の切所を通らねばなりません。大山崎を麓とした山は羽柴秀吉と明智光秀が戦った天王山で、ここに山崎城という山城があったそうです。大山崎からの淀川対岸には男山八幡宮があり、大山崎の油座の利権を保有していました。故に、京へのルートを確保するためには桜井宿、山崎城の確保とともに、男山八幡宮への目配りも欠かせなかったわけです。

 その他には、芥川城の眺望の問題もありました。芥川城は三好山に建てられ、芥川を天然の堀とし、断崖上に城郭のある山城ではありました。左右に山裾が広がっているとともに、それらの山は三好山より標高が高く、死角の大きい地形でした。三好山自体に防御力はあるものの、周囲の山より低いため、奇襲に弱そうな立地です。また、山城国境近くににある城ですが国境の山地が邪魔をして京方面を直接見渡すことはできません。唯一視野の広がる南側への眺望は芥川流域や淀川が一望できるのですが、その向こうにひときわ大きく見える山こそが、かつての木澤長政の居城であり、今は安見宗房が城主を務めている飯盛山なのでした。飯盛山からは京の街はもちろん、摂津のほぼ全域を眺望することができます。三好長慶がこの時点でそれを羨んだかどうかはわかりませんが、三好長慶は芥川山城を新たな本拠地として、細川晴元への反撃を開始することとなります。

 

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2020年8月 8日 (土)

中漠:善人令和編㉗鷹山弘頼の謀殺


 1546年(天文十五年)は普段は待ちの姿勢を貫く遊佐長教が積極的に動いた年でした。鷹山弘頼と安見宗房が山城上三郡(南山城の三郡)守護代に任じられたのもその布石でした。遊佐長教は摂津衆にも調略を仕掛け、晴元の勢力を蚕食したため、細川晴元は兵を率いて摂津に下っていました。入れ替わりに氏綱派の上野玄蕃が上洛したのです。この時将軍足利義晴も裏で細川氏綱とつながっていました。目論見通りにいけば細川晴元を失脚に追い込めた筈ですが、上野軍は準備不十分な状況下の上洛だったため、兵糧を現地調達に頼らざるを得なくなり、それが京中上下の反発を招くことになります。上野軍の失策に呆れた管領代六角定頼は寝返ります。そして丹波から来た細川晴元軍が上野玄蕃を追い払うと、鷹山弘頼・安見宗房も京を撤収せざるを得ませんでした。

 その後、安見宗房はかつての木澤長政の本拠地である飯盛山城を任されます。細川晴元はこの時までに一時氏綱方に奪われていた芥川城を奪還していましたが、敵の本拠高屋城を攻めるために、芥川城ではなく、榎並城に兵を集結させました。この時、細川晴元軍の主力が四国勢と合流する都合を考えると榎並城の方がよかったことは確かですが、芥川城から南下し東高野街道経由で高屋城に向かう進路は、途中飯盛山城の突破を要し、そこにまともに戦う気がある武将が配置された状況下での進軍は無理だったということでしょう。かくて舎利寺近辺で合戦が起き、敗北した遊佐長教の野望は潰えたかのように見えました。そこに再び介入したのが六角定頼です。放置しておけば三好長慶は高屋城を落としていたでしょうし、細川晴元政権は盤石なものになったと思われます。それも、六角定頼は望まなかったのでしょう。

 遊佐長教はその期を逃さず三好長慶を引き込んで再戦を挑みます。江口が戦場になった時、これに六角定頼も呼ばれたのですが間に合わずに三好宗三が敗死、細川晴元も敗走して将軍と一緒に京を捨ててしまいます。策士策に溺れたというところでしょうか。遊佐長教の影響力は紀伊・河内だけではなく、畿内全域に広がりつつありました。ここから遊佐長教が暗殺される間の安見宗房の動向はよくわかりませんが、後の情勢を見るに、遊佐長教にもそれなりに評価される働きをしていたと想像できます。

 遊佐長教の暗殺は河内国に大きな動揺をもたらしましたが、一族の遊佐太藤が陣代となりました。遊佐長教の嫡男はいましたが、僅か四歳だったのです。そしてその直後に遊佐・三好連合と足利義藤との和睦が成立し、遊佐太藤はそのまま将軍足利義藤の御供衆に任じられます。そのため河内国人衆を掌握する時間的余裕はありませんでした。その結果遊佐家の内衆同志で抗争が起こり、安見宗房が萱振・野尻両家を乗っ取ったわけです。譜代の遊佐家内衆はこれを支持し、河内守護として畠山高政を継承させて粛清後の体制固めをしました。

 しかし、足利義藤と遊佐・三好連合との和睦は一年余りで破綻します。と同時に立場を保証する者を失った遊佐太藤は河内国内の権力基盤が弱かったため失脚します。畠山高政はこの時六歳の遊佐長教の嫡男に信教と名乗らせて守護代に任じました。安見宗房の主導だったことは疑いないでしょう。彼は河内代表として三好軍とともに細川晴元らと戦い、実績を積んでゆきました。

 その反面、鷹山弘頼は遊佐長教暗殺前後からこれといった活動をしていません。実は事件の前年の1550年(天文十九年)六月二十日、大和国最大の実力者である筒井順昭が寂しました。彼は病を得て自らの死期を悟ると、延暦寺に隠棲します。そして木阿弥という盲目の僧を影武者に仕立て、当時二歳の嫡子順慶が成長するまで自らの死を伏せ、木阿弥が代理で大和国を統治するよう命じました。筒井順昭は河内の木澤長政、遊佐長教の支援を得て大和国で勢力を伸張させましたが、死の翌年に遊佐長教が暗殺されることは想定外だったでしょう。影武者には世情を鑑みた柔軟な対応をとれる筈はなく、その指示は現状維持的なものになった筈です。河内と大和に両属する鷹山弘頼はこの激動の情勢下、自重するしかなかったでしょう。

 これが飯盛山城を拠点とする安見宗房には不気味に映ったのではないかと私は想像します。自分は死を賭けた政治闘争をしているのに、鷹山弘頼が協力しないのです。丹波でも摂津でも阿波でも戦いの種は撒かれていました。鷹山弘頼の領地、大和国鷹山および河内国私部は飯盛山の搦め手と大手にあります。これらの状況は安見宗房の心に疑心暗鬼を生んだのではないでしょうか。1553年(天文二十二年)五月、鷹山弘頼は高屋城に招かれ、その場で畠山高政より自害を仰せつかります。その旧領は安見宗房に接収され、安見宗房は河内国最大の実力者となるとともに、大和国との戦争の火種にもなってゆくのでした。

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2020年7月25日 (土)

中漠:善人令和編㉖鷹山弘頼と遊佐長教


 木澤長政が幕府の敵になった結果、鷹山弘頼は自らの存立基盤を脅かされます。当然、幕府からは木澤長政を見限れとの命令が来た筈です。鷹山弘頼はそれに従いました。摂津・山城との国境が近く、河内にも領地を持っている鷹山弘頼は現実的な判断をしたわけです。三好宗三・長慶率いる細川軍が東高野街道を南下して、木澤・遊佐が激突する高屋城を目指して迫っていました。細川晴元につくと決めたならば、何が何でも木澤長政を没落させるしかなかったでしょう。さもなければ、自身が木澤長政に報復されてしまいます。その為には総州畠山在氏がいる飯盛山城を何とかしなければなりませんでした。

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 飯盛山城は眼下に東高野街道を臨み、その向こうには深野池が迫る切所でした。深野池内には三箇城と呼ばれる水上施設が飯盛山城の支城として機能しています。飯盛山城の総州畠山在氏がその気になれば、南下する三好軍をある程度足止めすることは簡単なことだったはずです。現に高屋城攻略の為に軍を進めていた木澤長政は背後から迫っている軍が三好軍であるとはつゆほども考えていませんでした。
 鷹山弘頼と安見宗房が取ったと考えられる方法は、河内私部城から兵を出して深野池内の三箇城と飯盛山麓の野崎を抑え、三好軍の通行を可能にすると同時に飯盛山に使いを出して総州畠山在氏が木澤長政に加担しないよう説得することだったのではないでしょうか。

 実際、摂津芥川城から淀川を越えて南下した三好軍は飯盛山からの妨害を受けたという記録もなく、木澤長政と遊佐長教が激突しているさなかの高屋城近辺の戦場に間に合うことができました。そしてそれが遊佐軍勝利をもたらし、1542年(天文十一年)三月十七日に木澤長政は太平寺にて遊佐長教の兵に討たれたのです。飯盛山城の畠山在氏への交渉ははかどらず、翌年一月までかかって飯盛山城は開城しました。その攻囲軍の中に鷹山弘頼と安見宗房はいたものと思われます。三箇城・野崎の押さえはあくまでも想像にすぎませんが、太平寺合戦がらみの功績で鷹山弘頼が細川晴元から感状をもらったのは史実です。退去した総州畠山在氏の身柄は本願寺が預かることになりました。

 太平寺合戦の戦後処理では、色々な政治的な思惑が錯綜したことは間違いありません。細川晴元は自らの虎の子である三好宗三・長慶を投入して木澤軍を撃破したものの、大将の木澤長政を討ち取ったのは遊佐長教でした。もし、三好勢が木澤長政を討ち取っていたなら、河内北部は細川晴元の分国になっていたでしょう。結局、飯盛山城は破棄されて、河内国は遊佐長教に委ねられることになりました。それに伴い、鷹山弘頼・安見宗房は遊佐長教に従うようになります。とはいっても、鷹山弘頼は大和国にも属しています。彼は1544年(天文十三年)に筒井順昭の柳生城攻めに増援として参陣し、柳生城を攻め落としています。

 鷹山弘頼としては木澤長政の死を契機とした危機をうまく乗り越えて河内と大和に両属する小領主としての安寧を得たはずでしたが、遊佐長教はそれを許しませんでした。1545年(天文十四年)に尾州畠山稙長が没すると、遊佐長教は細川氏綱を奉じて細川晴元に反旗を翻します。摂河泉の国人衆に調略をかけ、自らの軍勢に引き入れました。鷹山弘頼と安見宗房に対して提示された条件は破格なものでした。山城上三郡を治める守護代の地位です。その意図は安見宗房を取り立てる為ではないかと思います。すなわち、中間あがりの軽輩である安見宗房を大和と河内でそれなりの地位を持つ鷹山弘頼とセットで扱うことによって、安見宗房により大きな権限を持てるようにする為の方便です。

 遊佐長教は戦国武将としてはあまり戦場に立ちたがらないタイプです。しかし、常に戦場以外の所で勝つ為の布石を打ち、一たび出陣するや高確率で勝ちを拾う軍才の持ち主でした。天文の錯乱で本願寺をボコり、木澤長政を討ち取った手腕はその最たるものです。むろん、その勝利をもたらしたのは本願寺の時は木澤軍の、木澤長政の時は三好勢の力を借りてはいるのですが、そこに遊佐長教がいなければ、木澤長政は太平寺合戦で負けても討ち取られる所まではいかずに戦場を脱出できたような気がします。そうなれば、歴史はまた変わっていたでしょう。そして、これは個人的な想像ですが、太平寺合戦の折に飯盛山城にいた総州畠山在氏に開城を説得したのは安見宗房だったのではなかったかと思っています。開城後の畠山在氏は本願寺の世話になるわけですが、遊佐の反逆を機に細川晴元方につくものの最終的に三好長慶・遊佐連合に没落を余儀なくされます。その息子の尚誠が大和に逃れたわけですが、その地が越智氏の所領高取城の近くでした。「オチカタドノ」の中間出身の安見宗房が越智氏に話をつけて居場所を作ったのかもしれません。

1542年(天文 十一年) 三月 十七日 太平寺合戦。木澤長政、戦死。
1544年(天文 十三年) 七月二十九日 鷹山・十市の援兵600人、筒井方として参戦し、柳生城攻略『多聞院日記』
1546年(天文 十五年) 九月 十三日 上野玄蕃(細川国慶)、上洛。
  この月 安見宗房、氏綱方の武将として史料に現れる。
  十 月 鷹山弘頼・安見宗房、氏綱方の遊佐長教に山城上三郡守護代に任じられる。



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2020年7月18日 (土)

中漠:善人令和編㉕鷹山弘頼と木澤長政


 三好長慶は1553年(天文二十二年)八月一日の東山霊前城合戦において単独で戦っていた訳ではありません。途中で安見宗房率いる河内勢と合流しています。しかし、その河内の状況は非常に流動的でした。安見宗房には相方として抜擢された鷹山弘頼がいた筈でしたが、この合戦には参戦していません。それもその筈、同年五月に高屋城にて謀殺されていたのでした。本稿では、そんな鷹山弘頼のプロファイルを追ってまいります。

 鷹山氏は興福寺の官符衆徒の一族です。大和国人は概ね興福寺の檀徒であり官符衆徒は僧形で興福寺に武力を提供する大和の名族でした。鷹山庄は飯盛山の北東にあり平安時代に歴代興福寺別当を輩出する一条院に属する荘園として開発されました。ただ、鷹山庄の官符衆徒鷹山氏が記録に出てくるのは戦国時代の前後当たりです。一応鷹山氏は源頼光の末裔を称しておりますが、真偽は不明です。応仁の乱の頃に大和に流れてきた山名氏の被官ではないかという説もあるそうです。

 鷹山家は官符衆徒としては後発なので、大和の国人同士のしがらみには囚われずに小回りを利かせました。例えば、明応の政変後の1498年(明応七年)、細川政元に味方する興福寺大乗院系官符衆徒古市澄胤に自らの居城鷹山城を提供して敵対勢力秋篠氏と戦った記録があるそうです。鷹山庄は一条院が開発した荘園でしたが、鷹山氏は大乗院系の古市澄胤に加担したのでした。その前年、古市澄胤は筒井氏と戦って敗れ、山城国に逃げていたのですが、この戦いはその復讐戦です。さらにこの翌年に細川政元の命を受けて延暦寺を焼いた赤澤宗益が大和国をも蹂躙しました。鷹山庄は山城・河内と国境を接していて京の動向、特に赤澤宗益のヤバさも把握しやすかったものと見られます。

 1523年(大永三年)頃には父親と目される鷹山頼慶が亡くなり、鷹山弘頼が後を継いだと見られます。この頃大和国で勢力を持っていたのは一条院系官符衆徒の筒井氏で、1528年(享禄元年)鷹山衆はその配下として薬師寺西塔を焼いたりもしています。享禄年中には鷹山庄近隣の飯盛山に木澤長政が入りました。その後木澤長政は主君畠山義堯と争ってこれを倒し、嫡男在氏を傀儡として河内支配権を得ます。

 飯盛山は深野池を眼下に見下ろし、北河内と摂津全域を見渡せる好立地にありましたが、鷹山城はその見晴らしの良い飯盛山の死角にありました。木澤長政が飯盛山で安住するためには鷹山氏との良好な関係維持は必須だったでしょう。この辺は想像ですが、木澤長政は鷹山弘頼を畠山在氏に引き合わせ、その被官として河内国私部城を任せることにしたと思われます。木澤長政は筒井順興・順昭親子とも仲が良く、大和国守護と自称できる程度には大和国人衆を結束させることができたのです。

 そのきっかけは、天文錯乱における一向門徒衆の大和侵入でした。この時長年筒井家と争ってきた越智家当主の家弘は居城高取城を門徒衆に襲撃されましたが、筒井順興・十市氏らの援兵で撃退できました。ともに外敵を撃退したという実績が越智氏の敵意を薄れさせたようです。その越智氏出身の妻女の中間(身の回りの世話係)がいました。越智家家臣中村圓賀の息子と言われていますが、彼の後年の立ち回りを見るに、周旋の才と教養を身に着けた人物でした。その出会いはあくまで想像ですが、筒井氏の関与があったのではないかと思います。この中間はこの前後に河内国星田に領地を持つ安見友重の養子となり、安見宗房と名乗ります。私部近隣の星田に大和国出身者が入ることで鷹山氏も勢力を固めることができたのではないでしょうか。

 将軍足利義晴、管領細川晴元を中心にして丹波・摂津・河内の国人衆がこれを支えるのが、木澤長政の政権構想であり、その実現に当時の幕閣の中では最も真摯に取り組んでいました。木澤家は元々管領家畠山氏の在京官僚の家系でした。政治的なセンスと知見は持ちあわせていたのですが、ぶっちゃけ細川晴元は管領の器ではありませんでした。山城・摂津・丹波三国の守護であるにもかかわらず、洛中は天文法華乱で焼き尽くし、政権維持に必要な武力を保持する家臣三好長慶を忌み嫌うなど、晴元自身がトラブルメーカーだったのです。そのマイナスをフォローしようと木澤長政は尽力したのですが、他の幕閣衆には警戒され、さらに足利義晴に利用されて幕府の敵扱いされるに至ります。同盟者である南河内の遊佐長教にも背かれ、木澤長政は二上城に入って遊佐軍と戦います。

 この時、木澤長政の本城である飯盛山城には総州畠山在氏がいました。彼は木澤長政の傀儡でしたが、河内国主の資格保有者でした。そして、その北方の摂津河内国境の芥川では遊佐軍と木澤軍の戦争に介入するために細川晴元が三好衆を従えて南下しようとしていました。飯盛山近隣の大和国鷹山・河内国私部を領して木澤長政を支えてきた鷹山弘頼にも転機が来ていました。

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〇鷹山氏関連年表Ⅰ

1470年(文明  二年)   鷹山頼栄、鷹山城を築く。
1498年(明応  七年)   竹林寺、兵火により焼失。古市氏が鷹山城を根拠として秋篠氏・宝来氏と合戦
1500年(明応  九年)   鷹山頼栄(二代)没『鷹山家略譜』
1504年(永正  元年)   鷹山頼秀(三代)没『鷹山家略譜』
1519年(永正 十六年)   鷹山頼宗(四代)没『鷹山家略譜』
1523年(大永  三年)   高山頼慶(五代)没
1528年(大永  八年)    鷹山・矢田・超昇寺の三人衆と秋篠氏との戦いで薬師寺西塔を焼く
1531年(享禄  四年)   木澤長政、飯森山城で畠山義堯と合戦する。
1540年(天文  九年)   鷹山頼春(一門衆)没(墓塔)
1542年(天文 十一年) 三月 十七日 太平寺合戦。木澤長政、戦死。



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2020年7月 4日 (土)

中漠:善人令和編㉔丹波内藤家の黄昏


 東山霊山城合戦が起こった同じ月の二十二日、芥川城に籠城していた芥川孫十郎が降伏・開城します。彼の妻は三好三好長慶の妹でした。三好長慶率いる二万五千の軍勢は将軍脱出後の東山霊山城をわずか一日で陥落させていますので、芥川城はその気になればいつでも落とせたはずです。時間をかけて籠城戦を行っていたのは身内意識があったためかもしれません。開城後、彼は三好之虎のもとに引き取られ、その後の消息はわかりません。

 これをもって三好長慶と足利幕府が取り交わした和議は破談となり、この和議によって京兆家家督として管領になった細川氏綱の立場が宙に浮いてしまいます。和議以降、細川氏綱は各所に書状を送り幕府の命令を伝えておりました。それは三好長慶らの添書を必要とするものではありますが、一応機能はしていたのでした。しかし、和議の破綻で細川氏綱の書状には価値がなくなってしまいました。氏綱の書状の効力は三好長慶がその実効性を裏打ちし、それを将軍足利義藤が認めるという均衡があって初めて成立するものでした。義藤を欠いた今、細川氏綱は三好長慶にとって荷物以外の何物でもありませんでした。それでも彼を支える理由は残っていました。それが丹波国八木城にいる内藤国貞の存在でした。

 内藤国貞は丹波守護代として細川高国に仕えてました。細川尹賢の讒言によって細川高国が香西元盛を誅殺し、その兄弟の波多野稙通、柳本賢治が反乱を起こした時、これに呼応して高国の追い落としにこそ加担しましたが、その実細川高国の復権に手を貸している節があります。京で政務をとっていた柳本賢治が播磨に進出した細川高国・浦上村宗らに暗殺された折、六角氏の支援を受けた内藤彦七が細川高国方として一時京を占領しています。その後細川高国が戦死してこの占領もとん挫しますが、波多野兄弟が担いだ細川六郎(後の晴元)も政権を掌握する前に本願寺の暴走を止められず危機を迎えます。そこで波多野稙通ら丹波国衆は細川高国の弟晴国を支援します。晴国が挙兵した高雄山は波多野稙通の居城八上城より、内藤国貞の居城八木城の方がより近い位置にあり、先に述べた内藤彦七と同様細川高国方として協力していたと考えてよいでしょう。その後、細川晴国は門徒武士の三宅国村を通して本願寺方について石山入りしますが、本願寺には細川晴国を上洛させる意思はありませんでした。そして本願寺は幕府に降伏し、晴国が亡ぶと、丹波国衆は細川晴元に服します。

 それから十年ばかりはこともなく歳月が過ぎ、河内の遊佐長教が細川氏綱を擁立すると、摂津・丹波の国人衆の一部はこれに呼応します。丹波国でいち早く細川氏綱支持を打ち出したのは内藤国貞でした。遊佐長教は三好長慶を味方に引き入れて京に進出。細川晴元と足利義晴・義藤親子を京から叩き出すも、自らは暗殺されてしまいます。三好長慶が遊佐を引き継ぎ、足利義藤の帰京を実現しましたが、細川晴元の抵抗は続きます。摂津・丹波の国人衆や阿波衆に働きかけてこれを分裂させることに成功します。三好長慶は細川晴元の丹波の拠点をたたこうとしますが、摂津・山城国境にある芥川城の芥川孫十郎が晴元側につきます。三好方の分裂は阿波にも及び、そのせいで阿波守護の細川持隆は三好之虎、十河一存らの手で殺されるに至ります。

 この分裂は内藤家にも及んでいました。先の東山霊山城合戦の前哨戦で三好勢が守る西院小泉城を攻めていたのは内藤彦七でした。彼は享禄年間には細川高国方として柳本賢治敗死後の京を一時的に占領していました。細川氏綱は細川高国の後継者として名乗りを上げた人物です。それゆえに内藤国貞は氏綱を支持しましたのですが、内藤彦七はこの時、細川晴元方の大将として三好勢に敵対したのです。この時丹波にも三好軍は入っていて率いていたのは松永長頼、松永久秀の弟です。彼は八木城城主内藤国貞の支援のもとで八上城にいる波多野晴通討伐をしていたのですが、八上城を囲んでいた間に香西元成・三好政勝は八木城を破り、内藤国貞を討ち取ってしまいました。

 八木城が細川晴元の手に落ちたということは、松永長頼は敵中に孤立し、京に駐留する三好勢も脅威にさらされることになります。その報を知った松永長頼はすぐに八上城の攻囲を解き、山陰道を引き返して一日で八木城を奪還しました。しかし、内藤国貞の戦死は細川氏綱にとって大きな痛手となります。氏綱を支えていた三好長慶、遊佐長教、安見宗房および、その父祖は細川高国の直臣だった経験はありません。摂津の国人衆は実質的に三好長慶の傘下に収まっている中、細川氏綱の唯一の譜代衆と言える存在だったのです。国貞には男児がなく、松永長頼は内藤家に婿入りして内藤宗勝と名乗って八木城を確保します。これによって、細川氏綱はますます政治的立場を小さくしてゆくことになりました。

 

1553年(天文二十二年) 正月__一日 三好長慶、足利義藤に拝謁するも、不穏な雰囲気を感じる。
八日 三好長慶、淀城に退く。この後、足利義藤と和解。
二月二十六日 三好長慶、清水寺にて足利義藤と会見。
反三好派幕府奉公衆からの人質を求める。
三月__八日 足利義藤と三好長慶が決別し、東山霊山城に籠る。
芥川孫十郎再度三好長慶に背き、摂津芥川城に籠城する。
十六日 細川晴元、挙兵
六月_十七日 勝瑞の変。細川持隆、三好之虎に討たれる。
七月____ 足利義藤、細川晴元を赦免する。
八月__一日 東山霊山城合戦。足利義藤、三好長慶に敗れて朽木に逃れる。
八月二十二日 三好長慶、芥川城を降伏させる。芥川孫十郎、阿波に退去後消息を絶つ。
九月 十八日 三好政勝、香西元成、丹波国八木城を攻落。城主内藤国貞、討死。
後、松永長頼が奪還。国貞子息貞勝後見として内藤宗勝と名乗る。

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