2020年7月 4日 (土)

中漠:善人令和編㉔丹波内藤家の黄昏


 東山霊山城合戦が起こった同じ月の二十二日、芥川城に籠城していた芥川孫十郎が降伏・開城します。彼の妻は三好三好長慶の妹でした。三好長慶率いる二万五千の軍勢は将軍脱出後の東山霊山城をわずか一日で陥落させていますので、芥川城はその気になればいつでも落とせたはずです。時間をかけて籠城戦を行っていたのは身内意識があったためかもしれません。開城後、彼は三好之虎のもとに引き取られ、その後の消息はわかりません。

 これをもって三好長慶と足利幕府が取り交わした和議は破談となり、この和議によって京兆家家督として管領になった細川氏綱の立場が宙に浮いてしまいます。和議以降、細川氏綱は各所に書状を送り幕府の命令を伝えておりました。それは三好長慶らの添書を必要とするものではありますが、一応機能はしていたのでした。しかし、和議の破綻で細川氏綱の書状には価値がなくなってしまいました。氏綱の書状の効力は三好長慶がその実効性を裏打ちし、それを将軍足利義藤が認めるという均衡があって初めて成立するものでした。義藤を欠いた今、細川氏綱は三好長慶にとって荷物以外の何物でもありませんでした。それでも彼を支える理由は残っていました。それが丹波国八木城にいる内藤国貞の存在でした。

 内藤国貞は丹波守護代として細川高国に仕えてました。細川尹賢の讒言によって細川高国が香西元盛を誅殺し、その兄弟の波多野稙通、柳本賢治が反乱を起こした時、これに呼応して高国の追い落としにこそ加担しましたが、その実細川高国の復権に手を貸している節があります。京で政務をとっていた柳本賢治が播磨に進出した細川高国・浦上村宗らに暗殺された折、六角氏の支援を受けた内藤彦七が細川高国方として一時京を占領しています。その後細川高国が戦死してこの占領もとん挫しますが、波多野兄弟が担いだ細川六郎(後の晴元)も政権を掌握する前に本願寺の暴走を止められず危機を迎えます。そこで波多野稙通ら丹波国衆は細川高国の弟晴国を支援します。晴国が挙兵した高雄山は波多野稙通の居城八上城より、内藤国貞の居城八木城の方がより近い位置にあり、先に述べた内藤彦七と同様細川高国方として協力していたと考えてよいでしょう。その後、細川晴国は門徒武士の三宅国村を通して本願寺方について石山入りしますが、本願寺には細川晴国を上洛させる意思はありませんでした。そして本願寺は幕府に降伏し、晴国が亡ぶと、丹波国衆は細川晴元に服します。

 それから十年ばかりはこともなく歳月が過ぎ、河内の遊佐長教が細川氏綱を擁立すると、摂津・丹波の国人衆の一部はこれに呼応します。丹波国でいち早く細川氏綱支持を打ち出したのは内藤国貞でした。遊佐長教は三好長慶を味方に引き入れて京に進出。細川晴元と足利義晴・義藤親子を京から叩き出すも、自らは暗殺されてしまいます。三好長慶が遊佐を引き継ぎ、足利義藤の帰京を実現しましたが、細川晴元の抵抗は続きます。摂津・丹波の国人衆や阿波衆に働きかけてこれを分裂させることに成功します。三好長慶は細川晴元の丹波の拠点をたたこうとしますが、摂津・山城国境にある芥川城の芥川孫十郎が晴元側につきます。三好方の分裂は阿波にも及び、そのせいで阿波守護の細川持隆は三好之虎、十河一存らの手で殺されるに至ります。

 この分裂は内藤家にも及んでいました。先の東山霊山城合戦の前哨戦で三好勢が守る西院小泉城を攻めていたのは内藤彦七でした。彼は享禄年間には細川高国方として柳本賢治敗死後の京を一時的に占領していました。細川氏綱は細川高国の後継者として名乗りを上げた人物です。それゆえに内藤国貞は氏綱を支持しましたのですが、内藤彦七はこの時、細川晴元方の大将として三好勢に敵対したのです。この時丹波にも三好軍は入っていて率いていたのは松永長頼、松永久秀の弟です。彼は八木城城主内藤国貞の支援のもとで八上城にいる波多野晴通討伐をしていたのですが、八上城を囲んでいた間に香西元成・三好政勝は八木城を破り、内藤国貞を討ち取ってしまいました。

 八木城が細川晴元の手に落ちたということは、松永長頼は敵中に孤立し、京に駐留する三好勢も脅威にさらされることになります。その報を知った松永長頼はすぐに八上城の攻囲を解き、山陰道を引き返して一日で八木城を奪還しました。しかし、内藤国貞の戦死は細川氏綱にとって大きな痛手となります。氏綱を支えていた三好長慶、遊佐長教、安見宗房および、その父祖は細川高国の直臣だった経験はありません。摂津の国人衆は実質的に三好長慶の傘下に収まっている中、細川氏綱の唯一の譜代衆と言える存在だったのです。国貞には男児がなく、松永長頼は内藤家に婿入りして内藤宗勝と名乗って八木城を確保します。これによって、細川氏綱はますます政治的立場を小さくしてゆくことになりました。

 

1553年(天文二十二年) 正月__一日 三好長慶、足利義藤に拝謁するも、不穏な雰囲気を感じる。
八日 三好長慶、淀城に退く。この後、足利義藤と和解。
二月二十六日 三好長慶、清水寺にて足利義藤と会見。
反三好派幕府奉公衆からの人質を求める。
三月__八日 足利義藤と三好長慶が決別し、東山霊山城に籠る。
芥川孫十郎再度三好長慶に背き、摂津芥川城に籠城する。
十六日 細川晴元、挙兵
六月_十七日 勝瑞の変。細川持隆、三好之虎に討たれる。
七月____ 足利義藤、細川晴元を赦免する。
八月__一日 東山霊山城合戦。足利義藤、三好長慶に敗れて朽木に逃れる。
八月二十二日 三好長慶、芥川城を降伏させる。芥川孫十郎、阿波に退去後消息を絶つ。
九月 十八日 三好政勝、香西元成、丹波国八木城を攻落。城主内藤国貞、討死。
後、松永長頼が奪還。国貞子息貞勝後見として内藤宗勝と名乗る。

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2020年6月21日 (日)

中漠:善人令和編㉓将軍逃亡


 足利義藤が帰洛して以降、三好長慶は負け続きでした。そして負けが込んでくると、長慶の軍団は分裂の様相を呈してきます。その原因は三好長慶による細川氏綱擁立にありました。
 江口合戦までは三好長慶と細川晴元との対立が主軸で、細川晴元は三好宗三ではなく長慶を重用しろというのが三好側の言い分でした。三好宗三は細川晴元のお気に入りではありましたが、三好家の序列では一門の傍流にすぎません。長慶はその頃、細川氏綱を奉じる遊佐長教と組んではいましたが、建前としてはあくまでも摂津国人池田家への介入でしくじった三好宗三への処罰を細川晴元に求めたのが江口合戦の名分でした。

 三好長慶は江口合戦には勝利しましたが、結局細川晴元の屈服までには至りませんでした。そうこうしているうちに遊佐長教は暗殺されて、いつの間にか三好長慶が細川氏綱の保護者の立場となっていました。遊佐長教は三好長慶の岳父でしたから長慶には否応はありませんが、一門衆にとっては微妙だったのは間違いないでしょう。足利義藤にしても、細川晴元に都落ちさせられたものの、晴元単独では京都奪還は望めない。それどころか、五山派の総本山とも言うべき相国寺を燃やしてしまって『だめだこいつ、早く何とかしないと』状態になっていました。六角氏や朝倉氏などの義藤(と言うかその父親義晴)の与党の大名達は元々細川高国派でもありました。足利義藤にとって摂津・丹波、そして山城国からなる畿内中心部の主はべつに細川晴元でなくともよかったのです。しかし、この新体制は今一つうまく機能せず、長慶を中心とした三好家は割れて以前のように実力を従前に発揮できなくなっています。そう、細川晴元はぎりぎりまで追い詰められはしましたが、その後善戦していたのでした。

 さらに言うなら足利義藤の還京は伊勢貞孝の抜け駆けに引きずられたものでした。この人物は足利義藤への忠誠よりも、在京の利権を優先します。後にそれが露骨に表れた為に自滅する運命をたどることになるのですが、伊勢貞孝のこの行動は幕閣を真っ二つに割ることになります。当然足利義藤にとって愉快な話ではありません。三好長慶との戦いのきっかけになった、幕閣人質要求の対象者は反伊勢貞孝派です。要するに伊勢貞孝が三好長慶と結託して幕府を牛耳ろうとしているという構図でした。伊勢家も山城国一揆の頃には京兆家当主(政元から高国の頃)の言いなりでしたが、氏綱に貞孝を抑える力量がないのは明らかでした。

 1553年(天文二十二年)東山霊山城に入っていた足利義藤は七月になって密かに細川晴元を赦免します。それに呼応して細川晴元は洛北長坂口、船岡山に陣地を構築して気勢を上げます。この時は河内の安見宗房が撃退しますが、細川晴元の蠢動は収まりませんでした。この時三好長慶は芥川城に籠城する芥川孫十郎の説得の為、摂津・山城国境にいました。芥川城は西国街道を扼する要地にあり東側は淀川と天王山山系が接する切所なので、摂津越水から西国街道を進む三好長慶の進軍を阻みうる地形であることは確かなのですが、三月に蜂起した芥川孫十郎に対し、四ヶ月経ても三好長慶はこれにかかりきりでした。細川晴元が各地で三好方の切り崩しに成功している中、三好長慶は後手を踏んでいることは否めません。

 足利義藤は段階を一歩進めて細川晴元に洛中の三好勢の排除を命じました。七月二十八日、細川晴元軍に延暦寺・醍醐寺宗徒達が加わった一千の軍勢が洛中の三好家の拠点に火を放ちます。京中における三好方の拠点は洛中城塞外にある西院小泉城のみとなってしまいました。翌日、足利義藤は細川勢の出仕を求めます。現れたのは晴元の腹心である香西元成と丹波国人の内藤彦七でした。細川晴元軍は残る三好勢の拠点西院小泉城の攻略にかかります。

 三好氏の洛中拠点が焼かれ、西院小泉城が危地に陥っていることはすぐに三好長慶の耳に入り、芥川の囲みは一旦放棄して小泉城救援に向かいます。途中で合流した河内の安見宗房軍と併せて二万五千の大軍だったと言います。細川晴元軍を率いた内藤彦七は三好勢接近の報に戦意を失い、小泉城を攻め切れず、東山霊山城に引き上げます。内藤彦七が霊山城に帰った時、足利義藤はそこにいませんでした。すでに船岡山に撤退していたのです。

 八月一日、上洛した三好軍は東山霊山城に殺到し、これを陥落させました。大軍で囲んで鉄砲を打ち込み脅しをかけると守将の松田監物は自害し、城兵は総崩れとなって城を自焼きして撤退しました。足利義藤は帰る場所を失って朽木に逃れざるを得ませんでした。色々な所で三好長慶の勢力が分裂していたのは事実だし、細川晴元軍が度々洛中に侵入できたのも事実でした。しかし、細川晴元の抵抗はしょせんゲリラ的なものであり、足利義藤には晴元の勢力を誇大に見せていたのでしょう。足利義藤はまんまと細川晴元に吊り上げられたのでした。

 

1553年(天文二十二年) 正月__一日 三好長慶、足利義藤に拝謁するも、不穏な雰囲気を感じる。
八日 三好長慶、淀城に退く。この後、足利義藤と和解。
二月二十六日 三好長慶、清水寺にて足利義藤と会見。
反三好派幕府奉公衆からの人質を求める。
三月__八日 足利義藤と三好長慶が決別し、東山霊山城に籠る。
芥川孫十郎再度三好長慶に背き、摂津芥川城に籠城する。
十六日 細川晴元、挙兵
六月_十七日 勝瑞の変。細川持隆、三好之虎に討たれる。
七月____     足利義藤、細川晴元を赦免する。
八月__一日 東山霊山城合戦。足利義藤、三好長慶に敗れて朽木に逃れる。

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2020年6月13日 (土)

中漠:善人令和編㉒細川持隆の年齢について

 ここまで細川持隆は勝瑞の変の段階で五十七歳、宗家の細川晴元とは十七歳の年齢差があり、長慶を始めとする三好兄弟の親代わりとなって支えてきた保護者として記載してきました。本稿は今谷明氏の「戦国三好一族」を主に参考とし、腹落ちしない部分は調べながら書いてきたのですが、細川持隆の年齢について面白い別説に行き当たりましたので、紹介します。

 端的に言うと、細川持隆は従来細川晴元の伯父と言われてきましたが、実は細川晴元の弟であり、晴元より一、二才年少であるという説です。これは「戦国期細川権力の研究」の中で馬部隆弘氏が提唱されている説です。

〇細川両家記 享禄五年三月三日条
 御舎弟讃州を以申分られけれ共、晴元御心ゆかず

〇細川高国晴元闘争記
 六郎君(細川晴元)高弟讃州府君、齢僅十五六、眉宇秀発、友愛之情、凡眉睫間、擁万騎、救兄於危難間

 簡単に言うと上記戦記物の史料においては讃州と呼ばれる人物が細川晴元の弟とされ、それが持隆であると言っているわけです。そして細川持隆を晴元の伯父としているのは、近世以降の系図史料かららしい。この説明は細川之持の死が天文二年頃であるとされた先学の説を否定する中で提示された情報であり、持隆の年齢を目的とした論考ではないのですが、実に興味深い内容です。

 この説が正しいとすれば、当ブログにおける持隆に関する四国事情も書き直す必要があるのですが、ほかにも重要なポイントがあります。

 その最たる部分は天文錯乱前後に細川晴元が足利義維から義晴へ鞍替えした際に、細川持隆の意見が顧みられなかった理由です。持隆の制止は彼が若輩なため説得力が伴わなかったのだとはっきりします。そうだとすると、阿波陣営の首脳には三好元長以外の大人がいないことになってしまいます。今谷説だと「管領代」茨木長隆が影響力を発揮したせいとしていました。この説はぽっと出の摂津国人がいきなり管領代になること、そして反三好元長派を形成して細川晴元を頭に据える才覚があったのかという点で不自然さは否めませんでした。現に茨木長隆は後に細川氏綱の奉行人になりましたが、この時はほとんど目立った動きはしていません。馬部氏の著書の説明によると細川晴元の後見役として細川讃州家(阿波守護家)の一族に可竹軒周聡という人物がいて、この人物が細川晴元の方針転換に重要な役割を果たしたことになっています。この可竹軒周聡は僧籍にあり、細川晴元の側近集団である御前衆の筆頭として貢献していました。そして細川晴元がこの可竹軒周聡に対し敬語を使っていることから、細川一門讃州家(阿波守護家)出身で晴元・持隆らを後見していた立場にあったと推測されているわけです。御前衆の構成メンバーは可竹軒周聡、木澤長政、三好政長、茨木長隆です。
 ただ、可竹軒周聡は天文錯乱を境に登場しなくなり、御前衆筆頭も木澤長政に代わります。細川両家記天文二年二月十日条に一向門徒勢が堺を襲撃した折、御前衆数人が討ち死にしたという記載があるのですが、実際は木澤長政、三好政長、茨木長隆らは生きており、ここでそれ以後登場しなくなる可竹軒周聡が討ち死にしたのではないかという説も立てられています。これもまた興味深く、茨木長隆が役者不足な所をうまく補っていると思います。ただ、少なくとも茨木長隆については細川六郎の代理として署名した書状が残されていますが、可竹軒周聡の立ち位置については、まだまだ私自身勉強しなければならない部分があります。

 そのほか、細川晴国の乱、氏綱の乱で活躍した高国派残党をまとめ上げて山城丹波国境で挙兵した上野玄蕃を当ブログでは今谷氏の著書に倣って上野元治としていましたが、馬部氏の考証にて元治は年齢的に一世代前の人物であり、この時代においてはその孫の国慶を充てるのが妥当なのだそうです。

 また、天文錯乱(第一次石山戦争)にて幕府と本願寺との間の講和に三好千熊丸(長慶の幼名)が仲介者となった時、阿波にいた千熊丸と細川晴元との仲介役になったのが光勝院周適という僧です。光勝院は京兆家の祖である細川頼春の菩提寺で阿波守護家の庇護下で発展した禅宗寺院でした。その住持である光勝院周適も細川阿波守護家の者と考えられています。三好千熊丸にとっては主筋にあたる人物であり、虫の良すぎる細川晴元・三好政長らの懇願をとりなすにはうってつけの人物であったでしょう。そして、幼少の三好千熊丸の補佐として和睦を実効性あるものにするために奮戦した三好伊賀の実名が三好連盛であることが記されていました。

 総じて「戦国期細川権力の研究」は、今谷氏の著書の中で下克上の世の中とはいえ過激なことが横行していると感じる事件について、史料に基づいてある程度納得できる立場の人物による関与があることが示唆されています。但し、可竹軒周聡、上野玄蕃国慶、光勝院周適、三好連盛らの実際の立ち位置などが細川持隆の実年齢を含めて、その根拠に整合性が取れているかどうか、まだ腹落ちしていません。同書は図書館で借りてチラ見しているだけなのですが、ぜひ購入して詳しく勉強したい所です。ただ、この本はぶ厚くて重くて何より少々お高い。けどそれに見合った内容であることは間違いありません。少しずつでも読み込んでみようかと思います。

 

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2020年6月 6日 (土)

中漠:善人令和編㉑鑓場義戦


 細川持隆が殺害された理由は何でしょうか。にわかに足利義冬の息子(義栄)を擁立して上洛しようと思い立ったが、三好之虎に露見したとか、三好之虎をにわかに憎み、相撲見物にかこつけて暗殺しようとした所、露見してしまったとか、色々憶測されているわけですが、子供の頃から三好兄弟を見守り続けてきた阿波の太守がこの期に及んで謀略に走るとは考えにくいです。

 強いて言うなら、江口合戦後に畿内から弟達を引きあげさせたことで、三好長慶が甚だ不利を蒙ったせいかも知れません。三好之虎は兄を助けに行きたかったにもかかわらず、細川持隆がそれも認めなかった。だからではないかと私は考えています。細川持隆による足利義栄擁立説もあるのですが、何しろ戦っている当事者が細川晴元と三好長慶という身内同士です。彼にしてみれば、こんな騒乱に巻き込まれたくないというのが本音だったのではないでしょうか。現に彼は天文錯乱においても肝心な所で三好元長を見捨てて四国にひきこもっていました。身内の争いごとが嫌いな性格だったのでしょう。

 細川持隆が作り上げた讃岐・阿波・淡路三国の体制は畿内の細川晴元の為の常備軍という位置づけでした。すなわち、舎利寺合戦の時のように細川晴元の号令の下に三好長慶とその弟達が集結し、武威を天下に示す。その為に三好之虎、安宅冬康、十河一存らが育てられたのです。流動化する戦局に対しもてあますほどの力を持っているにもかかわらず、その行使を禁じられた弟達はストレスがたまっていたはずでした。その間に、遊佐長教は暗殺され、丹波遠征を行った三好長慶は芥川孫十郎の離反により撤退を余儀なくされ、さらには将軍足利義藤に敵対されて窮地に追いやられます。なので、この下克上の原因は細川持隆の工作の結果というよりも、兄長慶の窮地を救う為に一刻も早く四国勢を畿内に入れようと焦った弟達の暴走という方が実態に近いのではないかと思います。

 最大の障害である細川持隆を除いた後には、新体制を構築する必要がありました。その旗印が細川持隆の遺児真之です。この二年前に周防国で大内義隆が陶隆房(晴賢)に討ち取られ、子の義長が立てられたのと同じ流れでした。いわば主君押し込めの失敗例であり、陶隆房も謀反の三年後に毛利元就に滅ぼされます。今回の三好兄弟の謀反についても一族以外の阿波・讃岐国人衆への根回しは不十分でした。

 細川持隆が最後を迎えた勝瑞城の南西、吉野川の対岸に芝原城があります。細川持隆の家臣としてそこを守っていたのが久米安芸守です。彼の妻は細川持隆の妹だそうです。彼が佐野丹波守や仁木高将、小倉重信、野田内蔵助ら、同志を集めて三好之虎一党に戦いを挑みました。彼には義広(または義弘)という諱が後世に伝えられているのですが、「三好義賢」と同じく足利将軍から偏諱をもらえる立場にありません。また、久米安芸守一党の反乱は義挙として後世に伝えられており、義広という諱は「正義を広める」という意味にもとれます。故に義広という諱は実際に久米安芸守が名乗ったのではなく、彼の生き様を後世に伝える際に新たにつけられたいわば「真田幸村」のようなものではないかと私は考えています。そして久米安芸守は三好之虎の舅でした。すなわち、彼の娘が三好之虎の妻だったわけです。久米安芸守が集めえた兵は寡兵でしたが、舅として婿の無道を罰しなければならない責務を負っていました。かたや三好之虎は阿波勢を率いて四国はもちろん畿内にもその覇を見せつけた実力者です。その動員力は久米安芸守が到底太刀打ちできるものではありませんでした。

 両軍は黒田鑓場という地で対決しますが、「衆寡敵せず」の言葉通り、久米安芸守勢は敗北します。追い詰められつつも旧主の恩義を言いつのりながら攻めかかる久米安芸守に三好之虎の軍兵は刃を向けられませんでした。その最期はそれに憤激しての自刎だったとされています。三好之虎は主君のみならず、舅までも殺害してしまったわけです。阿波守護家は細川真之に継がせたとはいえ、その正当性はボロボロでした。それでも之虎には阿波の体制を立て直して畿内で孤立しつつある兄長慶を助けなければなりません。その為にとった手段が亡き主君細川持隆の妻で現当主の細川真之の母を自らの妻として迎えるということでした。持隆の妻の名は小少将という名が伝わっており、阿波国西条東城を任されていた岡本牧西の娘だそうです。これにより岡本氏の支持は取り付けられ、母小少将を通して阿波守護細川真之をコントロール下に置くことが可能になったわけです。もう一人の妻である久米安芸守の娘の運命も推して知るべしでしょう。

 之虎には兄長慶を一刻も早く助けたいという一念しかなかったかも知れません。しかしこれは人倫に悖る行いでした。この善人を疾く助ける為にとられた行動は実に迂遠でかつ、無道に堕ちたものだったのです。

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2020年5月30日 (土)

中漠:善人令和編⑳勝瑞の変


 舎利寺合戦においては、四国勢を交えた細川晴元とオール三好での戦いだったわけですが、その直後に三好家が長慶派と宗三派に分裂します。遊佐長教の調略に三好長慶がかかった形になったわけですが、形勢の悪い時には細川氏綱を隠してしまえる遊佐長教のしたたかさが惜しまれます。宗三派による摂津国人の懐柔に失敗した結果の分裂だったわけで、三好宗三・政勝親子は孤立していました。

 三好宗三・政勝親子の掣肘の為に四国勢(含む淡路)からは安宅冬康と十河一存が参加します。三好之虎が出てこなかったのはおそらくは同じ勝瑞城にいる細川持隆に遠慮したというところでしょうか。逆に細川持隆は安宅冬康と十河一存を止めることができませんでした。三好長慶が唱えたのはあくまでも摂津国の仕置きに失敗した三好宗三・政勝の排除であり、三好一門の惣領権の行使と言われれば、押し切ることも難しかったのかもしれません。
 ただ、戦の経過は宗三達の排除だけでは済みませんでした。三好長慶は摂津国人のあらかたを調略した上で、三好政勝がいる榎並城を遊佐長教とともに包囲すると、三好宗三と細川晴元までが釣れてしまいます。

 先手を取った三好長慶としては江口城に三好宗三を包囲します。その気になればすぐに落とせる江口城を囲んだだけで攻城はしませんでした。江口城内の三好宗三は籠城前提でこの城に入ったわけではありませんので、突破戦を試みますが、押し返されてしまいます。三好長慶としては三好宗三を拘束して細川晴元と交渉をする腹積もりだったのでしょう。しかし、細川晴元は頑なで、妥協するどころか対立構造を三好一族の抗争から足利幕府対三好長慶にもってゆくつもりでした。細川晴元は近江の六角氏に救援を求めます。結局タイムアップが迫り、三好長慶は江口城を落とします。三好宗三はその場では死なずに息子のいる榎並城に落ちようとしましたが、遊佐長教の網にかかって討ち死にします。

 細川晴元は三好宗三の死によって、三好家の内訌から足利幕府対三好長慶の構図に持ってゆくことに成功したと言えます。遊佐長教に背中を押された形なんですが、これが足利将軍まで京から坂本に避難させる結果になりました。これは三好長慶にとっては想定外だったはずです。この状況をまずいと感じたのか細川持隆はどうも安宅冬康と十河一存を撤収させたようなのですね。細川持隆からしてみれば、三好家中の成敗権の行使として二人の助力を認めたわけですが、幕府体制を揺るがす結果となってしまったのですから。しかも、事態を悪い方に推し進めた遊佐長教は暗殺されて彼が保護していた細川氏綱の代弁者の役目は三好長慶が負うしかなくなってしまったのでした。結果細川氏綱は京兆家家督と管領職を回復し、足利義藤は京に戻りました。細川晴元は排除されたものの、一見元のさやに納まったように見えます。しかし、この状況は四国の細川氏綱にとっては、高国系の氏綱を京兆家家督と認める体制に疑問を持たざるを得なかったでしょう。

 しかも、細川晴元は諦めていませんでした。若狭国小浜から三好政勝・香西元成らをつかって京を挑発し、波多野晴通もこれに呼応します。氏綱が守護することになった丹波国平定の為に兵を出さねばならない事態になっていました。三好長逸と松永兄弟達は京に置いておかねばなりません。弟三名は四国に帰っていて、河内の安見宗房も河内のゴタゴタを収めている最中で軍の動員には時間がかかりました。やむを得ず自らが総大将になって丹波に遠征し、波多野稙通の八上城を包囲しますが、芥川孫十郎の離反によって戦線を維持できなくなります。この敗戦は足利義藤をして細川晴元にも勝ち目ありとの判断をさせ、彼は霊山城に入ります。三好長慶は窮地に陥るわけです。

 三好長慶と細川晴元の保護者として四国から援助し続けてきた細川持隆としては困った形となりました。当然宗家当主の細川晴元からは自分に味方するように要請が来ていたものと思われます。しかし、細川持隆が阿波守護として細川晴元を助けようとする時に実際に動くのは三好之虎、安宅冬康、十河一存ら三好長慶の弟達です。その中でも十河一存は江口合戦の序盤で細川晴元のいる三宅城に強襲偵察を仕掛けた確信犯でもありますので、素直に言うことを聞くとも思えませんでした。

 とは言え、長い年月をかけて育て上げた三好軍団を割るわけにはいかないという逡巡もあったと思われます。その躊躇は逆に三好長慶の弟達によってつかれることとなりました。

  1553年(天文二十二年)六月 十七日 細川持隆は三好之虎の暗殺を計画したと言います。これを察知した三好之虎は十河一存とともに勝瑞城を包囲、細川持隆は籠城して周辺の国人衆に救援を求めますが、助けは入らず、絶望して自害しました。世にいう勝瑞の変です。

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2020年5月16日 (土)

中漠:善人令和編⑲細川持隆の本懐


 幕閣の争いにおいては伊勢貞孝が機先を制して上野信孝を圧倒していました。三好長慶と足利義藤との会見のセッティングおよびこの騒動の落としどころまでシナリオを書いていたのはおそらくは伊勢貞孝であったでしょう。では、なぜ足利義藤はその路線に乗らなかったのでしょうか。足利義藤が三好長慶の下克上を快く思わなかったとか、幕閣から抜け駆けして三好長慶方についた伊勢貞孝が気に入らなかったとか、対立する二つの勢力のバランサーとしての立場を維持したかったから、とか色々考えられるのですが、もう一つ考慮に入れておくべき要素があるかと思います。それは、足利義藤が細川晴元との関係を完全に断ち切った場合、細川晴元が阿波にいる足利義冬(義維)を担ぎ出してくるという可能性に思い至ったという事もあるかもしれません。

 細川晴元は若狭国小浜に亡命しているとはいえ、旧領地への影響力は絶大でした。丹波国は波多野晴通が、摂津国には芥川孫十郎が三好長慶に対して抵抗を始めたのです。しかも芥川孫十郎は三好一門衆の一人でした。三好衆は長慶率いる一門衆と政勝が率いている旧宗三軍に分裂していました。江口合戦では細川晴元と敵対することも厭わなかったのですが、三好長慶が細川氏綱を立てる事に対しては、長慶配下の一門衆すら割れるのです。芥川孫十郎の父は芥川長光といい、祖父の三好之長とともに等持院合戦で細川高国に討たれています。その死は助命を条件とした投降であったにもかかわらず、武器を取り上げられた後に死罪を言い渡されるという騙し討ち的なものでした。三好長慶の特異な性格は置くとして、細川高国の後継者を謳う細川氏綱を芥川孫十郎が信用できないのはやむを得ない部分があったでしょう。

 では、もう一つの京兆家が守護職を受け継ぐ讃岐国はどうでしょうか。ここは阿波守護の細川持隆に委ねられていて、天文錯乱で決別して以来疎遠になっていますが、彼の元々の望みは足利義冬(当時は足利義維)を将軍に、細川晴元を管領とする幕府を築くことを願い、その為の犠牲も多々払ってきました。ここで細川晴元がかつての政権構想の実現を細川持隆に持ち掛けたとすれば、堺幕府復活不可避なわけです。義藤にとっては将軍位を追い落とされる危険が巨大化するというわけでした。そういう不安が足利義藤にあったとすれば、三好長慶に肩入れする伊勢貞孝の意見を容れるにはリスクが伴うと考えざるを得ないところだったでしょう。ここは三好長慶とは一定の距離を置くことが必要と判断したと考えられます。

 この考えはおそらくは杞憂ではなかったと思われます。足利義冬がいた四国阿波において、阿波細川家中のお家騒動が発生しました。当事者となったのは讃岐および阿波守護細川持隆、そして阿波国守護代三好之虎と讃岐国守護代十河一存の三好兄弟でした。阿波細川家は両細川の乱において細川澄元・晴元親子、そして足利義冬(義維)を一貫して保護し、その上洛活動を助けてきました。その甲斐あって足利義維(義冬)と細川六郎(晴元)を堺に入れてそこに幕府組織を構築することに成功します。しかし、その成功は一時的なものにすぎず、堺の幕府は無惨な崩壊を迎えるに至ります。その諸行無常を目の当たりにして細川持隆は四国に引きこもることにしました。もちろん、堺幕府崩壊に伴い三好元長をはじめとする有為な人材を数多く失なったために領国である讃岐・阿波、そして三好之長の代に手に入れた淡路の経営再建に注力せざるを得なかったという事情もあったりします。結局畿内には細川六郎(晴元)、三好千熊丸(長慶)、三好政長(宗三)のみを送り、その間のフォローはあまりできていません。そのせいで三好長慶は苦労することになるわけです。

 但し、細川持隆は千熊丸以外の三好元長の遺児たちを四国でしっかり教育し、阿波細川家の次代を支える人材として育て上げました。次男の之虎は自らの居城の勝瑞城に住まわせて阿波国守護代として右腕としました。三男の冬康は淡路の水軍衆安宅氏の養子に入り、安宅冬康として淡路水軍衆を率いて畿内と四国の流通を担うようになります。四男の一存は細川宗家から預かっている讃岐国の守護代として讃岐衆を率います。あと一人、冬長という末弟がいて淡路島の志知の国人野口氏の養子に入ったという記録もあるのですが、この人物はどうやら早世したようで、詳しいことはわかっていません。

 木澤長政が畿内の動乱に巻き込まれて戦死すると、細川氏綱が挙兵します。細川晴元は三好宗三、長慶らを使ってこれを攻め滅ぼそうとしますが、木澤亡き後の摂河国人衆の向背は定かならずという状況で、宗三・長慶は苦戦します。そこで三好之虎が安宅冬康の船に乗って援軍に駆け付けるようになりました。彼らが一堂に会して細川氏綱と遊佐長教軍を舎利寺で破った折には細川持隆は自らが育てた三好元長の息子たちの活躍を聞いて、今は亡き三好元長に面目を施したと感じたに違いありません。しかし、事態は彼の望まない方向に進んでゆくのです。

 

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2020年5月 9日 (土)

中漠:善人令和編⑱足利義藤という男


 丹波遠征をめぐる一連の騒動で足利義藤は三好長慶の性格を把握したようです。戦争指揮能力と正義感は高いが、詰めが甘い善人であり、根回しが必要な利害関係の調整も不得意というところでしょうか。海千山千の曲者を相手にしてきた足利将軍の相としては軽く見えたとのでしょう。実際は遊佐長教が木澤長政や三好宗三を殺すところ、安見宗房が萱振一族を族滅したところを見ていましたし、安見宗房の主張を受けて自らも、根来寺松坊にいたという遊佐長教の弟を有馬温泉にて捕縛殺害しているので、決して子供っぽい正義感だけを振り回しているわけではないのですけれどね。

 1552年(天文二十一年)四月に三好長慶の丹波遠征が失敗して細川晴元方の兵が京近辺に現れ始めると、幕閣の意見が二つに割れます。一つは奉公衆上野信孝を中心とした細川晴元派と、三好長慶との和解を主導した政所執事伊勢貞孝を中心とした細川氏綱・三好長慶派です。上野信孝の先祖は観応の擾乱の頃に岩見国守護をやっていた上野頼兼です。1509年(永正六年)に足利義尹(義稙)の配下として備中鬼邑城を任せられたという記録があるそうです。本稿が1550年代あたりの話をしていますので、ざっと四十年前から現役武将をやっている古参であったことがわかります。

 細川晴元軍の京近辺への出没に備えて、足利義藤は現在の東山清水寺から丸山公園あたりにあった霊山城の改修を始めます。そのために足利義藤は洛中寺社に竹・木・人夫の提供を命令したのですが、これに政所執事の伊勢貞孝が反対します。一月に京へ帰ってきたばかりなのに十月には戦に備えた徴発を行うのは寺社の不満を買うだけだと思ったのでしょう。しかし、上野信孝を始めとした幕府奉公衆はこれを伊勢貞孝の専横として非難したのです。

 改修着手から一ヶ月も経たぬうちに細川晴元軍が高尾から西岡近辺を放火しつつ上洛します。迎え撃つ三好軍にとっては奇襲だったようで、西院城を自焼きして霊山城まで撤退。両軍はその翌日に清水坂で両軍交戦しました。このことによって、霊山城改修の先見性は証明されます。細川晴元軍は河内から安見宗房が兵を引き連れて上洛しつつある報を受けて撤退しました。但し、この合戦は細川軍が方々に放火し、建仁寺も類焼したわりに戦死者はでず、双方手負いが六、七名にとどまったことが、三好長慶と親三好派幕閣にある疑いをもたげさせます。すなわち幕府の中に親細川晴元派の勢力がいて、手引きしたのではないかということです。

 年が明けて1553年(天文二十二年)の元旦、三好長慶は足利義藤に拝謁します。先の清水坂合戦における助力への謝意を申し述べるためでしたが、足利義藤は三好長慶を叱ります。足利義藤にしてみれば、丹波遠征失敗だけではなく京の治安を脅かされたことは三好長慶の失態でした。あるいは義藤側近に讒言をする者がいたのでしょう。三好長慶は不穏な空気を感じて八日には淀城に撤収します。以前も襲撃を受けているので警戒はやむなしですが、三好長慶に落ち度なしとはしないがここまで追い詰めるのは不当と考えた伊勢貞孝が反撃にでました。

 伊勢貞孝は立場を同じくする幕臣、松田光致、大和晴完、松田盛秀、松田光秀、結城貞胤、中沢光利らと起請文を交わして同心し、三好長慶を讒訴する上野信孝ら六名を弾劾します。六名のうち今谷明氏の著書に乗っているのが上野、彦部、細川刑部の三名です。上野は上野信孝、彦部は足利幕府創業期に活躍した高師直と同じ高階氏の末裔でこの時期は彦部晴直が当主だったと考えられます。細川家で刑部の官職を持っているのは和泉上守護家当主の細川元常でした。和泉国は江口合戦の頃に守護代松浦守が三好長慶方について細川元常は晴元とともに京を追われていました。和睦で京に帰還したものの、三好長慶について含むところがあったものと思われます。この弾劾書に三好長慶および、細川氏綱の弟で典厩家を継いだ細川藤賢の連署を得た上、足利義藤と三好長慶との再度の談判にさらに多くの幕臣たちの賛同を得ました。

 上野信孝らは型に嵌められたと言ってよいでしょう。幕府内でここまで多数の幕閣のメンバーを巻き込まれては足利義藤も鉾を収めざるを得ません。二月二十六日に三好長慶は清水寺で足利義藤と会見します。それはこの騒動の後始末を足利義藤にさせるための儀式でした。弾劾された六名から人質を出させて三好長慶に預ける事が落としどころです。これで決着すれば室町幕府は一丸となって丹波から攻めてくる細川晴元一派の掃討ができるはずでした。しかし、足利義藤はこういう形で自らの意思を縛られることを嫌う人間だったのです。三月八日に足利義藤は改修された霊山城に入り、三好長慶と決別します。同時期に芥川城の芥川孫十郎が再び背き、若狭国小浜にいた細川晴元も若狭武田氏の支援を受けて挙兵します。

 事態は新たな段階に入りました。

1552年(天文二十一年) 四月二十五日 三好長慶、晴元方波多野晴通を八上城に攻めるも、芥川孫十郎の寝返りで撤退。
六月  五日 三好長慶、細川聡明丸を越水城に移す。
八月  下旬 細川晴元軍、小浜から山城国小野郷に進出との噂が京に流れる。
十 月二十 日 細川晴元軍、内藤国貞を破り、丹波国河瀬城を奪取。
末___ 足利義藤、洛北霊山城の改修を開始。
十一月二十七日 細川晴元軍、高尾から嵯峨に進出。三好方西院城を自焼きして霊山城に撤退。
二十八日 清水坂合戦。晴元軍と三好軍、五条坂で交戦。建仁寺焼ける。
十二月____ 芥川孫十郎、三好長慶に帰参する。
1553年(天文二十二年) 正月  一日 三好長慶、足利義藤に拝謁するも、不穏な雰囲気を感じる。
八日 三好長慶、淀城に退く。この後、足利義藤と和解。
二月二十六日 三好長慶、清水寺にて足利義藤と会見。
反三好派幕府奉公衆からの人質を求める。
三月  八日 足利義藤と三好長慶が決別し、東山霊山城に籠る。
芥川孫十郎再度三好長慶に背き、摂津芥川城に籠城する。
十六日 細川晴元、挙兵



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2020年5月 2日 (土)

中漠:善人令和編⑰丹波遠征

 京近辺の情勢に戻ります。足利義藤と幕府の一行は目出度く京に帰還しました。細川氏綱は悲願であった細川京兆家の家督となり、三好長慶の下には細川晴元の嫡子聡明丸が戻ってきました。三好長慶に今回の戦争における恩賞はありませんでした。長慶としては三好宗三に罰を与えることができたし、将軍たちには不便な思いをさせたことが申しわけなく、恩賞をもらうのは筋が違うと思っていたのでしょう。これで長慶と聡明丸との間にきちんとした主従関係を結ぶことができ、三好長慶としては満足していたのではないかと思います。細川晴元に逃げられたという一点を除けば。

 この一点の為に面倒な仕事が残ってしまいました。細川氏綱の丹波守護継承です。細川京兆家家督には漏れなく摂津・丹波・讃岐守護がついてきます。このうち讃岐守護については阿波細川家の細川持隆に任せていて、摂津国は三好宗三亡き今、三好長慶が支配下に置いていました。残りの丹波ですが、ここは国人衆の意見が割れます。明確に氏綱支持を表明したのは八木城の内藤国貞でした。彼は細川高国が管領をしていた頃からの高国派でした。細川晴元が実権を握った後はいやいや従っていましたが、三好長慶が氏綱を奉じるに及んで晴元にも反旗を翻したのです。

 一方、氏綱に従わない丹波国人代表が波多野晴通でした。波多野晴通の妹は三好長慶の妻で、二人の間には義興(この当時の名乗りは慶興)という嫡男がいたのですが、舎利寺合戦後の和睦で三好長慶が遊佐長教の娘を嫁に迎えるにあたり、波多野晴通の妹は離縁となりました。和睦の時点で遊佐長教は細川氏綱の擁立をあきらめたことになったはずなのですが、実態はそうではないという情報を妹経由で晴通は知ったのでしょう。細川高国とその係累は祖父稙通の代からの仇敵でした。三好長慶とは縁を切ったものの、三好長慶は戦の勝利を重ねて何時しか細川氏綱を足利義藤に認めさせるまでに至ったのです。この情勢変化に波多野晴通はついてゆけませんでした。幸い細川晴元は逃亡していて三好長慶に屈したわけではありません。故に挙兵して細川氏綱は認めないと宣言したのでした。

 細川京兆家が戦国時代の長きに渡って京で権力を握り続けられたのは丹波国を抑えていたからです。摂津国は応仁の乱の最中に大内軍に蹂躙されて以来四国勢の侵攻ルートになっていましたし、和泉国は京からやや遠い。京のある山城国に隣接していてなおかつ山がちで攻めにくい地勢の丹波は細川京兆家の力の源泉であったといっても過言ではありません。事実細川高国は丹波衆の波多野稙通兄弟の信望を失った結果失脚しましたし、明智光秀は織田信長の命令でここを征服するのに五年かかりました。なので三好長慶としてはこれを放置できませんでした。自ら軍を率いて波多野晴通討伐に赴きます。

 戦いは波多野晴通の居城八上城を三好軍が囲む展開になりました。山城なので攻略に時間がかかります。しかし、その間に摂津国で反三好長慶の旗幟を現した国人衆が出てきました。芥川城の芥川孫十郎と池田城の池田長正です。芥川孫十郎は三好一族で宗家とは之長の代から枝分かれした一門衆です。1520年(永正十七年)に三好之長が上洛戦を仕掛け、上洛の途上に之長の孫にあたる三好長光に芥川城が与えられました。それ以降長光は芥川を氏としましたが、上洛した一門衆は長光はもちろん之長を含めて等持院合戦の敗北で討ち取られてしまいました。孫十郎は芥川長光の息子です。その後四国に逼塞していた細川六郎(晴元)が堺に上陸した際、三好の一族衆として孫十郎は本州に渡り、芥川城をあてがわれたのでした。彼は三好家は高国系細川家を排して澄元系細川家を盛り立てることが当たり前だと考えていたようです。

 池田長正の場合は少し複雑です。彼の母方の祖父は三好政長(宗三)で、息子の政勝が細川晴元の下で三好長慶と戦っているのですが、父親の信正は細川晴元に誅殺されています。この時、池田家の家臣衆は抗議の意味で家内の三好政長派重臣を追放したことが、三好長慶による三好政長弾劾のきっかけとなりました。池田家と三好政長の関係の契機になったと思われる三好政長の榎並城入りは1536年(天文五年)なので、長正はこの時おそらく十代後半くらいで老臣の補佐があったものと思われます。その老臣衆にしても細川晴元と戦うことはあっても細川氏綱に仕えることは想像の範囲外だったのでしょう。

 三好長慶は猪名川谷経由で越水城に戻り、芥川・池田両氏に説得工作を行います。その結果1552年(天文二十一年)十二月には芥川孫十郎は帰参しました。この段階で細川氏綱を担ぐことのリスクに三好長慶は気づいたものと思われます。しかも、最初に氏綱を担いだ遊佐長教はすでに鬼籍に入っています。そして事態はより悪い方向にエスカレートすることになるのです。

1552年(天文二十一年) 一月二十八日 六角義賢の仲介で足利義藤と三好長慶が和睦。
細川聡明丸(後の昭元)、三好長慶の人質となるが、晴元若狭へ亡命。
細川氏綱、京兆家の家督を継ぐ。
二月二十一日 安見宗房、萱振賢継を遊佐長教暗殺犯として萱振氏を族滅する。
四月二十五日 三好長慶、晴元方波多野晴通を八上城を囲む。
五月二十三日 三好長慶、芥川孫十郎の寝返りにより八上城から撤退。
十二月____ 芥川孫十郎、三好長慶に帰参する。

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2020年4月25日 (土)

中漠:善人令和編⑯萱振族滅


 遊佐長教の死は摂津・河内に激震を走らせました。三好長慶は二度の襲撃を生き延びましたが、遊佐長教にはその幸運の恩恵はなかったこと、そしてこの時朽木に逃れていた幕府との交渉が微妙な段階に入っていたことがその衝撃を増幅したのです。三好長慶にとってこの戦いはあくまでも細川晴元に頭を下げさせる為のものでした。なので足利義藤と戦うところまでは考えていません。そして遊佐長教の死により細川氏綱の身分保証は三好長慶が代理人となって進めなければならなくなったのです。その間隙に細川晴元の意を受けた三好政勝・香西元成らが洛外にちょっかいをかけて挑発します。三好長慶には状況を整理する時間が必要でした。なので遊佐長教の死は百日間秘されます。

 この期間三好長慶は河内国の体制再編を行いました。遊佐長教の下には上郡代の萱振賢継と下郡代の安見宗房がそれぞれの領域を代表していました。三好長慶としては河内国を代表して一つにまとめる人物を欲していました。そしてその条件として遊佐長教に代わって三好長慶との同盟関係を維持してくれることが必須です。これは最初から選択肢はほとんどありませんでした。三好長慶の眼鏡にかなったのは安見宗房です。ただ、彼は大和国出身の余所者で、養子に入った安見家も旧総州畠山派の中の序列は低い方です。その点で言うと高屋城にいる野尻氏の方が上ではあるのですが、木澤長政没落時の去就や大和国北端から河内交野郡に勢力を食い込ませている鷹山弘頼が安見宗房の後ろ盾となっていたなどの事情があって、たまたまそうなっているに過ぎませんでした。もちろんこれは河内国全体の利益の為に遊佐長教があえてそうしていたのです。

 三好長慶としては高屋城にいる尾州畠山家の重臣達を遊佐長教の代わりにすることには抵抗がありました。彼らは紀州にいる尾州畠山政国・高政親子に近すぎ、せっかく幕府との交渉の為に遊佐長教が河内守護(尾州畠山政国)を遠ざけてくれた意味がなくなってしまいます。なので三好長慶は下郡代安見宗房の子息を上郡代萱振賢継の娘婿として萱振家に迎えさせることとしました。要するに体裁を整えた人質です。対細川戦争にかかわる軍事指揮権は安見宗房にまかせるが、その生殺与奪は萱振賢継が握る形と言えるでしょう。

 三好長慶としてはこれでまとまれば御の字でしたが、どう考えても釣り合いが取れません。遊佐長教は尾州畠山家の譜代の重臣で実力も備え、主君に対して押し込めまでする実力者でした。河内出身でもない総州畠山派の残党の中でも小勢力かつ、大和の鷹山弘頼の助けで何とかなっている安見宗房は小物に過ぎました。高屋城の畠山家重臣層の中でも遊佐長教のやり口に不満を持っていた者は大勢いたでしょう。それをまとめ切れるかと言えばおそらくは無理だったと思われます。三好長慶としては何とかして幕府との和平交渉の間だけでも持ってほしいという心境だったのかもしれません。

 1552年(天文二十一年)一月二十八日に三好連合と幕府との和解が成立すると、安見宗房はクーデターを敢行します。飯盛山上に贅をつくした屋敷を作り、そこに萱振賢継を招待します。萱振側からみれば婿殿の父の招きですので、断らずに応じたわけですが、これが罠でした。飯盛山城に入った萱振一行はすべて斬殺され、安見宗房はそのまま兵を高屋城に向けたのでした。遊佐長教を殺害した真の犯人は萱振賢継であると決めつけたのです。この時点で高屋城には尾州畠山家当主も遊佐家当主もいません。遊佐長教の嫡男はこの時まだ齢五歳です。萱振賢継も留守でその一族衆と集住していた畠山家重臣野尻氏らがいましたがそれらにも襲い掛かって殺害したのでした。粛清は徹底し、萱振一族は族滅させられたと言います。

 この一見は単純に安見宗房の暴走というわけではありませんでした。萱振賢継の弟隆生が飯盛山城から脱出に成功して大和国に入りますが、筒井氏の追っ手につかまって高屋城に送られました。そして、安見宗房からさらにその黒幕の存在の連絡が入ります。遊佐長教暗殺の黒幕とは長教の弟で根来寺に住んでいる松坊だと言うのです。松坊はそのころ有馬温泉に湯治中でした。三好長慶は有馬に討手を差し向け、松坊を討ち取りました。なので大和国の筒井氏、摂津の三好長慶はこの「仇討ち」に関与していたとみることができます。
 それだけではなく、高屋城制圧後に安見宗房を中心とした新体制をしきます。まず守護ですが、紀州から尾州畠山高政を呼び寄せました。父親の政国はまだ存命のようですが、河内に再び出る気力はなかったようです。そして遊佐家の五歳の嫡子(後の信教)の補佐に一門衆の遊佐太藤をつけます。さらに丹下城の丹下盛知を呼び寄せ支配体制を固めました。騒動で討ち取った野尻氏の後継として安見宗房は自分の息子をつけ、野尻宗泰と名乗らせました。

 萱振も野尻もその勢力圏に本願寺教団寺院があり、それぞれの庇護を得ていた地でした。そこがにわかに安見宗房の手に落ちたわけです。蓮淳はすでにこの世の者ではありません。また、証如も萱振族滅の二年後に示寂します。蓮淳がいかに努力しても河内の支配者はめまぐるしく変わり、王法以先の実践は本願寺にとって困難を極めておりました。


〇遊佐家略系図

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〇萱振族滅関連年表

1550年(天文 十九年) 八月 十八日 蓮淳、示寂
1551年(天文二十 年)  五月  五日 遊佐長教、珠阿弥に高屋城で暗殺される。
  七月 十四日 三好政勝、香西元成軍、上洛。相国寺付近で合戦し、敗北して撤退。
  十二月____     三好長慶、安見宗房の子息に萱振賢継の娘を娶らせ、養子にさせる。
1552年(天文二十一年) 一月  二日 近江国の六角定頼、没
  二十八日 六角義賢の仲介で足利義藤と三好長慶が和睦。
細川聡明丸(後の昭元)、三好長慶の人質となるが、晴元若狭へ亡命。
細川氏綱、京兆家の家督を継ぐ。
  二月二十一日 安見宗房、萱振賢継を遊佐長教暗殺犯として族滅する。
1554年(天文二十二年) 五月     安見宗房、高屋城において鷹山弘頼を切腹せしむる。
1554年(天文二十三年) 八月 十三日 証如、示寂

 

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2020年4月11日 (土)

中漠:善人令和編⑮遊佐の王国


 遊佐長教の暗殺犯は珠阿弥ということになっていますが、彼がなぜ暗殺をしたのか、彼の背後にはどんな勢力がいたのかは謎です。足利義藤や細川晴元が疑われるのは、ぶっちゃけ一番偉いからで有名税のようなものです。実行犯である珠阿弥を含め遊佐長教は勢力拡大に無理を重ねていましたから色々な階層から恨まれていたのは間違いありません。

 そのあたりを考察する前に、遊佐長教が治める河内国の体制を描写しておきます。不明な点・不勉強な点については想像を加味して進めますが、ご容赦ください。

 河内国は南北に高屋城・飯盛山城と統括する拠点があります。遊佐長教の根拠地はこの中間にあたる若江を根拠地にしていますが、基本的に高屋城に常駐していました。高屋城には尾州畠山政国がいたはずなのですが、この時はまた高屋城をでて紀州に押し込められています。江口合戦後のことなので、おそらくは尾州畠山政国は管領になることを望んだのかもしれません。なんといっても明応の政変以前には尾州畠山政長が管領を務めており、以来細川家に独占されていた管領職に復帰することは代々の宿願であったとおもわれます。しかし、遊佐長教としてはまずは河内国の安定を優先させたかったはずです。木澤長政や三好宗三を討ち取ったとはいえ、彼らの息のかかった勢力はまだまだ大勢いました。国の体制固めをすっ飛ばして管領職についてもなにもよいことはありません。よしんば管領職を得たとしても動かせる兵力は紀州と河内の二ヶ国のみです。後は拝み倒して婿殿の三好長慶から摂津と四国勢の与力を出してもらうことがやっとでしょう。管領になるということは将軍を支えて天下に号令することと同義です。現状そんなことは夢物語ですし、やったとしても無駄に兵力を消耗させるだけになりかねません。現に細川政元から細川晴元までの歴代細川家当主も畿内の国を治めるだけで消耗しきっていました。遊佐長教としては総州畠山家との抗争がやっと終わった今こそ平和の配当を手にして河内国を強国にすることの方が優先度が高いと判断したのではなかったでしょうか。そのために川が国の縦横に流れる河内国の治水開発を行ってくれる本願寺も、天文錯乱のようなバカはやらせないことが前提ですが、必要な者たちでした。

 その本願寺と遊佐長教とのパイプ役として機能したのが前項でも紹介した萱振賢継だったと私は見ております。彼は河内南部を統括する上郡代として遊佐長教とともに高屋城に入っておりました。その立場から天文錯乱時には遊佐長教に追い出された門徒武士だったと想像できます。天文錯乱時に本願寺方として戦った記録のある河内国人としては丹下盛賢がいます。彼は天文錯乱後に紀州の主君のもとに落ち延び、その復帰と共に河内国丹下城に戻って、畠山稙長と遊佐長教との調整役を果たしました。ちなみにこの人物は畠山稙長の死去時に殉死をしています。その死を惜しんだ遊佐長教は同様に畠山稙長の紀州随伴組で紀州小守護代として主君と苦楽を共にした平(ひら)盛知に丹下の名跡を継がせます。もっとも、同時に盛知の後継に遊佐家の身内を押し込んで丹下家掌握も図っていますので、単純に美談とするわけにはいきません。

 おそらくは萱振賢継も、丹下盛賢同様畠山稙長の河内復帰時に萱振に舞い戻ったと想像できます。遊佐長教は萱振賢継とともに高屋城にいることで、河内国の門徒武士に目を光らせていたのでしょう。同様に河内国北辺、招堤を含む牧郷を根拠地とした野尻氏も高屋城に住まわされていました。

 そして、河内国北部(下河内郡)を統括する飯盛山城ですが、ここに郡代として入っていたのが、安見宗房という人物です。彼は斎藤道三、松永久秀、豊臣秀吉と同種の、自らの才覚のみで成り上がった人物でした。
 もともとは大和国の中村圓賀という越智家家臣の息子で、「オチカタドノ」(即ち有力武士に嫁いだ越智家出身の奥方)の中間(ちゅうげん=身辺の世話役)だったといいます。その彼が河内国北部の星田あたりにいた安見友重の養子となったと言います。この安見氏は代々総州畠山家の被官でした。そして国境の向こうにいる大和国鷹山の鷹山弘頼と協調して木澤長政配下で働いていたらしい。そして太平寺合戦に前後して彼らは遊佐長教に従うようになりました。

 この鷹山弘頼と安見宗房は木澤長政が遊佐長教に打ち取られた後も、遊佐長教に用いられ安見宗房は飯盛山城に、鷹山弘頼は大和国鷹山に加えて河内国私部あたりに領地を増やします。河内国の伝統的な有力家臣は高屋城に集住させて、遊佐長教に恭順した木澤長政の残党には木澤から奪った領地の一部を与えて懐柔した格好でした。江口合戦の勝利後はその配当とした山城守護代枠を鷹山弘頼と安見宗房に与えています。相応の戦功があったと見てよいでしょう。

 伊勢貞孝が和平の使者として京に戻り、これから足利義藤と和平交渉に臨もうとした際に、遊佐長教は暗殺されます。河内には短期間で統一した歪みが残っていました。これを整理するためには今しばらくの時間が必要でしたが、遊佐長教にはそれが許されていませんでした。河内国は再び阿鼻叫喚の巷に投げ出されます。

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