2016年9月17日 (土)

中漠:天文錯乱編⑪飛騨国興亡

 応仁の乱においては、三管四職の有力豪族が分裂して戦ったわけですが、四職を占める京極佐々木氏も例外ではありませんでした。応仁の乱中、当代の京極持清は東軍に属しておりましたが、彼と嫡男の勝秀が乱中にあいついで病死。後継を巡って勝秀の遺児、孫童子丸と乙童子丸の二人をそれぞれ担いで内紛が発生します。これはもちろん、東軍方の京極家に対して西軍側の介入があったためでしょう。佐々木氏宗家の六角高頼は西軍についておりましたので、彼が策した物ではないかと思います。
 1470年(文明二年)に京極勝秀の次男、乙童子丸派が西軍方に走って京極家のお家騒動が顕在化します。東軍側に残った孫童子丸はその翌年に病死し、旗頭は叔父の政経が引き継ぎます。乙童子丸の方は、政経の実兄ですが、佐々木一族の黒田家に養子に行った政光がバックアップし、内紛はヒートアップします。

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 京極家内紛に勝ち残ったのは高清でしたが、その過程で弱体化を余儀なくされます。すなわち、京極佐々木氏は北近江だけではなく、隠岐、出雲、飛騨の三ヶ国の守護も兼務していたわけですが、三国の領地を全て失ってしまったのです。隠岐と出雲を抑えたのは京極一族出身の尼子経久でした。
 今回の話は残る一ヶ国の飛騨国についての話です。

 飛騨国はもともと、建武の親政の時に飛騨国司に任じられた姉小路家が国司に任じられて以来、建武の親政破たん後も実効支配していたのですが、足利尊氏の死の翌年に、佐々木導誉の守護国に加えられました。今川範国の駿河守護の例から見て、守護補任がすぐにその国の支配権の確立を意味するわけではなく、以後も姉小路家が飛騨国を掌握していたわけです。この姉小路家は応永年間に、飛騨の乱という反乱を起こして幕府に鎮圧されます。その後小島家、向小島家、古河家の三家に分かれて対立するようになったわけです。そのタイミングで京極佐々木家は飛騨国に介入して実権を手にしていったわけですが、基本守護である佐々木氏は在京です。飛騨国には京極佐々木家の一族の多賀氏が守護代としてのりこむことになったわけですが、その多賀氏の当主の所領は近江国犬上郡にあり、しばしば在京して幕府の役職についたりしていたので飛騨国にはその代理人がおくりこまれていたようです。そんな形だったので姉小路家は存続していて二重権力状態だったわけです。
 それが応仁の乱が起こって事態が流動化します。京極持清―勝秀―孫童子丸のラインは東軍方だったのですが、乙童子丸(高清)が西軍方について京極家は分裂、そしてそれに以前に持清、勝秀が亡くなり、そののすぐ後に孫童子丸も死にます。対立軸が、乙童子丸、黒田政光(西軍方)と政経、多賀高忠(東軍方)に移ってしまうわけですね。
 多賀高忠は東軍方京極氏の司令塔として活躍するわけですが、次々と宗家の旗頭が亡くなる中で、飛騨国の確保の為に在国の三木久頼を動かして姉小路氏の勢力範囲である古川盆地に攻めこませます。この時姉小路三家のうち、古河姉小路家の基綱がこれに対抗して三木久頼を討ち取ってしまいました。その結果、飛騨国には京極家の息のかかった対抗勢力がいなくなるという事態に陥りますが、共通の利害関係を持つ京極乙童子丸(高清)方が美濃国の斎藤妙椿を動かして仲裁させます。その結果、当主を失った三木氏も斎藤妙椿との関係を持つに至ります。

 応仁の乱における京極家の戦いは多賀高忠の奮戦にもかかわらず、時に利なく京極政経・多賀高忠率いる東軍方は朝倉孝景(英林)が治める越前国に亡命するに至ります。京極乙童子丸(高清)と京極政経の争いは応仁の乱後も続き、逆転、再逆転が続くのですが1507年(永正四年)に高清の勝利で決着がつきます。その結果京極宗家の領地は北近江半国のみになってしまいました。出雲国は尼子経久が自立し、飛騨国は姉小路氏を初めとする諸勢力が分立する割拠状態となっていました。その中でも勢力を伸ばしたのが先の三木氏です。

 応仁の乱の直前に白川郷に入った内ヶ島氏は地元の本願寺教団の正蓮寺衆と対立してこれを焼き討ちしますが、蓮如のとりなしで正蓮寺と和解し、以後は照蓮寺と寺号を改めた旧正蓮寺と連携して行動を取るようになります。その後、細川政元の命令を受けた加賀国門徒衆が越前国と越中国に乱入します。越中では勝利を得ましたが、越前国では朝倉宗摘に百万の大軍が大敗を喫し、越前国は本願寺教団の寺社を全て破却して禁教令を敷きました。これによって山科本願寺から加賀国へ向かう場合に若狭街道と北国街道ルートは取れなくなったことを意味します。
 そこで、近江から美濃に入り、飛騨・越中経由で進むことになるわけですが、本願寺がそのルートを使って兵を加賀へ送らなければならない事態が発生します。大小一揆の勃発です。

 その直前に二つの事件が起こりました。1528年(大永八年)美濃国で守護の土岐頼純が弟の土岐頼芸と斎藤道三の手により越前に追放されたのです。そしてもう一つがその翌年の1528年(享禄元年)に三木直頼が妙心寺竜泉派の明叔慶浚を開山に禅昌寺を建てました。一見ばらばらの出来事に見えますが、この時細川六郎(晴元)と細川高国が京を巡って対立していたことを考えると一本につながります。
 すなわち、土岐頼純が越前国に亡命するということは、越前国主の朝倉氏と土岐頼芸は敵対勢力となったということです。朝倉氏は細川高国派であり、泉州堺にいる細川六郎(晴元)とは敵対していました。その細川六郎に接近していたのが山科本願寺の蓮淳です。
 三木氏はそれ以前に一族の者を妙心寺に入れ修行をさせていました。杲天宗恵と言います。これはおそらくは斎藤妙椿との関係がきっかけになったものと考えられます。妙心寺は細川政元が斃れ、細川高国が政権を握った時に大徳寺から独立をしています。檀家を全国の有力国人に募るようになったのはこの頃からで、その早期ケースに適用されたのが三木氏でした。その動きはなぜか本願寺と連動しております。

 その後内ヶ島氏が大小一揆で蓮淳方の三河兵を領地通過させます。蓮淳方の三河兵は細川六郎の支持を得ていました。それとほぼ同じタイミングで三木直頼は姉小路氏に戦いを挑み、古河姉小路家の乗っ取りを成功させます。この時点の三木氏は本願寺の意向を受けた内ヶ島氏と連携をしていたようで、天文七年に禅昌寺の僧侶を東美濃に派遣して動静を探らせておりました。そして翌年、三木直頼は美濃の国人畑佐氏救援の為に出兵をします。三木軍の中に内ヶ島氏も参加をしておりました。
 実はこの間、細川六郎(晴元)方は細川高国を仕留めることに成功するのですが、その直後に本願寺は細川六郎(晴元)と抗争を始めてしまい、屈服した流れがあります。美濃の土岐氏もこの流れを見て越前の朝倉と和睦して亡命していた土岐頼純が帰国の運びになっていたのですね。畑佐氏は本願寺門徒の国人であったのですが、土岐家の動向の変化に対応して飛騨の勢力を呼び込んだようです。この時の三木氏は親本願寺派として行動しています。この後、土岐頼純、頼芸兄弟の関係は再び破たんし抗争することになりますが、ここで三木氏は土岐頼芸側について支援したのでした。
 三木氏はこの後飛騨国を掌握し、飛騨国司家であった姉小路家を乗っ取り、自ら姉小路の氏を名乗って戦国大名化することになります。
 この本願寺と妙心寺の連動は形を変えて別の地域でも展開されることになってゆくのです。

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2016年8月27日 (土)

中漠:天文錯乱編⑧楞厳寺寺伝の謎

  話の脱線は本稿が最後です。本当は足利義満時代の華蔵義曇という僧号の読みから、戦国時代今川家に起きた花倉の乱に繋ぐつもりだったのですが、先に天文の錯乱に至る流れの方に戻します。今川家の宗旨は義元の代になってから大きな転機を迎えるのですが、それ以前の永正・大永年間における斯波義達と吉良義信・義堯親子の動きもここで追っておきたかったので脱線してしまいました。本稿は脱線ついでにさらに本筋から離れた話になっています。

 先に、華蔵義曇の話の中で、一代で十三門派を形成した話をしました。その十三門派の一つに三河国刈谷の楞厳寺という寺があります。ここは後に水野忠政が菩提寺にして徳川家康の母於大がよく参拝したことで知られております。ここの寺伝の記述が色々矛盾に満ちていて、興味深いものがあります。

 その寺伝のあらましですが、楞厳寺は1413年(応永二十年)に普済寺の華蔵義曇の弟子、利山義聡が開山したことになっています。ところが、普済寺の開基{1432年(永享四年)}はもちろん、その前身である隨縁寺の開基年代{1428年(正長元年)}と比べても過去に遡っております。さらに言うなら利山義聡はこの十年前の1403年(応永十年)にこの土地を先住していた庭巌門公の帰依を受けて海会寺という寺にしています。楞厳寺はその寺地を広げて作られた寺です。
 華蔵義曇は1375年(永和元年)に誕生し、十歳にして肥後国海蔵寺で出家、参学二十年にして印可を得ておりますので、華蔵義曇が一人前の禅僧として独り立ちできたのは、1404年(応永十一年)前後ということになり、それ以前に弟子をとれるはずはありません。また、華蔵義曇は1413年(応永二十年)に肥後海蔵寺にいた記録が残っております。
 よって、海会寺開山の時点で利山義聡が華蔵義曇の弟子だったとは考えにくいし、楞厳寺開山の時点で普済寺は建立されていなかったし、華蔵義曇も九州にいたのです。

 この矛盾について単純に考えるなら、楞厳寺の創建年代をさらに後代に設定すればよいのでしょう。華蔵義曇十三門派に属する他寺院の創建年を分かる範囲で調べてみたのですが、いずれも普済寺創建以降の話でした。同様に楞厳寺の創建もそれ以降の話というのであれば、「普済寺の利山義聡」が刈谷に楞厳寺を建てたという話はすっきりします。

禅宗寺院の寺伝にはしばしば年代を無視した記述がみられます。例えば、相国寺の開山は夢窓疎石なのですが、相国寺の創建は1382年(永徳二年)で、夢窓疎石の没年はそれ以前の1351年(観応二年)で、開山=寺院を作った人という意味で解するなら、明らかに矛盾しています。これは実際に寺院を創建した春屋妙葩が、自らの師を称揚するために既に没している夢窓疎石を開山に据えて自らは二世住持として寺を管理するという体裁を取ったためです。

 ただ、楞厳寺が古刹にも関わらずこの矛盾を放置したままにしていることは気になります。なので、このあたりの事情を少し調べてみました。華蔵義曇の弟子の一人に誓海義本という人物がいます。彼は普済寺二世住持にして、嘉吉年間に尾張国に圓通寺という曹洞宗寺院を建てました。彼は熱田宮司の田嶋仲宗と言う人物の子息であるそうです。
 彼の伝記によると、1391年(明徳二年)に誕生し、1403年(応永十年)、十三歳の時に得度して肥後国海蔵寺で修行をはじめたそうです。すなわち、この時点で尾張国と肥後の海蔵寺との間で華蔵派の交流があったことが示唆されます。そして、その年は利山義聡が尾張国刈谷に海会寺(楞厳寺の前身)を立ち上げたとされる年でもありました。同時に、遠江国袋井に太源・恕仲派の物外性応が今川了俊の隠居所として海蔵寺を建てた年でもあります。

 尾張国と肥後海蔵寺を結ぶ線は今川仲秋にあったのではないかと思います。彼は1393年(明徳四年)に尾張守護に任じられています。それ以前は九州探題の兄、今川了俊に従って九州征服にいそしんでいました。1384年(至徳元年)に南朝征西府は肥後国宇土に根拠地を移します。宇土の近辺には華蔵義曇の修行した海蔵寺やその本寺である大慈寺があったわけです。その宇土の征西府は九州探題によって征服され、寒巌派の寺院もその保護下に入ったものと言えるでしょう。
 かくして、今川兄弟による九州征服は成功裡に終わったのですが、狡兎死して走狗煮らるのたとえどおり、今川了俊は突然九州探題を解任されてしまいました。今川了俊は管領の細川頼之が後ろ盾になっていたのですが、斯波義将との政争に敗れて失脚してしまったのですね。
 さらに悪いことに、今川兄弟の九州征服を援護してくれていた大内義弘が1399年(応永六年)に幕府に対して反乱を起こして滅ぼされてしまいました。今川了俊はこの反乱への関与を疑われて政界引退を余儀なくされるわけですが、その余波は弟にも及び、1400年(応永七年)今川仲秋は尾張守護を解かれてしまいました。その後も了俊の処遇にたいしては、幕府と今川家の間で折衝が続き、結局1402年(応永九年)に隠居という形で落ち着くわけです。
 今川仲秋は兄の隠居所として「海蔵寺」を建てますが、かつて九州王だった男の隠居所を九州に地盤を持つ教団に運営させては、いつ何時幕府に反乱の疑いをかけられるともわかりませんでした。それはすなわち、宗家を含む今川一門の滅亡を意味します。よって、隠居所の管理は同じ道元の教えの流れを汲んでいても別系の物外性応(太源・恕仲派)に頼み、寒巌派とは一応の距離を置いたものと見てよさそうです。

 これを踏まえて利山義聡や誓海義本の動きを考えるなら、やはり利山義聡は尾張守護今川仲秋の保護を当てにして尾張に来ていた寒巌派僧であり、彼または彼の同志が熱田宮司に取り入って子弟教育を任されていたのではないかと想像します。それが今川仲秋の守護解任とその政敵である斯波義重の新守護就任で今川家の保護がふいになってしまい、彼らは自分で地盤を築かねばならなくなりました。よって、利山義聡は隣国三河国境の刈谷に退き、一方で宮司の息子は肥後で教育を継続させたのではないでしょうか。心配のし過ぎのようにも見えますが、妙心寺がそれで倒産に追い込まれたこともあり、あながち突飛な発想でもないでしょう。

 利山義聡はその後も様子を見つつ粘り強く活動を継続した結果、華蔵義曇が吉良義尚の外護を受けられることになり、普済寺の完成時に正式な印可を受けたとみるならば、一応のつじつまは合うかと思われます。
 その仮定に立つと、利山義聡は寒巌派東海進出のパイオニアであったと言えるかもしれませんが、相国寺開山のたとえにもあるように、禅僧はまず師匠を前にたてるものなので、自らはあくまでも普済寺華蔵義曇の弟子に徹したのでありましょう。ある種の奥ゆかしさも感じます。

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2016年8月20日 (土)

中漠:天文錯乱編⑦今川家の宗旨報告書Ⅳ(今川了俊②)

 華蔵義曇が九州肥後国からわざわざ東海地方の遠江国まで遊歴してきた理由は、やはり今川了俊の九州征服の印象が強かったからではないかと思っております。今川了俊が九州に来たとき、彼が何らかの形で彼らの禅宗に対する興味を示したのではないでしょうか? 事実、今川了俊は政界引退後、海蔵寺という曹洞宗寺院を建てるわけですが、その寺号は、華蔵義曇が肥後国で修行した寺院と同じ名前でした。今川了俊と肥後海蔵寺を繋ぐ物的証拠はないのですが、偶然とは考えにくいのです。
 しかし、華蔵義曇が遠江国に入った折には今川了俊は既になく、海蔵寺という菩提寺が物外性応によって営まれておりました。物外性応と華蔵義曇は同じ道元を祖とする曹洞宗ではありましたが、寒巌義尹流と徹通義介・瑩山紹瑾流の異なる流派に分かれており、この時点では同門意識は希薄だったのではないかと思われます。

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 遠江今川家も了俊の頃は破竹の勢いて九州に進撃しておりましたが、すでに了俊本人はおらず、遠江今川家も遠江守護職を失って堀越近辺を治める国人領主にまで落魄しておりました。華蔵義曇は時の遠江今川家当主(貞臣か?)に外護を求めたが、財政上の理由か物外性応の干渉(当然のことだと思います)によって断られたのでしょう。ただ、遠江今川家当主も今川了俊の遺徳を頼って遥々肥後からやってきた僧侶を無下に帰すこともためらわれたのでしょう。了俊の娘が吉良家に嫁いでおりました。吉良家は今川家にとって本家筋にあたります。時の吉良家当主は義尚と言い、了俊の孫にあたり、三河国西尾と遠江国曳馬(引馬・現浜松)に領地を持っております。その義尚を華蔵義曇に紹介したとしてもおかしくはないでしょう。
 吉良義尚は華蔵義曇を迎え入れ、曳馬にほど近い寺島の地に随縁寺という寺を建てます。寺号を読み下すなら縁(えにし)に随(した)がうとなり、了俊の縁であるようにも読むことができます。ただ、地方に残る説話だと吉良義尚は外出中に華蔵義曇に偶然出会ったことになっております。了俊は足利義満に謀反を疑われていたこともありましたので、九州での縁は表に出せない話だったのかもしれません。この隨縁寺は洪水にあって無くなってしまうのですが、遠江国広沢に寺基を移して寺号を普済寺に改めます。華蔵義曇はここを拠点に遠江国・三河国に末寺を広げ東海における寒巌派曹洞宗を広めてゆくことになります。

 禅宗僧の名前は通常四文字で構成されておりますが、本来の戒名は四文字中の後半二文字で、前半二文字は道号と呼ばれて禅宗においては修行場所や本人所縁の場所にちなんだ号がつけられるそうです。華蔵義曇の場合は華蔵(けぞう)になるのですが、この華蔵は意味を変えずに漢字を置きかえると花蔵、花倉(はなくら)になります。ここから一気に花倉殿と呼ばれた玄広恵探の話に飛びたいところですが、もう少し下拵えを行います。
 吉良一族の本貫地である三河国吉良荘に金星山華蔵寺という寺がありました。もともとは真言宗を宗旨とする寺院だったのですが、江戸期に入って時の当主吉良義定が妙心寺派臨済宗に宗旨を改め、片岡山華蔵寺とした上で菩提寺にしております。それ以前の吉良氏の菩提寺は実相寺と言い、臨済宗東福寺の円爾が1271年(文永八年)に建てており、ここを使っておりました。但し、吉良氏の本家に当たる足利氏は鎌倉に浄妙寺という臨済宗の菩提寺を持っていたのと同時に、下野国に鑁阿寺という真言宗の菩提寺を持っておりました。これを援用して考えるに、足利分家である吉良家も臨済宗寺院のほかに真言宗の菩提寺を持っていた可能性があります。だとするならば、吉良氏の本貫地である吉良荘にあった華蔵寺はその候補になり得ると考えられるでしょう。1349年(貞和五年)にはこの寺で東福寺・実相寺で住持を務めた一峰明一が示寂しております。さらに1404年(応永十一年)、吉良義尚、大河内氏、巨海氏の援助で華蔵寺内に華厳道場が建ち、大蔵経の経蔵も建立されたとあります。これは吉良義尚が華蔵義曇に出会う以前の話であります。江戸期に入って吉良義定が新たな菩提寺を求めたのは、三河一向一揆によって時の吉良家当主吉良義昭が追い出されて以来、父親の義安が徳川家康の家臣になることによって三河に戻るまで三河に吉良氏は不在だったからです。新たな菩提寺を求めるにしても、おそらくは過去の因縁に基づいて選択されたでしょうから、金星山華蔵寺は吉良氏の真言宗菩提寺だった可能性はあります。ちなみに、吉良義安の院号は華蔵寺殿であり、養父の東条吉良持広の院号は華岳寺殿になっております。吉良家分裂後は東条吉良家によって管理されていたことが伺えるかもしれません。吉良家分裂前の貞和年間には実相寺出身の一峰明一が住持を務めた記録もあるそうですので、華蔵寺は吉良家にとっては重要な寺の一つだったと言えるでしょう。

 吉良義尚の外護を受けた華蔵義曇は猛烈な勢いで末寺を増やし、一代で十三門派を従える勢力になりました。吉良義尚の信任の篤さ故と言えるのですが、吉良家にとっての「華蔵」の意味合いの大きさを考えると、「華蔵」の道号は吉良家から贈られたものであり、その信任故に早い勢力拡張がなったということができるかもしれません。

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2016年8月13日 (土)

中漠:天文錯乱編⑥今川家の宗旨報告書Ⅲ(今川了俊)

 今川家の収支報告書として、曹洞編で二つの記事をかいております。本稿からしばらく、東海地方における斯波・吉良・今川、足利一門三家の関係について描写をしてゆきたいと思います。吉良家が南北朝の風雲に乗り損なって守護として国を任されるようになることはなかった話は既にしておりますので、その後に起こった今川了俊の台頭と斯波家の東海進出あたりの時代描写になります。前稿からはずっと時代が遡ってしまいますが、戦国期の尾・三・遠三国の情勢の背景として、斯波・吉良・今川三家のこの時代の動向を少し追ってゆくこととします。

 曹洞宗の開祖、道元の弟子の一人に、寒巌義尹という皇族出身の僧がおりました。彼は師である道元入寂後、南宋にわたり帰国後は永平寺に戻らず、九州は肥後国に大慈寺という寺を建てて九州に教えを広めておりました。その後、九州は菊池、少弐、足利直冬、懐良親王等の群雄が相戦う状況でしたが、最終的な勝利を得たのは今川了俊という武将でした。今川了俊は、1372年(応安五年)に大宰府を奪回すると、隈部・染土、宇土、八代と懐良・良成両親王の拠点を次々に攻略し、最終的には筑後矢部に良成親王を逼塞させるに至りました。(懐良親王はその途上で亡くなっております)今川了俊の九州征服をもって足利幕府の天下統一は成ったわけですが、それと同時に彼は狡猾な兎が死んだ後の走狗となっていたのですね。
 時の将軍、足利義満は適当な理由をつけて今川了俊を九州探題から解任し、彼と彼の弟の仲秋二人を遠江守護に押し込めてしまいました。そればかりか、今川了俊とともに九州平定に功績のあった大内義弘を挑発し、反乱を起こさせて討ってしまいます。この時、足利義満は大内義弘の反乱をよいことに、その嫌疑を今川了俊にも向け、挑発しますが了俊はそれには乗らず、領地を返上して引退することになります。そんな了俊の為に弟仲秋(彼は了俊の養子でもあります)が建立した寺が海蔵寺と言う曹洞宗寺院です。了俊は1367年(貞治六年)に足利義詮の死をきっかけに一度出家しておりますが、その時点で了俊と曹洞宗の接点は考えにくく、了俊の号は清和源氏に所縁深い真言宗か、臨済宗のものであったと思われます。了俊号の初出が東寺関連のものであることを考えると真言宗の可能性が高いのかもしれません。

 さて、今川了俊と曹洞宗との関わりを考えるに、今川了俊が良成親王を追い詰めるルート上に宇土という土地があります。天草半島の付け根部分、肥後国を南北に分かつ緑川河口にある在所です。良成親王はここに1384年(至徳元年)から六年間、征西府をおいて今川軍に相対したわけですが、その緑川上流、五~六キロ遡った所にある中洲にあったのが大慈寺です。ここは寒巌義尹が開山し寒巌派の拠点とした寺院です。大慈寺は近辺に末寺を有していました。その一つが宇土の征西府北方五キロほどの場所にある海蔵寺です。ここは寒巌義尹の曾孫弟子にあたる梅巌義東が開いた寺でした。今川了俊がこの宇土の征西府を北方から攻略しようとするならば、大慈寺、海蔵寺の両寺院を押さえた可能性はあるんじゃないかと思います。但し、そのような記録は私自身お目にかかっておりませんのであくまで推測です。
 
 遠江国海蔵寺が建立されたのは、1403年(応永十年)で今川了俊が足利義満に政界引退を宣言させられた後のことです。寺地は堀越館という今川了俊邸の一角にあり、この時点で了俊は曹洞宗に宗旨を変えていたとみてもよいでしょう。但し、法流は寒巌義尹のものではなく、三代争論で永平寺を去った徹通義介の流れをくむ能登総持寺峨山から恕仲の流派の物外性応によるものです。政界引退をさせられて、余生を遠江で過ごすことになった了俊は、九州で出会った曹洞禅に興味を持ったものの、九州との往来は遠いので、近場で曹洞宗を求めた所、物外性応に出会ったという推測も成り立つと思います。海蔵寺のある袋井から北にある森町という所に物外性応の師である恕仲の開いた崇信寺という寺があります。

 足利義満による今川家の処分は了俊の政界引退だけは済まされなかったようで、1405年(応永十二年)斯波義重が遠江守護に任じられます。今川家は尾張に続き、遠江守護まで失いますが、今川了俊は堀越近辺の領主として在国し続けます。これは尾張那古屋の今川家と同じ形態です。守護は国の軍事動員権を持ちますが、在地領主たちと主従関係を結んでいるわけではありませんでした。守護はもともと源頼朝が謀反を起こして潜伏した源義経を指名手配する為に設けた役職であり、もともとは警察権しか持っていなかったのですね。徴税対象となる田畑は寺院や貴族が所有する荘園であり、不輸不入の権利を有しておりました。この荘園を管理する主に武士からなる荘官たちと主従関係を結んで国に支配権が及ぶようになったのが、守護大名と呼ばれた人たちでした。了俊とその子孫たちは遠江国堀越(袋井市)に領地をもって土着するわけですが、斯波義重が守護になったからと言って、今川宗家と縁を切って自動的に斯波家家臣になるわけではないわけです。今川了俊は1420年(応永二十七年)に亡くなり、海蔵寺に葬られます。彼の子孫の遠江今川氏は潜在的反斯波勢力として遠江国に存続し続けることになりました。とは言っても、斯波義重と今川貞世(了俊)は吉良氏を介して親戚関係にありました。

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 吉良満義、満貞親子は観応の擾乱において足利直義方についたために、故地である三河吉良荘を追われることになります。最終的に足利義詮に許しを乞うて帰順しますが、その頃には三河の旧臣達は満貞の弟尊義を立ててしまっていたため戻るに戻れない状況になっておりました。やむなく、満貞はやむなく幕府からあてがわれた遠江国曳馬(浜松)荘に入ることになります。後に、尊義とも手打ちがなり尊義の血統は東条吉良氏として存続することになり、満貞も三河西尾と遠江曳馬に領地を持つに西条吉良氏として再出発することになりました。吉良満貞は復帰に当たり自身の立場の再強化を図り、息子を今川貞世(了俊)に、娘を斯波義将に娶せました。吉良満貞の娘と斯波義将との間にできた子が、新たに遠江守護となった斯波義重です。

 吉良満貞の息子の子は義尚といい、西尾と曳馬を領しておりましたが、彼の領地に曹洞宗の僧が流れてきました。彼はかつて今川了俊が征服した肥後国にある海蔵寺で修行を積み、師である梅巌義東の示寂後、その遺言にもとづき諸国遊歴の旅にでていました。彼の名を華蔵義曇といいます。

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2016年6月11日 (土)

中漠:明応軍乱編㉓戦国コンサルティングファーム

 本稿では細川政元の暗殺が大徳寺・妙心寺に与えた影響について簡単に触れておきたいと思います。
 応仁の乱の戦火から大徳寺を再建した一休宗純が、一日だけ四十七世住持を務めた後の大徳寺は関山派の執拗な攻撃を受けておりました。ここから、東溪宗牧(養叟派)が伊勢宗瑞に天岳の道号を与えた1508年(永正五年)までの三十四年間に二十五人の住持が交替しております。そのうちの半分強の十三名が妙心寺系、すなわち関山派の住持たちです。養叟・春浦派はその半分強の八名でしかなく、関山派は大徳寺の主流派を占めております。

養叟・春浦派(8人)
48世 晦翁宗昭、50世 泰叟宗愈、54世 一溪宗統、56世 實傳宗眞、59世 椿叟宗壽、
61世 天琢宗球、70世 陽峯宗韶、72世 東溪宗牧

関山派(13人)
51世 特芳禪傑、52世 悟渓宗頓、53世 東陽英朝、55世 西浦宗肅、57世 天釋禪彌、
60世 天縦宗受、62世 仁濟宗恕、63世 悦堂宗懌、65世 玉浦宗珉、66世 獨秀乾才、
68世 鄧林宗棟、69世 興宗宗松、71世 瑞翁宗縉

未詳・その他(4人)
49世 芳蔭  、58世 桃蹊宗仙、64世 桂菴嫩 、67世 大機竺

 以前の稿において、妙心寺の住持を四派輪住の関山派で独占させることは、徹翁義亨や養叟宗頤が以後の大徳寺の住持は自分の法嗣のみから出すと言っているのと同じ虫のいい制度としたと書きました。それはすなわち、妙心寺が本寺である大徳寺に住持を送り込めるなら、大徳寺もまた末寺である妙心寺に住持を送り込むことも可能ということです。
 それを防ぐために妙心寺が行った対策は、妙心寺から大徳寺住持を送り続けるということでした。この時期の大徳寺住持は平均して一~二年で交替しております。確かに本寺には末寺の住持の人選に干渉できるかもしれませんが、大徳寺歴代住持の半数を関山派で占めてしまえば、養叟・春浦派はその逆をやる暇もありません。何か干渉を行っても一~二年ぬらりくらりとかわしていれば、次の大徳寺住持は関山派ということになって立ち消えになってしまうからです。それを続けていれば、いずれ関山派出身の大徳寺住持に学んだ大徳寺出身僧が住持につけば、本寺・末寺の区別も無くなる。そういう発想であったのではないかと思います。もちろん、それが可能になるのは関山派がいつでも大徳寺住持になることが可能であるという保証が必要でした。それを担ったのが、細川勝元・政元父子です。細川勝元は再建間もない妙心寺を支援しただけではなく、龍安寺も建立。日峰宗舜を関山派出身の初めての大徳寺住持に据えました。二人目の関山派義天玄承には紫衣を着せて晋山式に臨ませました。それは養叟宗頤ら徹翁義亨流の反対を押し切ったごり押しでもありましたが、三人目の関山派、雪江宗深がつくころにはその抵抗もかなり収まっております。それを受け継いだ細川政元は妙心寺を全面支援しておりました。その行き着くところは妙心寺による、大徳寺支配であったと考えても差し支えはないかと思われます。

 大徳寺は養叟宗頤が近江国堅田殿原衆の支援のもとに入山を叶え、さらに支援・支持を得るために(その一部には関山派に対抗するために)入室参禅を容易にし、泉州堺に進出しました。堺は一休宗純の求めに応じて大徳寺復興資金をねん出するほど経済力の高い場所ではありましたが、その場所は細川一門の支配地でもあったのです。よって、養叟宗頤派が抵抗しようにも、細川氏の支援が妙心寺に向いている間は抵抗の仕様がありませんでした。
 この期間の細川政元は絶頂期と言って良いでしょう。応仁の乱は事実上東軍の勝ちであり、引き続き細川氏が幕政に関わることになります。すでに斯波家は分裂状態で過去の威勢はありません。足利義尚の死後、足利義材と組んだ畠山政長が管領となって幕政を壟断しかかりましたが、これも明応のクーデターでひっくり返し、堀越公方の息子を足利義澄として傀儡将軍の座につけることも成功しております。向かう所敵なし状態だったのですが、良いことはそれほど長く続くことはありませんでした。

 1507年(永正四年)六月二十三日、細川政元は暗殺されます。この時、細川政元は山科本願寺を動かして、畠山・朝倉氏の討伐を、今川氏を三河に侵攻させて斯波氏討伐を企図しておりました。それがこの暗殺によって頓挫したのです。妙心寺にとっては最大の支援者を失うに至ります。暗殺後のゴタゴタは最終的に足利義材(義稙)が将軍職に復位し、政元の養子の一人、細川高国が管領としてこれを支える体制となりました。高国は親朝倉・畠山です。これに政所執事伊勢貞宗、貞陸(伊勢宗瑞の宗家です)も降伏し、今川氏親・伊勢宗瑞の三河侵入は終了するわけです。
 この政変をきっかけに妙心寺は生き残りをかける必要がありました。以前、大内義弘に深く入れ込んだために、妙心寺の経営は破たんしました。今回細川政元に大きな部分を依存していたわけですが、細川高国は細川政元の後を継ぐべき人物と予定されていたわけではありません。妙心寺は新たな権力者と関係を作り直さなければならないわけですが、今まで通り大徳寺に住持を出し続ける戦略は不都合と言えるでしょう。1508年(永正五年)の時点で大徳寺住持は養叟・春浦系の東渓宗牧に回っております。時間をかければ細川高国と新たな関係を取り結んで戦略継続は不可能でもなかったと思われますが、時間をかけるということは大徳寺の養叟・春浦派にとっても反撃のチャンスを与えてしまうことになります。

 そこで妙心寺は朝廷に働きかけ、大徳寺の末寺から離れ、紫衣勅願の寺院として独立を果たしたわけです。これ以後、妙心寺は大徳寺の末寺ではなく、妙心寺派臨済宗の総本山となりました。これで大徳寺から人が送り込まれるリスクは回避できたわけです。そして、細川政元に頼りすぎていた現状を見直し、政治的リスクの分散を図るようになります。それは、新たに立ち上げた妙心寺教団を戦国コンサルティングファームに変えることでした。

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 その意味する所は小和田哲男氏の著書「戦国武将を育てた禅僧たち」にあるとおり、名だたる戦国大名の軍師となり、その師弟に教育を施し、外交交渉もこなして領国経営に参与する、シンクタンク集団であったのです。

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2016年6月 4日 (土)

中漠:明応軍乱編㉒後北条家の宗旨報告書Ⅲ(北条早雲~氏綱)

 伊勢宗瑞が堀越公方領を接収した後も、彼は今川氏親の部将としてとどまっておりました。今川家は伊勢氏とのパイプを通じて細川政元に従っており、関東と東海の東西に目配りをしております。1506年(永正三年)、細川政元は各地に残る反細川派を一掃するために今川氏と本願寺教団に戦闘を支持します。今川氏親に課されたのは遠江を平定し、三河を縦断して斯波家を潰すことでした。今川氏親は伊勢宗瑞を派遣して永正三年に牧野古白を討ち取り、さらに永正五年の秋ごろに三河国伊田野で松平長親と合戦に及びます。(一応、柳営秘鑑では文亀元年、徳川実紀では永正三年説になっているのですが、本稿では永正五年説を採用しております)伊勢宗瑞の三河侵攻はこの井田野合戦でストップします。
 この前年に細川政元は暗殺されており、この世の人ではありませんでした。そして、井田野合戦の直前に今川氏親は遠江守護の役職を足利義材より受け取りました。これをもって今川氏は細川政元⇒澄元ラインから足利義材ラインに乗り換えたと見る向きもありますが、事はそれほど単純ではなかったと思われます。発足間もない義材政権にとっては地方で大合戦をやらかされると困るし、まかり間違ってそこで大勝ちして東海地方が今川氏に統一されてしまうことも必ずしも歓迎できることではなかったのではないでしょうか。大内義興の協力で京は手に入れたもののまだ足利義澄も、細川澄元も健在であり、戦況の動きで不利を蒙るリスクが高いと判断したと私は見ております。よって、遠江守護補任はすでに取得済の遠江領有を将軍も認めるからそれで満足し、静謐を保て、というのがそのメッセージではなかったでしょうか。
 伊勢宗瑞はそれでも兵を進めて西三河の井田野で合戦に及びます。そこに飛び込んできたのが大徳寺七十二世東渓宗牧から、伊勢宗瑞に贈られた天岳という道号でした。伊勢宗瑞の家の宗旨は今まで見た通り総持寺、大源・恕仲流の曹洞宗です。過去に宗瑞が大徳寺に参禅した形跡はあるものの、以後も伊勢新九郎を名乗り、親族が新九郎領地の周辺に曹洞宗の寺を建てていたことから、本格的な入信ではなかったことが読み取れます。彼が名乗った法号である宗瑞の「宗」が大徳寺派臨済宗を現すのだとしても、彼はずっと東海地方にいて京の大徳寺に参内する余裕はなかったと思います。にもかかわらず、このタイミングで東渓宗牧が道号を送ってきた意味をどのように解釈すべきでしょうか。おそらくは、東海にあって細川政元暗殺後の京の動静を測りかねた伊勢宗瑞が、昔の伝手を頼って客観的な情報を求め、それに応える形で道号付与を名目に接触したと見ればよいのではないかと思います。宗家の伊勢貞宗・貞陸は細川高国が足利義材・大内義興連合に寝返って間もなく、これに歩調をあわせて足利義材派に従っております。今までの政元が敷いた路線通りに続けてよいか、義材の話に乗るかについて、足利義材や伊勢宗家や細川高国が現在ついているポジションについて正確な情報を得た上で判断する必要があったのだと思われます。
 伊勢宗瑞は東渓宗牧がもたらした京の情報を持ちかえって今川氏親と協議し、撤兵を決めたのでしょう。以後、伊勢宗瑞は東部戦線に専念し、伊豆・相模両国を領有することになります。伊勢宗瑞は自らが滅ぼした堀越公方の機能を肩代わりできるような力をつけることに腐心したわけです。
 1519年(永正十六年)八月十五日に伊勢宗瑞は伊豆韮山で没します。今川に属する将としてではありますが、伊豆国と相模国を父から受け継いだ氏綱は一つの構想を思い描いておりました。それは関東府の再興です。彼が領した相模国にはかつて同じ桓武平氏出身の北条一族が鎌倉幕府の執権として東国を仕切っておりました。氏綱としてはこの先例に倣って後の世の北条氏たらんと志したのでした。
 北条氏綱は父の死の翌月、韮山に芳琳乾幢という僧を呼んで無遮会という法事を執り行います。無遮会とは、貴賤・僧俗・上下・男女の区別なくだれにでも財施・法施を行う儀式で、故人の遺徳を偲んで金品を配ったということのようです。領民に対する人気取りという側面もあったのでしょう。ここで芳琳乾幢が読んだ祭文の中に、伊勢宗瑞は建仁寺と大徳寺で学んだ経験があることが触れられております。仏法の外護者である旨を申し述べたものでありましょう。この祭文は「玉隠和尚語録」に収められているそうなのですが、この書物の作者は玉隠英與という建長寺住持を務めたことのある鎌倉五山の重鎮です。
 これは想像ですが、鎌倉五山は伊勢宗瑞をそれほど高く評価していなかった現れなのではないかと思います。北条早雲は税を下げて民を安んじた仁君として知られておりますが、逆に言うとそのような宣伝が必要であったという捉え方もできます。宣伝が必要になるのは、不都合な評価を覆い隠すためで、その不都合な評価とは足利茶々丸を殺害したことではなかったかと思います。足利茶々丸は親が定めた後継者である異母弟の潤童子を母親と一緒に殺して堀越公方の座を奪った簒奪者ではありますが、伊勢宗瑞はその堀越公方が治めていた伊豆を茶々丸から奪い自領としているのですから彼もまた簒奪者でもあるのですね。潤童子の敵討ちということであれば、伊豆国は潤童子の縁者(この場合は生き残った足利義澄)に返還すべきものではあるのです。氏綱はおそらくは鎌倉五山に自らが後の世の北条氏たらんとする志を伝えただろうとは思われますが、主張の筋の悪さでやんわりと断られ、落としどころとして行われたのがこの無遮会だったのではないかと推測します。 氏綱としては、「後北条氏構想」の一環として鎌倉五山の外護者としての宗瑞を祀りたかったと思われますが、それは叶いませんでした。

 鎌倉五山の代替として名乗りを上げたのが大徳寺でした。きっかけは東渓宗牧が伊勢宗瑞に与えた天岳の道号であったと考えて差し支えないと思います。大徳寺は氏綱の構想を受け入れます。氏綱は父宗瑞のために韮山に早雲寺を建立します。そこに招かれたのが大徳寺八十三世の以天宗清でした。東溪宗牧と同じ、春浦宗熈の法統に連なる人物です。

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氏綱はこの二年後に氏を伊勢から北条に改めます。そして伊勢宗瑞も北条早雲として祀ることとなりました。

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2016年5月28日 (土)

中漠:明応軍乱編㉑後北条家の宗旨報告書Ⅱ(伊勢宗瑞)

 以前一休宗純の生涯をかなり詳しく、同時に邪推をもって描写を進めてきましたが、小和田哲男氏著「戦国武将を育てた禅僧たち」を材料に北条早雲、臨済宗大徳寺派宗旨説を検証してみようと思います。
 小和田氏は根拠として二つの史料をあげられております。一つは1519年(永正十六年)九月十五日 北条氏綱が伊豆韮山で無遮会を行った際、禅僧芳琳乾幢による祭文に「南浦に宗猷す」という文言があることです。この南浦とは南浦紹明を指し、南浦紹明は大徳寺を開いた宗峰妙超の師匠であることから、大徳寺に所縁ありと見なすことができます。
 さらにもう一つが、1508年(永正五年)の冬に、大徳寺七十二世住持の東渓宗牧が伊勢宗瑞に天岳の道号を与えたという内容の書物「道号頌」(道号の意味・意義についての解説書)に記載されているとのことです。「曾て正続大宗禅師の室に入りて、吾が三玄の戈を操り(後略)」とあるそうです。この正続大宗禅師とは、養叟宗頤の教えを継いだ春浦宗煕のことです。同書においては、伊勢新九郎と東渓宗牧はともに机を並べて春浦宗煕に学び、一人はそのまま大徳寺に居残って、住持となり、もう一人は戦国武将として活躍したさまを描写したうえで、春浦宗煕と険悪な仲であった一休宗純は自著『狂雲集』の中で、「逆行の沙門三尺の剣、禅録を見ずして軍書を読む」と春浦宗煕を批判しているのですが、この僧堂で軍書ばかり読んでいる沙門の筆頭として伊勢宗瑞を小和田氏の著作の中であげられております。

 伊勢新九郎(宗瑞)の生誕年代には二説あります。一つは1432年(永享四年)説で、もう一つは1456年(康正二年)説です。ちなみにネットで調べたところ、小和田氏はどうやら1432年(永享四年)説をとられているようです。とりあえず、どちらの説も矛盾を含んでいて、例えば1432年(永享四年)説だと、今川義忠に嫁いだ時点の伊勢新九郎の姉、北川殿の年齢が高すぎはしないかという話になります。なにしろ、北川殿が今川家に嫁いだ1467年(応仁元年)時点で伊勢新九郎は齢三十六です。この時代の女性であれば、婚期を逃していると言わざるを得ません。なので、1432年(永享四年)説をとる場合には、北川殿は伊勢新九郎の年の離れた妹ということになっております。逆に、1456年(康正二年)説の場合、伊勢新九郎の足利義視に仕えた時期が微妙になるのです。伊勢一族は応仁の乱においては基本的に東軍についているのですが、足利義視は応仁元年八月に京を逃げ出し、応仁二年十一月には西軍に走っております。応仁二年十一月の時点で伊勢宗瑞は数え十二歳。元服をするかしないかの時期なのですね。
 春浦宗煕が大徳寺の住持を務めていた時期は平均一~二年で住持交替が行われていたこの時期には珍しく、1453年(享徳二年)から1462年(寛正三年)までの九年間となります。この期間を1432年(永享四年)説に当てはめれば、数え二十二歳から三十一歳の期間になります。一応軍書を読んでいてもさまになるかもしれません。ちなみに、小和田氏が机を並べたと書いている東渓宗牧の年齢に当てはめると、数え一歳から九歳ということになり、この時代であれば親子ほど年の離れた同窓ということになってしまいますね。東渓宗牧は春浦宗煕とは年齢差があるので、直接印可を受けたわけではなく、春浦宗煕から印可を受けた弟子である實傳宗眞を経由して印可をもらっているので、直接の弟子とも言いづらいところはあります。念のため、1456年(康正二年)説をとった場合は伊勢新九郎数え一歳から七歳となりますね。伊勢宗瑞と東渓宗牧の年齢差は無くなって同窓っぽくはなりますが、大徳寺は幼児・児童教育もやっていたのかという話になってしまいます。アニメの一休さんなんかを見れば、それもありなのかという気にもなりますが、軍書を読む七歳児を想起するならば一休ならずとも慨嘆したくなりますね。(冗談です)

 春浦宗煕が大徳寺住持を退くと、代わって入ってくるのが関山派の雪江宗深でしたので春浦宗煕は大徳寺を出て洛東に大蔭菴という庵を開いてそこに住します。禅僧芳琳乾幢による祭文や「道号頌」には「南浦に宗猷す」とか、「曾て正続大宗禅師の室に入りて、吾が三玄の戈を操り(後略)」としか書いておらず、大徳寺で学んだとは書かれておりません。応仁の乱中は大徳寺は焼失しており、春浦宗煕が大徳寺に帰ってくるのは大徳寺を復興させた一休宗純の死後、1482年(文明十四年)に大徳寺寺域内に塔頭松源院を建立した時となります。狂雲集は応仁期にはすでに存在されていたらしいのですが、著作の中に1471年(文明三年)に囲った森女の話ものっておりますので、死没まで書き足ししていたのでしょう。伊勢新九郎と東渓宗牧が同窓でかつ、兵書を読む沙門の代表が伊勢新九郎であるとすれば、その場所は大徳寺ではなく、洛東大蔭菴ということになるのではないか、と思います。
 とはいえ、「机を並べ」や「兵書を読む新九郎を狂雲集で一休が批判」とあるのは古文書の上に現れている話ではありませんので、理解を促すための小和田氏のレトリックであると考えればよいかと思います。
 いずれにせよ、伊勢新九郎盛時は春浦宗煕に学問を学びましたがそれは必ずしも、禅のみではなく、兵学も併せて学んでいただろうし、それは必ずしも出家を目的としたものではありませんでした。

 1487年(長享元年)に伊勢新九郎盛時は姉の北川殿の要請に応え、今川家陣代小鹿範満を討つために駿河へ下向します。そしてその功をもって東駿河の興国寺城を与えられ、以後東海地方が彼の活躍の場となります。彼が兵書ではなく、仏道に目覚め自らを早雲庵宗瑞と名乗るのは1495年(明応四年)になってから、伊豆国韮山においてです。その翌年に学んだ師である春浦宗煕が遠く離れた京で示寂しましたが、この一両年中に二人が接触した形跡はありません。

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2016年4月23日 (土)

中漠:明応軍乱編⑯後北条家の宗旨報告書Ⅰ(伊勢宗瑞)

 本稿の内容はほぼ「今川家の宗旨報告書Ⅱ(今川義忠~今川氏親)」に被ります。
 今川義忠の正室は伊勢新九郎盛時の姉の北川殿でした。彼女が嫁した今川家は他家同様ごたごた続きであり、盛時は姉を助けて駿河へ下向するわけです。この北側殿輿入れの二年前に伊勢新九郎盛時の弟である賢仲繁哲が駿河国焼津(静岡県焼津市)に林叟院という曹洞宗寺院を建立しております。これは今川義忠と北側殿との婚姻が家格相応の物であり、恙ない結婚生活を送るため準備とみればよいかと思います。後に、今川義忠が急死し、義忠の従兄弟の小鹿範満がお家乗っ取りを企んだ折、焼津にある小山城の長谷川正宣を頼って嫡子龍王丸とともに逃れております。その折に弟の賢仲繁哲が近くにいたことは大変心強かったろうし、もう一人の弟盛時を呼び寄せるきっかけとなったことは想像に難くありません。
 最初は小鹿範満を陣代として認めることで妥協した北川殿も、龍王丸が成人しても陣代を返上しない範満をみて、1487年(長享元年)十一月九日、再び弟を呼び寄せてこれを滅ぼします。その功をもって伊勢新九郎盛時は今川龍王丸、元服して氏親から興国寺城を与えられ、今川家に仕えることとなりました。

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 伊勢新九郎盛時が興国寺城に入った伊豆国修善寺にある修禅寺に叔父の隆渓繁紹を入れます。修禅寺はもともとは真言宗寺院で源範頼、頼家が幽閉され殺害された場所であり、蘭渓道隆が臨済宗の禅寺に改めたのですが、その後廃れておりました。それを曹洞宗寺院として再興させたのです。但し、修禅寺のある伊豆国は今川領ではありません。堀越公方足利政知の直轄地でした。彼は足利義教の次男であり、影響の乱で鎌倉公方足利持氏が滅ぼされた後の関東を支配すべく送り込まれたのですが、地元の諸侯の支持を得られずに伊豆一国に押し込められた形になっておりました。

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 堀越公方足利政知には三人の息子がおりました。茶々丸、清晃、潤童子の三人です。茶々丸と清晃、潤童子とは母親が違っておりました。一応茶々丸が嫡男でしたので、清晃は僧籍に入れられ、潤童子もいずれはそうなるものと思われましたが、一説によると二人の母親の円満院(武者小路隆光の娘)が我が子かわいさのあまり茶々丸について讒言し、その結果茶々丸は素行不良のかどで廃嫡の上、土牢に幽閉の身となったそうです。足利政知は足利義教の次男であり、将軍になる見込みはありませんでした。しかし、彼が僧籍に入った後、兄義勝が急死し、僧籍に入る前の弟の義政がその後継となったのです。間が悪いと言えば間が悪いものです。政治の都合で持氏亡き後の関東公方に選ばれた折もそうでした。還俗させられたのは二十三歳の時です。しかし、幕府は関東公方が独立されることを恐れ、十分な兵力でサポートしなかったために、持氏の遺児の成氏が古河公方として復活してしまった結果、関東全域を支配する予定だった足利政知は伊豆一国に押し込められたのです。足利茶々丸は父政知が還俗した二十三歳の時から次男清晃が生まれた四十七歳の間に生まれた息子です。しかしながら、現代に幼名以外の名は伝わっていないのですね。茶々丸の廃嫡が決まったのが、1487年(長享元年)六月でこの時廃嫡に反対した関東執事の上杉政憲を自害させております。この時点で元服していない年齢となれば、概ね、1475年(文明七年)当たりの生まれであろうと推測できますね。
 ただ、政知は関東公方をあきらめたわけではありませんでした。清晃・潤童子の母親は武者小路隆光の娘で彼のもう一人の娘は九条政基に嫁いで聡明丸という息子がいました。聡明丸は二歳の時に細川政元の養子となっております。姻族つながりで細川政元との縁ができたのです。

 伊勢新九郎盛時が伊豆国修禅寺に叔父隆渓繁紹を入れて再興させたのはこの時期でした。多分ではありますが、伊勢新九郎は修禅寺を通して興国寺城にいながらその情報を探っていたものと思われます。修禅寺再興の翌々年、1491年(延徳三年)、堀越公方足利政知が病死します。次男の清晃(この時数え十一歳)は京の天龍寺香厳院におります。一応僧籍に入っているわけですが、この時点で細川政元は京の室町殿足利義材を見限っており、清晃を次期将軍にすべく、時期をはかっておりました。政知の突然の死は、細川政元にとって関東平定が遅れることを意味しました。但し、関東公方としての足利政知はほぼ京都の傀儡であり、その意味ではその後継に幼君が就くことは歓迎されるべきことでもありました。後継者として指名されたのは廃嫡された茶々丸ではなく、三男の潤童子でした。茶々丸はこれに反発し、挙兵して潤童子とその母親円満院を殺害し、自ら二代目堀越公方を名乗ります。もちろん、単純に私怨で弟や母親を殺害しても誰も賛同しないでしょう。廃嫡に反対した上杉正憲の意を汲む勢力が堀越御所の中にいたはずです。しかしながら、それは管領細川政元にとって受け入れられるものではありませんでした。この機に城して興国寺城の伊勢新九郎盛時は伊豆国に侵入して韮山城を抑えます。それは西伊豆の出口に蓋をして、一時的にではありますが、この政変の影響を国外に出さない効果を生みました。
 その間に管領細川政元はクーデターを仕掛け、室町殿足利義材を蹴落とし、天龍寺香厳院の清晃を還俗させて時期室町殿としました。足利十一代将軍義澄です。新将軍は母親と弟を殺害した異母兄を許しはしませんでした。その意向を受けて1493年(明応二年)十月に伊勢新九郎は堀越御所を攻め、足利茶々丸を追放します。かくして堀越公方は二代で滅亡し、細川政元による関東掌握計画は一時的に頓挫することになります。

 北川殿とともに伊勢新九郎を駿河国に呼び寄せるきっかけを作った弟の賢仲繁哲と伊勢新九郎の伊豆侵攻の先駆けとなって修禅寺に入った叔父隆渓繁紹はともに曹洞宗の僧侶であり、遠州石雲院の崇芝性岱に学んだ同門でした。彼らは同じ曹洞宗であっても今川氏が元々受け入れていた華蔵・海蔵流(道元の弟子が九州を中心に教えを広めた方)ではなく、能登国総持寺三世の峨山韶碩(三代争論で永平寺を飛び出して作られた方)より大源・恕仲の流れを汲む宗派でした。

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2015年8月 9日 (日)

中漠:林下編㉑応仁乱中の妙心寺の生存戦略

 応仁の大乱は京を阿鼻叫喚の地獄に叩き落としました。京は東軍と西軍に分かれ、妙心寺は大徳寺とともに烏有に帰してしまいます。妙心寺は細川勝元と密接に結びついておりましたから東軍派と見なしてよいわけですが、この戦乱の最中にあって、妙心寺は奇妙な動きをしております。

 1462年(寛正三年)に大徳寺住持を務めた関山派の雪江宗深が指導した弟子の一人に悟渓宗頓という人物がいました。彼は応仁乱中の1468年(応仁二年)に美濃国に招かれ、瑞龍寺という寺を建てます。問題は彼を招いた人物でした。名を斎藤妙椿といいます。彼は守護代斎藤家の分家で、善恵寺という浄土宗寺に持是院という房を持っていた為彼から始まる血統を斎藤持是院家といいます。守護代斎藤家の実働部隊として軍を率いて主君である土岐成頼に仕えております。この土岐成頼は、山名宗全率いる西軍に属しておりました。

 応仁の乱の緒戦においては、日野富子と足利義尚を奉じた西軍が細川勝元の東軍を押しまくっておりました。土岐成頼は在京して西軍の一角を担い、斎藤妙椿は守護代格(守護代は甥の利藤)として在国し、国内を西軍派でまとめるとともに、近隣の東軍派諸国に派兵して強力な軍事力を見せつけていたのです。この頃の西軍勢力は最も盛んで、東軍において西軍追討大将に任じられた足利義視が、内部対立もあって西軍に走るほどでした。妙心寺は既に焼失しており、再建を図らねばなりませんでした。
 これより先、1415年(応永二十二年)に日峰宗舜は濃尾国境の犬山に瑞泉寺を開山しており、その創建に当たっては弟子である蜂屋玄瑞の活躍が知られております。その蜂屋氏は土岐一族の美濃国人であり、そのつながりか1441年(嘉吉元年)に美濃守護代の斎藤利永が日峰宗舜の弟子である雲谷玄祥を招いて汾陽寺という妙心系派臨済宗寺院を建てておりました。悟渓宗頓が斎藤妙椿に招かれたのも、その流れでありましょう。
 悟渓宗頓は本寺の外護者である細川勝元の敵対勢力から外護されることになったわけですが、応仁の乱そのものはつい直前の文正の政変では細川勝元と山名宗全が結託して伊勢貞親を失脚させていたくらい接近していたので、前々から話が話があったとすれば、断りづらかったのかも知れません。あるいは、本寺が焼亡した以上は新たな外護者を西軍派に求めたのかも知れません。斎藤妙椿は、少なくとも悟渓宗頓がそのような期待をかけてよいだけの器量の持ち主でした。応仁の乱の戦災を避けて関白一条兼良が美濃国に避難したのですが、これを保護したのが斎藤妙椿でした。

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 ただ、その後に東軍は反撃にでて戦線は膠着状態になります。周防の大内政弘率いる西軍がチートで山城国をほぼ押さえてしまったのですが、細川勝元は西軍守護の近隣諸国の有力者や重臣を寝返らせて対抗する手段にでたのです。例えば大内政弘に対しては、一族の大内教幸を寝返らせて反乱を起こさせました。こちらは国許残留勢力の陶氏の活躍で事なきをえましたが、斯波義廉の重臣朝倉孝景は東軍に寝返ってまんまと越前一国を切り取ることに成功しました。これは間接的にではありますが、京の戦線を覆すための効果を発揮しております。反面、それまで京を舞台に行われていた合戦が全国に広がるきっかけにもなりました。
 1473年(文明五年)に山名宗全と細川勝元が相次いで亡くなると、誰のために戦っているのだということになって厭戦気分が蔓延しますが、ここで斎藤妙椿は上手く立ち回りました。
 越前国では東軍方に寝返って越前守護に任じられた朝倉孝景と西軍斯波義廉に仕える越前守護代甲斐敏光が戦っておりました。斎藤妙椿は甲斐敏光の援軍として越前に派兵しておりましたが、厭戦気分を上手く利用して朝倉孝景と甲斐敏光との和睦をとりまとめたのです。甲斐敏光はこれがきっかけになって東軍に投降、東軍方は彼を遠江守護代に封じて決着をさせました。
 但し、妙椿自身は西軍に籍を残したままでした。応仁の大乱を終息させるに当たり、最も問題になるのは足利義視の処遇だということを心得ていたからです。1476年(文明八年)足利義視も敗北を認め、東軍に帰順し、京を去ることを申し出ます。その身柄を預かったのが妙椿の主君の土岐成頼でした。その後も、尾張の織田伊勢守方を助けるために出兵したりして、自派の勢力を保ったままなし崩し的に幕府に自らを売り込むことを成功したのです。彼のこの手練手管が復興後の妙心寺と西軍方の瑞龍寺を再びつなぐことに成功した要因となったとみてよいでしょう。悟渓宗頓はこの後、大徳寺・妙心寺の住持を歴任し、雪江門下の四神足と呼びならわされるようになります。これは彼が両寺院の復興のために少なからぬ貢献をし、その後見の背後には斎藤妙椿による外護があったと考えて差し支えの無いことでしょう。土岐成頼が帰国した頃には斎藤妙椿は押しも押されもしない実質的な美濃国主となっていました。

 斎藤妙椿は1497年(明応六年)に没しました。彼は元々は浄土宗僧であったのですが、宗教的信条はあまり守られておりません。第一に彼は法体のまま北畠氏の娘と結婚して一女をもうけております。浄土真宗と違って浄土宗も禅宗も妻帯は認めていないはずなのですね。そればかりか、1450年(宝徳二年)には法華宗妙覚寺派の世尊院日範を招き、常在寺を建立しております。法華宗と浄土宗は水と油であり、血で血を拭う争いをしていたはずなのですが、あまり頓着していないようです。止めとして挙げられることは、斎藤妙椿は、彼が主君のために建てた禅宗寺院である瑞龍寺に葬られたという事実です。功績に応じた格式を与えられたということかもしれませんが、節操の無さは批判されても仕方ないかもしれません。
 妙椿には後継する男児が居なかったので守護代斎藤利藤の弟の利国が養子に入っておりました。彼も法体となって妙純と名乗っております。彼の妻(俗人の頃、と思いたいです)は応仁の乱の折に美濃に避難してきた一条兼良の娘と伝えられております。妙純は戦国の争乱の中、京極領に侵入したところを土一揆に殺害されるという最期を遂げ、持是院に葬られるのですが、彼の妻は悟渓宗頓に帰依し、買得した仁和寺真乗院の土地を、妙心寺再興のために寄進します。これによって妙心寺派はさらに発展してゆくことになります。
 悟渓宗頓が開いた瑞龍寺の成功例は妙心寺内の拡大のきっかけになりました。守護代クラスをターゲットにすれば、守護の帰依を狙えるばかりか、守護代自身が実質的な国主になり得て、外護の幅を広げ得ることが判ったのです。さらにここからは数多くの高僧を輩出し、東海派という一派を妙心寺内に形成することとなります。

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