2017年5月21日 (日)

川戦:安城合戦編Ⅱ 2-1 日覚は弾正忠がどの一国を管領すると言っているのか?

〇論文より引用
一、三州ハ駿河衆敗軍の様ニ候て、弾正忠先以一国を管領候、威勢前代未聞之様ニ其沙汰共候、
(中略)
天文十六年当時「弾正忠」を証して今川軍勢を破り三河を支配しうる人物は、織田信長の父、織田信秀のほかありえない。

 論文においては何の考察もなく、弾正忠が管領する国をあたりまえであるかのように三河国としていますが、ここには検討の余地が残されていると思います。確かに織田信秀は弾正忠を名乗っており、駿河衆を敗軍に追い込んだ結果三河を掌中に入れてしまったようにも読めます。しかし、史実においてはこの書状が書かれた時点で太原崇孚率いる今川軍は三河国において健在であり、九月五日には田原を攻めた配下の諸将に太原崇孚・今川義元の手によって軍忠状が出されております。その北方にある医王山には七月に今川方の砦が築かれ西から攻め下る織田勢に対してにらみを利かせております。この書状の後段で日覚は檀越の鵜殿氏が織田軍に攻め滅ぼされないかを心配しておりますが、この書状の中では駿河・尾張の間で外交工作を行っていて、まだ攻め込まれているわけではありません。
 管領という言葉は室町幕府の役職のほかに支配するという意味があり、ここではその意味に使われているようですが、この時点で三河国全体を掌握しているわけではなく、言い切ってしまうのはやや強引であると思います。

 故に別解として、この「一国」は織田信秀の故国である尾張国を指す可能性もあると私は考えています。書状中の駿河・駿の文字は太原崇孚ら今川勢を指しているのですが、今川家は範国から義元に至るまでずっと駿河の太守であり続けました。「駿河」の本来のカウンターパートは「尾張」であり、守護の斯波義統です。しかし、斯波家は今川家に永正年間に大敗北を喫し、天文十六年時点で家勢は大いに衰えておりました。この時の織田信秀の立場は尾張守護斯波義統に仕える尾張下四郡守護代織田大和守達勝の門下に三人いる奉行衆の一人に過ぎません。「駿河」という言葉に対置するには、「弾正忠」の身分は役者不足もいいところなのですが、実際には信長公記に書かれているように尾張で頼み衆をして美濃や三河に遠征を重ねられるほどの実力を有する器用の仁でした。よって、本来駿河衆に対置させるべきは尾張衆であるべきなのですが、尾張国を事実上「管領」する程の実力を保有し、「威勢前代未聞」であるが故に、弾正忠は駿河衆と固有名詞で対置できる存在になっている旨が、書状に記されているという解釈も成り立つでしょう。

Photo

「尾」と「弾正忠」が使い分けられていると考えるなら、以下の部分の解釈も変わってきます。

〇論文より引用(下線は拙稿にて付記)
一、彼楞厳坊申来候ハ、鵜殿仕合ハよくも有間敷様二物語候、其謂ハ駿と間を見あはせ候て、
種々上手をせられ候之処二、覚悟外二東国はいくん二成候間、弾正忠一段ノ曲なく被思たるよしに候、

 この部分を論文においては、以下のように訳されております。

〇論文より引用(下線は拙稿にて付記)
(かの楞厳坊が申し来るところでは、鵜殿氏にとってめぐりあわせはよろしくないという。それというのも、
鵜殿はかねて織田今川の力関係を見計らって、両者との外交で上手に立ち回っておいでであったが、
このたび思いのほか今川軍敗戦という事態になってしまい、織田信秀は今や、鵜殿へ何ら愛想をするまでも
ないと(「一段ノ曲なく」)お思いとの事だ。

 鵜殿氏が外交を行っていたのは「尾」、つまり守護斯波義統周辺でそちらに対しては、「種々上手」ができていました。三河国人鵜殿氏にとって与し易い相手だったはずの「尾」を、いつの間にか「弾正忠」信秀が管領し、駿河衆を「敗軍」に追い込んだために、鵜殿氏の外交相手が信秀になってしまったという解釈もまた考慮に入れるべきではないかと考えます。

 後世の我々から織田信秀を見るなら、彼は天下人織田信長の父親であり、織田信長が天下統一の手始めとして尾張国を掌握するための基礎を用意した人物です。しかし、同時代人の日覚にとってはどうでしょう。日覚は尾張国守山に出生したと論文にありますが、その当時の織田弾正忠家は尾張西部の勝幡と津島湊の差配を任された程度の領地規模で、その当時は織田信定(月巌)あたりのことだったでしょう。それ以前には弾正忠家は津島まで到達しておりません。織田信定が津田湊を手に入れたのは永正十三年頃です。大永七年に三河松平氏の松平信定が織田信定の娘(信秀の姉妹)を娶って守山に館を建てて、日覚の故地と織田信秀との縁はできましたが、その当時信秀はまだ家督を継いでおりません。

 織田信秀が家督を継いだのは天文初年前後あたりと承知しております。津島は木曾三川の河口にあり、対岸には伊勢国桑名という栄えた港町があったのですが、津島から桑名へ向かうには途中長嶋や荷之上など本願寺教団が拠点を置いた輪中をかすめながら舟を向かわせなければなりませんでした。その本願寺教団は天文初年ごろに畿内で幕府と戦争を起こしております。織田信秀としては津島・桑名ルートとは別のルートを開拓する必要が出てきて、今川氏豊のいる那古野城を占領し、熱田湊を傘下に加えました。那古野城は吉法師(信長)に与えて、自らは那古野と熱田の中間地点にある古渡に城を築いて拠点とします。そして守山には織田信広(信長の庶兄)を置きます。この頃守山には松平清康が軍を率いて進駐していたものの、間もなく自壊します。信秀は兵を三河まで送りますが、この時の出兵は守護や守護代の命令で松平清康死後の松平家の後始末をしたものと思われます。津島と熱田の両湊を押さえることにより織田弾正忠家の家勢は大いに上がり、伊勢外宮の建て替えや禁裏御所修繕に独自で献金を行って、ついには(頼み勢ではあるものの)美濃・三河に外征を行えるほどの威勢を示します。

Photo



 日覚から見れば、ついこの間まで湊の管理人だった信秀がいつの間にか、駿河太守の今川家と対等に尾張の兵力を思いのままに動かしているように見えるほどになった訳ですね。その威勢を日覚が「(尾張)一国管領」「前代未聞」と表現したとしても、それは理解しうるのではないでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月20日 (土)

川戦:安城合戦編Ⅱ 第2節の論点抽出:日覚の弾正忠三河侵攻情報はあてになるか?

 本稿は論文第2節:「織田信秀の三河侵攻情報の信憑性」について考察する物です。

論文においては、「菩提心院日覚書状」の三河関連情報について、原文と論文の著者による現代語訳がつけられております。以下その引用です。(実際は原文の段落毎に逐次解説が入っておりますが、まとめております)

〇菩提心院日覚書状(抜粋)の現代語訳 論文より引用(〇数字と(a)は拙稿にて挿入・抽出論点を赤字で表記)

三河では駿河衆が敗戦したらしく、弾正忠がひとまずは一国を押さえている。
その威勢はいまだかつてない程度であるように取り沙汰されている。

かの楞厳坊が申し来るところでは、鵜殿氏にとってめぐりあわせはよろしくないと言う。
それというのも、鵜殿はかねて織田と今川の力関係を見計らって、両者との外交で色々上手に立ち回って
おいでであったが、このたび思いの外今川軍敗戦という事態になってしまい、

②織田信秀は今や、鵜殿へ何ら愛想をするまでもないと(「一段の曲なく」)お思いとのことだ。
楞厳坊が「恐らく今こんにちの時点では、はや鵜殿の城に織田が攻め入っているかもしれない」と言うから、
あまりにも心許なく思われるので、近日のうちに心城坊を鵜殿のもとに差し遣わすつもりである。

(a)岡崎城主松平広忠は、織田信秀への降参者として処遇され、辛うじて命ばかりは許された。
信秀は三河を平らげ(「平均」にし)、
その翌日に京に上った。
④楞厳坊の在京中に信秀の上京という良いついでが重なり、
このように楞厳坊が聞きつけて情報をよこしてくれた。
鵜殿に万一のことがあれば、当門流にとって痛手であり、体面上も実質においても残念な事態である。

 上記訳に付随した解説を簡略にまとめると以下のようになります。

 駿河衆を破り前代未聞の勢いの弾正忠こと、①織田信秀は三河一国を支配している。(a)織田信秀は岡崎城主松平広忠を降伏させて、③上洛してきた。織田信秀は日覚が属する日陣門流檀徒である②鵜殿氏について、もはや愛想をするまでもないと言っている。京には日覚と同門である日陣門流の楞厳坊がいてこの話を聞き付けて知らせた。この話は全部伝聞情報なのだが、日覚には尾張・三河地方とのコネクションをもっているので、史実である蓋然性は高い。

①弾正忠が管領する一国とはどこか?
 論文中では、一国とは三河国であると断定していますが、この一国とは信秀が自らが属する尾張国のことを言っている可能性について、考察してみます。
 その根拠として、現代語訳で「織田と今川の力関係」となっている箇所が原文では「尾と駿と間を見合わせ候て」となっている点を挙げておきます。

②弾正忠は鵜殿のことを「一段の曲な」しとお思いになったのか?
 現代語訳文の主語について考察いたします。論文では弾正忠が鵜殿に愛想をするまでもないと思ったとしていますが、敬語の使い方等から逆に鵜殿が弾正忠のことを交渉相手としては愛想のないものと思っているという解釈が成り立つかどうか考察いたします。

③弾正忠は上洛したのか?
 ここは論文においても、織田信秀上洛を示す他の史料は見当たらないと言及されていますが、別解が成立しうるかどうか、自分なりに考えてみます。

④楞厳坊は誰からどんな情報を仕入れたと言っているか?
 論文では上洛した織田信秀についての噂を、同じく楞厳坊が聞きつけて越中にいる師の日覚に伝えた態であるとかいています。察するに鵜殿云々は織田信秀が三河で駿河衆を敗軍に追い込んだという情報から、同じく三河国人である鵜殿氏への影響を心配した、という読み方をされているのでしょう。その読み方が果たして正しいかどうか、検証を試みます。

(a)岡崎の降参について
 これについては、論文の第5節において考察がされていますので、ここでの論点とはせず、そこでまとめて考えてゆきたいと思います。

⑤第2節の結論

〇菩提心院日覚書状(抜粋)の原文 愛知県史 資料編14より引用

一三州ハ駿河衆敗軍の様二候て、弾正忠先以一国を管領
 候、威勢前代未聞之様二其沙汰共候、一、此十日計巳
 前ニ京都より楞厳坊罷下候、厳隆坊も同心にて候、心
 城坊ハ旧冬よりいまに当国二滞留候、さる仕合候て、
 濃州より当国へ上使二養雲軒と申人之内者の様にて候、
 于今旦方あひたの使なと仕候、此人なふてハの様にて
 候、一、彼楞厳坊申来候ハ、鵜殿仕合ハよくも有間敷
 様二物語候、其謂ハ尾と駿と間を見あはせ候て、種々
 上手をせられ候之処二、覚悟外二東国はいくん二成候
 間、弾正忠一段ノ曲なく被思たるよしに候、定而彼地
 をも只今の時分ハ攻いらんやと致物語候間、あまりニ
 □□許存候間、近日心□坊を可差遣覚悟にて候、岡崎
 ハ弾江かう参之分にて、からゝゝの命にて候、弾ハ三
 州平均、其翌日ニ京上候、其便宜候て楞厳物語も聞ま
 いらせ候、万一の辺も候てハ、門中力落外見実義口惜

 次第候、

※愛知県史は□部分を以下の通り補足
 □□許存候⇒無心許存候(心許なく存じ候)
 心□坊⇒心城坊

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月14日 (日)

川戦:安城合戦編Ⅱ 第1節の考察:日覚書状はいつ書かれたか?

 本稿は論文第1節:「日覚書状の年代比定」について考察する物です。

 論文が日覚書状の年代を1547年(天文十六年)としている根拠は書状冒頭にある以下の文言にあります。

〇論文より引用
京都ハ山門と和議やらんの様になり候而、心安勤行をも諸法花共ニせられ候よし候、当宗の事、
入らく次第の事にて候、過分に代物を仕候而、これほとにも成たる□□候、本禅にも負物過分に候

(拙訳)
京都は山門(延暦寺)と和談がなったようです。それにより安心して勤行してよいと法華諸宗に仰せつけがあったということです。当宗(陣門法華宗、日覚の属する法華宗の流派)については入洛次第ということですが、過分な代価を負わされました。これほどになるとは□□です。本禅(本禅寺。陣門法華宗の京都の拠点)にも負担が過分に仰せつけられています。

 ここに書かれている「和議」が1547年(天文十六年)六月十七日に六角家家臣進藤貞治・平井高好を仲介に延暦寺三院執行代と洛中法華の本能寺・妙顕寺・本国寺三ヶ寺及び諸寺代との間に結ばれた和議であり、その条件として「日吉祭礼料百貫文の納付」があるのを日覚書状で「過分に代物を仕候而、これほとにも成たる」に比定しうる旨、根拠としています。
 私自身はこの比定は妥当なものと思っております。

 この和議が結ばれた1547年(天文十六年)は管領の立場にある細川晴元は京におりませんでした。上洛してきた細川氏綱派の上野元治への対応をめぐって足利義晴と対立して京を脱出。河内の遊佐長教に対抗する為に丹波経由で摂津に下っております。一方の足利義晴も六角定頼を管領代に任じ、京の町衆を動員して京の北白川に勝軍山城を建てさせております。そして城ができるとそこに立て籠って細川氏綱支持を打ち出したりするのでした。その間に結ばれた和議でしたが、細川晴元はすぐに京に戻ると六角定頼は細川晴元に寝返り、足利義晴は朽木に脱出してしまいます。

 日覚が書状を出した時点である九月二十二日時点では細川晴元方についていた三好長慶は舎利寺合戦で遊佐長教ら細川氏綱党に打撃を食らわせ、足利義晴も打つ手なしで京に戻るしかない状況でした。

Photo


 細川晴元がその気であれば、いつでも第二次天文法華の乱を起こせるような流動的な状況でした。ちなみに洛中法華の総代となった本能寺・妙顕寺・本国寺の三寺は和議の時点で堺にいます。その他教団は後奈良天皇の勅諚もあってフライング帰洛し、洛中城砦内に寺地を確保しておりました。日覚の属する陣門法華もフライング帰洛組の中では最速の一つでしたが、本格的な復興には天文法華の乱のきっかけとなった延暦寺とのいさかいの決着を待たねばならなかったものではなかったでしょうか。

 この論文の見解に対して国家鮟鱇ブログの鮟鱇氏は興味深い見解を出されています。2015年7月12日の記事「菩提心院日覚書状について(その2)」において、これは1547年(天文十六年)ではなく、1542年(天文十一年)ではなかったかと。その年は第一次小豆坂合戦があったとされ、法華宗徒を赦免した後奈良天皇の綸旨、いわゆる「還住勅許」が発せられた年でした。
 但し、鮟鱇氏もお気づきになっているとおり、後奈良天皇の綸旨は1542年(天文十一年)の十一月十四日であり、日覚書状に記載されている日付、九月二十二日よりも後、ということになって時系列的には苦しい。こっそり戻ってきている連中はいたとしても、勅許が出る以前は大手を振って京の町を歩ける立場にはありませんでしたので、延暦寺との和談の主体となる法華宗寺院の代表者がどこにいてどんな交渉をしたのか、手掛かりが必要になるでしょう。

 ただ、八月にあったとされる小豆坂合戦の情報についても、九月の書状に盛り込むことが可能なはずであり、それによって日覚書状が言う所の「駿州敗軍」の内容として、論文に書かれている岡崎攻略や、大浜攻撃、そして田原城の攻防よりも、そのように書かれるに相応しい内容であると考えることができます。ただ、その説を立証するためには逆に「天文十一年」の延暦寺との和談について、何らかの史料を示す必要があるだろうと思います。しかし、本件を含む菩提心院日覚書状及び北条氏康書状についての考察で提起された着想には、「小豆坂合戦天文十六年」の可能性を考えるにあたり大きな示唆をいただきました。


Photo

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月13日 (土)

川戦:安城合戦編Ⅱ まえがき及び参考文献

 ここ数年になるのでしょうか、素人歴史趣味人にとってのネットワークで検索可能な歴史関連記事の充実ぶりは目を見張るものがあります。以前はWikiPediaで歴史事件を調べても検索のヒット率は低く、内容も非常に薄いものしか掲載されておりませんでしたが、現在においてはWikipedia記事もかなり細かい事象にまで及んでおります。もちろん、Wikipediaの利用については、裏取りを行うことが大原則なのですが、その他にも国立国会図書館のデジタルコレクションと国立公文書館のデジタルアーカイブが充実度を増したことが大きいです。これによって、歴史学者の論文が引用している一次史料と二次史料を直接確認することが出来ます。とは言え、旧かな遣いや変体仮名、崩し字の判読には相当てこずるものですが。そんな事情もあって以前は図書館が唯一の頼みの綱だった歴史の勉強の情報源もかなり充実するようになりました。歴史関連情報のオンライン化に尽力された方々の努力に感謝したいと思います。

 本編は、以前に拙ブログの「安城合戦編」で取り上げました北条氏康書状並びに2015年3月15日発行の『中京大学文学会論叢』第一号(2015~)に掲載された村岡幹生教授の論文「織田信秀岡崎攻落考証」(以下、本編においては「論文」と呼称統一します)について再検討するものです。具体的な進め方としては論文の各節において提起されている論点を抽出し、論点の根拠史料を調べて理解を深めると同時に反証史料の存在と別解の可能性を探ってゆくというスタイルをとってゆきます。もとより同論文がネットで公開されているとは言え、本編では著作権法上慣行として許されている引用の範囲内での言及にとどめますので、本編の読者は当該論文をあらかじめ読んでいることを前提とさせていただきます。論文へのアクセスについては、論文名と著者名で検索いただき、そこからJIRO(Japanese Institution Repositories Onlie)のサイトに入れば読むことが出来ます(2017年5月現在)。

 論文については以前拙稿にて感想を述べさせていただきましたが、その後で時間をかけて咀嚼する中で、学べたことはたくさんありました。未だに理解が進んでいない部分もない訳ではないのですが、改めて論文を公開の場に掲載いただいたことに感謝いたします。また、本編においては過去記事から現時点までの間に私自身の認識が変わっている部分もありますので、ご容赦ください。

 取り進め方としては、基本的に論文の論旨に沿った論点を拾ってゆくものの、途中色々余談や脱線を搦めながら進める予定です。とは言え、論文の検証を通して本編では何を示したいのかについては、ここで明確にしておきます。それは論文が菩提心院日覚書状の「岡崎ハ弾江かう参之分にて、からゝゝの命にて候」というフレーズから織田信秀の岡崎攻落を論証して見せたことの別解として、同じ日覚書状の「駿河衆敗軍」というフレーズから同書状が書かれた天文十六年に第一次小豆坂合戦が起こった可能性を検証してみる事、です。第一次小豆坂合戦は拙ブログの過去記事でまぼろしとしましたが、日覚書状の存在によってそのまぼろしが史実になるかもしれないという感触がないわけではないのですね。この件につきましては本編の結論部分で提起するつもりですが、よろしければ最後までお付き合いいただけましたら幸いです。

[論文「織田信秀岡崎攻落考証」の章立て]
 第1節:日覚書状の年代比定
 第2節:織田信秀の三河侵攻情報の信憑性
 第3節:織田信秀の岡崎攻落を伝える別文書
 第4節:北条氏康書状の史料批判
 第5節:北条氏康書状が述べる三河情勢の検討
 第6節:松平広忠降参情報の信憑性
 第7節:小豆坂の戦いにおける松平広忠の動向
 第8節:松平広忠の病死
 最終節:おわりに ―人質竹千代の真相を推理しつつ―

[参考資料]
〇織田信秀岡崎攻落考証 村岡幹生著 2015年3月15日 Japanese Institution Repositories Onlie掲載
〇三河松平一族 平野明夫著 新人物往来社刊
〇織田信長の系譜 織田信秀の生涯を追って 横山住雄著 教育出版文化協会刊
〇新編安城市史2 通史編 原始・古代・中世 安城市史編集委員会編集 安城市発行
〇新編安城市史5 資料編 古代・中世 安城市史編集委員会編集 安城市発行
〇愛知県史 資料編10 愛知県史編さん委員会編集 愛知県発行
〇愛知県史 資料編14 愛知県史編さん委員会編集 愛知県発行
〇戦国遺文 今川氏編 第二巻 東京堂出版刊
〇信長公記 太田牛一著、桑田忠親校注 新人物往来社刊
〇原本現代語訳 三河物語(上)大久保彦左衛門忠教著、小林賢章訳 教育社刊
〇内閣文庫所藏史籍叢刊 特刊第1-[1] 朝野旧聞ほう藁 汲古書院刊
〇古証文(和学講談所旧蔵本) 編者未詳 国立公文書館デジタルアーカイブ
〇古証文(旧蔵所不明本)   編者未詳 国立公文書館蔵書
〇古証文(大久保酉山旧蔵本) 編者未詳 国立公文書館蔵書
〇寛永諸家系図伝(献上本)太田資宗・林羅山編纂  国立公文書館デジタルアーカイブ
〇寛永諸家系図伝(草稿本)太田資宗・林羅山編纂  国立公文書館蔵書
〇寛政重修諸家譜 堀田正敦編 続群書類従完成会刊
〇難波戦記 万年頼方、二階堂行憲著 国会図書館デジタルコレクション
〇板倉・朽木・大久保家蔵書目録 影印 第4巻 酉山蔵書目録 函別編 朝倉治彦編 ゆにま書房
〇板倉・朽木・大久保家蔵書目録 影印 第5巻 酉山蔵書目録 分類編 朝倉治彦編 ゆにま書房
〇日蓮宗と戦国京都 河内将芳著 淡交社刊
〇増訂近世古文書【解読辞典】 林英夫監修 柏書房刊
〇信長と家康―清須同盟の実体 谷口克広著 学研新書
〇天下人の父・織田信秀 谷口克広著 祥伝社新書
〇常山紀談[本多忠豊・忠高戦死記事] Wikipedia[柳営秘鑑の項]に掲載
〇柳営秘鑑[本多忠高戦死記事] Wikipedia[柳営秘鑑の項]に掲載
〇風雲児たち みなもと太郎著 潮出版刊
〇国家鮟鱇(ブログ)[菩提心院日覚書状・北条氏康書状関連記事]

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年7月19日 (日)

川戦:安城合戦編⑲補遺Ⅳ 今年発表された中京大教授の新説

 本当は前稿にて補遺を終えるつもりだったのですが、2015年3月15日発行の『中京大学文学会論叢』第一号(2015~)に村岡教授の論文「織田信秀岡崎攻落考証」が掲載されておりました。昨年の読売新聞は『織田信長の父・信秀が三河の岡崎を支配していた 中京大教授が新説』ととても興味深い学説が唱えられたと謳っていたものの、限られた新聞の紙幅では何を論拠にそのようなことが言えるのかが今ひとつわからず、その論拠となった『菩提心院日覚書状』が掲載されている昨年刊行された愛知県史資料編14には当該史料が掲載されてはいたものの、肝心の氏の論文は掲載されておらず、欲求不満が募るばかりでした。
 私としてはその論文を読みたくて一連の補遺を書いていたわけですが、国家鮟鱇ブログ7月14日の記事「菩提心院日覚書状について(その3)」http://d.hatena.ne.jp/tonmanaangler/20150714/1436848779 にて、論文がネットで読めるということが書かれておりました。早速読ませていただきました。ご紹介いただいた国家鮟鱇ブログの鮟鱇様にはいくら感謝してもし足りません。

 一読した感想は、新たに学べたこと、認識を改めなければならない事を示唆されたことは確かにあったものの、なおも首をひねらざるを得ないことや論理の飛躍があるように思えて納得のゆかないことも含まれていました。とは言え当該論文を読んで、拙ブログ『川の戦国史・安城合戦編』の一連の記事にて私自身が呈してきた疑問についての氏の見解を、論文を読むことで照らし合わせることができました。論文の内容に対する批評についてはすでに鮟鱇様のブログで展開されており、いくつか首肯できる点もありますが、まずはこの論文に巡り合えたことに感謝をしたいと思います。

 本稿においては村岡教授の論文の要旨を紹介いたします。様々な史料が駆使された長い論文ですので、場当たり的に指摘を入れても散漫な物になりそうです。なので、まずは論文の骨格を把握するところから始めたいと思います。その上で当該論文に対して感じた一番大事に思える点をいくつか指摘することと致します。

※※※ これより「織田信秀岡崎攻落考証」要旨抜粋 ※※※
●はじめに
 当該論文の主旨。『愛知県史資料編14中世・織豊』で取り上げた『菩提心院日覚書状』とのかかわり及び、当該論文にて『菩提心院日覚書状』の年代を天文十六年とした根拠と氏が考える当該期三河の政治状況への考察をおこなうことを謳う。

●一 日覚書状の年代比定
 1979年刊行「三条市史資料編第二巻古代中世編」をはじめとする刊本に『菩提心院日覚書状』が掲載されてきた歴史の紹介並びに、当初は1630年(永禄三年・桶狭間合戦があった年)の史料と考えられていたことを紹介の上で考証。
 ・日覚書状に1547年(天文十六年)になされた延暦寺と洛中法華の和睦と読める記載有り。
  (「京都ハ山門と和談とやらんの様に成候而~」
 ・よって、当該書状の記載年代は1547年(天文十六年)九月二十二日と比定できる。

●二 織田信秀の三河侵攻情報の信憑性
 拙稿でも紹介した「菩提心院日覚書状」の三河関連情報についての氏による抄訳。および、日覚の三河地方とのコネクションを紹介。当該文書の記事は基本的に伝聞情報ではあるが、史実を反映している可能性をくむべき素材であると指摘。
 ・日覚の尾張コネクション(美濃在国の「孫右」情報、尾張国山田郡稲生妙本寺情報)
 ・日覚は尾張国守山生まれ、稲生妙本寺で修行「長久山歴代譜」
 ・日覚は尾張・三河の政治情勢について甚だしくは外さない程度の土地勘と判断力が備わっていた。

●三 織田信秀の岡崎攻落を伝える別文書
 日覚書状の肝は氏の論文タイトルにもなった「織田信秀岡崎攻落」であることと、それを伝える別文書、天文十七年三月十一日付織田信秀充て北条氏康書状写の紹介。

 ・織田信秀の岡崎攻落を伝える別文書、天文十七年三月十一日付織田信秀充て北条氏康書状写の紹介
 ・氏康書状(長文版)の前半部読み下し。
 ・他刊本での字句解釈とは異なる自説の主張
  - 「無相談」は「被相談」であり、相談せられと解するべきである。
  - 「安城者要害則時ニ被破破之由候」の「者」を「之カ?」と付されている解釈への異議
  - 「安城の要害を信秀が破った」ではなく、「安城は織田の要害だから当地の敵に勝利した」と解釈。

●四 北条氏康書状の史料批判
 安城市史で氏自身が立てた氏康書状長文版は短文版からの後代改作説を見直したうえで、氏康書状長文版が天文十六年の出来事に織田信秀が言及した同時代史料と見なし得うることを提起。

●五 北条氏康書状が述べる三河情勢の検討
 氏康書状(長文版)の氏による三河情勢の整理と平野明夫氏による安城陥落天文十六年説への批判の上で、岡崎攻略は織田・今川の合意によるものであったとする。

 ・氏康書状(長文版)の氏による三河情勢の整理。
  - 去年に織田信秀は三河でいくさを起こし、安城の敵を破って岡崎城を確保した。
  - これは織田と今川での相談の上でのことである。
 ・平野明夫氏による安城陥落天文十六年説への批判
  - 当該文書は天文九年六月六日の織田軍による安城攻撃の事実を否定する根拠にはなりえない。
  - 断片的な同時代史料の状況証拠・江戸時代成立諸史料を総合し、天文十二年迄の安城攻略はほぼ確実。
 ・岡崎城の確保は日覚書状で裏付けられる。
 ・織田・今川の相談とは、今川が今橋を取った事の引き換えに、岡崎を織田が取ることではなかったか?

●六 松平広忠降参情報の信憑性
 天文十六年九月上旬に岡崎城が織田の攻撃にさらされたことは間違いない事実として確定。しかし、織田が岡崎を攻落したとまで断定することはできず、かりに広忠が降参したとしても、信秀が三河から退去してほどなく岡崎城主としての地位を回復したとみる。但し、岡崎城主としての地位を回復することと、外に向かって反織田の旗幟を鮮明にすることとが、この時点で必ず連動するとは限らない。

 ・天文十六年七月八日以前に今川義元は医王山に砦を普請。広忠救援のための物か。
 ・天文十六年九月五日、今川軍が田原へ転進。この攻撃は今川にとって想定外の物だったと考えられる。
 ・それに連動して吉法師の大浜攻撃、そして岡崎奪取を行ったと想定できる。
 ・天文十六年九月二十八日渡河原合戦は、それまでに広忠岡崎奪還又は降参しなかったかいずれか。
 ・天文十六年十月二十日、筧重忠への感状と十二月五日の大樹寺への田畑寄進で広忠岡崎に健在。

●七 小豆坂の戦いにおける松平広忠の動向
 「三河物語」、「松平記」の記述より天文十七年三月の小豆坂合戦において、松平広忠は今川方としてまったく機能しておらず、この戦いで広忠が今川方に属したとする通説には大いなる疑いがあるとする。

●八 松平広忠の病死
 これまでの研究では、織田の陰謀として片目八弥による広忠殺害を説くものが多いが、それはむしろ後代の付会説に引きずられた論というべき。広忠病没説に疑問を差し挟む理由はないとする。

●おわりに ―人質竹千代の真相を推理しつつ―
 竹千代拉致を行ったとされる田原戸田氏については、それを行った事自体が自爆であり実際の動機は不明で謎が多い。そうした通説と比して、天文十六年九月、織田信秀が松平広忠を「からゝゝの命」に追い込み、竹千代を広忠から差し出させたとみるのは、確証はないにしても、状況としてはるかに合理的で無理のない想定といえる。
※※※ 「織田信秀岡崎攻落考証」要旨抜粋ここまで ※※※

 論文中で村岡教授は史料を縦横に駆使しておりますが、それを書きだすゆとりがありませんでした。
 あと簡略ですが、論旨の流れを踏まえた上で改めて考えてみたことを書きだします。

 まず気になったことは村岡説においては日覚書状の三河情報において最初に言及している「駿河衆敗軍」の内容について何らの言及をされていないことです。天文十六年九月に織田信秀方が攻撃したと言及されているのは、岡崎であり、吉良大浜であり(これは日覚書状には言及されていません)、戸田(これも日覚書状には言及されていません)なのですが、松平広忠ははたして「駿河衆」と呼べるでしょうか? 大浜の領主は吉良氏であり、太原崇孚率いる今川軍と正面で当たったのは戸田氏くらいなものです。氏康書状が裏打ちする「岡崎之城相押候」が今川方すなわち駿河衆の不利に働き敗軍と表現するにいたったというのは少し強引な気がします。

 日覚書状の書き方も気になりますね。現代人と中世人では手紙の書き方が違うのかもしれませんが、最初は鵜殿の外交姿勢に言及していて、鵜殿視点なのですが、その直後に弾正忠が鵜殿の事を「一段ノ曲なく思われたる」と突然織田信秀の認識を披露しています。村岡説では楞厳坊はずっと京都にいたとのことですが、そこで信秀またはその従者に鵜殿の評判を聞いたのでしょうか。信秀やその従者たちは楞厳坊が鵜殿と所縁の深い陣門流の僧侶と知っていて、相対する前に鵜殿が行っている二股外交についての認識を確認していたのでしょうか。それよりも、鵜殿にいて鵜殿から「駿河衆敗軍」の結果、信秀から袖にされたと楞厳坊が聞いたと取った方が話の流れからはしっくりきます。村岡説のように解釈するには、一旦「弾は…(中略)…其翌日ニ上京候、其便宜候て」まで読んだ後で遡って意味を取りなおさなければそのような解釈はできないと思います。

 また、やはり筧重忠への感状です。安城にまだ織田がいる段階で、織田方である松平忠倫を暗殺した勲功の代償として金銭ばかりではなく「在所者別ニ日記出置候成」と土地の安堵までおこなっているのですから、
 渡河原合戦についても発生日時については、氏は特に疑いを差し挟んでおりませんが、岡崎を回復した広忠が自分の味方の松平信孝と戦うのは問題ないものなのでしょうか? そうした状況を果たして岡崎城を押さえたと(氏康書状での言及)呼びうるものなのでしょうか?
 
 ともあれ、村岡説の肝は天文十七年三月十一日付北条氏康書状写(長文版)を使って氏が過去に提起された解釈である「被相談」「安城者要害」「殊岡崎之城自其国就相押候」の解釈がどのようにとられるかによるのではないでしょうか。「殊岡崎之城自其国就相押候」は私自身の素人解釈に過ぎませんが、「被相談」の解釈を取っている刊本は今の所「安城市史」と横山住雄氏「織田信長の系譜」くらいで、他書は概ね「無相談」です。「安城者要害」の「者」は安城市史、小田原市史、戦国遺文いずれも「者」とはしてますが、すべてに「之カ?」との注釈もついております。安城は(=者)要害だから弾正忠が(敵を)破ったとするか、安城の(=之)要害を弾正忠が破ったとするかの解釈の分かれどころです。私自身古証文を確認しましたが、どの肉筆本も素人目にはどちらともとれる微妙な表記です。

 機会を見てより理解を深めてゆきたいと思いますが、まずはその検討の土台が示されたことについて、大変うれしくおもいます。これを機に安城合戦をめぐる議論にひとつの弾みがつくことを期待いたします。

(付記)
氏の以下の見解について、気になったことがあったので少し調べてみました。

>「被」「無」の草書体は似ることがある。この文書中の他のくだりで「被」は何度も用いられ、
>「無」も二度用いられている。『古証文』原本にあたってそれらと比較するに、
>『古証文』筆記者が当該箇所を「被」と書いていることは明らかである。

 上記は論文の最後に書かれた氏康書状についての注釈で、氏康書状は私も当ブログで取り上げてきた文書です。そして、ここで言っている『古証文』とは、氏康書状を含む多数の書状が収められた文書集です。当該文書集について図書館で国書総目録(岩波書店刊)を調べたところ、『古証文(こしょうもん)』は写本であり蔵されているのは国立公文書館にある内閣文庫の七巻四冊本一冊と六巻六冊本二冊のみです。これらについては私自身確認しましたが、素人目には「被」と断定できる根拠は残念ながら見出せませんでした。
 氏は「『古証文』原本にあたって」と仰せになっておられますが、原本というからには編纂者や作成年代も明らかになっているものなのか、また、三種の写本の作成経緯も明らかになっているのか、気になることがたくさん出てきております。
 なにぶん国書総目録は古い本であって遺漏やその後の研究で発掘された史料もあったりするかもしれません。日本古典籍総合目録データベースでも調べましたが、上記に挙げた三つの写本に加えて内閣文庫本を写した四冊本が東大史料編纂所があるだけでした。(以下サイトから検索画面に入って「古証文」で検索すれば、
統一書名:古証文 ( こしょうもん ), X, 0でたどり着けます。)
 http://base1.nijl.ac.jp/~tkoten/about.html

 「被相談」であるか「無相談」であるかの議論を深めるためには、氏があたったとされる「原本」の来歴をまずは明らかにする必要があるのではないかと愚考いたします。
 研究が進んでこの時代の実相がさらに明らかになることを期待いたします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年7月12日 (日)

川戦:安城合戦編⑱補遺Ⅲ 記事の感想

 とりあえず、ここまで書いてきた時点での感想は「歴史考察のネタとしては興味深いが、新説と呼ぶには論拠が薄すぎる」と言った感じです。日覚の史料に着目して新説を提起したことによって歴史議論が活発になされるようになるのならば、それについては大きな意義はあると私も思います。しかし、現時点で私自身が把握している情報だけでは正直何とでも言えるので、まさしく『信秀がどの程度三河を支配していたかについては慎重な議論が必要となる』と記事中で東大史料編纂所の本郷教授が仰せになった通りかと思います。

 具体的には史料では『駿河衆が敗軍した』としか述べられておらず、いつ、どこで、誰に対して、どんな風に駿河衆が敗軍したのかについては何も触れられていません。弾(織田信秀)が岡崎(松平広忠)を降参させたこともそうです。どんな形の降参であったのか、それはいつ行われたのか、広忠が命からがらになるような戦闘はいつどこで行われたのかも明らかになっていないのですね。その敗北が戸田康光が今川に滅ぼされる前であるのか、後であるのかすら記事には書かれていません。この説が有効となるためには、田原に竹千代が向かわなかった可能性が示されている必要がありますし、日覚の書状でそれを示すなら例えば、広忠の降参が田原城陥落以前だった等の根拠があるべきなのかなと思うのですが、そのような情報は記されていません。

 何より日覚書状の読みようによっては通説の中に組み込むことも可能なのですね。

>岡崎ハ弾江かう参之分にて、からゝゝの命にて候、弾ハ三州平均、其翌日ニ京上候、

 前稿にも述べた通り日覚書状の書かれた九月二十二日の六日後に渡河原の戦闘が起こり、松平信孝が、広忠を破っております。戦闘は広忠軍の惨敗であり、陣門法華に所縁のある大窪忠俊とも関係の深い大窪藤五郎等が戦死しております。大窪藤五郎は実在の人物であるかどうかは怪しいところもありますが、実在した有力家臣(五井松平忠次ら)も戦死しております。戦闘の発生時期をもっと前にずらして広忠の降参を敗北による戦場離脱程度の意味に留め、三州平均を誇張の含んだ表現と解すれば、特段の矛盾もなく通説の中に取り込むことも可能であろうと思います。

また、記事中で一つ残念であったのは以下の記載です。
>村岡教授が現地で調査したところ、この書状は1547年(天文16年)に書かれたことが判明し、

 実は当該史料「菩提心院日覚書状 本成寺文書」が刊本として公開されるのは2014年(平成二十六年)三月の愛知県史が初めてというわけではありません。2011年(平成二十三年)三月刊行の「戦国遺文 今川氏編 第二巻」に先行して「○九六五 菩提心院日覚条書」として掲載されております。若干の字句解釈上の異同はありますが、ほぼ同じ文面になっております。但し、当該文書は年未詳となっていました。ここについての戦国遺文の見解としては以下の通りです。

>本文書は年未詳なれど、菩提心院日覚が天文十九年十一月十六日に没しているので便宜ここに収める。

 「便宜ここに」とは、当該史料が「戦国遺文今川氏編 第二巻」の天文十九年の項に所載されていることを指します。日覚の書状は愛知県史も戦国遺文も史料を編年で分類されて掲載されているわけです。愛知県史においてはこの史料が天文十六年に比定され、天文十六年の項に掲載されているのですが、その根拠はぜひとも伺いたいところです。

 新聞記事タイトルの「織田信長の父・信秀が三河の岡崎を支配していた」も残念の一つです。三河の岡崎などと書かれると、普通は地名ととってしかるべきなのですが、日覚書状では「岡崎ハ弾江かう参之分にて、からゝゝの命にて候、」とあって、命拾いをした記述があります。岡崎という土地が降参したり、命拾いしたりするなんてことはありませんから、ここの記述が人を指しているところは間違いのないところでしょう。記事中でも「「岡崎」は家康の父、松平広忠を指すことが確認されたという。」と、人名を指すことが明記されているのですね。きっと松平広忠は岡崎城主であり、織田信秀に降参したのだから、織田信秀が岡崎という土地を支配していたと言っても問題ないという論法なのでしょう。しかし、それこそが「信秀がどの程度三河を支配していたかについては慎重な議論が必要となる」部分です。岡崎の降参もまたいつどこでどんな形で降参したかは当該史料では判じえないのですから。

 ただ、村岡教授がこの説を通して三河国を巡る織田と今川との間の戦いに示してくるかも知れない新しい展開にはとても興味があります。2004年(平成十六年)に刊行された安城市史において当時准教授だった氏は、天文十七年三月十日付織田信秀宛北条氏康文書について解説記事を記しています。

>殊岡崎之城自其国就相押候、

 上記は北条氏康文書の文言の一部なのですが、この文言を氏は「殊に岡崎の城其の国より相押さえ候に就き」と読み下した上で「天文十七年まではおろか、信秀の時代に織田方が岡崎城を勢力下に置いたことを示す史料もまた存在しない」と解説しています。つまり、この文言は信秀の時代に織田方が岡崎城を勢力下に置いたと解釈しているのですね。
 当ブログの過去記事を参照していただければわかるのですが、私自身は通説の歴史記述の流れに従って岡崎城が織田と今川両勢力が押さえ合いをするようになったと解釈しました。『就相押候』には『相』の字があります。『相性』、『相愛』、『相似』、『相違』、『相克』、『相生』等の『相』がつく単語をみるに、二者の間で行われる動作・状況なのですね。むろん、読み下しと解釈に強引さは否めません。その一方で『相成候(あいなりそうろう)』のように、『成る』のような動詞を強調する語としても『相』は使われるケースもあるわけで、氏の解釈の方が正しいのかもしれません。その前提での解釈に立てば、日覚書状は北条氏康文書において天文十六年頃に織田信秀が岡崎城を攻め落としたとする説の補強材料となりうるものです。

 但し、当該書状については書式礼の不備をもって、氏自身は後世に作られた偽書の疑いがあるとして安城市史においても参考資料扱いにしているので、ご本人には取り扱いづらいものになってるかもしれません。しかし、天文十六年頃に松平広忠が織田信秀に屈服していたことを示す史料が複数出てきたことの意義は大きいと思います。仮に北条氏康文書が偽書であったとしても、偽書作成者の認識の中に天文十六年に織田信秀が岡崎城を押さえたという認識があったことには変わりません。しかも、その偽書作成のネタ元が加賀で書かれて越後で保管されていた日覚の文書であったとは考えにくいです。天文十六年に松平広忠が織田信秀に屈服していたことを示す史料が複数存在するという事実は決して小さいことではない。しかも両者は系統が異なっています。少なくとも小瀬甫庵が太田牛一の信長公記をベースに信長記を作ったような形で作られてはいないのです。二つまでは偶然でかたづけうるとは思いますが、もう一つ二つ隠し玉があるのなら、立派な仮説に成長しそうです。

 もし、天文十六年頃に松平広忠が織田信秀に屈服していたとするならば、ある合戦の状況を包む霧の一部が晴れることになります。それはすなわち第二次小豆坂合戦(この言い方は私自身良しとはしませんが)において松平広忠はなぜ参戦をしていないのか、何をしていたのかという疑問に答えが出ます。合戦の行われた小豆坂の北方に岡崎があります。安城から出陣する織田信秀を広忠は指をくわえてみていたのでしょうか? 今川軍と示し合わせて挟み撃ちにしようとはしなかったのでしょうか? 敗北を重ねてそんな能力はなかったのでしょうか? 少なくとも三河物語に出てくる松平広忠は違います。似たようなルートを使って進軍する松平信孝を捕捉して広忠軍は信孝を耳取縄手で討ち取っております。しかし、織田信秀に対してはそのような挙に出ませんでした。それは広忠が信秀に屈服していたからだと考えれば、色々なことが腑に落ちてくるのですね。

 そのような意味で注目はしておりますが、私自身の当該説にかかる現状評価は、『信秀がどの程度三河を支配していたかについては慎重な議論が必要となる』です。
 前稿にも書きましたが、松平広忠は織田方に寝返った佐々木松平三左衛門忠倫を暗殺した筧重忠に対して天文十六年十月二十日付の感状を送っております。日覚書状の翌月であり、記事が言うような竹千代を人質に出さなければならない程の降参をし、織田方の顔色を窺わなければならない立場の松平広忠が、はたしてこのような書状を出せるものでしょうか?

 ○八五一 松平広忠判物写 ○国立公文書館所蔵譜牒餘録後編巻十七
    (松平忠倫)
 今度、三左衛門生害之儀、忠節無比類候、此忠子々孫々忘
    (ママ)
 間敷候、 然者為給恩、万疋之知出置候、雖為何儀候、於
 末代不可有相違候、在所者別ニ日記出置候成、
 天文拾六年        (松平)
  十月廿日          広忠 御在判
       (重忠)
       筧平三とのへ

 ※戦国遺文 今川氏編 第二巻(天文十六年(一五四七年)―永禄三年(一五六〇年))より抜粋

 平野明夫氏の安城城陥落天文十六年説と同様、村岡説を採用した場合に覆さなければならない通説や史料は結構あるような気がします。そのような部分も含めて、氏の研究成果を確認できる日を楽しみにしております。

◎略年表(安城陥落天文九年&小豆坂合戦二回説をベースとする)
1540年(天文 九年)   六月   六日 織田信秀、三河国安城城を奪取。
1541年(天文 十年)             水野忠政娘お大、松平広忠に嫁す。
1542年(天文十一年)  八月  十  日 第一次小豆坂合戦
              十二月二十六日 松平竹千代(徳川家康)、生誕。
1543年(天文十二年)  七月  十二日 水野忠政、没。
                八月二十七日 松平信孝、追放。三木城が没収される。
1544年(天文十三年)  八月二十二日 松平長親、死去。
                九月二十二日 織田信秀、美濃国井口城を攻め大惨敗を喫す。
                          この月    松平広忠、お大を離縁。
1546年(天文十五年) 十一月  十五日 松平広忠、今川義元の命により、吉田城攻めに参陣。
1547年(天文十六年)  八月   二日 松平竹千代、人質として駿河護送中に尾張国に拉致される。
                九月   五日 今川義元、田原城攻略。田原戸田氏滅亡。
                   二十二日 菩提心院日覚、本成寺に文書を送る。
                   二十八日 渡河原の戦闘。松平信孝、広忠を破る。
               十 月二十  日 松平広忠、筧重忠に松平忠倫暗殺の感状を出す。
1548年(天文十七年)  三月  十九日 第二次小豆坂合戦
                四月  十五日 耳取縄手の戦い。松平信孝、戦死。
1549年(天文十八年)  三月   六日 松平広忠、暗殺される。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2015年7月 5日 (日)

川戦:安城合戦編⑰補遺Ⅱ 菩提心院日覚書状を読んでみる。

 とりあえず、愛知県史資料編14に所載されているくだんの「菩提心院日覚書状 本成寺文書」より、
当該説に関連していそうな箇所を引用いたします。

一三州ハ駿河衆敗軍の様二候て、弾正忠先以一国を管領
 候、威勢前代未聞之様二其沙汰共候、一、此十日計巳
 前ニ京都より楞厳坊罷下候、厳隆坊も同心にて候、心
 城坊ハ旧冬よりいまに当国二滞留候、さる仕合候て、
 濃州より当国へ上使二養雲軒と申人之内者の様にて候、
 于今旦方あひたの使なと仕候、此人なふてハの様にて
 候、一、彼楞厳坊申来候ハ、鵜殿仕合ハよくも有間敷
 様二物語候、其謂ハ尾と駿と間を見あはせ候て、種々
 上手をせられ候之処二、覚悟外二東国はいくん二成候
 間、弾正忠一段ノ曲なく被思たるよしに候、定而彼地
 をも只今の時分ハ攻いらんやと致物語候間、あまりニ
 □□許存候間、近日心□坊を可差遣覚悟にて候、岡崎
 ハ弾江かう参之分にて、からゝゝの命にて候、弾ハ三
 州平均、其翌日ニ京上候、其便宜候て楞厳物語も聞ま
 いらせ候、万一の辺も候てハ、門中力落外見実義口惜
 次第候、

 本稿ではこの文書の読み解きをやってみたいと思います。専門家でもなんでもないのでいい加減な部分も多々あるかとも思いますがご容赦ください。また、字面だけ追っていては訳が分からなくなる部分もありますので、推測を交えた解説もしてみます。

>一三州ハ駿河衆敗軍の様二候て、
(訳案)一、三州においては、駿河衆は敗軍したようです。

 この文書が書かれる前の年、1546年(天文十五年)に今川軍は三河吉田(今橋)に攻め込み、戸田宣成を滅ぼしています。この戦いには松平広忠も今川方として参戦したという話も残っています。また、新説で否定された竹千代誘拐は文書の書かれた前月、即ち八月に発生し、その翌月五日に『犯人』である戸田康光が籠もる田原城が今川軍に攻め落とされています。吉田(今橋)の戦い及び、田原の戦いに関しましては、今川義元の感状が残っていて今川軍が三河に入っていることは確認できますが、本文書においてどういう意味で『敗軍』と述べているかは不明です。全ての可能性を検討すべきでしょうが、はたして、安城から尾張衆が長駆して東三河まで到達したのでしょうか?

>弾正忠先以一国を管領候、威勢前代未聞之様二其沙汰共候、
(訳案)弾正忠はまずもって一国を管領しております。その威勢は前代未聞と、その知らせにあります。

 信長公記に織田信秀は尾張で頼み衆をして美濃や三河に遠征を重ねていたという記載があります。ここでいう一国とは三河ではなく、尾張国の事でしょう。日覚は加賀にいて信秀の威勢は前代未聞であるなどという情報を受け取っていますが、それがどういう経緯によるものかが次の文章に書かれています。

>一、此十日計巳前ニ京都より楞厳坊罷下候、厳隆坊も同心にて候、心城坊ハ旧冬よりいまに当国二滞留候、
(訳案)一、この十日ばかり以前に京都より楞厳坊が罷り下りました。厳隆坊も同行しております。心城坊は昨冬から今まで当国(加賀国)に滞留しております。

 楞厳坊、厳隆坊、心城坊という三名の僧の名前がここで出てきます。普通に解釈して日覚の弟子というところでしょうか。楞厳坊が厳隆坊を連れて京都から情報を持って日覚のいる加賀に赴いた。(※訂正します。付記1参照)心城坊は去年からここにいる、と言うことなんですが、つい十数年前には法華と本願寺教団は血みどろのつぶし合いを洛中洛外で展開していたわけで、そういう経緯があるにもかかわらず、本願寺教団王国と言ってよい加賀国に長逗留している日覚はいい根性をしております。楞厳坊は復興途上の本禅寺が負った負債を何とかする為の勧進道中の途上のようで、厳隆坊は加賀に居残って日覚の逗留している寺(實成寺か?)にとどまることになっていると、この手紙の冒頭部にあります。

>さる仕合候て、濃州より当国へ上使二養雲軒と申人之内者の様にて候、于今旦方あひたの使なと仕候、此人なふてハの様にて候、
(訳案)とある成り行きで、美濃国から当国への上使を務めた養雲軒と申す人の家人が今も檀徒との間の使いをしてくれていて、この人がいなくては何も進まない具合です。

 「仕合」ですが「しあい」と読めば合戦というニュアンスです。「しあわせ」と読めば「事のなりゆき」「幸運」になります。美濃から加賀に向かう上使というのはちょっとわかりません。養雲軒という号を持っているので出家者なのでしょうか。上使と言うくらいだから幕府や朝廷の使いなのかもしれません。ただこの時代は、東国紀行を記した谷宗牧のように、一介の連歌師が女房奉書を持って勅使を務める事もありましたから、必ずしも身分の高い人物でもないかもしれません。その身内の人が加賀の陣門流寺院と現地檀家の世話をしているって感じの様です。加賀国は一向一揆の国で、富樫政親が守護をやっていた頃には専修寺派もいたものの、三ヶ寺に打倒され、その三ヶ寺も本山の本願寺から差し向けられた兵に滅ぼされたりして本願寺王国になった印象がありましたが、陣門法華が組織だった拠点を持てる程度には他宗派の活動も可能であったのですね。

>一、彼楞厳坊申来候ハ、鵜殿仕合ハよくも有間敷様二物語候、
(訳案1)楞厳坊が来て申すには、鵜殿によると情勢は(今川にとって)よくないとのことです。
(訳案2)楞厳坊が来て申すには、鵜殿での合戦は(今川にとって)よくないとのことです。

 鵜殿氏は蒲郡市あたりの国人領主で今川氏よりの立場にいます。前段にも書きましたが「仕合」という文言は、「しあわせ」と読めば前段にあった成り行きや事情という意味になり、鵜殿氏が今川氏の情勢は良くないとの私見を楞厳坊に語ったと解釈できます。また、「しあい」と読んで合戦と解すると、鵜殿で親織田勢力と今川勢が戦ったようにも読めますね。鵜殿は鵜殿氏が拠点とした上ノ郷城の別称でもあります。

>其謂ハ尾と駿と間を見あはせ候て、種々上手をせられ候之処二、
(訳案)(楞厳坊が)言うには尾張と駿河を見比べて、ともに色々巧みに(戦術を)駆使しているようだが、

 「仕合」の読み方で主語が楞厳坊であるか、鵜殿氏であるかが分かれますが両勢力の実力を計っています。

>覚悟外二東国はいくん二成候間、弾正忠一段ノ曲なく被思たるよしに候、
(訳案)思いのほか東国は敗軍になっているのに対し、弾正忠は特段の障害もなくやっているように思われます。

 ここに至るまで今川義元は吉田、田原の両城を陥落させて東三河に足場を固めているわけですが、敗軍のニュアンスはよくわかりません。信秀が自分で攻め込んだのであれば信長公記などに記述があってしかるべきです。九月二十二日の書状に書かれるような軍事行動であれば、三河と加賀の距離を考えると九月五日に行われた田原城の合戦まででしょう。今川軍はここで苦戦をしたことを鵜殿氏が『敗軍』と呼んだか、宝飯郡上郷(鵜殿)で親今川勢力である鵜殿氏が親織田勢力と戦って敗れたかあたりではないかなと思います。その親織田勢力も地理的に織田家やその家臣ではなく、吉良氏あたりではないかと思います。ただ、そのような史料は見つかっていないので何とも言えません。

>定而彼地をも只今の時分ハ攻いらんやと致物語候間、
(訳案1)(弾正忠は)きっとこれを機に彼の地(田原または吉田(今橋))に攻め入るのだろうと(鵜殿が)語りましたが、
(訳案2)(弾正忠は)きっとこれを機に彼の地(上郷・鵜殿)に攻め入るのだろうと(楞厳坊が)語りましたが、

 鵜殿氏または、楞厳坊が弾正忠(織田信秀)視点でこれからの情勢を予測しています。今川勢は「敗軍」しているのですが、弾正忠は「只今の時分ハ攻いらんや」なのですから、敗軍の時点では弾正忠は攻め入っていないのです。その場所は「仕合」の文言をどう読むかによって、戸田氏の根拠地か、鵜殿氏の根拠地かのいずれに分かれてゆくのではないでしょうか?

>あまりニ□□許存候間、近日心□坊を可差遣覚悟にて候、
(訳案)あまりに無心を許してしまったので、近日心城坊をさしやるつもりです。(※訂正します。付記2参照)

 □は判読できない文字で、愛知県史は「□□許存候間」の□□に「無心」、「心□坊」の□に「城」の字を当てています。楞厳坊は鵜殿から有償で情報をえていたのでしょうか? もしくは日覚は楞厳坊から有償で話を聞いていたのでしょうか? いずれにせよお金が足りなくて詳しい話を聞き出せなかったので、改めて昨冬から加賀にいる心城坊を三河に派遣してより詳しい話を聞くこととしました、と解してみました。

>岡崎ハ弾江かう参之分にて、からゝゝの命にて候、弾ハ三州平均、其翌日ニ京上候、
(訳案)岡崎は弾正忠に降参して、命からがらでした。弾正忠は三河を平定し、その翌日に京に上りました。

 岡崎は地名の他に松平広忠をさす場合もあります。からがら命を拾ったと後段に続くので、地名ではなく、松平広忠を意味していると解釈できます。一応書いておくと、この書状が書かれた六日後の九月二十八日に松平広忠は織田信秀方についた松平信孝と矢作川沿いの渡河原で合戦して敗北しています。出典は「松平記」及び「岡崎古領主記」になります。九月二十八日が正しいとすれば、手紙が書かれた時点で松平広忠はまだ降参していません。九月二十八日説が間違いで戦闘はもっと前にあったのかもしれませんが、史実を見れば、弾正忠は三河を平定していたとも思えません。せいぜい松平広忠の抵抗を押さえたことをもって平均と呼んだのではないでしょうか?
 近世史料ではない同時代史料で反証を挙げるなら、松平広忠は織田方に寝返った佐々木松平三左衛門忠倫を暗殺した筧重忠に対して天文十六年十月二十日付の感状を送っております。その中で広忠は筧の暗殺行為を「この忠節は子々孫々忘れない」と評しているのですね。竹千代を人質に出さなければならない程の降参をし、織田方の顔色を窺わなければならない状況下で、このような書状は出せるものではないと思います。
 その翌日に織田信秀が京に上った形跡も今の所確認されていません。次の文章につなげて京に上ったのは楞厳坊であると解するのはやはり難しいでしょうね。

>其便宜候て楞厳物語も聞まいらせ候、万一の辺も候てハ、門中力落外見実義口惜次第候、
(訳案)その便宜で楞厳坊の話を聞き取った次第です。万一のことがあれば、門中の力は落ち、外見も実質も悔しいこととなるでしょう。

 楞厳坊の話の締めくくりです。ここでいうところの「万一」とは駿河衆が敗北したあおりで檀徒であり今川方の鵜殿氏が敗亡することになれば、鵜殿氏が庇護する三河陣門法華寺院も巻き添えを食って教勢を落としかねない心配があるということなのでしょうか。

 以下、超訳となります。2パターン検討しましたが、敢えて「しあい」と読んだ方の解釈で記してみます。

一、三州においては、駿河衆は敗軍したようです。弾正忠はまずもって一国を管領しております。その威勢は前代未聞と、その知らせにあります。一、この十日ばかり以前に京都より楞厳坊が罷り下りました。厳隆坊も同行しております。心城坊は昨冬から今まで当国(加賀国)に滞留しております。とある成り行きで、美濃国から当国への上使を務めた養雲軒と申す人の家人が今も檀徒との間の使いをしてくれております。この人がいなくては何も進まない具合です。
 楞厳坊が来て申すには、鵜殿での合戦は(今川にとって)よくないとのことです。(楞厳坊が)言うには尾張と駿河を見比べて、ともに色々巧みに(戦術を)駆使しているようだが、思いのほか東国は敗軍になっているのに対し、弾正忠は特段の失敗もなくやっているように思われます。(弾正忠は)きっとこれを機に彼の地(上郷・鵜殿)に攻め入るのだろうと(楞厳坊が)語りましたが、あまりに無心を許してしまったので、近日心城坊をさしやるつもりです。
岡崎は弾正忠に降参して、命からがらでした。弾正忠は三河を平定し、その翌日に京に上りました。
その便宜で楞厳坊の話を聞き取った次第です。万一のことがあれば、門中の力は落ち、外見も実質も悔しいこととなるでしょう。

次稿で去年の読売新聞記事に対する感想を書いてみます。

(付記1)
 2015年3月15日発行『中京大学文学会論叢』第一号(2015~)所載村岡教授の論文「織田信秀岡崎攻落考証」によると、この書状が書かれたのは加賀の寺ではなく、越中国城生城下にある井田菩提心院で、本成寺住持を退いた後に日覚はそこで城生城主の斎藤氏の外護を受けて隠棲していたとのことです。謹んで訂正いたします。
 井田菩提心院は斎藤氏の没落以後、越中の支配者交代に伴って転々とし、現在は本法寺と言う名になって富山市八尾町にあるとのことです。ただ、日覚書状には以下の通り「かゝの寺」という表現があり、そこに弟子の厳隆坊を置く旨が書かれておりましたので、日覚が属する陣門流法華宗は加賀にも拠点を持っていたようです。

>かゝの寺にハ、弟子の厳隆坊を置候、来春ハ早々下候而、小勧進仕度のよし申捨而たち候、加州ハ大乱にて候、

(付記2)
 ここは流石に間違いです。「無心許」を「無心を許す」と読んでしまったのですが、「心許無し」で、不安に思う・心配に思うくらいの意味に取るべきでした。愛知県史に掲載されている史料写真を見ても、当該部分は欠落していて読めないのですが、そこに「無心」と充てられた愛知県史編纂者の意図を正しく読み取れておりませんでした。お恥ずかしい限りです。謹んで訂正いたします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年6月28日 (日)

川戦:安城合戦編⑯補遺Ⅰ 昨年発表された中京大教授の新説

ちょうど1年前の読売新聞中部版に次のような記事が躍りました。『織田信長の父・信秀が三河の岡崎を支配していた 中京大教授が新説』。説を出されたのは先に拙稿にて記事のネタとさせていただいた安城市史を編纂された村岡幹生教授です。
 読売新聞のサイトからは既にその記事は消えているものの、今でも中京大村岡教授で検索すれば、記事の内容は把握できます。以下はその要約です。
・その説は2014年春刊行の「愛知県史資料編14」で公表された。
・法華宗の高僧、日覚の書状から立論。
・「岡崎は弾正忠へ降参し、弾正忠は三河平定の翌日、上洛した」などと記されている。
・通説では、田原城の戸田康光が裏切って信秀に竹千代を売り飛ばしたとされているが、なぜ裏切ったのかは謎。
・村岡教授は「広忠が信秀に降参して竹千代を織田家へ差し出した可能性が高い」と指摘。
・本郷和人東大史料編纂所教授、「重要な発見。しかし慎重な議論が必要」とコメント

 とりあえず、記事に書かれていた愛知県史資料編14を図書館で閲覧してきたのですが、当該図書そのものはあくまでも資料集であり、日覚の書状はあったものの、読売新聞の言うところの『新説』の記載は見当たりませんでした。一応当該史料と資料集の解題や後書きの記載をチェックしたのですが、見落としがあるのかもしれません。あるいは、他の論文集や書籍に寄稿もしくは出版をされているのかもしれません。あるいは読売新聞の記者による「とばし」ではないかとも思ったのですが、いずれにせよ新説の内容を確認する機会は今のところ得られていません。以上の事を前提に本稿では、日覚文書に関連して多少調べたことを述べさせていただきます。

 元史料の正式名称は読売新聞の記事にも書かれておりますが、「菩提心院日覚書状 本成寺文書」であり、その中の1547年(天文十六年)九月二十二日分の記述です。本成寺が蔵する菩提心院日覚がしたためた書状ですね。本成寺は越後国にある日蓮宗の一派、陣門法華宗の総本山で日覚自身もこの寺の九世住持を務めております。また、天文法華の乱で灰燼に帰した陣門法華寺院の本禅寺を後奈良天皇が赦免の宣旨を出す1542年(天文十一年)の二年前にちゃっかり復興させて本禅寺五世住持におさまったりしております。

 日蓮―日朗―+―日輪(日朗門流・池上本門寺)
          |
          +―日像(四条門流・妙顕寺)
          |
          +―日印―+―日静(六条門流・本国(圀)寺)
                  |
                  +―日陣(陣門流・本成寺)―+―(数代略)―日覚
                                     |
                                     +―日登(陣門流・本禅寺)

 この書状が書かれた時、日覚は加賀国に逗留していたらしく、史料の冒頭に「加州ハ大乱にて候」などと書かれています。石川県にある陣門流法華寺院をネットで検索してみると、当時石川郡布市村に實成寺という寺院があり、本成寺九世の日覚とも所縁があるようですので、ここにいたのかもしれません。陣門流は派祖の日陣が六条門流の日静とトラブルを起こした関係で仲が悪く、京都に本禅寺という自派の拠点を別に持っていました。日覚は総本山の本成寺、京都本山の本禅寺の住持経験がある陣門流の顔役であるので、加賀にいる彼のもとには京だけではなく、地方拠点からの情報も集まってきており、当該の書状は加賀国から越後にある総本山本成寺に送った物です。

 ここに三河国における情勢が書かれているわけですが、東海における陣門流の拠点は遠江国本興寺があり、ここと東三河の国人領主鵜殿氏との関わりがあります。鵜殿氏の中でも下郷鵜殿氏(鵜殿氏は上郷鵜殿が宗家)の鵜殿長存の墓が三河国蒲郡の陣門流寺院、長存寺にあります。そのほか興味深い所では西三河和田郷の妙国寺も陣門流寺院だったりします。後に大久保氏と改称する前の宇津・大窪氏の菩提寺でした。おそらくはこの時点の妙国寺は大窪家所縁の寺院として松平蔵人信孝によって相当の破壊を受けていたものと考えられます。その後に大窪新八郎忠俊は同じ陣門流の長福寺の勧めで菩提寺をここに移すとともに、自らの名を大久保と改めるわけです。

 この書状の背景となる三河国の情勢を通説ベースで申し述べますと、松平広忠が矢作川西岸に持っていた重要拠点である安城城は既に尾張の実力者、織田信秀の手に落ちており、桜井、佐々木、三木(合歓木)の各松平諸家や酒井、大原、近藤氏の一派が織田信秀方に寝返って松平軍団は二分された状態になっていました。駿遠の太守である今川義元はこの時までにずっと戦っていた北条氏との間に休戦協定を結んで西部戦線に目を向けられるようになっておりました。
 天文十六年に起こったことは、織田方への寝返り組である佐々木松平忠倫が岡崎松平広忠に暗殺されます。矢作川対岸の上野城に籠る桜井松平清定と酒井将監達も広忠がせめてこれを降参させます。これに対して三木(合歓木)松平蔵人信孝が安城と矢作川との中間にある山崎砦で兵を催します。これを食い止めようと広忠が渡河したのを信孝は川岸の渡河原で破るわけです。これと並行して広忠は今川家に援軍を要請。今川義元は竹千代(後の徳川家康)を人質に要求し、広忠はこれに応じるわけですが、その途上で戸田康光が裏切って今川義元の元に送り届けられるはずの竹千代を強奪して織田信秀に引き渡してしまったという話があるわけです。

 次稿にて新説の根拠となった史料の該当箇所を見てゆきたいと思います。

◎略年表(安城陥落天文九年&小豆坂合戦二回説をベースとする)
1540年(天文 九年)   六月   六日 織田信秀、三河国安祥城を奪取。
1541年(天文 十年)             水野忠政娘お大、松平広忠に嫁す。
1542年(天文十一年)  八月  十  日 第一次小豆坂合戦
              十二月二十六日 松平竹千代(徳川家康)、生誕。
1543年(天文十二年)  七月  十二日 水野忠政、没。
                八月二十七日 松平信孝、追放。三木城が没収される。
1544年(天文十三年)  八月二十二日 松平長親、死去。
                九月二十二日 織田信秀、美濃国井口城を攻め大惨敗を喫す。
               この月       松平広忠、お大を離縁。
1546年(天文十五年) 十一月  十五日 松平広忠、今川義元の命により、吉田城攻めに参陣。
1547年(天文十六年)  八月   二日 松平竹千代、人質として駿河護送中に尾張国に拉致される。
                九月    五日 今川義元、田原城攻略。田原戸田氏滅亡。
                   二十二日 菩提心院日覚、本成寺に文書を送る。
                   二十八日 渡河原の戦闘。松平信孝、広忠を破る。
                         松平広忠、この日までに松平忠倫を暗殺。
1548年(天文十七年)  三月  十九日 第二次小豆坂合戦
                四月  十五日 耳取縄手の戦い。松平信孝、戦死。
1549年(天文十八年)   三月   六日 松平広忠、暗殺される。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年6月 6日 (木)

川戦:安城合戦編⑮考察

 とりあえず、私は現時点においても、天文十一年の第一次小豆坂合戦はなかった説を支持しております。それでも天文九年の安城城陥落はあると考える人は多いとは思いますが、以下の根拠でそれは疑わしいと考えております。第一に、平野明夫氏が「三河松平一族」で明らかにした天文十七年三月十一日付織田弾正忠宛北条氏康文書、第二に宗牧の東国紀行という書物において、天文十三年に美濃国加納口合戦に織田信秀が敗北します。それに乗じて岡崎城から阿部大蔵定吉が「おはりおもて」に向けて出陣したという記述があります。三河国安城が占領されている状況の中でどうすれば、阿部定吉が岡崎城を留守にして「おはりおもて」に到達できるかが疑問であること、第三に天文十三年の段階で深溝松平家の人間が安城で年貢をめぐるトラブルを起こした文書が残されていることです。

 その中でも、安城市史で天文十七年三月十一日付織田弾正忠宛北条氏康文書についての疑義が立てられていたことが本稿の考察のきっかけです。この考察において、安城市史があげている当該文書の疑問点については自分なりの解答が出せたと思っております。

 まず、朝野旧聞ほう藁において、織田弾正忠宛北条氏康文書の後半部分が永正年間に発せられたと思われる閏十一月七日付巨海越中守宛(北条早雲)宗瑞文書とくっついている理由です。これは古証文に乱丁があり、異なる文書が合わさってしまった為と推測しました。これは現在国立公文書館に蔵してある内閣文庫蔵の古証文三種文書を比較した結果たどりついた結論です。

 第二に、安城市史が「被相談」としている当該文書の内容です。これは同じ活字本でも戦国遺文と小田原市史所載の同文書が「無相談」としておりますが、これを安城市史では『「被相談」の「被」を「無」の誤写とみる説もあるが、文字自体は「被」である』という見解がありましたが、三種本と字体辞典を比較検討した結果、素人目で恐縮ですが「被相談」より寧ろ、「無相談」の方が妥当ではないかと判断いたします。
 同じ文書を書写していても、朝野旧聞ほう藁と古証文では書写の方針が異なっていて、朝野旧聞ほう藁では読みやすさを重視して異字体があれば統一を図り、改行位置などには頓着していないことに対して、古証文は字形や改行位置、改頁位置まで一致する完全コピーを作ることを目的とした書写がなされていることを確認しました。
 また、字体辞典における「無」と「被」の字形比較においては古証文三種の中でも大久保酉山旧蔵書、和学講談所旧蔵書、旧蔵元不明書の順で無に近かったです。むしろ旧蔵元不明書は、完全コピーを目指しながらも朝野旧聞ほう藁の解釈に近づけるよう書写がなされているのではないか、というのが調べている内に思った実感です。

 第三点は安城市史が直接述べていることではありませんが、活字本三種で「被」と読まれている文字でも、「無」である可能性の指摘ができたことです。「被致本意」は本意を致されというよくわからない日本語に読み下すしかないのですが、大久保酉山旧蔵書、和学講談所旧蔵書の二書の「被」は「無」に近いじでした。これをもとに「本」の字形が辞典の字形と必ずしも一致しないことを確認したうえで「無致方意」(致し方無き意)という読み下し方を提起してみました。これはあくまでも別解であり、私自身の今後の勉強も必要になるだろうことを含め、指摘のみしておく次第です。

 第四点は偽書説についてです。安城市史では偽書とまでは言われてませんが、史料編において疑義とともに参考文書の扱いとされている状況について考察をしてみました。偽書とするためにはやはり、どのような意図をもってそのような記述になったのかを考察することが必要ではないかというのが実感です。安城市史における疑義においても、最初から書式として整わない形になっていたかは不明であるし、天文十七年の小豆坂合戦前の状況において、敵地を経由して書状を送る段においては、同一人宛に複数文書が出ることもあり得るのではないかと考えてみました。

 安城合戦、小豆坂合戦においては今後も研究が進み、深い考察が出てくることを期待しております。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年6月 4日 (火)

川戦:安城合戦編⑭偽書説について

 ここまで調べていてなんですが、この天文十七年三月十一日付織田弾正忠宛氏康文書には偽書説が安城市史に提起されております。主なる論拠としては、同年同一日付で内容もほぼ重複している織田弾正忠宛氏康文書が同じ古証文に所載されているからです。しかも、元文書に長々と書かれていた背景説明を全てすっ飛ばして、氏康の返答のみが短く記されておりました。

(短文版全文・安城市史より[カッコ書きは安城市史の注])
 五二八 〔参考)北条氏康書状写  (古証文)

貴札拝見、本望之至候、近年者、遠路故不申入候、
      (今川義元)
背本意存候、抑駿州此方間之義、預御尋候、先年雖
遂一和候、自披国疑心無止候、委細者、御使可申入
候条、令省略候、可得御意候、恐々謹言、
天文十七
 三月十一日
  〈信秀)
 織田弾正忠殿
                 (北条)
                  氏康在判

 また、長文版においては、末尾に日付と署名がなされておりますが、この日付の様式がいわゆる文書の書式を満たしていないとのことです。下記に書かれているような、年号を抜いた「十七年」という書式は文書礼としておかしいということだそうです。

(長文版末尾内容)
何様御礼自是可申入候、委細者、使者可有演説候、
恐々謹言、
  (天文)
 十七年          (北条)
  三月十一日       氏康在判
          (信秀)
    織田弾正忠殿
             御返報

 故に、長文版は短文版をもとに作られたものであろうとの考察がなされ、短文版を含め安城市史では「参考」扱いの史料となっております。念のために書いておくと、安城市史で参考扱いとした村岡准教授ご本人は偽書であるとは言っておりませんが、この見解をもって偽書説として扱っている書籍を拝見したことがあります。

 偽書は、その文言に書かれた言説を流布することにより、事実とは異なる記事が盛られている文書と解釈しております。例えば武功夜話などがその範疇に入るといわれております。武功夜話は現存史料が後代になって書き写されたものであり、その内容に同時代文書には現れがたいオーパーツが入っていることなどからそう言われます。ただ、偽書説が説として機能するためにはその偽書が何故そのような形で後代に残ったのかの考察が必要ではないかと思うのです。

 例えば、武功夜話等であれば、前野家先祖が戦国時代に書いた史料を、子孫は一文字たりとも改変せずに封印保管していた訳ではなかったようなのですね。その時々の子孫がその都度知った知識を後代の子孫に読ませるために加筆を行い続けていたのであれば、歴史的史料価値は下がるかもしれませんが、決してその行いは責められるべきものではありませんし、その子孫がどのようなソースでどの部分を加筆したのかについては、むしろ理解・研究を深めるべきでしょう。
 もちろん、これが伝平岩親吉の三河後風土記をでっちあげた沢田源内のようなプロの偽書作者が書いた物であることが判れば話は別ですが。

 確かに年数のみ記された文書は見られませんが、古証文に所載されている氏康文書は書写文書です。故に古証文に掲載される過程で、書式の前後に加筆があったと考えられます。例えば、長文版には織田弾正忠殿の後に短文版にはない御返報が書き加えられております。短文版から長文版を作ったとすれば、この御返報を書き加えた理由が判じえません。同様に、短文版に天文十七と記されているとすれば、長文版から天文の年号を除いた意味が分からなくなります。

 ずっと後年に下って、桜田門外の変で井伊直弼が水戸浪士の兇刃に倒れた折、彦根藩江戸藩邸は二日にわたり、二ルート、二丁の早籠を調達し、国許に主君の死を伝えたと言います。北条氏康から織田信秀に届いた書状の日付は天文十七年三月十一日です。この八日後の三月十九日に三河国小豆坂で織田軍と今川軍の衝突が起こりました。後に言う小豆坂合戦です。当然尾張から相模のルートの中間にある今川義元は信秀と氏康が通じていることを知れば妨害しようとするでしょう。信秀としては、北条氏康に今川義元の後背をついてもらえればどれほど助かったことでしょう。そこまでいかなくても、色よい返事であれば政治的に活用できます。それを考えれば、北条氏康は織田信秀に確実に書状を届けるために、書状を二通用意したと考えてもよいかもしれません。

 いずれにせよ、私が把握している限りにおいては、安城市史に記された記事のみをもって偽書説と呼ぶにはやや根拠の提示が足りないように思われます。私自身、それらの情報にアクセスできていないだけかもしれませんが、今後の研究でこの時代の史実が明らかにされてゆくことを期待いたします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧