2017年10月22日 (日)

川戦:安城合戦編Ⅱ 索引

 おまけとして各稿の要旨を数行にまとめ、索引として一稿設けました。これで本編の全体像を俯瞰できるようにするつもりだったのですが、思いの外長文になってしまい把握どころではなくなってしまっていて恐縮です。御参考としていただけましたら幸いです。

0   まえがき及び参考文献
 本編の目的が2015年3月15日発行の『中京大学文学会論叢』第一号(2015~)に掲載された村岡幹生教授の論文「織田信秀岡崎攻落考証」についての再検討にあることを明記し、それに使用した参考文献を列記。
 

1      第1節の考察:日覚書状はいつ書かれたか?
 日覚書状作成は天文十六年という論文の年代比定は延暦寺と洛中法華との和睦があった当時の情勢にも合致。但し、書状の言及範囲は九月に限定されず、八月時点も及びうるので、信長公記が言う某年八月にあったとする小豆坂合戦もまた可能性として視野に入る。
 

2      第2節の論点抽出:日覚の弾正忠三河侵攻情報はあてになるか?
 論文第2節「織田信秀の三河侵攻情報の信憑性」の論点抽出

〇菩提心院日覚書状(抜粋)の最新拙訳案
一、三河は駿河衆の負け戦のようです。
  弾正忠はとにもかくにも(尾張)一国を管領していて、その威勢は前代未聞の様だと噂されています。
一、この十日ばかり以前に京都から楞厳坊が罷り下っております。厳隆坊も同行しています。
  心城坊は昨年の冬より今まで当国(越中国)に滞在しています。
  ある成り行きで、美濃から越中への上使の養雲軒という人の縁者が、最近檀越との間の使いをして
  くれていて、この人でなくては成り立たなくなっています。
一、彼の楞厳坊が申し来ることには、鵜殿の様子はよくないように話をしております。
  その理由は鵜殿は尾張守護・守護代と駿河守護の情勢を見比べて、色々上手くやっておられていた所に、
  今回、思いの外東国が負け戦になったことについて、
 (鵜殿は)弾正忠の事を一段の曲なし(交渉相手としての旨味のない人物)とお思いなっています。
  おそらく弾正忠は鵜殿の地をも今頃は攻め入ろうとしているのではないかと楞厳坊は話しています。
  あまりに心許ないので近日心城坊を鵜殿の元に差しやるつもりでおります。
  岡崎(松平広忠)は弾正忠へ降参した者達(広忠の旧臣達)により、命からがらの目にあわされております。
  (駿河衆の敗軍により)弾正忠が三州平均をしたその翌日に(鵜殿にいた弟子達が)上京しました。
  その情報を持って楞厳坊が私に話を聞かせてくれたのです。
  万一の事があれば、我が門流の力は落ちて内実ともに悔しい思いをすることでしょう。

 

2-1 日覚は弾正忠がどの一国を管領すると言っているのか?
 論文はこの「一国」を三河国とするが、別解として織田信秀の故国である尾張国を指す可能性もある。
 尾張出身の日覚にとって小勢力だった信秀がいつの間にか、駿河太守の今川家と対等に伍したその威勢を「(尾張)一国管領」「前代未聞」と表現したとしてもおかしくない。

 

2-2 誰が誰の事を「愛想なし」と思ったか?
 敬語表現から一段の曲なしとお思いになったのは織田信秀ではなく、鵜殿氏である。日覚は信秀に対しては敬語を使っておらず、鵜殿には使っているので、鵜殿による信秀への評価である可能性がある。



2-3 日覚は本当の事(岡崎降参、弾正忠上洛)を書いているのか?
  日覚書状に書かれた弾正忠上洛について、主従ではない尾張勢力のとりまとめ役が合戦直後に戦場を離れて上洛すること。当時の畿内は諸勢力入り乱れて混とんとしていて不安定な状況であり、上洛すること自体の意義について疑問を提起。

 

2-4 日覚が聞いた話の出所と経緯はどうなっているのか?
 弾は(「弾が」の誤記?)三州平均せしその翌日に(日覚の弟子達が)京に上り候
 織田信秀は尾張国守でもないので、戦勝後即上洛は困難だとすれば、上記のように解せざるを得ない。織田信秀が上洛していないのであれば、上洛したのは陣門流の坊主衆と考えるのが自然である。


2-5  論文が日覚書状から読み取ったこと。読み取っていないこと
 日覚書状が書かれた天文十六年の九月又は八月頃に織田信秀率いる尾張と駿河の両勢力が雌雄を決す合戦に及び、その勝敗が定まった(駿河衆敗軍)とすれば、それは日覚が三河に国主が定まったと判断するにふさわしい状況。すなわち、牛一信長公記が年未詳八月上旬にあったとしている、第一次小豆坂合戦ではなかったかと考える


3   第3節の論点抽出:北条氏康書状のプロファイル(その1)
 論文第3節「織田信秀の岡崎攻落を伝える別文書」の論点抽出

〇北条氏康書状(写)の最新拙訳案
お手紙にある通り、近年は遠路の為遠路の為行き来もなかった所に、
懇切丁寧な事に使者を遣わしていただいたのは祝着な事です。
三州についてですが、去年駿州へ相談無く彼の国(三河)が起こした軍に向かい
安城の要害を即時に破られたとのこと。毎度の御戦功は素晴らしいものです。
殊にあなたは岡崎の城を其の国(駿河)より押さえ込み、
駿州も今橋を思い通りするようになって、
それ以後万事其の国(駿河)と仲違いが生じたようですね(相違之刷候哉)、
そのせいで、あなたが彼の国(三河)に詰めることとなった旨承りました。
やむを得ない事情です。
なかんずく、駿河と我々の関係についてお尋ねいただきましたこと。
近年我々は彼の国(駿河)と一和を遂げたとはいえ、彼の国(駿河)よりの
疑心はやまずに迷惑をしております。
拠って清州よりのお使い並びにあなたからの手紙をいただきかたじけなく思い、
御礼をこれより申し入れます。委細は使者よりお伝えいたします。
恐々謹言

十七年
 三月十一日        氏康 在判

 織田弾正忠殿
       御返報


3-1  北条氏康書状作成の背景について
 天文十七年三月十一日付織田の弾正忠宛北条氏康書状が書かれた時代背景並びに、典拠史料である「古証文」の現存状況についてのあらましについて記述する。


3-2 織田信秀は出兵を今川義元に相談したのか?
 論文の言う古証文の原本は正体不明。「〇相談」の部分を「相談せられ」と読むのか「相談なく」と読むのかは、少なくとも現存する三つの古証文写本の来歴を可能な限り調べた上で判断すべきと考える。


3-3  ①『古証文』の底本は何か?
 古証文の字体判断は、論文内に来歴の情報がない『古証文原本』ではなく、書写時期の不明な旧蔵所不明本より、朝野旧聞ほう藁の編纂前に確実に存在したことが判っている大久保酉山旧蔵本を基準とし、現存古写本三種の内、「〇相談」の部分の〇の字が最も「被」に近い旧蔵所不明本を論文の言う『古証文原本』であると仮定して考察する。
 旧蔵所不明本の字に他写本になく、朝野旧聞ほう藁と共通する筆遣いが存在するので、旧蔵所不明本は朝野旧聞ほう藁が編纂された後にその解釈を参考にしつつ元本からトレースされた写本である可能性が高い。
 朝野旧聞ほう藁の編纂以前に存在していた大久保酉山旧蔵本は、その時点で乱丁が直されていたため、朝野旧聞ほう藁の底本であることはあり得ない。
 以上の点を鑑み消去法にて朝野旧聞ほう藁所載の北条氏康書状(巨海越中守宛伊勢宗瑞書状の体裁で掲載)の底本は和学講談所旧蔵本である可能性が他の二写本よりも高く存在する。
 和学講談所旧蔵本、大久保酉山旧蔵本の文字は「被相談」よりも「無相談」に近いので、書状には織田信秀は出兵を今川義元に相談と書かれているわけではない。

3-3  ②『古証文』の底本は何か?
「向彼国被起軍」は写本の字体から「向彼国之起軍」と読むのが妥当。意味は「彼の国に向かい軍を起こし」ではなく、「彼の国の起軍に向かい」と解釈。信秀が今川との協定を無視してではなく、松平広忠が宗主国の駿河に相談無しに蜂起した軍を織田信秀が破ったと解釈すれば、論文が指摘している文脈の不自然さは解消される。


3-3  ③とある幕臣の蔵書目録
 大久保酉山旧蔵本の蔵主である大久保酉山のプロフィールを同時代人の大田南畝の略歴と搦めて紹介。


3-4 「安城は要害だから」か、「安城の要害を」か?
 「安城者要害」の字句を刊本は「者」と解釈しつつ注釈に「之か?」と疑問符を付している。肉筆写本は微妙な形状。本稿での判定は保留。敵の拠点としての「要害」の語は使用例があり「不自然さ」はない。論文の指摘は「安城は織田の要害」と解釈しうる可能性を示したのみで、字句で判断するなら「安城は松平の要害」という解釈も同等以上に妥当。


4      第4節の論点抽出:北条氏康書状のプロファイル(その2)
 論文第4節「北条氏康書状の史料批判」の論点抽出


4-1  同一差出人の文意重複同一日付文書発給はあり得ないか?
 使者は当初信秀の使者として北条氏康に同盟をもちかけ、短文版の拒絶の書状を得た所で、自らは「清須御使」であり、信秀は清須の取次として自分を相模に遣わした、そして自らの義務として書状を尾張太守斯波義統に披露しなければならないと言い出した可能性も考え得る。


4-2&3  書状は発給者控えか?/書状は発給されたか?
 現代人の感覚ならこの署名箇所に「在判」なる字句がある故に、実際に発給されたものであるように考えられる。


5     第5節の論点抽出:北条氏康書状は何を述べているか?
 論文第5節「北条氏康書状が述べる三河情勢の検討」の論点抽出

 
5-1 ①検証:安城城天文九年攻落説(安城市史提示説の検討)
 安城市史が言う天文十二年までの安城落城の根拠として示されているのは、同時代史料、地元寺院の過去帳、安城近辺の古墓の伝承、江戸期編纂の系図資料だが、実際に落城を前提として記述している史料は寛永諸家系図伝の松平郷松平伝十郎・内藤正成記事と岡崎領主古記・参州本間氏覚書に絞られる。


5-1  ②検証:安城城天文九年攻落説(反証史料の提示)
 山田世譜(長慶寺文書)、与二郎ひろ定請文、東国紀行を使用して天文十二年以前の安城城落城説の否定を試みる。


5-1  ③検証:安城城天文九年攻落説(安城撤退記事の解釈)
 論文指摘の織田勢安城ルートを検証し、天文九年の安城乱中に、織田信秀が安城城を占領・維持する考えは最初からなかったと考察。


5-1  ④検証:安城城天文九年攻落説(系図資料の変遷)
 五井松平忠次が天文九年六月六日に安城合戦をした譜諜余録記事は寛永諸家系図伝所載藤井松平利長譜からのコピペである可能性大。故に忠次記事が天文九年六月六日かは不明。忠次も利長も安城防衛には成功しているので家譜上では同日に安城は陥落していない。また、安城城主と援軍の主将が一緒に城外に討って出て戦死する筋立てには違和感あり。


5-1  ⑤検証:安城城天文九年攻落説(寺院過去帳の検証)
 寺院過去帳や系図史料で天文九年安城合戦で戦死したとされる藤井忠満(藤助)は、松平記において天文十七年の第二次小豆坂合戦で戦死した記事あり。彼を含め天文九年安城合戦の戦死者の家系は絶家して直系子孫はいない。よって、寺院過去帳は没年が判らない一門衆をまとめて過去にあった合戦の戦死者に無理やりはめ込んだ可能性がある。


5-1  ⑥検証:安城城天文九年攻落説(時系列でみた考察および結論)
 天文九年の尾張勢による安城攻めは妙源寺宛売券等から事実とするが、早々に撤収したと考える。それが落城説に至ったのは甫庵信長記の記述や短期間での系図集編纂に協力させられた大樹寺の対応であり、矛盾した記述をそのまま載せた寛永諸家系図伝を読んだ者がその矛盾を是正するためにその後作られたのが天文九年の安城落城説だと考える。


5-2  天文十六年に織田信秀は岡崎城を確保したか
  岡崎城攻落とする論文説の別解として、「岡崎(松平広忠)は弾(織田信秀)へ降参した旧臣達により命の危険に晒されている」という読み方を提示。日覚書状並びに北条氏康書状が述べる岡崎城の状況は付け城包囲による確保(今川方である岡崎城の勢いを防ぎ止める)状態として一致していると読みうる。


5-3  安城合戦と岡崎攻落は織田と今川の相談の上でなされたか?
三河国人衆が無用な紛争を治められるよう両家が相互に外交チャンネルを持っていたこともあり得るが、論文が言うような共謀して三河の拠点を占拠するような事を氏康書状が示しているわけではない。


5-4 織田の岡崎攻落をもって鵜殿氏の立場が危ういものに急変したのか?
「織田の岡崎攻落をもって鵜殿氏の立場が危ういものに急変した」とする論文記述は日覚書状の文脈を無視した解釈であり、そこから導き出される「織田にとっての相違のあしらい」の根拠にはならない。


5-5  今橋を「本意」にしたのは、去年(天文十六年)の事か?
双方にとり言わずもがなな事は省略又はぼかした表現で記されていた可能性あり。表現こそ「其国相違之刷」=今川軍の田原侵攻であり、織田信秀が三河に詰めなければならない理由であった。


6  第6節の論点抽出:仮説は史実に矛盾していないだろうか?
 論文第6節「松平広忠降参情報の信憑性」の論点抽出


6-1  ①天文十二年以前:安城城陥落(第一次小豆坂合戦)
 天文十一年八月の小豆坂合戦については、論文すら同時代史料の不存在に言及し、天文十二年以降の織田勢の攻勢は天文十四年の清縄手合戦まで動きはなく、安城城攻落の年限を天文十二年以前に限定する根拠は見当たらない。


6-1  ②天文十二年以前:安城城陥落(内藤正成譜の上野城合戦記事)
 寛永諸家系図伝内藤正成譜における天文十一年上野城合戦記事は複数の史料を併記して構成され、三つの話をまとめて初めてこの年以前の安城城落城あったように読めるが、史料相互の整合性が取れていない為、安城落城を想定しない異なる原因で起きた複数の合戦があったという解釈も可能。


6-2  天文十三年:井ノ口合戦と阿部大蔵の尾張表進出
水野氏宛斎藤道三書状等から天文十三年時点で安城城は織田家の手に落ちておらず、松平広忠の属城として健在であり、阿部大蔵は鎌倉街道沿いに進軍して水野氏に属する知立周辺を脅かしたのが尾張表進出の実態と解釈。


6-3  ①天文十四年:安城清縄手の戦い(寛永諸家系図伝~貞享書上)
 私が調べた範囲では、論文が言う所の「十七世紀より本多家に詳しく伝承されている」安城清縄手合戦における本多忠豊の殿戦の内容はその存在の可能性がある貞享書上が焼失している以上、十八世紀以前に遡れなかった。


6-3  ②天文十四年:安城清縄手の戦い(常山紀談~譜牒余録)
 殿戦の出所は戦国大名エピソード集である常山紀談以降。十八世紀後半に入ってから本多忠豊譜に施された史実改変の動機と根拠が不明な状況では後世に残る詳細な伝承については、疑義を呈さざるを得ない。


6-4  天文十五年:今川軍の今橋攻め(十一月~翌六月の間)
 論文は天文十五年の松平広忠の攻勢を示唆しているが、「安城は要害」、「岡崎降伏」の解釈には異議があり、そもそもそれを示す史料は通説も含めて見当たらない。


6-5 ①天文十六年七月:医王山砦落成
医王山砦落成の翌月、藤河久兵衛(奥平貞友)は今川義元の新知行宛行と安堵にもかかわらず今川に謀反を働いた結果、作手仙千代(奥平定能)が人質として吉田に送られたことから、田原戸田氏の反乱以前に山中砦で謀反が生じていたことを指摘。


6-5  ②某年八月上旬:第一次小豆坂合戦
三河物語には小豆坂合戦が起こった年次は記されていないが、これを天文十七年三月十九日の合戦と比定するなら、今川軍は織田方の松平信孝が築いた作岡砦からの妨害を受けることなく、医王山砦から易々と藤川経由で小豆坂に入ったことになる。医王山砦建設から第二次小豆坂合戦の間に作岡は今川軍に破られた。


6-5  ③某年八月上旬:第一次小豆坂合戦
 牛一信長公記に書かれた小豆坂で織田軍が勝利したのが天文十六年八月上旬とすれば、八月二十五日付作手仙千代、藤河久兵衛宛今川義元書状、翌九月二十二日付日覚書状で「駿河衆敗軍」日覚が陣門法華宗徒である鵜殿氏の身を案じて弟子を三河に送ることをした流れもすっきり理解することが可能である。


6-6 天文十六年九月:田原戸田康光の謀反
 天文十六年八月上旬に小豆坂合戦があり、それが織田方の勝利に終わっていたと想定すれば、戸田康光は自爆するつもりでも、自分の策を誰か別の者によって進められたのでもなく、織田の勝利に今橋奪回のチャンスを見出したという可能性が生じる。


6-7 天文十六年:織田信長の初陣、吉良大浜を焼き討ち
 織田信長の初陣があった頃の大浜の状況を東国紀行・信長公記の記事より解説。但し、天文十九年十一月十九日付今川義元判物の「先年尾州・岡崎取合之刻」を天文十六年九月の事と限定する論文解釈には疑問。


6-8  天文十六年九月:渡河原合戦の前後
 渡河原合戦・佐々木松平忠倫暗殺実行者への感状・大樹寺への寄進状の記述について、論文は自説に基づく解釈は挙げていても、解釈を証明する史料は提示されていない。故に論文論旨をもって「岡崎城攻落説」は否定されているように思える。


6-9 史料解釈と史実とのかい離をどう埋めるか?
 広忠方は論文の言う「降伏」後に織田方についた同族の松平忠倫と信孝を討ち取っているので反織田の姿勢を対外的に示してはいないという論文の指摘には大いに違和感あり。


7    第7節の考察:小豆坂の戦いの時、松平広忠は何をしていたか
 天文十七年三月の小豆坂合戦において、松平広忠は今川方として全く機能していない点について、広忠は天文十六年九月の渡河原合戦以降自身が戦場に出ていない。よってこの時も松平広忠は戦場に出られる体調ではなかったと考えるのが合理的。


8    第8節の考察:松平広忠は何故死んだのか?
 松平広忠暗殺について、織田方に動機がなかったとするのは言い過ぎです。しかし、暗殺が行われたのが広忠の命日である天文十八年三月六日とするのは根拠がない、とするのが妥当。


9    最終節の考察:いかにして竹千代は人質になったか?
 自説の全体像の要約と、それにもとづき竹千代は通説通り今川の人質として差し出された所を「天文十六年八月の第一次小豆坂合戦」の駿河衆敗軍により、対今川戦に勝機を見出していた戸田康光の手で拉致されたとする。


10    小豆坂合戦天文十六年説の源流
 岡崎市史が紹介する小豆坂合戦天文十六年説を採用した江戸期成立史料の概要と、当該史料が甫庵信長記・松平記・三河物語等の記事の切り貼りで作られていたため、同書において十六年説は「十一年」の誤記とされた事情を解説。及び十六年説として見直しうる可能性に言及。


11    あとがき
 本編のエッセンスと筆者の歴史考察スタンス及び本編作成の動機について

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川戦:安城合戦編Ⅱ あとがき

 本編川の戦国史 安城合戦編Ⅱ全体を通して描写したかった自説のあらましは「最終節の考察:いかにして竹千代は人質になったか?に書いておきましたが、そのエッセンスを数行に圧縮すると以下のようになります。

 論文が菩提心院日覚書状の年次を天文十六年とした慧眼は評価するも、駿河衆敗軍=松平広忠の織田信秀への降参説は渡河原合戦や松平忠倫暗殺に対する筧重蔵への感状の存在から違和感がある。降参説の元となった日覚書状の部分は織田に降参した松平一門衆(信孝・忠倫)らが松平広忠を追い詰めたことしか言っておらず、駿河衆敗軍は松平広忠の降参ではない。とすれば、その敗軍が意味するところは八月二十五日付奥平仙千代・藤川久兵衛宛今川義元書状に書かれた「東西鉾盾」が該当し、それが意味するところは第一次小豆坂合戦である。

 本編の目的について弁明しておきますと、これは決して批判をする為のものではなく、あくまでも別解を得る為のものです。私自身歴史解釈は複数あっても構わないと考えており、「常山紀談」のような江戸期後期に現れる微に細に穿った戦国豪傑たちの出所の怪しいエピソードや、日本人が日本人である為に必要な国民の歴史である「国史」を含めて共存は可能であると楽観しております。
 ではなぜこのような長文を垂れ流したかと言うなら、まずは論文の記述内容に違和感を抱いたからです。違和感があるということ自体は、論文を読んだ直後に記した「今年発表された中京大教授の新説」という記事に書きましたが、長文の論文を評するには個別の論点を粗々に抽出するのが手いっぱいで、違和感を払拭するに至っておりませんでした。

 論文記述への違和感を俎上にあげてそれに対する自らの見解を示す形でブログ記事をあげてゆく試みは既にありました。何分もとの論文自体が長文であり、中途に論者自身が過去に示した説の修正が差しはさまれたり、論旨の流れに飛躍があったりして全体像を捉えづらいものでした。読んで感じた違和感を論点にしてそのまま反論を加えるスタイルでは、かえって評者の立ち位置が見えづらくなってしまうことが懸念されました。
 そこで論文の節ごとに論点を抽出し、どのような文脈でその論点が提示されているかを示しながら自らの見解を述べてゆくことにしました。すなわち、構成を元論文のそれに合わせて同じ順番で見解を述べてゆくことで自分自身の論文に対する理解を深めると同時に、自説が何を対象としたものであるかを明確にできるのではないかと考えました。同時に思いつきで反論しても見解の一貫性は担保できない、要するに論点Aでは右の立場から評して、論点Bでは左の立場で評するのでは散漫な印象になってしまいますので、予め立てた仮説に基づいた視点から論評することに致しました。
 その第一が平野明夫氏が「三河松平一族」という本で提示していた安城落城天文十六年説であり、第二が菩提心院日覚書状の文面から推測して導き出した第一次小豆坂合戦天文十六年説の仮説でした。正直に言うと思いつきレベルでは事前にもっとたくさん仮説を立てていましたが、史料と突き合わせて矛盾を感じて捨てた仮説も数多あり、最終的に残ったものが上記の二つです。
 安城落城天文十六年説について論文が提起した「安城者要害(安城は要害なので:北条氏康書状)」という読み方を平野氏が是としているかどうかは私は知りません。しかし、「岡崎ハ弾江かう参之分にて、からゝゝの命にて候(日覚書状)」に論文以外の別解があり得るのであればまだその命脈は保っていると私自身は判断しております。その判断の基準は違和感を抱かないかどうか、言い換えるなら自分がその説に納得できるかどうかでした。

 本当は論理的整合性と言い切ることができたならかっこいいのですが、歴史考察を突き詰めて考えるとそれはどう考えても不可能です。例えば古証文という史料について、私の考察はもとより論文も含めてその史料集の成立経緯については一切触れておりません。なのでそこにそれらしく納められている書状が本当に関東の戦国大名の意思を示したものであるかどうかまでは判りません。私は本編の中でその書状をもっともらしく現代語訳して論文解釈に難癖をつけているものの、それは素人が片手間で行っているものです。私が論文を読んで感じた違和感は、歴史の専門教育を正しく修め、数多くの古文書に実地に触れ、先行研究の論文を系統立てて学んでゆくことで解消してゆく類のものに過ぎないのかもしれない、ということは常に自戒しておくべきことと承知しております。

 しかしそれは結局のところないものねだりなので、今自分が持っているもの、図書館等に通って自分が手に入れられるものを所与として、妥当性ある落としどころを探った結果が本編です。そしてその作業は私にとって実に心地よいものでした。思わぬ発見や学びがたくさんあり、正直言って大変楽しかったです。本編で立てた別解については十全なものであると思っているわけではありませんが、ある程度納得できるものであると思っております。とは言え安城城陥落時期について一応の理屈はつけたものの、十二分な実証を施せたわけではないのが難しいところです。一応甫庵信長記が成立する以前に安城城落城が天文九年ないしは天文十二年以前としている史料は確認できていません。とはいえ、史料の成立が遅いというのは疑う理由にはなっても、それだけで否定する根拠にはなりえませんから、それが私に十分な納得感をもたらしていないのは事実です。

 いずれにせよ、天文十年代の東海地方の歴史においてはここ十数年の間に種々刺激的な新説が提起されております。今後も目からうろこが落ちるような革新的かつ強力な説得力を備えた新説に出会えることに期待して、本編の締めとさせていただきます。拙稿を読んでいただきましてありがとうございました。

 

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2017年10月21日 (土)

川戦:安城合戦編Ⅱ 小豆坂合戦天文十六年説の源流

 さて、ここまで述べてきた小豆坂合戦天文十六年説ですが、これは私のオリジナルでもなんでもなく、江戸期編纂史料に小豆坂合戦が天文十六年八月に起こったという記載が朝野旧聞ほう藁にあるという指摘が「岡崎市史(新編ではない方)別巻-1 徳川家康と其周囲」に掲載されております。

〇岡崎市史別巻-1 徳川家康と其周囲 上巻より引用(拙稿により下線部付記)

 さてこの小豆坂合戦は、天文十一年、同十七年の二回説と天文十七年の一回説とある。朝野旧聞ほう稿に「此事、諸説異同あり。信長記、増補信長記、寛永松平傳十郎譜等には、十一年八月、岡野済安聞書、官本三河記、三河記大全、大永慶長年間略譜等には十六年八月とし、松平記、岡崎古記、三州龍海院年譜、家忠日記増補等には、十七年の事とし、武徳大成記、成功記は、十一年、十七年の両年に係く。ただに年月の異なるのみにあらず、記事の旨亦同じからず、今古證文に収る義元が文書に此戦を十七年三月十九日とし、松平記に符合するを以て今之に従ふ」として十七年説を取っている。(後略)

 というわけで、小豆坂合戦天文十六年説をとっている史料がどのような内容なのかを確認するために朝野旧聞ほう藁に記載されている十六年説諸書の内、官本三河記の内容を以下に引用させていただきます。

〇朝野旧聞ほう藁より引用(原文は漢文及び和漢混交文、以下拙稿による読み下し。下線、丸数字は同じく追記)

 官本三河記 十六年條に曰く 
 弾正忠従いて岡崎に謂ひて曰く、竹千代之に在り(按ずるに上文に東照宮、戸田康光に奪われ給ひて尾張に渡らせ給ふ事〇記す)向後今川と義絶を為す可しと云々、
 廣忠曰く、両雄久しく國を争う、今更人質を奪われての和睦は成し難し、人質は我が心に出でず、存分に任される可く云々、

(中略)
 天文十六年八月二日、(説齋和尚)勢を出し、今切・本坂の二手に分け、同八日、山中・藤川に陣す、矢作下瀬を渉り、上和田に陣し、小豆坂に上る、
 八月十日説齋和尚、三ヶ國の軍勢を率いて出張る、
 ②尾張方大将織田孫三郎(自注弾正弟也)、八月四日、③清須を出、笠寺・鳴海に陣す、翌日安城に着き、上和田之砦に移る、十日、馬頭原に押出し備を立つ、
 駿州勢藤川を出、両陣の間一里餘を為すと雖も山路互いに先途を見分けず押しけるが、小豆坂に駿兵押し上れば、尾州先陣之と行き逢う、
 織田造酒丞下知し、左右敵多勢を見透され、悪坂上れと突き駈ければ、駿兵かさを取りて進み下り、鯨波を挙げる、
 孫三郎ハ返せ々々と下知すれ共、多勢まくり立てらるる、
 弾正忠旗本は盗木まで本陣を引き退き、騒がず爰に取りて返す、

(後略)

 興味深いことに朝野旧聞ほう藁が引用している官本三河記には松平記・三河物語・甫庵信長記の記述が混じっております。

矢作下瀬を渉り、上和田に陣し、小豆坂に上る、

〇松平記(新編安城市史5 資料編 古代・中世より引用)
 両朝比奈、矢はきの下瀬を越て、上和田に陣を取、小豆坂へ上る

 ①の部分の主語は、松平記が両朝比奈と書いているのと同じで、今川勢となっています。安城市史5 資料編 古代・中世でも指摘されているとおり、上記の部分は松平記の誤りで、こちらは今川方ではなく、織田方の動きなのですが、その誤りが官本三河記にも踏襲されておりました。その他小豆坂の七本槍がこの後段にでてくるのですが、同様の記述があるのは三書の内甫庵信長記のみです。

尾張方大将織田孫三郎(自注弾正弟也)

〇甫庵信長記(国会図書館デジタルコレクションより引用)
 舎弟孫三郎殿ヲ武者大将トシ敵ノ陣ヘ推向ケシカハ

 ②の部分の織田孫三郎については松平記・三河物語には言及がなく、牛一信長公記にも、「よき働きせし衆」として紹介されている五名の中の一人であり、大将として言及されているわけでもありません。その代わり織田三郎五郎(信広)を松平記は大将分、三河物語は先手として紹介しています。

清須を出、笠寺・鳴海に陣す、翌日安城に着き、上和田之砦に移る、十日、馬頭原に押出し備を立つ、

〇三河物語 第一上 (安城市史5資料編より引用、拙稿にて下線付記)

 清須之城ヲ立て、翌日は笠寺・成見(鳴海)に陳(陣)取給ひて、明レバ笠寺ヲ打立給ひて、案祥(安城)に付せ給ひて、其寄八萩(矢作)河之下之瀬ヲ超テ、上和田取出にウツラせ給ひて、明ケレバ馬頭之原え押出シて、合陳之ヲ取ントテ、上和田ヲ見明(未明)に押出ス、

 清須から小豆坂にかけての織田勢の進路については、三河物語にのみ書かれていて信長記・松平記には言及がありません。このように、官本三河記は甫庵信長記・松平記・三河物語の記述を繋いで構成しつつ、三書いずれの記載もない独自の記載を加えています。

〇朝野旧聞ほう藁より引用(原文漢文及び和漢混交文、拙稿による読み下し)
 官本三河記 十六年條に曰く 

 天文十六年八月二日、(説齋和尚)勢を出し、今切・本坂の二手に分け、同八日、山中・藤川に陣す

 今切・本坂はそれぞれ浜名湖の南岸・北岸を通る遠江国の道の名前で、曳馬(引馬、現在の浜松)付近から道が分かれて国境を越えて吉田(今橋)または御油(五井)にて合流して山中・藤川へ至る道です。今切は明応大地震による津波で浜名湖と遠州灘がつながったことで出来上がった渡し場で、本坂は遠江・三河国境の峠の名前です。いずれも行軍に当たっては難所に当たる場所ですね。これらについては、どのような情報を根拠にこの記述が加えられたのかは確認はとれておりません。

 取り合えず上記で紹介した官本三河記の記述の特徴をまとめると、以下のようになります。
① 今川軍進路に矢作下瀬・上和田が加わる誤りを犯していること(松平記)
② 織田方の大将として織田孫三郎(信光)が紹介されていること(甫庵信長記)
③ 織田軍の進路(清須から上和田、馬頭原方面へ)の詳細な記載(三河物語)
④ 今川軍の進路(今切・本坂の分岐)の詳細な記載(オリジナル)
⑤ 小豆坂七本槍の紹介(甫庵信長記)

 上記の特徴を岡崎市史別巻が小豆坂合戦天文十六年説をとるとしている諸書が備えているかどうかを確認しますと、以下の通りとなりました。

岡野済安聞書
① 今川軍進路の誤り(松平記):なし
② 織田方大将織田孫三郎(甫庵信長記):なし
③ 織田軍の進路の詳細記載(三河物語):なし
④ 今川軍の進路の詳細記載(オリジナル):なし
⑤ 小豆坂七本槍の紹介(甫庵信長記):なし

三河記大全
① 今川軍進路の誤り(松平記):あり
② 織田方大将織田孫三郎(甫庵信長記):あり
③ 織田軍の進路の詳細記載(三河物語):あり
④ 今川軍の進路の詳細記載(オリジナル):あり
⑤ 小豆坂七本槍の紹介(甫庵信長記):あり

大永慶長年間略譜
① 今川軍進路の誤り(松平記):なし
② 織田方大将織田孫三郎(甫庵信長記):あり
③ 織田軍の進路の詳細記載(三河物語):あり
④ 今川軍の進路の詳細記載(オリジナル):なし
⑤ 小豆坂七本槍の紹介(甫庵信長記):あり

 岡野済安聞書の記述は簡略な記載ですが、他書にない記載はほとんど見受けられませんでした。甫庵信長記と松平記・三河物語の記述の共通部分を抜き出して天文十六年の出来事としたような印象です。
 三河記大全は官本三河記と概ね同じ特徴を備えております。
 大永慶長年間略譜は基本甫庵信長記の記述を採用し、三河物語の記述で補った感じとなります。
 天文十六年諸書の特徴としては複数の原著の記述を切り張りしたうえで一回の合戦にまとめ、それを根拠の見えない天文十六年としたことでした。そのため、岡崎市史別巻ー1 徳川家康と其周囲の編者の柴田顕正氏は以下のようなコメントを付けて誤記の可能性を指摘しております。

〇岡崎市史別巻-1 徳川家康と其周囲 上巻より引用(拙稿により下線部付記)

 想ふに、十六年説をとるものは、岡野済安聞書を除いては(これには月日を載せず)この戦を八月十日とし、ただ當代記が十六年としたれど、九月十日と定めたるのみである。而して上記諸書に載する両軍の道程は、三河物語に據ったのである。さればこの十六年は十一年、十七年のいずれかを誤ったものではなかろうか。而して當代記の九月は八月の誤かと思はるゝ。いづれにしても、この戦は十一年と十七年と二回戦はれたものとすべきであらう。

 当代記は国会図書館デジタルコレクションで史跡集覧に収められている刊本を読むことが出来るのですが、どうも編年体で記載されているわけではないようで、上記記事の言う九月十日の小豆坂合戦記事は見つけられませんでした。
 これら諸書の内容は甫庵信長記や松平記の記述を切り貼りした上に小豆坂合戦の発生年次のみを天文十六年にしているだけのようにも見えます。今川義元の感状に言及されている天文十七年三月十九日の小豆坂合戦についての言及もありませんので岡崎市史編者である柴田顕正氏がこれらの年次は誤記であるとした見解については岡崎市史編纂当時の認識としては妥当と思います。

  但し、これらの小豆坂合戦天文十六年説をあげる諸書が編纂された当時にはまだ天文十六年八月の山中新知行をめぐる奥平家文書の発掘が進んでおらず、2014年に至って日覚書状が天文十六年に書かれた書状であることが判りました。そこには「駿河衆敗軍」と謳われております。

 また、官本三河記は、他書にない今川軍の進軍ルートを日時付きで記しています。

〇信長公記 あづき坂合戦の事 新人物往来社 新訂信長公記より引用(拙稿にて下線部付記)
 八月上旬、駿河衆、三川の国正田原へ取り出だし、七段に人数を備へ候。

〇甫庵信長記(国会図書館デジタルコレクションより引用)
 去る程ニ駿河國今川ノ義元ハ尾張國ヲ打随ヘントテ隣國ノ兵駈催シ其勢四萬餘騎天文十一年八月十日三川國生田原ヘ打出

〇朝野旧聞ほう藁内 官本三河記より引用
 天文十六年八月二日、(説齋和尚)勢を出し、今切・本坂の二手に分け、同八日、山中・藤川に陣す

 その部分に該当する部分を牛一信長公記、甫庵信長記と比較してみると、甫庵信長記は牛一信長公記をベースにしつつも書き足しを行っていることが判ります。その中でも「天文十一年八月十日」としている部分については、それ以前の史料で遡って確認することが出来ません。
 それとは別系統の史料を含めて切り貼りして作られた官本三河記が今川軍進軍ルートという独自要素と一緒に年代設定を「天文十六年」としている点については、この記述にも元史料が存在したことが想定できるかと思います。岡崎市史では天文十六年を誤記と見做していますが、可能性の一つとして甫庵信長記がその元史料を誤写してしまった可能性もまた疑えるのではないでしょうか。

 これらの点を考慮に加えて検討すれば、第一次小豆坂合戦天文十六年説の可能性も出てくるのではないかと思料致します。

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2017年10月15日 (日)

川戦:安城合戦編Ⅱ 最終節の考察:いかにして竹千代は人質になったか?

 本稿は論文最終節:「おわりに ―人質竹千代の真相を推理しつつ―」について考察するものです。

 論文の最終節の内容を要約すると以下のような感じになります。
 竹千代拉致を行ったとされる田原戸田氏については、それを行ったこと自体が自爆であり実際の動機は不明で謎が多い。そうした通説と比して、天文十六年九月、織田信秀が松平広忠を「からゝゝの命」に追い込み、竹千代を広忠から差し出させたと見るのは、確証はないにしても、状況としてはるかに合理的で無理のない想定と言える。

 論文で提起された天文十六年九月上旬の織田信秀による岡崎攻撃説は視点がやや織田信秀に寄りすぎているような気がします。論文説を前提に述べますが、竹千代拉致が戸田康光の自爆と言うなら、織田信秀との示し合わせがあったとしても、田原で蜂起することもまた自爆と言えるでしょう。今橋(吉田)に拠点を持つ今川軍にとって、岡崎と田原どちらを先に攻めるか考えれば、向後の憂いを無くすためにまず田原を攻めることは必定でしょう。論文の想定では今川軍に対する戸田康光の対抗策がないのに今川に反旗を翻したことになります。太原崇孚は医王山砦を守っていた天野景泰と松井宗信を呼び戻して易々と田原を攻め滅ぼしております。これが織田信秀の岡崎攻撃を援護するために戸田康光は田原戸田家を滅亡させたと言うなら、戦国領主としてはお人よしすぎると言わざるを得ません。この想定には無理があると私は思います。

 以下は私の見立てです。
 戸田康光が今川に反旗を翻した理由を考えるに、それはやはりそこに勝機を見いだしたと考えるのが妥当でしょう。織田信秀との連携は当然ありえたと考えた場合、彼の心が動かされる言葉を織田側から聞いたと考えるのが妥当と思います。それこそが菩提心院日覚書状で述べられている「駿河衆敗軍」であったはずです。私はその言葉は織田信秀が三河中の国人衆に向け発せられ、京と往還している在地の陣門法華僧侶がその情報を鵜殿氏から聞いたものと解釈していますが、論文では京に上った織田氏の誰かから陣門法華の僧侶が聞いた話としています。いずれにせよ、越中の日覚の耳に入るほど喧伝されていたことは間違いなく、その言葉を戸田康光が聞いていたことはありうる想定でしょう。
 では駿河衆敗軍の中身が岡崎の松平広忠の降参であるかと言えば、恐らく違うと思います。松平広忠は戸田康光の娘婿ですが、彼のことを駿河衆とは呼ばないはずです。せいぜい「駿河方」になるくらいでしょう。論文は松平広忠は織田信秀に降参したと解釈しておりますが、それが事実だとすれば、それもまた織田方によって喧伝されていることになります。それはすなわち今川軍が松平広忠を救援するという大義名分を失っていることになります。しかし、それにもかかわらず翌年三月に小豆坂合戦は起こっているのですから、「松平広忠は織田信秀に降参した」という解釈もまた疑うべきです。
 ではいかに解釈すべきか。それは「松平広忠は織田方への降参者によって命からがらの目にあわされている」という通説によりそった解釈です。岡崎がこの状態であったため今川軍は医王山に砦をたてて救援に向かおうとしたわけです。その結果が「駿河衆敗軍」という解釈は十二分にありえるものだと私は考えます。

 「駿河衆敗軍」とは何を指すのかについて、私は牛一信長公記に記されている某年八月上旬の小豆坂合戦がそれにあたるものと考えています。これは決して根拠なく言っているわけではなく、同時期である八月二十五日付の今川義元が山中砦を警護する奥平仙千代と藤河久兵衛(奥平貞友)に出した判物に「当国東西鉾楯雖有時宜変化之儀」と書いていて、書状が書かれた直前に東西両勢力の鉾楯、つまり戦闘があったことが示唆されています。この判物は戦争があって状況が変わっても、先に宛がった知行は保証するから忠節を尽くせ、という内容だったのですが、翌年一月の判物で藤河久兵衛(奥平貞友)が結局今川に対して謀反を起こしたことが記されています。

 書状には「東西鉾盾」とあります。医王山から見て東は今川とすれば、この時代西は織田と考えるのが妥当でしょう。山中に知行を持つ藤河久兵衛が今川に対して謀反を起こしたとすれば、織田信秀の東三河入りが視野に入ります。これに期を合わせれば田原で蜂起した戸田氏にも勝機は見いだせたのではないでしょうか。
 ただそのような想定は実現することなく、織田信秀は天文十六年八月上旬の小豆坂合戦には勝利したものの、実際には今川軍の主力を補足できておらず、藤河久兵衛の山中領での謀反も不発に終わり、戸田康光は単独で今川と戦うことを強いられてしまいました。そのような状態であっても西郡にいた鵜殿氏の立場からすれば、小豆坂での東西鉾盾で「駿河衆敗軍」した結果、西三河は織田に押さえられて、医王山砦で藤河久兵衛(奥平貞友)が反乱を起こし、東三河の田原で戸田康光が今川に反旗を翻したとなれば、織田による「三州平均」がなったように見えてもおかしくはなかったでしょう。

 私の想定では織田信秀は岡崎の松平広忠本人を降参させたわけではないので、広忠が竹千代を信秀に差し出すことはなかったと考えております。なので通説通り竹千代は今川方に差し出されたのでしょう。織田家と敵対することを決めて今川家に頼るということは三河国人衆の中でも織田方についている者の領地を通過するには危険が伴います。天文十五年には東三河の長澤(現在の愛知県豊川市)を根拠地とした長澤松平氏とその与同勢力が織田方についていたことが牧野康成条目写にて示されています。それは松平信孝ら織田方の使者を通して今川義元にも伝えられていたことでもあるので、公知の事実でした。当時三河国から遠江国への国越えルートは今橋(吉田)から本坂峠を超えて浜名湖北岸に至る姫街道を通るルートと海伝いに国境を越えて浜名湖南岸の今切を抜けるルートがありました。岡崎から姫街道ルートに至るには乙川沿い南東にある織田方の大平・作岡砦を過ぎて三河山地を経由してさらに織田方の長澤松平氏の領地を通らねばなりませんので危険があります。
 大浜に出てそこから船を使う手もありますが、中途の上和田にも砦を作られてしまっています。残るルートは岡崎城からまっすぐ丘陵地の尾根伝いに南下し、深溝経由で蒲郡に至り、そこから水路により渥美湾経由で海岸線ルートに入るのが最も安全と想定されたのは自然な流れだと思われます。途中鵜殿氏と戸田氏の領地を通過することになりますが、鵜殿氏は天文十六年になっても「尾と駿と間を見あはせ(日覚書状)」ている状況で織田方についている様子はありませんでしたし、戸田氏は松平広忠の岳父でした。竹千代人質事件は三河湾南東岸の大津(老津)から駿府に向かう所を、謀反を考えていた戸田康光によって横取りされたとする三河物語の記述の通りでしょう。それは自爆覚悟の自暴自棄に陥った蜂起などではなく、長澤・山中の織田与同勢力の存在と天文十六年小豆坂にて「駿河衆敗軍」があったとする織田信秀の宣伝に促されたものであったと考えるのが私にとって一番スッキリするシナリオです。

 私は小豆坂合戦を天文十六年八月上旬から天文十七年三月十九日までの幅を持った抗争であると想定いたします。織田信秀にとっては、岡崎をめぐる状況が変わったわけではないので、このまま岡崎に圧力を加えておけば再び今川軍をつり出すことが可能であると考えていたのでしょう。天文十七年三月に再び小豆坂で東西鉾盾がありましたが、この時に織田軍は「駿河衆敗軍」のような具体的戦果をあげることが出来ませんでした。牛一信長公記はこの状況を「前後きびしき様体」とのみ記しましたが、三河物語は信長公記が三月十九日の合戦をほぼ記載のないのを咎め、逆に八月上旬の合戦を省いて「三河で小豆坂の合戦と呼び伝えられているのはこのことだ」としたのでしょう。そのネタ元は「松平記」であったと思われますが、松平記には八月上旬の戦闘を松平一門が誰も参加していない故に省いたのでしょう。

 以上を以って論文についての考察を終了したいと思います。
 次稿と次々稿にて小豆坂合戦天文十六年説の補足とあとがきを記して本編の締めといたします。

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2017年10月14日 (土)

川戦:安城合戦編Ⅱ 第8節の考察:松平広忠は何故死んだのか?

 本稿は論文第8節:「松平広忠の病死」について考察するものです。

 本節の論文主旨を私なりに要約すると以下の通りとなります。
 これまでの研究では、織田の陰謀として片目八弥による広忠殺害を説くものが多いが、それはむしろ後代の付会説に引きずられた論というべき。広忠病没説に疑問を差し挟む理由はないとする。

 論文の最初に合歓木松平信孝が戦死した耳取縄手合戦についての言及があるのですが、ここで一つ気になることがあります。
 それは耳取縄手合戦を記した諸書がこれを松平信孝が岡崎を攻略しようとした中で起こった合戦としてますが、それは果たして本当なのだろうかということと、岡崎を攻略するつもりなら、岡城の松平信孝はなぜ下之瀬(渡河原)から明大寺に向かったかということです。明大寺へのルートは松平記・三河物語にはないのですが、岡崎領主古記には羽根経由で明大寺に向かったという記述があるらしい(安城市史5資料編 古代・中世参照)。前年に起こった渡河原合戦では松平広忠は渡河原まで進出しています。ということは、その時点では松平広忠は明大寺から六名までの鎌倉街道を押さえていたことがわかります。

  六名の南方に上和田砦がありますが、その時までに守将佐々木松平忠倫を暗殺して一時的に砦の機能を無効化していたと思われます。上和田砦はその後の第二次小豆坂合戦で織田信秀が使っていますので、この時は陥落まではさせていなかったとみてよいでしょう。仮に松平信孝が六名から明大寺に向かったとしても、しかも最初の戦場となったとするかぶと山(円入防山、絵女房山、吉祥院あたりで明大寺の東方に位置)は西方から入って岡崎に向かう渡河ポイントとしては東にずれています。なので六名から川沿いに明大寺に向かった訳ではないと言えます。とはいえ、その明大寺から岡崎城へ向かうには乙川を超える必要があります。明大寺に松平広忠の守備拠点があったとすれば、そこを完全に押さえてからではないと渡河はおぼつかないでしょう。逆に退路を断たれる危険もあります。よって、かなり無理のある進軍ルートだと思います。

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 そんなことをしなくとも、岡城から岡崎城を目指すにはもう一つ矢作川の渡河ポイントがあります。それは、矢作を経由することです。矢作川西岸は織田方の勢力圏なので後背を気にする必要はありませんし、ここも古代から渡河を前提とした街づくりがされており、そこから渡れば岡崎城は目の前です。少なくとも両岸が敵地である明大寺あたりとは渡河のしやすさは違ったはずです。
 だとすれば、松平信孝はなぜ明大寺に向かい、さらにそこから円入防山(絵女房山)へ向かったのか。信孝の目的が岡崎攻略ではないという前提で考えれば、明確になります。すなわち、鎌倉街道を明大寺、円入防山(絵女房山)を経由した先にある織田方の大平砦の救援です。そのあたりは、松平記・三河物語等この戦いを記した書物にも言及があって、松平記は以下のようないい方をしています。

〇松平記 安城市史5 資料編 古代・中世より引用
 蔵人殿ハ明大寺を出て、かふと山に御出之自分、七十人余人一同におめいて懸り、
一矢射て明大寺の町へ入、菅生の河原へ切り抜けまた取って返す、蔵人殿追懸給ふか、
町に火をかけ引き取り候ハ、苦しかるましきに、

 松平記はこの段の頭の部分で岡崎奪取が目的と言いつつ、明大寺の町を焼いて撤退しておけばよかったのだと言っています。これは、明大寺を焼く、つまり乙川対岸の松平広忠の拠点を潰すことを意味します。
 安城市史5 資料編 古代・中世が岡崎領主古記及び岡崎古記の内容としている解説ではもっと明確で、羽根山から北上する信孝軍を広忠軍はこうべ塚(異名は麝香塚、現在の岡崎市立三島小学校東隣)で襲撃を受け、そこから明大寺に誘い込まれ、そこを放火している最中に矢で撃たれて死んだということらしいです。
 ここでは、正田原(生田原)と岡崎城を結ぶ切所が最初の戦場となっており、松平軍は明らかに今川方についていて、織田方として鎌倉街道を封鎖しようと動いております。南側には正田原(生田原)に今川方がいて、大平砦を建てた松平信孝としてはこれを分断する必要があったと考えられます。

 耳取縄手合戦は江戸期成立の史書の中にしか書かれていません。しかし、松平広忠の旗幟はその史書の中に語られている松平信孝がとった行動によって明確に示されていると私は考えます。そもそも松平信孝は安城守備に必要不可欠な岡砦を任されている織田方の部将です。そんな要地を任されている部将が一門内で主導権争いをしているのを安城の織田信広は指をくわえてみていたのでしょうか。松平広忠が織田の軍門に降ったなら主導権争いで合戦になる前に信広か信秀のもとに仲裁の訴えが入ったはずですが、そんな形跡はありません。

 論文においてはこの後松平広忠の暗殺説が否定される方向で論証が進んでゆきます。小豆坂合戦という三河支配の雌雄を決する大事な戦いがある折に、渡河原合戦以降松平広忠の出陣記録はないので、私自身も病死説で問題はないだろうと思います。その原因が何らかの死病に罹ったのか、松平記にある片目八弥による襲撃の折に負った傷が原因なのかはわかりません。論文は織田方が松平広忠を暗殺する理由が見つからないと述べていますが、岡と上和田という織田信秀の三河進出にとって重要拠点である岡と上和田の城将を殺害して安城城の安全を脅かしているのですから、理由がないとまで言うのは言い過ぎだと思います。
 と言うか、織田方には広忠を暗殺して信孝を後見に竹千代を岡崎城に入れる選択肢があったはずです。それは阿部大蔵を後見に仙千代(広忠)を岡崎に入れて西三河を今川方にした手口と同じものですから、実際にその手をとるかどうかにかかわらず、竹千代を手元に置く意味はありました。広忠死後に太原崇孚は岡崎城に入城しましたが、そこに正当性は担保されていません。故に安城を攻撃し織田信広を捕虜にして人質交換の形で竹千代を手に入れる必要が生じたのです。
 対する織田側は安城城を確保できていれば、矢作川東岸への再進出のチャンスが生まれます。安城確保が長期に及べば、竹千代を城主にした上での調略工作もありえたのではないでしょうか。織田家は安城を失って松平家に干渉する足掛かりを無くすことで初めて竹千代を人質にとることの戦術的意味が失われた訳で、これを後世の付会というのもまた、言い過ぎだと思います。似たような感じで吉良家からとった人質をそのまま織田家の家臣にしてしまった西尾吉次のような例もありますので、織田信広が捕虜になりさえしなければ、松平竹千代はそのまま尾張で織田信長に仕えていた可能性は高かったと思います。
 結論として、松平広忠暗殺について、織田方に動機がなかったとするのは言い過ぎです。しかし、暗殺が行われたのが広忠の命日である天文十八年三月六日とするのは根拠がない、とするのが妥当でありましょう。

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2017年10月 8日 (日)

川戦:安城合戦編Ⅱ 第7節の考察:小豆坂の戦いの時、松平広忠は何をしていたか

 本稿は論文第7節:「小豆坂の戦いにおける松平広忠の動向」について考察する物です。

 「三河物語」、「松平記」の記述より天文十七年三月の小豆坂合戦において、松平広忠は今川方として全く機能しておらず、この戦いで広忠が今川方に属したとする通説には大いなる疑いがある、と論文は指摘しています。結論に至るまでの論理展開は以下の通りです。

①「岡崎衆」は遅くとも織田信秀の上和田砦着陣以前の段階で岡崎を離れ、藤川の今川軍に合流していなくては、朝比奈信置配下に入ることが出来ない。
②「岡崎衆」といいながら、いずれの書にも松平広忠は登場していない。朝比奈信置配下に「岡崎衆」がいたとしても、それは広忠に率いられた本体では決してあり得ない。
③広忠は、織田信秀の小豆坂→上和田→安城への退却を傍観していたことになる。事実傍観していたとなれば、それ自体今川への背信にほかならず、事前の織田への内通があったことを意味する。
④①~③までで松平広忠は今川方として全く機能していない。
⑤天文十七年三月に再度安城に来た織田信秀によって、岡崎衆は織田軍の戦闘配置のうちに組み込まれたとすれば前述の諸矛盾はすべて消える。
⑥小豆坂合戦のとき、今川軍として働いた「岡崎衆」がいたとして、それは岡崎離反浪人衆であろう。

 前節のような論旨のブレはないのですが、いくつか気になることはあります。それは松平広忠には天文十六年九月二十八日にあったとされる渡河原合戦以降、戦場に出たという記録がないのですね。小豆坂合戦のみならず、天文十七年四月十五日の耳取縄手合戦においても明大寺の守備兵が放った矢に合歓木松平信孝が当たったまでで、松平広忠本人が前線に出て戦った訳ではありません。にも拘らず、筧重蔵への感状や大樹寺への寄進など岡崎城主としての業務はこなしていることを考えると、この時松平広忠は戦場に出られる体調ではなかったと考えるのが合理的ではないでしょうか。松平広忠は天文十八年三月六日に没しています。その原因が片目八弥(岩松八弥)による刺殺か、病死かは明らかではありません。刺殺でなかったとしてもそれを原因として病床に臥せった後に亡くなったという説もあります。

 原因は確定できませんが、天文十七年三月の時点で松平広忠の死期は迫っていたと考えると①、②については特に問題ないと思います。③についてですが、それはあり得たかもしれません。しかし、小豆坂合戦は松平記・三河物語で語られている通りの遭遇戦であり、その日、その場で行われると予定されている合戦ではありませんでした。織田信秀の撤退もその日のうちに行われています。またその撤退は岡崎勢単独で何とか出来る規模の軍勢ではなかったはすです。今川の援軍と連携を取れずに動くことは各個撃破の餌食になることと同義ですから、さしたる根拠なくそれを背任とか、事前内通とかいうのは言い過ぎではないかと思います。

 それにこの局面で勝利を欲していたのは今川軍よりも、織田軍の方だったのだと思うのですね。以下の史料に見える勝利に執着する織田軍の様子が見て取れると私は思っております。

〇永禄三年十二月二日付松井八郎宛今川氏真判物写 戦国遺文 今川氏編第二巻より引用(拙稿にて下線部付記)
父左衛門佐宗信及度々抽軍忠之事
(中略)
一松平蔵人・織田備後令同意、大平・作岡・和田彼三城就取立之、醫王山堅固爾相拘、其以後小豆坂、駿遠三人数及一戦相退之故、敵慕之処、宗信数度相返条、比類無双之事
(後略)

 これは先にも引用した松井宗恒宛の今川氏真軍忠状で宗恒の父である宗信の軍功が書き連ねてあるのですが、小豆坂合戦で両軍が退く間に織田軍が追いすがってきたのを松井宗信が殿軍を引き受けて追い払いました。三河物語では双方押し合いになって、織田方の名のあるものが多く討ち取られたから今川方の勝ち判定をしていて、どちらかの軍が崩れた形になっているわけではないのですね。『天文十六年八月上旬の小豆坂合戦』において、織田信秀は『駿河衆敗軍』を宣伝して藤河久兵衛と戸田康光を味方につけることに成功しました。しかし勝利したとはいっても、実際は今川軍の主力までをおびき寄せることは出来なかったようです。『天文十七年三月十九日の小豆坂合戦』においては、今川義元の側近中の側近、太原崇孚の出馬を得ることは出来たのですが、前回の合戦に匹敵する勝利が得られませんでした。これでは織田信秀に同調する勢力も現れそうにないのです。撤退戦においても勝利を狙う兵が出てきてもおかしくはないでしょう。
 それに小豆坂合戦後に松平広忠は何もしていないわけではありません。明大寺に進出し、残存する織田方砦の一つ、大平砦に対して正田原の今川勢と一緒に圧力をかけていました。これを救うために合歓木松平信孝が出陣して生じたのが耳取縄手合戦です。

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2017年10月 7日 (土)

川戦:安城合戦編Ⅱ 6-9 史料解釈と史実とのかい離をどう埋めるか?

 本稿では第六節で展開された、史実とその解釈についての結論について見てゆきます。
 まず、この論文は結論に至るまでの論理展開が追いにくい構成になっています。なので、素材としては大変興味深いのですが、結論部分に明快さを欠いていると素直に思います。

 菩提心院日覚書状と北条氏康書状が本論文の骨子であり、日覚書状の作成日を天文十六年としたことには素直に納得できました。ただ、氏康書状を再評価するにあたって、本論である「岡崎攻落」とは直接関係ない過去解説の記述についての言及は本来であれば補注で補うか、氏康書状の再評価を目的とした補論として別論文でやった方がよかったのではないかと思います。氏康書状については、安城市史の解説記事を読むことで色々刺激を受けて、ブログに記事を書いたこともありましたから、それなりのこだわりをもって読ませていただきましたが、それが災いしたのか、紹介された書状の記述から立論される段に、菩提心院日覚書状の内容についての印象が薄らいでしまい、それを前提とした論理展開が追い辛かったです。

 また、意図されているのかどうかわかりませんが、状況を説明する言い回しが途中で変わることで検証が終わっていないと思っていたことが、いつの間にか論文中の確定事実となっている部分も散見されました。具体的には氏康書状には岡崎城を押さえた(と読める)部分から、「岡崎城を確保した」と最初に要約したものの、日覚書状には岡崎が降参した(と読める)部分をふまえてか、論文内の要約はいつの間にか「岡崎城を攻落した」に変わっておりました。一段落増やせば事足りるのですが、それがないため論旨の理解に手間取りました。

 論文の第六節は、その仮説が通説として伝えられている史実に対して矛盾はないかという点を検証していますが、矛盾がありそうな記述にぶつかった時にどうも仮説の方を修正しているように見えます。私自身研究者の論文を読み慣れていないので、そのような書き方も実際にはあるのかもしれませんが、理解するのが大変でした。あらましとらえた仮説の修正過程は以下の通りです。

①天文十六年九月上旬に岡崎城が織田の攻撃にさらされたのは確実
②しかし岡崎攻落までは断定できない。
③広忠降参があったとしても、すぐに復帰した。
④復帰は反織田をやめると表明したからというケースもありうる
⑤広忠城主復帰と外交姿勢は一致するとは限らない。
⑥よって広忠は反織田の姿勢を対外的に示していたかは疑問

 広忠方は論文の言う「降伏」後に織田方についた同族の松平忠倫と信孝を討ち取っているので反織田の姿勢を対外的に示してはいないという論文の指摘には大いに違和感があります。
 ①は日覚と氏康書状の読み方次第でひっくり返りうるのですが、ロジックとしてはありです。②は渡河原合戦をはじめとする反証史料があるので、そう判断するのは妥当です。③と④は根拠となる史料の提示はなく、憶測に憶測を重ねています。③と④の想定に入る前に潰しておかねばならない別の可能性を考えると気が遠くなります。⑤と⑥は③と④の想定を受け入れて初めて成立するものですから、この部分のロジックについては脆弱であると指摘せざるを得ません。

 この論文は結論に至る論理構成に難があります。新たに起こした史料の解釈が史実とは不整合なものであったなら、不整合な史実を組み込んで論理展開をするか、そもそもの解釈を疑ってみる必要があるのではないかと思います。

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2017年10月 1日 (日)

川戦:安城合戦編Ⅱ 6-8 天文十六年九月:渡河原合戦の前後

 論文における天文十八年九月二十八日に起こったとされる渡河原合戦についてのコメントを以下に引用します。

〇論文より引用
同時代史料はなく確かなことはわからないが、事実そのようなことがあったとして、これを
先述の脈絡で解すれば、いったん岡崎城を奪われた広忠が隙をついて城に復帰したので
信孝が牽制したという事になる。然し当然ながら、広忠は織田に降参していないという前提で
解することもできる。

 論文における本節の主旨は「天文十六年九月の織田信秀による岡崎城攻落」が既存の歴史記述のセンテンスに矛盾を生じせしめないかを検証するためだったと私は理解しておりましたが、この部分の記述については残念ながら判断基準が甘くなっているようです。
「いったん岡崎城を奪われた広忠が隙をついて城に復帰したので信孝が牽制した」という推論と「広忠は織田に降参していない」という通説を同列に並べることは無理があります。前者の推論には何の根拠も具体的な事実も提示されていないからです。

 それに天文十六年九月以前の設問設定と以降の設問設定では、問いの本質が異なります。以前の事件のタイミングでは、それぞれの事件が「岡崎城攻落」が起こるための要件と矛盾しないことを確認だけすればよいのですが、以降であれば、「岡崎城攻落」が起こした影響にそれぞれの事件が矛盾を生じないことが必要になります。

 その意味で渡河原合戦は松平広忠が岡崎城主であることが前提で伝えらえている事象であり、同じ九月に攻落があったとする仮説には真っ向対立するものです。仮説を立てて発表する時は、既存の通説と矛盾していることはないか、矛盾があるとすればどこがなぜ違っているのかを検証するべきでしょう。

 その記述がないため、残念ながら当該論文が提示した「岡崎城攻落説」はまさに論文の中で否定されていると評価せざるをえません。

〇天文十六年 十 月二十 日   松平広忠、松平忠倫暗殺の功により筧重忠に感状を発給。
 広忠の心が反織田の態度を肯定する立場を示すものとして、論文では挙げられております。過去の拙稿でも何度か引用しているので繰り返しませんが、「岡崎城攻落説」を報じた読売新聞記事を読んでまっさきに頭に浮かんだのが渡河原合戦と忠倫暗殺の件での広忠感状でした。これをどのように覆すのか、未発見の新しい資料にそれが書かれているのかなどと期待をしていたのですが、そのような論旨の展開がなかったことは残念です。

〇天文十六年 十二月  五年   松平広忠、松平清康の十三回忌供養に大樹寺へ寄進。
 この時点で松平広忠が岡崎に健在であったことは間違いないとの論文の言及について、土地の寄進は領主の権限の委譲ですから、権限を持たない者が土地の寄進を行うことは考えにくい。寄進した土地は「御寺近所」と書かれておりますので、大樹寺の近くにある岡崎城で健在であることと考えるのは妥当でしょう。

 上記二件についての論文のコメントは渡河原合戦における松平広忠の岡崎領主としての立場と資格を補強するものです。よって、私としては渡河原合戦・忠倫暗殺感状・大樹寺への寄進状の記述をもって「岡崎城攻落説」は否定されていると判断せざるをえません。

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2017年9月30日 (土)

川戦:安城合戦編Ⅱ 6-7 天文十六年:織田信長の初陣、吉良大浜を焼き討ち

 以下は信長公記の織田信長の初陣について記された記事です。

〇信長公記 (新訂信長公記 桑田忠親校注 新人物往来社刊より引用)
吉法師殿御元服の事

吉法師殿十三の御年、林佐渡守・平手中務・青山与三右衛門・内藤勝介伴申し、古渡の御城にて御元服、織田三郎信長と進められ、御酒宴御祝儀斜めならず。
 翌年、織田三郎信長、御武者始めとして、平手中務丞、其の時の仕立、くれなゐ筋のづきん、はをり、馬よろひ出立ちにて、駿河より人数を入れ置き候三州の内吉良大浜へ御手遣ひ、所々放火候て、其の日は、野陣を懸けさせられ、次の日、那古野に至って御帰陣。

 論文においては、上記記事について織田信長の初陣がこの年にあり、吉良大浜を攻めた一件を「天文十六年九月の織田信秀による岡崎攻め」の一環であると結論付けています。テキストとして使った桑田忠親校注の信長公記の注釈にも「今川氏の属城吉良の大浜」などと書かれてしまっていますが、論文が「吉良大浜は吉良の所領の大浜である」している解釈も妥当であろうと思います。但し、この地は松平家や本願寺が重層的に支配していて決して吉良家が独占して支配しているわけではなかったし、おそらくは吉良家が今川方についていたからというわけでもなかったと私は考えます。
 本稿ではその辺を考察してみたいと思いますが、信長の初陣があった頃の「吉良大浜」の様子を描写した史料があります。天文十三年、つまり信長初陣の三年前の閏十一月頃に連歌師谷宗牧がこの地を訪れたのでした。旅の目的は師宗長に倣っての東国への連歌興行だったのですが、そのついでにと松平広忠に女房奉書を手渡す勅使として役目を負わされた旅でした。この直前には織田信秀にも同様に女房奉書を手渡しております。

〇東国紀行(安城市史5 資料編古代・中世より引用)
(前略)
暮れ果てゝ参河大浜までをしつけたり、称名寺の住持浜までわたらせたまひをり侍る、数年乱後、ことに敵城ほどなくて、毎日足軽など不慮に打ちよせる比なれば、たゝみさへなき不弁さなり、一会の事あまり聊爾にやなどあれど、心ざしのほども見えければ、
  かきつくしうつみ火つくすむかし哉
そのかみ当国にやすらふ事ありけむ、当寺時宗相阿・覚阿などいひて、連歌執心せし人々の物語しつゝ、爐辺懐旧なるべし

(後略)

 宗牧が逗留した大浜の称名寺はかなりひどいありさまでした。毎日敵方の足軽が押し寄せて略奪を図るために畳すらない状況だったらしい。ここでいう近い場所にある敵城とは対岸の知多半島の成岩砦や境川上流の緒川・刈谷の水野氏のことでしょう。ここで開かれた連歌会は聊爾(りょうじ:いいかげん・無作法)なものであったわけですが、住持の相阿が平和な時代には連歌に熱心な人々がいたことを物語して宗牧の心を和ませた旨もかかれています。その連歌に熱心な人の一人が松平広忠であり、そのことは記録にも残っております。恐らくは、それを宗牧に披露したのでしょう。

〇一四七三 連歌懐紙 称名寺文書(愛知県史 資料編10より引用)
天文十二年二月廿六日夜、於称名寺披

神々のなかきうき世を守かな
めくりハひろき園のちよ竹  (松平)広忠
玉をしく見切の月ハ長閑にて  相阿
かすミのひまにはふく友鶴  (酒井)政家
雪はまた残るうら輪の明離れ  弘光
作る田中の道あらハなり    易屋
五月雨に晴ましらるゝ里つたひ 相阿

 発句をついだ脇句は松平広忠が詠みました。この句には「ちよ竹」と前年に生まれた嫡男竹千代の名前が組みこまれております。じつはこの時の会合で称名寺の住持相阿が広忠の嫡男を竹千代と命名したのですね。というか、系図史料に書かれている内容を信じるなら松平家の嫡男は竹千代と名乗るのが慣例になっていて、それに従ったまでとも言えそうなのですが。この称名寺は松平宗家とゆかり深く広忠の祖父にあたる信忠はここで興行された踊念仏のスポンサーになったり、一族家臣に隠居を強要された後にはここを隠居所にしています。なので松平家にはゆかり深い寺院といえます。そうであるがゆえに足軽どもが毎日打ちよせることになったのかもしれません。
 そして水野氏や織田氏にとっては絶対安全であることが判り切っていたが故に、織田信長の初陣の場所として選ばれたとして見てまずは間違いないでしょう。織田信長は自らの手で放火を行い、その日は野営して翌日帰ったというまさしくピクニックのごとき初陣でした。
 但し、平時の大浜は決して宗牧が描いたような寒村ではありません。

〇信長公記 (新訂信長公記 桑田忠親校注 新人物往来社刊より引用)
巻十四 高天神干殺し歴々討死の事
 (前略)
 家康公、未だ壮年に及ばざる以前に、三河国端に土呂、佐座喜、大浜、鷲塚とて、海手へついて然るべき要害、富貴にして人多き港なり。大坂より代坊主入れ置き、門徒繁盛候て、すでに国中過半、門家になるなり。
(後略)

 大浜の地は土呂、佐座喜(佐々木)、鷲塚と並ぶ「海手へついて然るべき要害」、「富貴にして人多き港」であり本願寺教団の門徒衆が支える豊かな町だったことを申し添えておきます。

 本稿の最後に天文十九年十一月十九日付今川義元判物についての論文解釈に異議を申し添えて締めたいと思います。

〇論文より引用
大浜上宮熊野神社を拠点として長田喜八郎に充てた天文十九年十一月十九日付今川義元判物
(愛知県史『中世3』一七六六号)に、「先年尾州・岡崎取合之刻」、長田が広忠に対し、
無沙汰せしめたので所領神田を召し放った云々の文言がある。「先年尾州・岡崎取合之刻」
とはまさしく天文十六年九月にあった織田信秀の岡崎攻めの折をさしていると考えられ、
岡崎攻めの一環として大浜作戦があったことが判明する(以上、村岡「天文年間三河における
吉良一族の動向」『安城市史研究』9 二〇〇八年参照)。

 2008年の「安城市史研究」は読んでおりませんが、論文著者が織田信秀岡崎攻落説を出したのが2015年のことですので、2008年の論文に神田召し放ちについての言及あってもそれが織田信秀の岡崎攻め意図したものではないのでしょう。普通に考えて「先年尾州・岡崎取合之刻」という文言は尾張と岡崎の抗争の事を示していて、決して尾州が岡崎を一方的に攻めた事を意味していません。しかもその岡崎と尾州の抗争は天文九年から天文十八年の長期にわたっております。また、書状を一応確認してみましたが、神田召し放ちになったのがいつの事なのか、時期も明示されていません。よって天文十六年九月の前後に織田信秀」が三河において軍事行動をとったことは同意いたしますが、その意味合いを「岡崎攻めの折を指していると考えられ」と限定していることについては、疑問に感じざるを得ないところです。

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2017年9月24日 (日)

川戦:安城合戦編Ⅱ 6-6 天文十六年九月:田原戸田康光の謀反

 九月五日に今川勢は田原攻めに転じます。愛知県史や戦国遺文今川氏編の史料を見る限りなのですが、ここで今川義元や太原崇孚は感状をだしています。しかし、いずれも最前線で槍働きをした者たちへの感状であって、城を落としたという内容の書状は出ていません。なので田原城攻めはそれ以後も一定期間に及んだとする論文の見解には同意いたします。
 ただ、私はその後に記された今川勢が田原攻撃に集中したため、手薄になった岡崎城が織田勢の攻勢にあって落城したという論理展開には異議があります。以前の稿でも指摘した通り、菩提心院日覚書状の「岡崎ハ弾江かう参之分にて、からゝゝの命にて候」は『岡崎城主松平広忠は、織田信秀への降参者として処遇され、辛うじて命ばかりは許された。』ではなく、『岡崎城主松平広忠は、織田信秀への降参者たちによって命からがらの目にあわされている』と解するべき書状であろうと私は解釈いたします。北条氏康書状での「殊岡崎之城自其国就相押候」も、『岡崎城を確保した(岡崎城を攻落した)』ではなく、『今川方である岡崎城の勢いを防ぎ止めた』くらいにした方がよいでしょう。論文においては、根拠を示さず『岡崎城を確保した』という言葉を『岡崎城を攻落した』と言い換えているように読めるので、あまりうまい書き方になっていないと感じます。

 それはともかく、医王山砦完成の知らせに今川義元は近日出馬の意向を明らかにしたのですから、論文が書いている通り最初から田原が攻撃目標であったわけではないのは明らかでしょう。田原城主の戸田康光がこの段階で今川家に対して主体的に反旗を翻したのは間違いないと思われます。しかし、彼は結果的にあっという間に押さえ込まれています。九月五日の戦闘で田原城が陥落しなかったとしても、数日中には戸田康光、堯光親子は自害に追い込まれたことは間違いありません。ではなぜ、そんな勝ち目のない戦いに戸田康光は踏み込んでいったのかがここで考えるべきことでしょう。通説では戸田康光は松平広忠が嫡男竹千代が今川義元の元に人質として送られる道中にこれを拉致して織田信秀に売り渡したという話になっていますが、これまた今川家に喧嘩を売る所業でしかないのです。織田信秀の岡崎攻落を支援するためだとすれば、人が良すぎると言わざるを得ません。

 以前に「川戦:崩壊編⑤幼君擁立再び」という記事にて、戸田康光は自らの娘を広忠の後妻に送り込んで松平家乗っ取りのプランを画策はしたが、今川の今橋攻略でそれは凍結せざるを得なくなった。実際に竹千代を拉致したのは康光以外の別の人間であるという考えを示しました。しかし、もし天文十六年八月上旬に小豆坂合戦があってそれが織田方の勝利に終わっていたとすれば、別の可能性も見えてきます。すなわち、戸田康光は自爆するつもりでも、自分の策を誰か別の者によって進められたのでもなく、織田の勝利に今橋奪回のチャンスを見出したのではないでしょうか。すなわち、戸田康光は本当に今川軍に勝つつもりで挙兵したという可能性です。

 八月上旬の小豆坂合戦とよく似た展開の合戦を私たちは知っています。それは桶狭間合戦です。今川方に寝返った鳴海城に対して織田信長は丸根・鷲津の砦を付け城とし、後詰めに現れた今川義元の本体を見事討ち取った合戦です。今川方の部将であった松平元康(後の徳川家康)はその結果、織田信長と同盟を結び、三河征服に乗り出すことになります。また、これの逆パターンとして長篠合戦というものもあります。こちらは武田軍に包囲された長篠城の救援に訪れた織田・徳川軍と武田勝頼が後詰め決戦を挑んだ戦いでした。織田信秀はそれらと同じように岡崎城を囲んで今川軍主力をつり出そうとしたのではないでしょうか。そして正田原につり出された今川隊を織田軍主力で一気に叩き潰しました。当然今川軍主力を叩き潰すだけが織田信秀の目的ではなく、周辺の国人衆にその勝利を喧伝することによって、三河国全域に反今川の潮流を作ることがその目的だったと考えられます。
 真っ先にその誘いに乗ったのが、今川義元から三河国山中に新知行を与えられた藤河久兵衛こと奥平貞友でした。彼は今川義元から山中知行の安堵の確約を得ていたにもかかわらず、今川に対して謀反を企てました。彼は医王山砦北東部にある額田郡の日近城が根拠地であり、恐らくは山中砦を彼の手で確保して鎌倉街道を東下する織田軍を通過させるのが目的だったと思われます。もし山中砦が織田軍に突破されると今橋までは一本道です。

 そして、織田軍が長駆東三河にまで到達できるなら、田原の戸田康光にとって今川に奪われた今橋を回復するための願ってもないチャンスとなります。恐らく、この時点で正田原の今川陣は織田により打ち払われ、山中では藤河久兵衛(奥平貞友)が織田方について三河山地内の鎌倉街道を押さえにかかり、田原の戸田氏が今橋を脅かしたことでしょう。三河西郡の鵜殿氏にとっては、西隣の吉良氏を除いてすべて織田側に塗り替えられたように感ぜられたに違いありません。まさに三河一国が織田信秀によって平均された状況であったと言えます。鵜殿氏の支配領域は南を三河湾に面し、領地の周囲を山で区切られた鎌倉のような地勢です。とは言え大兵を抱えておけるような規模もなく、北から攻められればひとたまりもありません。日覚が心許なく思うのもむべなるところです。

 ところがこの戦略は思いがけないところで破たんします。すなわち、今川軍の主力は医王山砦と今橋に健在だったのです。天文十六年八月の小豆坂合戦で織田信秀が打倒した今川勢は、あくまで先遣隊であって主力ではなかったようです。藤河久兵衛は今川軍に反旗を翻したものの、天野景泰や松井宗信らが田原攻めの援軍として田原攻撃に動員されるのを止めることは出来ませんでした。それどころか山中に知行を持っていながら織田軍を医王山に手引きすることもかなわなかったのです。かくて田原は孤立し、逆に今橋の今川軍主力に攻められるにいたります。
 作戦の失敗を悟った藤河久兵衛は、後始末を兄に任せて潜伏します。藤河久兵衛の兄である奥平定勝は吉田(今橋)に急行して息子の仙千代を人質にすることで赦免と山中新知行の安堵を勝ち取りました。

 目論見通りの勝利こそ手に出来なかった織田信秀ですが、西三河における状況は何も変わっておりません。変わらず松平広忠は岡崎に押し込められ救援を求めている状況です。むしろ今橋を取ることで従えていた東三河国人衆への今川家の統制にヒビを入れることが出来たとも言えるのです。このまま岡崎城を締め上げていけば、いずれ今川軍は再び西三河に後詰めの兵を送らざるを得なくなります。なので、岡崎城を降参させることは織田信秀の本意ではなく、逆にデメリットであるとも言えるのです。

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