2017年10月15日 (日)

川戦:安城合戦編Ⅱ 最終節の考察:いかにして竹千代は人質になったか?

 本稿は論文最終節:「おわりに ―人質竹千代の真相を推理しつつ―」について考察するものです。

 論文の最終節の内容を要約すると以下のような感じになります。
 竹千代拉致を行ったとされる田原戸田氏については、それを行ったこと自体が自爆であり実際の動機は不明で謎が多い。そうした通説と比して、天文十六年九月、織田信秀が松平広忠を「からゝゝの命」に追い込み、竹千代を広忠から差し出させたと見るのは、確証はないにしても、状況としてはるかに合理的で無理のない想定と言える。

 論文で提起された天文十六年九月上旬の織田信秀による岡崎攻撃説は視点がやや織田信秀に寄りすぎているような気がします。論文説を前提に述べますが、竹千代拉致が戸田康光の自爆と言うなら、織田信秀との示し合わせがあったとしても、田原で蜂起することもまた自爆と言えるでしょう。今橋(吉田)に拠点を持つ今川軍にとって、岡崎と田原どちらを先に攻めるか考えれば、向後の憂いを無くすためにまず田原を攻めることは必定でしょう。論文の想定では今川軍に対する戸田康光の対抗策がないのに今川に反旗を翻したことになります。太原崇孚は医王山砦を守っていた天野景泰と松井宗信を呼び戻して易々と田原を攻め滅ぼしております。これが織田信秀の岡崎攻撃を援護するために戸田康光は田原戸田家を滅亡させたと言うなら、戦国領主としてはお人よしすぎると言わざるを得ません。この想定には無理があると私は思います。

 以下は私の見立てです。
 戸田康光が今川に反旗を翻した理由を考えるに、それはやはりそこに勝機を見いだしたと考えるのが妥当でしょう。織田信秀との連携は当然ありえたと考えた場合、彼の心が動かされる言葉を織田側から聞いたと考えるのが妥当と思います。それこそが菩提心院日覚書状で述べられている「駿河衆敗軍」であったはずです。私はその言葉は織田信秀が三河中の国人衆に向け発せられ、京と往還している在地の陣門法華僧侶がその情報を鵜殿氏から聞いたものと解釈していますが、論文では京に上った織田氏の誰かから陣門法華の僧侶が聞いた話としています。いずれにせよ、越中の日覚の耳に入るほど喧伝されていたことは間違いなく、その言葉を戸田康光が聞いていたことはありうる想定でしょう。
 では駿河衆敗軍の中身が岡崎の松平広忠の降参であるかと言えば、恐らく違うと思います。松平広忠は戸田康光の娘婿ですが、彼のことを駿河衆とは呼ばないはずです。せいぜい「駿河方」になるくらいでしょう。論文は松平広忠は織田信秀に降参したと解釈しておりますが、それが事実だとすれば、それもまた織田方によって喧伝されていることになります。それはすなわち今川軍が松平広忠を救援するという大義名分を失っていることになります。しかし、それにもかかわらず翌年三月に小豆坂合戦は起こっているのですから、「松平広忠は織田信秀に降参した」という解釈もまた疑うべきです。
 ではいかに解釈すべきか。それは「松平広忠は織田方への降参者によって命からがらの目にあわされている」という通説によりそった解釈です。岡崎がこの状態であったため今川軍は医王山に砦をたてて救援に向かおうとしたわけです。その結果が「駿河衆敗軍」という解釈は十二分にありえるものだと私は考えます。

 「駿河衆敗軍」とは何を指すのかについて、私は牛一信長公記に記されている某年八月上旬の小豆坂合戦がそれにあたるものと考えています。これは決して根拠なく言っているわけではなく、同時期である八月二十五日付の今川義元が山中砦を警護する奥平仙千代と藤河久兵衛(奥平貞友)に出した判物に「当国東西鉾楯雖有時宜変化之儀」と書いていて、書状が書かれた直前に東西両勢力の鉾楯、つまり戦闘があったことが示唆されています。この判物は戦争があって状況が変わっても、先に宛がった知行は保証するから忠節を尽くせ、という内容だったのですが、翌年一月の判物で藤河久兵衛(奥平貞友)が結局今川に対して謀反を起こしたことが記されています。

 書状には「東西鉾盾」とあります。医王山から見て東は今川とすれば、この時代西は織田と考えるのが妥当でしょう。山中に知行を持つ藤河久兵衛が今川に対して謀反を起こしたとすれば、織田信秀の東三河入りが視野に入ります。これに期を合わせれば田原で蜂起した戸田氏にも勝機は見いだせたのではないでしょうか。
 ただそのような想定は実現することなく、織田信秀は天文十六年八月上旬の小豆坂合戦には勝利したものの、実際には今川軍の主力を補足できておらず、藤河久兵衛の山中領での謀反も不発に終わり、戸田康光は単独で今川と戦うことを強いられてしまいました。そのような状態であっても西郡にいた鵜殿氏の立場からすれば、小豆坂での東西鉾盾で「駿河衆敗軍」した結果、西三河は織田に押さえられて、医王山砦で藤河久兵衛(奥平貞友)が反乱を起こし、東三河の田原で戸田康光が今川に反旗を翻したとなれば、織田による「三州平均」がなったように見えてもおかしくはなかったでしょう。

 私の想定では織田信秀は岡崎の松平広忠本人を降参させたわけではないので、広忠が竹千代を信秀に差し出すことはなかったと考えております。なので通説通り竹千代は今川方に差し出されたのでしょう。織田家と敵対することを決めて今川家に頼るということは三河国人衆の中でも織田方についている者の領地を通過するには危険が伴います。天文十五年には東三河の長澤(現在の愛知県豊川市)を根拠地とした長澤松平氏とその与同勢力が織田方についていたことが牧野康成条目写にて示されています。それは松平信孝ら織田方の使者を通して今川義元にも伝えられていたことでもあるので、公知の事実でした。当時三河国から遠江国への国越えルートは今橋(吉田)から本坂峠を超えて浜名湖北岸に至る姫街道を通るルートと海伝いに国境を越えて浜名湖南岸の今切を抜けるルートがありました。岡崎から姫街道ルートに至るには乙川沿い南東にある織田方の大平・作岡砦を過ぎて三河山地を経由してさらに織田方の長澤松平氏の領地を通らねばなりませんので危険があります。
 大浜に出てそこから船を使う手もありますが、中途の上和田にも砦を作られてしまっています。残るルートは岡崎城からまっすぐ丘陵地の尾根伝いに南下し、深溝経由で蒲郡に至り、そこから水路により渥美湾経由で海岸線ルートに入るのが最も安全と想定されたのは自然な流れだと思われます。途中鵜殿氏と戸田氏の領地を通過することになりますが、鵜殿氏は天文十六年になっても「尾と駿と間を見あはせ(日覚書状)」ている状況で織田方についている様子はありませんでしたし、戸田氏は松平広忠の岳父でした。竹千代人質事件は三河湾南東岸の大津(老津)から駿府に向かう所を、謀反を考えていた戸田康光によって横取りされたとする三河物語の記述の通りでしょう。それは自爆覚悟の自暴自棄に陥った蜂起などではなく、長澤・山中の織田与同勢力の存在と天文十六年小豆坂にて「駿河衆敗軍」があったとする織田信秀の宣伝に促されたものであったと考えるのが私にとって一番スッキリするシナリオです。

 私は小豆坂合戦を天文十六年八月上旬から天文十七年三月十九日までの幅を持った抗争であると想定いたします。織田信秀にとっては、岡崎をめぐる状況が変わったわけではないので、このまま岡崎に圧力を加えておけば再び今川軍をつり出すことが可能であると考えていたのでしょう。天文十七年三月に再び小豆坂で東西鉾盾がありましたが、この時に織田軍は「駿河衆敗軍」のような具体的戦果をあげることが出来ませんでした。牛一信長公記はこの状況を「前後きびしき様体」とのみ記しましたが、三河物語は信長公記が三月十九日の合戦をほぼ記載のないのを咎め、逆に八月上旬の合戦を省いて「三河で小豆坂の合戦と呼び伝えられているのはこのことだ」としたのでしょう。そのネタ元は「松平記」であったと思われますが、松平記には八月上旬の戦闘を松平一門が誰も参加していない故に省いたのでしょう。

 以上を以って論文についての考察を終了したいと思います。
 次稿と次々稿にて小豆坂合戦天文十六年説の補足とあとがきを記して本編の締めといたします。

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2017年10月14日 (土)

川戦:安城合戦編Ⅱ 第8節の考察:松平広忠は何故死んだのか?

 本稿は論文第8節:「松平広忠の病死」について考察するものです。

 本節の論文主旨を私なりに要約すると以下の通りとなります。
 これまでの研究では、織田の陰謀として片目八弥による広忠殺害を説くものが多いが、それはむしろ後代の付会説に引きずられた論というべき。広忠病没説に疑問を差し挟む理由はないとする。

 論文の最初に合歓木松平信孝が戦死した耳取縄手合戦についての言及があるのですが、ここで一つ気になることがあります。
 それは耳取縄手合戦を記した諸書がこれを松平信孝が岡崎を攻略しようとした中で起こった合戦としてますが、それは果たして本当なのだろうかということと、岡崎を攻略するつもりなら、岡城の松平信孝はなぜ下之瀬(渡河原)から明大寺に向かったかということです。明大寺へのルートは松平記・三河物語にはないのですが、岡崎領主古記には羽根経由で明大寺に向かったという記述があるらしい(安城市史5資料編 古代・中世参照)。前年に起こった渡河原合戦では松平広忠は渡河原まで進出しています。ということは、その時点では松平広忠は明大寺から六名までの鎌倉街道を押さえていたことがわかります。

  六名の南方に上和田砦がありますが、その時までに守将佐々木松平忠倫を暗殺して一時的に砦の機能を無効化していたと思われます。上和田砦はその後の第二次小豆坂合戦で織田信秀が使っていますので、この時は陥落まではさせていなかったとみてよいでしょう。仮に松平信孝が六名から明大寺に向かったとしても、しかも最初の戦場となったとするかぶと山(円入防山、絵女房山、吉祥院あたりで明大寺の東方に位置)は西方から入って岡崎に向かう渡河ポイントとしては東にずれています。なので六名から川沿いに明大寺に向かった訳ではないと言えます。とはいえ、その明大寺から岡崎城へ向かうには乙川を超える必要があります。明大寺に松平広忠の守備拠点があったとすれば、そこを完全に押さえてからではないと渡河はおぼつかないでしょう。逆に退路を断たれる危険もあります。よって、かなり無理のある進軍ルートだと思います。

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 そんなことをしなくとも、岡城から岡崎城を目指すにはもう一つ矢作川の渡河ポイントがあります。それは、矢作を経由することです。矢作川西岸は織田方の勢力圏なので後背を気にする必要はありませんし、ここも古代から渡河を前提とした街づくりがされており、そこから渡れば岡崎城は目の前です。少なくとも両岸が敵地である明大寺あたりとは渡河のしやすさは違ったはずです。
 だとすれば、松平信孝はなぜ明大寺に向かい、さらにそこから円入防山(絵女房山)へ向かったのか。信孝の目的が岡崎攻略ではないという前提で考えれば、明確になります。すなわち、鎌倉街道を明大寺、円入防山(絵女房山)を経由した先にある織田方の大平砦の救援です。そのあたりは、松平記・三河物語等この戦いを記した書物にも言及があって、松平記は以下のようないい方をしています。

〇松平記 安城市史5 資料編 古代・中世より引用
 蔵人殿ハ明大寺を出て、かふと山に御出之自分、七十人余人一同におめいて懸り、
一矢射て明大寺の町へ入、菅生の河原へ切り抜けまた取って返す、蔵人殿追懸給ふか、
町に火をかけ引き取り候ハ、苦しかるましきに、

 松平記はこの段の頭の部分で岡崎奪取が目的と言いつつ、明大寺の町を焼いて撤退しておけばよかったのだと言っています。これは、明大寺を焼く、つまり乙川対岸の松平広忠の拠点を潰すことを意味します。
 安城市史5 資料編 古代・中世が岡崎領主古記及び岡崎古記の内容としている解説ではもっと明確で、羽根山から北上する信孝軍を広忠軍はこうべ塚(異名は麝香塚、現在の岡崎市立三島小学校東隣)で襲撃を受け、そこから明大寺に誘い込まれ、そこを放火している最中に矢で撃たれて死んだということらしいです。
 ここでは、正田原(生田原)と岡崎城を結ぶ切所が最初の戦場となっており、松平軍は明らかに今川方についていて、織田方として鎌倉街道を封鎖しようと動いております。南側には正田原(生田原)に今川方がいて、大平砦を建てた松平信孝としてはこれを分断する必要があったと考えられます。

 耳取縄手合戦は江戸期成立の史書の中にしか書かれていません。しかし、松平広忠の旗幟はその史書の中に語られている松平信孝がとった行動によって明確に示されていると私は考えます。そもそも松平信孝は安城守備に必要不可欠な岡砦を任されている織田方の部将です。そんな要地を任されている部将が一門内で主導権争いをしているのを安城の織田信広は指をくわえてみていたのでしょうか。松平広忠が織田の軍門に降ったなら主導権争いで合戦になる前に信広か信秀のもとに仲裁の訴えが入ったはずですが、そんな形跡はありません。

 論文においてはこの後松平広忠の暗殺説が否定される方向で論証が進んでゆきます。小豆坂合戦という三河支配の雌雄を決する大事な戦いがある折に、渡河原合戦以降松平広忠の出陣記録はないので、私自身も病死説で問題はないだろうと思います。その原因が何らかの死病に罹ったのか、松平記にある片目八弥による襲撃の折に負った傷が原因なのかはわかりません。論文は織田方が松平広忠を暗殺する理由が見つからないと述べていますが、岡と上和田という織田信秀の三河進出にとって重要拠点である岡と上和田の城将を殺害して安城城の安全を脅かしているのですから、理由がないとまで言うのは言い過ぎだと思います。
 と言うか、織田方には広忠を暗殺して信孝を後見に竹千代を岡崎城に入れる選択肢があったはずです。それは阿部大蔵を後見に仙千代(広忠)を岡崎に入れて西三河を今川方にした手口と同じものですから、実際にその手をとるかどうかにかかわらず、竹千代を手元に置く意味はありました。広忠死後に太原崇孚は岡崎城に入城しましたが、そこに正当性は担保されていません。故に安城を攻撃し織田信広を捕虜にして人質交換の形で竹千代を手に入れる必要が生じたのです。
 対する織田側は安城城を確保できていれば、矢作川東岸への再進出のチャンスが生まれます。安城確保が長期に及べば、竹千代を城主にした上での調略工作もありえたのではないでしょうか。織田家は安城を失って松平家に干渉する足掛かりを無くすことで初めて竹千代を人質にとることの戦術的意味が失われた訳で、これを後世の付会というのもまた、言い過ぎだと思います。似たような感じで吉良家からとった人質をそのまま織田家の家臣にしてしまった西尾吉次のような例もありますので、織田信広が捕虜になりさえしなければ、松平竹千代はそのまま尾張で織田信長に仕えていた可能性は高かったと思います。
 結論として、松平広忠暗殺について、織田方に動機がなかったとするのは言い過ぎです。しかし、暗殺が行われたのが広忠の命日である天文十八年三月六日とするのは根拠がない、とするのが妥当でありましょう。

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2017年10月 8日 (日)

川戦:安城合戦編Ⅱ 第7節の考察:小豆坂の戦いの時、松平広忠は何をしていたか

 本稿は論文第7節:「小豆坂の戦いにおける松平広忠の動向」について考察する物です。

 「三河物語」、「松平記」の記述より天文十七年三月の小豆坂合戦において、松平広忠は今川方として全く機能しておらず、この戦いで広忠が今川方に属したとする通説には大いなる疑いがある、と論文は指摘しています。結論に至るまでの論理展開は以下の通りです。

①「岡崎衆」は遅くとも織田信秀の上和田砦着陣以前の段階で岡崎を離れ、藤川の今川軍に合流していなくては、朝比奈信置配下に入ることが出来ない。
②「岡崎衆」といいながら、いずれの書にも松平広忠は登場していない。朝比奈信置配下に「岡崎衆」がいたとしても、それは広忠に率いられた本体では決してあり得ない。
③広忠は、織田信秀の小豆坂→上和田→安城への退却を傍観していたことになる。事実傍観していたとなれば、それ自体今川への背信にほかならず、事前の織田への内通があったことを意味する。
④①~③までで松平広忠は今川方として全く機能していない。
⑤天文十七年三月に再度安城に来た織田信秀によって、岡崎衆は織田軍の戦闘配置のうちに組み込まれたとすれば前述の諸矛盾はすべて消える。
⑥小豆坂合戦のとき、今川軍として働いた「岡崎衆」がいたとして、それは岡崎離反浪人衆であろう。

 前節のような論旨のブレはないのですが、いくつか気になることはあります。それは松平広忠には天文十六年九月二十八日にあったとされる渡河原合戦以降、戦場に出たという記録がないのですね。小豆坂合戦のみならず、天文十七年四月十五日の耳取縄手合戦においても明大寺の守備兵が放った矢に合歓木松平信孝が当たったまでで、松平広忠本人が前線に出て戦った訳ではありません。にも拘らず、筧重蔵への感状や大樹寺への寄進など岡崎城主としての業務はこなしていることを考えると、この時松平広忠は戦場に出られる体調ではなかったと考えるのが合理的ではないでしょうか。松平広忠は天文十八年三月六日に没しています。その原因が片目八弥(岩松八弥)による刺殺か、病死かは明らかではありません。刺殺でなかったとしてもそれを原因として病床に臥せった後に亡くなったという説もあります。

 原因は確定できませんが、天文十七年三月の時点で松平広忠の死期は迫っていたと考えると①、②については特に問題ないと思います。③についてですが、それはあり得たかもしれません。しかし、小豆坂合戦は松平記・三河物語で語られている通りの遭遇戦であり、その日、その場で行われると予定されている合戦ではありませんでした。織田信秀の撤退もその日のうちに行われています。またその撤退は岡崎勢単独で何とか出来る規模の軍勢ではなかったはすです。今川の援軍と連携を取れずに動くことは各個撃破の餌食になることと同義ですから、さしたる根拠なくそれを背任とか、事前内通とかいうのは言い過ぎではないかと思います。

 それにこの局面で勝利を欲していたのは今川軍よりも、織田軍の方だったのだと思うのですね。以下の史料に見える勝利に執着する織田軍の様子が見て取れると私は思っております。

〇永禄三年十二月二日付松井八郎宛今川氏真判物写 戦国遺文 今川氏編第二巻より引用(拙稿にて下線部付記)
父左衛門佐宗信及度々抽軍忠之事
(中略)
一松平蔵人・織田備後令同意、大平・作岡・和田彼三城就取立之、醫王山堅固爾相拘、其以後小豆坂、駿遠三人数及一戦相退之故、敵慕之処、宗信数度相返条、比類無双之事
(後略)

 これは先にも引用した松井宗恒宛の今川氏真軍忠状で宗恒の父である宗信の軍功が書き連ねてあるのですが、小豆坂合戦で両軍が退く間に織田軍が追いすがってきたのを松井宗信が殿軍を引き受けて追い払いました。三河物語では双方押し合いになって、織田方の名のあるものが多く討ち取られたから今川方の勝ち判定をしていて、どちらかの軍が崩れた形になっているわけではないのですね。『天文十六年八月上旬の小豆坂合戦』において、織田信秀は『駿河衆敗軍』を宣伝して藤河久兵衛と戸田康光を味方につけることに成功しました。しかし勝利したとはいっても、実際は今川軍の主力までをおびき寄せることは出来なかったようです。『天文十七年三月十九日の小豆坂合戦』においては、今川義元の側近中の側近、太原崇孚の出馬を得ることは出来たのですが、前回の合戦に匹敵する勝利が得られませんでした。これでは織田信秀に同調する勢力も現れそうにないのです。撤退戦においても勝利を狙う兵が出てきてもおかしくはないでしょう。
 それに小豆坂合戦後に松平広忠は何もしていないわけではありません。明大寺に進出し、残存する織田方砦の一つ、大平砦に対して正田原の今川勢と一緒に圧力をかけていました。これを救うために合歓木松平信孝が出陣して生じたのが耳取縄手合戦です。

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2017年10月 7日 (土)

川戦:安城合戦編Ⅱ 6-9 史料解釈と史実とのかい離をどう埋めるか?

 本稿では第六節で展開された、史実とその解釈についての結論について見てゆきます。
 まず、この論文は結論に至るまでの論理展開が追いにくい構成になっています。なので、素材としては大変興味深いのですが、結論部分に明快さを欠いていると素直に思います。

 菩提心院日覚書状と北条氏康書状が本論文の骨子であり、日覚書状の作成日を天文十六年としたことには素直に納得できました。ただ、氏康書状を再評価するにあたって、本論である「岡崎攻落」とは直接関係ない過去解説の記述についての言及は本来であれば補注で補うか、氏康書状の再評価を目的とした補論として別論文でやった方がよかったのではないかと思います。氏康書状については、安城市史の解説記事を読むことで色々刺激を受けて、ブログに記事を書いたこともありましたから、それなりのこだわりをもって読ませていただきましたが、それが災いしたのか、紹介された書状の記述から立論される段に、菩提心院日覚書状の内容についての印象が薄らいでしまい、それを前提とした論理展開が追い辛かったです。

 また、意図されているのかどうかわかりませんが、状況を説明する言い回しが途中で変わることで検証が終わっていないと思っていたことが、いつの間にか論文中の確定事実となっている部分も散見されました。具体的には氏康書状には岡崎城を押さえた(と読める)部分から、「岡崎城を確保した」と最初に要約したものの、日覚書状には岡崎が降参した(と読める)部分をふまえてか、論文内の要約はいつの間にか「岡崎城を攻落した」に変わっておりました。一段落増やせば事足りるのですが、それがないため論旨の理解に手間取りました。

 論文の第六節は、その仮説が通説として伝えられている史実に対して矛盾はないかという点を検証していますが、矛盾がありそうな記述にぶつかった時にどうも仮説の方を修正しているように見えます。私自身研究者の論文を読み慣れていないので、そのような書き方も実際にはあるのかもしれませんが、理解するのが大変でした。あらましとらえた仮説の修正過程は以下の通りです。

①天文十六年九月上旬に岡崎城が織田の攻撃にさらされたのは確実
②しかし岡崎攻落までは断定できない。
③広忠降参があったとしても、すぐに復帰した。
④復帰は反織田をやめると表明したからというケースもありうる
⑤広忠城主復帰と外交姿勢は一致するとは限らない。
⑥よって広忠は反織田の姿勢を対外的に示していたかは疑問

 広忠方は論文の言う「降伏」後に織田方についた同族の松平忠倫と信孝を討ち取っているので反織田の姿勢を対外的に示してはいないという論文の指摘には大いに違和感があります。
 ①は日覚と氏康書状の読み方次第でひっくり返りうるのですが、ロジックとしてはありです。②は渡河原合戦をはじめとする反証史料があるので、そう判断するのは妥当です。③と④は根拠となる史料の提示はなく、憶測に憶測を重ねています。③と④の想定に入る前に潰しておかねばならない別の可能性を考えると気が遠くなります。⑤と⑥は③と④の想定を受け入れて初めて成立するものですから、この部分のロジックについては脆弱であると指摘せざるを得ません。

 この論文は結論に至る論理構成に難があります。新たに起こした史料の解釈が史実とは不整合なものであったなら、不整合な史実を組み込んで論理展開をするか、そもそもの解釈を疑ってみる必要があるのではないかと思います。

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2017年10月 1日 (日)

川戦:安城合戦編Ⅱ 6-8 天文十六年九月:渡河原合戦の前後

 論文における天文十八年九月二十八日に起こったとされる渡河原合戦についてのコメントを以下に引用します。

〇論文より引用
同時代史料はなく確かなことはわからないが、事実そのようなことがあったとして、これを
先述の脈絡で解すれば、いったん岡崎城を奪われた広忠が隙をついて城に復帰したので
信孝が牽制したという事になる。然し当然ながら、広忠は織田に降参していないという前提で
解することもできる。

 論文における本節の主旨は「天文十六年九月の織田信秀による岡崎城攻落」が既存の歴史記述のセンテンスに矛盾を生じせしめないかを検証するためだったと私は理解しておりましたが、この部分の記述については残念ながら判断基準が甘くなっているようです。
「いったん岡崎城を奪われた広忠が隙をついて城に復帰したので信孝が牽制した」という推論と「広忠は織田に降参していない」という通説を同列に並べることは無理があります。前者の推論には何の根拠も具体的な事実も提示されていないからです。

 それに天文十六年九月以前の設問設定と以降の設問設定では、問いの本質が異なります。以前の事件のタイミングでは、それぞれの事件が「岡崎城攻落」が起こるための要件と矛盾しないことを確認だけすればよいのですが、以降であれば、「岡崎城攻落」が起こした影響にそれぞれの事件が矛盾を生じないことが必要になります。

 その意味で渡河原合戦は松平広忠が岡崎城主であることが前提で伝えらえている事象であり、同じ九月に攻落があったとする仮説には真っ向対立するものです。仮説を立てて発表する時は、既存の通説と矛盾していることはないか、矛盾があるとすればどこがなぜ違っているのかを検証するべきでしょう。

 その記述がないため、残念ながら当該論文が提示した「岡崎城攻落説」はまさに論文の中で否定されていると評価せざるをえません。

〇天文十六年 十 月二十 日   松平広忠、松平忠倫暗殺の功により筧重忠に感状を発給。
 広忠の心が反織田の態度を肯定する立場を示すものとして、論文では挙げられております。過去の拙稿でも何度か引用しているので繰り返しませんが、「岡崎城攻落説」を報じた読売新聞記事を読んでまっさきに頭に浮かんだのが渡河原合戦と忠倫暗殺の件での広忠感状でした。これをどのように覆すのか、未発見の新しい資料にそれが書かれているのかなどと期待をしていたのですが、そのような論旨の展開がなかったことは残念です。

〇天文十六年 十二月  五年   松平広忠、松平清康の十三回忌供養に大樹寺へ寄進。
 この時点で松平広忠が岡崎に健在であったことは間違いないとの論文の言及について、土地の寄進は領主の権限の委譲ですから、権限を持たない者が土地の寄進を行うことは考えにくい。寄進した土地は「御寺近所」と書かれておりますので、大樹寺の近くにある岡崎城で健在であることと考えるのは妥当でしょう。

 上記二件についての論文のコメントは渡河原合戦における松平広忠の岡崎領主としての立場と資格を補強するものです。よって、私としては渡河原合戦・忠倫暗殺感状・大樹寺への寄進状の記述をもって「岡崎城攻落説」は否定されていると判断せざるをえません。

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2017年9月30日 (土)

川戦:安城合戦編Ⅱ 6-7 天文十六年:織田信長の初陣、吉良大浜を焼き討ち

 以下は信長公記の織田信長の初陣について記された記事です。

〇信長公記 (新訂信長公記 桑田忠親校注 新人物往来社刊より引用)
吉法師殿御元服の事

吉法師殿十三の御年、林佐渡守・平手中務・青山与三右衛門・内藤勝介伴申し、古渡の御城にて御元服、織田三郎信長と進められ、御酒宴御祝儀斜めならず。
 翌年、織田三郎信長、御武者始めとして、平手中務丞、其の時の仕立、くれなゐ筋のづきん、はをり、馬よろひ出立ちにて、駿河より人数を入れ置き候三州の内吉良大浜へ御手遣ひ、所々放火候て、其の日は、野陣を懸けさせられ、次の日、那古野に至って御帰陣。

 論文においては、上記記事について織田信長の初陣がこの年にあり、吉良大浜を攻めた一件を「天文十六年九月の織田信秀による岡崎攻め」の一環であると結論付けています。テキストとして使った桑田忠親校注の信長公記の注釈にも「今川氏の属城吉良の大浜」などと書かれてしまっていますが、論文が「吉良大浜は吉良の所領の大浜である」している解釈も妥当であろうと思います。但し、この地は松平家や本願寺が重層的に支配していて決して吉良家が独占して支配しているわけではなかったし、おそらくは吉良家が今川方についていたからというわけでもなかったと私は考えます。
 本稿ではその辺を考察してみたいと思いますが、信長の初陣があった頃の「吉良大浜」の様子を描写した史料があります。天文十三年、つまり信長初陣の三年前の閏十一月頃に連歌師谷宗牧がこの地を訪れたのでした。旅の目的は師宗長に倣っての東国への連歌興行だったのですが、そのついでにと松平広忠に女房奉書を手渡す勅使として役目を負わされた旅でした。この直前には織田信秀にも同様に女房奉書を手渡しております。

〇東国紀行(安城市史5 資料編古代・中世より引用)
(前略)
暮れ果てゝ参河大浜までをしつけたり、称名寺の住持浜までわたらせたまひをり侍る、数年乱後、ことに敵城ほどなくて、毎日足軽など不慮に打ちよせる比なれば、たゝみさへなき不弁さなり、一会の事あまり聊爾にやなどあれど、心ざしのほども見えければ、
  かきつくしうつみ火つくすむかし哉
そのかみ当国にやすらふ事ありけむ、当寺時宗相阿・覚阿などいひて、連歌執心せし人々の物語しつゝ、爐辺懐旧なるべし

(後略)

 宗牧が逗留した大浜の称名寺はかなりひどいありさまでした。毎日敵方の足軽が押し寄せて略奪を図るために畳すらない状況だったらしい。ここでいう近い場所にある敵城とは対岸の知多半島の成岩砦や境川上流の緒川・刈谷の水野氏のことでしょう。ここで開かれた連歌会は聊爾(りょうじ:いいかげん・無作法)なものであったわけですが、住持の相阿が平和な時代には連歌に熱心な人々がいたことを物語して宗牧の心を和ませた旨もかかれています。その連歌に熱心な人の一人が松平広忠であり、そのことは記録にも残っております。恐らくは、それを宗牧に披露したのでしょう。

〇一四七三 連歌懐紙 称名寺文書(愛知県史 資料編10より引用)
天文十二年二月廿六日夜、於称名寺披

神々のなかきうき世を守かな
めくりハひろき園のちよ竹  (松平)広忠
玉をしく見切の月ハ長閑にて  相阿
かすミのひまにはふく友鶴  (酒井)政家
雪はまた残るうら輪の明離れ  弘光
作る田中の道あらハなり    易屋
五月雨に晴ましらるゝ里つたひ 相阿

 発句をついだ脇句は松平広忠が詠みました。この句には「ちよ竹」と前年に生まれた嫡男竹千代の名前が組みこまれております。じつはこの時の会合で称名寺の住持相阿が広忠の嫡男を竹千代と命名したのですね。というか、系図史料に書かれている内容を信じるなら松平家の嫡男は竹千代と名乗るのが慣例になっていて、それに従ったまでとも言えそうなのですが。この称名寺は松平宗家とゆかり深く広忠の祖父にあたる信忠はここで興行された踊念仏のスポンサーになったり、一族家臣に隠居を強要された後にはここを隠居所にしています。なので松平家にはゆかり深い寺院といえます。そうであるがゆえに足軽どもが毎日打ちよせることになったのかもしれません。
 そして水野氏や織田氏にとっては絶対安全であることが判り切っていたが故に、織田信長の初陣の場所として選ばれたとして見てまずは間違いないでしょう。織田信長は自らの手で放火を行い、その日は野営して翌日帰ったというまさしくピクニックのごとき初陣でした。
 但し、平時の大浜は決して宗牧が描いたような寒村ではありません。

〇信長公記 (新訂信長公記 桑田忠親校注 新人物往来社刊より引用)
巻十四 高天神干殺し歴々討死の事
 (前略)
 家康公、未だ壮年に及ばざる以前に、三河国端に土呂、佐座喜、大浜、鷲塚とて、海手へついて然るべき要害、富貴にして人多き港なり。大坂より代坊主入れ置き、門徒繁盛候て、すでに国中過半、門家になるなり。
(後略)

 大浜の地は土呂、佐座喜(佐々木)、鷲塚と並ぶ「海手へついて然るべき要害」、「富貴にして人多き港」であり本願寺教団の門徒衆が支える豊かな町だったことを申し添えておきます。

 本稿の最後に天文十九年十一月十九日付今川義元判物についての論文解釈に異議を申し添えて締めたいと思います。

〇論文より引用
大浜上宮熊野神社を拠点として長田喜八郎に充てた天文十九年十一月十九日付今川義元判物
(愛知県史『中世3』一七六六号)に、「先年尾州・岡崎取合之刻」、長田が広忠に対し、
無沙汰せしめたので所領神田を召し放った云々の文言がある。「先年尾州・岡崎取合之刻」
とはまさしく天文十六年九月にあった織田信秀の岡崎攻めの折をさしていると考えられ、
岡崎攻めの一環として大浜作戦があったことが判明する(以上、村岡「天文年間三河における
吉良一族の動向」『安城市史研究』9 二〇〇八年参照)。

 2008年の「安城市史研究」は読んでおりませんが、論文著者が織田信秀岡崎攻落説を出したのが2015年のことですので、2008年の論文に神田召し放ちについての言及あってもそれが織田信秀の岡崎攻め意図したものではないのでしょう。普通に考えて「先年尾州・岡崎取合之刻」という文言は尾張と岡崎の抗争の事を示していて、決して尾州が岡崎を一方的に攻めた事を意味していません。しかもその岡崎と尾州の抗争は天文九年から天文十八年の長期にわたっております。また、書状を一応確認してみましたが、神田召し放ちになったのがいつの事なのか、時期も明示されていません。よって天文十六年九月の前後に織田信秀」が三河において軍事行動をとったことは同意いたしますが、その意味合いを「岡崎攻めの折を指していると考えられ」と限定していることについては、疑問に感じざるを得ないところです。

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2017年9月24日 (日)

川戦:安城合戦編Ⅱ 6-6 天文十六年九月:田原戸田康光の謀反

 九月五日に今川勢は田原攻めに転じます。愛知県史や戦国遺文今川氏編の史料を見る限りなのですが、ここで今川義元や太原崇孚は感状をだしています。しかし、いずれも最前線で槍働きをした者たちへの感状であって、城を落としたという内容の書状は出ていません。なので田原城攻めはそれ以後も一定期間に及んだとする論文の見解には同意いたします。
 ただ、私はその後に記された今川勢が田原攻撃に集中したため、手薄になった岡崎城が織田勢の攻勢にあって落城したという論理展開には異議があります。以前の稿でも指摘した通り、菩提心院日覚書状の「岡崎ハ弾江かう参之分にて、からゝゝの命にて候」は『岡崎城主松平広忠は、織田信秀への降参者として処遇され、辛うじて命ばかりは許された。』ではなく、『岡崎城主松平広忠は、織田信秀への降参者たちによって命からがらの目にあわされている』と解するべき書状であろうと私は解釈いたします。北条氏康書状での「殊岡崎之城自其国就相押候」も、『岡崎城を確保した(岡崎城を攻落した)』ではなく、『今川方である岡崎城の勢いを防ぎ止めた』くらいにした方がよいでしょう。論文においては、根拠を示さず『岡崎城を確保した』という言葉を『岡崎城を攻落した』と言い換えているように読めるので、あまりうまい書き方になっていないと感じます。

 それはともかく、医王山砦完成の知らせに今川義元は近日出馬の意向を明らかにしたのですから、論文が書いている通り最初から田原が攻撃目標であったわけではないのは明らかでしょう。田原城主の戸田康光がこの段階で今川家に対して主体的に反旗を翻したのは間違いないと思われます。しかし、彼は結果的にあっという間に押さえ込まれています。九月五日の戦闘で田原城が陥落しなかったとしても、数日中には戸田康光、堯光親子は自害に追い込まれたことは間違いありません。ではなぜ、そんな勝ち目のない戦いに戸田康光は踏み込んでいったのかがここで考えるべきことでしょう。通説では戸田康光は松平広忠が嫡男竹千代が今川義元の元に人質として送られる道中にこれを拉致して織田信秀に売り渡したという話になっていますが、これまた今川家に喧嘩を売る所業でしかないのです。織田信秀の岡崎攻落を支援するためだとすれば、人が良すぎると言わざるを得ません。

 以前に「川戦:崩壊編⑤幼君擁立再び」という記事にて、戸田康光は自らの娘を広忠の後妻に送り込んで松平家乗っ取りのプランを画策はしたが、今川の今橋攻略でそれは凍結せざるを得なくなった。実際に竹千代を拉致したのは康光以外の別の人間であるという考えを示しました。しかし、もし天文十六年八月上旬に小豆坂合戦があってそれが織田方の勝利に終わっていたとすれば、別の可能性も見えてきます。すなわち、戸田康光は自爆するつもりでも、自分の策を誰か別の者によって進められたのでもなく、織田の勝利に今橋奪回のチャンスを見出したのではないでしょうか。すなわち、戸田康光は本当に今川軍に勝つつもりで挙兵したという可能性です。

 八月上旬の小豆坂合戦とよく似た展開の合戦を私たちは知っています。それは桶狭間合戦です。今川方に寝返った鳴海城に対して織田信長は丸根・鷲津の砦を付け城とし、後詰めに現れた今川義元の本体を見事討ち取った合戦です。今川方の部将であった松平元康(後の徳川家康)はその結果、織田信長と同盟を結び、三河征服に乗り出すことになります。また、これの逆パターンとして長篠合戦というものもあります。こちらは武田軍に包囲された長篠城の救援に訪れた織田・徳川軍と武田勝頼が後詰め決戦を挑んだ戦いでした。織田信秀はそれらと同じように岡崎城を囲んで今川軍主力をつり出そうとしたのではないでしょうか。そして正田原につり出された今川隊を織田軍主力で一気に叩き潰しました。当然今川軍主力を叩き潰すだけが織田信秀の目的ではなく、周辺の国人衆にその勝利を喧伝することによって、三河国全域に反今川の潮流を作ることがその目的だったと考えられます。
 真っ先にその誘いに乗ったのが、今川義元から三河国山中に新知行を与えられた藤河久兵衛こと奥平貞友でした。彼は今川義元から山中知行の安堵の確約を得ていたにもかかわらず、今川に対して謀反を企てました。彼は医王山砦北東部にある額田郡の日近城が根拠地であり、恐らくは山中砦を彼の手で確保して鎌倉街道を東下する織田軍を通過させるのが目的だったと思われます。もし山中砦が織田軍に突破されると今橋までは一本道です。

 そして、織田軍が長駆東三河にまで到達できるなら、田原の戸田康光にとって今川に奪われた今橋を回復するための願ってもないチャンスとなります。恐らく、この時点で正田原の今川陣は織田により打ち払われ、山中では藤河久兵衛(奥平貞友)が織田方について三河山地内の鎌倉街道を押さえにかかり、田原の戸田氏が今橋を脅かしたことでしょう。三河西郡の鵜殿氏にとっては、西隣の吉良氏を除いてすべて織田側に塗り替えられたように感ぜられたに違いありません。まさに三河一国が織田信秀によって平均された状況であったと言えます。鵜殿氏の支配領域は南を三河湾に面し、領地の周囲を山で区切られた鎌倉のような地勢です。とは言え大兵を抱えておけるような規模もなく、北から攻められればひとたまりもありません。日覚が心許なく思うのもむべなるところです。

 ところがこの戦略は思いがけないところで破たんします。すなわち、今川軍の主力は医王山砦と今橋に健在だったのです。天文十六年八月の小豆坂合戦で織田信秀が打倒した今川勢は、あくまで先遣隊であって主力ではなかったようです。藤河久兵衛は今川軍に反旗を翻したものの、天野景泰や松井宗信らが田原攻めの援軍として田原攻撃に動員されるのを止めることは出来ませんでした。それどころか山中に知行を持っていながら織田軍を医王山に手引きすることもかなわなかったのです。かくて田原は孤立し、逆に今橋の今川軍主力に攻められるにいたります。
 作戦の失敗を悟った藤河久兵衛は、後始末を兄に任せて潜伏します。藤河久兵衛の兄である奥平定勝は吉田(今橋)に急行して息子の仙千代を人質にすることで赦免と山中新知行の安堵を勝ち取りました。

 目論見通りの勝利こそ手に出来なかった織田信秀ですが、西三河における状況は何も変わっておりません。変わらず松平広忠は岡崎に押し込められ救援を求めている状況です。むしろ今橋を取ることで従えていた東三河国人衆への今川家の統制にヒビを入れることが出来たとも言えるのです。このまま岡崎城を締め上げていけば、いずれ今川軍は再び西三河に後詰めの兵を送らざるを得なくなります。なので、岡崎城を降参させることは織田信秀の本意ではなく、逆にデメリットであるとも言えるのです。

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2017年9月23日 (土)

川戦:安城合戦編Ⅱ 6-5 ③某年八月上旬:第一次小豆坂合戦

 ここで某年八月上旬の『第一次小豆坂合戦』がどのような経緯ですすんだのかみてみます。

〇信長公記 あづき坂合戦の事 新人物往来社 新訂信長公記より引用(拙稿にて下線部付記)
 八月上旬、駿河衆、三川の国正田原へ取り出だし、七段に人数を備へ候。
其の折節、三川の内、あん城と云ふ城、織田傭後守かゝへられ侯ひき。
駿河の由原先懸けにて、あづき坂へ人数を出だし侯。則ち備後守あん城より
矢はぎへ懸け出で、あづき坂にて傭後殿御舎弟衆与二郎殿・孫三郎殿・
四郎次郎殿を初めとして、既に一戦に取り結び相戦ふ。其の時よき働きせし衆、
織田備後守・織田与二郎殿・織田孫三郎殿・織田四郎次郎殿、織田造酒丞殿、
是れは鎗きず被られ、内藤勝介、是れは、よき武者討ちとり高名。
那古野弥五郎、清洲衆にて侯、討死侯なり。下方左近・佐々隼人正・佐々孫介・
中野又兵衛・赤川彦右衛門・神戸市左衛門・永田次郎右衛門・山口左馬助、
三度四度かゝり合ひゝゝ、折しきて、各手柄と云ふ事限りなし。
前後きびしき様体是れなり。爰にて那古野弥五郎が頸は由原討ち取るなり。
是れより駿河衆人数打ち納れ侯なり。

 信長公記では今川軍はいきなり正田原(生田原)まで進出してきたことになっています。中世の東三河から西三河へ向かうルートは三河山地の山中の手前で分岐があってそこを北に行くと乙川にでて、そこを渡ると織田方の松平信孝が建てた大平砦があり、そこから乙川北岸沿いにまっすぐ進めば岡崎にたどり着くことが出来ます。もう一つが山中から藤川に向かって進むルートです。ここにも同じく織田方の作岡砦があり、そこを超えると正田原(生田原)に達します。そこから乙川南岸沿いのルートと小豆坂へのルートに分岐するわけですね。今川方が医王山(山中)砦を作る前に織田方が建てた作岡砦は、東方から西進してくる今川勢の侵入を阻む位置にあります。

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 今川軍は正田原(生田原)に「取り出だし」とあるので、ここに砦を築いてしまっているようです。仮説に従い天文十六年の出来事とみるとこれは理にかなった行動だと思います。まず、行軍を楽に進めるには整備された街道沿いがベターであることは言うまでもありません。今川軍は鎌倉街道沿いに進軍したとみて差し支えないでしょう。その途上にある作岡砦は以降も言及がないので突破されたものと思われます。さらに進んで正田原に砦を築くわけですが、そこから乙川沿いに明大寺へ向かおうとした場合、丘陵と川に挟まれた切所が途中に数か所あり、大軍の移動に向きません。逆に正田原の砦に少数の兵を置いて街道の出口をふさいでしまえば、北方から押し出してくる敵勢への備えとしては十分です。正田原砦から小豆坂の丘陵地を超えれば、上和田まで平野が開けていますので、そちらに進もうとした所を咎めたのが安城にいた織田勢ということでしょう。

 天文十一年説ではその織田勢は上和田の大久保や六名の阿部などの領地を突破しないと小豆坂へ到達できません。しかし、天文十三年に阿部大蔵は自らの手勢を率いて尾張表に出陣したのですから、阿部大蔵は織田勢に対する戦力を温存できたということになります。この説ではこの間における三河国人衆の動向に対する手当は出来ていません。
 天文十六年に設定すると和田郷は佐々木松平忠倫が押さえており、大久保一族は妻子を針崎の勝曼寺に避難させていました。なので織田軍が小豆坂に達するための障害はありません。信長公記では正田原(生田原)まで進出してきた今川勢を安城の織田信秀勢が迎え撃ち小豆坂で合戦。経過というほどのものはなく、織田方の部将の功名が一方的に述べられています。今川方の戦果として二箇所、那古野弥五郎の戦死を伝えていますが、これは収集した複数の資料を校合せずに切り張りした結果と思われます。信長公記の書きぶりから、先に高地を押さえた織田信秀勢がその地の利を生かし、攻め下る勢いで今川軍を圧倒したという所でしょうか。
 だとすれば信長公記の小豆坂合戦は天野景泰が医王山砦を建てた天文十六年七月八日以降にあったという推論も成り立つでしょう。具体的には天文十六年八月上旬であると言って差し支えないと思います。

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 ここで着目すべきは「前後きびしき様体是れなり」という文言です。これは単純に八月上旬の戦闘が激戦であったという解釈でよいとも思えません。なぜなら、この段で述べられている織田方の被害は織田造酒丞の槍傷と那古野弥五郎の討死のみです。にもかかわらず、結果は「是れより駿河衆人数打ち納れ侯なり」と今川方の戦果が示されていて単純に八月上旬の戦闘の結果のみが記されているわけではありません。八月上旬の戦闘の後に起こった織田方にとっての厳しい情勢の変化があったため、今川軍の三河常駐という事態が生じたとは解せないでしょうか。すなわち、信長公記内の「あづき坂合戦の事」の記事は単純に八月上旬のことを言っているのではなく、八月上旬の戦闘から今川勢三河常駐までの事態の推移を「前後きびしき様体」と言っているのですね。

 天文十六年八月上旬の小豆坂における戦闘で織田軍が勝利したとすれば、八月二十五日付で今川義元が山中(医王山)に新たな知行を与えて医王山砦の守備を担わせた作手仙千代、藤河久兵衛に二度目の所領安堵状を出し、翌九月二十二日に京を経由して越中国の菩提心院で「駿河衆敗軍」を知った陣門法華宗の長老日覚が陣門法華宗徒である鵜殿氏の身を案じて弟子を三河に送ることをした流れもすっきり理解することが出来ます。そしておそらく二度目の安堵状の甲斐なく藤河久兵衛は織田方に寝返り、さらに大物の蜂起を促す結果につながりました。
 次稿以降からは、論文に並行して、本稿で立てた仮説に基づく検証も進めてゆきたいと思います。
 

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2017年9月17日 (日)

川戦:安城合戦編Ⅱ 6-5 ②某年八月上旬:第一次小豆坂合戦

 本稿は私が立てた仮説を述べます。

 本稿で言及する「第一次小豆坂合戦」については論文での言及はありません。それももっともなことで、第一次小豆坂合戦は通説においては天文十一年に起こった事と言われているからです。

ここに一つの史料があります。1560年(永禄三年)十二月二日に松井宗恒宛に今川氏真が発給した宗恒の父である宗信に対する軍忠状です。松井宗信は桶狭間合戦で戦死しているのですが、それまでの戦功がこの書状には書き連ねられています。そしてその中に小豆坂合戦についての言及があります。

〇今川氏真判物写(戦国遺文 今川氏編第二巻より引用)(拙稿にて下線部付記)
父左衛門佐宗信及度々抽軍忠之事

一東取合之刻、於当国興国寺口今澤、自身砕手、親類・与力・被官数多討死、無比類動之事
一参州入国以来、於田原城際、味方雖令敗軍相支、敵城内江押籠、随分之者四人討捕之事
松平蔵人・織田備後令同意、大平・作岡・和田彼三城就取立之、醫王山堅固爾相拘、其以後小豆坂、駿遠三人数及一戦相退之故、敵慕之処、宗信数度相返条、比類無双之事

(中略)

弥守此旨、可専戦功之状如件
   永禄三庚申年
    十二月二日    (今川)氏真(花押影)
       松井 八郎(宗恒)殿

 我流ですが、下線部分を読み下すと以下のような感じになります。

(読み下し)
一、松平蔵人、織田備後のいいつけに同意し、大平・作岡・和田、彼の三城これを砦たてるにつき、医王山堅固にあいかかわり、それ以後小豆坂にて駿・遠・三の人数一戦に及び相退く故、敵この処に慕い、宗信数度あい返すの条、比類無双の事

 意味合いですが、松平蔵人(合歓木松平信孝)が大平・作岡・和田に砦を作ったことに対し、松井宗信は医王山の今川方の砦を堅固に守っていた。その後小豆坂合戦で駿河・遠江・三河三国の軍勢が一戦に及んで退却した折に、宗信は何度もこれを追い返したのは比類なき並ぶこと無き事である、というところでしょうか。
 ここで言われている小豆坂合戦は天文十七年三月十九日の第二次小豆坂合戦です。実は松井宗信の第二次小豆坂合戦における活躍は今川義元と朝比奈泰能の感状が残っていて、先陣に参加したことと殿軍で活躍したことが証されております。この永禄三年の軍忠状によって、医王山砦が松平蔵人信孝の手で大平・作岡・和田に砦を築かれてしまった対策であることが判ります。

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 ところで、三河物語が語るこの合戦の経過には一つ違和感ある記述が存在するのですね。

〇三河物語 第一上 (安城市史5資料編より引用)(拙稿にて下線部付記)
 然間、弾正之中ハ駿河衆之出ルヲ聞て、清須之城ヲ立て、翌日は笠寺・成見(鳴海)に陳(陣)取給ひて、明レバ笠寺ヲ打立給ひて、案祥(安城)に付せ給ひて、其寄八萩(矢作)河之下之瀬ヲ超テ、上和田取出にウツラせ給ひて、明ケレバ馬頭之原え押出シて、合陳之ヲ取ントテ、上和田ヲ見明(未明)に押出ス、駿河衆モ上和田之取出え之ハタラキトテ、是モ藤河ヲ見明(未明)に押出ス、藤河ト上和田之間、一理有、然処に、山道の事ナレバ、互ニ見不出シテ押ケルガ、小豆坂え駿河衆アガリケレバ、小(織)田三郎五郎殿ハ先手にて、小豆坂へアガラントスル処にて、鼻合ヲシテ互に洞天(動転)シケリ、(後略)

〇三河物語 小豆坂の合戦(教育社 原本現代語訳 三河物語(上)より引用)(拙稿にて下線部付記)
(前略)しかしたがいに気をとりなおし、旗をたてて、すぐに合戦がはじまる。しばらく戦っていたが、三郎五郎殿が破れて盗木まで退却する。盗木には織田弾正之忠の本陣があり、盛り返して小豆坂の下まで攻めこんだが、そこからまた押しかえされた。この時の合戦は、五分五分だとはいっても、弾正之忠は二度追われ、人も多く殺されたので、駿河衆の勝ちといわれた。その後、駿河衆は藤河へ引きあげ、弾正之忠は上和田に引きあげ、それから安祥へ引きあげる。安祥に弟の三郎五郎殿を置き、弾正之忠は清須へ引きあげられた。三河で小豆坂の合戦と呼び伝えられているのはこのことだ。

 前半部分は安城市史からの引用ですが、三河物語の原本は漢字遣いが独特で意味をとるには一々注釈を加えなければならず、読みづらいので、後半部分は現代語訳本からの引用です。気になるのは天文十六年七月に立てられた医王山砦が鎌倉街道沿いにある和田・大平・作岡砦に対抗するための物であったということです。
 三河物語には上記の合戦が起こった年次は記されていないのですが、これを天文十七年三月十九日の合戦と比定するなら、今川軍は作岡砦からの妨害を受けることなく、医王山砦から易々と藤川経由で小豆坂に入ったことになります。松平信孝が作った砦の配置は藤川の先、鎌倉街道沿いの三河山地の出口に作岡砦、そこから岡崎に向かって乙川を超えた所に大平砦、乙川を超えずに生田原・小豆坂経由で西に進んで矢作川東岸にあるのが上和田砦でした。藤川から小豆坂に向かうためには作岡砦を通過しなければなりません。そして作岡砦に気づかれないまま上和田砦を目指し、小豆坂に至ってそこで同じように西進する織田軍と遭遇したことになります。
 三河物語のような展開にするためには天文十六年七月八日から天文十七年三月十九日の間に少なくとも作岡砦は無効化されている必要があるわけです。

〇一六二一 今川義元書状(愛知県史 資料編10より引用)
去比医王山取立候、普請早出来、各馳走之段注進、誠以
悦然候、近年者東西陣労打続候、勲功之至極、仍三州此
刻可達本意候、近日可出馬候間、其心得肝要候、謹言
 (天文十六年)        (今川)
  七月八日           義元(花押)
    天野安芸守殿

 七月八日の時点で天野景泰は今川義元の出馬が近いことを聞かされております。三河について『本意を達する』ため、天野景泰に求められた『肝要』なこととは、今川義元を三河山地の医王山砦に迎え入れることではありません。必要なことは山中砦の兵を西進させて平野部に展開することであったはずなのです。

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2017年9月16日 (土)

6-5 ①天文十六年七月:医王山砦落成

 今川軍が今橋を攻めた翌年、今川義元は天野景泰に命じて医王山砦を建てさせました。三河の国の中央部は北部の美濃・信濃国境から南部の臨海部までを三河山地と呼ばれる山岳地帯が占めています。そこを南東から北西にかけて鎌倉街道が貫いています。現在概ね国道一号線が通っているあたりです。そこに並行して東名高速道路も走っているわけですが、現代においても道の両側は山岳地帯が広がっていて整備された街道以外に軍勢を通す道は考えにくい地勢です。三河山地を貫く鎌倉街道の西三河側にやや寄ったあたりに作られたのが医王山砦でした。鎌倉街道は今橋と岡崎(厳密にいうと松平広忠の父清康が岡崎の城を乙川北岸に移したため、街道に直接繋がっているわけではありません)をダイレクトに結んでおります。その中継点の難所である山岳地帯の要所に天野景泰は砦を築いたのでした。
 田中芳樹氏の小説「銀河英雄伝説」になぞらえるなら、イゼルローン回廊の中に作られたイゼルローン要塞のようなものです。

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 そのイゼルローン要塞ならぬ医王山砦の落成を聞いた今川義元は大変喜んで天野景泰宛に自ら三河に出陣する旨を伝えております。しかし、今川義元の出陣は実現しませんでした。不測の事態が生じたのです。論文の論考においては、その不測の事態を九月の織田信秀による岡崎攻撃としていますが、それよりも一か月早い八月に何かが起こっております。
 それを指し示す史料を以下に提示します。

〇一六二七 今川義元判物写 松平奥平家古文書写(愛知県史資料編10より引用)(拙稿にて下線部付記)
参河国山中新知行之事
右、医王山取出割(刻カ)、就可抽忠節、
以先判充行之上、当国東西鉾楯雖有時宜変化之儀、
彼地之事、永不可有相違也、
弥可専勲功状如件、

 天文十六             
  八月廿五日            今川義元也 治部大輔 判
    作手仙千代殿(奥平定能)
    藤河久兵衛殿(奥平貞友)

 これは作手(亀山)の奥平氏の当主の息子仙千代(後の奥平定能)と仙千代の叔父にあたる藤河久兵衛(奥平貞友)が今川義元から山中、つまり医王山砦のある場所を知行地として充てがわれたことが書かれた書状です。いつもながらの素人解釈で恐縮ですが、以下に読み下しを記します。

(読み下し)
参河国山中新知行の事
右、医王山砦の時、忠節抜きんでるべきに就き、
先の判を以ってこれを充てがう上に、
当国は東西鉾盾、時宜の変化の儀有りと雖も、
彼の地の事、永く相違あるべからざるなり。
いよいよ勲功専らとすべき状、件の如し

 WikiPediaの奥平定能の項には以下のような説明が付されています

〇奥平定能の項 Wikipediaより引用
定能の史料上の初見は天文16年(1547年)8月25日付今川義元判物写で、
幼名仙千代を称していた定能は叔父・藤河久兵衛尉とともに医王山砦を
攻略した恩賞として、山中に知行を与えられている。

 おそらく上記書状は天文十六年七月八日付天野景泰宛今川義元書状と対で解釈すべきものでしょう。七月時点で今川方の砦として建設されていますので、これを攻略する必然性はありません。もっとも、天野景泰らが医王山砦を奥平氏とともに敵方から奪い、その時の恩賞である可能性はないわけではありません。いずれにせよ、医王山砦の守備兵力として奥平仙千代と貞友が動員されているのは事実であり、この書状はその役務の対価として山中に新知行が宛がわれたとみるべき書状です。しかし、この史料は以下の確認すべきポイントがあります。

>先の判を以ってこれを充てがう
>時宜の変化の儀有りと雖も、彼の地の事、永く相違あるべからざるなり。

 この二つの文言は天文十六年八月二十七日付書状以前に山中の新知行は作手仙千代と藤河久兵衛に宛がわれていて、当該書状で何があっても今川義元は二人のこの土地の知行権を保証する旨記しているわけです。いわばこの書状は一度発給された安堵状の内容をさらに保証するものなのですね。

 この書状は先に出した恩賞の再確認ということになります。ではなぜ、そんなものが必要なのでしょうか。答えは『東西鉾盾』、『時宜変化之儀』が現実に出来したからでした。

 その結果何が起きているかは次の書状がしめしています。

〇 一六五四 今川義元判物写(愛知県史資料編10より引用)(拙稿にて下線部付記)
去年息子千々代・同盟親族等依忠節、新地山中郷充行分
(但此内百五十貫文、竹尾平左衛門割分除之)、本知行
幷遠江国高部給分、弟日近久兵衛尉知行分、同去年配当
形之原文等の事
右、依今度久兵衛尉謀反現形、最前ニ馳来于吉田、子細
申分、則実子千々代為人質出置、
抽忠節上、抛先非如
前々処充行之也、弥可専忠信之状、仍如件
  天文十七戊申年正月二十六日
               (今川義元)
          (定勝)    治部大輔 判
         奥平監物丞殿

 今川義元の新知行宛行と安堵にもかかわらず藤河久兵衛(奥平貞友)が今川に謀反を働いた結果、作手仙千代(奥平定能)は人質として吉田に送られることになりました。仙千代の父、奥平監物(定勝)が吉田(今橋)に赴いて詫びを入れた結果、息子の命と新知行は安堵されたということです。では、天文十六年八月二十七日以前に起こった『東西鉾盾』、『時宜変化之儀』とは何なのかについて、次稿で考察を進めてまいります。

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