2015年7月19日 (日)

川戦:安城合戦編⑲補遺Ⅳ 今年発表された中京大教授の新説

 本当は前稿にて補遺を終えるつもりだったのですが、2015年3月15日発行の『中京大学文学会論叢』第一号(2015~)に村岡教授の論文「織田信秀岡崎攻落考証」が掲載されておりました。昨年の読売新聞は『織田信長の父・信秀が三河の岡崎を支配していた 中京大教授が新説』ととても興味深い学説が唱えられたと謳っていたものの、限られた新聞の紙幅では何を論拠にそのようなことが言えるのかが今ひとつわからず、その論拠となった『菩提心院日覚書状』が掲載されている昨年刊行された愛知県史資料編14には当該史料が掲載されてはいたものの、肝心の氏の論文は掲載されておらず、欲求不満が募るばかりでした。
 私としてはその論文を読みたくて一連の補遺を書いていたわけですが、国家鮟鱇ブログ7月14日の記事「菩提心院日覚書状について(その3)」http://d.hatena.ne.jp/tonmanaangler/20150714/1436848779 にて、論文がネットで読めるということが書かれておりました。早速読ませていただきました。ご紹介いただいた国家鮟鱇ブログの鮟鱇様にはいくら感謝してもし足りません。

 一読した感想は、新たに学べたこと、認識を改めなければならない事を示唆されたことは確かにあったものの、なおも首をひねらざるを得ないことや論理の飛躍があるように思えて納得のゆかないことも含まれていました。とは言え当該論文を読んで、拙ブログ『川の戦国史・安城合戦編』の一連の記事にて私自身が呈してきた疑問についての氏の見解を、論文を読むことで照らし合わせることができました。論文の内容に対する批評についてはすでに鮟鱇様のブログで展開されており、いくつか首肯できる点もありますが、まずはこの論文に巡り合えたことに感謝をしたいと思います。

 本稿においては村岡教授の論文の要旨を紹介いたします。様々な史料が駆使された長い論文ですので、場当たり的に指摘を入れても散漫な物になりそうです。なので、まずは論文の骨格を把握するところから始めたいと思います。その上で当該論文に対して感じた一番大事に思える点をいくつか指摘することと致します。

※※※ これより「織田信秀岡崎攻落考証」要旨抜粋 ※※※
●はじめに
 当該論文の主旨。『愛知県史資料編14中世・織豊』で取り上げた『菩提心院日覚書状』とのかかわり及び、当該論文にて『菩提心院日覚書状』の年代を天文十六年とした根拠と氏が考える当該期三河の政治状況への考察をおこなうことを謳う。

●一 日覚書状の年代比定
 1979年刊行「三条市史資料編第二巻古代中世編」をはじめとする刊本に『菩提心院日覚書状』が掲載されてきた歴史の紹介並びに、当初は1630年(永禄三年・桶狭間合戦があった年)の史料と考えられていたことを紹介の上で考証。
 ・日覚書状に1547年(天文十六年)になされた延暦寺と洛中法華の和睦と読める記載有り。
  (「京都ハ山門と和談とやらんの様に成候而~」
 ・よって、当該書状の記載年代は1547年(天文十六年)九月二十二日と比定できる。

●二 織田信秀の三河侵攻情報の信憑性
 拙稿でも紹介した「菩提心院日覚書状」の三河関連情報についての氏による抄訳。および、日覚の三河地方とのコネクションを紹介。当該文書の記事は基本的に伝聞情報ではあるが、史実を反映している可能性をくむべき素材であると指摘。
 ・日覚の尾張コネクション(美濃在国の「孫右」情報、尾張国山田郡稲生妙本寺情報)
 ・日覚は尾張国守山生まれ、稲生妙本寺で修行「長久山歴代譜」
 ・日覚は尾張・三河の政治情勢について甚だしくは外さない程度の土地勘と判断力が備わっていた。

●三 織田信秀の岡崎攻落を伝える別文書
 日覚書状の肝は氏の論文タイトルにもなった「織田信秀岡崎攻落」であることと、それを伝える別文書、天文十七年三月十一日付織田信秀充て北条氏康書状写の紹介。

 ・織田信秀の岡崎攻落を伝える別文書、天文十七年三月十一日付織田信秀充て北条氏康書状写の紹介
 ・氏康書状(長文版)の前半部読み下し。
 ・他刊本での字句解釈とは異なる自説の主張
  - 「無相談」は「被相談」であり、相談せられと解するべきである。
  - 「安城者要害則時ニ被破破之由候」の「者」を「之カ?」と付されている解釈への異議
  - 「安城の要害を信秀が破った」ではなく、「安城は織田の要害だから当地の敵に勝利した」と解釈。

●四 北条氏康書状の史料批判
 安城市史で氏自身が立てた氏康書状長文版は短文版からの後代改作説を見直したうえで、氏康書状長文版が天文十六年の出来事に織田信秀が言及した同時代史料と見なし得うることを提起。

●五 北条氏康書状が述べる三河情勢の検討
 氏康書状(長文版)の氏による三河情勢の整理と平野明夫氏による安城陥落天文十六年説への批判の上で、岡崎攻略は織田・今川の合意によるものであったとする。

 ・氏康書状(長文版)の氏による三河情勢の整理。
  - 去年に織田信秀は三河でいくさを起こし、安城の敵を破って岡崎城を確保した。
  - これは織田と今川での相談の上でのことである。
 ・平野明夫氏による安城陥落天文十六年説への批判
  - 当該文書は天文九年六月六日の織田軍による安城攻撃の事実を否定する根拠にはなりえない。
  - 断片的な同時代史料の状況証拠・江戸時代成立諸史料を総合し、天文十二年迄の安城攻略はほぼ確実。
 ・岡崎城の確保は日覚書状で裏付けられる。
 ・織田・今川の相談とは、今川が今橋を取った事の引き換えに、岡崎を織田が取ることではなかったか?

●六 松平広忠降参情報の信憑性
 天文十六年九月上旬に岡崎城が織田の攻撃にさらされたことは間違いない事実として確定。しかし、織田が岡崎を攻落したとまで断定することはできず、かりに広忠が降参したとしても、信秀が三河から退去してほどなく岡崎城主としての地位を回復したとみる。但し、岡崎城主としての地位を回復することと、外に向かって反織田の旗幟を鮮明にすることとが、この時点で必ず連動するとは限らない。

 ・天文十六年七月八日以前に今川義元は医王山に砦を普請。広忠救援のための物か。
 ・天文十六年九月五日、今川軍が田原へ転進。この攻撃は今川にとって想定外の物だったと考えられる。
 ・それに連動して吉法師の大浜攻撃、そして岡崎奪取を行ったと想定できる。
 ・天文十六年九月二十八日渡河原合戦は、それまでに広忠岡崎奪還又は降参しなかったかいずれか。
 ・天文十六年十月二十日、筧重忠への感状と十二月五日の大樹寺への田畑寄進で広忠岡崎に健在。

●七 小豆坂の戦いにおける松平広忠の動向
 「三河物語」、「松平記」の記述より天文十七年三月の小豆坂合戦において、松平広忠は今川方としてまったく機能しておらず、この戦いで広忠が今川方に属したとする通説には大いなる疑いがあるとする。

●八 松平広忠の病死
 これまでの研究では、織田の陰謀として片目八弥による広忠殺害を説くものが多いが、それはむしろ後代の付会説に引きずられた論というべき。広忠病没説に疑問を差し挟む理由はないとする。

●おわりに ―人質竹千代の真相を推理しつつ―
 竹千代拉致を行ったとされる田原戸田氏については、それを行った事自体が自爆であり実際の動機は不明で謎が多い。そうした通説と比して、天文十六年九月、織田信秀が松平広忠を「からゝゝの命」に追い込み、竹千代を広忠から差し出させたとみるのは、確証はないにしても、状況としてはるかに合理的で無理のない想定といえる。
※※※ 「織田信秀岡崎攻落考証」要旨抜粋ここまで ※※※

 論文中で村岡教授は史料を縦横に駆使しておりますが、それを書きだすゆとりがありませんでした。
 あと簡略ですが、論旨の流れを踏まえた上で改めて考えてみたことを書きだします。

 まず気になったことは村岡説においては日覚書状の三河情報において最初に言及している「駿河衆敗軍」の内容について何らの言及をされていないことです。天文十六年九月に織田信秀方が攻撃したと言及されているのは、岡崎であり、吉良大浜であり(これは日覚書状には言及されていません)、戸田(これも日覚書状には言及されていません)なのですが、松平広忠ははたして「駿河衆」と呼べるでしょうか? 大浜の領主は吉良氏であり、太原崇孚率いる今川軍と正面で当たったのは戸田氏くらいなものです。氏康書状が裏打ちする「岡崎之城相押候」が今川方すなわち駿河衆の不利に働き敗軍と表現するにいたったというのは少し強引な気がします。

 日覚書状の書き方も気になりますね。現代人と中世人では手紙の書き方が違うのかもしれませんが、最初は鵜殿の外交姿勢に言及していて、鵜殿視点なのですが、その直後に弾正忠が鵜殿の事を「一段ノ曲なく思われたる」と突然織田信秀の認識を披露しています。村岡説では楞厳坊はずっと京都にいたとのことですが、そこで信秀またはその従者に鵜殿の評判を聞いたのでしょうか。信秀やその従者たちは楞厳坊が鵜殿と所縁の深い陣門流の僧侶と知っていて、相対する前に鵜殿が行っている二股外交についての認識を確認していたのでしょうか。それよりも、鵜殿にいて鵜殿から「駿河衆敗軍」の結果、信秀から袖にされたと楞厳坊が聞いたと取った方が話の流れからはしっくりきます。村岡説のように解釈するには、一旦「弾は…(中略)…其翌日ニ上京候、其便宜候て」まで読んだ後で遡って意味を取りなおさなければそのような解釈はできないと思います。

 また、やはり筧重忠への感状です。安城にまだ織田がいる段階で、織田方である松平忠倫を暗殺した勲功の代償として金銭ばかりではなく「在所者別ニ日記出置候成」と土地の安堵までおこなっているのですから、
 渡河原合戦についても発生日時については、氏は特に疑いを差し挟んでおりませんが、岡崎を回復した広忠が自分の味方の松平信孝と戦うのは問題ないものなのでしょうか? そうした状況を果たして岡崎城を押さえたと(氏康書状での言及)呼びうるものなのでしょうか?
 
 ともあれ、村岡説の肝は天文十七年三月十一日付北条氏康書状写(長文版)を使って氏が過去に提起された解釈である「被相談」「安城者要害」「殊岡崎之城自其国就相押候」の解釈がどのようにとられるかによるのではないでしょうか。「殊岡崎之城自其国就相押候」は私自身の素人解釈に過ぎませんが、「被相談」の解釈を取っている刊本は今の所「安城市史」と横山住雄氏「織田信長の系譜」くらいで、他書は概ね「無相談」です。「安城者要害」の「者」は安城市史、小田原市史、戦国遺文いずれも「者」とはしてますが、すべてに「之カ?」との注釈もついております。安城は(=者)要害だから弾正忠が(敵を)破ったとするか、安城の(=之)要害を弾正忠が破ったとするかの解釈の分かれどころです。私自身古証文を確認しましたが、どの肉筆本も素人目にはどちらともとれる微妙な表記です。

 機会を見てより理解を深めてゆきたいと思いますが、まずはその検討の土台が示されたことについて、大変うれしくおもいます。これを機に安城合戦をめぐる議論にひとつの弾みがつくことを期待いたします。

(付記)
氏の以下の見解について、気になったことがあったので少し調べてみました。

>「被」「無」の草書体は似ることがある。この文書中の他のくだりで「被」は何度も用いられ、
>「無」も二度用いられている。『古証文』原本にあたってそれらと比較するに、
>『古証文』筆記者が当該箇所を「被」と書いていることは明らかである。

 上記は論文の最後に書かれた氏康書状についての注釈で、氏康書状は私も当ブログで取り上げてきた文書です。そして、ここで言っている『古証文』とは、氏康書状を含む多数の書状が収められた文書集です。当該文書集について図書館で国書総目録(岩波書店刊)を調べたところ、『古証文(こしょうもん)』は写本であり蔵されているのは国立公文書館にある内閣文庫の七巻四冊本一冊と六巻六冊本二冊のみです。これらについては私自身確認しましたが、素人目には「被」と断定できる根拠は残念ながら見出せませんでした。
 氏は「『古証文』原本にあたって」と仰せになっておられますが、原本というからには編纂者や作成年代も明らかになっているものなのか、また、三種の写本の作成経緯も明らかになっているのか、気になることがたくさん出てきております。
 なにぶん国書総目録は古い本であって遺漏やその後の研究で発掘された史料もあったりするかもしれません。日本古典籍総合目録データベースでも調べましたが、上記に挙げた三つの写本に加えて内閣文庫本を写した四冊本が東大史料編纂所があるだけでした。(以下サイトから検索画面に入って「古証文」で検索すれば、
統一書名:古証文 ( こしょうもん ), X, 0でたどり着けます。)
 http://base1.nijl.ac.jp/~tkoten/about.html

 「被相談」であるか「無相談」であるかの議論を深めるためには、氏があたったとされる「原本」の来歴をまずは明らかにする必要があるのではないかと愚考いたします。
 研究が進んでこの時代の実相がさらに明らかになることを期待いたします。

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2015年7月12日 (日)

川戦:安城合戦編⑱補遺Ⅲ 記事の感想

 とりあえず、ここまで書いてきた時点での感想は「歴史考察のネタとしては興味深いが、新説と呼ぶには論拠が薄すぎる」と言った感じです。日覚の史料に着目して新説を提起したことによって歴史議論が活発になされるようになるのならば、それについては大きな意義はあると私も思います。しかし、現時点で私自身が把握している情報だけでは正直何とでも言えるので、まさしく『信秀がどの程度三河を支配していたかについては慎重な議論が必要となる』と記事中で東大史料編纂所の本郷教授が仰せになった通りかと思います。

 具体的には史料では『駿河衆が敗軍した』としか述べられておらず、いつ、どこで、誰に対して、どんな風に駿河衆が敗軍したのかについては何も触れられていません。弾(織田信秀)が岡崎(松平広忠)を降参させたこともそうです。どんな形の降参であったのか、それはいつ行われたのか、広忠が命からがらになるような戦闘はいつどこで行われたのかも明らかになっていないのですね。その敗北が戸田康光が今川に滅ぼされる前であるのか、後であるのかすら記事には書かれていません。この説が有効となるためには、田原に竹千代が向かわなかった可能性が示されている必要がありますし、日覚の書状でそれを示すなら例えば、広忠の降参が田原城陥落以前だった等の根拠があるべきなのかなと思うのですが、そのような情報は記されていません。

 何より日覚書状の読みようによっては通説の中に組み込むことも可能なのですね。

>岡崎ハ弾江かう参之分にて、からゝゝの命にて候、弾ハ三州平均、其翌日ニ京上候、

 前稿にも述べた通り日覚書状の書かれた九月二十二日の六日後に渡河原の戦闘が起こり、松平信孝が、広忠を破っております。戦闘は広忠軍の惨敗であり、陣門法華に所縁のある大窪忠俊とも関係の深い大窪藤五郎等が戦死しております。大窪藤五郎は実在の人物であるかどうかは怪しいところもありますが、実在した有力家臣(五井松平忠次ら)も戦死しております。戦闘の発生時期をもっと前にずらして広忠の降参を敗北による戦場離脱程度の意味に留め、三州平均を誇張の含んだ表現と解すれば、特段の矛盾もなく通説の中に取り込むことも可能であろうと思います。

また、記事中で一つ残念であったのは以下の記載です。
>村岡教授が現地で調査したところ、この書状は1547年(天文16年)に書かれたことが判明し、

 実は当該史料「菩提心院日覚書状 本成寺文書」が刊本として公開されるのは2014年(平成二十六年)三月の愛知県史が初めてというわけではありません。2011年(平成二十三年)三月刊行の「戦国遺文 今川氏編 第二巻」に先行して「○九六五 菩提心院日覚条書」として掲載されております。若干の字句解釈上の異同はありますが、ほぼ同じ文面になっております。但し、当該文書は年未詳となっていました。ここについての戦国遺文の見解としては以下の通りです。

>本文書は年未詳なれど、菩提心院日覚が天文十九年十一月十六日に没しているので便宜ここに収める。

 「便宜ここに」とは、当該史料が「戦国遺文今川氏編 第二巻」の天文十九年の項に所載されていることを指します。日覚の書状は愛知県史も戦国遺文も史料を編年で分類されて掲載されているわけです。愛知県史においてはこの史料が天文十六年に比定され、天文十六年の項に掲載されているのですが、その根拠はぜひとも伺いたいところです。

 新聞記事タイトルの「織田信長の父・信秀が三河の岡崎を支配していた」も残念の一つです。三河の岡崎などと書かれると、普通は地名ととってしかるべきなのですが、日覚書状では「岡崎ハ弾江かう参之分にて、からゝゝの命にて候、」とあって、命拾いをした記述があります。岡崎という土地が降参したり、命拾いしたりするなんてことはありませんから、ここの記述が人を指しているところは間違いのないところでしょう。記事中でも「「岡崎」は家康の父、松平広忠を指すことが確認されたという。」と、人名を指すことが明記されているのですね。きっと松平広忠は岡崎城主であり、織田信秀に降参したのだから、織田信秀が岡崎という土地を支配していたと言っても問題ないという論法なのでしょう。しかし、それこそが「信秀がどの程度三河を支配していたかについては慎重な議論が必要となる」部分です。岡崎の降参もまたいつどこでどんな形で降参したかは当該史料では判じえないのですから。

 ただ、村岡教授がこの説を通して三河国を巡る織田と今川との間の戦いに示してくるかも知れない新しい展開にはとても興味があります。2004年(平成十六年)に刊行された安城市史において当時准教授だった氏は、天文十七年三月十日付織田信秀宛北条氏康文書について解説記事を記しています。

>殊岡崎之城自其国就相押候、

 上記は北条氏康文書の文言の一部なのですが、この文言を氏は「殊に岡崎の城其の国より相押さえ候に就き」と読み下した上で「天文十七年まではおろか、信秀の時代に織田方が岡崎城を勢力下に置いたことを示す史料もまた存在しない」と解説しています。つまり、この文言は信秀の時代に織田方が岡崎城を勢力下に置いたと解釈しているのですね。
 当ブログの過去記事を参照していただければわかるのですが、私自身は通説の歴史記述の流れに従って岡崎城が織田と今川両勢力が押さえ合いをするようになったと解釈しました。『就相押候』には『相』の字があります。『相性』、『相愛』、『相似』、『相違』、『相克』、『相生』等の『相』がつく単語をみるに、二者の間で行われる動作・状況なのですね。むろん、読み下しと解釈に強引さは否めません。その一方で『相成候(あいなりそうろう)』のように、『成る』のような動詞を強調する語としても『相』は使われるケースもあるわけで、氏の解釈の方が正しいのかもしれません。その前提での解釈に立てば、日覚書状は北条氏康文書において天文十六年頃に織田信秀が岡崎城を攻め落としたとする説の補強材料となりうるものです。

 但し、当該書状については書式礼の不備をもって、氏自身は後世に作られた偽書の疑いがあるとして安城市史においても参考資料扱いにしているので、ご本人には取り扱いづらいものになってるかもしれません。しかし、天文十六年頃に松平広忠が織田信秀に屈服していたことを示す史料が複数出てきたことの意義は大きいと思います。仮に北条氏康文書が偽書であったとしても、偽書作成者の認識の中に天文十六年に織田信秀が岡崎城を押さえたという認識があったことには変わりません。しかも、その偽書作成のネタ元が加賀で書かれて越後で保管されていた日覚の文書であったとは考えにくいです。天文十六年に松平広忠が織田信秀に屈服していたことを示す史料が複数存在するという事実は決して小さいことではない。しかも両者は系統が異なっています。少なくとも小瀬甫庵が太田牛一の信長公記をベースに信長記を作ったような形で作られてはいないのです。二つまでは偶然でかたづけうるとは思いますが、もう一つ二つ隠し玉があるのなら、立派な仮説に成長しそうです。

 もし、天文十六年頃に松平広忠が織田信秀に屈服していたとするならば、ある合戦の状況を包む霧の一部が晴れることになります。それはすなわち第二次小豆坂合戦(この言い方は私自身良しとはしませんが)において松平広忠はなぜ参戦をしていないのか、何をしていたのかという疑問に答えが出ます。合戦の行われた小豆坂の北方に岡崎があります。安城から出陣する織田信秀を広忠は指をくわえてみていたのでしょうか? 今川軍と示し合わせて挟み撃ちにしようとはしなかったのでしょうか? 敗北を重ねてそんな能力はなかったのでしょうか? 少なくとも三河物語に出てくる松平広忠は違います。似たようなルートを使って進軍する松平信孝を捕捉して広忠軍は信孝を耳取縄手で討ち取っております。しかし、織田信秀に対してはそのような挙に出ませんでした。それは広忠が信秀に屈服していたからだと考えれば、色々なことが腑に落ちてくるのですね。

 そのような意味で注目はしておりますが、私自身の当該説にかかる現状評価は、『信秀がどの程度三河を支配していたかについては慎重な議論が必要となる』です。
 前稿にも書きましたが、松平広忠は織田方に寝返った佐々木松平三左衛門忠倫を暗殺した筧重忠に対して天文十六年十月二十日付の感状を送っております。日覚書状の翌月であり、記事が言うような竹千代を人質に出さなければならない程の降参をし、織田方の顔色を窺わなければならない立場の松平広忠が、はたしてこのような書状を出せるものでしょうか?

 ○八五一 松平広忠判物写 ○国立公文書館所蔵譜牒餘録後編巻十七
    (松平忠倫)
 今度、三左衛門生害之儀、忠節無比類候、此忠子々孫々忘
    (ママ)
 間敷候、 然者為給恩、万疋之知出置候、雖為何儀候、於
 末代不可有相違候、在所者別ニ日記出置候成、
 天文拾六年        (松平)
  十月廿日          広忠 御在判
       (重忠)
       筧平三とのへ

 ※戦国遺文 今川氏編 第二巻(天文十六年(一五四七年)―永禄三年(一五六〇年))より抜粋

 平野明夫氏の安城城陥落天文十六年説と同様、村岡説を採用した場合に覆さなければならない通説や史料は結構あるような気がします。そのような部分も含めて、氏の研究成果を確認できる日を楽しみにしております。

◎略年表(安城陥落天文九年&小豆坂合戦二回説をベースとする)
1540年(天文 九年)   六月   六日 織田信秀、三河国安城城を奪取。
1541年(天文 十年)             水野忠政娘お大、松平広忠に嫁す。
1542年(天文十一年)  八月  十  日 第一次小豆坂合戦
              十二月二十六日 松平竹千代(徳川家康)、生誕。
1543年(天文十二年)  七月  十二日 水野忠政、没。
                八月二十七日 松平信孝、追放。三木城が没収される。
1544年(天文十三年)  八月二十二日 松平長親、死去。
                九月二十二日 織田信秀、美濃国井口城を攻め大惨敗を喫す。
                          この月    松平広忠、お大を離縁。
1546年(天文十五年) 十一月  十五日 松平広忠、今川義元の命により、吉田城攻めに参陣。
1547年(天文十六年)  八月   二日 松平竹千代、人質として駿河護送中に尾張国に拉致される。
                九月   五日 今川義元、田原城攻略。田原戸田氏滅亡。
                   二十二日 菩提心院日覚、本成寺に文書を送る。
                   二十八日 渡河原の戦闘。松平信孝、広忠を破る。
               十 月二十  日 松平広忠、筧重忠に松平忠倫暗殺の感状を出す。
1548年(天文十七年)  三月  十九日 第二次小豆坂合戦
                四月  十五日 耳取縄手の戦い。松平信孝、戦死。
1549年(天文十八年)  三月   六日 松平広忠、暗殺される。

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2015年7月 5日 (日)

川戦:安城合戦編⑰補遺Ⅱ 菩提心院日覚書状を読んでみる。

 とりあえず、愛知県史資料編14に所載されているくだんの「菩提心院日覚書状 本成寺文書」より、
当該説に関連していそうな箇所を引用いたします。

一三州ハ駿河衆敗軍の様二候て、弾正忠先以一国を管領
 候、威勢前代未聞之様二其沙汰共候、一、此十日計巳
 前ニ京都より楞厳坊罷下候、厳隆坊も同心にて候、心
 城坊ハ旧冬よりいまに当国二滞留候、さる仕合候て、
 濃州より当国へ上使二養雲軒と申人之内者の様にて候、
 于今旦方あひたの使なと仕候、此人なふてハの様にて
 候、一、彼楞厳坊申来候ハ、鵜殿仕合ハよくも有間敷
 様二物語候、其謂ハ尾と駿と間を見あはせ候て、種々
 上手をせられ候之処二、覚悟外二東国はいくん二成候
 間、弾正忠一段ノ曲なく被思たるよしに候、定而彼地
 をも只今の時分ハ攻いらんやと致物語候間、あまりニ
 □□許存候間、近日心□坊を可差遣覚悟にて候、岡崎
 ハ弾江かう参之分にて、からゝゝの命にて候、弾ハ三
 州平均、其翌日ニ京上候、其便宜候て楞厳物語も聞ま
 いらせ候、万一の辺も候てハ、門中力落外見実義口惜
 次第候、

 本稿ではこの文書の読み解きをやってみたいと思います。専門家でもなんでもないのでいい加減な部分も多々あるかとも思いますがご容赦ください。また、字面だけ追っていては訳が分からなくなる部分もありますので、推測を交えた解説もしてみます。

>一三州ハ駿河衆敗軍の様二候て、
(訳案)一、三州においては、駿河衆は敗軍したようです。

 この文書が書かれる前の年、1546年(天文十五年)に今川軍は三河吉田(今橋)に攻め込み、戸田宣成を滅ぼしています。この戦いには松平広忠も今川方として参戦したという話も残っています。また、新説で否定された竹千代誘拐は文書の書かれた前月、即ち八月に発生し、その翌月五日に『犯人』である戸田康光が籠もる田原城が今川軍に攻め落とされています。吉田(今橋)の戦い及び、田原の戦いに関しましては、今川義元の感状が残っていて今川軍が三河に入っていることは確認できますが、本文書においてどういう意味で『敗軍』と述べているかは不明です。全ての可能性を検討すべきでしょうが、はたして、安城から尾張衆が長駆して東三河まで到達したのでしょうか?

>弾正忠先以一国を管領候、威勢前代未聞之様二其沙汰共候、
(訳案)弾正忠はまずもって一国を管領しております。その威勢は前代未聞と、その知らせにあります。

 信長公記に織田信秀は尾張で頼み衆をして美濃や三河に遠征を重ねていたという記載があります。ここでいう一国とは三河ではなく、尾張国の事でしょう。日覚は加賀にいて信秀の威勢は前代未聞であるなどという情報を受け取っていますが、それがどういう経緯によるものかが次の文章に書かれています。

>一、此十日計巳前ニ京都より楞厳坊罷下候、厳隆坊も同心にて候、心城坊ハ旧冬よりいまに当国二滞留候、
(訳案)一、この十日ばかり以前に京都より楞厳坊が罷り下りました。厳隆坊も同行しております。心城坊は昨冬から今まで当国(加賀国)に滞留しております。

 楞厳坊、厳隆坊、心城坊という三名の僧の名前がここで出てきます。普通に解釈して日覚の弟子というところでしょうか。楞厳坊が厳隆坊を連れて京都から情報を持って日覚のいる加賀に赴いた。(※訂正します。付記1参照)心城坊は去年からここにいる、と言うことなんですが、つい十数年前には法華と本願寺教団は血みどろのつぶし合いを洛中洛外で展開していたわけで、そういう経緯があるにもかかわらず、本願寺教団王国と言ってよい加賀国に長逗留している日覚はいい根性をしております。楞厳坊は復興途上の本禅寺が負った負債を何とかする為の勧進道中の途上のようで、厳隆坊は加賀に居残って日覚の逗留している寺(實成寺か?)にとどまることになっていると、この手紙の冒頭部にあります。

>さる仕合候て、濃州より当国へ上使二養雲軒と申人之内者の様にて候、于今旦方あひたの使なと仕候、此人なふてハの様にて候、
(訳案)とある成り行きで、美濃国から当国への上使を務めた養雲軒と申す人の家人が今も檀徒との間の使いをしてくれていて、この人がいなくては何も進まない具合です。

 「仕合」ですが「しあい」と読めば合戦というニュアンスです。「しあわせ」と読めば「事のなりゆき」「幸運」になります。美濃から加賀に向かう上使というのはちょっとわかりません。養雲軒という号を持っているので出家者なのでしょうか。上使と言うくらいだから幕府や朝廷の使いなのかもしれません。ただこの時代は、東国紀行を記した谷宗牧のように、一介の連歌師が女房奉書を持って勅使を務める事もありましたから、必ずしも身分の高い人物でもないかもしれません。その身内の人が加賀の陣門流寺院と現地檀家の世話をしているって感じの様です。加賀国は一向一揆の国で、富樫政親が守護をやっていた頃には専修寺派もいたものの、三ヶ寺に打倒され、その三ヶ寺も本山の本願寺から差し向けられた兵に滅ぼされたりして本願寺王国になった印象がありましたが、陣門法華が組織だった拠点を持てる程度には他宗派の活動も可能であったのですね。

>一、彼楞厳坊申来候ハ、鵜殿仕合ハよくも有間敷様二物語候、
(訳案1)楞厳坊が来て申すには、鵜殿によると情勢は(今川にとって)よくないとのことです。
(訳案2)楞厳坊が来て申すには、鵜殿での合戦は(今川にとって)よくないとのことです。

 鵜殿氏は蒲郡市あたりの国人領主で今川氏よりの立場にいます。前段にも書きましたが「仕合」という文言は、「しあわせ」と読めば前段にあった成り行きや事情という意味になり、鵜殿氏が今川氏の情勢は良くないとの私見を楞厳坊に語ったと解釈できます。また、「しあい」と読んで合戦と解すると、鵜殿で親織田勢力と今川勢が戦ったようにも読めますね。鵜殿は鵜殿氏が拠点とした上ノ郷城の別称でもあります。

>其謂ハ尾と駿と間を見あはせ候て、種々上手をせられ候之処二、
(訳案)(楞厳坊が)言うには尾張と駿河を見比べて、ともに色々巧みに(戦術を)駆使しているようだが、

 「仕合」の読み方で主語が楞厳坊であるか、鵜殿氏であるかが分かれますが両勢力の実力を計っています。

>覚悟外二東国はいくん二成候間、弾正忠一段ノ曲なく被思たるよしに候、
(訳案)思いのほか東国は敗軍になっているのに対し、弾正忠は特段の障害もなくやっているように思われます。

 ここに至るまで今川義元は吉田、田原の両城を陥落させて東三河に足場を固めているわけですが、敗軍のニュアンスはよくわかりません。信秀が自分で攻め込んだのであれば信長公記などに記述があってしかるべきです。九月二十二日の書状に書かれるような軍事行動であれば、三河と加賀の距離を考えると九月五日に行われた田原城の合戦まででしょう。今川軍はここで苦戦をしたことを鵜殿氏が『敗軍』と呼んだか、宝飯郡上郷(鵜殿)で親今川勢力である鵜殿氏が親織田勢力と戦って敗れたかあたりではないかなと思います。その親織田勢力も地理的に織田家やその家臣ではなく、吉良氏あたりではないかと思います。ただ、そのような史料は見つかっていないので何とも言えません。

>定而彼地をも只今の時分ハ攻いらんやと致物語候間、
(訳案1)(弾正忠は)きっとこれを機に彼の地(田原または吉田(今橋))に攻め入るのだろうと(鵜殿が)語りましたが、
(訳案2)(弾正忠は)きっとこれを機に彼の地(上郷・鵜殿)に攻め入るのだろうと(楞厳坊が)語りましたが、

 鵜殿氏または、楞厳坊が弾正忠(織田信秀)視点でこれからの情勢を予測しています。今川勢は「敗軍」しているのですが、弾正忠は「只今の時分ハ攻いらんや」なのですから、敗軍の時点では弾正忠は攻め入っていないのです。その場所は「仕合」の文言をどう読むかによって、戸田氏の根拠地か、鵜殿氏の根拠地かのいずれに分かれてゆくのではないでしょうか?

>あまりニ□□許存候間、近日心□坊を可差遣覚悟にて候、
(訳案)あまりに無心を許してしまったので、近日心城坊をさしやるつもりです。(※訂正します。付記2参照)

 □は判読できない文字で、愛知県史は「□□許存候間」の□□に「無心」、「心□坊」の□に「城」の字を当てています。楞厳坊は鵜殿から有償で情報をえていたのでしょうか? もしくは日覚は楞厳坊から有償で話を聞いていたのでしょうか? いずれにせよお金が足りなくて詳しい話を聞き出せなかったので、改めて昨冬から加賀にいる心城坊を三河に派遣してより詳しい話を聞くこととしました、と解してみました。

>岡崎ハ弾江かう参之分にて、からゝゝの命にて候、弾ハ三州平均、其翌日ニ京上候、
(訳案)岡崎は弾正忠に降参して、命からがらでした。弾正忠は三河を平定し、その翌日に京に上りました。

 岡崎は地名の他に松平広忠をさす場合もあります。からがら命を拾ったと後段に続くので、地名ではなく、松平広忠を意味していると解釈できます。一応書いておくと、この書状が書かれた六日後の九月二十八日に松平広忠は織田信秀方についた松平信孝と矢作川沿いの渡河原で合戦して敗北しています。出典は「松平記」及び「岡崎古領主記」になります。九月二十八日が正しいとすれば、手紙が書かれた時点で松平広忠はまだ降参していません。九月二十八日説が間違いで戦闘はもっと前にあったのかもしれませんが、史実を見れば、弾正忠は三河を平定していたとも思えません。せいぜい松平広忠の抵抗を押さえたことをもって平均と呼んだのではないでしょうか?
 近世史料ではない同時代史料で反証を挙げるなら、松平広忠は織田方に寝返った佐々木松平三左衛門忠倫を暗殺した筧重忠に対して天文十六年十月二十日付の感状を送っております。その中で広忠は筧の暗殺行為を「この忠節は子々孫々忘れない」と評しているのですね。竹千代を人質に出さなければならない程の降参をし、織田方の顔色を窺わなければならない状況下で、このような書状は出せるものではないと思います。
 その翌日に織田信秀が京に上った形跡も今の所確認されていません。次の文章につなげて京に上ったのは楞厳坊であると解するのはやはり難しいでしょうね。

>其便宜候て楞厳物語も聞まいらせ候、万一の辺も候てハ、門中力落外見実義口惜次第候、
(訳案)その便宜で楞厳坊の話を聞き取った次第です。万一のことがあれば、門中の力は落ち、外見も実質も悔しいこととなるでしょう。

 楞厳坊の話の締めくくりです。ここでいうところの「万一」とは駿河衆が敗北したあおりで檀徒であり今川方の鵜殿氏が敗亡することになれば、鵜殿氏が庇護する三河陣門法華寺院も巻き添えを食って教勢を落としかねない心配があるということなのでしょうか。

 以下、超訳となります。2パターン検討しましたが、敢えて「しあい」と読んだ方の解釈で記してみます。

一、三州においては、駿河衆は敗軍したようです。弾正忠はまずもって一国を管領しております。その威勢は前代未聞と、その知らせにあります。一、この十日ばかり以前に京都より楞厳坊が罷り下りました。厳隆坊も同行しております。心城坊は昨冬から今まで当国(加賀国)に滞留しております。とある成り行きで、美濃国から当国への上使を務めた養雲軒と申す人の家人が今も檀徒との間の使いをしてくれております。この人がいなくては何も進まない具合です。
 楞厳坊が来て申すには、鵜殿での合戦は(今川にとって)よくないとのことです。(楞厳坊が)言うには尾張と駿河を見比べて、ともに色々巧みに(戦術を)駆使しているようだが、思いのほか東国は敗軍になっているのに対し、弾正忠は特段の失敗もなくやっているように思われます。(弾正忠は)きっとこれを機に彼の地(上郷・鵜殿)に攻め入るのだろうと(楞厳坊が)語りましたが、あまりに無心を許してしまったので、近日心城坊をさしやるつもりです。
岡崎は弾正忠に降参して、命からがらでした。弾正忠は三河を平定し、その翌日に京に上りました。
その便宜で楞厳坊の話を聞き取った次第です。万一のことがあれば、門中の力は落ち、外見も実質も悔しいこととなるでしょう。

次稿で去年の読売新聞記事に対する感想を書いてみます。

(付記1)
 2015年3月15日発行『中京大学文学会論叢』第一号(2015~)所載村岡教授の論文「織田信秀岡崎攻落考証」によると、この書状が書かれたのは加賀の寺ではなく、越中国城生城下にある井田菩提心院で、本成寺住持を退いた後に日覚はそこで城生城主の斎藤氏の外護を受けて隠棲していたとのことです。謹んで訂正いたします。
 井田菩提心院は斎藤氏の没落以後、越中の支配者交代に伴って転々とし、現在は本法寺と言う名になって富山市八尾町にあるとのことです。ただ、日覚書状には以下の通り「かゝの寺」という表現があり、そこに弟子の厳隆坊を置く旨が書かれておりましたので、日覚が属する陣門流法華宗は加賀にも拠点を持っていたようです。

>かゝの寺にハ、弟子の厳隆坊を置候、来春ハ早々下候而、小勧進仕度のよし申捨而たち候、加州ハ大乱にて候、

(付記2)
 ここは流石に間違いです。「無心許」を「無心を許す」と読んでしまったのですが、「心許無し」で、不安に思う・心配に思うくらいの意味に取るべきでした。愛知県史に掲載されている史料写真を見ても、当該部分は欠落していて読めないのですが、そこに「無心」と充てられた愛知県史編纂者の意図を正しく読み取れておりませんでした。お恥ずかしい限りです。謹んで訂正いたします。

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2015年6月28日 (日)

川戦:安城合戦編⑯補遺Ⅰ 昨年発表された中京大教授の新説

ちょうど1年前の読売新聞中部版に次のような記事が躍りました。『織田信長の父・信秀が三河の岡崎を支配していた 中京大教授が新説』。説を出されたのは先に拙稿にて記事のネタとさせていただいた安城市史を編纂された村岡幹生教授です。
 読売新聞のサイトからは既にその記事は消えているものの、今でも中京大村岡教授で検索すれば、記事の内容は把握できます。以下はその要約です。
・その説は2014年春刊行の「愛知県史資料編14」で公表された。
・法華宗の高僧、日覚の書状から立論。
・「岡崎は弾正忠へ降参し、弾正忠は三河平定の翌日、上洛した」などと記されている。
・通説では、田原城の戸田康光が裏切って信秀に竹千代を売り飛ばしたとされているが、なぜ裏切ったのかは謎。
・村岡教授は「広忠が信秀に降参して竹千代を織田家へ差し出した可能性が高い」と指摘。
・本郷和人東大史料編纂所教授、「重要な発見。しかし慎重な議論が必要」とコメント

 とりあえず、記事に書かれていた愛知県史資料編14を図書館で閲覧してきたのですが、当該図書そのものはあくまでも資料集であり、日覚の書状はあったものの、読売新聞の言うところの『新説』の記載は見当たりませんでした。一応当該史料と資料集の解題や後書きの記載をチェックしたのですが、見落としがあるのかもしれません。あるいは、他の論文集や書籍に寄稿もしくは出版をされているのかもしれません。あるいは読売新聞の記者による「とばし」ではないかとも思ったのですが、いずれにせよ新説の内容を確認する機会は今のところ得られていません。以上の事を前提に本稿では、日覚文書に関連して多少調べたことを述べさせていただきます。

 元史料の正式名称は読売新聞の記事にも書かれておりますが、「菩提心院日覚書状 本成寺文書」であり、その中の1547年(天文十六年)九月二十二日分の記述です。本成寺が蔵する菩提心院日覚がしたためた書状ですね。本成寺は越後国にある日蓮宗の一派、陣門法華宗の総本山で日覚自身もこの寺の九世住持を務めております。また、天文法華の乱で灰燼に帰した陣門法華寺院の本禅寺を後奈良天皇が赦免の宣旨を出す1542年(天文十一年)の二年前にちゃっかり復興させて本禅寺五世住持におさまったりしております。

 日蓮―日朗―+―日輪(日朗門流・池上本門寺)
          |
          +―日像(四条門流・妙顕寺)
          |
          +―日印―+―日静(六条門流・本国(圀)寺)
                  |
                  +―日陣(陣門流・本成寺)―+―(数代略)―日覚
                                     |
                                     +―日登(陣門流・本禅寺)

 この書状が書かれた時、日覚は加賀国に逗留していたらしく、史料の冒頭に「加州ハ大乱にて候」などと書かれています。石川県にある陣門流法華寺院をネットで検索してみると、当時石川郡布市村に實成寺という寺院があり、本成寺九世の日覚とも所縁があるようですので、ここにいたのかもしれません。陣門流は派祖の日陣が六条門流の日静とトラブルを起こした関係で仲が悪く、京都に本禅寺という自派の拠点を別に持っていました。日覚は総本山の本成寺、京都本山の本禅寺の住持経験がある陣門流の顔役であるので、加賀にいる彼のもとには京だけではなく、地方拠点からの情報も集まってきており、当該の書状は加賀国から越後にある総本山本成寺に送った物です。

 ここに三河国における情勢が書かれているわけですが、東海における陣門流の拠点は遠江国本興寺があり、ここと東三河の国人領主鵜殿氏との関わりがあります。鵜殿氏の中でも下郷鵜殿氏(鵜殿氏は上郷鵜殿が宗家)の鵜殿長存の墓が三河国蒲郡の陣門流寺院、長存寺にあります。そのほか興味深い所では西三河和田郷の妙国寺も陣門流寺院だったりします。後に大久保氏と改称する前の宇津・大窪氏の菩提寺でした。おそらくはこの時点の妙国寺は大窪家所縁の寺院として松平蔵人信孝によって相当の破壊を受けていたものと考えられます。その後に大窪新八郎忠俊は同じ陣門流の長福寺の勧めで菩提寺をここに移すとともに、自らの名を大久保と改めるわけです。

 この書状の背景となる三河国の情勢を通説ベースで申し述べますと、松平広忠が矢作川西岸に持っていた重要拠点である安城城は既に尾張の実力者、織田信秀の手に落ちており、桜井、佐々木、三木(合歓木)の各松平諸家や酒井、大原、近藤氏の一派が織田信秀方に寝返って松平軍団は二分された状態になっていました。駿遠の太守である今川義元はこの時までにずっと戦っていた北条氏との間に休戦協定を結んで西部戦線に目を向けられるようになっておりました。
 天文十六年に起こったことは、織田方への寝返り組である佐々木松平忠倫が岡崎松平広忠に暗殺されます。矢作川対岸の上野城に籠る桜井松平清定と酒井将監達も広忠がせめてこれを降参させます。これに対して三木(合歓木)松平蔵人信孝が安城と矢作川との中間にある山崎砦で兵を催します。これを食い止めようと広忠が渡河したのを信孝は川岸の渡河原で破るわけです。これと並行して広忠は今川家に援軍を要請。今川義元は竹千代(後の徳川家康)を人質に要求し、広忠はこれに応じるわけですが、その途上で戸田康光が裏切って今川義元の元に送り届けられるはずの竹千代を強奪して織田信秀に引き渡してしまったという話があるわけです。

 次稿にて新説の根拠となった史料の該当箇所を見てゆきたいと思います。

◎略年表(安城陥落天文九年&小豆坂合戦二回説をベースとする)
1540年(天文 九年)   六月   六日 織田信秀、三河国安祥城を奪取。
1541年(天文 十年)             水野忠政娘お大、松平広忠に嫁す。
1542年(天文十一年)  八月  十  日 第一次小豆坂合戦
              十二月二十六日 松平竹千代(徳川家康)、生誕。
1543年(天文十二年)  七月  十二日 水野忠政、没。
                八月二十七日 松平信孝、追放。三木城が没収される。
1544年(天文十三年)  八月二十二日 松平長親、死去。
                九月二十二日 織田信秀、美濃国井口城を攻め大惨敗を喫す。
               この月       松平広忠、お大を離縁。
1546年(天文十五年) 十一月  十五日 松平広忠、今川義元の命により、吉田城攻めに参陣。
1547年(天文十六年)  八月   二日 松平竹千代、人質として駿河護送中に尾張国に拉致される。
                九月    五日 今川義元、田原城攻略。田原戸田氏滅亡。
                   二十二日 菩提心院日覚、本成寺に文書を送る。
                   二十八日 渡河原の戦闘。松平信孝、広忠を破る。
                         松平広忠、この日までに松平忠倫を暗殺。
1548年(天文十七年)  三月  十九日 第二次小豆坂合戦
                四月  十五日 耳取縄手の戦い。松平信孝、戦死。
1549年(天文十八年)   三月   六日 松平広忠、暗殺される。

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2013年6月 6日 (木)

川戦:安城合戦編⑮考察

 とりあえず、私は現時点においても、天文十一年の第一次小豆坂合戦はなかった説を支持しております。それでも天文九年の安城城陥落はあると考える人は多いとは思いますが、以下の根拠でそれは疑わしいと考えております。第一に、平野明夫氏が「三河松平一族」で明らかにした天文十七年三月十一日付織田弾正忠宛北条氏康文書、第二に宗牧の東国紀行という書物において、天文十三年に美濃国加納口合戦に織田信秀が敗北します。それに乗じて岡崎城から阿部大蔵定吉が「おはりおもて」に向けて出陣したという記述があります。三河国安城が占領されている状況の中でどうすれば、阿部定吉が岡崎城を留守にして「おはりおもて」に到達できるかが疑問であること、第三に天文十三年の段階で深溝松平家の人間が安城で年貢をめぐるトラブルを起こした文書が残されていることです。

 その中でも、安城市史で天文十七年三月十一日付織田弾正忠宛北条氏康文書についての疑義が立てられていたことが本稿の考察のきっかけです。この考察において、安城市史があげている当該文書の疑問点については自分なりの解答が出せたと思っております。

 まず、朝野旧聞ほう藁において、織田弾正忠宛北条氏康文書の後半部分が永正年間に発せられたと思われる閏十一月七日付巨海越中守宛(北条早雲)宗瑞文書とくっついている理由です。これは古証文に乱丁があり、異なる文書が合わさってしまった為と推測しました。これは現在国立公文書館に蔵してある内閣文庫蔵の古証文三種文書を比較した結果たどりついた結論です。

 第二に、安城市史が「被相談」としている当該文書の内容です。これは同じ活字本でも戦国遺文と小田原市史所載の同文書が「無相談」としておりますが、これを安城市史では『「被相談」の「被」を「無」の誤写とみる説もあるが、文字自体は「被」である』という見解がありましたが、三種本と字体辞典を比較検討した結果、素人目で恐縮ですが「被相談」より寧ろ、「無相談」の方が妥当ではないかと判断いたします。
 同じ文書を書写していても、朝野旧聞ほう藁と古証文では書写の方針が異なっていて、朝野旧聞ほう藁では読みやすさを重視して異字体があれば統一を図り、改行位置などには頓着していないことに対して、古証文は字形や改行位置、改頁位置まで一致する完全コピーを作ることを目的とした書写がなされていることを確認しました。
 また、字体辞典における「無」と「被」の字形比較においては古証文三種の中でも大久保酉山旧蔵書、和学講談所旧蔵書、旧蔵元不明書の順で無に近かったです。むしろ旧蔵元不明書は、完全コピーを目指しながらも朝野旧聞ほう藁の解釈に近づけるよう書写がなされているのではないか、というのが調べている内に思った実感です。

 第三点は安城市史が直接述べていることではありませんが、活字本三種で「被」と読まれている文字でも、「無」である可能性の指摘ができたことです。「被致本意」は本意を致されというよくわからない日本語に読み下すしかないのですが、大久保酉山旧蔵書、和学講談所旧蔵書の二書の「被」は「無」に近いじでした。これをもとに「本」の字形が辞典の字形と必ずしも一致しないことを確認したうえで「無致方意」(致し方無き意)という読み下し方を提起してみました。これはあくまでも別解であり、私自身の今後の勉強も必要になるだろうことを含め、指摘のみしておく次第です。

 第四点は偽書説についてです。安城市史では偽書とまでは言われてませんが、史料編において疑義とともに参考文書の扱いとされている状況について考察をしてみました。偽書とするためにはやはり、どのような意図をもってそのような記述になったのかを考察することが必要ではないかというのが実感です。安城市史における疑義においても、最初から書式として整わない形になっていたかは不明であるし、天文十七年の小豆坂合戦前の状況において、敵地を経由して書状を送る段においては、同一人宛に複数文書が出ることもあり得るのではないかと考えてみました。

 安城合戦、小豆坂合戦においては今後も研究が進み、深い考察が出てくることを期待しております。

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2013年6月 4日 (火)

川戦:安城合戦編⑭偽書説について

 ここまで調べていてなんですが、この天文十七年三月十一日付織田弾正忠宛氏康文書には偽書説が安城市史に提起されております。主なる論拠としては、同年同一日付で内容もほぼ重複している織田弾正忠宛氏康文書が同じ古証文に所載されているからです。しかも、元文書に長々と書かれていた背景説明を全てすっ飛ばして、氏康の返答のみが短く記されておりました。

(短文版全文・安城市史より[カッコ書きは安城市史の注])
 五二八 〔参考)北条氏康書状写  (古証文)

貴札拝見、本望之至候、近年者、遠路故不申入候、
      (今川義元)
背本意存候、抑駿州此方間之義、預御尋候、先年雖
遂一和候、自披国疑心無止候、委細者、御使可申入
候条、令省略候、可得御意候、恐々謹言、
天文十七
 三月十一日
  〈信秀)
 織田弾正忠殿
                 (北条)
                  氏康在判

 また、長文版においては、末尾に日付と署名がなされておりますが、この日付の様式がいわゆる文書の書式を満たしていないとのことです。下記に書かれているような、年号を抜いた「十七年」という書式は文書礼としておかしいということだそうです。

(長文版末尾内容)
何様御礼自是可申入候、委細者、使者可有演説候、
恐々謹言、
  (天文)
 十七年          (北条)
  三月十一日       氏康在判
          (信秀)
    織田弾正忠殿
             御返報

 故に、長文版は短文版をもとに作られたものであろうとの考察がなされ、短文版を含め安城市史では「参考」扱いの史料となっております。念のために書いておくと、安城市史で参考扱いとした村岡准教授ご本人は偽書であるとは言っておりませんが、この見解をもって偽書説として扱っている書籍を拝見したことがあります。

 偽書は、その文言に書かれた言説を流布することにより、事実とは異なる記事が盛られている文書と解釈しております。例えば武功夜話などがその範疇に入るといわれております。武功夜話は現存史料が後代になって書き写されたものであり、その内容に同時代文書には現れがたいオーパーツが入っていることなどからそう言われます。ただ、偽書説が説として機能するためにはその偽書が何故そのような形で後代に残ったのかの考察が必要ではないかと思うのです。

 例えば、武功夜話等であれば、前野家先祖が戦国時代に書いた史料を、子孫は一文字たりとも改変せずに封印保管していた訳ではなかったようなのですね。その時々の子孫がその都度知った知識を後代の子孫に読ませるために加筆を行い続けていたのであれば、歴史的史料価値は下がるかもしれませんが、決してその行いは責められるべきものではありませんし、その子孫がどのようなソースでどの部分を加筆したのかについては、むしろ理解・研究を深めるべきでしょう。
 もちろん、これが伝平岩親吉の三河後風土記をでっちあげた沢田源内のようなプロの偽書作者が書いた物であることが判れば話は別ですが。

 確かに年数のみ記された文書は見られませんが、古証文に所載されている氏康文書は書写文書です。故に古証文に掲載される過程で、書式の前後に加筆があったと考えられます。例えば、長文版には織田弾正忠殿の後に短文版にはない御返報が書き加えられております。短文版から長文版を作ったとすれば、この御返報を書き加えた理由が判じえません。同様に、短文版に天文十七と記されているとすれば、長文版から天文の年号を除いた意味が分からなくなります。

 ずっと後年に下って、桜田門外の変で井伊直弼が水戸浪士の兇刃に倒れた折、彦根藩江戸藩邸は二日にわたり、二ルート、二丁の早籠を調達し、国許に主君の死を伝えたと言います。北条氏康から織田信秀に届いた書状の日付は天文十七年三月十一日です。この八日後の三月十九日に三河国小豆坂で織田軍と今川軍の衝突が起こりました。後に言う小豆坂合戦です。当然尾張から相模のルートの中間にある今川義元は信秀と氏康が通じていることを知れば妨害しようとするでしょう。信秀としては、北条氏康に今川義元の後背をついてもらえればどれほど助かったことでしょう。そこまでいかなくても、色よい返事であれば政治的に活用できます。それを考えれば、北条氏康は織田信秀に確実に書状を届けるために、書状を二通用意したと考えてもよいかもしれません。

 いずれにせよ、私が把握している限りにおいては、安城市史に記された記事のみをもって偽書説と呼ぶにはやや根拠の提示が足りないように思われます。私自身、それらの情報にアクセスできていないだけかもしれませんが、今後の研究でこの時代の史実が明らかにされてゆくことを期待いたします。

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2013年6月 2日 (日)

川戦:安城合戦編⑬漢字パズルⅢ(被の読み方)

図表5:「被」の字体比較
5

同じ手順で活字本が「被」としている文字との比較表を作成してみました。対象になるのは040文字目にある「被起軍」(軍を起こされ)と51文字目の「被破破之由」(破られるの由?)、83文字目の「被致本意候」(本意を致し候)、104文字目の「被相詰之由」の「被」です。

一見してわかるのは古証文三種の字体のばらつきと、朝野の文字の統一具合です。特に040文字目の「被」は古証文では他の「被」の字と字形が異なっているのに、朝野は同文中の「被」の字と同じ字形としています。すなわち、朝野は書写対象の文字を「被」と解釈したなら
ば、一種類の字体に統一校正しているのです。
対して、 古証文肉筆本の三種は、いずれも同じ位置の字については、字形を変えたりすること無く、あるがままに書写されております。

これは、書写の目的、編集方針の違いによる差異と解釈できます。朝野は徳川幕府創業の記録をまとめることを目的としておりますので、古証文からの引用をするにあたっても、想定する読者(幕府の人間)の可読性の確保を重視としており、文中に異字体があれば、編集方針に沿って彼らが慣れ親しんだ字体に変更されたということでしょう。

 対して古証文は底本の忠実なコピーとして読まれることを目的としたために、字体や改行位置、さらには乱丁があってもそのままに記されたと考えられます。

 古文書の解釈においては、単純に字形を読むだけではなく、同じ文書でも他文書との異同を調べることによって、資料の作られ方や編集方針などを判読できるところが大変興味深いものです。以上を踏まえると、刊本だけでは出てこない別解も出せるのではないか。敢えてそのようなサンプルを出してみます。

図表6:83文字目:被致本意
6

これは活字本がいずれも「被致本意」としているのですが、古証文の特に古(酉)と古(和)における「被」の字体が、「被」よりも、「無」によっていることが気になります。併せて、「本」の字体も右側のはらいが湾曲しているのですが、このような特徴は辞典に該当する文字がありません。

また、ここの文章の前後を拾うと以下のようになりますが、「本意を致す」という表現は意味は解せますが、日本語や漢語として不自然ではないかと思われます。事実現代語訳文には、「本意を遂げ」と解されているものも散見されますが、明らかに文字が異なっています。

駿州ニも今橋被致本意候
(訳案)駿州にも今橋、本意を致され候

「本」の字ですが、朝野と古証文三種とでは明らかに字形が異なっております。これは右側のはらいの湾曲から、「方」ではないかと思うのです。被が無、本が方と読んだ場合、以下のような文章となります。

駿州ニも今橋無致方意候
(読み下し案)駿州にも今橋、致し方無き意に候
(訳案)今川義元が今橋を取ったことは仕方のない事である。

「被致本意」の場合は、今川義元が露わにした野心に氏康は警戒しているという感じですが、「無致方意」であれば、氏康は義元行為について、肯定的なニュアンスとなるのではないでしょうか。今橋は戸田一族の戸田宣成が守っていたのですが、この戸田宣成が今川に逆らったことを名目に兵を動員しました。これに対して一族である田原の戸田康光は中立を保ち、松平広忠は今川方で参戦しているのですね。すなわち、三河国人・土豪衆の賛意の中、今川義元は戸田宣成を成敗したのであり、他国人である織田信秀の介入の余地はなかったと言いたかったのではないでしょうか。

 以上、一応説としてはだしてみましたが、これが正しいとか、これしか解がないというわけではなく、あくまでも古文書を楽しむ別解としてだしてみました。他にも、「則時ニ被破破之由候」と、「破」の字が重ねられている理由は何か(朝野は破を一文字だけに校正しております)とか、この文書を読むだけでも興味が尽きない部分は多々残されております。

最後にここまでの説を踏まえた文書の文言及び、大意は以下の通りとなります。

01---+----10----+----20
如来札近年者遠路故不申通候処懇切ニ示給候
21---+----30----+----40
悦着候仍三州之儀駿州へ無相談去年向彼国被
41---+----50----+----60-
起軍安城者要害則時ニ被破破之由候毎度御戦功
62--+----70----+----80--
奇特候殊岡崎之城自其国就相押候駿州ニも今橋
83-+----90----+----00-
無致方意候其以後万其国相違之刷候哉因茲
02--+----10----+----20-
彼国被相詰之由承候無余儀題目候就中駿州此
22--+----30----+----40-
方間之儀預御尋候近年雖遂一和候自彼国疑心
42--+----50----+----60-
無止候間迷惑候抑自清須御使并預貴札候忝候
62--+----70----+----80-
何様御礼自是可申入候委細者使者可有演説候
82--+
恐々謹言、

 いただいたお手紙に書かれていた通り、私のいる相模とあなたのいる尾張国は遠路なので、近年は行き来もありませんでした。にもかかわらず、このたびご丁寧にも使者を送っていただいたことは、喜ばしいことです。あなたの手紙に書かれている三河国の件についてですが、駿河の今川義元に相談もなく、昨年三河国に対し軍を起こし、安城の要害を即時にやぶられたそうですね。あなたの戦功についてはいつも聞き及んでおりますが、このたびの軍功も凄いものだと思います。
 とりわけ岡崎城は駿河勢との角逐の場となってしまいました。駿河勢も今橋(現在の吉田)を占領してますが、それは仕方のないことでしょう。それ以後の駿河国の情勢に変わりはないでしょうか。ここに三河国は尾張と駿河の二勢力が詰め合いする場となったとこと、承りました。余儀の無いことだと思います。
 駿河の情報の中でも我々北条との関係について、お問い合わせの件にお答えします。近年駿河国とは確かに講和を結びましたが、駿河国に対する疑心は止むことがなく、迷惑な思いをしております。
 ともあれ清洲からの使いとお手紙いただいたことはありがたいことです。お礼をこれより申し入れたいと思います。委細は使者に述べさせます。恐々謹言。

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2013年5月31日 (金)

川戦:安城合戦編⑫漢字パズルⅡ(無の読み方)

図表2:32文字目:「被相談」の「被」
2

この文字は、刊本においても、安城市史が「被」としているのに対し、戦国遺文・小田原市史は「無」と読んでいて、解釈が分かれております。朝野旧聞ほう藁と古証文三種については、それぞれ微妙に字形が違っていることが判るかと思います。

図表3:判読辞典「無」と「被」
3_2 

比較対象として、以前も出したものですが、近世古文書判読辞典(柏書房刊)所載の「無」と「被」の字体を出させていただきました。それぞれいくつかの字体がサンプルとしてでていました
が、肉筆本の字体にもっとも似ているものをセレクトしております。それぞれの字体に似ているものを順番に並べると以下のようになります。

「無」<古(酉)≦古(和)<古(不)≦朝野<「被」

 比較は微妙ですが、朝野の字体よりも、古証文の字体の方が、比較対象の「無」の字によっているように見えます。

 史料パズルと題した前稿にて、朝野の北条氏康文書が不完全であった理由を乱丁のある古証文をそのまま書写したためと書かせていただきました。国立公文書館蔵の内閣文庫にあった三部の肉筆本古証文のうち、二冊が乱丁状態のまま保管されております。このことから、この他にも存在しただろう古証文の書写本もまた、乱丁状態のまま、筆写されていたでしょう。
乱丁状態が正されている大久保酉山旧蔵本も冊数・巻数が同一形態の本がないことから、これもまた元は乱丁本であり、後になってそれを修正したものかと思料します。

図表4:「無」の字体比較
4

032文字目が「無」と判読することが妥当であるか否かを考えるために、活字本で他に「無」として判読されている文字とを比較しておきました。対象になるのは111文字目にある「無余儀」(余儀なき)と142文字目の「無止候間」(止むこと無く候らわば)の「無」です。

一見してわかるのは朝野では32文字目と111、142文字目では、字体の構造そのものが異なる文字として認識されていることです。すなわち、32文字目は「被」として、111、132文字目は「無」として朝野は読んでいるもととして考えて差し支えないでしょう。

対して、 古証文肉筆本の三種の111、132文字目は、いずれも上記サンプルの「無」の構造を残しております。更に言えば、古(不)の32文字目は他の2書と異なり、サンプルの「被」の構造を併せ持っているともいえます。

安城市史の解説においては以下のようなコメントが付されております。
>「被相談」の「被」を「無」の誤写とみる説もあるが、文字自体は「被」である

朝野のみを見た時点では私自身も、それを否定しきれませんでしたが、肉筆本を観察して当該文字はむしろ「無」と読んでもよいように判断いたします。

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2013年5月29日 (水)

川戦:安城合戦編⑪漢字パズルⅠ(安城市史における「被相談」について)

 次に、織田信秀の安城侵攻に今川義元への相談があったか、否かの論点について述べてまいります。具体的には北条氏康文書の中にある『○相談』の文言が『被相談』なのか、『無相談』なのかを確認しようというのが趣旨です。
 以下は安城市史所載の北条氏康文書の本文と、個々の漢字が何番目の文字なのかを示したスケールをつけております。

01---+----10----+----20
如来札近年者遠路故不申通候処懇切ニ示給候
21---+----30---+----40
悦着候仍三州之儀駿州へ相談去年向彼国
41---+----50---+----60-
起軍安城者要害則時ニ破破之由候毎度御戦功
62--+----70----+----80--
奇特候殊岡崎之城自其国就相押候駿州ニも今橋
83-+----90----+----00-
致本意候其以後万其国相違之刷候哉因茲
02-+----10---+----20-
彼国相詰之由承候余儀題目候就中駿州此
22--+----30----+----40-
方間之儀預御尋候近年雖遂一和候自彼国疑心
42--+----50----+----60-
止候間迷惑候抑自清須御使并預貴札候忝候
62--+----70----+----80-
何様御礼自是可申入候委細者使者可有演説候
82--+
恐々謹言、

 次に、織田信秀の安城侵攻 方法論としては、上記文中の『無』と『被』の自体を抽出し、安城市史、戦国遺文、小田原市史の刊本史料と、朝野旧聞ほう藁及び、古証文(和学講談所版)等の肉筆本の字体を比較し、それぞれがどのような特徴をもっているかを比較することをもって、自分なりに妥当と考えられる読み方を検討するという手順を取ってゆきます。比較対象とする文字は32(被)、40(被)、51(被)、83(被)、104(被)、111(無)、142(無)の7文字で、特に32文字目の文字が被であるのか、無であるのかを判読してゆきたいと思います。

図表1:「無」と「被」の一覧
Photo_3

 安城市史版の北条氏康文書より、「無」と「被」としている部分の文字を一覧比較しました。 032と040の文字において刊本である戦国遺文、安城市史、小田原市史の解釈に違いが出ております。
 また、肉筆文書においては、特に古証文において字形にばらつきがあります。逆に、朝野旧聞ほう藁においては、安城市史が「被」としている文字と「無」としている文字を書き分けていることが明瞭にわかるかと思います。
 古証文の肉筆字で、特にばらつきがあるのは、032、040、083の「被」の字です。このばらつきについては、後段で検討します。

以降、各史料の呼称は朝野旧聞ほう藁は朝野、大久保酉山旧蔵本古証文は古(酉)、和学講談所旧蔵本古証文は古(和)、旧蔵所不明本古証文は古(不)と略称させていただきます。

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2013年5月27日 (月)

川戦:安城合戦編⑩史料パズルⅡ

 前稿で紹介した古証文の6冊本の史料の並び順について、前稿で個別に見た史料の検証結果を加味してみます。

 ③の文書の切れ目が⑪文書の改頁後につながっております。よって、②、③、⑪の文書は以下の通りに分割することができます。⑨も文書の宛名の所で改頁をしていますので、一応分割しました。意味はつながっていても不自然ではありません。尚、宗瑞文書は『今度氏親~』で始まりますので、分割されて完全になります。

①     十二月 十六日付 一色式部少輔宛  織田弾正忠信長文書
②天文十七  三月 十一日付 織田弾正忠宛   氏康文書(多賀枇杷庄~)
③    閏十一月  七日付 巨海越中守宛   (北条早雲)宗瑞文書(不完全)

④    閏十一月 十一日付 水野十郎左衛門宛 織田弾正忠信秀文書
⑤      九月二十三日付 安心軒・瓦礫軒宛 齋藤左近大夫利政文書
⑥      九月二十五日付 水野十郎左衛門宛 長井九兵衛秀元文書
⑦天文十七  七月  朔日付 朝比奈○三郎宛  義元文書
⑧      四月 十ニ日付 水野十郎左衛門宛 義元文書
⑨      三月二十八日付 安心宛      鵜殿長持文書
⑩      十月  九日付 徳川宛 (北条陸奥守)氏照文書
⑪  十七年 三月 十一日付 織田弾正忠宛 氏康文書(短文バージョン)

 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 

①      十二月 十六日付 一色式部少輔宛  織田弾正忠信長文書
②       七月  十 日付 一式式部少輔宛  木下藤吉郎文書(前半部分)《改頁》
②'天文十七  三月 十一日付 織田弾正忠宛   北条氏康文書(短文バージョン文末)
③   十七年 三月 十一日付 織田弾正忠宛   北条氏康文書(長文バージョン前半部分)《改頁》
③'    閏十一月  七日付 巨海越中守宛   (北条早雲)宗瑞文書(完全版)

④     閏十一月 十一日付 水野十郎左衛門宛 織田弾正忠信秀文書《改頁》
⑤       九月二十三日付 安心軒・瓦礫軒宛 齋藤左近大夫利政文書
⑥       九月二十五日付 水野十郎左衛門宛 長井九兵衛秀元文書《改頁》
⑦ 天文十七  七月  朔日付 朝比奈○三郎宛  義元文書
⑧       四月 十ニ日付 水野十郎左衛門宛 義元文書《改頁》
⑨       三月二十八日付 安心宛      鵜殿長持文書《改頁》
⑨'      三月二十八日付 安心宛      鵜殿長持文書

⑩       十月  九日付 徳川宛     (北条陸奥守)氏照文書
⑪ 天文十七  三月 十一日付 織田弾正忠宛   北条氏康文書(短文バージョン前半部分)《改頁》
⑪'  十七年 三月 十一日付 織田弾正忠宛   北条氏康文書(長文バージョン文末)

 氏康文書の前半・後半が意味の通るように並べ替えるためには②'と③の文書が⑪の後にくればよいことになります。また、②と③'の間には木下藤吉郎文書の後半部分だけではなく、他の文書がくることが予想されます。以上を並べ替えると次の形になります。この並びの③'~⑪'までの並びは4冊七巻本と一致します。(①~③'までの並びは確認はとれていません)

①      十二月 十六日付 一色式部少輔宛  織田弾正忠信長文書
②       七月  十 日付 一式式部少輔宛  木下藤吉郎文書(前半部分)《改頁》
       (木下藤吉郎文書の後半部は未確認。更に別文書が続くものと推測される)
③'    閏十一月  七日付 巨海越中守宛   (北条早雲)宗瑞文書(完全版)
④     閏十一月 十一日付 水野十郎左衛門宛 織田弾正忠信秀文書《改頁》
⑤       九月二十三日付 安心軒・瓦礫軒宛 齋藤左近大夫利政文書
⑥       九月二十五日付 水野十郎左衛門宛 長井九兵衛秀元文書《改頁》
⑦ 天文十七  七月  朔日付 朝比奈○三郎宛  義元文書
⑧       四月 十ニ日付 水野十郎左衛門宛 義元文書《改頁》
⑨       三月二十八日付 安心宛      鵜殿長持文書《改頁》
⑨'      三月二十八日付 安心宛      鵜殿長持文書
⑩       十月  九日付 徳川宛     (北条陸奥守)氏照文書
⑪ 天文十七  三月 十一日付 織田弾正忠宛   北条氏康文書(短文バージョン前半部分)《改頁》
②'天文十七  三月 十一日付 織田弾正忠宛   北条氏康文書(短文バージョン文末)
③   十七年 三月 十一日付 織田弾正忠宛   北条氏康文書(長文バージョン前半部分)《改頁》

⑪'  十七年 三月 十一日付 織田弾正忠宛   北条氏康文書(長文バージョン文末)

 以上の事実に基づき、安城市史の言う、(氏康文書)は『「朝野旧聞ほう藁(※)」にも「古証文曰く」として載せられているが(同書永正三年(1506)十一月十二日条)、そこでは本文末尾の「恐々謹言」の「恐々」以降から、全くの別文書である永正三年閏十一月七日付宗瑞書状(史料三七五解説参照)につながった不完全な形で納められている』理由について結論を申し述べます。

 朝野旧聞ほう藁は同書が言うとおり、古証文から同書記事を引用しております。その古証文は乱丁のため、頁が入れ替わっており、長文バージョンの氏康文書と宗瑞文書が合体したものが一つの文書のように見えておりました。朝野旧聞ほう藁はその間違いを気づかないまま掲載したものです。内閣文庫の6冊本の二部は筆跡は異なりますが、二部ともが同様の乱丁をしております。併せて頁と行数、改行・改頁位置も合わされておりました。4冊七巻本も頁順を除けば同様であるので、これら三冊は乱丁のある二冊のいずれかが種本になったか、または、乱丁のある底本から手作業でカーボンコピーのように忠実に筆写されたものと言えると思います。4冊七巻本も冊数と巻数が異なるバージョンとして作られていることから、後になって乱丁に気づいて、綴り直された本であると考えるべきかと思われます。

 もう一方の朝野旧聞ほう藁は、文面を肉筆書写しているものの、改行位置は異なっておりますし、字形も必ずしも忠実とは言い難い印象を持ちました。そのあたりについては、次稿にて詳しく述べてゆこうと思います。

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