2017年8月20日 (日)

川戦:安城合戦編Ⅱ 第6節の論点抽出:仮説は史実に矛盾していないだろうか?

 本稿は論文第6節松平広忠降参情報の信憑性」について考察するものです。

 

 論文中のこの節は今まで論文が「証明」してきた論点を用いて、それが実際の史実にどのように反映しうるかについて言及しています。このような進め方をする目的は、日覚と北条氏康の書状が「岡崎に衝撃的な攻勢」をかけたと言っているのはほぼ確実であるが、その情報源は織田信秀であるので、彼の言い分が史実に即しているかどうかを検証したいとのことです。

 

 ここまでの考察で私自身、論文が提示している根拠については、反証を挙げ、別解を示してきました。なのでここまでの論文が論証したとする「史実」で何らかの証明が提示されても、こちらはその反証根拠を既に記述した論点から挙げることは可能であるかもしれません。
 ただ、それは私自身か以前の稿で示したことの繰り返しになるので、繰り返しはできるだけ避けたいと思います。同時に別角度からの論文の検証を続けてゆきます。そして私自身もここまで別解を出してきておりますので、それらがどの程度史実に反映しうるのかをついでに考えてゆきたいと思います。

 

 まず論文は、これまでの研究で明らかになっている天文十六年九月上旬までの織田・今川の動きについて、既に言及された事項を含め、以下の出来事を列記しておりますので、(1)論文のロジックに本当にあっているか?(2)別解を導けないか?について考察をしたいと思います。

 

 天文十二年以前_________安城城攻落(6-1)
 天文十三年__九月_______織田、美濃斎藤氏を攻めて大敗(6-2)
 ___同年閏十一月_______織田、松平広忠の臣阿部大蔵、尾三国境に出陣
 天文十四年___________安城清縄手の戦い(6-3)
 天文十五年_十一月_______今川、今橋城の戸田宣成を攻める。(6-4)
 天文十六年__六月_十三日以前_今川、今橋を入手する。
 ___同年__七月__八日以前_今川、医王山に砦普請を終える。(6-5 ①)
 ________________⇒広忠救援のためのものか。
 ___同年__九月__五日___今川、田原城の戸田堯光を攻める。(6-6)
 ________________⇒この攻撃は今川にとって想定外のものだった

 

 その後の展開として論文はさらに以下の事項も追加しております。

 天文十六年___________織田信長初陣で吉良大浜を焼討(信長公記)(6-7)
 ________________⇒吉法師の大浜攻撃は、岡崎に連動と想定。
 ___同年__九月二十八日___渡河原合戦(6-8)
 ________________⇒隙をついて復帰か、降参していないのか?
 ___同年_十_月二十_日___松平広忠、松平忠倫暗殺の功により筧重忠に感状発給。
 ________________⇒広忠の心が反織田の態度を肯定する立場を示すもの。
 ___同年_十二月__五日___松平広忠、松平清康の十三回忌供養に大樹寺へ寄進。
 ________________⇒この時点で松平広忠が岡崎に健在であったことは間違いない。

 上記の論考により、天文十六年九月上旬に岡崎城が織田の攻撃にさらされたことは間違いないとのことですが、その後の松平広忠の行動については、次のようなことが指摘されてます。

〇論文より引用
 しかし、織田が岡崎を攻落したとまで断定することはできず、仮に広忠が降参したとしても、信秀が三河から退去してほどなく岡崎城主としての地位を回復したとみる。但し、岡崎城主としての地位を回復することと、外に向かって反織田の旗幟を鮮明にすることとが、この時点で必ず連動するとは限らない。

 要約するなら、松平広忠の史実における行動は日覚・氏康書状の中で織田信秀からの話として語られる論文解釈とはかけ離れている(6-9)ということですね。

 この論点については、私自身の別解として、『天文十六年八月上旬 第一次小豆坂合戦(6-5 ②)』説を提示してみようと思います。

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2017年8月19日 (土)

川戦:安城合戦編Ⅱ 5-5 今橋を「本意」にしたのは、去年(天文十六年)の事か?

 本稿の論点は私自身、さほど重要な物とは考えておりません。氏康書状が去年のことと言っているのはあくまで安城をめぐる合戦についてのことであって、今川義元が今橋を「本意に致した」と書いている部分にはかかっていないと考えているからです。仮にかかっていたとしても今川軍の今橋攻撃が天文十五年の十一月のことですから誤差の範囲ですし、そこに矛盾があったとして、史料の信憑性や価値が毀損するとかそんな類の話には見えません。

 しかしながら、論文においては今橋を「本意」にしたのは、去年(天文十六年)のことであるかどうかについて、紙幅をとって論考が加えられています。北条氏康書状を論考の俎上に載せるうえで、過去に行った考証に訂正が必要な点であると認識したからでありましょう。
 曰く「また③の記述について、同じく前述[解説]において、今川が今橋城(城主戸田橘七郎宣成)を陥落させたのは天文十六年ではなく、通説に従って同十五年十一月十五日であるとし(「豊橋市史第一巻」豊橋市発行、一九七三年、三九一ページ参照)、この記述に疑問を呈した。先の②の記述についてともども氏康B書状後代創作説に傾く根拠として挙げた所である」

 論文によると天文十五年十一月十五日付で今川義元が天野景泰に感状を出しており、そこには今橋城の外構を乗り崩して宿城に乗り入ったことが述べられているとのことです。宿城に乗り入ったからと言ってそれが必ずしも落城させたとまでは言えず、今川家が今橋城を確実に支配下におさめたと判るのは天文十六年六月十三日銘の神輿棟札発行までの間であるので、今橋支配を確実にしたのは天文十六年と言っても差し支えがないということらしいです。

 ただ、北条氏康書状におけるこの今橋の扱いには引っかかることがないわけではありません。北条氏康の認識もそうですが、論文の論理展開に見落としている事件があると思います。
 北条氏康書状が書かれたのは天文十七年三月十一日です。今川軍が三河に侵入して今橋城を本意にしたのが、天文十五年十一月十五日~天文十六年六月十三日の間。論文が安城を拠点に敵を破り、岡崎を攻落したとしているのが天文十六年九月のことです。北条氏康は織田信秀に次のような問いかけをしています。

 「其以後万其国相違之刷候哉(それ以後よろず其の国に相違のあしらいがあったのでしょうか?)」

 論文ではこのセンテンスの「其国」は尾張国と解釈していますが、以前の稿でも指摘した通り、私はここを駿河国と見ております。いずれにせよここの「哉」は反語表現で、其の国(駿河国)に「相違之刷」が実際にあったと説いているのです。そのせいで織田信秀は三河国に詰める羽目になっております。論文では「相違之刷」を織田信秀の岡崎城攻落としておりますが、たぶん違います。というのは、このセンテンスは織田の安城での合戦と岡崎「攻落」、今川の今橋「本意」について述べたくだりがあった後に「其以後」とつなげているからです。

 すなわち、織田・今川勢力の三河侵入の後に起こったことについて語っているのです。それが何であるかは年表を見れば明らかでしょう。氏康書状が書かれた時期には今橋だけではなく、戸田宗家の根拠地である田原城が今川軍によって落とされていたのです。天文十六年九月のことです。時期的には論文が岡崎を「攻落」したと言っている時期にあたり、同時期に三河で今川軍が軍事行動を起こし、田原城主である戸田宗家の康光・堯光親子が討ち取られているのですが、そこは何故か触れられていません。そのあたりは不自然に感じます。東三河の要衝として北条氏康の認識としては田原より今橋の方が重要と考えていたのかもしれません。あるいは、田原の戸田宗家を滅ぼすことによって、三河湾の海上交易ルートに干渉する物がいなくなり、最重要拠点である今橋の湊を「本意」にできるようになったことを言っている可能性もあります。

 しかしこれは、双方の当事者にとって言わずもがななことは敢えて書かない、もしくはぼかした表現で記すことになっていたのではないでしょうか。そしてそのぼかした表現こそが「其国相違之刷」=今川軍の田原侵攻であり、織田信秀が三河に詰めなければならない理由であったと考えられます。

 この氏康書状は知行宛行や感状ではないのですから、機微に触れる事項については敢えて明記しないことにしたという解釈で差し支えないでしょう。じつは、「其国相違之刷」の解釈については別解として、『天文十六年八月の第一次小豆坂合戦』も思案にいれているのですが、その論旨については次節「6.松平広忠降参情報の信憑性」の考察記事に回したいと思います。

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2017年8月13日 (日)

川戦:安城合戦編Ⅱ 5-4 織田の岡崎攻落をもって鵜殿氏の立場が危ういものに急変したのか?

 論文において「一方で菩提心院日覚書状は、織田の岡崎攻落を以って鵜殿氏の立場が危ういものに急変したとの認識を示している」と言う記述があります。そこに至るまでのロジックは、以下のプロセスを経て、⑥に当たる部分で言及されています。

 ① 氏康書状「殊岡崎之城自其国就相押候」の部分を「岡崎城を確保した」と解釈。
 ② 日覚書状「岡崎ハ弾江かう参分」の部分を「信秀に広忠は降参した」と解釈
 ③ ①②より氏康書状の「押さえ」は「確保」ではなく、「攻落」であると解釈変更。

 ④ 氏康書状「〇相談」を「(織田が今川に)被相談」と読み、織田と今川の外交チャンネルの存在を示唆
 ⑤ 氏康書状「駿州ニも今橋被致本意候」を④により織田が追認したと主張していると解釈

 ⑥ ①~③の結果、鵜殿氏が窮状に陥ったと日覚書状が示しているとの認識を提示。
 ⑦ 氏康書状「其以後万其国相違之刷候哉」の部分を「織田にとっての相違のあしらいが生じた」と解釈。
 ⑧ ④があったとしても、⑥に代表される傘下国人の窮状を今川が看過できない事情があったと結論

 ⑧の結論に至るまでかなりの紙幅が費やされており、果たしてこの論旨要約が正しいかどうかも怪しくはありますが、①、②、④(の前段)については既に拙稿にて別解を提示しております()。そして、⑥の主張を展開するためには、論文は以下の論理展開プロセスを経ていると解釈せざるを得ません。

 ⑥' ⑥の認識に至る前提として、論文は日覚書状の言う「駿河衆敗軍」を「岡崎攻落」と解釈。

 そしてその解釈は論文中には明示されてはおりません。実際に菩提心院日覚書状の書状を読みても、必ずしもそのようには書かれているとも読めないのです。故に論文のここのロジックは客観的に見てかなりいただけない感じになっております。以下に日覚書状の関連部分を引用します。

〇菩提心院日覚書状 本成寺文書  愛知県史資料編14より抜粋引用(拙稿にて下線部付記)

一三州ハ駿河衆敗軍の様二候て、弾正忠先以一国を管領
 候、威勢前代未聞之様二其沙汰共候、一、此十日計巳
 前ニ京都より楞厳坊罷下候、厳隆坊も同心にて候、心
 城坊ハ旧冬よりいまに当国二滞留候、さる仕合候て、
 濃州より当国へ上使二養雲軒と申人之内者の様にて候、
 于今旦方あひたの使なと仕候、此人なふてハの様にて
 候、一、彼楞厳坊申来候ハ、鵜殿仕合ハよくも有間敷
 様二物語候、其謂ハ尾と駿と間を見あはせ候て、種々
 上手をせられ候之処二、覚悟外二東国はいくん二成候
 間、弾正忠一段ノ曲なく被思たるよしに候、定而彼地
 をも只今の時分ハ攻いらんやと致物語候間、あまりニ
 □□許存候間、近日心□坊を可差遣覚悟にて候、岡崎
 ハ弾江かう参之分にて、からゝゝの命にて候、弾ハ三
 州平均、其翌日ニ京上候、其便宜候て楞厳物語も聞ま
 いらせ候、万一の辺も候てハ、門中力落外見実義口惜
 次第候、

 日覚書状で岡崎が言及されている部分は引用部の最後から五行目のあたりです。その前段で、日覚が鵜殿の危機を感じ取ったのは、あくまでも「駿河衆敗軍」「東国はいくん」であってそれが心配だから心城坊を三河に派遣するといった話の後に初めて岡崎がでてくるのです。

 論文の通りに書状を「駿河衆敗軍」=岡崎攻落と解釈しようとするとどうしても一度文章を最後まで読み切ってから前に戻って解釈をしなおさなければなりません。この論文においてはそのような解釈をするケースが多すぎると思います。普通に前から後ろへ読み進めるなら、織田方に敗軍したのはあくまで「駿河衆」「東国」であって、岡崎にいる松平広忠は駿河の今川義元の与党ではあっても、駿河衆そのものではありません。

 最終段での「万一の辺」という記述の想定が鵜殿の運命を岡崎のそれになぞらえていますが、岡崎の運命は日覚書状の文章の構成からあくまでも駿河衆敗軍の結果に付随するものとして見るべきです。
 論文の手法は日覚書状の辺句を切り取って解釈し、それを北条氏康書状の辺句と組み合わせて新たな解釈を生み出し、その解釈をまた日覚書状に戻して別の部分に適用することによってさらに新しい解釈を展開しています。しかし、それは日覚書状、氏康書状のそれぞれの文脈を無視した論旨の展開であるために、両書状を踏まえて論文を読むと、その論旨は中々理解しがたいものになっているのです。

 結論として、「織田の岡崎攻落をもって鵜殿氏の立場が危ういものに急変した」とする論文記述は日覚書状の文脈を無視した解釈であり、そこから導き出される「織田にとっての相違のあしらい」の根拠にはなりえないと私は考えます。
 それでは鵜殿氏の立場を危うくしたと日覚書状が述べている「駿河衆敗軍」の正体は何か、については論文の第六節「6.松平広忠降参情報の信憑性」の考察において進めようと思います。

 

 

 

※上記部分の論旨の展開は拙稿の以下部分で行っております。よろしければご参照ください。
 ① 氏康書状「殊岡崎之城自其国就相押候」の部分を「岡崎城を確保した」と解釈。
   ⇒岡崎城の状況は付け城包囲による確保と考察。
   「5-2  天文十六年に織田信秀は岡崎城を確保したか」

 ② 日覚書状「岡崎ハ弾江かう参分」の部分を「信秀に広忠は降参した」と解釈
   ⇒松平広忠は織田信秀への降参者によって、命の危険にさらされていますという解釈を提示
   「5-2  天文十六年に織田信秀は岡崎城を確保したか」

 ④ 氏康書状「〇相談」を「被相談」と読み、織田と今川の外交チャンネルの存在を示唆
   ⇒無相談と読むべき根拠を提示。
    外交チャンネルの存在そのものは否定しないが、書状に顕れていないと解釈。
   「3-2 織田信秀は出兵を今川義元に相談したのか?」
   「3-3  『古証文』の底本は何か?Ⅰ」
   「3-4  『古証文』の底本は何か?Ⅱ」
   「5-3  安城合戦と岡崎攻落は織田と今川の相談の上でなされたか?」

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2017年8月12日 (土)

川戦:安城合戦編Ⅱ 5-3 安城合戦と岡崎攻落は織田と今川の相談の上でなされたか?

 論文において織田と今川に外交チャンネルがあったことを示唆している文言「〇相談」の〇の部分が無なのか被なのかについては、川の戦国史安城合戦編 でもやりましたし、本編 でもそれについての考察を行いました。とりあえず、それを置いて論文の解釈における今川と織田の合意のある状況というものがどのようなものであるのか、考えてみたいと思います。

 織田信秀は今川義元との相談の上で軍を起こして
①安城に迫る敵を破り、
②岡崎城を詰める、即ち、確保もしくは攻落させた。
③その前提として今川の方は今橋を本意とすることを織田も支持していたが、岡崎の攻落は今川義元の想定範囲を超えることであったためか、
④それ以後織田にとっての相違のあしらいが生じた、
 という具合に解釈を進めております。

〇安城市史5 資料編 古代・中世より引用(センテンス毎に改行、番号挿入を行う、指示代名詞+名詞を赤字)
如来札近年者遠路故不申通候処懇切ニ示給候悦着候、
仍三州之儀駿州へ被相談、去年向
彼国被起軍①安城者要害則時ニ被破破之由候、
毎度御戦功奇特候
②殊岡崎之城自其国就相押候
③駿州ニも今橋被致本意候
④其以後万其国相違之刷候哉

因茲
彼国被相詰之由承候
無余儀題目候
就中駿州此方間之儀預御尋候
近年雖遂一和候自
彼国疑心無止候間迷惑候
抑自清須御使并預
貴札候忝候
何様御礼自是可申入候委細者使者可有演説候
恐々謹言、

 確かに相談は存在し、そこでの合意を破った今川に非があり、自分はそれによって三河駐留を余儀なくされたというのが論文が描いたこの書状のストーリーです。では相談したのにもかかわらず生じた織田にとっての相違のあしらいとは何なのでしょう。論文では、織田と今川との外交チャンネルの存在を日覚書状の鵜殿情報に絡めてその可能性を論じています。それによると両者による三河分割の合意の存在とそれによる今川の今橋支配と織田の岡崎確保がバーターとして扱われたこと(ただし、織田信秀の主張)が読みとれるのだそうです。しかし、それは実際には機能しなかった。今川は織田の岡崎領有を許さなかったせいで、北条氏康に助力を請う羽目になったと論文は解釈しているわけです。

 以下、それに対する私自身の解釈による別解をまとめておきます。
まず、「〇相談」の〇の部分は無です。しかし、それは今川と織田との間に外交チャンネルの存在がなかったことを示すのではなく、相談をしなかったのは彼国(=三河の松平広忠)です。松平広忠は今川傘下にありながら今川家と相談することなく、軍を起こしたわけですね。

 そして①これに向かって織田信秀は戦いを挑み、安城の要害を破ったのです。(あるいは、安城は要害だけれども実力で打ち破った)「安城〇要害」の〇部分は素人目には「者」とも「之」とも読める微妙な表現なのですが、「之」とするのが妥当でありましょう。「者」にした場合はそのままの形ではうまく意味の通る解釈になりません。意味を通すなら論文が試みた通り「にて」という格助詞をつける必要が生じますが、そのような字句を恣意的につけての解釈が可能であるならば、「なれど」と逆接の補語で補って意味を取っても差し支えないことになります。その場合は〇を「之」と解釈したのと同じ意味合いになりますので、字句を付加しての解釈はそれ自体意味をなしません。よって、与えられたセンテンスのみで「者」で読んでも意味が通らないのであれば、「之」で解釈すべきでありましょう。

 松平広忠は日覚の書状が書いている通り、織田信秀に降参した旧松平広忠家臣衆によって命からがらになるまでの大敗を喫し、其国(=駿河勢力)の最前線である岡崎の城は松平記や三河物語が示す通り旧松平家臣達の岡崎城包囲によって織田信秀が押さえ込んだ状況になっています。論文では岡崎城を「確保」から日覚書状の「岡崎ハ弾江かう参之分にて、からゝゝの命にて候」の記述をうけて「攻落」と段階を上げていますが、ここは岡崎の降伏とする解釈には疑義を呈しておきます。論文では「にて」を資格・身分を示す格助詞として解釈していますが、「にて」には手段を表す格助詞としての意味もありますので、これもまた別解として成立しえます。

 ③駿河側も今橋を手中に収めていたが、
 ④それ以後に織田信秀は
其国(=駿河勢力)と仲違いしてしまった。
そのせいなのか、織田信秀は彼国(=三河)に自ら出馬せざるを得なくなったとの旨、承知いたしました。

 論文では「其国相違之刷候哉」を「織田にとって相違のあしらい」と解釈しております。とりあえず漢和辞典を調べても「刷」の字を「あしらい」と訓読する辞典は見当たらず、小田原市史は「(つくろい)扱い」と注釈していて、いずれが正しいのかを判断する材料は持っていません。以前の解釈では「刷」を「増刷」などからの連想してニュースと解釈していましたが、文字の意味からそれもなさそうです。

 そして「相違」はそもそもそれは織田にとってのものなのでしょうか。書状には「彼国」「其国」など指示語で国が記されていますが、尾張国を指す言葉については、北条氏康書状の「自清須御使并預貴札候忝候」に着目してください。織田信秀の書状のことを「貴札」と記しています。であれば信秀が属する国のことを北条氏康は「貴国」と呼称したはずです。よって「其国」は「殊岡崎之城自其国就相押候」の行で織田信秀に押さえられた岡崎城が頼みとしていた国、即ち駿河と考えるべきです。

 「相違」ですが、「ソウイ」と音読みするのではなく、訓読みして「あいちがい」とする別解もあり得ると考えます。「ちがい」というと直江兼続による「内府ちがひの条々」などの用法がある通り、非難をする意味があります。それを相互に行うことですから普通に仲違いという意味でいいのでしょう。織田信秀が岡崎、今川は今橋を確保する以前までは互いに譲っていた合意があり、その後仲違いをしたため、織田信秀本人が三河に駐留せざるを得なくなったということでよろしいかと思います。

 今川家も、斯波家を背後で支える織田家も互いに三河国人衆の後ろ盾として機能しておりました。三河国人衆が無用な紛争を治められるよう両家が相互に外交チャンネルを持っていたこともあり得ることだと思います。しかし、それはおそらく論文が言うような相談して岡崎に攻め込むような露骨なことを氏康書状が示しているわけではないと考えます。
 織田信秀は駿河国とあい「ちがい」して三河に駐留したわけですが、その原因になった「刷(あしらい)」とは何でしょうか。論文では信秀による岡崎攻落と位置付けていますが、別解もあり得ると思いますので、次稿以降で提示させていただきます。

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2017年8月 6日 (日)

川戦:安城合戦編Ⅱ 5-2 天文十六年に織田信秀は岡崎城を確保したか(日覚・氏康書状の検証)

 日覚書状では「岡崎ハ弾江かう参之分にて、からゝゝの命にて候」という記述があって、北条氏康書状にも「殊岡崎之城自其国就相押候」と書かれています。論文ではこれらから織田信秀の岡崎城確保は裏付けられたといっておりますが、本稿ではこの見解について別解の余地がないか検討してみます。

〇論文より引用
岡崎ハ弾江かう参之分にて、からゝゝの命にて候
(中略)
岡崎城主松平広忠は、織田信秀への降参者として処遇され、辛うじて命ばかりは許された。

 論文が言及しているセンテンスを論文のニュアンスにする場合は、以下のような文言になるかと思います。

「岡崎ハ弾江(之)かう参之分にて(遇され)、からゝゝ命にて(許され)候」

 戻し訳文から(之)、(遇され)、(許され)が略されていると考えれば一応のつじつまはあいます。 しかし、私は論文の訳文は順序が逆ではないかと思うのです。すなわち、降伏する人は、降伏者としての処遇が与えられる前に命の危険にさらされるのであって、降伏者としての遇された時点で命の危険は去っているはずです。
 もちろん、降伏した後に処遇が決まって処刑されるケースもありますが、論文が言っているような形の降参であれば以下のような原文になるのではないでしょうか。

「岡崎ハ弾江かう参致し候、からゝゝ命にて(許され)候」

「弾江かう参し」と「弾江(之)かう参之分」の違いは前者があくまでも広忠が降伏の意思表示をしたことに留まりますが、後者は信秀が遇した降参者というニュアンスが生じます。つまり、降参者は信秀に臣従を誓い、その代償としての降参者としての処遇を与えたということです。その後に命を脅かすような目に合わせることはまずないでしょう。
 なので、論文訳のようなニュアンスでシンプルに書くならば以下のようになるはずではないでしょうか。

「岡崎ハ弾江、からゝゝの命にてかう参致し候」

 しかし、そうなっていないとするならば、別解の存在の可能性を検討するべきではないかと思います。別解の可能性を検討する際に着目すべきは格助詞「にて」であろうと思います。「にて」でWeb検索すればその意味が出てくると思いますが、これは身分・処遇を示すだけでなく、手段や候を補って断定の意をもつケースもあります。当該原文には「にて」の語が二箇所存在しています。後者の「にて」は候が補われておりますので、断定の意でも通りそうです。そして、前者の「にて」を身分・処遇の意味から、手段(によって)に置き換えてみると意味が微妙に変わってきます。

 岡崎ハ弾江かう参之分「にて」(手段)、からゝゝの命「にて候」(断定)
 ⇒岡崎ハ弾江かう参之分によって、からゝゝの命である。

 「岡崎」と「弾江かう参之分」、論文訳及び今までの拙訳を含めて同じ者を指すと考えてきましたが、別解として別人である可能性が出てきました。口語訳にすれば、さらに明確になります。

(訳案)松平広忠は織田信秀への降参者によって、命の危険にさらされています。

 通説によるとこの書状が書かれた天文十六年九月時点で松平広忠の家臣団は分裂し、織田方についた一門衆の合歓木松平信孝は山崎(岡)の砦に、佐々木松平忠倫は上和田砦、桜井松平家次(内膳信定の孫)は譜代の重臣酒井将監とともに上野城に拠点を置いております。そして彼らは織田信秀に岡崎城攻略のための拠点としてそれらを提供しておりました。通説の状況とも一致しますので、訳案の一つとして打ち出しうるものだと思料致します。

 そして、その解釈を取った場合、松平広忠が命の危機の状態ではあっても、岡崎城攻落を示したものではないということになります。

 次に、北条氏康書状の岡崎攻落の箇所について検討をしてみます。

〇論文より引用
 殊岡崎之城自其国就相押候
(中略)
 殊に岡崎の城、其の国より相押さえ候に就き

 以前のブログ記事で「相押」を「押さえあい」と読んで岡崎城が尾駿両勢力の角逐の場になったと解釈したことを記しましたが、その解釈に強引さがあったことは認めます。本稿ではその解釈を改めさせていただきます。

〇論文より引用(拙稿にて下線部を追加)
② また、岡崎城を確保した

 論文では上記のように「相押さえ」を「確保」という言い方にしています。「押さえ」の意味に、物が動かないように押さえることとか、勢いを防ぎ止めること、等の意味があります。戦国時代の城の落とし方は、信長公記にみられるように目標となる城を付城と呼ばれる城砦群で包囲して標的の城への出入りを制限することで弱らせてから攻撃します。この付城が包囲した状態を「押さえ」と読んだのだとすれば、これは日覚書状の「岡崎ハ弾江かう参之分にて、からゝゝの命にて候」の私が挙げた別解の状況と合致します。

(訳案)殊に岡崎の城を、(付城包囲によって)駿河国より(の勢いを)押さえ込んだことについては、

 なので、付城包囲で其の国(=駿河国)の傘下である岡崎城の勢いを防ぎ止めたこと をもって「確保した」という言葉になっているのであれば、その用法は妥当なのでしょう。しかし、論文後段で②のニュアンスを根拠の提示がないまま以下のように変えてしまっております。

〇論文より引用(拙稿にて下線部を追加)
次に、②の織田信秀岡崎攻落の記述については、

 「確保した」ではなく「攻落(攻め落とした)」になっているのですね。
 もちろん日覚書状の「岡崎ハ弾江かう参之分にて、からゝゝの命にて候」を岡崎=「弾江かう参分」と読んだ結果を踏まえて、岡崎城が攻め落とされたと考えてもよいのです。しかし同じ節の前段で同じ項番②として定義した氏康書状の字句解釈を断りなくニュアンスを変えて述べるのはいかがなものかとも思います。

 結論として、日覚書状並びに北条氏康書状が述べる岡崎城の状況は付け城包囲による確保(今川方である岡崎城の勢いを防ぎ止める)状態として一致していると読みうる。よって、岡崎城を「攻め落とした」とする論文解釈には疑義を呈する余地があると私は考えます。

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2017年8月 5日 (土)

川戦:安城合戦編Ⅱ 5-1 ⑥検証:安城城天文九年攻落説(時系列でみた考察および結論)

 本稿においては、前稿で提起した寺院過去帳の天文九年六月六日説の出所を時系列にまとめつつ、考察してゆきたいと思います。

 慶長十五年に太田牛一が現存最古の信長公記を記載します。恐らくは慶長年間中の完成であろうと考えられます。これとほぼ同時期に松平記が成立しているのですが、信長公記は小豆坂合戦の年次を記しておりません。松平記は天文十七年三月十九日と記しておりました。いずれの小豆坂合戦もこれが始まる以前に織田信秀が安城城を手に入れていたことを明記しております。但し、信長公記も松平記も広く読まれることを前提として書かれた本ではありません。知る人ぞ知る本として退蔵されることとなります。

 信長公記の成立から間もなく、小瀬甫庵が信長公記をベースに信長記の執筆に着手します。その間に徳川家康は亡くなり、遺言に従って遺骸は久能山に安置され、後になって日光に改葬されます。そして大樹寺には位牌が置かれることとなりました。これを機に大樹寺に松平歴代の墓所が整備されることになります。魂場野(魂魄野)と言う寺域の外の場所にあった松平親忠の墓などはほかの歴代の墓と一緒に寺の敷地内に置かれることとなります。この時点で大樹寺は将軍家の位人臣を極める以前の一族の菩提を弔う役割を担うことになりますが、この時点においては大樹寺は徳川家康につながる直系の一族のことだけを把握していればよかったはずです。

 そして、1622年(元和八年)、小瀬甫庵は信長記を刊行しました。この本には牛一本には書かれていなかった小豆坂合戦の年次が天文十一年であるということが明記されています。小瀬甫庵の記述の根拠となる史料の存在は確認出来ません。にもかかわらず、刊行という手段がとられることによって、この本の存在は広く人口に膾炙することとなります。
 同じ年、将軍就任前の徳川家光が日光東照社を参拝します。彼は父親に愛されなかった反動で祖父である徳川家康に深い愛着を持つ人格に育っておりました。彼はこの時の参拝を含めて生涯に十回日光通いをすることになります。その為の費えが幕府の屋台骨を揺るがせ、幕府滅亡の遠因を作ったなどという話も残っております。その翌年に徳川家光は将軍職に就任します。

 その頃、隠居をして暇を持て余した旗本の老人がおりました。名を大久保彦左衛門忠教と言います。慶長年間に作られた松平記は作者未詳なのですが、冒頭部に「阿部夢物語」という阿部定吉の弟である定次が書いたとされる記録が収められています。そうしたことから松平記は阿部定次かその縁者の作ではないかとされています。その阿部定次は忠政という養子に家督を継がせておりました。彼は大久保家出身で、阿部定吉死後の阿部家を出身家である大久保家と一緒に武功を立てて盛り立てていった人物です。大久保彦左衛門忠教もまた、大久保家の一員であり、なおかつ幕臣であるがゆえに松平記に容易にアクセスできるコネクションを持っていたと考えられます。そして、甫庵信長記を読んで、自らの体験や松平記と異なる記述の多さに嘆息して三河物語を著述します。この隠居の著作は作為的に書写されて市中に出回り、甫庵信長記と並んで洛陽の紙価を高めました。頑固爺の小言を絡めた歴史著述が娯楽に飢えた江戸庶民に受けてベストセラーになったのです。

 その間も徳川家光は熱心に日光社参を繰り返しておりました。それから間もなく、大御所徳川秀忠が亡くなり、増上寺に葬られました。これによって彼の行動を掣肘する者がいなくなったのです。徳川家光は日本の国主としての権力を、敬愛する祖父である徳川家康を神として祀ることに全力を傾注します。そして行ったことが日光東照社と大樹寺の大規模な建て替えでした。日光を見ずして結構と言うなかれと言い慣わされるほどの豪奢な木造建築様式は大樹寺の楼門にも適用され、非常に立派に装飾された建築物として現在も残っております。そして徳川家康には東照大権現という神号が付与され、家光自身も死後はこの日光に祀られることになります。

 家光の祖父敬愛の念は寺社の建設にとどまりませんでした。初代徳川将軍を清和源氏の嫡統とし武家全体の主君と位置付け、家臣達には自らの出自に関わる報告書の提出を命じます。それを系図集としてまとめることにより、徳川将軍家と家臣達の関係を文書の形で残そうと思いついたのです。時に1641年(寛永十八年)のことでした。
 この思いつきは徳川幕府の親藩・譜代の大名・旗本・御家人達に恐らくは衝撃を走らせただろうことは想像に難くありません。それまで当たり前のように禄を食んでいた家臣達に自分がここにいていい理由を書類に書いて提出せよと言っているのです。徳川旗本八万騎を数えていても、このリクエストに即応できる、語りたがりの歴オタは概ね大久保彦左衛門くらいだったでしょう。とは言えこの思いつきが発布される二年前には大久保彦左衛門は亡くなっております。
 各家が己が家の蔵に眠っている古文書を探し出して、家臣本人と東照大権現との関係は概ね立証されてゆきます。しかし、どうにもならなかったのはその存在は伝えられていても後継者が絶えて家が存続していなかった人達の事績です。徳川家光の要求も、家臣個人だけではなく、その兄弟の血統もまた報告せよと求められていたのは、系図資料の網羅性を見れば察することが出来ます。
 それは大樹寺にとって直系の一族だけではなく、西三河全域に散っていた一門衆の消息を集めて把握しておく必要が生じたことを意味しておりました。その時点で残っている松平一門衆については、それぞれに家伝を出し合って融通しあうことが可能でしたが、どうにもならないのは絶家した一門衆をどのように記録するかということだったのです。

 絶家した一門衆はその名前と戒名、そして安城での合戦で死んだことだけはわかっていたものと思われます。しかし、一口に安城合戦と言っても天文九年の安城乱、本多忠豊が戦死した天文十四年の戦い、五井松平忠次が戦死した天文十六年の渡河原合戦、そして今川軍が安城城を攻略した天文十八年の合戦、この合戦では本多忠高が戦死しております。それがいつのことかわからないとすれば、大樹寺はどのような行動をとるでしょう。
 恐らくは幕府に援助を受けていた手前、ただ単純にわからないと答えることは出来なかったのではないでしょうか。だとすれば、色々な資料を集めて没年を比定しようとしたと考えられます。寛永年間の時点で大樹寺がアクセスし得た情報を考えるとそれは大久保彦左衛門の三河物語、そして小瀬甫庵の信長記ではなかったでしょうか。松平記もまたそこに含まれていたでしょう。

 三河物語と松平記には安城落城の話こそは記されていますが、それがいつのことであるかは明記されておりません。そして、安城陥落のすぐ後段に佐々木松平忠倫が上和田に砦を作ったことが記されております。時期を特定する手掛かりはこれを読んでもわかりません。一方、甫庵信長記には天文十一年に小豆坂合戦があり、織田信秀は安城城から出陣した旨が記されております。小豆坂合戦が始まる以前に安城城が織田信秀の手に落ちていたということです。この記述を信じるのなら、天文十四年、十六年、十八年の三つの合戦は絶家した一門衆の終焉の時ではないということになります。大樹寺は甫庵信長記の記述から類推して絶家松平一門衆の没年を天文九年としたと私は考えます。

 諸家に呈譜を求め、総裁として系図集の編纂指揮を行ったは幕府若年寄の太田資宗で、実務家としてそれを整理したのが儒家の林羅山でした。大樹寺から天文九年に絶家一門衆が安城で亡くなった旨の報告を受けましたが、同じように五井松平忠次、藤井松平利長らが安城で戦って尾張衆を撃退した呈譜も受け取っておりました。同じように甫庵信長記の記述で考えるなら、その安城合戦は天文十一年以前でなければならないことになります。寛永諸家系図伝は、編纂の開始から献上本の完成までわずか二年しかかけられていません。そこで矛盾する記述はそのまま藤井松平利長譜に混ぜ合わせて記録されたものと考えるべきでありましょう。

 当然のことながら、天文九年の安城合戦における矛盾は後世の史家に気づかれることとなります。その是正がはかられたのが、参州本間氏覚書、岡崎領主古記ということになるのでしょう。それらの書物は寛永諸家系図伝の後に書かれたものと考えられます。

 大樹寺の寺伝は限られた時間で松平家の一門衆の伝を網羅し、なおかつ一門衆と徳川家康との関係を定義しなければならなかった。その為に大樹寺が依拠したのが根拠の存在しない小豆坂合戦の天文十一年説であり、その説が歴史考証の幅を狭めて生み出されたのが、松平絶家一門衆の天文九年死亡説なのでしょう。その死亡説はそのまま安城死守説をとる藤井松平利長、五井松平忠次らの家譜とともに矛盾、即ち城主が死亡する程の大敗なのに城は攻めきれずに織田軍は謎の撤退したこと、をすり合わせることなく寛永諸家系図伝に載せました。その一方で矛盾した記述の整合性をとる作業が始まります。判断材料を求める為に徳川綱吉の代に改めて日本中の諸家にさらに詳細な家伝の提出を求めます。その材料として寛永諸家系図伝が諸家に使われたことは想像に難くありません。苦し紛れの大樹寺の見解は甫庵信長記の断定を補強する材料として扱われ、天文九年の安城城陥落を確定事項のように扱った参州本間氏覚書、岡崎領主古記が現れます。それによって確かに寛永諸家系図伝の矛盾は解決されましたが、その解決が直ちに史実と合致するかどうかは別問題でありましょう。

 結論として天文九年に尾張衆が安城を攻めたことは天文九年十二月二十八日付妙源寺宛都筑竹松等連署売券などから事実であると考えますが、水野氏に話を通さずに行なった遠征の為、安城を攻めたものの向背に不穏さを感じて早々に撤収したのがその年の状況であったと私は考えます。その様な状況が落城説に至ったのは第一に甫庵信長記の記述にあり、短期間で呈譜を求められた大樹寺の対応であった。矛盾した記述をそのまま載せた寛永諸家系図伝を読んだ者がその矛盾を是正する為にその後に作られたのが天文九年の安城落城説であったのだと私は考えます。
 論文の指摘にある安城落城天文十二年以前説については、次節の検証において確認したいと思います。

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2017年7月30日 (日)

川戦:安城合戦編Ⅱ 5-1 ⑤検証:安城城天文九年攻落説(寺院過去帳の検証)

 本稿では大樹寺をはじめとする寺院過去帳の信憑性につき、検証したいと思います。そのために、まずは松平広忠家臣の林藤助の過去帳から着手いたします。

〇古文書物目録 過去帳抜書(大樹寺文書)安城市史5 資料編 古代・中世より引用(拙稿にて下線部付記)
(中略)「全忠院 文化十三年子年八月 依願院殿号授与」
明徹道光「大居士」林藤介「忠満」
     天文九年六月
「林肥後守忠英先祖四代目」

 林藤助の戒名は明徹道光(古文書物目録過去帳抜書(大樹寺文書))、明徹道光(大樹寺過去帳写(朝野旧聞ほう藁・岡崎東泉記))、釈道喜(上宮寺過去帳)と微妙に異なる表記になっております。上宮寺過去帳にも戒名が記されているということは本来の宗旨は本願寺門徒であったとも言えるでしょう。上記史料で林藤助(藤介)は忠満という諱を持っていたことがわかります。ここから林忠満の家系を調べてみると子孫が上総国貝淵(請西)藩主になっております。

三河 林氏
小笠原宗康――林政家―(四代略)―忠満――忠時――忠政(家康旗本)―(七代略)―忠英(貝淵藩主)

〇寛政重修諸家譜 国立公文書館デジタルアーカイブより引用(拙稿にて下線部付記)
 某
 藤五郎、藤八郎、藤助
 今の呈譜は〇〇政通のち縁正・忠満に作報

(中略)
九年六月六日織田信秀が兵と戦ひ安城にをいて討死す 法名道見

 そこから寛政譜を調べてみるとこの林藤助は別名藤五郎・藤八郎という通名でも呼ばれていたことがわかります。そして林藤五郎という人物の事績を調べてみるに、天文十七年の小豆坂合戦に参戦して討死していたことが安城市史資料編掲載の松平記に記されているわけです。

〇松平記 巻一 安城市史5 資料編 古代・中世より引用(拙稿にて下線部付記)
一天文十七年三月十九日、尾州衆岡崎をとらんと、
 安定の城に弾正着て、先手を以って押来る、
 (中略)
 敵もニの備にて、もり返し、岡崎衆
林藤五郎
 小林源之助を初として、よき者あまた討死也

 林忠満の最期が安城合戦なのか、小豆坂合戦であるのか二通りの解釈が生じることになりました。もちろん、同名異人の可能性はあります。松平記の成立は慶長年間であり、今まで引用してきたどの系図史料よりも古い事を考えるならば、その記述は根拠なく否定することは難しいでしょう。

 次に大樹寺過去帳に天文九年六月の安城合戦における戦死者として記されている松平一門衆の立場を家系図で示します。信康は系図史料上には現れず、朝野旧聞ほう藁に広忠(もしくは清康)の弟として寺院過去帳の注記に示されている人物です。

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 上記家系図の赤字が寺院過去帳の松平一門衆の戦死者です。青字が安城合戦で生き残った一門衆です。安城で戦死した一門衆はいずれも絶家していて直系の子孫が残っておりません。それは天文十一年の小豆坂合戦に参加して戦死した松平郷松平家の伝十郎についても同じことが言えます。それに対して安城合戦に参加して生き残った五井松平家と藤井松平家はともに寛永諸家系図伝が編纂された時以降も存続しています。

 しかも藤井松平利長譜に記されている天文九年六月九日安城合戦の様相は異様です。織田勢が大軍で城を囲む中、城主と援軍大将が無勢にもかかわらず、ともに城外で戦いを挑んで討ち取られ、城に逃げ戻った生き残りが城門を守って落城を逃れたのです。しかも戦死した安城松平長家、矢田松平康忠、松平源次郎信康の三名(あるいは小豆坂合戦で戦死した松平郷松平伝十郎を含めて四人)はそれぞれに世代を異にしています。戦術的に脳筋というか、展開にリアリティが感じられない記述です。

 以上の点を鑑みると、寺院過去帳は没年が判らない一門衆をまとめて過去にあった合戦の戦死者に無理やりはめ込んだ可能性を考えるべきではないかと思います。そもそも天文九年に安城城主松平長家が本当に討死にしていて、その時に安城城が落ちていないのなら松平広忠が後任の安城城主を据えなかったはずはなく、本当の落城時にその城主の名が残っているはずです。広忠が後任安城城主を据えていないとすれば、安城落城時の安城城主は松平長家であり、落城年次が間違っている可能性をも考えてもよいのではないでしょうか。
 次稿ではそれがどのような経過で行われた物かを考察いたします。

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2017年7月29日 (土)

川戦:安城合戦編Ⅱ 5-1 ④検証:安城城天文九年攻落説(系図資料の変遷)

 国立公文書館のサイトにとても興味深い記事が掲載されておりました。島津義弘が朝鮮の役での活躍に恩賞をもらった話が江戸時代に編纂されている系図史料にどんな風に記載されているかを比較したものです。比較しやすいように解説を一行にまとめたダイジェストを以下に記します。ニュアンスの差が分かりやすいように実際の記事の文言も多少いじってます。

 寛永諸家系図伝(草稿本):秀吉公が薨じたことにより五奉行(大老)が恩賞を与えた。
 寛永諸家系図伝(献上本):家康が前田・上杉・毛利・宇喜多らと諮り、恩賞を与えた。
 藩翰譜:家康が豊臣の奉行衆(大老)と議論した上で、恩賞を与えた。
 譜牒余録:義弘は家康の御意で恩賞を賜った。
 寛政重修諸家譜:義弘は大老連署で恩賞を賜った。これは家康の計らいである。

 ざっと見て一番古い寛永諸家系図伝の草稿本では、義弘への恩賞の主体が五奉行(大老)であったことが、時代を下るにつれ、家康主導であることが強調されだし、譜牒余録で豊臣奉行衆(大老)の関与が消えますが、最後の寛政重修諸家譜で恩賞の出所は豊臣大老連署と言う形で最終決着します。但し、家康主導であることも併せ記されております。
 譜牒余録は五代将軍徳川綱吉の命令で全国の諸侯に家伝を集めさせたもののお蔵入りになっていた貞享書上という文書集を、寛政重修諸家譜の編者でもある堀田正敦が編纂し直したものです。この貞享書上は1873年(明治六年)五月五日の皇居火災で焼失し、現在では読むことはできません。しかし、系図資料の書きぶりは後世になるほど家康や徳川家との関係を強調する記述になっている傾向は見て取れると思います。

※創立40周年記念貴重資料展Ⅰという企画物の記事ですので、いずれ見られなくなる類の記事かと思います。
 http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/rekishitomonogatari/contents/51.html

 これらの史料はデジタルアーカイブとして国立公文書館のサイトで見られるよう公開されておりますので、
 実際の記事はそこでご確認ください。

 それを踏まえて五井松平外記忠次の系図史料を読み比べてみます。

〇寛永諸家系図伝(献上本) 松平忠次 国立公文書館デジタルアーカイブより
忠次
弥九郎 外記
尾州織田弾正参州安祥の城をせむるとき
広忠卿加勢として忠次をつかハさる
忠次かの城を守りて戦功あるゆへ
広忠卿よくその功を感じて参州こく
伊田羽根の両郷をたまハる

〇譜牒余録 松平忠次 安城市史5 資料編 古代・中世より引用(拙稿にて下線部付記)
忠次 弥九郎 号外記 法名源栄
   天文十六年丁未九月廿八日討死 廿七歳
   母ハ松平紀伊女

天文九年庚子年六月六日織田弾正忠信秀三州安祥ノ城
ヲ攻ム、城主安祥左馬助長家微勢タルニ依リテ忠次
広忠公ノ命ヲ蒙り援兵トシテ安祥ニ籠城ス、信秀ノ
城兵ヲ囲ムコト急ナリ、忠次城ヲ出テ士卒ヲ励シ、
防キ戦フ事数回、依之、信秀之軍兵、利ヲ失テ退散
ス、
其軍功ニ依テ、御褒美トシテ三州伊田・羽根ノ
両郷ヲ下シ給ハル、(後略)

 譜牒余録に記載されている情報のうち、寛永諸家系図伝に描写されていない情報を下線部に示しました。
 松平忠次の年譜に法名、死亡年次、母親の情報に加えて、大軍を率いた織田信秀の侵攻が天文九年であること、忠次らによる城外戦闘での防戦の結果、織田信秀は利を失って退散したことが書き加えられています。そして、その書き加えられた出来事の出所は以下の家譜をご確認ください。

〇寛永諸家系図伝 藤井松平利長 安城市史5 資料編 古代・中世より引用(拙稿にて下線部付記)
藤井彦四郎 法名喜春樹祥(改頁)
天文九年、広忠卿御一族源次郎信康ならびに利
長等に命して安祥の加勢としてかしこにおもむき、
城中にたてごもらしむ
六月六日、尾張の大軍しきりにこれをせむ。城主
安祥左馬助長家ならびに利長等城戸をひらいて出
てたゝかふ。
時に信康・甚六郎康忠・長家、その外
御譜代衆林藤助・内藤善左衛門・近藤与一郎数十
人討死す。尾州勢も又おほくうたる。渡辺八右衛門
等矢をはなちて敵をふせぐ。利長士卒をはげまして
かたく城をまもるゆへ、尾州勢そのそなへをしりぞ
きて城外に陣すといへども、つゐに引さる

 五井松平忠次譜の最初の法名・享年・母親の情報を除けば、概ね寛永諸家系図伝に記された藤井松平彦四郎利長の家譜に書かれている内容と被ります。よって、譜牒余録の五井松平忠次譜の追加情報は寛永諸家系図伝の藤井松平利長譜から取られた可能性があります。
 同時に寛永諸家系図伝では、五井松平忠次は織田信秀の攻撃から安城を守備した功績で恩賞を得ているのですから、この守備任務は成功したことを示しております。そしてその守備を行った合戦は天文九年六月六日に行われたとは限らないともいうことが出来るでしょう。

 ちなみに、先に紹介した寛永諸家系図伝(草稿本)には、五井松平外記忠次と藤井松平利長の家譜はありません。草稿本は献上本の六分の一の冊数で、松平家のうち採譜されているのは久松松平家と大河内松平家の二流のみで、それ以外の徳川・松平家の家譜は乗っておりません。この二家は松平を称していても岡崎松平―徳川家との男系のつながりがないという事が、家系を明確にする作業を楽にした為ではないかと推測します。寛永諸家系図伝は編纂に三年程度しかかけられておらず、後の系図史料と比べても呈譜や史料をそのまま掲載していて整合性は配慮されていないなどと言われておりますが、少なくとも徳川家康の家系と男系でつながる松平諸家の系図作成にはそれなりの時間をかけて行われたと言えるでしょう。よって五井松平外記忠次と藤井松平利長両人の系図記事としては寛永諸家系図伝(献上本)が現存する最古の物ということになります。

 寛永諸家系図伝の藤井松平利長譜にある安城方の戦術については、不可解なところがかなりあります。この合戦、織田方が安城の城を囲む前に松平信康を主将として藤井松平利長・五井松平忠次らが安城城に入城したわけです。そして安城城は織田の大軍に包囲される訳ですが、それを誰かが阻んだという記載もなく、松平広忠もそれ以上の援軍を送って城外から遊撃したという話もないまま、城主と援軍の主将が一緒になって城外に討って出て戦死します。だとすれば、その合戦の間誰が安城城を守っていたのかという話にならないでしょうか。
 寛永諸家系図伝の五井松平忠次譜では彼が城に残っていたように読めますが、譜牒余録になると彼もまた城外で合戦した話になっています。こういう場合、城主が城から出るケースはあり得なくもないのですが、その場合はたいてい息子等に留守番をさせるはずなのですが、安城城主松平長家には子供がおりません。なので城外で戦うという事は、城将としての務めを果たしていないことになります。

 敵の大軍を前にして、負ければ落城を覚悟して自ら出陣して一戦交えるという事もあったかもしれません。そして運よく戦場から脱出できた松平利長・忠次が城を守備し得たのかもしれません。しかし、筋立てに違和感を感じざるを得ないことは確かです。

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2017年7月23日 (日)

川戦:安城合戦編Ⅱ 5-1 ③検証:安城城天文九年攻落説(安城撤退記事の解釈)

 安城市史1 通史編 原始・古代・中世の論考には安城落城天文九年説についての難点についても述べられております。それは、天文九年時点における水野氏の動向です。この時の水野氏当主は忠政と言い、息子を松平信定に嫁がせ、娘を石川清兼や形原松平家広に嫁がせたりして西三河衆との関係構築に余念のない人物でした。
 織田信秀のいる古渡から安城に兵を差し向けようとするなら鎌倉街道を通るルートが最短ですが、沓掛から知立に抜ける途上で境川を渡河しなければならないのですが、その流域一帯が水野氏のテリトリーです。

 天文九年に安城城が攻撃されたとすれば、水野氏は織田の軍勢を通過させたか、織田軍は水野領を避けて安城に向かったかのどちらかになります。水野忠政が織田軍の通過を許したとすれば、松平方の敵に回った事と同義です。しかし、水野忠政はその翌年娘の於大を松平広忠に嫁がせております。織田方からすればこれは背信であり、これによって安城の占領維持は困難になりますし、水野家は織田からの攻勢圧力の矢面に立つことになります。これは敗者である松平広忠にだけ都合がよく、勝者側の織田・水野にあまりメリットのない状況なので、考えにくいです。
 織田・水野はがっちりスクラムを組んで安城城を蹂躙、広忠は屈服して織田方の傘下に入ることと引き換えに水野忠政の娘を娶ることを受け入れた、という解釈も可能です。これであれば第一次小豆坂合戦においても松平広忠があまり活躍していない説明はつきます。しかし、通説ではその合戦は織田方の勝利であるはずなのに、その後水野忠政が死ぬと後継者の水野信元は織田信秀との結びつきを強め、松平と手切れする理由が判らなくなります。しかも、それが今川家の侵攻を呼び込むことになってしまっているので、安城が対今川・松平の最前線になってしまいます。水野信元がこんな愚策を犯す理由も判然としません。
 安城市史では織田信秀は水野領を避けて侵攻した想定で論を進めております。その場合考えられるのは、守山から岩崎城を抜けて三河へ侵入するルートです。守山は織田信光(信秀の弟)が守備しており、岩崎城も配下の荒川頼宗が守っていたという記録がありますので、史料の矛盾に目を瞑ればルートを確保していると言えます。このルートは小牧長久手合戦で徳川家康が中割りしてきた豊臣秀吉軍を撃退したルートでもあります。但し、このルートを取った場合、すぐに矢作川にぶつかり、そこを下ってゆくと内藤正成が守っていたという上野城にぶち当たります。そこを抜いてから安城攻めに取り掛かる事になるので、そのような記録が存在しないことが不自然です。

 別解として矢作川ルートを避け、渡河後に知立経由で鎌倉街道に戻って進軍というのもありえなくはないです。しかし、それは水野領の向背に出ることを意味します。水野氏が敵方に回ることを避けて水野領を迂回しているのに無用に水野忠政を刺激することになります。そもそも地勢的に水野領の通過を含む応諾なくして安城城を攻めたとしても、長期占領はおぼつきません。そして、天文九年十二月二十八日付妙源寺宛都筑竹松等連署売券の記載の通り、この年安城乱中があったとするなら、まさしくこの別解のようなことがおこったと解釈するのが最も自然であると私は考えます。

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 寛永諸家系図伝にしても、藤井松平利長や五井松平忠次が安城城に攻めてくる敵を撃退したという記述があるにもかかわらず、その日を安城落城としています。それは城主をはじめとする一門衆や有力家臣が討死しているからでありましょう。普通はそれで合戦終了なのですが、この局面から撤退となるのは普通に考えて退路が脅かされた為くらいしか考えられません。
 そう考えると水野が動いた程度で撤退を余儀なくされるようなずさんな作戦を、織田信秀ともあろう者がなぜ企てたのかという疑問がわきます。そこで出てくるのが松平信定でしょう。織田信定、信秀親子は彼に守山、品野、岩崎の諸城を与えておりました。一時は彼が織田にとっての三河権益の利益代表を務めておりました。それが天文六年に松平広忠が岡崎に帰還することで失脚。その翌年に亡くなっております。広忠は今川家の三河における利益代弁者として帰還しました。それ故松平信定死後の尾張領地の回収を行うとともに三河衆に桜井松平信定への仕打ちに対する報復を行ったものと思われます。故に織田信秀にはこの段階で安城城を占領・維持する考えは最初からなかったとするべきであると私は考えます。

 水野忠政はそれまで婚姻政策で勢力や影響力を伸ばしてきただけに、その努力を台無しにする武力行使に慎重だったと思われます。松平広忠が今川家の肝いりで岡崎を回復していますので、水野忠政としては親織田を明確にして矢面に立つことがためらわれたのでしょう。但し、水野家にも松平信定の縁者はいました。息子の信元の妻が松平信定の娘でした。水野信元が父忠政を説得することを期待した上で織田信秀は軍を動員したのでしょう。しかし、それは逆効果になり水野忠政は松平家に接近する方に傾きます。安城乱中の翌年の天文十年、水野忠政は娘於大を松平広忠に与えたのでした。
 天文十二年に水野忠政が亡くなると水野信元は松平広忠と手切れをし、織田家と同盟を結びます。その同盟は今川家が尾張を蚕食したの後も変わることのない強固なものでした。

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2017年7月22日 (土)

川戦:安城合戦編Ⅱ 5-1 ②検証:安城城天文九年攻落説(反証史料の提示)


 本稿では前稿で述べた論文史料に対し、安城城落城天文九年六月六日説を取った場合に矛盾が生じる史料を列挙し、それをもって反証可能性を探ってゆきたいと思います。

〇山田世譜(長慶寺文書)安城市史5 資料編 古代・中世 より読み下しにして引用
吉久 初めの名は信義、字は甚八、兵部少輔。実は松平下野守源信康の子也。
天文九年庚子六月六日信康三河安祥に戦死する時、吉久の母ははらみて五月なり。
たちまちに父母の家に帰り、十一月二十八日尾張愛知郡前津村において吉久を生む。
外祖父母の大喜為重・信子養育す。成長に及んで織田右大臣平信長につかう。

 安城市史の資料編には松平信康(松平広忠弟)が天文九年六月六日の安城城落城の折に討ち死にしたことを説明するために織田信長に仕えた山田吉久という人物の家譜を使っております。家譜では山田吉久なる人物は松平信康の息子であり、安城合戦の前に母親は吉久を孕んでおり、実家の尾張に戻って出産。そのまま尾張の武士として織田信長に仕えることになったわけです。

 この史料の突っ込みどころは松平信康が松平広忠の弟であることとその年齢です。松平広忠は1526年(大永六年)生まれで1540年(天文九年)の折には十五歳でした。松平信康が広忠の弟なので、その年齢は広忠の年齢を超えることはまずありません。安城市史1通史編は信康を広忠の異母弟としていますが、平野明夫氏の三河松平一族によると一応父親の松平清康には二人妻がいて一人が松平信定の娘、もう一人が青木氏の娘(もう一人華陽院が清康の妻として言われているが年代的に合わず、俗説らしい)、信康は信定の娘を1525年(大永五年)に離縁し、青木氏の娘を娶って広忠を生んだそうなのですが、そうであれば松平信康は広忠の同母弟ということになります。双子でなければ一年以上の年齢差があるはずです。武士の元服は大体十三歳頃なので元服してすぐ尾張から嫁を娶って子を孕ませたということになります。早熟であればありえなくもないのですが、さらに不自然な点は、岡崎松平家惣領の松平広忠の最初の結婚が1541年(天文十年)だという事です。松平信康は元服するや否やのタイミングで兄であり惣領でもある広忠よりも先に結婚して子供を設けていたのですね。そしてその年のうちに妻の実家の国からの侵攻を受けて討死したわけです。

 広忠の孫の水戸徳川頼房が兄である尾張徳川義直、紀州徳川頼宣に遠慮して彼らの嫡子よりも早く生まれてしまった初子を庶子(後の丸亀藩主松平頼重)として扱ってしまった事例を考えると不自然さを禁じえません。
 この話も安城城陥落がせめて竹千代が生まれた翌年の天文十二年以降であればその不自然さはかなりぬぐえると思います。
 そもそも、寛永諸家系図伝に言及される松平信康を天文九年六月六日に死んだと大樹寺過去帳に書かれている信翁祥忠と結び付けて「岡崎三郎廣忠弟 松平源次郎 法名信翁祥忠」と考証したのは、江戸期も後半に入って編纂された朝野旧聞ほう藁です。安城市史1通史編や三河松平一族はこの記述を根拠にしているものと考えられるのですが、同じ朝野旧聞ほう藁が引用する大樹寺過去帳には信康を清康の御舎弟ともしていて、その記事は安城市史資料編の方にも引用されています。なので、厳密にいうと松平信康を松平広忠の弟として扱う事には注意が必要になります。

〇与二郎ひろ定請文 愛知県史 資料編10より引用
一五三三 与二郎ひろ定請文 本光寺常盤歴史館所蔵文書
こゝもとなりかにて弐十俵、明年よりいらんなくしんしやう申すへく候、
すこしも無さた申ましく候、そのためこ一筆申候、かしく

 天文十三年
   十一月十一日     ひろ定(花押)

(ウワ書)             あんしやうより
 (墨引)ふかうす殿御上さま         与二郎
            参 人々御中

 これは天文九年十二月二十八日付妙源寺宛都筑竹松等連署売券(以下都筑氏売券とします)と対で考えたらよいのではないかと思っている史料です。横山道雄氏は「織田信長の系譜」で都筑氏売券を安城一帯が織田氏の治めるところになったため、松平家臣の都筑氏らはその土地を耕作できなくなって土地を明眼寺に売却したものと読み解いています。この読み解きの前提に西三河は矢作川を挟んで東西に分断されてしまって西岸は東岸に対して支配を及ぼすことは出来なかったという事があるように思えます。しかし、与二郎ひろ定請文の差出人は安城の与二郎ひろ定で、受取人は深溝領主夫人です。内容は翌年以降の年貢の納付を約束したものです。この書状は花押が付されておりますので、現実に発給されたということは、契約の前提として安城を含む領域が深溝領主らの主人である松平氏の支配下にあることを示唆していると考えられます。
 とはいえ、この書状が「かしく」で締められているように女手によるものであり、明年の進上が間違いなく行われる約束をわざわざするという事は、当年は違乱があって年貢の進上ができず、与二郎は深溝領主夫人に対して無沙汰であった事を示していると言えなくはありません。そればかりか、与二郎は自分の意思でこの文面をかいたわけではなく、深溝領主夫人が自ら用意した書式に与二郎は花押のみ押すことを求められた契約書であったとも考えられます。そこに年貢が払えない事情があったのかもしれません。しかし、書状が明年以降の契約の履行を求めていることは、やはり契約は履行可能であるという判断が深溝領主夫人の側にも存在するとも想定できるのです。

〇東国紀行 安城市史5 資料編 古代・中世 より引用
一両年すぎにて、大野の衆同道あるべしなど契約の所に、
参河より尾州へ手違いある可の使い、昨日つきたれば、
無念のよりかずゝゝの事なり、

むかひは吉良大家御里成べし、こゝの眺望えもいわれぬ入江の磯なり、
船より馬ひきおろさせ、うちはへ行ほど、
むさしの国まで思ひやられたる野徑うちすぎて岡崎につきたり、
安部大蔵など知人、をはりざかひまで出陣の事ありて、いまだ不帰、
大浜よりは申遣れど不届や有けん、

 この史料は川の戦国史の記事でも紹介したことのある東国紀行です。連歌師宗牧が関東下向のついでに勅使もやりつつ尾張三河国境の知多半島に来た辺りで三河と尾張で戦いがあったというニュースを聞きます。常滑の水野監物から宗牧一行につけられていた大野衆はその報せを聞いて同道できない旨を宗牧に告げています。常滑水野氏を含めこの辺りは織田方なので、同道してはかえって宗牧を危険に巻き込みかねないことを心配しての事でした。
 1544年(天文十三年)十一月十二日に宗牧一行は大浜につき、その翌日に称名寺住持の案内で鷲塚経由で矢作川を陸路北上して岡崎に向かいますが、岡崎には目当ての阿部大蔵がいませんでした。聞けば『をはりざかい(尾張国境)まで出陣のことありていまた帰らず』とのこと。どうやら阿部大蔵は加納口合戦に勝利した斎藤道三の誘いに乗って尾張攻めをしていたようです。この時点で安城城が陥落し、矢作川西岸が織田信秀の勢力下にあったなら、尾張国境までの出陣は無理だと思われます

 本稿の結論として論文の書き方に倣うなら、「断片的な同時代史料が示す状況証拠・江戸時代成立諸資料を総合すれば、天文十二年までには織田が安城城を奪ったという説を否定することもまた可能である」と言う感じでしょうか。

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